イベリスが咲きました。アップすぎるかな。もっと引いてみると、こんな感じ。
白いオダマキも咲いています。スノードロップは今年も健在です。
ようやく「蛇喩経」を訳しました。アップしてみます。
https://manikana.net/canon/arittha.html
龍樹がいるね。どこにいるか分かる。『中論頌』第2章「去ったものは去らない」ということが、アリッタ比丘を通して分かるようになっているんだよ。アリッタ比丘はこう言ったのです。
「尊師によって障害であると言われた諸々のものごとは、行うとしても障害にはなるとは限らないと、そのように、わたしは尊師によって説かれた法を理解している」
「障害となる法は障害とならない」って、アリッタ比丘は思っているんだよ。だから、龍樹は
「去ったものは去らない」って述べたのだよ。言語論なんだよ。ブッダのことばの使い方なんだ。
「虚妄な法は虚妄である(『スッタニパータ』757と関連)「障害となる法は障害となる」という言い方で、ブッダはアリッタに教えたんだ。
ここから龍樹は「去ったもの」とだけ聞いても、本当に去っているかどうかは「去ったものは去った」と言わなきゃ分からない、って、注意しているんだ。元々「去ったもの」と聞いても、去ったか去ってないかは、あらためて言わねばならないので、原則としては「去ったものは去ってない」と考えると善いでしょう、ということだよ。
『スッタニパータ』の「欲経」にも、「欲を欲する」という言い方を、ブッダはしているんだね。
『構築された仏教思想 龍樹』(佼正出版社)の中で説明しているんだけど、よかったら見てね。(こちらでは「ランナー」という単語を使って説明していたと思う。pp.92-93.)
pipitさまとの約束は、何とかクリアしたので、ホッと一息ついてるところです。それじゃね!
コメント
エム先生、大変長い経典の翻訳をありがとうございます😭🙇♀️🙇♀️
一箇所、先生にお聞きしたいことがあります。
【六つのものの見方】の下記に引用した部分★ですが、
『ここで、比丘よ、ある人にこのような見解があるとします。』は、『ない』を『ある』に誤入力されたわけではなく、ここでは先に見解はあっても、見解が壊されるので、恐れは生じない、と述べられている文章なのでしょうか?
この箇所の前をpipitは、
(外にないときに恐れが生じる生じないのかは、過去と未来への思いの有無による)、と読みました。
では、内にないときに恐れが生じる生じないのかは、ある見解の有無による、のか、見解が先にあっても、一切の見解がなくなれば恐れは生じないのか….
先生がアップされた『あるとします』でも納得できるのですが、pipitの中で誤入力の可能性を無くしておきたい、と、質問させてください
m(_ _)m
(経文を音読して録音してみたら、50分弱かかりました
(;゜0゜)
翻訳された先生のハンパない労力を考えると、感謝でいっぱいですm(_ _)m
本当に有難うございます)
★
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「では、尊師よ、内にないとき恐れのないことがあるでしょうか?」と。
「あるでしょう、比丘よ」と尊師は言いました。
「ここで、比丘よ、ある人にこのような見解があるとします。――『かれは世界です、かれは自己です、かれは死後も存在するでしょう、常住で堅固で永遠で変異しない法なのです。そのとおりに、永久にいつまでも存続するでしょう』と。一切に関して、見解の立場やその根拠や束縛やその執着の潜在を根絶させるために、一切の行(意志)を抑止するために、一切の基礎を捨て去るために、渇愛を滅尽するために、離欲のために、止滅のために、涅槃のために、如来が、あるいは、如来の弟子が法を説いているのを、彼は聞きます。そして、このように思うことはないのです。――
『わたしは破壊されてしまうか、また、消えてしまうか、いなくなってしまうだろう』と。彼は悲しむことなく、疲れ、嘆くことなく、胸を打って悲泣することなく、迷妄に至ることもありません。このように、比丘よ、内にないとき恐れることはありません」と。
=============
pipitさま、おはようございます。
おお、まぎらわしいですね。
>「では、尊師よ、内にないとき恐れのないことがあるでしょうか?」と。
>「あるでしょう、比丘よ」と尊師は言いました。
「では、尊師よ、内にないとき(ajjhattaṃ asati)
恐れのないこと(a-paritassanā)があるでしょうか?」と。
ajjhattaṃ asatiですが、satiというのは、「ある」という動詞の現在分詞(sat)の置格です。それに接頭辞a-がつくと否定の意味「ない」になります。ajjhattaṃが「内に」ということなので、「(自己の)内部に」「ないとき(asati)」となります。
a-paritassanāも、否定の接頭辞がついたことばで、paritassanāが「恐れ」「恐怖」なので、a-paritassanāは「恐れのないこと」になります。
如来は「あるでしょう」と答えているのですが、「恐れのないことがあるでしょうか?」という質問なので、
如来は
「(恐れのないことが)あるでしょう、比丘よ」
と答えていることになります。そして、詳しく説明しています。
わたしも、ここを読んで思いました。
======
そして、このように思うことはないのです。――
『わたしは破壊されてしまうか、また、消えてしまうか、いなくなってしまうだろう』と。彼は悲しむことなく、疲れ、嘆くことなく、胸を打って悲泣することなく、迷妄に至ることもありません。このように、比丘よ、内にないとき恐れることはありません」と。
=======
これって、どういう風に考えたと言っているんだろう???
つまり、結局のところ、「何も思ってない」、ってことですよね。自分がいなくなるとも、何とも考えてない、ってことは、そもそも「自分」という意識自体がないんだなあとわかります。
外国の笑い話に、こんなのがあります。裁判かなにかで「『はい』か『いいえ』で答えなさい」と言われて、質問されます。
質問は「あなたは奥さんを撲るのをやめましたか?」という質問なのです。
思いもよらない質問で、『はい』とも『いいえ』とも答えようがありません。
でも、ブッダのように答えるなら、答えられるかもしれないです。
あなたが『(自分の)奥さんを撲るのをやめましたか』と聞くならば、撲ったことがあれば、『はい』か『いいえ』で答えられるだろう。撲ったことがないのであれば、「撲るのをやめること、ではないこと」について、「はい」と答えられるでしょう。。。みたいに。
何を言ってるのかよくわからん!って、言われちゃいそう。
まあ、つまり、考えの内容が寂滅してる、ってことだと思うのです。
pipitさま、まだ気になることがあったら質問してください。もしかすると、間違えて訳しているかもしれないので。。
*
> **********
質問は「あなたは奥さんを撲るのをやめましたか?」という質問なのです。
> **********
奥さんを( 殴るつもりもなく ) 殴ったこともない
殴ることもないので 止めることもない
裁判でなら
訴えた人( 奥さん ? ) は 暴力を訴えている
それが 肯定されている前提で 問う事柄
( 日本の )裁判官 なら、 そのような質問はしない
> 思いもよらない質問で、『はい』とも『いいえ』とも答えようがありません。
そのような前提 を (正しいこと と) 立てるような質問
(日本の)裁判であれば“ その誘導尋問 ”に対して 異議を唱え得る
それを裁くのが ショウシャンクさん の 裁判所 での
( 正しく裁ける ? ) ショウシャンクさん(の質問) であれば、
そもそも そこに 乗っかかる 意味がない
( それを 正すほどの 意味を 見出さない )
裁く人 を 裁く 意味を “ 人は理解しない ”
> でも、ブッダのように答えるなら、答えられるかもしれないです。
ブッダ なら 答える “ かもしれない ”
幾重にも張りめぐされた 迷妄のバラ(有刺)線の 入口
丁寧に 解きほぐし 真実の道に 入れるように 導く
> 何を言ってるのかよくわからん!って、言われちゃいそう。
よくわかります ( 分からん人にいう言葉ではないと 、、、、 )
> まあ、つまり、考えの内容が寂滅してる、ってことだと思うのです。
そこへ 行ってしまった のは 誰かな ?
そこを 「 寂滅 」 と して 名付けても
何も 起きてはいないかな ?
・
エム先生、返信ありがとうございます!
原文が載っているページの一つを見てみました。
https://suttacentral.net/mn22/pli/ms?lang=en&layout=plain&reference=none¬es=asterisk&highlight=false&script=latin
エム先生の日訳とペアにしてみます。日訳はこれでいいのかな?と疑問に思った箇所は【④の箇所】です。
① Siyā nu kho, bhante, ajjhattaṁ asati paritassanā”ti?
① では、尊師よ、内にないとき恐れることはあるでしょうか?
② Siyā, bhikkhū”ti—bhagavā avoca. “Idha, bhikkhu, ekaccassa evaṁ diṭṭhi hoti:
② 「あるでしょう、比丘よ」――尊師はいいました。
「ここで、比丘よ、ここにある人がいて、このように考えます。
③ Siyā pana, bhante, ajjhattaṁ asati aparitassanā”ti?
③ では、尊師よ、内にないとき恐れのないことがあるでしょうか?」と。
④ Siyā, bhikkhū”ti bhagavā avoca. “Idha, bhikkhu, ekaccassa na evaṁ diṭṭhi hoti:
④ 「あるでしょう、比丘よ」と尊師は言いました。
「ここで、比丘よ、ある人にこのような見解があるとします。
※※※※※※※※
④の原文に『na』が入っていますが、
日訳は、『このような見解がないとします。』にならないでしょうか??
お忙しい先生にお時間いただいて本当にすみません
m(_ _)m
pipitさま、ご質問の意図がわかりました。
na evaṁ diṭṭhi hoti: は、確かに否定が入っていますね。そこは、「このような見解はありません」ということで、‘ ’以下に説かれる内容全体を否定しています。
“Siyā, bhikkhū”ti bhagavā avoca. “Idha, bhikkhu, ekaccassa na evaṁ diṭṭhi hoti: ‘so loko so attā, so pecca bhavissāmi nicco dhuvo sassato avipariṇāmadhammo, sassatisamaṁ tatheva ṭhassāmī’ti.
全体としては内容はとれますが、訳としては、誤訳ですね。
pipitさま、ありがとうございます。訂正しておきましょう。
「ここで、比丘よ、ある人にこのような見解があるとします。」
ここを訂正します。
「ここで、比丘よ、ある人には次のような見解はありません。――『かれは世界です、かれは自己です、かれは死後も存在するでしょう、常住で堅固で永遠で変異しない法なのです。そのとおりに、永久にいつまでも存続するでしょう』と。
『…』にあるような内容は考えていない、ということですね。
『方便心論』で、龍樹が言っています。道理としては、ないのが本当なのだ、あなたが誤って『ある』とするので、わたしは、それを否定するのだ、と。
肯定的に説かれたものを「そうではない」と否定するという順序しか認められないので、わたしたちは、無明から出発するしか、方法がないことになります。
パラドックスが至る所に認められる所以です。
pipitさま、ありがとう。感謝です!
エム先生ありがとうございます!
>pipitさま、ご質問の意図がわかりました。肯定的に説かれたものを「そうではない」と否定するという順序しか認められないので、わたしたちは、無明から出発するしか、方法がないことになります。
パラドックスが至る所に認められる所以です。<
先生の訳文を読んでて、あ、そうかーと腑に落ちた気持ちになった箇所があります。
今回の「内」箇所の直前にある、「外」の記述のところです。
https://manikana.net/canon/arittha.html
『「では、尊師よ、外にないとき恐れのないことはあるでしょうか?」
「あるでしょう、比丘よ」――と、尊師は答えました。
「ここで、比丘よ、或る人がいて、このようには考えません。――『かつてわたしのものだったが、それは実にわたしのものではない、わたしのものになるはずなのに、それをわたしは得ていない』と。彼は悲しまず、疲れず、嘆くこともせず胸を打って悲泣することもありません。さらに迷妄に至ることもありません。比丘よ、このように外にないとしても、恐れることがないということはあります」と。』
無明から始まる道として…
pipitの個人的なこと言えば、『無我』って教説には恐れを感じるのですね。
(先生は全然感じてなさそう!)
『ない』が怖いのですが、先生が訳してくださったこの箇所を音読したとき、
(あ、、、そうかぁ、、、あったものがなくなるのではなく、前にも先にもなかったから、、、こわがることもないのか、、)と、ふと、思えました。
エム先生のおかげだと心底に感謝しています。
散々お世話になって、これも矛盾する気持ちなのですが、
どうぞご無理されないでください…
ご自愛もお願いいたします….
すみません!(><)
でも、、、本当にありがとうございます!!
((o(^∇^)o))
pipitさま
> pipitの個人的なこと言えば、『無我』って教説には恐れを感じるのですね。
> (先生は全然感じてなさそう!)
そうですよね、わたしも最初はビビってました。怖いですよ。最近感じなくなりましたのです。
それは、こう思ったからなのです。
わからないことが世の中にはいっぱいあるじゃないですか。どれか一つでも分かると、わたしの場合ですが、疑問がなくなって何も言うことがなくなります。「ああ、そうなんだ」って思ったら、何か気の利いたことを言おうとしても、満足して何もことばが出てこなくなります。
それで、「分かるとだまっちゃうなあ」と思ったのです。問題が解決したら、もうそれ以上何も言わなくても良い、という気持ちになるので、「これが寂滅ってことなんだな」と思ったのです。
そして、その後疑問が出てくることはありません。
そこから、分かったと思っても再び疑問が出てくるようなら、分かってないのだと思うようになりました。
分かるとそこから解脱する(解き脱する)からです。
そうでないときは、何かの見解にしがみついてそこに固執し、それに頼るのですが、根拠があるわけじゃないから揺れるのです。そんなことを繰り返して、ブッダに出会って揺れなくなりました。
見通しや風通しが善くなりましたよ。
*
> *****************
「障害となる法は障害とならない」って、アリッタ比丘は思っているんだよ。だから、
龍樹は
「去ったものは去らない」って述べたのだよ。言語論なんだよ。
ブッダのことばの使い方なんだ。
> *****************
ブッダ は “比丘達” に “ことばの使いかた” を 教えている
“ 去ったモノ ” が “ 去ってはいない ” と
“ いない モノ ” が “いること” を 知らせている
ブッダ (達) が “ いない モノ ” と なっていること
知らせている ( なっていること とは 為されてあること )
為されて ある → こと が ブッダ達 の 存在であること
こと( 故 ) に ある と いうコト とは 仮タラレて ある こと
↓ 「 意 」 「 有 」 「 事 」
( 仮にある と イウ コト が “ SN 1-5 ” として カタラレル )
( いうこととはどのようにあること と なること か )
無碍の一道 を 歩むもの が 無碍の一道 である
問い 有 言 が 事 を 問う 言
問われている ビクシュ に トウコト を 教えている
「 有 」 とは どのようにして 「 空 」 であるか を 、、、、
“ ブッダ の ことばの使いかた ” は 比丘達 に 示されている
( 『中論頌』 は 空なる“故” に “故” を 失っている )
( 本来 ない ということ とは あるというコト を 示す )
あるもの が ないということ が あること トイウ こと
問いつつ 示しつつ ナイコト の 「 有無 」 を “思(使)ウ”
使いつつ シメス 思うということ トハ 有りつつ 無い 言
シメス とは トハ のこと ( 十八 の 「 願 」 を 示す )
示すこと( 為すこと ) とは トワレテイルコト
示されてあること とは 未だ為されてはいないこと
為されていないこと が 既に 成されて あること
有るというコト とは 「 空 」 に あること
「 風信雲書 自天翔臨 」
天空 は どこまでも青く 蘊諸 は 「 空 」 を 舞う
ダレ ニ マウス カ ヲ マウスガタ ( マイツツ マウス )
( カシ コミ カシコミ マウス )
マウス を 駆使して 回す 事の姿
( 廻っているのは 誰の 「 生 」 かな ? )
むつかしいこと を 言っているわけではなく
「 信 」 が 持つこと とは 捨てること
問い有 こと の 勝中にあるというコト
ショウチュウ ということ が 問われていること
( わたしは 握りこまず 開きすぎず “ ショウ ” を 延べる )
小さなこと でも うがてば 大きな アナ を 示すようになる
大きな穴 に 落ち込んでいれば 底は 平安である と “思う”
源字 物語 は
法華の華 が 貴族 に 華開いていることを示す
底 に 老い て 「 生 」 に オウ(負) 貴きこと
( おもきにをおうてあゆむがごとし )
荷 負いて 聞く ただよう 「香」 の 織りなす姿
( 「仮」 ということ とは ゲンジ 津 の こと )
ツドウ 津 とは あつまる 衆愚 の こと
一人の 「 己 」 に 集まる 諸々 の 愚
わかるように くだく と クドク なり 苦になる
( ムツカシイコト を 言っているわけではない にも かかわらず )
優しい ことば を 望む 衆愚
底に 於いて 「 塵禿の有情 底下の最澄 」 と 底を見ず
其処を知る 「 法體何如 空海 推 常 擬 」
「 法 大事因縁 共建 法幢 報 仏恩徳 」
恩徳 に 音 を 漢字ず 音 を 観る
・
お経の真意や真偽はよくわからないけど、
仮に内容が正しいとしたら、お釈迦様の戒律を守らない大衆部や大乗仏教、特に密教の人たちってどうなるのだろうかと。
どうでもいいか
> お釈迦様の戒律を守らない大衆部や大乗仏教、特に密教の人たちってどうなるのだろうかと。
カエルさま、「戒律を守らない」って誰が言ってるのでしょう?
