『マッジマ・ニカーヤ 』第22経「蛇喩経」(PTS Text, pp.130-142)
第22経「蛇喩経」 【アリッタ比丘】 このように、わたしは聞きました。―― あるとき尊師はサーヴァッティーのジェータ太子の林にある給孤独長者の園に滞在していました。その時、以前鷹匠だったアリッタという名の比丘に、次のような悪い見解が起こっていました。―― 「尊師によって障害であると言われた諸々のものごとは、行うとしても障害にはなるとは限らないと、そのように、わたしは尊師によって説かれた法を理解している」と。 多くの比丘たちが聞きました。―― 「以前鷹匠をやっていたアリッタという比丘には、このような悪い考えがおこるようになってしまった。―― すなわち『尊師によって障害であると言われた諸々のものごとは、行うとしても必ずしも障害にはならないと、そのように、尊師によって説かれた法をわたしは理解している』」と。 そこで、彼ら比丘たちは、以前鷹匠をやっていたアリッタという比丘のところに行きました。行って、以前鷹匠をやっていたアリッタという比丘に、このように言いました。―― 「友、アリッタよ、次のような悪い考えが起こるようになったというのは本当ですか。 ―― 『尊師によって障害であると言われた諸々のものごとは、行うとしても、必ずしも障害になるとは限らない』」と。 「まったくそのとおりです。友よ、わたしは、尊師によって障害となると言われた諸法を行っても、必ずしも障害にならないと、このように、尊師によって教えられた諸法を理解しています」と。 そこで、かれら比丘たちは、以前鷹匠だったアリッタ比丘を、この悪しき見解から遠離させようとして、問いただし理由を聞き教え諭しました。―― 「そう言ってはいけません、友アリッタよ、尊師を誹謗してはなりません。尊師を誹謗するのはよくありません。 なぜなら、尊師はこのようなことを言うはずがないからです。友アリッタよ、数多くの方法で、尊師により、障害となる諸法は障害となるといわれたのです。また、あなたが行うならば、当然障害になります。 欲望は喜びが少なく、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、尊師によって言われました。 欲望は、骸骨のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、肉塊のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、枯れ草のたいまつのようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、夢のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、借り物のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、樹果のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、屠殺場のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、剣戟のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、蛇の頭のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 このように、以前鷹匠だったアリッタという比丘は、比丘たちによって問いただされ、理由を聞かれ教え諭されていたのですが、その悪しき見解に執拗にとらわれて執着して言いました。―― 「全くそのとおりです。わたしは、尊師によって障害となると言われた諸法を行っても必ずしも障害になるとは限らないと、尊師によって説かれた法を理解しています」と。 比丘たちは、以前鷹匠だったアリッタという比丘を、この悪しき見解から遠離させることができませんでした。そこで、比丘たちは、尊師のところに赴きました。近づいて尊師に敬礼して一方の隅に坐りました。一方の隅に坐って、比丘たちは尊師にこのように言いました。―― 「尊師よ、以前鷹匠だったアリッタという比丘に次のような悪しき見解が起こりました。― 『これら尊師によって障害となると言われた法を行っても必ずしも障害とはならないとわたしは尊師によって言われた法を理解しています』」と。 そこで、わたしたちは、尊師よ、以前鷹匠だったアリッタという比丘のところに行きました。行って、以前鷹匠だったアリッタという比丘にこのように言いました。―― 「友アリッタよ、次のような悪しき見解が起こったというのは本当ですか?――『尊師によって障害となると言われた法を行っても必ずしも障害になるとは限らないと、このように尊師によって説かれた法をわたしは理解しています』」と。 このように言われて、尊師よ、以前鷹匠だったアリッタという比丘はわたしたちにこのように言いました。―― 「全くそのとおりです。『尊師によって障害となると言われた法を行っても必ずしも障害になるとは限らないと、このように尊師によって説かれた法をわたしは理解しています』」と そこで、わたしたちは、尊師よ、以前鷹匠だったアリッタという比丘に、この悪しき見解から遠離させようとして、問いただし、理由を聞いて教えさとしました。―― 「友アリッタよ、そのようなことを言ってはなりません。尊師を誹謗してはなりません。尊師を誹謗することはよいことではありません。なぜなら、尊師はそのようなことを言うはずがないからです。 友アリッタよ、数多くのやり方で、障害となる諸法は障害となると尊師によって言われました。当然それらを行うなら障害となるでしょう。 