善友はペーパーナイフのごとし

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すっかり撮るものがなくなって、とうとうペーパーナイフまで登場しました。竹のナイフで時々使っています。作りが繊細ですね。三角の模様が彫られています。

封筒を開けるとき、いつも、ナイフの方が折れたりしないか心配になるほど華奢な作りです。

たぶん壊れない、大丈夫だとは思うけど、繊細な作りに、お釈迦さんの法を思い出してしまいます。

「善友がいることは、仏道のすべてである」という事について「パティパダー」というテーラワーダの月刊誌に質問が載っていました。善友を見つけることも大切ですが、修行も大切ではないかというのが、質問者の意図です。

善友は、わたしにとっては、すごく大事なものです。こうしか考えられないというほど大事なものです。

わたしの善友はお釈迦さんです。もし、お釈迦さんがいなければ、わたしがおシャカになってました。ジョーダンではなくほんとです。

お釈迦さんは、まるでこのペーパーナイフのように繊細で切れ味鋭いのです。たぶん、力を入れると折れたりするかもしれません。でも、そっと扱うと、有益な助けを与えてくれて、いつも自分に寄り添ってくれるのです。

西洋論理学なら、大半分かります。よく分からなくても、バカにされながら勉強すればいつか分かるときが来ます。

だけど、善友であるお釈迦さんは、失われると二度と気づけません。八万大劫輪廻しても悟れないに違いないと思います。

だけど善友がいてくれたおかげで、八万大劫の半分くらいで悟れるかもしれないという希望がわきます。

それと何でペーパーナイフかというと、お釈迦さんはこちらが悪意がないときに限って善友でいてくれて、こっちの体勢が整っていないとすぐに無用のペーパーナイフになってしまうからです。

わたしにとっては、お釈迦さんはいつでも善友でいてくれるんだけど、ただし、こちらが求めていないと善友はそっぽを向いて沈黙してしまう存在なのです。

繊細で華奢であるように見えながら、ときに鋭い切れ味をみせる、ペーパーナイフはお釈迦さん。

コメント

  1. 赤い実 より:

    先生、こんにちは!
    朝晩は少し涼しくなってますか?
    私のところも今朝はだいぶ涼しく感じます。
    暑すぎたから涼しく感じるだけなんだけど。。

    〉わたしにとっては、お釈迦さんはいつでも善友でいてくれるんだけど、ただし、こちらが求めていないと善友はそっぽを向いて沈黙してしまう存在なのです。

    求めないと何も与えてくれない、ってことかなと拝見して想像しました。

    うちの生垣に空き缶を捨てていく人が長年いて、ついに警察に連絡したんです。つい最近。
    外で警官と話してたら隣家の人が、何かあったの?と首を突っ込んで来て、あげくに、「前に、ほんとに警官かって疑って、◯◯さん(私)に聞きに行ったのよね」とか言い出され、警官も嫌そうな顔するしで。。
    もうほんとよけい!!出てくんなよ!!とまで思いイラッとした出来事が最近ありました。

    でも、この隣人には親切にしてもらったこともあるし、野菜もたまにくれる。
    いやほんと、誰でも無我だよね、と思うと気持ちが落ち着く。
    そういう時にブッダにありがとう!!と思うのです。

    • ぎんた より:

      赤い実さん!こんにちは!!空き缶問題、興味深いです。

      そのお隣さんの生け垣には、やられないのですか?生け垣じゃないとかの
      条件の違いか、いつも、駅前のコンビニで缶ジュース買って、ちょうど赤い実さんち
      の前辺りで飲み終わるのかな??謎ーーーーー!お隣さんに聞いてみて欲し過ぎる~
      あと、生け垣が綺麗すぎて何かで汚したい衝動に駆られるとか。。。

      ぎんた、空き缶を放置し続けて、自分の置いた缶がどんどん溜まっていく
      厭な感じを味わわせたい。(むしろ楽しくなられちゃうのか?)でも、そしたら
      缶に雨水溜まって蚊が湧くからできないし、その人じゃない人もやり出すかもと
      いうジレンマ、、、

      あの、お釈迦様でさえ、釈迦族攻め込まれるのを阻止できなかったから、
      (合ってます?)なかなかに解決は難しそう。だって、自分が悟ってても相手が
      悟ってなかったら、無力だと思うんですよー。なので、お釈迦様よりすごく
      マシ、と思うしかないよね。

      うちも、家のそばのゴミ集積所に、普通ゴミ出す日じゃないのに、ゴミ出されます。
      その人は、近くのテニスコートを決まった曜日の早朝に借りてて、45L袋にテニス
      ボールと、家庭のゴミを一緒くたにして出します。家から持って来るのよ!
      酷い。役所と、公園管理事務所と両方数回電話したけど、利用者教えてくれないし、
      (個人情報だから)「注意しときました」と言いつつ、効果は無い。月一だし
      収集日まで放置されてても、それに便乗して違う日に出す人はいないので、
      そのまま数年経ってます。

      でもさ、最初ぎんたが役所の窓口に行って相談したときに、対応してくれた人が、
      「あ、じゃ、ここに電話してください」とかって、なんか番号が載ってる用紙を
      渡してきて!!(ちょっと偉そうに)ぎんたは(違うだろ?とムッとして)
      「私は電話しません。役所の方が、電話してください。そうでないと効き目無いと
      思います。」とちょっと大きめな声で(窓口の人以外の奥のデスクのひとにも聞えるように)言ったら、違う人がやって来て電話してくれたの。
      こっちは早く対応してもらえるように、少しプレッシャーをかける意味で
      窓口に出向いているのに!なんで番号渡してくんの?自分で電話する気ならば、
      ネットで調べて掛けてるし!
      で、役所の人が1回電話してくれたから、「ありがとうございます。次回からは
      自分で掛けます。○月○日に役所の○○さんがお電話した件で、と言って○○さんに
      話せばいいんですね?」といって帰ってきました。

      ぎんた、なんか影が薄そうだか、弱そうだかで、なめられやすいんだと思います。
      でも、政治がもうちょっと良くなれば、やがてはいろんなところに波及して、
      公園事務所や、役所の人ももう少し感じのいい人に変わるのでは?と思います。

      それの度が過ぎるとこないだ観た映画、『大長編 タローマン万博大爆発』の
      誰もが「一流常識人間」を目指さないといけない、堅苦しい機械人間社会に
      なっちゃうので、、、、うーん、、、バランス難しい。。。

      なにか進展あれば聞かせて下さいね~~~

      • 赤い実 より:

        ぎんたさん、こんばんは!