お釈迦さま??
お釈迦さまなら、そういう風には言わないんじゃないかな。本人の口から聞いて、それに答えるだけかも。
アリッタ比丘は、「守らなくてもだいじょうぶい!」って言ってたので、「モーガプリサ(愚かな子)よ」って言われました。
片山一良訳『パーリ仏典 中部』の補註にアリッタについて書かれています。
アリッタが具体的にどのような考えだったか要約すると、
『在家者たちは五種妙欲を受けながら一来者にも不還者にもなっている。なぜ、女性の色・声・香・味・触がいけないのか。これらもかまわないのだ』ということです。
女性に触れている在家でも解脱に達しているのだから、比丘が女性に触れたって悟りへのさわりにはならない、ということでしょう。
このアリッタの考えは、親鸞以降の日本仏教の考えとどう違うのでしょう。
煩悩は救いへの障りとはならない、煩悩そのままで救われる、といって、僧侶の妻帯は当たり前になっていて、檀家の布施のお金で愛人囲ってる僧侶も複数知っていますが、その考えとアリッタの考えはどこがどう違うのでしょう。
ひとりごとでした。
ショーシャンクさま 前にもコメントいただいていたのに 、何のお返事もせずにいてすみません。
ブッダもまた王族の出身で、お子さん1人いますから、そういう点では「うーん」というところかもしれません。
アリッタ比丘が「モーガプリサ(愚かな子)」と言われているのは、‘一応’悟りを求めているからだと思います。
「かたちだけ仏教」を求める人は、女性に触れるでしょう。「本当に仏教」を求める人は、女性は避けるかもしれませんし、超越した人は気にしないかもしれないのです。
日本の仏教は、国家の庇護を受けて、やがて堕落していきましたね。わたしが、世の中で学者をやっていられるのも堕落したためもあるなと思っています。
わたしが前から難しい問題だと思っているのは、ダライラマ十四世のことばなのですが、「苦行はいけない」と言われて、ブッダの教えを守ってきたけれど自分たちも(なぜいけないかを知るためにも)苦行を実践してみないといけないかもしれない、ということを言われていたことです。
語弊のある言い方ですが、ときには、人は、どうしてダメなのかを知るためにも戒を破ったりすることも必要なのかもしれない、とすら思います。
おおっぴらには言えないかもしれませんが、親鸞聖人は戒を破る行為によって新しい「中道」を見出したと思います。非僧非俗という「中道」です。
わたしは、日本の伝統的なやり方は、沙弥の仏教じゃないかと思っているのです。山にこもって修行することもあれば、里で仕事をして生きていくこともある、そうだけれど、仏教の教えと共にある、というあり方ですね。
杓子定規に戒さえ守っていればそれで仏教なのだと思っている人々に、疑問を投げかけるものでもあります。
「戒を守る」ことに優越感を持ったり、出家と在家の違いをことさら強調したりするのは、違う意味で、
仏教ではないだろうかとも思うのです。
アリッタ比丘と、愛人を囲う僧侶は、やっぱり一緒にはならないと思うのです。アリッタ比丘は悟りを求めてブッダの教団に来たけれど、僧侶はある種の世襲の生き方に甘んじているように見えます。
石飛先生。
》》親鸞聖人は戒を破ることによって新しい「中道」を見出した
もしそうであるならば、なぜ、仏陀はアリッタを
『お前は戒を破ることによって新しい中道を見出した。素晴らしい』と褒めなかったのでしょうか。
親鸞もアリッタも、煩悩を捨てなくてもかまわない、救われる、ということを主張しています。
ショーシャンクさま、アリッタ比丘と親鸞聖人は違う人ですよ。
縁起ということを考えてみてください。条件・原因、それぞれが違うのです。
>なぜ、仏陀はアリッタを
>『お前は戒を破ることによって新しい中道を見出した。素晴らしい』と褒めなかったのでしょうか。
現象にとらわれず、経典を読みましょう。アリッタ比丘は「中道」を見つけたようには見えません。ただ、自分で誤解して「障害となる法は障害にはならない」と思っているだけです。
彼らは、この法を学んで、これらの法を智慧によって意味を考察します。彼らはこの法を学ぶのですが、これらの法を智慧によって意味を考察するのです。(『蛇喩経』)
法を学ぶとき、各々が智慧を使って意味を考察していないとならないのです。欲で読んではならないのです。
親鸞聖人とアリッタ比丘の違いは、智慧の違いのような気がします。
石飛先生。
もちろん、親鸞とアリッタは別の人間です。
ただ、アリッタが中道でないのと同様、親鸞の非僧非俗も中道ではないでしょう。
まず、非僧では全くありません。
非僧なら、僧侶の格好はしてはいけません。口で非僧と言いながら袈裟を着るのは心では僧侶であるのです。
非僧なら、信者からの布施で生活してはいけません。
非僧という覚悟が本当にあるなら、俗人の格好をして、自分で稼ぐはずです。
非俗であれば、肉食妻帯はしません。
俗人であるから肉食妻帯するのです。
私には、非僧非俗は言葉だけにしか見えません。
親鸞が戒律を破ったのも、末法無戒の思想からです。
末法には戒律を守れるような人間は生まれない、だから、戒律は全く無意味なものとなるという思想です。
そのようなことは仏陀は言ってなく、誤解です。
智恵からではなく誤解からだと思います。
ショーシャンクさま おはようございます。
解釈の違いですかね。
山に登ってお坊さんを20年も続けていて、それから山を下りたのですよね。
そして、法然上人の元に行きました。
「末法無戒」というのは、その時代を評していうことばです。念仏が流行った、ということは、末法無戒を畏れる危機感からかもしれません。
いつの時代も、考えてみれば、末法無戒の危機にあると言えます。時代は流れ、絶えず変化していくからです。
変化の中にあって、親鸞は一つの生き方を得ていったのです。還俗させられて出家とは言えない、しかし、山に登って20年も修行したので、俗とも言えない。。窮地に陥った時、そこに新しい道が開けている、ことに気づいたのだろうと思っています。まあ、そこでしか生きることのできない道ではありますが。
「中道」とは、どちらにも依らない極端(アンタ)を離れる道です。
わたし自身は、親鸞の幸運を喜びたいです。
誰もが「悟れるわけ」ではないのです。そんな状況でも、追い求める人には開かれるのが仏法だなあ、と。
倒れた人を起こすように、覆われたものを開くように、道に迷った人に告げ教えるように、眼があれば見ることだろうと、灯火を差し出すように、種々に説明される仏法。
覆われたものを開くようにして、親鸞は法を獲得したと思います。
彼は「人」ということを離れなかった。常に輪廻を忘れなかった。だから、阿弥陀仏のもと、極楽世界に行ったのです。
そう思っています。彼は、実質的には「空」を得ていますが、その生き方には空ということばは出てきません。南無阿弥陀仏が出てくるばかり。
石飛先生、おはようございます。
もし、中道が極端を離れるというだけの意味であれば、
アリッタも中道となります。
戒律を杓子定規に厳格に守るという極端と
戒律を無視するという極端があって、
在家でも許されることであればまあいいんじゃないの?という中間を取ったと考えられるからです。
しかし、私は中道とは八正道のことだと思っていますから
そのようなものは中道ではないと思います。
最近は親鸞の道も素晴らしいとは思っています。
特に蓮如は凄いと思い始めました。
ただ、親鸞の道は易行などでは全くないでしょう。
難中の難でしょう。
そして、アリッタのような輩、布施で愛人を囲ってる僧侶のような者たちを大量に作り出していってしまう危険性があります。
蓮如が言った、目の前の大勢の聴衆の中で本当に信心を獲得している者は一人か二人か、というのは本当でしょう。
二種深信が徹底しないと極めて危険な道、アリッタの考えに堕ちていくでしょう。
あの蓮如の講話を毎日聴聞している信者でも信心獲得する人が一人か二人なのですから、今の浄土真宗の坊さんの話を聴聞して信心獲得するのは至難でしょう。
横から失礼します。
ショーシャンク様、管理人エム様、こんにちは。
> しかし、私は中道とは八正道のことだと思っていますから
> そのようなものは中道ではないと思います。
原始仏典を忠実に読めばそうなりますね。釈尊に従うなら当然そうなります。
> 最近は親鸞の道も素晴らしいとは思っています。
> 特に蓮如は凄いと思い始めました。
同感です。私は浄土真宗の教義には疎いですが、蓮如上人の御文(御文章)の一つである「白骨の章」には度肝を抜かれて、ただただ深く感じ入ってしまいました。
最近、浄土三部経を読み始めていますが、疑問に思うこともいくつか出てきました。(釈尊直説の経典でない浄土三部経と原始仏典との関係などに関心があります)
例えば、今まではどのように信心を深めれば極楽浄土へ往生できるかという点に重きを置いた活動(布教)であったと思います。それでいいのかもしれませんが、それでは「浄土」は天国のようなパラダイス(理想郷)で終わってしまいます。実際は、浄土で七菩提分(七覚支)や八聖道分を実践するわけです。浄土では修行がスムーズに進むという設定なんですね。浄土への往生で終りではなく、浄土で涅槃へ至ることが最終の目標になっています。
大和さま おはようございます。
浄土思想は、ブッダの法から生まれてくるもので、わたしはブッダ論理(=法)の展開の一つと思っています。浄土がパラダイスではないのは、往相と還相によるからでしょう。この娑婆世界(穢土)に戻ってくる(還相)という願いをもつからだと思います。
易行ということに、ショーシャンクさまは疑問を出しておられますが、自力か他力かの区別を入れてみると、難行・易行に変わっていくような気がします。
ブッダの教え(法)を受けとめた智慧の所産だと思っています。
空思想の中から生まれてくるヴァリエーションの一つで、ブッダの法そのものだと思っているのです。
ショーシャンクさま どんなところにも道は開ける、とわたしは述べたいし、実際そう思っています。
八正道は中道です。それに、ショーシャンクさまのあげる中道というのは、中道でも何でもないと思います。
>戒律を杓子定規に厳格に守るという極端と
>戒律を無視するという極端があって
これは実際に行う人がいてはじめて「中道」が現出してくるのです。
誰も実際にやらないのに、「中道」などと言うことはできません。杓子定規に護る人がいてはじめて一つの極端が現れてくるのです。
それにその人は杓子定規だと思って守っているわけではないでしょう。これが善いと思って守っているでしょう。自分の中に得てきたものによって、中道がおのずと現れてきます。そこに智慧があります。極端を、自分で体験しないと中道は得られないと思います。
ゴータマは、王子の時代、快楽の限りを尽くして嫌になったし、苦行もしまくってダメと分かったのです。自分で「これほど激しい苦行は誰も体験しなかった」というようなことを言っています。
龍樹の話しもひどいけど、それなりに快楽の限りを尽くしたという設定だと思います。それにしてもひどいですが。
、
大和さん、はじめまして。
浄土が修行する場というのは、ご褒美としての天国とはちがって仏教らしくていいですね。
と同時に、平生業成とか信心獲得とか、この世での一大転換が親鸞や蓮如の考えにはあって、
禅の悟りと極めて似てます。
蓮如と一休が仲がよかった理由がわかるような気がします。
あれほど馬鹿にしていた浄土系の教えですが、最近は凄いものだと思い直しています。
大無量寿経もいいですね。
私は原始仏教と法華経の関係を調べています。
法華経を丁寧に読むと、なぜ大乗仏教が興ったのかはっきりとわかる気がします。
原始仏教を踏まえた上で法華経を読めば、仏教の全体像が浮かび上がる気がしています。
石飛先生。
話を元に戻すと、
アリッタは、『在家者は女性に触れていても解脱している。出家者が女性に触れてもかまわない。解脱への妨げにはならない』という主張をします。
仏陀は、『欲望は屠殺場のようだ』と言います。
そして、アリッタの見解を悪しき見解だと断罪します。
ところが、後世の日本仏教では、出家者が結婚して女性に触れてもかまわない、煩悩は悟り、菩提、救いへの妨げにはならない、という主張になります。
仏陀はアリッタの見解を悪しき見解と斥けました。
今の日本仏教の見解を仏陀が悪しき見解だと断罪しないという理由は何でしょうか。
> 今の日本仏教の見解を仏陀が悪しき見解だと断罪しないという理由は何でしょうか。
ショーシャンクさま こんばんは。断罪してるのかもしれませんけどね。
ただ、考えられるのは、『スッタニパータ』にこのようにあります。
84 「四種類の沙門がおり、第五のものはいません、チュンダよ」と尊者は答えました。
「正面切って問われたのだから、それらを、あなたに明かしましょう。― 道に打ち勝った者、道を教える者、道に生きる者、道を汚す者(の四種)です。」
この「道を汚す者」を説明して、
89 善き行いをするように見せかけて、厚かましく、家を汚すものであって、傲慢なもの、人をたぶらかし、自省することなく、無駄話に興じ、行じているふりをするもの、かれが道を汚すものであります。
このように分類しているのです。ここに入るかもしれませんね。
サンガの現実的なあり方を、このように見ているのだなと思いました。
でも、これ、どんな人にも当てはまるのかもしれません。人は誰でもいつも同じではありませんので。
ショーシャンクさま こんばんは。
>今の日本仏教の見解を仏陀が悪しき見解だと断罪しないという理由は何でしょうか。
教団に入ってきてアリッタ比丘と同じことを述べたとしたら、日本の僧侶でも誰でも叱ったと思います。
この経典をどう読んでいるのか分かりませんが、非常に複雑で多種の内容が盛り込まれた難しい経典だと思っています。
なぜ、このような経典がのこされたのでしょう?