欲望は喜びが少なく、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、尊師によって言われました。 欲望は、骸骨のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、肉塊のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、枯れ草のたいまつのようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、夢のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、借り物のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、樹果のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、屠殺場のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、剣戟のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、蛇の頭のようであり※、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 尊師よ、わたしたちは、以前鷹匠だったアリッタという比丘に、この悪しき見解から遠離させることができませんでした。そこで、わたしたちは、尊師にこのことをお話ししているのです」と。 ※蛇の頭については、『スッタニパータ』768にも言及がある。 そこで尊師は、或る比丘に呼びかけました。―― 「比丘よ、あなたは行って、わたしのことばによって以前鷹匠だったアリッタという比丘に話しかけなさい。―― 『友アリッタよ、師があなたを呼んでいます』」と。 「かしこまりました」と。 そこで比丘は尊師に応諾して、以前鷹匠だったアリッタという比丘のところに行きました。行って、以前鷹匠をやっていたアリッタという比丘に、このように言いました。―― 「友アリッタよ、師があなたをお呼びです」と。「分かりました」と、以前鷹匠だったアリッタという比丘は、その比丘に応諾して尊師のところに行きました。尊師のところに行って、礼拝して、一方の隅に坐りました。 一方の隅に坐った以前鷹匠だったアリッタという比丘に、尊師はこのように言いました。―― 「アリッタよ、あなたに次のような悪しき見解が生じたというのは本当ですか?―― 『尊師によって障害となると言われた法を行ったとしても、必ずしも障害になるとは限らないと、わたしは尊師によって説かれた法を理解しています』」と。 「全くそのとおりです。尊師よ、わたしは尊師によって説かれた法を次のように理解しています。―― 『これら障害となると尊師によって説かれた法を行っても必ずしも障害となるとは限らない』」と。 「愚かな子よ、あなたはどうしてわたしの説いた法をそのように理解するのですか?愚かな子よ、わたしによって数多くの方法で障害となると説かれた法は障害となるといわれたのではないですか? そして、当然それらを行えば障害になっていくのではないですか? 欲望は喜びが少なく、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、わたしによって言われました。 欲望は、骸骨のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、肉塊のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、枯れ草のたいまつのようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 。 欲望は、夢のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、借り物のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、樹果のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、屠殺場のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、剣戟のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、蛇の頭のようであり、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、わたしによって言われました。 そうであるのに、おまえは、愚かな子よ、自分(アッタン)の誤解によって、わたしたちを誹謗しています。そして、自分を破壊し、福ならざるものを生み出しています。だから、長夜にわたり、かの愚かな子にとって不利益となり苦しみとなるでしょう」と。 さて、尊師は比丘たちに呼びかけました。―― 「比丘たちよ、このことをどう思うでしょうか?以前鷹匠だったアリッタという比丘は。この法と律において熱くなれる者(=理解できる者)ではないのでしょうか?」 「どうしてそうあるでしょうか、尊師よ。全くそれはありません」と。 こう言われたとき、以前鷹匠だったアリッタ比丘は、沈黙してしまい、赤面し落胆してうつむいてうちひしがれて応弁できずに坐っていました。 そこで尊師は以前鷹匠だったアリッタ比丘がリッタ比丘は、沈黙してしまい、赤面し落胆してうつむいてうちひしがれて応弁できずに坐っているのをみて、以前鷹匠だったアリッタ比丘にこう言いました。―― 「おまえは、この自らの悪しき見解によって(そのように)認められるでしょう、愚かな子よ。そこで、わたしは比丘たちに反問してみましょう」と。 