        うちの生垣は手入れが適当で綺麗じゃなく、あと生垣の下のコンクリートが歩く人のちょうど手の高さあたり。いつもだいたい同じ位置だし。。
        ゴミ置いていくな!!と表示してやりました。

        ぎんたさんのお話の例は月1とはいえ悪質だよねぇ。
        現行犯で捕まえられないかな。
        民事不介入になるのかな。
        でも役所に出向いて強く言って偉い!!
        せっかく市民が報告に行ってるのだし効果的な対策してほしいね。

        • ぎんた より:

          そうなんですねぇ~
          「缶を捨てないでね」ではなくって?「ゴミ置いていくな!!」なのですかw
          ほら、トイレとかの張り紙って、「汚すな」ではなくて、
          「キレイに使って頂いてありがとうございます」みたいのが今は主流でしょ?
          まあ、もう効果薄れてきたよね~~~。怒りでいいのかもね~もしくは笑い。

          ぎんたは公園事務所が、「テニスコート利用者が近隣にゴミを捨てると
          苦情が来ているので、そちらの団体は半年コート使用禁止」とかしてくれれば
          と思ったのですが、そんな甘くはないですね。関わり合いになりたくない
          レベルのちょっと嫌な利用者なのかな?と想像します。

          ぎんたの希望的展開ですが、朝5時から起き出して、ゴミ集積所で張り込み。
          散々待ったけど、今日来なかったよ、、、、が1番いいかな?月一早起きしないとですが。2番目にいいのはゴミ捨てに来る、けど、ぎんたが
          「おはようございます~、ここ普通ゴミは火曜・金曜なんです」
          「あ、そうなんですね!」と立ち去る。(ここで注目して欲しいのは、
          べつにこっちだって、指定曜日ならとやかく言わないよ、そんな
          キチキチじゃないんだよ、ということです)でも、ですね、そんなうまく
          いかないよ~と思うんです。

          まず、わざわざ、普通ゴミをテニスボールに混ぜて捨てたいが為に、
          車に(多分ですが)詰んでくるような人ですよ?普通ゴミ自分の車に入れる
          のって抵抗あるけどな?バーベキューのゴミとはまた違った感じだし。
          すると、ぎんたが嫌だな~~と思う展開が待ってるよ。

          ゴミ捨てに来る→「火金ですよ」→「あ、そうなんですね」(帰るフリ)
          ぎんた帰る→その後戻って捨てに来る。

          「火金です」「巫山戯んな!!」ゴミ投げてくる

          「火金です」「あ、はい」(帰るフリ)→ぎんたが家に入ったのを確かめて
           家に捨てに来る

          あと、絶対ありえないメルヘン展開として、ご近所みんなで集まって、
          10人くらいで(子ども含む)「ごみを捨てないで!!」とやる。
          子どもの見てるとこで、ゴミ捨てられないわよねぇ!とか高齢女性が言ったり
          してw で、撃退した後にぎんたが「ありがとうございますっっっっ」と
          頭下げたりする。

          とか、脳内遊びしております。あのね、コレ続くけど明日以降で。

          • 赤い実 より:

            ぎんたさん、こんばんは〜!!

            テニスしに来るから自分ところで出す時間に間に合わず、コート近くの集積場に曜日違いで出してくわけですよね。
            カラスにやられたりしてるの?
            それとも景観やルール無視の問題になるのかな?
            いずれにしても本来、住民以外は出せないのだから、そこをまず追及してほしいよね。行政に!!

            うちのポイ捨て。
            捨てるな! と表示したところの上の辺りに、紙パックを綺麗にたたんで今朝置いてあったよ。
            これまでは四角いままだったのが、表示したらたたんで置いてあった。
            ? たたんたし置いてもいいよね?ってかな。
            そんなの嫌だし、コンクリートに紙パック張り付け、持ち帰りなさい!!警察に連絡済です。 と書いた紙を貼っておいたよ。
            人目なんて気にしない!
            しばらくそのまましとく。

            手口からあんがい高齢女性の可能性も感じた、断定はできないけどね。

          • ぎんた より:

            赤い実さん
            >捨てるな! と表示したところの上の辺りに、紙パックを綺麗にたたんで今朝置いてあったよ。

            ごめんなさい。昨晩ここ読んで爆笑してしまったw
            で、今もう一回読んでやっぱり笑えるのですが、フッと思いついた!!!

            赤い実さんトコの人と、ぎんたのトコの人は!!!!な、なんと!!

            【来世の春間さん】の行動です!!!!何かがわかっていない二人のトコに
            現在の春間さんが、なんか神通力????で禅問答を仕掛けてるのだーーー

            先生は、「わかっている」ので春間さんは仕掛けてこないの。。。
            これしかない!!先生がわかっていて、私達がわかってないのはなんだろう?
            春間さんの気持ちかなぁ??

          • ぎんた より:

            で、テニスの人は多分、最初はボールだけ捨ててたのに、途中から
            家庭ゴミも混ぜてくるようになったんだけれど、多分独居の人で、
            (あれ、ボールと一緒に日曜朝にゴミ捨てれば、平日捨てなくてすむし、
            袋も一個で済むから一石二鳥だよね?)となったんだと思います。

            初期の頃カラスにやられて、ゴミ散乱した時のゴミの種類から、料理しない
            一人分かなと思いました。しかも、「ここは駐車禁止です」という張り紙
            も混じってて、色々なシーンで、他人にものすごーーーーい迷惑!!!と
            思われない程度にちょこちょこルール破る人なのかなと思いました。
            で、そのうち、ちゃんとネットを被せるようにしたらしく、カラスの害は
            なくなり(ネット被せないからカラスにやられたと家族が電話で言ったから
            そこだけ改善しかのか??公園事務所から特に報告とかって来ないから、
            わかりませんが)今に至ります。月一だから、こっちも普段忘れていて、
            ゴミを見て、わぁ!もう一月経ってた!みたいな感じです。

          • ぎんた より:

            続きです。で、阿弥陀は一切救うと立願立ててるそうだけれど、あの
            テニスの人とぎんたを同時に救うことは可能かな?と考えました。
            (もちろん、テニス氏がそれを望まない、ということはここでは抜きにして)

            すると、まあ無理だろうとなりました。てか、テニス氏とぎんたがそれぞれ
            「どのように救われたいか」をイメージ出来てなく、もしイメージ出来たとしても、状況によって流動的で一向に定まらないだろうし。絶対に無理すぎる
            立願立てたら、阿弥陀一生分では未達なわけだから、立願が持ち越されます
            よね?すると、「一切救う」の立願を抱えたまま永遠に阿弥陀は身体を
            とっかえひっかえしながら、人間→動植物→人間→動植物を繰り返して
            いくわけですよね?ちょっと絶望的すぎないか?と思いました。
            (もしかして、それがロマンだか信仰なの?)
            しかも!逆に阿弥陀がそんなしてるせいで、
            「みなが救われない状態が常態化し続けている」ということにもなり、
            マジで迷惑千万!!!ちょっとどうしよう~~悲惨すぎるぅ~~~~
            と思い、阿弥陀に話しかけました。

            「あのさ、もう無理ゲー過ぎだし、人間が各々の国をまぁなんとか法治国家としてやっていけるように頑張る方向でいけばいいんじゃないかな?人間は
            言わないかもだけど、おれは猫だけど、お疲れさま!!今までありがとう。
            これからは人間一人一人が自分の阿弥陀としてやってくようにするからね!」

            だって、おれ、心が弱いから、阿弥陀、悲壮すぎて無理すぎだから、精神
            衛生上良くないし、誰のためにもならないから、阿弥陀解放したった。

            ただ、阿弥陀が(今回の人生はあの人を救うぞ~~~~う)と決めて
            テニス氏の中に入っている可能性もあるのですが、そんな感じで独りずつ
            やってくのか?しかも、まだそのことに気づいてないっぽい。でも、
            「ちょいちょいルール破って生きている人間を、その生き方のまま救う」
            ミッションかもしれず、、。とにかく!ぎんたは阿弥陀に入ってもらわなくて
            大丈夫ですので、安心して!!というぎんた阿弥陀のお手伝いした充実感w

            この心の作業は、テニス氏の件より前にしたと思うのだけど、ちょっと
            どの時だか忘れたから、取り敢えずテニス氏の件にくっつけて書きましたYO

            なので、まあ、テニス氏ももちろん神でほとけなわけで、ぎんたが怒って
            「ここにゴミ捨てんな!○ね!!」と一瞬心が炎に包まれてもへっちゃら
            なんです。そんな他人の怒りなんてことで、神でほとけは人生決めたり
            変わったりしないし。だからね、「呪い」とか「祟り」なんてものは
            存在しないんです。と思います。

            似たようなこと前書いたかな?自信ない。記録とかしてないのです。

          • 春間 則廣 より:

            > 阿弥陀は一切救うと立願立ててるそうだけれど

            阿弥陀(=阿弥陀如来)は 願を立てることなどしません
              それは 法蔵菩薩の立願 です
                  48の願を立てました
              その願 が 成就するまでは 法蔵 は 阿弥陀如来となることはなく

              阿弥陀如来 が  “ ある ” というこ  とは
                48願 は 成就しているということです

              ただし この 「 “ ある ” ということ 」 は
             仏教 の 上の “ ある ” ということであり
              それは 「 空 」 として
                   成り立ちます( あります )

              あるよう で ない ・ ないようで ある

              「 救われている のか 救われてはいないのか
                 はっきりしろ 」 と あなたは考える

              はっきりしなければ 救われてはいませんか ?