そこを考えた方が有益ではないでしょうか。
アリッタ比丘、また、他の比丘たちのためを考えて、これだけの内容を盛り込んで語っていると思います。
在家のためにも出家のためにも、最終的には同じ悟りに到達するのだという『法華経』と同じ内容も読みとれるのではないでしょうか。
智慧を使って解決せよと繰り返し言われ、自分のものでないものは捨てなさいと、これも繰り返して言われます。
中道というのは、絶えず極端を避ける道であるとするなら、自分で何が極端かを考察し続けなければならないということでしょう。
川を渡るにも、筏を使おうとするのは、自分の智慧を用いて精一杯努力しなければ渡れないからでしょう。
ブッダの法を用いるにしても、使い方は自分で工夫しなければなりません。どう使うかは、他に依らず自分自身をたよりとせよ、とも教えられます。智慧を使うというのは、他をたよりにしないところから生まれます。
比丘たちに自分のものでないなら捨てなさい、と教えるのは、諸法無我の教えであると同時に、やがては法をも捨てることを見据えているからだと思っています。
*
> めんどくさい人だ。
その 判断力 で 人を 分別する
>バラモンは、龍樹の肉体に危害は加えていませんね?
>Yesですか?NOですか?
NO ( きみはここに こだわる )
> ただ、自分が仮作した池の上の蓮華に座っただけです。
そうかどうか、 原典をUPしておいたのに 、、、、
その判断力 を 支える 理解力
どちらも 中途半端 !
>バラモンが言った言葉に怒って
>龍樹は呪術で象を作り、その鼻で蓮華ごと投げ飛ばしますね。
>その結果、バラモンは腰を痛めつけられます。
>これは物理的な暴行ですよね。
面倒くさい こと を
めんどうなこと ではない と 知りなさい
まあ 今まで それで通して来たのだから
あまり 期待しない 、、、、
「 世間 」 の出来事 とは すべて あなたが作っている
幻想 です
あなたが 好きなように 立派な蓮華を つくり
欲與我清淨華上大徳智人抗言論議。
汝在地坐與畜生無異
行池水上趣其華座 以鼻絞拔高擧擲地
したこと とは そういうこと
婆羅門傷腰。委頓歸命龍樹。我不自量毀辱大師。
願哀受我啓其愚蒙。
これの意味が分かるようなら
傷腰 の 意味も分かる
意味も分からず 自説 を 力む
汝在地坐與畜生無異。
而欲與我清淨華上大徳智人抗言論議。
君の為に 龍樹伝 は おかれている
・
その “ あなたが正しいと思う 「 仏法 」 ” を
どのように、あなたの生き様に 表現していますか ?
本当の仏教を知って あなたは どのように生きて行きますか ?
( 間違い を 知って、 正しさを はかり、
みずからの生き方として、 “ 今 ”
どのように 活かしていますか ? )
いちいち他人に絡んで他人の生き様を問うのではなく
自分の生き様を見つめたらいかがですか。
春間さんは他人に教え導く立場になりたくてしかたないようです。
そうであれば、
自分で掲示板を作って
そこに来る人に絡むべきです。
もし来る人がいたらの話ですが。
少なくとも、春間さんのホームページでもないのに
いちいち絡んでこられて
春間さんから上から目線で生き様を問われるのを望んでいる人がいるか
聞いてみてはいかがですか。
*
ショーシャンクさん
>( この問いかけ が 不用になる日を 待ち望みます 、、、、 )
あなたには 不用のようです
( 要があるのに 不用 のようです )
要がない のは あなたの不用
( あなたの 不用 とは )
余計なお世話 は 不用ということ
要は !
あなたには 煙たいだけ で 迷惑
火のないところ に 煙は立たない
( 非のないところ には 煙は立たない )
・
*
「 脚下照顧 」
< 自己肯定( 自我の肯定 ) の為の 仏法情報 収集 >
“ あらかじめ意味付けされている ” データ
“ その データ ” ( 等 ) を
( 意図を隠して ) つなぎ合わせて
“ さらに 意味ある 重層的集合体 ” を 構成する 情報とする
“ それら ” が “ 意図的 な 解釈の誘因 ” なること を
“ 複層的 に 隠蔽する ”
そのような行為は “ 自己の発する 承認欲求 ” から 起きる
故に
「 行 」 ではある が 「 業 」 と 呼ぶ
・
生き様を考える のではなく
考えて ( もし 得ているのであれば ) 実行したらどうですか
と 勧めているのです
考えて、 一般的なこと を 批判しても
( 批判するための 理屈 を 得ようと )
自分の 生き様を 変えることには 結びつきません
真宗 の お坊さんのことは あなたが、その人に接したときに
直接 語りかければよいことです
( もっとも、 このサイトの 訪問者に 真宗の人が見えますので
その人を意識して、書き込んでいるのであれば、
意味がないとは言えません が )
「 仏法 」 に沿った みずからの生き様 を
考えてみては どうでしょうか
これは、 このサイトに訪れている ( わたしを含めた )
すべての人に “ いつも ” 語りかけたいことです
( 管理人エム 様 が 毎日 訪れていること は 承知しています )
( この問いかけ が 不用になる日を 待ち望みます 、、、、 )
春間さん。
人に生き様とやらを説教したいのであれば、
まずは自分が自分の生き様を示し、尊敬されて初めて、
他人は春間さんの説教を聞くでしょう。
石飛先生に認められていることを葵の御紋として権威付けに使っている生き様を見ると
少なくとも私には春間さんの説教がささることはないですね。
『説教をする資格のない人間ほど人に説教したがる』というのが
私が生きてきて感じていることです。
それは 感じていること ではなく 説教
( 感じていること は 感じの中だけに 置いておく )
外に出している
説教 ではない
あなたの感じている “ 説教 ” って 感じ
( 他人事 ですね 、、、、 )
アリッタ比丘はお釈迦さまのサンガに属していて、お釈迦さまの弟子
部派以後の人はお釈迦さまのサンガに属しているわけでもなく、お釈迦さまの弟子でもないのだから
別にどうでも、いいんじゃない〜(Uber Eats)
地雷は必ず踏む。さすがマニカナ先生だ!
ありがたや〜
石飛先生。
『返信』ボタンがないのでここに書きます。
出発点が違うのだと思います。
私は『歴史上の仏陀が説いたことは本当はどんなことだったのだろう』から出発しています。
今ある仏教と言われている教えのすべてが仏陀が説いたことと全く違いはないという立脚点には立たないのです。
歴史上の仏陀が説いたことでない教えでも素晴らしいものは沢山あります。
ただ、仏陀が本当に説いたことから仏教の流れを見ていきたいのです。
アリッタは女性に触れる在家者でも解脱できるのだから出家者が女性に触れてもかまわない、という主張をします。
仏陀は、それに対し、『欲望は屠殺場のようだ』と欲望の恐ろしさを説きます。
特に性欲、愛欲の恐ろしさを仏陀はわかっているので、出家者は性行為から離れることを出家者の絶対条件にします。
これを破ったものは即刻破門しました。
これに例外はないのです。
ところが、いまの日本の仏教だけが出家者でも女性に触れてもOK、何でもありの状態です。
煩悩があっても悟りや解脱の妨げにはならない、それどころか煩悩即菩提とまで主張します。
時代が流れたら、仏陀の言った『欲望は屠殺場のように恐ろしい』ということはなくなったのでしょうか。
なぜ仏陀はアリッタの主張を徹底的に否定したのかを、現代の出家者は考えてみたほうがいいとは思っています。
横から失礼します。
ショーシャンク様、管理人エム様、返信ありがとうございました。
> ところが、いまの日本の仏教だけが出家者でも女性に触れてもOK、何でもありの状態です。
> 煩悩があっても悟りや解脱の妨げにはならない、それどころか煩悩即菩提とまで主張します。
>
> 時代が流れたら、仏陀の言った『欲望は屠殺場のように恐ろしい』ということはなくなったのでしょうか。
このことは仏教を真摯に学ぶ人々がもつ疑問の一つでもあると私も感じています。
直接の解答にはなりませんが、中部経典14経 「小苦蘊経」という経典に記された内容がヒントになるかもと思ったので少し記してみます。
釈尊の従兄弟のマハーナーマ は、〈 貪りは心の汚れである。怒りは心の汚れである。痴 ( 無知 ) は心の汚れである。 〉 ── と、頭の中で正しく理解出来てはいても、それでも、時々自分の心の中に巣食う「 貪・瞋・痴 」に、心を占領されてしまう ことに悩んでいました。
… そこで 釈尊に、何が原因で、教えを正しく理解しているにもかかわらず、 煩悩に心が占領されてしまう ── のかを尋ねるのです。
── 釈尊の答えは、明快でした。
「マハーナーマよ、それはまだ、おまえが、〈 諸々の欲を離れた、諸々の不善の法を離れた喜と楽 を、あるいは、それよりもっと寂静な、勝れたもの 〉を 証得していない からなのだ」
… この部分の詳しい説明を、経典からそのまま引用すれば、
マハーナーマよ、聖なる弟子が、〈 諸々の欲望は快味が少なく、苦味が多く、悩みが多いものであり、ここには危難だけが多い 〉と、このように如実に、正しい智慧をもってよく見たとしても、彼が、諸々の欲を離れた、諸々の不善の法を離れた喜と楽 を、あるいは、それよりもっと寂静な、勝れたもの を証得しない限り、確かに彼は、諸々の欲望の中で、 ( 誘惑されて ) のたうち廻るままでいる。
しかし、マハーナーマよ、聖なる弟子が、〈 諸々の欲望は快味が少なく、苦味が多く、悩みが多いものであり、ここには危難だけが多い 〉と、このように如実に、正しい智慧をもってよく見て、さらに彼が、諸々の欲を離れた、諸々の不善の法を離れた喜と楽を、あるいは、それよりもっと寂静な、勝れたものを証得するならば、そのとき、確かに彼は、諸々の欲望の中で、( 誘惑されて )のたうち廻らない者となる。
マハーナーマよ、私も覚る以前、まだ正しい覚りを得ていない菩薩であった時は、〈 諸々の欲望は快味が少なく、苦味が多く、悩みが多いものであり、ここには危難だけが多い 〉と、このように如実に、正しい智慧をもってよく見ていながら、諸々の欲を離れた、諸々の不善の法を離れた喜と楽を、あるいは、それよりもっと寂静な、勝れたものを証得してはいなかった。
その時の私は、諸々の欲望の中で、 ( 誘惑されて ) のたうち廻るままでいる自分を知った。
しかし、マハーナーマよ、私は、〈 諸々の欲望は快味が少なく、苦味が多く、悩みが多いものであり、ここには危難だけが多い 〉と、このように如実に、正しい智慧をもってよく見て、
そして、諸々の欲を離れた、諸々の不善の法を離れた喜と楽を、あるいは、それよりもっと寂静な、勝れたものを証得したとき、そこで、私は、諸々の欲望の中で、 ( 誘惑されて ) のたうち廻らない自分を知ったのだ。
( 中部経典14経 「小苦蘊経 」 )
ここで言う 〈 諸々の欲を離れた、諸々の不善の法を離れた喜と楽 〉 とは、第一禅定の境地を指し示していると言えます。
そして、その後に続く〈 あるいは、それよりもっと寂静な、勝れたもの 〉とは、第二禅定以上の境地を指し示していると言えます。
つまり、「四禅定」の「初禅」や「第二禅」以上を証得した者は、この現世において、煩悩に翻弄されて「のたうち廻る」ことがなくなるのです。
逆に、初禅にも達していない我々凡夫は、マハーナーマと同様に諸々の欲望の中で、( 誘惑されて )のたうち廻るままでいる存在なのです。
結局、現代の僧侶のほとんどが「初禅」にも達していないため、欲望の中で、誘惑されて、のたうち廻っている存在だと言えるのではないでしょうか。
大和さん、こんにちは。
素晴らしいですね。その通りだと思います。
『欲望は快味が少なく危難だけが多い』という仏陀の言葉がわからない者は出家してはいけないでしょうね。
仏陀の時代、出家とは僧侶という職業に就くことではなく、
すべての生産活動を放棄してひたすら涅槃を目指すことでした。
特に仏陀は、出家者の性行為については極めて厳しかったですね。
性行為した出家者は即刻破門でした。
それは、欲望、特に性欲は極めて危難が多い、屠殺場のようだからです。
出家者には女性への欲望を断つ覚悟が絶対必要でした。
もしその人が女性を抱かずにはいられないのでしたら、出家せず在家で思う存分抱けばいいだけです。
在家でも解脱できると仏陀は言うのですから。
欲望は快味が少なく危難だけが多いということがわからない出家者だらけの日本仏教は衰退の危機にあると思っています。
ショーシャンクさま おはようございまうす。。
> 欲望は快味が少なく危難だけが多いということがわからない出家者だらけの日本仏教は衰退の危機にあると思っています。
なるほど! 厳しいご意見ですね。 でも、別に大乗に肩入れするわけではないのですが、これはこれで、一つの「こだわり」ではないでしょうか?
異性に関する危難の数々は、『スッタニパータ』の第4章「ティッサ・メッテイヤ経」にありますね。
たぶん、女性を避けるだけですと、涅槃の近くにいる(822)とだけいわれるのじゃないでしょうか。中村元訳でも、「『自分が最上の者だ』と考えてはならない.――かれは安らぎに近づいているのだが。」とあります。
石飛先生、おはようございます。
それを安易に『こだわり』と言うのであれば、仏陀自身がとんでもなく『こだわって』いることになります。
仏陀は出家者の性行為を絶対に許さなかったからです。
アリッタの考えも完全に否定しました。
『女性を避けるだけ』というのは、論理のすり替えです。
形の上だけ避けることなど仏陀は言っていません。
欲望は快味が少なく苦味が多く悩みが多く危難が多いと出家者は見極めなくてはいけないと仏陀は説きます。
苦であると本当にわかった人は禁欲という無理な形ではなく離れることができるでしょう。
それが智慧なのであり、女性を避けることはすべて形だけのこだわりだ、悟った者は女性を抱いても何の支障もないのだ、と主張するのは、それこそアリッタの輩ばかりになっているということでしょう。
欲望を危難と見極めることは仏陀の理法であり、なぜその実践が『自分が最上の者だ』と考えることとしてしまうのか、ここにもすり替えがあります。
ショーシャンクさま なんかこだわっているのはショーシャンクさまのように見えちゃうなぁ。。
「屠殺場のよう」の他にもたくさん喩えがあるのですが。それに、アリッタ比丘には、厳格に戒律を守らせようとはしていないです。
自主的に守るかどうか、ということなので、そう思ってしまっているアリッタ比丘を、ブッダはむりやり守らせようとはしていません。
最後の蛇の頭の喩えが大事だと思います。ちょっとしたコツみたいなものがあるだろう、という感じがしてきます。
蛇を捕らえるには、三つ叉になった棒で頭を押さえつける、というのが有効だと知ります。
異性の魅力に負けやすい人でも、やり方次第でそうはならずにすむだろうとブッダは語っているように見えますよ。
「屠殺場のよう」だけではなくて「蛇の頭のよう」をキャッチすると善いのではないでしょうか。
相をとらない、という禅定も効きそう。無相三昧ですかね。
石飛先生。
大乗仏教の考えではそう思えますね。
私もずっと大乗仏教しか知らなかった時はそう思っていました。
一休の行状も自由人の極致のように思っていました。
しかし、仏陀を知っていくと、出家者の性行為について極めて厳しかったことに驚きます。
子孫が途絶えるので(元)妻と性交するように母親が泣いて比丘に頼んで、仕方なく性交を一度しただけで即刻破門です。
快楽のためでもないのに、です。
それが何故かがわかりませんでした。
仏陀はこだわってるなあと思いました。
大乗仏教側から見ると、あまりにも自由でないように思えました。
一休の自由さに比べると牢獄のようにも思えました。
しかし、その『危難』を本当に見たときにはっきりとわかりました。
仏陀はこだわっていたわけではなく、断崖絶壁だとわかっていたのだと。
ここがわからないと、四諦も十二縁起も絶対に分からないので、仏陀は出家者にはここは妥協しなかったのだと思っています。
*
>なぜ仏陀はアリッタの主張を徹底的に否定したのかを、現代の出家者は考えてみたほうがいいとは思っています。
考えよ と 主張する
“ 出家者 以外 ” は 考えなくとも 良いのかな ?