さて、尊師は比丘たちに呼びかけました。―― 「あなたたちもまた、かの以前鷹匠だったアリッタ比丘が自ら誤解してわたしたちを誹謗し、自らを破壊し、多くの福ならざることを生じたように、同じように、わたしによって説かれた法を理解しているのでしょうか?」 「いいえ、そうではありません、尊師よ、いいえ、そうではありません、尊師よ。尊師により数多くの方法で、障害である法は障害であると説かれました。それらを行うならば当然障害となるでしょう。 欲望は喜びが少なく、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、尊師によって言われました。 欲望は、骸骨のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、肉塊のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、枯れ草のたいまつのようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、夢のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、借り物のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、樹果のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、屠殺場のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、剣戟のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、尊師によって言われました。 欲望は、蛇の頭のようであり、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、尊師によって言われました」と。 「よろしい、比丘たちよ、よろしい、あなたたち比丘らはわたしによってこのように説かれたと理解しなさい。数多くの仕方で、あなたたち比丘らには、障害である法がわたしによって説かれました。当然、それらを行うならば障害となるでしょう。 欲望は喜びが少なく、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、わたしによって言われました。 欲望は、骸骨のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、肉塊のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、枯れ草のたいまつのようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、夢のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、借り物のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、樹果のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、屠殺場のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、剣戟のようであり、(多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多い)と、わたしによって言われました。 欲望は、蛇の頭のようであり、多くの苦しみや多くの悩みがあり、そこには危難がより多いと、わたしによって言われました。 さて、以前鷹匠だったアリッタという比丘は自らの誤解によってわたしたちを誹謗しています。そしてみずからを破壊し、多くの福ならざることを生み出しています。これは、長夜にわたり、かの愚かな子にとっては不利益となり苦しみとなっていくでしょう。比丘たちよ、彼は、欲以外のところで、欲の想以外のところで、欲の思慮以外のところで諸欲を受けることはないでしょう。―― そのような理屈はないのです。 【九分教】 比丘たちよ、或る愚か者の一群が法を学んでいます。―― 「スッタ(経)、ゲイヤ(重頌)、ヴェッヤーカラナ(記答)、ガーター(偈)、ウダーナ(感興偈)、イティヴッタカ(如是語)、ジャータカ(本生話)、アッブタダンマ(未曾有法)、ヴェーダッラ(教理問答)です。 彼らはその法を学びますが、それらの法について智慧によって意義を考察しないのです。彼らはそれらの法を智慧によって意義を考察せず、深い思索を許容しないのです。彼らは(相手を)非難するのに役に立つのでただ法を学ぶのです。また議論を逃れるのに役に立つのでただ法を学ぶのです。法を学ぶ目的、それを体験しないのです。それらの誤解された法は、長夜にわたり、不利益に、そして、苦しみに変易していくでしょう。 【毒蛇の喩え】 比丘たちよ、一人の人が毒蛇を求めて探し回ってあちこちに尋ね求めて歩き回っているとしましょう。かれは、大きな毒蛇を見つけて、ただちにとぐろや尾を捕らえたとしましょう。 その蛇はかれの腕や臂や他の部分を噛むでしょう。そのため、かれは死に至るか、あるいは死に等しい苦しみにいたるでしょう。どうしてなのかというならば、比丘たちよ、(それは)毒蛇を誤ってとらえたことによるのです。 比丘たちよ、このように、ここで、愚か者の一群は法を学ぶのです。―― スッタ(経)、ヴェッヤーカラナ(記答)、ガーター(偈)、ウダーナ(感興偈)、イティヴッタカ(如是語)、ジャータカ(本生話)、アッブタダンマ(未曾有法)、ヴェーダッラ(教理問答)です。 彼らはこの法を学ぶのですが、これらの法を智慧によって意味を考察しないのです。