              はっきりさせて どうするのですか ?

               救い とは あなたが納得することによって
                 成り立ちますか ?

               救われてはいないのに 救われているとは 納得できない

              救われているから
             納得できない と 言える  ような 状況にある

              あなたは 溺れているときに  溺れているのだと
               納得できなければ 溺れることもできない  のですか ?

            納得できる(納得できない) が
                  (すでに) 救いのたちば

              できる・できない  ということを
                  見いだせる 立場  に  立つ

              どっちでもいい  どこにいても することは 同じ
              どのようなことでも    
                あなたの納得の外 に 真理が立っている

             
                そのどっちの立場も 真理から見て 成り立つ立場

                あなたの見ていること(言っていること) は

                   本当のこと   かな  ?

    • mani より:

      赤い実さま こんばんは。

      こちらも朝晩だいぶ涼しくなってきました。 空(そら)が秋空です。

      >求めないと何も与えてくれない、ってことかなと拝見して想像しました。」

      そうですねえ。相手を傷つけないからそうなるんだな、と思います

      >うちの生垣に空き缶を捨てていく人が長年いて、

      いろいろお聞きしていくと、大変でしたね。ご近所さんの対応も無我の境地ですねぇ。悪気はない、ってわかるのですが。

      生け垣に空き缶、わたしならどうするかなあ。たぶん何もしないかと思いますが、張り紙で対応って手もありますねえ。
      「のんだらおくな! 乗ったら飲むな!」 とか。。。 ちょうど置くところに張り紙するの。
      ぎんたさまのお話も拍手喝采、です。

      •  春間 則廣  より:

        > 〉 わたしにとっては、お釈迦さんはいつでも善友でいてくれるんだけど、ただし、こちらが求めていないと善友はそっぽを向いて沈黙してしまう存在なのです。

         “ そっぽ ”  って
            誰の   ?    “ どっち ” の 方向  ですか ?
           あなたの ?     ブッダの向きあう相手 の ?

           ブッダ が 向きあうのは
          ( ブッダ 自身=仏世界  であるはず では あるが )
            そっぽ を 向いている “あなた” の 向きあい方 ?
            「 世間 」 に 染まる( 染まらざるを得ない ) 理由 ?

          世界( 「 世間 」 ) とは  自分の五蘊 の 投影 でしかない

           モノの見方 が 変れば   世界は変わる(開ける)

            そっぽを向いても      「 善友 」  ?

             “手をつながなければ”  「 善友 」 とは呼ばないけれど

            繋いでいないつもり でも 繋がっている  ( 仏 )世界
            「 世間 」  には 分断がある    けれども  、、、、
             仏世界   には  一つ なる   「 平等 」 が ある
           ( 分ける・仕切る料簡 がなく )   切り口としての分断はない 

          自らの役割 を 決めているのは 自分(自分の五蘊の選択)

          役割( 立ち位置 ) が  決められてはいない
               「 自由 」  が   ( 世間から望む )
             “其処” = “此処”  に ある  、、、、

         善き友 も 「 蛇・火 」 も   其処にあるけれど
             此処にはない から  望みを起こす 立ち位置が決まる

             “ 火 ”  は   「 世間 」 に 起きる
           「 善友 」  は    仏世界  に 起きる

         一 「 世間 」  に   “一人のブッダ” が起き
           一つの仏国   を   起こす ( 弥陀の浄土・諸仏の世界 )
          
             しかるに それは     「 空華 」 としてある
           「 華 」 を 求めて   “中華” にいたり  「 空手還郷 」

        >>求めないと何も与えてくれない、ってことかなと拝見して想像しました。」

            求めなくとも        自らの中にある 「 中華 」
          「 空華 」 としてある     けれども     求めると 
         その “ 「分」 に 沿って”    「 五蘊 」 から 遠ざかる

           欲しい から 求める   けれども  襟元の宝珠 は 見つからない

        >そうですねえ。相手を傷つけないからそうなるんだな、と思います

           たとえ 襟 に あろうと
             “金襴” を 纏おうとする ! と  邪魔になる

          「 我金襴 」 とは   文中における 綾 ( で 織られている  )
          解きほぐすとき・うち捨てられれば   「 糞掃衣 」 と なる

             金襴(緞子) を 求める  “ はかなさ ”

          友( 「 善友 」 ) を  求めるより
             「 善友 」   と  なれば 「 善友 」 は 何処 ?

          悪友 が 「 善友 」 となる  仕組み  が  「 住処 」に起きる 
          仏世界 が 其処に起き   共存  「 共建法幢 」 「 法仏恩徳 」

            傷つける  ということが 起こせない 仏 ( 仏世界 )
            傷 つく    傷 という 概念の起きる  「 世間 」  

           つける のは  対する相手 ではなく 「 五蘊 」 ( 「 自己 」 )

           これを読む のが  自分  で  読ませているのも  自分
         ( 自分で 迷路 を   構築 し   其処 に 迷う 「 五蘊 」 )

           傷つく のも 傷つける のも  自分でしかない  
                けれども
            心の対面している 相手  に  傷をかぶせる

           自分で傷つけている  自分の世界( 「 世間 」 )

              「  世間 虚仮  唯仏是  真  」  

           「 善友 」  とは 自らの心 に  在り続ける
                       自分自身 の  存在の ことである

            求めなければ 襟の宝珠 は “縫いつけられていない”  ??

             (  これを読む わたしの傷から 宝珠がこぼれる  )

        • mani(管理人) より:

          春間さま こんばんは。

          > “ そっぽ ”  って
          >    誰の   ?    “ どっち ” の 方向  ですか ?
          >  あなたの ?     ブッダの向きあう相手 の ?

          わたしでもあり、向き合う相手でもあり。
          自分(ブッダ)からおしつけがましくしない、ってことです。無我の証拠みたいなもんだよね。

          >   「 善友 」  とは 自らの心 に  在り続ける
          >               自分自身 の  存在の ことである

          春間さまの答えだね。

          > 求めなければ 襟の宝珠 は “縫いつけられていない”  ??

          うん、そうだと思うけど。
          縫い付けられていると知るときは、いつも「それに気がつくとき」。

        • ぎんた より:

          >阿弥陀如来 が  “ ある ” というこ  とは
              48願 は 成就しているということです

          わかったよぅ!!!←のこたん風
          一個前の地球で成就したんだね!

          >「 救われている のか 救われてはいないのか
               はっきりしろ 」 と あなたは考える

            はっきりしなければ 救われてはいませんか ?