そこ(?)に 、 人として 違いがある のかな ?
( 「 平等 」 を説く 「 仏教 」 平等ではない “特例” )
”主張できる 根拠 ” を “ 我が身 ” が 持っているか ?
“ そこ ” を
問うことができる “ 我が身 ” を 振り返る
そのような姿 を 管理人エム 様 に ミル
ミル姿 を 我が身に問う( 管理人エム 様 ? )
そう ではなければ 「 自我 」 に 過ぎない
・
*
仏陀 の 説くことが 正しい
とするならば
> 欲望は快味が少なく苦味が多く悩みが多く危難が多いと出家者は見極めなくてはいけないと仏陀は説きます。
在家(あなた) は そのように “ 見極め ”
出家者 の “ 諸 ” 諸の “欲” を 指摘し
仏陀 は “ このように説く ” と 示します
在家 は “ 守る必要 がないこと ” を 出家者 に 求めます
( 欲を離れなくともよいこと )
> 苦であると本当にわかった人は
( 「 苦 」 を 苦である と 言うことが適う )
わかっていること を わかっていることとして 言い得ます
( SN 第一編 第三章 「 神々との対話 」 “ 41p. ” )
( “ 14p. ” 「 解脱への道 」 )
***********
> それを安易に『こだわり』と言うのであれば、仏陀自身がとんでもなく『こだわって』いることになります。
あなた自身 が それにこだわっている と わかりますか ?
> 仏陀は出家者の性行為を絶対に許さなかったからです。
“ 仏陀 の 「 僧伽 」 ” では、 それを許しません
> アリッタの考えも完全に否定しました。
アリッタ と それを含む “ 仏陀 の 「 僧伽 」 ”
の “ 出家者 ” には そのように語った ことになります
“ 「 僧伽 」 に いないもの には 適用しない ” ので
あなた には “ 許される 行為 ” と なります
許されている あなたは、 許されてはいない “ 出家者 ” に対し
“ 許される 行為 ” ではない と 厳しく指摘します
あなたには なぜ “ 許される 行為 ” なのでしょうか ?
>『女性を避けるだけ』というのは、論理のすり替えです。
>形の上だけ避けることなど仏陀は言っていません。
言っていること は 誰に対しても 成り立ちますか ?
( 在家 は 性行為 を してもかまわない のですか ? )
その “ かまう ・ かまわない ” ということは
仏陀 が 言及していること( 説くこと ) ですか ?
あなた(在家) が “ 説いていること ” は
仏陀 が 言及していること( 説くこと ) ですか ?
性行為 は 仏陀のサンガ に いない人 には
許されること ですか ?
( あなたに許される 根拠 は 何ですか ? )
なぜ “ 仏陀のサンガ では ”
そのように説かれている のですか ?
> 欲望は快味が少なく苦味が多く悩みが多く危難が多いと出家者は見極めなくてはいけないと仏陀は説きます。
出家者 以外 には “見極めなくともよいこと” ですか ?
快みが多く 苦味が少なく 悩みが少なく 危難が少ない
ことを
出家者 は 見極めて その行ないとする のですか ?
( 多い・少ない で 行ないの基準 は 決まりますか ? )
> 苦であると本当にわかった人は禁欲という無理な形ではなく離れることができるでしょう。
本当に分かった あなた は 智慧について 語ります
> それが智慧なのであり、女性を避けることはすべて形だけのこだわりだ、悟った者は女性を抱いても何の支障もないのだ、と主張するのは、それこそアリッタの輩ばかりになっているということでしょう。
「 僧伽 」 に いない者に対して あなたは 意見します
> 欲望を危難と見極めることは仏陀の理法であり、
その理法 は すべての人に対して あてはまりますか ?
> なぜその実践が『自分が最上の者だ』と考えることとしてしまうのか、ここにもすり替えがあります。
あてはまらない人 に対して あてはまらない人 が
“ 最上のこと ” を “ 説き示します ”
そこ( ? )には “ どのような すり替え ” が 起きていますか ?
( 起きていること を すり替えずに 考えることはできますか ? )
“ 説き示していること ” に すり替え は ありませんか ?
すり替えている者 が すり替えなく考える者 に対して
“ すり替えていること ” を “ すり替えなく ”
示すようにと 心がけて
ここに ( この ) 記述 を 残します
“ すり替えなく考えていること ” とは “ どんなこと ”
かを
“ 鈍 な 頭 ” で 考えて示します
わかっているでしょうか ?
・
賢愚経が妻帯の根拠にされた時期もあったようですね
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn13/mn13c22.htm
蛇喩経にしろ賢愚経にしろどこまで真実かの判断は智慧が必要ですね。
旧約新約の聖書、コーラン、パーリ仏典は良く似てます。
これを絶対無謬とする人が多いのも似ています。
人間のやること思うことはどこでも似てる感じです。
あめに下に新しきものなし
横から失礼します。
ショーシャンク様、返信ありがとうございました。
「返信」のボタンがないのでここに書きます。
> 欲望は快味が少なく苦味が多く悩みが多く危難が多いと出家者は見極めなくてはいけないと仏陀は説きます。
> 苦であると本当にわかった人は禁欲という無理な形ではなく離れることができるでしょう。
まったくその通りだと思います。
実は、受け売りになりますが、釈尊が弟子たちに説いた ヴィパッサナー(観)の修行 ── それが 〈 楽味(受の味わい) と 危難(受の禍い) と 出離(受からの脱出) 〉 とを〈 如実に知る 〉という 方法 なのだと言うのです。
「楽味」「危難」「出離」という、三つのステップを観察し、実践する方法を、釈尊は「 正観 」として弟子たちに教えていたと言うのです。
このことは資料(経典など)などを提示して説明してもらわないとなかなか納得できないと思いますが、わたしは、「あり」だと確信していろいろ調べ始めています。
大和さん、こんにちは。
そうですね。
仏陀が説いた原始仏教は、とても具体的です。
楽味、危難、出離が受の味わい、禍い、脱出というのは極めて分かりやすいですね。
私も仏陀の理法に触れてみて、その具体的なのにビックリしました。
例えば、精進という仏教にとって非常に重要な言葉があります。
大乗仏教では努力と訳されます。
何とも抽象的、観念的です。
そこに具体性は全くなく、受けとる人が勝手にどのような努力かを意味付けしていきます。
しかし、原始仏教では、精進とは四正勤のことです。
極めて具体的です。
大乗仏教だけだと、ふわっとした、悟ったような気分に誰でもなれるので気持ちいいのですが、いざ自分の心と向き合うと何も悟っていないことがわかります。
やはり仏陀の理法は絶対に必要です。
大乗仏典の中では法華経が原始仏教も包括しているので、優れていると思っています。
ショーシャンクさま こんばんは。
>例えば、精進という仏教にとって非常に重要な言葉があります。
>大乗仏教では努力と訳されます。
「精進」は具体的だが「努力」は観念的と思うのは、ショーシャンクさまのお考えですね。
このような「考え方」をブッダは「危難」と捉えたのではないかとわたしは思っています。
「ことばに意味があらかじめ存在している」という考え方です。
感受を中心に説くのは、部派の伝統であり、そこにブッダの智慧があります。
徹底的に危難を排除してそこから出離することを目指しましたが、比丘たちは、諸法無我を体得する形で、自然に感受を整えていきました。
空は瞑想(禅定)として学ばれましたが、一部、サーリプッタなど智慧に優れた人々には、教えられました。「法華経」の中で、サーリプッタが教えを聞いて喜んでいるのはそのためだと思っています。
危難(アーディーナヴァ)ということばは、空と深く関わっていることをお忘れになりませんように。
石飛先生、おはようございます。
仏陀は『精進』という言葉を四正勤という極めて具体的な意味で使ったのですが、大乗仏教では何ら具体性がない『努力』という一般語に解釈していると私は言ったのです。
精進を四正勤と捉えて初めて、七覚支や八正道の意味が分かってきます。
その人が何を考えているかは、その人が使った言葉が何を意味してその言葉を使ったのかを正確に捉えなければ、その人の真意などわかるはずがありません。
『菩薩』という言葉の意味も、仏陀が使った意味と大乗仏教で使われている意味は違います。
同じ『精進』という言葉でも、仏陀の使う意味と、ジャイナ教、バラモン教それぞれ意味が違うでしょう。
法華経では、サーリプッタは『「空」の教えを悟って悟りの境地に達したと思っていたが、それは真の悟りの境地ではありませんでした』と言っています。
法華経で説かれているのは、無や空の悟りは真の悟りではない、真の仏の悟りを目指せということです。
*
> 大乗仏教では何ら具体性がない『努力』という一般語に解釈していると私は言ったのです。
それは
あなたの解釈 上での、 あなたが意味しようとしている
あなたの 知見 でしかありません
「 努力 」 とは “ 大乗仏教上 の 訳語 ” であると
広く 解釈されている 言葉(ワケ) では ありません
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12290133672
しかし、 大事なことを “ 苦労してでも ”
やり遂げようとすること を
一般的に “ 努力する ” と 使い
管理人エム 様 も そのように 安易に使っています
大事なこと とは 「 楽 」 にあることで
“ 苦労してなすこと ” では ありません
そのように 為し難きこと が 「 易行 」 である と
教え諭す のが 龍樹 の 「 大論 」 です
「 信 」 を 持つこと は 難しいことではありません
顛倒する と
「 楽 」 は 「 苦 」 と “解釈” されます
「 法華経 」 において 「 信 」 を得ること は
“ すでに 決まっていること ” であり
ゆえに 、 そのように 決まっている こと と
「 信 」 を 保つことの 大切さ が
幾重もの 「 譬喩 」 や 説き方によって
「 信 」 から 遠く離れている者に
遠近 は 縁起である と 知らせます
遠くにあって チカクに保つ 「 縁 」 の “ 不思議 ”
思議ではなくて 「 信 」 から 入る
・
ショーシャンクさま、こんばんは。
>その人が何を考えているかは、その人が使った言葉が何を意味してその言葉を使ったのかを正確に捉えなければ、その人の真意などわかるはずがありません。
おっしゃる通りです。「わかるはずがありません」ということも、そのとおりでしょう。では、「使っているその人の意味を正確に捉えようとしましたか」とお聞きしたいですね。
菩薩の行法である般若波羅蜜という行法は具体的に説かれます。「三十七菩提分法を学すべし」とあるのです。
菩薩の行としては、当然のことながら、四正勤は行っていることでしょう。具体的に行い、実践して学び、さらに応用しようとしているでしょう。それをショーシャンクさまは理解していないのかもしれません。
くりかえしブッダが言うところの、「智慧をつかえ」という文言にまで至っていないのかもしれないのです。
『般若心経』の色即是空は有名ですが、空即是色がわかりますか。
具体的であることは、ここに示されています。
七仏通誡偈がありますね。あれも前半で四正勤を読みこむことが出来るのですが、さらに、それに加えて「自浄其意」とあることに気をつけましょう。善悪を知るだけでは、覚りに行けないということを示しています。
石飛先生、おはようございます。
そうですか。
大乗仏教でも精進という言葉を四正勤の意味で捉えていると言われるのですね。
それでは、日本の僧侶に手当たり次第、『「精進」とはどういう意味ですか』と聞いてみてください。
一人でも、『精進とは四正勤のこと』と答える僧侶がいたら、そうかもしれません。
> 一人でも、『精進とは四正勤のこと』と答える僧侶がいたら、そうかもしれません。
ショーシャンクさま、その答えではダメかもしれませんよ。四正勤の内容を具体的にいわないと、「具体的」とは言えないかもしれません。
大乗には大乗でまとめる戒があります。三聚浄戒という名前で知られているかもしれません。出家でも在家でも守るべきものとされ、具体的です。
その中に、「三宝を謗らない」というのがあります。仏法僧の三つの宝を大事にするということですが、これをしっかり守るので、日本の仏教は大乗が主体になっていても、仏教と言えるのだと思っています。大乗の僧侶も沙門ではあります。沙門の4種類(『スッタニパータ』89)の中に含まれています。
戒の詳細は省きますが、みな、ブッダの法からきていますね。
要は、『精進』という言葉に、具体性があるかどうかということです。
仏陀は四正勤というように極めて具体的なことを意味して使いました。
しかし、後世には、精進とは仏道に励むことというような、一般的で具体性のない意味で使われています。
そのような具体性のない意味で捉えては、仏陀が説いたことの真意は分からないのではないかということです。
*
参考になる かも しれません(過去ログを拾います)
一人二人( 一人に出会う人 一人 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2016.9.10
三人いるとき 親鸞がいる
「大宋国に一人二人」 正法眼蔵随聞記
一人の師 に 得道 は 一人二人
一人の師 は 仏 嗣
一人いると もう一人が知る それが 一人(独尊)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2010/06/28(Mon) 08:39
全部自分のことです
もちろん自分とは、「わたし」のことです
あなたのことではないと思う心が、「自分の心」です
( 「自分の心」だと「思う心」は、「我すでに我が物に非ず」と、我が物としません )
( “物とみる者”を、 「その“もの”だけに、「心」を認める“物”」 とします )
( 人(こころ)は、“物”に非ずして、物のように、簡単に“我が手の内”にあるとされる )
ある(みずからの世界に存在する事)物しか見えません
ないものを見るという構造を知らなければ、
ある者は見えても隠されます
(隠す人と、隠したことを忘れる人は、同一の時に同じ人として存在出来ます)
(それを見ている人と、それを知る人が、同一の世界にいます)
(一つの世界に、ヒトリ ノブダ がいます )
(一人の ブッタ が、ノブタ のことです )
道元の言う「一人二人」の意味は、こういうことです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24.03.26 日記3.16 叢林 にいて 一人を探す
*
この 叢林に於いて 一人 を “ 探す ”
「 請け取て沙汰せん人こそ理非をば明らむべけれ。
吾が分上にあらぬ此の如きのことを、
理を枉てその人に云んことも亦非なり。 」
ではあるけれど 、、、、、
一つ一つ の 用語(の選び方)によって
話す人 の 心が 分かります
例 の 一端 を 上げましょう
> はっきりわかります
はっきりわかっている 自分 の 話仮(わかり)かた
は 多くの人が 共感できる
> 自分の高説
高低の判断 が 大事
高いところから、低きを眺めている
> どれだけの人が興味を持ち、どれだけの人が共感してくれているか
“ いいね ” が 欲しい
はっきりわかる人 を 対象 としてはいません
( あなたに限らず ) 人は自分の“理解” から 離れることは
容易ではありません
(“理解” とは あなたの「 識 」 に起きる 法の見え方です )
“ 諸法 ” ではあっても 「 実相 」 ではありません
このこと に対して 仏典を 引用して(言い換えて)みます
『法華経』方便品 (大正蔵九・五下)
「 唯仏与仏 乃能究尽諸法実相 」
「 唯 仏と与仏 のみ 乃(いまし)能く 諸法の実相を 究尽す 」
T0262_.09.0005c10: ・・・・佛所成就第一希有難解之法。唯
T0262_.09.0005c11: 佛與佛乃能究盡諸法實相。所謂諸法如是
T0262_.09.0005c12: 相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。
T0262_.09.0005c13: 如是縁。如是果。如是報。
あなたの目に映る “相” (眼前の一つ・双)= 諸 法 は
「 縁起 」に起きている 一つの 法(あなた と 諸 対象物) です
どのように つまびらかにしても
み得るモノ は その者の見方 から
離れず 両面を見たと 思っていても
それも( それは ) 一面(一局)なのです
大衆( 多くのあつまりの人 ) は 自分のヨクするように( 欲・良く )
相を見( 「 見取 」 し ) そこに 迎合しています
“ 多き ” は “ 正しき ”に(は) 非ず
( 大小・多少 は 「 縁起 」 する ゆえに 小・少 は 非正 )
仏 は ただ 菩薩 を 教化 する
( 大宋国 に 一人二人 「 正法眼蔵随聞記 第三 11 」
「 大未国の叢林にも
一師の会下に数百千の中に
まことの得道 得法の人 は 僅か 一 二 なり 」
( 『 正法眼蔵随聞記 』 二 ・ 14 )
http://watanabe12.justhpbs.jp/newpage3.html
「 国に賢者一人出来れば其の国興る
愚人ひとり出来れば先賢のあと廃るるなり
是を思ふべし 」
************
( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 )
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
************
「 法華経 」 には
諸仏 は 仏の 知見 を 多くの人に 示さんがために
菩薩 にのみ 教化 する と ( 菩薩に ) 教えます
( 如来 とは 仏 と 同義 と 捉えても 構いません )
あなたが 菩薩ではない 限り(に於て) 仏の教義 は 知らしめられません
( 岩波 (上) 96p. )
分上にあらぬことを 文上 に 記して
なにを か 期せん
帰すところなき 人の生 に 記せん
・
石飛先生。
仏法僧の三宝を大事にするとのことですが、
それでは、日本仏教のいう『仏』とは何ですか?