彼らはそれらの法を智慧によって意義を考察せず、深い思索を許容しないのです。彼らは(相手を)非難するのに役に立つのでただ法を学ぶのです。また議論を逃れるのに役に立つのでただ法を学ぶのです。法を学ぶ目的、それを体験しないのです。 それらの誤解された法は、長夜にわたり、不利益に、そして、苦しみに変易していくでしょう。 比丘たちよ、さて、或る一群の良家の子たちが法を学んでいます、―― スッタ(経)、ゲイッヤ(重頌)、ヴェッヤーカラナ(記答)、ガーター(偈)、ウダーナ(感興偈)、イティヴッタカ’(如是語)、ジャータカ(本生話)、アッブタダンマ(未曾有法)、ヴェーダッラ(教理問答)です。 彼らは、この法を学んで、これらの法を智慧によって意味を考察します。彼らはこの法を学ぶのですが、これらの法を智慧によって意味を考察するのです。彼らはそれらの法を智慧によって意義を考察し、深い思索を許容するのです。彼らは(相手を)非難するのに役に立つので法を学ぶのではありません。また議論を逃れるのに役に立つのでただ法を学ぶのではありません。法を学ぶ意味、それを体験するのです。彼らにとって、それらの法はよく捉えられており、長夜にわたり利益となり安楽へと導くのです。それはどうしてかと言えば、比丘たちよ、(それは)法がよく捉えられたことによるのです。 比丘たちよ、たとえば、一人の人が毒蛇を求めて探し回ってあちこちに尋ね求めて歩き回っているとしましょう。かれは、大きな毒蛇を見つけて、ただちに山羊の足の形の棒(=三叉の棒)でよく押さえつけて押さえこんだとしましょう。山羊の足の形の棒でよく押さえこんで、首のところでよく押さえこんで捕らえたとしましょう。比丘たちよ、たとえ、その毒蛇がその人の腕や臂やその他の部分をとぐろを巻いて囲むとしましょう。 そのために、かれは死に至ることはなく、あるいは死に等しい苦しみにいたることもないでしょう。どうしてなのかというならば、比丘たちよ、(それは)毒蛇をよくとらえたことによるのです。 同じように、比丘たちよ、ここに良家の子たちが法を学んでいます。―― スッタ(経)、ゲイッヤ(重頌)、ヴェッヤーカラナ(記答)、ガーター(偈)、ウダーナ(感興偈)、イティヴッタカ(如是語)、ジャータカ(本生話)、アッブタダンマ(未曾有法)、ヴェーダッラ(教理問答)です。 彼らはこの法を学んで、これらの法を智慧によってその意味を考察します。彼らはそれらの法を智慧によって意義を考察し、深い思索を許容するのです。彼らは(相手を)非難するのに役に立つので法を学ぶのではありません。また議論を逃れるのに役に立つのでただ法を学ぶのではありません。法を学ぶ意味、それを体験するのです。彼らにとって、それらの法はよく捉えられており、長夜にわたり利益となり安楽へと導くのです.それはどうしてかと言えば、比丘たちよ、(それは)法がよく捉えられたことによるのです。比丘たちよ、それ故に、ここで、わたしによって語られたことの意味をよく知りなさい。そうすれば、それを憶持しておけるでしょう。わたしによって語られたことの意味がよくわからないならば、わたしはあなたたちによって質問されねばならないのです。あるいは、聡明な比丘たちは(質問されねばならないのです。) 【筏の喩え】 「比丘たちよ、わたしはあなたたちに筏の喩えという法を説きましょう。(それは)渡るためであって、執っておくためではないのです。それを聞きなさい。そして十分に注意しなさい。では、話しましょう」と。 「かしこまりました、尊師よ」と、彼ら比丘たちは答えました。 尊師は、次のように言いました。―― 「比丘たちよ、たとえば、ある人が旅路を行くとしましょう。彼は、大きな水流を見たとしましょう。こちらの岸は、心配なところがあり恐ろしいけれど、あちらの岸は安穏で恐ろしいところはありません。しかし、彼には、こちらからあちらに渡るための渡し船もなく橋もありません。 そこで、彼はこのように思います。―― 『これは大きな水流です。こちらの岸は、心配で恐ろしく、あちらの岸は安穏で恐ろしくはありません。しかし、こちらの岸からあちらに渡るための渡し船もなく橋もありません。草や木切れや枝や木の葉を集めて、筏を結んで、その筏によって手や足を駆使して無事に彼岸に渡りましょう』と。 そこで、彼の人は、比丘たちよ、草や木切れや枝や葉を集めて、筏を結び、筏をよりどころにして手や足を駆使して、無事に彼岸に渡るとしましょう。その人は、彼岸に渡り終えてこのように思うでしょう。―― 『この筏は大変わたしの助けになった。私はこの筏を頼りにして手と足を駆使して無事彼岸に渡った。わたしはこの筏を頭に乗せて、あるいは肩に担いで、望むところに出発するとしよう』と。 これをどう思うでしょうか、比丘たちよ。このようにする人は、この筏に対してなすべきことをなしているのでしょうか?」と。 「いいえ、尊師よ」 「では、比丘たちよ、この筏に対してなすべきことをなしているとすれば、どのようになせばよいのでしょうか。比丘たちよ、ここで、彼岸に渡ったかの人が、このように考えるとしましょう。―― 『この筏は大変わたしの助けになった。私はこの筏を頼りにして手と足を駆使して無事彼岸に渡った。わたしは、この筏を陸に引き上げるか、あるいは水の中に沈めて望むところに出発するとしよう』と。 このように行うならば、比丘たちよ、この人はこの筏に対してなすべきことをなしています。比丘たちよ、このように筏の喩えはわたしによって説かれた法なのです、渡るために説かれたのであって、執っておくために説かれたのではありません。 比丘たちよ、筏の喩えはあなたたちのために説かれた法であります。あなたたちがよく理解しているならば、法ですら捨てねばならないのであるから、いわんや、非法(法ならざるもの)ならばなおさら捨てねばならないのです。 