          そんな感じのことは言ってないように思うが?
          だから、神でほとけの各自が救われたと思う状態に至れる人生を送るように
          頑張るしかなくて、でも、それに特に興味なければ頑張らなくてもよくて、
          兎に角自分で選択していることはしているんだけれど、横から弾き飛ばされて
          意図しない人生になっちゃってる人もいて、それをどう判断してどう対処
          するかは自分が決めるのーーーーーー。

          取り敢えず、ぎんたは世界中の人が、自分が生まれた国を気に入って、満足して
          最初に覚えた言語一種類しかマスターしてなくても、生活ちゃんと回せて、
          誰も蔑んだり蔑まれたりしないで、楽しく生きて、きちんと死ぬことが出来る
          ようにしたいです。こんくらいになんないと、ニャントロ星人は飼ってもらえ
          ないから。。。一握りの金持ちと、大多数の貧困層になったら、猫全然
          生きていけないから。。。「ねこ」すごく気に入ってるから、まだずーーーーっと続けたいの。医療にお金掛かりすぎると猫飼えない人増えるからやめて、、
          あ、猫本人の濃厚すぎる医療もちょっとどうかと。

          •  春間 則廣  より:

            > 神でほとけの各自が救われたと思う状態に至れる人生を送るように
            頑張るしかなくて

              神で仏 の 自分の どこに
                      頑張らなくてはならない 理由がありますか ?

             “ 神で仏 の 頑張り ”  って
                       頑張れば(頑張って)分かる ことですか ?

             そもそも  頑張らなければならない理由  が あるのであれば
                     神・仏  って  呼べますか  ?

            > 意図しない人生になっちゃってる人

              意図しない人生  を 意図するとき  どうなっていますか ?
             ( 「 無我 」  には   「 我 」 は ありますか ? 
                             あれば 「 無我 」 ではありません )
                 意図するところは    意図しない  ということ
              ( イト が こんがらがる ・ こんがらがる糸をほぐす )

               意図していては( 頑張る意味があっては )   無理です

            > 判断してどう対処する かは自分が決めるのー

               「自分」 って 何処で見つけるのですか ?
                 自分の中        から 見る以外に
                 見る起点(中心) を 見つけられますか ?

               どのように  どこで見つけようと  それは 自分自身の中の事

                 他人が決めることはできない ( 自分ですべて選んだ 分岐点 )

            > 誰も蔑んだり蔑まれたりしないで、楽しく生きて、きちんと死ぬことが出来る
            ようにしたい

               蔑み  楽しさ  きちんとしたこと   が
                 あるのであれば
                なくすことはできない ( ある ということ  を あるという  )

              ないこと  を  なくすことはできない !
             ( あるもの  は 決して なくならない  ゆえに ある とする )

             “ 蔑み  楽しさ  きちんとしたこと 等  ”  が  あるかぎり
               それ等  を 
                    我が身に 認識することからは 離れられない

              ないものは  認識されない !
              あるものは  認識しようと・できなかろうと   ある !
                     ( 認識上 の ある・ない   で  ある ! )

                        猫 と ぎんた
               ( どちらかであろうと 両方であろうと )  が   いる限り  

                 この世 に  善いこと  が 起きる理由はない

             善いこと が 何もないところに   悪いこと は 起きない
                                      ?
            ( 悪いところが起きるところ は    善いところ ではない  )

               善い と 悪い  とは   必ず !  対になって起きる

  2.  春間 則廣  より:

       人を傷つけてはならない  「 マッリカー経 」 

  3. 赤い実 より:

    先生、すみません。
    記事とは直接には関係ないのだけど、ぎんたさんの書かれる 危険な団体 というのとも関連するので一度だけ書かせてください。

    うちに以前はよく某宗教団体の勧誘が来ました。
    同級生だっただけで知らない人、わりあい近所らしき人、とにかくいろんな人が来てしつこかった。
    いちばん最近だと春に、同級生だったという人が来ました。
    調べたらノルマがあり、達成しないと罵られたりするらしい。
    辞めるというと脅されるとか。

    そんな宗教は人間にとって苦しみしかもたらさないです。
    きっぱり断ってもリストに乗ってる以上、新たな人が来るのかも。

    自分で自分を助ける。
    これ以外は助かりません。
    私はそう思います。
    信仰も結局は自分が自分を助けるのだと思います。

    返信に困りそうなことを書いてごめんなさい。
    どうぞスルーしてくださいね。

    • mani(管理人) より:

      赤い実さま スルーしきれずお返事を。

      >辞めるというと脅されるとか。

      やっぱり、脅されても「止める」という勇気がいるよね。
      たぶんこれを乗り越えたら怖いもんがなくなると思う。
      ってことは、悟りの境地?

      いやなもんは「いやだ」という勇気が欲しい。。です。

      • 赤い実 より:

        先生、ありがとうございます。

        辞めようとすると、実際に、「祟りがあるよ」と言われたり、元仲間からの嫌がらせがあったりするそうです。
        必ずではないにしてもそうしたことが実際あるそうです。

        なので、そうした情報を事前に掴んでおいて「入らない」のがいいのかもです。

        自灯明法灯明がなによりですね。
        つくづくそう思います。

  4. 赤い実 より:

    ぎんたさんのその説、おもしろい!!
    まあそれはともかく、やってる人がどんな意図でしてるのかって、推測でしかわからないんだよね。
    うちのとこはたぶん同じ人が習慣化してしまい、便利なゴミ箱化してたのに(月に3.4回と頻度は高くないけど2年は続いてる)、突然に 捨てるな!! と表示されて戸惑い、せめて折りたたんで置こうかと。。そんなことを想像してる。
    うちに手紙で、 持ち歩くのがたいへんで捨てさせてください とか置いてあったりしたら私もおとなしく片付けてあげるんだけどね。
    そんなことはありえないよね。。
    少しだけ相手と姿無き対話してみる。

  5. 赤い実 より:

    ぎんたさん、こんにちは!!
    一度だけ直接に伝えさせてね。
    春間さんと会話して少しでも楽しいならやりとりいいと思うけど、何を言ってるのかわからないから気になる知りたい、とかならほっておけばいいように、あくまで私はだけど思います。
    私はそうするから私には話しかけてこないよね。

    なんか同じループになってるように見える。
    楽しいならほんと問題ないと思うんだ。
    そうじゃないなら、てことで書いてみました。
    気を悪くされたらごめんなさいm(_ _)m

    • ぎんた より:

      赤い実さん!!!ありがとう~~~~~~~~~大丈夫だよーーーーー!!

      何でかというと、、、春間さんの文章わからない時、基本「面白くなっちゃってる」
      からです。文章読んでわからなくなる時、90度くらい首を傾げています。
      実際にかしげている時もあるし、心の中でだけの時もあります。で、その時セットで
      思い浮かんでいるのが、『ねこのみぞしる』くるねこ大和×今泉忠明著のP110
      【首をかしげてモノを見るナゾ】で、(ネタバレになるから漫画の内容を詳しく
      説明は出来ないんだけれども)かなりほっこり~な心持ちになれます。
      ねこだわ~~~~ぽやや~~みたいに癒やされちゃうんです。
       
       そいでもって、この本は買おうかどうしようか~~内容はもう大体は知ってると
      思うしな~~~と迷っていた本なんだけれども、7月に『コード・ブッダ機械仏教史縁起』を買って、パラ高の人に送らないと!!と思って本屋さんに行って、
      (あ、自分が読んだ本は図書館本なの、すんません!!だって難しくて挫折しそうなのは買うのが怖いよ)店頭の在庫検索機で在庫ありってなってたので店内探したけど、2周しても見つからなくて、店員さんに「この本探してるんですけれど」と
      印字した紙を渡した時に、(もしかして在庫ありなのにないのかな?)