日本仏教のいう『法』とは何でしょうか。
日本仏教のいう『僧』とは何でしょうか。
何を指すのかが分からなければ大事にしようがありません。
原始仏教では、『仏』とは仏陀です。
『法』とは仏陀が説いた理法です。
『僧』とはサンガのことです。
大乗仏教でも、日蓮系の僧侶が、阿弥陀仏や大無量寿経や浄土真宗の僧侶を大事にしているとは思えません。
浄土真宗の僧侶が、大日如来や大日経や真言宗の僧侶を大事にしているとは思えません。
大乗仏教において仏法僧とは何を指していて、具体的にどのように大事にしているのでしょうか。
ショーシャンクさま おはようございます。
>原始仏教では、『仏』とは仏陀です。
>『法』とは仏陀が説いた理法です。
>『僧』とはサンガのことです。
大乗仏教でも、同じです。ブッダはブッダです。諸仏がいるのは原始仏教・大乗どちらも同じです。
法はブッダが教えた理法です。「捨てよ」と教えられてましたね。サンガは、「集い」とも訳されますね。おそらくは、日本でも、多くの教団で三帰依が唱えられると思います。
これらは大事なことですが、大乗ではもっと大事なことがあります。ブッダの教えの中で、まずこれが打ち出されます。
それは「争ってはいけない」という教えです。どんな時にも争わないようにしなくちゃいけない、という教えなので、菩薩はめっちゃたいへんです。
ここを理論的に解明したのが、ブッダですね。釈迦如来を拝む人が、阿弥陀如来を拝まなくても、それは別にどうということもありません。諸仏を認めているのですから。「和を以て貴し」とした聖徳太子は、正しく仏法を伝えたと思っています。
戒を犯している僧侶もいますが、そうではない僧侶もいます。いつの時代も同じです。ブッダがアリッタ比丘をはじめとして比丘たちに丁寧に丁寧に法を説いたのが、「蛇喩経」だと思っています。僧侶だけではなく、喩えを用いてあらゆるタイプの人々に教えを説いているので、「蛇喩経」は長い経典になりました。
ショーシャンクさまは、屠殺場に反応しているので、そこからタイプが知られます。
原始仏教に共感するタイプですね。大和さまも。
石飛先生。
大乗仏教では三宝を大事にするよりもっと大事なことがあり、それは「争わないことだ」ということと先生は書かれています。
本当にそうなのでしょうか。
大乗仏教は部派仏教を小乗と見下しました。
小乗の声聞縁覚は、仏に成る種を焼いた者で仏に成る可能性がないとまで言っている大乗仏典もあります。
龍樹菩薩伝では、龍樹はバラモン僧を神通力でボコボコにしてその腰を痛めつけます。暴力的ですね。
これで争ってないとは言えないでしょう。
そもそも仏教の歴史では、論戦や法戦は盛んに行われて来ました。
法戦は死を覚悟して臨むものだったのです。
どの宗派でも、本尊をめぐって他宗派と意見を戦わせてきたのが仏教の歴史です。
仏教で物理的な暴力は一向一揆があるくらいですが、論戦は極めて多いですね。
ショーシャンクさま こんばんは。
>大乗仏教は部派仏教を小乗と見下しました。
ナモー、タッサ、バガヴァトー、アラハトー、サンマーサンブッダッサー。
仏典によく書いてありますね。「かの尊者であり、阿羅漢であり、正等覚者に対して帰依いたします」ということですが、阿羅漢を目指すのが部派、正等覚者を目指すのが菩薩乗と思っています。心清浄を求めるのが阿羅漢で智慧による解脱をめざすのが正等覚者だろうと思っています。
求めるものが違うように見えるのですが、『法華経』では三乗一乗思想を説きましたね。一仏乗があるのみだと。それを聞いてサーリプッタは喜んだのですよね。
法戦は死を覚悟する、と言っても、それは仏教的に見ると、涅槃を求めるがゆえでしょう?願ったりかなったりではないでしょうか。
たぶん、ショーシャンクさまは気づいていないと思いますが、ヒンドゥー教と仏教の間にも、論争のように見える論戦と名づけたくなるような対話はたくさんありました。
そうなのですが、彼らは争ってはいないのです。どんなに非難応酬しているように見えても、インドの哲学には争いと言うことはないのです。
それがインド哲学の伝統になっています。だから、使える意見はどんどん自分で取り込んでいきます。油断ならないのがインド哲学です。
*
> 龍樹菩薩伝では、龍樹はバラモン僧を神通力でボコボコにしてその腰を痛めつけます。暴力的ですね。
原典 に 当たっていますか ?
( 暴力的 ですか ? )
法力 の 中の 出来事だと 分かりますか ?
あなたの 引用 は 暴力的です
それは、 争いを招こうとする 意味となります
> 仏教で物理的な暴力は一向一揆があるくらいです
それは 仏教 の 話しですか ?
それを 起こしたのは 本当の 仏教徒 なのですか ?
ヴェトナム で 反戦の示威 で
火だるまとなった 僧 は
自らにたいする 暴力で
暴力 とは なんであるか を 教えました
暴力的 ですか ?
( ヴェトナムの仏教 は 禅宗に近い 「 大乗 」 です )
( ティク・ナット・ハン が 広く知られています )
( 「 法華経 」 を 深く 信仰します )
https://youtu.be/Gh25RKRJ5cE?t=65
https://youtu.be/fBXtmz0g49o
あなたは 小乗 を 護ろうとしているのですか ?
護るべき 教え を あなたは 護って いますか ?
泥棒が 泥棒してはいけない と
声高に叫んでいる がごとく 聞こえるのは
仏教を知らないからでしょうか ?
( 大小 は 言いません
教えを盗み みずからを守る
戦 の 道具にしている のは 誰でしょうか ? )
知りつつ 学びつつ 日々の行いと せずに
争っている のは 誰でしょうか ?
どれほど 知ろうと 行ないに表わされなければ
戯れに作る 砂の塔 さえ 崩すことはできない
・
春間さん。
言いたいのは、言葉で『仏教とは争わないこと』とか『キリスト教は愛をおこなってきた』とか言っても、歴史上、実際にはどうだったのか?ということです。
歴史や事実に蓋をして、綺麗事を並べても、何にもなりません。
石飛先生が『仏教とは争わないこと』と言われる、『争い』とは具体的にどのようなことを指すのかを見ているのです。
論争があり法論や法戦があり、一向一揆もありましたが、それは『争い』ではないと言われるのか、争いだけど仏教徒がしたことではないと言われるのか、ということです。
法論が争いでないのであれば、避ける必要もないということです。
歴史上の事実をどう見るのかということで、石飛先生の言われる『争わない』という言葉の意味をわかろうとしているのです。
歴史の事実を無視して綺麗な言葉で飾るのではなく、歴史を直視する姿勢は必要だと思っているのです。
> 龍樹菩薩伝では、龍樹はバラモン僧を神通力でボコボコにしてその腰を痛めつけます。暴力的ですね。
これで争ってないとは言えないでしょう。
T2047_.50.0184c26: 其言至爲請龍樹。清旦共坐政聽殿上。婆羅
T2047_.50.0184c27: 門後至。便於殿前呪作大池廣長清淨。中有
T2047_.50.0184c28: 千葉蓮華。自坐其上而誇龍樹。汝在地坐與
T2047_.50.0184c29: 畜生無異。而欲與我清淨華上大徳智人抗
T2047_.50.0185a01: 言論議。爾時龍樹亦用呪術化作六牙白象。
T2047_.50.0185a02: 行池水上趣其華座。以鼻絞拔高擧擲地。婆
T2047_.50.0185a03: 羅門傷腰。委頓歸命龍樹。我不自量毀辱大
T2047_.50.0185a04: 師。願哀受我啓其愚蒙。又南天竺王總御諸
T2047_.50.0185a05: 國信用邪道。沙門釋子一不得見。國人遠近
T2047_.50.0185a06: 皆化其道。龍樹念曰。樹不伐本則條不傾。人
T2047_.50.0185a07: 主不化則道不行。其國政法王家出錢雇人宿
T2047_.50.0185a08: 衞。龍樹乃應募爲其將。荷戟前驅整行伍勒
T2047_.50.0185a09: 部曲。威不嚴而令行。法不彰而物隨。王甚嘉
T2047_.50.0185a10: 之。問是何人。侍者答言。此人應募既不食廩
T2047_.50.0185a11: 又不取錢。而在事恭謹閑習如此。不知其意
T2047_.50.0185a12: 何求何欲。王召問之。汝是何人。答言。我是一
T2047_.50.0185a13: 切智人。王大驚愕而問言。一切智人曠代一
T2047_.50.0185a14: 有。汝自言是何以驗之。答言。欲知智在説王
T2047_.50.0185a15: 當見問。王即自念。我爲智主大論議師問之
T2047_.50.0185a16: 能屈。猶不是名一旦不如此非小事。若其不問
T2047_.50.0185a17: 便是一屈。遲疑良久不得已而問之。天今何
T2047_.50.0185a18: 爲耶。龍樹言。天今與阿修羅戰。王聞此言。
バラモンは蓮華に座っていただけで、龍樹に危害は加えてないですね。
龍樹は六牙白象を呪術で作って、その鼻で蓮華座ごと投げ飛ばしていますね。
バラモンは腰を痛めました。
*
> バラモンは蓮華に座っていただけで、龍樹に危害は加えてないですね。
千葉蓮華。自坐其上而誇龍樹。汝在地坐與
畜生無異。而欲與我清淨華上大徳智人抗言論議。
読めますか ?
呪作 大池廣長 清淨 中有千葉蓮華
蓮華を用いる 大徳智人 は 論議しない
地坐與畜生無異 龍樹 は 亦用呪術化作
六牙白象行池水上趣其華座以鼻絞拔高擧擲地
あなたは何を読んでいるのですか ?
・
めんどくさい人だ。
バラモンは、龍樹の肉体に危害は加えていませんね?
Yesですか?NOですか?
ただ、自分が仮作した池の上の蓮華に座っただけです。
バラモンが言った言葉に怒って
龍樹は呪術で象を作り、その鼻で蓮華ごと投げ飛ばしますね。
その結果、バラモンは腰を痛めつけられます。
これは物理的な暴行ですよね。
龍樹も蓮華を作ってその上に座ればよかっただけですね。
相手の肉体に危害を加えなくてもいいのではないか、ということです。
*
> めんどくさい人だ。
その 判断力 で 人を 分別する
>バラモンは、龍樹の肉体に危害は加えていませんね?
>Yesですか?NOですか?
NO ( きみはここに こだわる )
> ただ、自分が仮作した池の上の蓮華に座っただけです。
そうかどうか、 原典をUPしておいたのに 、、、、
その判断力 を 支える 理解力
どちらも 中途半端 !