【六つのものの見方】 「比丘たちよ、これら六つのものの見方があります。六つとは何でしょうか。比丘たちよ、ここで、(教えを)聞いたことがない凡夫は、聖者を見ることなく、聖なる法を熟知せず、聖なる法において教えられることがなく、善い人々を見ることなく、善い人々の法を熟知せず、善い人々の法において教えられることがないのです。そして、色かたち(色)を「これはわたしのものだ」「これはわたしである」「これはわたしの本体(アッタン)である」とみなすのです。 感受作用(受)を「これはわたしのものだ」「これはわたしである」「これはわたしの本体(アッタン)である」とみなすのです。 表象作用(想)を「これはわたしのものだ」「これはわたしである」「これはわたしの本体(アッタン)である」とみなすのです。 形成作用(諸行)を「これはわたしのものだ」「これはわたしである」「これはわたしの本体(アッタン)である」とみなすのです。何であれ、見られたもの、聞かれたもの、考えられたもの、知られたもの、獲得されたもの、求められたもの、心によって思惟されたものを「これはわたしのものである」「これはわたしである」「これはわたしの本体(アッタン)である」とみなすのです。 また、何であれ見解の根拠となっているものがあります―― 「かれは世界である」「かれは自己である」「かれは死後も存在するだろう」「常住で堅固で永遠で不変な法である」「永久にいつまでも存続するだろう」―― これもまた「これはわたしのものである」「これはわたしである」「これはわたしの本体(アッタン)である」とみなすのです。何であれ、見られたもの、聞かれたもの、考えられたもの、知られたもの、獲得されたもの、求められたもの、心によって思惟されたものを「これはわたしのものである」「これはわたしである」「これはわたしの本体である」とみなすのです。 比丘たちよ、(教えを)よく聞く聖なる仏弟子は、聖者を見たことがあり、聖なる法を熟知して、聖なる法によく導かれ、また善い人々の法を熟知し、善い人々の法によく導かれます。色かたち(色)を「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これは、わたしの本体(アッタン)ではない」とみなします。 感受作用(受)を「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体(アッタン)ではない」とみなすのです。 表象作用(想)を「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体(アッタン)ではない」とみなすのです。 形成作用(諸行)を「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体(アッタン)ではない」とみなすのです。また、何であれ見解の根拠となっているものがあります―― 「かれは世界である」「かれは自己である」「かれは死後も存在するだろう」「常住で堅固で永遠で不変な法である」「永久にいつまでも存続するだろう」―― これもまた「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体(アッタン)ではない」とみなすのです。何であれ、見られたもの、聞かれたもの、考えられたもの、知られたもの、獲得されたもの、求められたもの、心によって思惟されたものを「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体(アッタン)ではない」とみなすのです。 また、何であれ見解の根拠となっているものがあります―― 「かれは世界である」「かれは自己である」「かれは死後も存在するだろう」「常住で堅固で永遠で不変な法である」「永久にいつまでも存続するだろう」―― これもまた「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体ではない」とみなすのです。何であれ、見られたもの、聞かれたもの、考えられたもの、知られたもの、獲得されたもの、求められたもの、心によって思惟されたものを「これはわたしのものではない」「これはわたしではない」「これはわたしの本体(アッタン)ではない」とみなすのです。 このように彼が見ているとき彼は恐れることがありません。 このように言われて、或る比丘が尊師にこのように言いました。―― 「尊師よ、外にないとき恐れることはあるでしょうか」 「あるでしょう、比丘よ」―― 尊師は答えました。 「ここで、比丘よ、或る人がこのように考えます。――『それは実にわたしのものだったが、今やわたしのものではない、それはわたしのものだろうが、実に、それをわたしは手に入れていない』と。彼は悲しみ、疲れ、嘆き、胸を打って悲泣し、迷妄に至ります。このように、比丘よ、外にないとき恐れがあります」と。 「では、尊師よ、外にないとき恐れのないことはあるでしょうか?」 「あるでしょう、比丘よ」――と、尊師は答えました。 「ここで、比丘よ、或る人がいて、このようには考えません。――『かつてわたしのものだったが、それは実にわたしのものではない、わたしのものになるはずなのに、それをわたしは得ていない』と。彼は悲しまず、疲れず、嘆くこともせず胸を打って悲泣することもありません。さらに迷妄に至ることもありません。比丘よ、このように外にないとしても、恐れることがないということはあります」と。 「では、尊師よ、内にないとき恐れることはあるでしょうか?」 「あるでしょう、比丘よ」――尊師はいいました。 「ここで、比丘よ、ここにある人がいて、このように考えます。――『かれは世界である。かれは自己である。かれは死後も存在するだろう。常住で堅固で永遠で不変な法である。そのとおりに、永久にいつまでも存続するだろう』と。 