      は!!昼ご飯作らないと間に合わない!!午後に続きます

    • ぎんた より:

      続きます

      もし『コード・ブッダ』なくても、なんか買って帰りたいな~~と思った時に、
      丁度『ねこのみぞしる』が目に入って!!買うか迷ってた時期のちょっとあとに、
      ネットのどこかで、「ねこのみそしる」かと思った~ていう体験を読んで、
      以前マニカナでぎんたが「神の溝しる」かと思ってたけどひっそり訂正したと
      書いたんですが、それとお揃い~~~と思っていたので、縁起と思って買ってきたんでした。(コード・ブッダと共に)はれ?なにが言いたいんだっけ??

      あ、そうそう、つまり~~~春間さんの文章がわからないで、首を傾げたその瞬間に
      くるねこさんのイラストに癒やされちゃうので、ストレスにならないという話です。

      あ、で、本屋さんの件は続きがあって、なんと!!『コード・ブッダ』は小説では
      なくて、宗教コーナーにあったの。だから全然見つからなかったの。時期的にもう
      平積みじゃないのはわかってたから、背表紙で探してたけど、根本的に場所が
      かけ離れていた!ネタなの?知らなくて?でも、表紙めっちゃ小説じゃんね?
      そこに陳列した人と、今探してくれた人は別なんだね、ということはわかった。
      神社仏閣なんちゃらとか緩めの本の隣にありました。で、本を受け取ってもう
      一度棚を見やった時に、眩し!!てなったので、何かと思ったら、『コード・
      ブッダ』は最上段で、中段の真ん中に『空海』安藤礼二著が表紙が見えるように
      置いてあって、今調べたら「面陳」というらしく(「3面陳」になってた)、
      空海の文字が銀色で、表紙は白かったので、相乗効果でキラッと感じたようです。

      は~、で、どっちも面白い本で良かったです。こんな脳内なので、春間さんの影は
      とっても薄いです。わからない文章の印象は面白かった出来事より小さくなって
      しまうので。ループしてるかどうかもわかってないのです。それで、「私な仏教」
      で考えると、ループしてることも一個前の地球の通りなので、順調だと思います。

      こうして、家族のいう学者さんと戯れてるうちに、外の世界?が良い方向へ軌道
      修正してくんないかな~と思っています。

    • ぎんた より:

      あとですね、

      >うちに手紙で、 持ち歩くのがたいへんで捨てさせてください とか置いてあったりしたら私もおとなしく片付けてあげるんだけどね。

      これですよ!!この大人な対応!寛容&優しさ&お互い様の精神!!こーゆーの
      すっごくいいですよね。年齢を重ねる毎に身につけていきたいヤツ。

      でもさ~これを「ありがとうございます、助かります」と感謝し、自分もこんな
      シチュエーションあったらそうさせて頂こう!!と思うの、ごく自然だと思うの
      ですが!どうやら世間はそんな甘くないようで、、、、、中には「味をしめて」とか「それにつけ込む」とか「確信犯でやる」とか心の中でこっちを馬鹿にして
      舌を出してる人もいると思うんですよね?まあ、多様性ですからそんな人もいて
      当然は当然なんですが、すると、こっちも警戒しないといけなくて、中々に難しい振る舞いになってくるんですよね!

      あの危険な団体の話ですが、「優しく」していくというのが精進として求められているわけなんですが、どこかの新聞の日曜版の相談コーナーに、こんなの見つけました。ある会社員の女性のお悩みで、
      【優しくすることがよいことだと親から言われて育てられ、職場の人にもなるべく優しく接していますが、一体どこまでしたらいいのかわからない。なにか便利に使われているだけのように感じるときがある。】的な内容で、ぎんたが思うにこれ、あの危険な団体の2世か3世なんですよ(T_T) この頃まだ新聞の切り抜きしてない時で、正確ではないですが。新聞に相談するってことは、苑内の人に質問したり、接心頂いても納得いってないんだと思います。まあ、実践した先に、「自分の頭でよく考えて」
      なにかの結論に辿り着けばいいんですが、、、うーーーーん、、、ちょっと、、
      ピュアピュアすぎて生き辛くなってるケースで心配だけど、もう10年以上前
      だから、どうなってるかなーと、、、、要は、二十歳くらいまでは親の信仰に
      付き合わせないで欲しい、ということなんです!

      あ、話が逸れたんですが!赤い実さんはもちろん神でほとけなんで、ぎんた
      絶対的に信頼しています。赤い実さんはすごく「正義の人」と思います。

      マニカナにやってくる前、ぎんたが芳和さんのブログのコメント欄にいた時、
      (コメントしても返事は来ない期間があって逆に気軽にコメントしていた)
      赤い実さんがやってきて、「マニカナであんなことしておいて、よくまあ、、」
      みたいに言って、そこでぎんたが「初めまして~この方コメントに返事しない
      ですよ、読んでないのかも」みたいに会話したの憶えてますか?その時、ぎんた、
      なにか素敵な紳士が颯爽とやってきた!と思ったのでしたw その後、コメント欄を
      芳和さんが読むようになって段々とこう、ちょっと過激な感じになって、これは
      ぎんたの手に余ると思った時に、(いったい芳和さんはマニカナとやらでなにを
      しでかしたの??と思ってこちらにお邪魔するようになったのでした。

      したら、「マニカナ」は仏教で検索始めた初年に来ていて、まーーーーーーったく
      内容が頭に入ってこないけれども、当時すごく沢山「お気に入り」に入れてすぐに見れるようにした、とてもいいと思ったお寺のHPとか仏教のサイトとは、違う唯一無二のトコだと思ってすでにお気に入りに登録してあった!!!そこから、なんか
      とくに話題も持ち合わせないのに、無防備にひら~~と着陸しての、今です。

      な、長い、、、ようするに、赤い実さんありがとうね~~ということです。

      • 赤い実 より:

        いやぁその正義ってのが良いものではないというのがあって。。そもそも正義なのか?もあったり。。このへんはもうしない方針です、とにかくにも。。 
        自分なりに反省したのです。

        優しさがつけ込まれるというのも実際あると思います。
        何でも優しくしてたらなめられます、と思います。
        時と場合、相手しだいかなと。

        ではありがとうね~~~!!

  6. 赤い実 より:

    ぎんたさんへ

    〉~~~~~~~~~大丈夫だよーーーーー!! 何でかというと、、、春間さんの文章わからない時、基本「面白くなっちゃってる」 からです。

    そうなのね(^^) じゃ、周りがとやかく言うことじゃないと確認できてよかった!!
    お手数おかけしてすんません(^o^;

    実はさ、その、面白くなっちゃってる、というの、私もほんの少しはあるかも。
    少なくとも別に不快ではない。
    (あ、こんな言い方、なんか春間さんに失礼だね、すみません。)
    特に私は気にならない、ってのが正確かな。
    ほっておけばほっておいてくれる方だと思うしね。

    コードブッダの中身、難しそうだなと拝見してましたよ!!
    私は根気続かなくて無理っぽめ。
    ぎんたさんはいろいろ読んでてすごいね!!。

    では~~~♪

  7. ぎんた より:

    先生~~~!ぎんたも「善友」について考えてみました!!
    結論からいえば、善友は自分(の、心とか判断)だと思います。

    ぎんた、お釈迦様のイメージが先生ほど明確じゃないのでお釈迦様は除外で。
    で、マニカナのみなさまは善友だけど、みなさまが善友と判断出来るのは、
    ぎんたの心なので。(な、なんでみんなパーリー語とか詳しいの?ぎんたさっぱりで
    落ち込むわ~~~となってたら、善友と思えないだろうから)

    そう、思えるのには、人生のかなりの時間を使ったけれど、今は、どこへ行っても
    何をして暮らしても、自分の「判断」とか「感想」とかはずっと付いてくるので、
    自分の「心」が唯一の故郷って感じです。中身がねこと気づいたのもたいへんに
    良かった。

