水仙

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全国的には遅い春が我が家にもやってきました。

水仙が咲いていくらか華やいだ感じになってきました。クロッカスは終わってしまって葉だけになっています。

『中部』第22経『蛇喩経』は、何度も読んでいたのにきちんと訳をつけていなかったことが分かりました。教えを誤って理解したアリッタ比丘。

かれには、「障害になる法は障害になる」という教え(法)がブッダから与えられます。信勤念定慧という五根五力を用いて身につけていくように、と言われているのです。

そうは書いてないんだけど、智慧によって考察しないと不利益になる、と教えられているのに、そこを理解しないのです。

実は大きな罠があるのです。ブッダの教えは九分法という教え方によって教えられています。

スッタ(経)、ゲイヤ(重頌)、ヴェイヤーカラナ(記答)、ガーター(偈)、ウダーナ(感興偈)、イティヴッタカ(如是語)、ヴェーダッラ(教理問答)、アッブタダンマ(未曾有法)

九分法といわれる形式が、ブッダの口から教えられ、目的を違えるとトンデモないことが起きるとおどされることになるのです。

最初は、誰でもアリッタのようになるのです。それだけ、ブッダの法がすばらしいからです。これを知っていれば、相手に「勝てる」「優位にたてる」「非難されてもかわせる」と誰でも、欲を出すのです。

欲をなくすための教えの中で欲を出すとどうなるか。

自分の欲のために障害となって、自身がそこなわれるのです。

自身?自身はないんじゃなかったの?

ないはずの自身をもつことが「執着・取著」と言われ、ないはずの自分自身をそこなっていくのです。

いや、「五蘊はわたしではない」というようには言ったけど「自身はない」とは言わなかった、とこだわる人は、どこかに「自己自身」を隠し持っているのです。隠し持つので、欲を出しながら、ブッダの法を得て利用して賢者ぶって暮らそうと、浅知恵を働かすのです。

そんなことしてもダメだよ、とブッダは教えます。法は一度教えられたら、五根五力を用いて、信勤年定慧の順序で自分で開発しないと何の意味もないんだ、と教えられるのです。

ブッダの法を受け取るのが「信」、次にそれを身につけるべく精進するのが「勤」、そしてそれを憶えておいて実践するのが「念」、そこから注意深く気づいていくのが「定(精神集中)」、そして、最後に、応用できる智慧が出てくる「慧」。

実践的にやっているとき、無我なのです。われをわすれてやっている。順序は、その時々で飛んだり省略したりもあるだろう。

自分というのがあるようなないような、そんな気持になるだろう。

自己を離れて近づかないとき、「無我」なのです。

仏道をならふというふは、自己をならふ也。自己をならふというふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。(「現成公案」)

道元は「わするるなり」って言っている。

コメント

  1.  春間 則廣  より:

        ************

    ブッダは、「五蘊はわたしではない」 というようには言ったけど   
          「自身はない」  とは言わなかった、
      とこだわる人は、  どこかに「自己自身」を隠し持っている  
                  隠し持つ「自己自身」で、
      欲を出しながら、ブッダの法を得て利用して
                賢者ぶって暮らそうと、浅知恵を働かすのです。

    ブッダは、 そのように していては ダメ だと 教えます

     「 法 」 は、そのように、 教えられ、
             そのように、 教えを 承ける 人は、
       信勤念定慧 を もって、  五根五力を用いて、
          自分で開発し、
      そこに 意味がある と、   知ることができます。
       「 信 」 をもって     「慧」 「定」 「 念 」 「勤」 を 持つ
      日々の実践として  それを  「行」ずるとき 「 無我 」 なのです  
         このようにして    承けたこと は  受け継がれていきます

     自己を離れて、 しかも  「 即近 」にある自己 と 共にある。
                     そのようなこと が 「無我」なのです。

       < 現成公案 >
    「 仏道をならふというふは、自己をならふ也。自己をならふというふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」

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