一切に関して、見解の立場の根拠や束縛やその執着の潜在を根絶させるために、一切の行(意志)を抑止するために、一切の基礎を捨て去るために、渇愛を滅尽するために、離欲のために、止滅のために、涅槃のために、如来が、あるいは、如来の弟子が法を説いているのを、彼は聞きます。そして、このように思うのです。―― 「わたしは破壊されてしまうか、また、消えてしまうか、いなくなってしまうだろう」と。彼は悲しみ、疲れ、嘆き、胸を打って悲泣し、迷妄に至ります。このように、比丘よ、内にないとき恐れがあります」と。 「では、尊師よ、内にないとき恐れのないことがあるでしょうか?」と。 「あるでしょう、比丘よ」と尊師は言いました。 「ここで、比丘よ、ある人には次のような見解はありません。――『かれは世界です、かれは自己です、かれは死後も存在するでしょう、常住で堅固で永遠で変異しない法なのです。そのとおりに、永久にいつまでも存続するでしょう』と。 一切に関して、見解の立場やその根拠や束縛やその執着の潜在を根絶させるために、一切の行(意志)を抑止するために、一切の基礎を捨て去るために、渇愛を滅尽するために、離欲のために、止滅のために、涅槃のために、如来が、あるいは、如来の弟子が法を説いているのを、彼は聞きます。そして、このように思うことはないのです。――『わたしは破壊されてしまうか、また、消えてしまうか、いなくなってしまうだろう』と。 彼は悲しむことなく、疲れ、嘆くことなく、胸を打って悲泣することなく、迷妄に至ることもありません。このように、比丘よ、内にないとき恐れることはありません」と。 「比丘たちよ、財産で、常住であり堅固であり永遠であって変易しない法であり、永久にいつまでも存続するような、そのような財産を摂受することがあるでしょうか。比丘たちよ、財産で、常住であり堅固であり永遠であって変易しない法であり、永久にいつまでも存続するような、そのような財産をあなたたちは見るでしょうか、どうでしょうか?」 「いいえ、全く見ません、尊師よ」 「よろしい、比丘たちよ、わたしも、また財産で、常住であり堅固であり永遠であって変易しない法であり、永久にいつまでも存続するような、そのような財産を認めることはありません。 比丘たちよ、自己に関する議論に対する執着であって、自己論の執着にとらわれている者に、愁い・悲しみ・苦しみ・憂悩・悩みが生じないような、そのような自己の議論に対する執着を頼りにすることはあるでしょうか。 比丘たちよ、あなたたちは、自己に関する議論への執着を頼りにする者であって、愁い・悲しみ・苦しみ・憂悩・悩みが生じないような、そのような自己に関する議論への執着を見るでしょうか、どうでしょうか?」 「全く見ません、尊師よ」 「よろしい、わたしもまた、自己に関する議論への執着を頼りにする者であって、愁い・悲しみ・苦しみ・憂悩・悩みを生じないような、そのような自己に関する議論への執着を認めることはありません。 . 比丘たちよ、見解へのよりどころであって、見解へのよりどころによる者で、愁い・悲しみ・苦しみ・憂悩・悩みを生じないような、そのような見解をよりどころにすることによることはあるでしょうか? 比丘たちよ、あなたたちは、見解をよりどころとすることによる者で、愁い・悲しみ・苦しみ・憂悩・悩みを生じないような、そのような見解をよりどころにすることを見るでしょうか?」 「全く見ません、尊師よ」 「よろしい、わたしもまた、比丘たちよ、見解をよりどころにすることを頼りにする者で、愁い・悲しみ・苦しみ・憂悩・悩みを生じないような、そのような見解をよりどころにすることを認めることはありません。 「比丘たちよ、自己があるとき、わたしにとって、自己のものはあるでしょうか?」 「あります、尊師よ」 「比丘たちよ、自己のものがあるとき、わたしにとって、自己はあるでしょうか?」 「あります、尊師よ」 「比丘たちよ、自己と自己のものが真実に実際に認められない時、見解の根拠、すなわち――『かれは世界である、かれは自己である、かの(わたしは)死後も、常住であり、堅固であり、永遠であり、変易しない法である、いつまでも永遠にこのように存続するだろう』という、この、見解の根拠は、独存しておらず、完成されてはおらず、愚かな法ではないでしょうか?」 「全くそうです、尊師よ、独存しておらず完成されておらず、愚かな法であります」 「比丘たちよ、このことをどう思うでしょうか、色かたち(色)は常住でしょうか、無常でしょうか?」 「無常です、尊師よ」 「無常なものは苦しみでしょうか、安楽でしょうか?」 「苦しみです、尊師よ」 「無常で苦しみで変易する法を、――『これはわたしのものだ』『これはわたしである』『これはわたしの本体である』とするのは適切でしょうか?」 「いいえ、適切ではありません、尊師よ」 「では、比丘たちよ、これをどう思うでしょうか、感受作用(受)は… 表象作用(想)は… 形成作用(諸行)は… 識別作用(識)は常住でしょうか、無常でしょうか?」 「無常です、尊師よ」 「無常であるものは、苦しみでしょうか、安楽でしょうか?」 「苦しみです、尊師よ」 「無常であって、苦しみであり、変易する法を、――『これはわたしのものである』『これはわたしである』『これはわたしの本体である』と認めるのは適切でしょうか?」 「いいえ、尊師よ」 「それ故に、比丘たちよ、およそどんな色かたちであっても、過去であれ未来であれ現在であれ、内的であれ外的であれ、粗大であれ微細であれ、劣ったものであれ殊勝なものであれ、近くても遠くても、一切の色かたちを『これはわたしのものではない』『これはわたしではない』『これはわたしの本体ではない』と、このようにあるがままに正しい智慧によって見なければなりません。 