>バラモンが言った言葉に怒って
>龍樹は呪術で象を作り、その鼻で蓮華ごと投げ飛ばしますね。
>その結果、バラモンは腰を痛めつけられます。
>これは物理的な暴行ですよね。
面倒くさい こと を
めんどうなこと ではない と 知りなさい
まあ 今まで それで通して来たのだから
あまり 期待しない 、、、、
「 世間 」 の出来事 とは すべて あなたが作っている
幻想 です
あなたが 好きなように 立派な蓮華を つくり
欲與我清淨華上大徳智人抗言論議。
汝在地坐與畜生無異
行池水上趣其華座 以鼻絞拔高擧擲地
したこと とは そういうこと
婆羅門傷腰。委頓歸命龍樹。我不自量毀辱大師。
願哀受我啓其愚蒙。
これの意味が分かるようなら
傷腰 の 意味も分かる
意味も分からず 自説 を 力む
汝在地坐與畜生無異。
而欲與我清淨華上大徳智人抗言論議。
君の為に 龍樹伝 は おかれている
・
再度 繰り返しましょう
> **************
あなたの目に映る “相” (眼前の一つ・双)= 諸 法 は
「 縁起 」に起きている 一つの 法(あなた と 諸 対象物) です
どのように つまびらかにしても
み得るモノ は その者の見方 から
離れず 両面を見たと 思っていても
それも( それは ) 一面(一局)なのです
大衆( 多くのあつまりの人 ) は 自分のヨクするように( 欲・良く )
相を見( 「 見取 」 し ) そこに 迎合しています
“ 多き ” は “ 正しき ”に(は) 非ず
( 大小・多少 は 「 縁起 」 する ゆえに 小・少 は 非正 )
仏 は ただ 菩薩 を 教化 する
( 大宋国 に 一人二人 「 正法眼蔵随聞記 第三 11 」
「 大未国の叢林にも
一師の会下に数百千の中に
まことの得道 得法の人 は 僅か 一 二 なり 」
( 『 正法眼蔵随聞記 』 二 ・ 1
> **************
バラモンの肉体に危害を与えていますね。
しかも、呪術によって。
相手の肉体を傷つけたり、呪術を使うのは、仏教的ではない。
これでも『争ってない』と言うのであれば、その理由をはっきりと述べてください。
春間さんは、いつも自分の意見は全く言わずに
『おまえはわかっていない』を連呼するだけなので、本当に『めんどくさい』のです。
*
> どこが問題なのだろうと考えざるを得ません。
どこが問題 か を 考えようとしない あなた
( 考えざるをえない と
うそぶく あなたの “メ” が メブク )
> > めんどくさい人だ。
> その 判断力 で 人を 分別する
人を 分別し ( 人の起こす ) 問題を 分別する
( 君の起こしている 問題 を
君の分別 が 位置づける )
重要さ は 君の分別 が 決める
めんどうくさい と 分別する 問題
> どこが問題なのだろう
どこにも 問題がない 君の分別
> ・・・・・・・・・・ 考えざるを得ません。
問題がない ところに 考えるということ は 起きない
そこを考える 必要があるが 、、、、、
> 考えざるを得ません。
という 言葉に うまくはまる
「 口は重宝なもの 」 といわれる 、、、、
( 無思慮 を 覆う 口先 )
このようなこと が ショーシャンクさん だけに
あてはまる と ヒトゴト と 読む
( あなた には あてはまらない ? )
もし、 記述されていることが “事実” であるなら
“事実” は ( “本当のこと” は )
すべての出来事( ヒトゴト )に あてはま る(っていく)
“わたし” が 記述する理由 は “ あてはまる ” 故
そこを 読み取る
( “わたし” とは 「 己 」 を呼ぶ呼称 )
( ひとごと とは 人に起きる “ 事実 ” )
( ここを知る 大切さ が
牟尼の示す 「 瞑想 」 に起きる )
「 己事究明 」 という 言葉を残す 牟尼 ・ 「 禅師 」
( 言葉 は 「 瞑想 」 が 支えるモノ )
・
*
おはよう ございます 。
>例えば、精進という仏教にとって非常に重要な言葉があります。
>大乗仏教では努力と訳されます。
例えば
「 精進 」 と 訳される
仏教にとって非常に重要な( 概念上の )言葉があります
“ 努力 ” と 訳す人 も います
どちらも 概念上( 観念 の上 とも 訳されます )の考え方です
( 「 観念 」 という 仏教訳語 は 日常的に使われています )
具体的に言葉(の意味)を表すことは とても難しいことです
「 観 」 の上での、 「 念 」 に 心を派すこと を
「 止観 」 とも 呼び 、 「 止観 」 とは
そのようなこと と 考えても 誤りはありません
このようなこと を 管理人エム 様 は
*************
> 「精進」は具体的だが「努力」は観念的と思うのは、ショーシャンクさまのお考えですね。
> このような「考え方」をブッダは「危難」と捉えたのではないかとわたしは思っています。
> 「ことばに意味があらかじめ存在している」という考え方です。
> 感受を中心に説くのは、部派の伝統であり、そこにブッダの智慧があります。
> 徹底的に危難を排除してそこから出離することを目指しましたが、比丘たちは、諸法無我を体得する形で、自然に感受を整えていきました。
> 空は瞑想(禅定)として学ばれましたが、一部、サーリプッタなど智慧に優れた人々には、教えられました。「法華経」の中で、サーリプッタが教えを聞いて喜んでいるのはそのためだと思っています。
> 危難(アーディーナヴァ)ということばは、空と深く関わっていることをお忘れになりませんように。
*************
と 表現しています
大切なこと を “ 常に ”
“ 観念 の 上 ” に 置いている ( 行ないの指針とする )
管理人エム 様 の “ 日常から出ている ”
「 精進 」( ヴィリヤ ) なる 「行」と受けとめています
「 いい加減 ? に 観念して ? 成仏 ? しなさい
生きている “時” は 矢のごとく 流れていくものです
生きている間 に 「 成仏 」 できる
その流れ(激流)を“わたるすべ”を 語るとき の
“ こと の は ” を ( 言に派生すること を )
仏教上 の 言葉 で 「 智慧 」と 呼びます 」
・
石飛先生、おはようございます。
法戦で死ぬことは、論戦に負けて自分の見解が間違いだったと言うときに死ぬ覚悟をするのですから、願ったりではないでしょう(笑)
大乗仏教は仏法僧も諸仏、一切法を受け入れてきたのだから、争ってない、和を以て尊しとなすだ、と言われますが、
どの仏を本尊としてどの経典を最高の経典とするのかは、あるいは教義の解釈が正しいか間違っているかは、宗派間や宗派内の派閥の間で、ずっと論戦されてきたのが歴史上の事実です。
三業惑乱でも獄死などで死者も複数出ています。
例えば、キリスト教は愛をおこなってきたと口で言っても、歴史からすると虐殺をおこなってきたのが事実です。
『争わない』は理想ですが、世界史から見ると、宗教があるためにかえって争いの元になるケースも多いのです。
どこが問題なのだろうと考えざるを得ません。
*
> 宗教があるためにかえって争いの元になるケースも多いのです。
争いを生む のは 宗教 ですか ?
人による 解釈 恣意 ですか ?
争ってはいけない と 説く ナザレのイエス
争いの種 に それを 用いる のは
種 を 撒く人 ですか ?
収穫 を 誤る人ですか ?
> どこが問題なのだろうと考えざるを得ません。
考えて 得る 解釈
「 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 」
問題を考えて 解釈を築く
剣 は どこに、どのように 投げ込まれたのか ?
左頬 を 出して 、、、、
打たれる痛み は 何の為 、、、、
・
> 「 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
> 平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 」
なるほど!そういうことか。
ブッダもまた思想的には「どうやったらそうなるか」を理論化した人です。つまり、「(理想として)そうなるよう」に、思想をしつらえて説いたのです。
「戦争はいけない」「争いはやめよう」と言って、止んだことはないのは何故であるのか、そこを考えてみたらよいのでしょう。
他人にやめさせようとするからだな、自分がやめようとする前に。。
ショーシャンクさま バラモンの呪術についてお話ししますね。
これは、実際のバラモンとの対話・出来事ではなくて、起こったことを喩えで語っていると思います。
つまり、実際は、バラモンと龍樹が話しをしただけですが、起こったことがみんなに分からないので、仮に、こんな風であった、というのを呪術を用いて描かれていると思います。
それほどの衝撃をバラモンに与えたと読むといいのでしょう。
大きな池と千葉の蓮華は、世界創造をするブラフマー神のようです。バラモンは龍樹と、「世界創造したのはブラフマンである」と争った、ということが想像されます。
ところが、ブラフマー神はヴィシュヌ神と争っていて、世界創造したのはわたしだとブラフマーがいうと、ヴィシュヌが「おまえはわたしの臍から生まれた」というのです。実際、ヴィシュヌの臍から蓮華が生じて、その上に乗っている小さなブラフマーが描かれていることはよくあります。
バラモンと龍樹の対話でも、そのヴィシュヌとの話が髣髴とされますね。ちょっと分の悪いバラモンですが、千葉の蓮に坐っているとあるので、気がつく人はシヴァ神を思うかもしれません。ハタヨーガにはシヴァ神が千葉の蓮として頭頂に描かれているのです。
つまりヒンドゥー教のシヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーを相手にしてブッダ(龍樹)は、それに対立する思想を打ち出したと見ることができるのです。が、ただ「争わない」という教えによって、このように、呪術上のこととして、象徴的に描かれるのだと思います。
ここには、20世紀になって証明されたゲーデルの不完全性定理の内容が説かれていると見ることができるのですが、それを話しても誰もついて来てくれないので、このようなお話として残されたのだろうと見ています。
バラモンが負けることになっているのは、パラドックスが生じるからです。ブッダの側には、パラドックスはないのです。が、ただそうなると言語で表すことができないという致命的な欠陥が生じます。
そこで、仮設して言語をもって語って、証明し終わったら全部消してしまうということになっているのでしょう。
石飛先生。
龍樹菩薩伝の中の呪術が比喩や象徴である可能性は高いですね。
私は、キリストの奇跡も仏陀の神通力もそのまま受け入れることに抵抗がないので、事実でも比喩でも構いません。
比喩だとしても、その元となる事実、たぶん論戦はあったのでしょう。
原始仏典で描かれている仏陀の神通力は、人間を肉体的に傷つけるものはありません。
これは、仏陀が攻撃的な性格ではなかったためでしょう。
仏陀であれば、このような場合、神通力によってバラモンが呪術で作った池も蓮華も消してしまうでしょうね。そして、同じ地面で対話するでしょう。
または、仏陀も蓮華を作ってその上に座って、蓮華の上に座ったバラモンと対話するでしょう。
少なくとも、バラモンを地面に叩きつけたりはしないでしょうね。
*
「 龍樹菩薩伝 」 は 仏典ではありません
< 参考 >
https://icabs.repo.nii.ac.jp/record/102/files/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AD%A6%E8%AB%96%E9%9B%86%20%E7%AC%AC%EF%BC%95%E5%8F%B7%EF%BC%88%E6%A8%AA%E7%B5%84%EF%BC%9A%E5%B1%B1%E9%87%8E%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90%EF%BC%89.pdf
菩薩伝 によって 菩薩を貶めるのは 言論の自由
龍樹 著述 の 「 論書 」 は 「 経 」 に並ぶモノです
龍樹を貶めるなら 「 論書 」 を 批判すべき
「 八宗の祖 」 である のには それなりの理由がある
「 菩薩 」 と 呼ばれるのにも、 同様のことがある
龍樹 を 批判するなら “ それなりの理由 ” に対して
「 論 」 を 為して するのが妥当
いつまでも、 理解力 と 読解力のない 人 に
関わっていないで、
関りを持つべき人 の 為に
「 論 」 を 構築したらいかがですか ?
( 関りを持ってしまった 人 に
すべての ReedOnlyM. も 入るのかな ? )
・
ショーシャンクさま こんばんは。
>少なくとも、バラモンを地面に叩きつけたりはしないでしょうね。
確かに、バラモンを地面にたたきつけたりはしないかもしれませんね。龍樹の不徳のいたすところとしておきましょう。
きっとバラモンはたいしたことないと思って油断していたんでしょう。だから衝撃を受けたのですが、その結果、ブッダの法に負けて、ブッダの弟子になったのでしょうか。
どうやらそうではないようです。そこも、読めてくるのです。バラモンは、致命的な欠陥のために地面にたたきつけられたのですが、それはかれの衝撃の大きさを物語っています。
それでどうしたか、ですよね。
もう一度、勉強し直したのです。ブッダに学んで、自分の欠陥をあらため、ブッダの教えたとおりに、欠陥が見つからないように整え直したのです。だから、仏教の後から、龍樹の後から、ヒンドゥー教の思想は整備されてくるのです。インド哲学の根本教典が作られるのが、4-5世紀になってから、ということが、「争わないこと」の証拠です。
この意見を出した人はいません。ショーシャンクさまも始めて聞くでしょう。
ブッダは、「争わないこと」によって、すべての人に教えているのです。外道も仏教徒も、あらゆる人を教えています。
部派の仏教だけが本当なのではありません。
彼らには、素早く覚る術を授け、自分の道を行きたがる人には智慧による道を授け、外道の人には争わずに自説を整えていく道を教えました。
世界中の生き物たちに教えを説いているのが、ブッダです。龍樹は、ゴータマの道を行くひとりの生き物なのです。
*
> ブッダは、「争わないこと」によって、すべての人に教えているのです。外道も仏教徒も、あらゆる人を教えています。
あらゆる人 が 既に 教えを受け、
これから 生を受ける( あらゆる )有情 も 「 慈雨 」 を 受ける
なにが 「 慈雨 」 であり 、
それが なぜ 「 慈雨 」 であるかを 人 は 承けている
承けていること を いかに表現するか は
人により 様々な 相 をとり 「 想 」 に ある
> 彼らには、素早く覚る術を授け、自分の道を行きたがる人には智慧による道を授け、外道の人には争わずに自説を整えていく道を教えました。
> 世界中の生き物たちに教えを説いているのが、ブッダです。龍樹は、ゴータマの道を行くひとりの生き物なのです。
ナザレのイエス も ソウデアリ マホメット も ソウデアル
日本の 心有る人 は 「 本地垂迹 」 と 神を祭る
そうであっても 様相 を 人はさまざまに解釈する 、、、、
解釈する 人(々) を 解釈する人もあり
解釈せずに “ ありのまま ” を 観る人もある
“ ありのまま ” を 「 止観 」 と呼び
「 止観 」 に ある人 を ありのままの人(如来) と呼ぶ
「 瞑想 」 の 大切さ を 仏陀(達)は 幾重にも 解く
( 仏陀達 を 如来使・菩提薩埵 と 呼ぶこともある )
「 只管打坐 」 にある ありのままの人
( 起きて 建つ 「 行住坐臥 すべて 禅 」 )
< 普勧坐禅儀 >
https://sybrma.sakura.ne.jp/151hukanzazengi.html
「 いわゆる坐禅 は 習禅にはあらず
ただ これ 安楽あんらくの法門なり
菩提を究尽するの修証なり 」
> 大きさを物語っています。
> それでどうしたか、ですよね。
> もう一度、勉強し直したのです。
ブッダに学んで、自分の欠陥をあらため、
ブッダの教えたとおりに、欠陥が見つからないように整え直した
整え 直し 直視する
( 犀の角 を 観つつ ) 行住坐臥 すべて 「 禅 」 に ある
↓
もう一度 “ 勉強 を 直す ”
( 務め励む という 「 精進 」 に ある )
そのように 学び そのように シュウシ( 修し・習し・終始 ) する
そして 「 止 」 を シル
( 「 使 」 を知り “ 如来使 ” となり 菩提を習い重ねる )