    • mani(管理人) より:

      ぎんたさま こんばんは。

      >自分の「判断」とか「感想」とかはずっと付いてくるので、自分の「心」が唯一の故郷って感じです。

      ですよね。
      新聞に質問してたある会社員の「優しく」のお話よみました。

      思うことがあるんよ。

      わたし、昔、道を歩いていたとき、友達同士で話をしてる人がいて、今の新聞の人みたいな悩みを言ってたの。そのとき、『ダンマパダ(法句経)』の一句が鳴り響いたのです。

      「166.他のためになることがどんなに多くあろうとも、自己のためということを忘れてはいけない。自己のためということをよく知って、善きこと(サット)のために邁進しなさい。」

      友達同士の会話だったし、通りすがりの人だから何も言わないけど、この人にプレゼントしたいす。

      今もそう思ってやってます。解脱も「自分のためなんだ」という気持ちを忘れるな、ってことですかね。
      たぶん、優しすぎる人なんだろね。。

      新聞に質問するところも、ちょっと迷いのある人だよね。ぎんたさまみたいに、自分の中で答えを見つけたら良いなと思う。

      >自分の「心」が唯一の故郷って感じです。

      「これ、最高っ!」って、わたしも思うのです。

      • ぎんた より:

        >自己のためということを忘れてはいけない。

        そうですよねー、、お釈迦様って、私達がおおよそ考えつきそうなことは
        言ってるよね、と、ネットで仏教を検索しだしてちょっと経ったときに思いました。すると、ぎんたがなにを言っても「仏教の範囲内」に収まるなーと。
        で、特にここマニカナでは、みんなが経典をよく知ってるから、お釈迦様の
        言ったことを、自分が思ったこととして言えない。でも、ぎんたが今思った
        ことを、すら~と言うと、みんなの心の中にお釈迦様が誕生してしまう、、、、
        という面白い現象が起きたりすることもあるだろうね?と思っていました。
        君ら前世でサンガにいたんちゃう?みたいな。。。

        って、先生がキレイに纏めてくれたのに、なんでこれを書くかな~と、、
        なんか、気配りしないというか、ぶち壊すというか、、

        でも、これがぎんたなの。

        あ、「故郷」は地震とかの被災地のニュースを見て、住み慣れた土地に
        いられなくなるって、かなり辛いけど、究極的には「心」だな、と思ったから。

        いわゆる「防災」の目的で考えました。避難所行っても、その環境で、人との出会いで、自分で考え、なにか感想持つとか判断するはついて回るかな、と思って。

      •  春間 則廣  より:

        > Dmp 166
        >  「 他のためになることがどんなに多くあろうとも、自己のためということを忘れてはいけない。自己のためということをよく知って、善きこと(サット)のために邁進しなさい。 」

            マッリカー経  は ここを説きます

            自分自身であるから 自らを傷つけてはならない

            「 愛 」 ということの仕組み  は ここを害する

           分かろうと分かるまいと
             気づつけ 得る 人      は
             傷つけよう とは しない  人

            陀己(現成公案)    は    全部を食すことはない
            再生可能 な ところまで  を  自然に  知る 、、、、

        > 通りすがりの人だから何も言わないけど、この人にプレゼントしたいす。

          通りすがり  だと( であるに違いない と ) 自分を見過ごす

            自分の立ち位置 を   時間上(時空上) に於いて
             “  のみ  ”  考える
          (  無限 と 永遠  とを 理解しよう とは しない  )

         ( ミリンダパンハ )ナーガセナ とは 何か ?

           見過ごす・注意する “ 自分の 一 こま ”
                        ( コマ 各  見なさい )

           一つ一つ が 車を構成している “ 部品 ”

            ( 部分は ) いくら寄せ集めても  クルマ  には 
            ( 正しさ が )   クルマ   デハ  ナラナイ

            何の為に 車 を 使うのか ?
          ( 何故 急ぐ必要 が あるのか ? )

           いくら急いでも 一つの人生 ( “ それも一局 ” )

            死ぬまで考えようと
              自分に自分で優劣をつけ    ても  始まらない
            ( 既に始まっていること を     始める意味がない )
             ここから始まる   意味の優劣( 頭のよさは価値観しだい )

        > >自分の「心」が唯一の故郷って感じです。
        >   「これ、最高っ!」って、わたしも思うのです。

          故郷 を 訪れようと
            それは 目的によって ( 意味が ) 左右される

          “ 過去 と ”  同じ位置に立つことは “ 叶わなくは無い ”
                         けれど
           同じかどうか は 価値観 に 左右される(価値観しだい)

         “ 最高 最低 ”  と  「 平等 」 を 逸する

          Su.799   ( 出典 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」 180P. )
           智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、
                世間において偏見をかまえてはならない。

           自分を他人と「等しい」と示すことなく、

                 他人より「劣っている」とか、
                  或いは「勝れている」とか考えてはならない。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

           どうですか ?

           “  優れた考え方 では ありませんか  ?  ”

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

        • mani(管理人) より:

          春間さま おはようございます。

          >自分自身であるから 自らを傷つけてはならない

          この前、わたしも気がつきました。コーサラ国のパセーナディ王は、「愛しき者」の中で説いています。(『神々との対話』岩波文庫、pp.163-4.)

          実は、分かりずらいことこの上ない、と思っています。

          人は得てして愛しくないものになすことを自分のためにしている、ってほんとだなあと思います。

          •  春間 則廣  より:

            >  人は得てして愛しくないものになすことを自分のためにしている、ってほんとだなあと思います。

              得ているモノ  とは  ( 為されたこと であり )
                        為していること  です
              為していること    には
              為されていることを容認する事  が  その多くを占めます

             自らの為していること を  容認する  !(  してはいけない )
               ( 「 悪 」 と 結びつきやすいこと に   注意を払う ! )

              為していること( 受け入れていること ) とは
                 必ず    容認を条件としている
                            ↓
                見て も  見ぬふりをしている   見ていること

                分かりずらいこと   とは
                 言い換えると   分かりたくないこと  と言える

                 分かりやすいこと    とは
                       容易に受け入れることが出来ること
                     ( 容易なことの積み重ねの人生 )

               したいこと  が  容易いこと  なら
                          容易く出来そうもないこと を 選ぶ

                たとえ 善人 でも 悪人  でも  これは当てはまる

                *  やりずらいこと を すれば  その仕組みに気付き得るかも
                  ( 逆 は 正ならず 、、、、  )

                 精緻さ は あらゆることについて回る 必須要件

                *  何が どのように精緻 かを 知ることは 容易くはない

                 まあ 読める範囲で  読むしかない  ・・・・
              (  容易いことではない   ということ )

          • ぎんた より:

            先生、こんにちは~~~

            この「愛」っていうのが、なんともわからないです。あまりにも
            みんなが違うイメージを持ってると思うので。。。

            究極的には、次世代のためになっちゃうと思うんですけれど、それって
            自分だよねと。

          • mani より:

            ぎんたさま こんばんはぁ~

            > この「愛」っていうのが、なんともわからないです。
            > あまりにもみんなが違うイメージを持ってると思うので。。。

            そうだよねぇ。わたし、最初に興味もったのが、コーサラ国の王様パセーナディ王でした。
            彼は、マッリカーという王妃を好きなだけだと思ってました。
            その王様が言ってる言葉なんですよ。

            王妃マッリカーは、王様に「わたしは自分が一番愛しいです」と答えます。
            よくよく考えたら王様も「自分が一番愛しい」と気がついて、そのことを王妃に告げるというのが短いストーリーなんです。
            そして、出会ったお釈迦さんに、こんなだったんですよぉと話したら、
            お釈迦さんは、短い詩で答えてくれるのです。
            「どんなに愛しいと思っても、自分以外に愛しいものには会わなかった。
            そうなら、他者を傷つけてはいけないよ」って。