およそどんな感受作用(受)であっても…、 およそどんな表象作用(想)であっても…、 およそどんな形成作用(諸行)であっても…、 およそどんな識別作用(識)であっても、過去であれ未来であれ現在であれ、内的であれ外的であれ、粗大であれ微細であれ、劣ったものであれ殊勝なものであれ、近くても遠くても、一切の色かたちを『これはわたしのものではない』『これはわたしではない』『これはわたしの本体ではない』と、このようにあるがままに正しい智慧によって見なければなりません。 「比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる仏弟子は色かたち(色)において厭離します、感受作用(受)において厭離します。表象作用(想)について厭離します。形成作用(諸行)について厭離します。識別作用(識)について厭離します。厭離しているものは離貪します。離貪するから解脱します。解脱したとき、解脱したという知識があるのです、すなわち『滅尽したのは生まれることである。完成したのは清浄行である。為したのは為すべきことである。さらにこの状態に戻ることはない』と知るのです。かの比丘は、比丘たちよ、障碍をを取り除いた者ともいわれ、濠を埋めた者とも言われ、柱を引き抜いた者、閂を外した者ともいわれます。聖なる者、旗をおろした者、荷をおろした者、軛をはずした者とも言われます。 比丘たちよ、どうして障碍を取り除いた者であるのでしょうか?比丘たちよ、ここで、この比丘の無明は捨てられています。根が断たれ、基礎をなくされたターラ樹のようにされ、存在しないものとされ未来に生じない法となります。このように、比丘は障碍を取り除いた者となるのです。 比丘たちよ、どうして比丘は濠を埋めた者であるのでしょうか?比丘たちよ、ここで、比丘は、再生する存在である<生まれること(生)>という輪廻を捨てているのです。根が断たれ、基礎をなくされたターラ樹のようにされ、存在しないものとされ未来に生じない法となります。このように、比丘は濠を埋めた者であるのです。 比丘たちよ、どうして比丘は柱を抜いた者となるのでしょうか? 比丘たちよ、ここで比丘の渇愛は捨てられています。根が断たれ、基礎をなくされたターラ樹のようにされ、存在しないものとされ未来に生じない法となります。比丘たちよ、このように、比丘は柱を抜いた者となるのです。 比丘たちよ、どうして比丘は閂を外した者となるのでしょうか? 比丘たちよ、ここで比丘の五下分結※は捨てられています。根が断たれ、基礎をなくされたターラ樹のようにされ、存在しないものとされ未来に生じない法となります。比丘たちよ、このように、比丘は閂を外した者となるのです。 ※五下分結:有身見(身体が有るという見解)、戒禁取(戒律への執着)、疑い(教えに対する疑い)、欲愛(むさぼり)、瞋恚(いかり)の五つ。下の界である欲界に結びつける煩悩をこのようにいう。 比丘たちよ、どうして比丘は、聖なる者、旗を下ろした者、重荷を下ろした者となるのでしょうか? 比丘たちよ、ここで、比丘の<わたしであること(我慢)>は捨てられています。根が断たれ、基礎をなくされたターラ樹のようにされ、存在しないものとされ、未来に生じない法となります。このように、比丘たちよ、比丘は、聖なる者、旗を下ろした者、重荷を下ろした者となるのです。 このように、比丘たちよ、心が解脱した比丘を、インドラを含み、ブラフマーを含み、獣主を含む神々が探し求めても到達することはありません。――たとえば、『これが、よりどころである如来(=心が解脱した比丘をさす)の識です』というように。これは、どうしてなのでしょうか? 比丘たちよ、わたしは、見られた法(=現法)においては如来(がどうなるか)を見届けていくことはないから、とわたしは言うのです。比丘たちよ、このように説き、このように論ずるわたしを、ある沙門・バラモンの人々は、不正に虚しく誤り偽って誹謗します。―― 『虚無論者なのが沙門ゴータマだ』『生きている者の断滅、消滅、虚無を知らしめます』と。比丘たちよ、わたしが言わないことを、言わないにもかかわらず、彼ら尊者である沙門・バラモンは不正に虚しく誤り偽って誹謗します。―― 『虚無論者なのが沙門ゴータマだ』『生きている者の断滅、消滅、虚無を知らしめます』と。 比丘たちよ、以前もそして今も、わたしは苦しみだけを知らしめ、苦しみの滅を知らしめるのです。比丘たちよ、ここで、他の人々が如来(沙門ゴータマ)を罵り、誹謗し、怒らせようとしても、ここで、比丘たちよ、如来が怒ることはなく不機嫌になることはなく不満に思うことはありません。 ここで、比丘たちよ、他の人々が如来を尊び重きをなし尊敬し崇拝するとしましょう。比丘たちよ、如来は喜んだり有頂天になったり心が舞い上がったりすることはありません。 比丘たちよ、ここで、他の人々が如来を尊び重きをなし尊敬し崇拝するとするならば、比丘たちよ、如来は、このように思うのです。――『これは以前にも知られていることです。そこでは、わたしによってこのような行為がなされています』と。 それ故に、ここで、比丘たちよ、あなたたちもまた、他の人々が、罵り、誹謗し、怒らせようとしても、ここで、比丘たちよ、あなたたちは怒ることはなく、不機嫌になることはなく不満に思ってはなりません。それ故に、比丘たちよ、あなたたちを、もし他の人々が尊び重きをなし尊敬し崇拝するとしても、そこであなたたちは喜んだり有頂天になったり心が舞い上がったりしてはなりません。それ故に、ここで、比丘たちよ、もし他の人々があなたたちを尊び重きをなし尊敬し崇拝するとしても、ここで、あなたたちはこのように思うでしょう。――『過去にこのことは知られていましたが、そこでは、このような行為がなされています』と。 それ故に、比丘たちよ、ここであなたたちのものではないなら、それを捨てなさい。