> ブッダは、「争わないこと」によって、すべての人に教えているのです。
外道も仏教徒も、 あらゆる人 を 教えています。
思弁 においての 争い を 「 法力 」 とも 呼ぶ
( 言葉によって 思いを作る )
争そわずに
「 心 」 に 詩い( うたい うたいつつ う っ たえる )
「 有 」 ということ の 在るところ を “ 教える ”
「 心 」 において 「 詩をきき 」 「 死 」 を知り
「 寂滅 」 を “ シ ル ”
争っているのではなく ウタッテイル と シル
( 證 し 瞑想に 於いての 微笑 を シル )
カタカナ であり 片ホウ を 知り ( 即 )
“もう一ホウ” を 「 本法 」 と シル
カナ シンデイル のではなく
仮名 にある 「 楽 」 に いきる
> 龍樹は、ゴータマの道を行くひとりの生き物なのです。
ひとりの生き物 を シル
シル ということを シリツツ( 使 理 )あゆむ
ひとりの生き物 の あゆみ
あゆみつつ 龍樹 を カタル 一人の生きもの
( 仮 たる ことば に ) “もう一ホウ” を シル
・
石飛先生、こんにちは。
確かに仏教の影響を強く受けていると思われるシャンカラがヒンドゥー教最大の導師ですから、それは言えるかもしれません。
ただ、私は、仏陀はヤージュニャヴァルキヤの影響を受けて出家したと思っていますから、バラモン教と仏教とジャイナ教は影響しあいながら来たように思えます。
これを言うと、仏教徒は怒りますが。
仏陀はバラモン教のように哲学を思惟することではなく、ジャイナ教のような苦行でもなく、仏陀独自の理法を洞察するという道を切り開いたのは独尊なところですが、仏教全体としてはバラモン教やジャイナ教の影響を受けているところもあると思います。
仏教がバラモン教、ヒンドゥー教に与えた影響の方が絶大だとは思いますが。
ショーシャンクさま こんばんは。
>ただ、私は、仏陀はヤージュニャヴァルキヤの影響を受けて出家したと思っていますから、
ふうむ、なるほど。。多少はあったかもしれませんが、わたし的には、ヤージュニャヴァルキヤは乗りこえたと思います。ブッダは、一切智を求めてそれを獲得しましたから。サナトクマーラの思想も乗りこえて、アジタと対話していますね。アジタは『スッタニパータ』の第5章に出てくる人物です。
仏教、ジャイナ教、バラモン教の三つを並べているのですね。
仏教全体としては、バラモン教、ジャイナ教の影響を受けている、と見ているのですか。。
まあ、この場合、バラモン教、ジャイナ教に「合わせて説いている」と見た方があたりかもしれないと思いますが。
ミリンダ王(メナンドロス王)がナーガセーナ長老と対話するとき、身の毛が逆立って恐れが走ったとありますが、その気持よく分かります。
龍樹に対峙したバラモンも、そんな感じだったのだろうと思っています。
無我の思想と対峙するときはよくよく気をつけなければなりません。
足下、完全にすくわれますから。いつでも気づけば、自分と向き合うことになってしまうのです。
石飛先生、おはようございます。
仏教徒は、バラモン教は敵視し、ジャイナ教は軽視するか無視する傾向にあります。
しかし、ジャイナ教が仏教に与えた影響は大きいと思っています。
雨安居は、ジャイナ教から来ています。
仏陀は不浄肉以外の肉食は禁止しませんでしたが、大乗涅槃経など大乗仏教では肉食禁止となります。
仏教もバラモン教もジャイナ教の影響を受けて肉を食べなくなります。
ジャイナ教は、今でもインドの富裕層や上流階級に多くいます。
というか、教義から金融業に就くことが多いので自然と富裕層が多くなったのかもしれませんが。
インド全体からすると少数派ですがインド社会に確固とした地位を築いています。
インドで滅びてしまった仏教とは大きな違いです。
あまりこの考察をする人を見たことがないですが、何故インドで仏教は滅び、ジャイナ教は確固とした地位を築いているのか、実は極めて興味深い問題提起だと思っています。
ショーシャンクさま おはようございます。
>何故インドで仏教は滅び、ジャイナ教は確固とした地位を築いているのか、実は極めて興味深い問題提起だと思っています。
諸行無常だから、ってのはどうですか。
わたし的には、インド思想の歴史が何も失っておらず、いまだブッダの註釈であり続けている、ということに興味があります。
「争わない」ということは、何も失われない、ということなんだなと思います。
時代ごとに変化の様相を見せながら、古い思想も忘れない、それどころか、古代思想が何度でもかたちを変えて蘇ってくる。。これを称して「多様性と統一性のインド」などと呼んだりしているのだろうと思っています。
わたしは、市井の研究家でもある伊藤武氏の研究をありがたく読んでいますが、こういう研究者が世に出てくるインドはすごい国だなと思っています。
石飛先生、おはようございます。
〉諸行無常だから、ってのはどうですか。
諸行無常だから滅びたとしたら、日本でも東南アジアでも滅びているはずですが、発祥の地インドでだけ滅びています。
イスラム教徒が攻撃したからと言っても、イスラム教徒はヒンドゥー教や他の宗教も攻撃しています。
カースト制度を否定したからと言っても、ジャイナ教もカースト制度を否定してます。
しかし、インドで仏教は滅び、ジャイナ教はインド社会に確固とした地位を築いています。
ショーシャンクさま、おはようございます。
>しかし、インドで仏教は滅び、ジャイナ教はインド社会に確固とした地位を築いています。
まあ、そうなんですが、インドで仏教が滅亡することはないと思います。インド哲学は“ブッダの注釈”なのだと思っています。
これからも、志のある人々は、仏教に注目して行くでしょう。
思弁だけで行くのは、欧米流の考え方でしょう。輪廻を入れると、一気に見方が変わりますから。
*
> 無我の思想と対峙するときはよくよく気をつけなければなりません。
気をつけなければ と 気を付けるとき
無我の思想 に 対峙すること
に 気を付けられない
気を付けること と 「 無我 」 とは 対峙してしまう
> 足下、完全にすくわれますから。
すくわれている とき には
すくれている と 気がつかない
気がつかない ということ と
すくわれるている ということとは 同義語
利口な人 は 馬鹿なことを知る ( ゆえに 避ける )
馬鹿な人 は 馬鹿だと気づかず 利口に なれない
> いつでも気づけば、自分と向き合うことになってしまうのです。
自分で作る 自分の世界 ( 「色」「受」「想」「行」「識」 )
( 世間 は 自分の見方 で 重ね築かれている・蘊 )
「 いや ソウデモナイ 」
自分の 見方から離れる ( 自分の ) 見方(方法)もある
ただ “ 自分では 気付けない ” だけ
自分 という 「 自 」 の 「 分 」
「 己 」 という 己自 を 究明する(究尽)
観自在 「 菩薩 」 「 行深 」「 般若 paramita 」
ミタ と アミタ とを ミタ 時 ( 分別 ・ 計量 )
正見・照らしだされる 間 五蘊 皆 空 ( 無量 )
龍樹に対峙して
「 無量 」 に 「 照 見 」
照らし出すこと が できること が 五 蘊
( 「 薫習 」 されている 世間 色受想行識 )
自分と向き合うこと を 「 面壁 」 と 呼ぶ
・
カエルの家のお墓は日蓮宗法華経寺派ですな
キリスト教会の結婚式で賛美歌を歌い
浄土真宗本願寺派の法事では南無阿弥陀仏の念仏を合唱する
宗教とはお付き合いですな
他人の信仰を大切にすること
お釈迦さまはアグニ信仰の人に信仰を捨てさせたりひどいことをしてますな
カエル一族の菩提寺は臨済宗建長寺派
カエルの家だけなぜか祖母の信仰で日蓮宗にw
その祖母の実家の菩提寺は浄土宗なのだが
曹洞宗法王派のお稲荷さんも信仰してたとか
調べるとわりと無茶苦茶
カエルさま こんばんは。
>お釈迦さまはアグニ信仰の人に信仰を捨てさせたりひどいことをしてますな
それ、どこに書いてありますか?
>宗教とはお付き合いですな
>他人の信仰を大切にすること
なるほど! カエルさまは、日本人だなあぁ。
マニカナ先生、おはようございます
ウルヴェーラ・カッサパはアグニ神を祀る事火外道の師ですよね
信者丸ごと改宗させるとかひどいw
他人の信仰なんてどうでもいいのに
チャットGPTで 即座にこれくらいのことは分かります
摩訶迦葉 と 3迦葉について 出来るだけ詳しく教えてください
ChatGPT
ChatGPT
摩訶迦葉(Maha Kassapa)と3 迦葉(Kassapa)は、仏教における重要な人物であり、特に釈迦仏の直弟子として知られています。
摩訶迦葉(Maha Kassapa):
摩訶迦葉は釈迦仏の時代における主要な弟子の一人で、彼の信頼できる弟子の一人でした。
彼は比丘(僧侶)のリーダーとしても知られ、釈迦仏の死後、初期の仏教団体であるサンガ(僧伽)の指導者として活動しました。
また、摩訶迦葉は「仏の後継者」としての地位を求め、そのためには苦行や瞑想を通して様々な試練に立ち向かいました。これらの苦行は彼の修行において重要な役割を果たし、彼の精神的な洞察を深めることに役立ちました。
彼は仏典においてしばしば、釈迦仏から直接教えを受けた弟子の一人として言及されています。
3 迦葉(Kassapa):
3 迦葉は、名前が同じくらい類似していますが、別の人物です。彼は釈迦仏の時代に登場する別の弟子でした。
3 迦葉は後に、大乗仏教の一派である阿含部派(あんぱぶ)の創始者として知られることになります。
彼の教えは、阿含部(あんぱぶ)の教えに基づいており、後に阿含部派(あんぱぶ)と呼ばれることになる仏教の教義と実践の重要な一部を形成しました。
これらの2人の迦葉は、釈迦仏の時代に活動した弟子であり、彼の教えの伝播や理解において重要な役割を果たしました。彼らの教えと貢献は、仏教の歴史の中で非常に重要なものと見なされています。
摩訶迦葉 と 3迦葉について 出来るだけ詳しく教えてください
ChatGPT
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摩訶迦葉(Maha Kassapa)と3 迦葉(Kassapa)は、仏教における重要な人物であり、特に釈迦仏の直弟子として知られています。
摩訶迦葉(Maha Kassapa):
摩訶迦葉は釈迦仏の時代における主要な弟子の一人で、彼の信頼できる弟子の一人でした。
彼は比丘(僧侶)のリーダーとしても知られ、釈迦仏の死後、初期の仏教団体であるサンガ(僧伽)の指導者として活動しました。
また、摩訶迦葉は「仏の後継者」としての地位を求め、そのためには苦行や瞑想を通して様々な試練に立ち向かいました。これらの苦行は彼の修行において重要な役割を果たし、彼の精神的な洞察を深めることに役立ちました。
彼は仏典においてしばしば、釈迦仏から直接教えを受けた弟子の一人として言及されています。
3 迦葉(Kassapa):
3 迦葉は、名前が同じくらい類似していますが、別の人物です。彼は釈迦仏の時代に登場する別の弟子でした。
3 迦葉は後に、大乗仏教の一派である阿含部派(あんぱぶ)の創始者として知られることになります。
彼の教えは、阿含部(あんぱぶ)の教えに基づいており、後に阿含部派(あんぱぶ)と呼ばれることになる仏教の教義と実践の重要な一部を形成しました。
これらの2人の迦葉は、釈迦仏の時代に活動した弟子であり、彼の教えの伝播や理解において重要な役割を果たしました。彼らの教えと貢献は、仏教の歴史の中で非常に重要なものと見なされています。
ジャイナ教 の マハーヴィラ と 釈迦牟尼 との 歴史的つながりについて 教えてください
ChatGPT
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ジャイナ教のマハーヴィラ(Mahavira)と釈迦牟尼(釈迦仏)との歴史的なつながりは、仏教とジャイナ教の歴史的背景と密接に関連しています。以下にその概要を示します:
マハーヴィラ(Mahavira):
マハーヴィラはジャイナ教の創始者であり、ジャイナ教の中で最も重要な聖人の一人です。彼は紀元前6世紀頃にインドで生まれ、ジャイナ教の教えを広めました。
マハーヴィラはジャイナ教の24人のティールタンカラ(救世主)の最後の一人であり、「ジナ」または「勝利者」として知られています。
彼の教えは「ジャイナ・ダルマ」として知られ、非暴力(アヒンサー)、真実、節制、不欲などの主要な原則に焦点を当てています。
釈迦牟尼(釈迦仏):
釈迦牟尼は仏教の創始者であり、仏教の中で最も尊敬される指導者の一人です。彼もまた紀元前6世紀頃にインドで生まれ、仏教の教えを広めました。
釈迦牟尼はサッダルタ・ゴータマとして生まれ、のちに苦行を経て悟りを開き、「仏」として知られるようになりました。
彼の教えは「四諦」(苦諦、集諦、滅諦、道諦)や「八正道」などの中心的な概念に基づいており、苦しみから解放されるための道を示しています。
歴史的に見て、マハーヴィラと釈迦牟尼は同時代に活動しました。彼らは共に紀元前6世紀頃に生まれ、同じ地域で教えを広めました。両者の教えにはいくつかの類似点がありますが、ジャイナ教と仏教はそれぞれ独自の教義と実践を持っています。彼らの間の直接的な交流や影響は歴史的には明らかではありませんが、彼らの教えはそれぞれの宗教の発展に大きな影響を与えました。
あなた
ジャイナ教徒の 近代に於いてのインドでの重要性について 教えてください。
ChatGPT
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近代のインドにおけるジャイナ教徒の重要性は、その貢献や影響を通じてさまざまな形で現れています。以下にそのいくつかの側面を示します:
社会的貢献:
ジャイナ教徒は、社会的責任を果たすための様々な慈善事業や社会奉仕活動に積極的に関与しています。彼らは教えの核心的な価値である非暴力(アヒンサー)や慈悲の精神に基づいて、貧困層や教育機会の不足を解消するための様々な取り組みを行っています。
教育と文化:
ジャイナ教徒は、教育や文化の分野で重要な役割を果たしています。彼らは教育機関や文化団体の設立・運営に参加し、ジャイナ教の価値観や歴史を普及させるための活動を行っています。また、彼らは文学、芸術、音楽などの分野での貢献もしています。
環境保護:
ジャイナ教は環境保護の重要性を強調しており、自然界や生物への敬意を示すことが教えの一部となっています。そのため、ジャイナ教徒は森林保護、生物多様性の保護、持続可能な生活の促進などの取り組みに積極的に参加しています。
政治的影響力:
ジャイナ教徒はインドの政治においても影響力を持っています。彼らは政治的な組織や団体を通じて政策決定に影響を与え、ジャイナ教徒の権利や利益を守るために活動しています。特に、ジャイナ教徒の地域においては、彼らの声が地方政治に大きな影響を与えることがあります。
これらの要因により、ジャイナ教徒は近代のインド社会において重要な存在となっています。彼らの宗教的な価値観や倫理的な原則は、社会や文化のさまざまな側面に影響を与え、インド社会の多様性と豊かさに貢献しています。
あなた
ジャイナ教徒は近代のインド経済において占めていた位置について教えてください
ChatGPT
ChatGPT
近代のインド経済におけるジャイナ教徒の位置については、一般的には特定の統計データが提供されているわけではありませんが、彼らはインド経済においてさまざまな役割を果たしてきました。以下に、ジャイナ教徒が近代のインド経済において果たしてきた可能性のある役割について述べます:
ビジネスと起業:
ジャイナ教徒は、商業やビジネス分野で活躍する起業家やビジネスリーダーとして知られています。彼らは経済的に成功した企業家や企業グループを率いており、インドのビジネス界において重要な役割を果たしています。
貿易と商業:
ジャイナ教徒は古くから商業に携わっており、古代から中世にかけてのインドの商業活動に影響を与えました。彼らは商人や貿易業者として活動し、インドの経済的発展に貢献しました。
金融と投資:
ジャイナ教徒は金融業や投資業界でも活躍しています。彼らは銀行家や投資家として、金融市場や資本市場に影響を与え、経済の発展に貢献しています。
慈善事業と社会投資:
ジャイナ教徒は、慈善事業や社会投資を通じて社会的責任を果たしています。彼らは教えの価値観に基づいて、教育、医療、福祉などの分野に投資し、社会全体の発展に寄与しています。
ジャイナ教徒は、その商業的な精神や倫理観、社会的責任感に基づいて、近代のインド経済において重要な役割を果たしています。彼らのビジネスや経済活動は、インドの経済成長や社会的進歩に寄与しています。
春間さん。
それで、あなたの意見はどうなのですか?