            王様は、マッリカーを愛しいと思うだけではなくて、お釈迦さんのことばをちゃんと考えてたんだなあと思いました。

            よく考えたら、愛しいはずの自分に、愛しくないものに対するように振る舞ってるではないか、というのが王様の意見です。

            友達とけんかになって、あとで後悔したりするのも、自分が愛しいからなんだ、って事になかなか気づけないよね。。人間って難しい生き物だなあと思います、ほんと。

          •  春間 則廣  より:

            > 「どんなに愛しいと思っても、自分以外に愛しいものには会わなかった。
            そうなら、他者を傷つけてはいけないよ」

               それ以外に 出会うことができない ( 自分のみ )
               自分の世界 を 造っているのは  “ 自分の認識 ” だけ
                ( お釈迦さん が どのように思っているか を )
                   自分の認識 で  “ 思い 量る ”

                「 善 」 ・ 「 悪 」   も  その判断基準を受け入れた
                  自分 の 認識        ( 価値判断 )

                「 世間 」 とは 自らの認識で造り上げた “認識世界”

               実は 傷つけているのは  自分の価値判断下に起きる
                    自分の認識   ( 自己認識の部分非定 )

               悟りを開く  のが とてつもなく難しい  と 思える
             ( 自己 なる        人の 認識 )

               思った通りに 世の中は 創り上げられて行く
             (  そうではない  と    “ 思う ” ・・・・・  )
                なかなか 思う通りには行かない  と  創り上げる思い

                 しかし   聞題 は そこではない !
              「 人の心 は 何処にでも 訪れることが可能 」
                        ということは
                 あなたは わたしの心   に  訪れることが可能
               ( そこに起きている 認識  は わたしの世界の認識 )

              わたしの認識 以外に
               わたしの世界には  ( 異なる ) 認識はない

              あなた という存在 は  “ 何処に起きていますか ? ”
             

              あなたの認識中の  「 他 」 とは あなた自身
                       ( あなたが創り上げている あなたの認識 )

               あなたの認識外の 事( 「 色 」 ) は
                   存在があろうとなかろうと
              考えることができる対象ではない ( 認識不可能 )

               対応できること  以外には  対応できない( 対応しようがない )

               自分の世界 を  一度  “ 再 ” 認識する

               その 「 一度 」 を 「 度 」 と 呼び

             「 度 」 を 得るための    再考 を 「 唯識 」 と呼び
             「 唯識 」   とは    「瑜伽行」 の中 で 成立(存在)する

            > 人間って難しい生き物だなあと思います、ほんと。

              人間とは 思った通りにしか行動できない  という
               簡単な仕組みの中 の 生き物( 「 有情 」 という 存在 )

              簡単なこと でも 難しく考えると  六つかしいこと となる
                                   ( とお の  蜜  手前 )
                                   ( 逸 する    後 に )

               そこに  イツ つ   六つ 仮しい    何事 を 考える
                       ( 「 なんごと の おはしますかはしらねども 」 )
                流れ出る    ナミダ ( 南無 弥陀 ) を  集めて 
                      静かに 長るる  五十鈴 川 
             ( 「 道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ 」 )

            「  たちどまり かげにめをやる
                       意す つ   仮  は
                    暮れ し   日向 に  おもう  宿 」

  8. カエル より:

    善友はペーパーナイフのごとし
    近くにあったらとても便利
    でもなかったら封筒を手でビリビリビリと

    自分の手で五蘊の封筒をひとつひとつ開封して
    中に何が入っているのか確認する
    アートマンの当たり券が入っているかもしれないし
    やっぱり空かもしれない

    • mani(管理人) より:

      アートマンの当たり券は、ヒンドゥー教の方に入ってて、
      空なのは、ブッダの法。。。

      「ヴィシュヌ神の九番目のアヴァターラが、ブッダ」っていう意味を心底了解して、この世は嘘がつけないように出来ているなあと思いました。

      誰も何も言わなくても真実は知られていくんだなあ、って思いますのじゃ。。

      • カエル より:

        マニカナ先生、こんにちわ

        ヴィシュっ!と浸透しちゃう最高神ですね。
        多神教は時代とともに流行あり習合ありですね

        結局は直接会うまでは何もわからないのよね
        死んだあとにアッラーとムハンマドがいたらいろいろ覚悟します(笑)

        • mani(管理人) より:

          カエルさま こんばんは。

          > 死んだあとにアッラーとムハンマドがいたらいろいろ覚悟します(笑)

          そうだったら覚悟した方がいいと思います

          でも、それって、輪廻してると思うんだけど。。(笑)

  9. Pocket より:

    >わたしの善友はお釈迦さんです。もし、お釈迦さんがいなければ、わたしがおシャカになってました。ジョーダンではなくほんとです。

    わたしの善友はmani先生とoさまですね。
    まだ右も左も分からなくて「ブッダは輪廻を否定した」みたいなレベルの素人だった時にお二人の文章で仏法に対する信が固まった感じです。

    善友がいなければN村先生のような人に引っかかって法が馬の耳に念仏になってたと思います。
    お二人には本当に感謝してもし切れません。

    •  春間 則廣  より:

      > >わたしの善友はお釈迦さんです。

       善悪 に 限らず 「 友 」 とは
                    必ず 相互関係 です

         あなた が  そう認めたくても
           相互 に そう認めなければ 成り立たない関係です

           そして (大事なことは) 友 の 友  は   共に 友です
                  
      > わたしの善友はmani先生とoさまですね。

          そうすると わたしには
        ブッダ以外の 「 善友 」  は いないこととなります 

        ( 勝手に  「 善友 」 を 作るのは・規定するのは
                  “あなただけの 特権” ではありません )

        ある人にとっての  「 悪 」( 「 善 」 )  は
                その  「 善友 」  に とっても
                     「 悪 」( 「 善 」 ) であるから
                 “ 善なる関係 ”  は     根拠に立ちます
        
          わたしは あなたと O様 にとって  「 悪 」  です  !

             ・・・・・・・・・・・

         関係 とは 固定したモノではなく
                ( 新たに ) 築き続けるものです

         ただし たとえ   一方(?)が壊しても
              再び 築き上げること は 可能です
        もっと言えば ( 一方が ) 壊すのは 簡単です

      > もし、お釈迦さんがいなければ、わたしがおシャカになってました。

         もし    ということは 存在しません

         それ以前にもいて  それ以降にもいる

           けれども  いるかいないか は
           あなたの  「 今 」 しだい ( あなたに今があるのであれば )

          今現在 過去 未来 に “執われる” と
                  アミタ ということは 決して成り立ちません

         「 無 仏 」 の時  とは
         いないとする人にとって 成り立つ状況です

      • Pocket より:

        春間さま

        >わたしには  ブッダ以外の 「 善友 」  は いない

        春間さまは、つおい!