もしそれを捨てるならば、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。比丘たちよ、あなたたちのものではないものとは何でしょうか。 色かたち(色)はあなたたちのものではありません。比丘たちよ、それを捨てなさい。比丘たちよ、感受作用(受)はあなたたちのものではありません。それを捨てなさい。もしそれを捨てるならば、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 比丘たちよ、表象作用(想)はあなたたちのものではありません。それを捨てなさい。もしそれを捨てるならば、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 比丘たちよ、形成作用(行)はあなたたちのものではありません。それを捨てなさい。もしそれを捨てるならば、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 比丘たちよ、識別作用(識)はあなたたちのものではありません。それを捨てなさい。もしそれを捨てるならば、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 「比丘たちよ、このことをどう思うでしょうか?或る人がジェータ太子の林で草やたき木や枝や葉を運んだり焼いたりして適切に処理するとしましょう。その時、あなた方は、このように考えるでしょうか。――『この人は、わたしたちを運び出したり焼いたり適切に処理している』」と。 「いいえ、尊師よ、そうではありません。」 「これはどうしてなのでしょうか?」 「尊師よ、なぜなら、これはわたしではなく、わたしのものではありませんから」と。 「このように、比丘たちよ、あなた方のものでないなら、それを捨てなさい。それを捨てるなら、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 比丘たちよ、何があなた方のものではないのでしょうか? 色かたち(色)は、比丘たちよ、あなた方のものではありません。それを捨てなさい。それを捨てるなら、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 感受作用(受)は… 表象作用(想)は… 形成作用(行)は… 識別作用(識)は、比丘たちよ、あなた方のものではありません。それを捨てなさい。それを捨てるなら、長夜にわたり利益となり安楽となるでしょう。 【到涅槃者】 このように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法は、明瞭となり、開かれていて、説明されていて、(覆っていた)ぼろ布は切れ切れになっています。このように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法が、明瞭となり、開かれていて、説明されていて、(覆っていた)ぼろ布は切れ切れになっているとき、彼ら比丘たちが阿羅漢であり、煩悩を滅尽し完成されていて、為すべきことを成し遂げ、重荷を下ろしており、妙義を得ており、生存の結縛を滅尽して、完全智があり、解脱している者たちであるならば、かれらには、施設するとしても輪廻は存在しません。このように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法が、明瞭となり、開かれていて、説明されていて、(覆っていた)ぼろ布は切れ切れになっています。 【不還者】 同じように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法が明瞭となり、開かれていて、説明されていて、(覆っていた)ぼろ布が切れ切れとなるとき、比丘たちよ、五つの下分結の結縛が捨てられたなら、彼らはすべて化生して完全な涅槃に到る者であり、その世界から還ってこない法となります。このように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法は明瞭となり、開かれていて、説明され、(覆っていた)ぼろ布は切れ切れになっています。 【一来者】 同じように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法が明瞭となり、開かれていて、説明されており、(覆いである)ぼろ布が切れ切れになっているとき、その比丘たちの三つの結縛は捨てられていて、貪欲・怒り・無知はやせ細り、かれらは皆一来者となり、一度だけこの世界にもどってきて苦しみの終わりをなすでありましょう。 【預流者】 同じように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法が明瞭となり、開かれていて、説明されており、(覆いである)ぼろ布が切れ切れになっているとき、彼ら比丘たちの三つの結縛(有身見・疑い・戒禁取)が捨てられているならば、彼らは皆、流れに預かるものたち(預流者)であり、不退転の法であり、必ず正覚を彼岸として到るものであります。 このように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法なるものが、明瞭となり開かれ説明され(覆っていた)ぼろ布は切れ切れにされています。 【天界に到る者】 同じように、比丘たちよ、わたしによって善く説かれた法なるものが、明瞭となり、開かれていて、説明されており、(覆っていた)ぼろ布は切れ切れにされているとき、わたしに対して信をもつだけでも、愛をもつだけでも、そのような人たちはすべて天界を彼岸として(そこに)到るのです」と。 こう語ったのが尊師でありました。心かなえるかれら比丘たちは、尊師の語ったことをおおいに喜びました。 |