あなたは自分の意見を一切言わずに検索したことだけ羅列しますが
自分の意見は何もないのですか?
何故、仏教はインドで滅び、ジャイナ教はインドでヒンドゥー教に吸収されずイスラム教に消滅させられることもなく確固とした地位を築いているのか?という問いです。
その違いは何ですか?
*
> 何故、仏教はインドで滅び、
仏教はインドで滅びましたか ?
> ジャイナ教はインドでヒンドゥー教に吸収されずイスラム教に消滅させられることもなく確固とした地位を築いているのか?
あなたの “思う” 確固たる地位
ジャイナ教 (徒) は 経済的 に
その宗教的特異性を発揮して 確固 たる地位を 保ちます
近代においては、 一時期 インドの経済的富 の 数割 をも
ジャイナ教徒は確保しています
それは “ 確固 たること ” でしょうか ?
“ 確固 たる 信念 ” の下で 考えてみることはできますか ?
没落する 釈迦族 において、ゴータマが
クシャトリアとして 指導的立場に立てば、
釈迦族 は “ 確固 たる ” 勢力 として
おおきく その国力 を 伸ばしたことでしょう
それも “ 確固 たること ” でしょうか ?
違いはなんでしょうか ?
・
〉仏教はインドで滅びましたか?
質問に質問で答えないでもらえますか。
あなたが、仏教はインドで滅びてないと思うなら、そう言えばいいでしょう。
1203年にインドで仏教は滅びたというのが通説ですが、
あなたがそうでないと言うのであれば、
どのような事実からそう言うのですか?
あなた “ には ” 通説通り に 滅びているだけです
通説に従って インド を 見ていると
通説通り の インド が そこにあり
通説通り の 理解 が そこにある
ただし あなたの理解する通説 が 通説とは限らない
( あなたの 理解力による 通説 が そこにある )
*
> 質問に質問で答えないでもらえますか。
まず あなたが 手本を見せて
そのように 答えるとよい と 示す
質問ではありません
あなたのお手本 を 見ているだけ です
ま
あなたが ニワトリ で わたしは たまご
たまご が 先になると、 なにかが “ ひっくりかえる ”
ひっくりかえって ばたつく
ばたつく かなた に インド を 臨む
あなたが、1203年にインドで仏教が滅びていないと思っているなら
その根拠を示してください。
自分の意見を持っていないのであれば、正直にそう言ってください。
自分の知見を持っていない人と話しても時間の無駄ですから。
*
> 自分の知見を持っていない人と話しても時間の無駄ですから。
通説 を 根拠に 意見を形成する人
その 意見 は 通説に過ぎない
それも一局
通説にこだわらない というところから 生れ出る
新たなる 局面
( そうであって も “ シンセツ ”から 生れているかを 問う )
異説 に 意味がある のではなく
コンセツ 丁寧に 人の為( 自の為 )になることを 説 す
根拠 となる セツス ル トコロニ 起きている 「 恩徳 」
「 恩徳 」 を 知る者の 根拠から生まれ出る 「 トク 」
( 説く 徳 を 解く 言葉たち )
説くモノ( 五蘊 ) が 生きているのではなく
説く言葉(達) が 聞く者に 「 命 」 を はぐくむ
はぐくみつつ はげみつつ 「 命 」 の 大切さ を
命のない 言葉という
テキスト を 道具 として 用い
“ 価値 という アルタ ” を
テキスト から 解放する
( ことば の “意味・アルタ” は 用い方 から 生まれる )
問題が起きる のは “ 用い方 ” についても
アルタ 自体 に トラワレ て しまうこと
( 糞掃衣 と 托鉢 とは ここにおいて “アルタ” となる )
「 論 」 に 対する 論
( 経論 の ジナ は 釈迦 に 張り合う )
このような 「 論 」 に おきている 意味
( 論じられてはいない ・ 解きほぐされ る 必要性 )
“ 我が為 ” とは 我が発する処 での 重要性
( 五蘊 とは 積みシアルタ に
さらに 積み重ねる 「 識 」 でもある
“我” に 発する トラワレ・受想 そして「 業 」 )
話しても無駄 という
時にトラワレシ“時” に 起こされる 「 識 」
自分の知見 が 根拠とする 知見( 常住 の 知見 )
( 常住 に住む 常識 )
常にあるところ を 常に問う
( 「 精進 」 という キュウ 「 明 」 )
( 「 常 」 に 対しての 説「 論 」 は やみなん )
わたしが 積み残している こと は 論じられてはいないこと
( 積まず に 崩している こと )
これを読む人の為 に 働きを為す
読むひとの “ 一人二人 ”
人 独り が 知る 「 唯我 」 毒 損 ・ 読経 を 開く
( 大宋国の叢林 にも 一人を知る 二人の“目” が ある )
その 読む人( 「 我 」 )・わがため に
話を 違える 為がごとく 「 輪 」 に ついて 回る
“ 論 の 無価値 ” について 論じる 『中論頌』
誰であろうと 自己のこと を 「 我 」 と 呼ぶ
( ワレワレ とは 牟尼と我 との 対比に起きていること )
そこに起きている “ 割れ目 ” から 湧出する 「 菩薩 」
「 菩薩 」 も 「 牟尼 」 も ミズ 殻 ヲ ワレ ト ヨブ
( 「 真理 」 を 見ず に 菩提 は 発しない )
“ ワレ ” の “ メ ” は ( 「 湧出 」 とは )
何処に発し 何処へと 、、、、
・
それで、結局、あなたの意見は何ですか?
* ******************
読めない・読まない 人 に 綴る テキスト に
語る意味(意見)はない
その上で 綴る テキスト ( 読もうとする人 に 対しての 意味 )
* ******************
* 無駄なことを重ねる要はない *
> 自分の知見を持っていない人と話しても時間の無駄ですから。
通説 を 根拠に 意見を形成する人
その 意見 は 通説に過ぎない
それも一局
通説にこだわらない というところから 生れ出る
新たなる 局 面 ( 迷惑な 局面 )
( そうであって も “ シンセツ ”から 生れているかを 問う )
異説 に 意味がある のではなく
コンセツ 丁寧に 人の為( 自の為 )になることを 説 す
根拠 となる セツス ル トコロニ 起きている 「 恩徳 」
「 恩徳 」 を 知る者の 根拠から生まれ出る 「 トク 」
( 説く 徳 を 解く 言葉たち )
説くモノ( 五蘊 ) が 生きているのではなく
説く言葉(達) が 聞く者に 「 命 」 を はぐくむ
はぐくみつつ はげみつつ 「 命 」 の 大切さ を
命のない 言葉という
テキスト を 道具 として 用い
“ 価値 という アルタ ” を
テキスト から 解放する
( ことば の “意味・アルタ” は 用い方 から 生まれる )
問題が起きる のは “ 用い方 ” に ついて “も”
アルタ 自体 に トラワレ て しまうところ
( 糞掃衣 と 托鉢 とは ↓
「 捨離 」 であるが ここにおいて “アルタ” となる )
「 論 」 に 対する 論
( 経論 の ジナ・ジャイナ は 釈迦 に 張り合う )
このような 「 論 」 に おきている 意味
( 論じられてはいない ・ 解きほぐされ る 必要性 )
“ 我が為 ” とは 我が発する処 での 重要性
( 五蘊 とは 積みしアルタ に
さらに 積み重ねる 「 識 」 でもある
“我” に 発する トラワレ・受想 そして「 業 」 )
話しても無駄 という
時にトラワレシ“時” に 起こされる 「 識 」
自分の知見 が 根拠とする 知見( 常住 の 知見 )
( 常住 に住む 常識 )
常にあるところ を 常に問う
( 「 精進 」 という キュウ 「 明 」 )
( 「 常 」 に 対しての 説「 論 」 は やみなん )
わたしが 積み残している こと は 論じられてはいないこと
( 積まず に 崩している こと )
これを読む人の為 に 働きを為す
読むひとの “ 一人二人 ”
人 独り が 知る 「 唯我 」 毒 損 ・ 読経 を 開く
( 大宋国の叢林 にも 一人を知る 二人の“目” が ある )
その 読む人( 「 我 」 )・わがため に
話を 違える 為がごとく 「 輪 」 に ついて 回る
“ 論 の 無価値 ” について 論じる 『中論頌』
誰であろうと 自己のこと を 「 我 」 と 呼ぶ
( ワレワレ とは 牟尼と我 との 対比に起きていること )
そこに起きている “ 割れ目 ” から 湧出する「 菩薩 」
「 菩薩 」 も 「 牟尼 」 も ミズ 殻 ヲ ワレ ト ヨブ
( 「 真理 」 を 見ず に 菩提 は 発しない )
“ ワレ ” の “ メ ” は ( 「 湧出 」 とは )
何処に発し 何処へと 、、、、
・
仏教は、イスラム教に消滅させられヒンドゥー教に吸収された。
ジャイナ教は、イスラム教に消滅させられることもなくヒンドゥー教に吸収されなかった。
それは何故なのか。
これを考察したこともなく自分独自の意見もなく興味もない人が、いちいちいっちょかみするのはやめた方がいいですよ。
自分の意見をはっきりと言えるようになってからいっちょかみしてください。
> 自分の知見を持っていない人と話しても時間の無駄ですから。
であるなら
無意味 な 時間の無駄で ある 絡みは 止めなさい
知見のない人 と ある人 との間には 絡むところが ない
知見のある 人 であるなら 絡まずに 無駄を省きなさい
みずからのことは いっちょかみ ではなく
いっちょかみ に 噛みつくのも いっちょかみ ではない
知見の塊である 人 であるなら 知見を働かせなさい
絡んできているのはどちらですか?(笑)
君だよ !
まさかw
> まさかw
その まさか を 考えることが出来るように
書き込みを 為しているのですが
まさかw のまま で 考えようとしない人 の為には
なってはいない 書き込み ( その組み上げ )
ということは 意味を持たないということになる
意味 を 見出す 糸口 を 記す
絡んだ 意図 を 解していくの は 読む人の行
「 歩むのは あなた 」 なのです
読む人も あなた
あなた とは 我への呼びかけ
記す(読む人の) 行 とは 我の読むべき こと
繰り返し 繰り返し 読まなくてはならない
繰り返し 繰り返し 積んできている ことだから
繰り返し に 「 輪廻 」 と 「 精進 」
なっている ↓ 二つ の 意味がある
「 輪廻 」 とは 同じことを二度 繰り返すこと
「 精進 」 とは 繰り返さぬこと を ↑
(繰り返し) ↓ は
何度 繰り返して 読んでも 糸口にならぬこともある
何度 繰り返し 読んでも 糸口にならぬこと を 記す
記されていること を つんでいる(行く)こと で 読む
“あなた” と 呼びかけられる “わたし”
・
〉そのまさかを考えることができるように 書き込みを為している
春間さん。
あなたの、その「人に教えてやろう」という姿勢がおかしくて茶番なのです。
ここが春間さんのホームページで、人が春間さんに教えを請いたくて書き込みをしているのであれば、「人に教えてやろう」という姿勢を取ってもいいですが、
ここはあなたのホームページではありません。
もし、誰か、春間さんに教えを請いたいと思う人がいれば、ここが完全閉鎖になると決まったときに、「春間さん、自分でホームページを作って続けてください」と言う人が一人でもいるはずです。
もしあなたの教えを求める人がいれば、その人に「教えてやろう」とレスすればいいのです。
私はあなたの書き込みには全く意味を見い出さないので、私のコメントには絡んでこないでほしいのです。
最初から何十回も言っていることですが。
*
あなたが 絡むのを止めれば 良いことです
あなたは あなたにできること を あなた自身に対して
すればよい
自分の書き込みに 絡まれたくなければ
他人に対して 絡む事を止めなさい
( 己の欲せざること 他人に施すことなかれ )
教えられたくなければ
教えることを止めなさい
あなたにできること は 自分の軍隊の 向きを変えること です
( わたしの書き込み は すべて 仏典に則ったこと です )
( それが分かる か どうかは 読まなければならないけれど )
わたしの書き込み に 意味 を 見出さないのなら
わたしの書き込み を 取り上げる 意味もない
取り上げて なんとか止めようとする 必要もない
他人が( 他のROMが ) 書き込みに対して
どのように思うか ということは あなたの範疇ではない
あなたが わたしを否定しようとすること が 許されのなら
わたしが あなたについて 問題点を指摘する こと も 許される
あなたが 自身の 問題点に目をつぶること も あなたの自由にある
ここは あなたのブログではなく
あなたの 意のまま に なる ブログ というわけでもない
わたしが このブログに於いて
どこに どのように 書き込むか を “判じ”
許す かは 管理人エム様の範疇(権限)
わたしが 何処のブログに書き込むのが 最上かを
許す ・ 判じて正しいと決定する のは
あなたではないない( が 判じるのは 自由 )
あなたは わたしに 教えを 求めず
わたしに 教えを 与える
なにが最上であるか を 諭す
わたしは あなたの(ここへの)書き込みに 意味を見出す
ゆえに 見出したことに対して(ここへ) 書き込む
あなたは
意味を見出さない にも拘らず 意味を与えようと書き込む
( あなたにとって それは 意味のあること )
書き込まなければならない 意味の起こる
あなた自身の事について 書き込みなさい
邪魔にする 意味 を 考えなさい !
あなたが 嫌だと思うこと ( 嫌な書き込み )
は あなたにとって 最上のことの裏付けに起きる
・
それでは、これからもお好きなように、
自分の意見は言わずに絡みたいだけ絡んでいけばいいでしょう。
レスしたいのであれば、自分の意見ははっきりと言うべきですが。
自分の意見を言わずにただ絡みたいだけ、自分が教える立場で言いたいだけでしたら
意味がないと私は思っていますので、これで打ち切ります。
それでは。
余計なお世話ですが、
わかっていないようですね
どうしても 気になってしまう
理由を考えましょう ネ
ノ´⌒ヽ,,
γ⌒´ ヽ,
// “”⌒⌒\ )
i /::::::: _,. 、,_ヽ )
!:::::::::::(・ )` ´( ・) i/
|:::::::::::::::(__人_) | 争え
(ヽ、__\ `ー’ ノ ,-、 もっと争え
) ノ/`’ー-‘ <
r'/, _.. // l、、、ヽ_)
杉本四葉だとエラーになりますな
http://aa.en.utf8art.com/node/13722/txtcaa
*
> 争え
> もっと争え
あなたは ここでの出来事 を 争い と 判断する
争い とは “ 双方によって 起きること ”
あなた と ショーシャンクさん との間に それは起きる?
( それとも あなたは わたしと 争いたい ? )
わたしは 争わないない
( あなたが 争い とすること に対し わたしは 争わない )
あなたには ココ に 争いがある
個々 とは あなた と 誰かとの間に起きていること
ココ の 書き込みに対して
あなたは あなたの経験上 に基づき 争いとする
( あなたの経験には
争いごとが さぞ 多いことと 想像する )
・