        >勝手に  「 善友 」 を 作るのは・規定するのは“あなただけの 特権” ではありません

        そうですかね。まあ勝手に善友認定すると迷惑かもしれませんね

        >わたしは あなたと O様 にとって  「 悪 」  です  !

        oさまは春間さまを嫌ってるかもしれませんが、私は春間さま嫌いじゃないですよ

        >ただし たとえ   一方(?)が壊しても 再び 築き上げること は 可能です

        その節はすみませんでした。

        >「 無 仏 」 の時  とは いないとする人にとって 成り立つ状況です

        春間さまは仏法がなくなっても独覚路線で修行してそうですよね

        •  春間 則廣  より:

          > 春間。。は仏法がなくなっても独覚路線で修行してそうですよね

           仏法 とは  “単一なる「 法 」” の意味 
             単一 とは 一つのみで  「 縁起 」 に 乗らない という意味

             独覚 であろう と  「覚」 に乗る 「 法 」 が ある 

             その 「 法 」  を   「 不図  法 」   と 呼ぶ

              「 真理 」 とは 各々が 手にすることができる法

          Su. 883・884   ( 出典 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」 194p. )

          『 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?
               真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。 』
            

               わたしは 手にした武器  で 争いを起こす

          • ぎんた より:

            春間さんはぎんたにとってどんな善友かというと、文脈関係なく
            爆弾を投げてもいいから、とっても助かるのですよ!!!!!!
            ↑でもこれはぎんた自身がそのように判断したからですけどーーーーーー

            今、びじゅチューンの9月末でYouTube配信終了を知って動揺中ですよ!!
            いい曲いっぱいある。

    • mani(管理人) より:

      Pocketさま こんばんは。

      >わたしの善友はmani先生とoさまですね。

      考えたら、oさまもPocketさまも善友です。わたしは皆さんの判断を基準にしています。
      学べる人はみな善友ですねえ。

      昔の偉い人もみな善友。。聖徳太子とか法然、親鸞、道元、空海、他にもインドにもたくさんいますね。。

      広く考えると、このサイトを見てる人は、みな、わたしの善友なんだなあ、って思います。

      >N村先生

      かれもまたある意味善友かもしれない。。拡大解釈ですが、『法華経』などにありますよね。

      •  春間 則廣  より:

        > わたしは皆さんの判断を基準にしています。

            それは あなたの判断  
           (  皆さん  と  囲う基準 も 問いたい )

           残念(?) ながらも
            “わたし” は そこに入らない( 入れられてはない )
                    (  入らずに  )
               “外”から  豚の“信受”  を  投げつける

        > 学べる人はみな善友ですねえ

           学ぶ人 は  「 善友 」 ではあるけれど
                   “ 学ぶ ” という 意味を考える 、、、、

           学べなければ  「 善友 」 ではない
            けれど   学ぶか学ばないか の判断  は
                    個人の自由裁量

          その “ 裁量権 ” を 振りかざす  “ 「 善人 」 ”

          学ばない( 学べない ) のは “裁量” による

               マタイ福音書 7-1 - 6

         「 聖なるもの 」  とは “ あなたが 聖 とする もの ”

             「 あなたが用いる裁量 で あなたは 裁かれる 」

        第7章

        1 人ひとをさばくな。自分じぶんがさばかれないためである。

        2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分じぶんもさばかれ、あなたがたの量はかるそのはかりで、自分じぶんにも量はかり与あたえられるであろう。

        3 なぜ、兄弟きょうだいの目めにあるちりを見みながら、自分じぶんの目めにある梁はりを認みとめないのか。

        4 自分じぶんの目めには梁はりがあるのに、どうして兄弟きょうだいにむかって、あなたの目めからちりを取とらせてください、と言いえようか。

        5 偽善者ぎぜんしゃよ、まず自分じぶんの目めから梁はりを取とりのけるがよい。そうすれば、はっきり見みえるようになって、兄弟きょうだいの目めからちりを取とりのけることができるだろう

          わたしは このように マタイを持ち出し
                 あなたを  “ 裁く ”

          その “裁きの権利”  は あなたによって 授けられたモノ

        6   犬 であり 豚 である わたしは あなたがたに噛みつく

        > かれもまたある意味善友かもしれない。。拡大解釈ですが、『法華経』などにありますよね。
           どこにあるか は  (あなたが) 問う意味を持たず
                                 (あなたに)
          “どのようにあるか”  とは  常に問われる 問い である

         かもしれない  という “ しれない”こと を 裁き
                         “了”「見」  に 載せる

           「 かも 」  と付ければ  逃れられるのかな ?

           拡大解釈 ??  ( おおきく出る )

           元々 大きなモノ( 「 無量 」 )  なのに
            元は小さく ・ 拡大して大きく   しているのは 誰 ?

           等しく慈しむ  「 弥陀 」( AMITA )

               鍵 は 限るあなたの手の内にある 、、、、

      •  春間 則廣  より:

             「 世間 」 における
        友達 の 友達  は 必ずしも  友達であるとは限らない

           あなたが 友達だと思う人 が
             あなたが受け入れ難き人  を
             友達と思う  ということ は よくある事である(有りうる)

              しかし  「 善友 」 となると、話は一筋縄ではない

          この場合 の  「 善友 」 とは
           (釈迦)牟尼 が
         「 善なることのすべては 善き友と 共にあることである 」
            と 規定するところに発している

         「 仏教 」 サイト ではなく !   「 世間 」 に於いて !
            善き友 を 善友  と呼ぶこと は  自由裁量に属する

        “  「善友」 の 「善友」  は 必ず 釈迦牟尼の 「 善友 」  ”

           “ 善なることのすべて ” が その関係性に起きる

          あなたが いくら 「 善友 」  と 呼ぼうと 、 その呼ぶこと は
           その “ あなたの友 ” が
          ( 釈迦牟尼の言う ) 善き事のすべて である
                         という  根拠とはならない

        > 学べる人はみな善友ですねえ

          学べる ということは  学ぶ人の 資質から 生れ出る

         ( 正しく )学ぶ人  は おしなべて 牟尼と共に歩む人
         ( 正しく )学べるかどうか  は    牟尼の資質

           言葉づかいが あやふや   なのは  思考があやふやだから !

          正しい思考 は 正しい言葉使い から “のみ” 生れ出る

             紛れた 使いかた の言葉  とは テキストに過ぎず !

            *******

           泥棒の親分が  子分に対して

          「 お前は 何の為に仕事をしているのか
                   ちゃんと やるべきことをやれ 」
               と   “ 諭す ” に 似たり

            *******

            諭されて 真面目に取り組む  泥棒家業( 世間体 )

        > 広く考えると ・・・・・・・・・・ みな、わたしの善友なんだなあ、って思います。

           それは “広い” かな ?
         ( あなたが 広狭 の 尺度を用いるとき )

            その尺度 は ( 裁かれる ゆえに )  狭いのである

          もし あなたの言うことが 真実ならば

                 わたしは このサイトを 見たことはない !

        • mani(管理人) より:

          ハルマさま こんばんは。

          >言葉づかいが あやふや

          あやふやではないですよ。
          お釈迦様が善友であるのは、聞いたときにだけ答えてくれるからです。

          縁起にかなってるんだよ。。

          •  春間 則廣  より:

            >  お釈迦様が善友であるのは、聞いたときにだけ答えてくれるからです。

              あなた と ブッダ  とは 共にある事が 善なることのすべて
                                だとしても

              あなたの  ( 名付ける ) 「 善友 」 は
                ( お釈迦様 に とっての )
               善なることのすべて であり   共にある 善き友  ですか ?

            >> “  「善友」 の 「善友」  は 必ず 釈迦牟尼の 「 善友 」  ”
                “ 善なることのすべて ” が  その関係性に起きる
              あなたが いくら 「 善友 」  と 呼ぼうと 、 その呼ぶこと は
               その “ あなたの友 ” が
              ( 釈迦牟尼の言う ) 善き事のすべて である
                             という  根拠とはならない

                  なっていますか ?

  10.  春間 則廣  より:

     「 同行二人 」  であれば  「 善友 」 です

      それが ひとっくるめで  どうぎょうみたり  でも

       同行ならば そのひとりひとり が  「 善友 」 です

       古城へ続く道 を あゆむ 行者 は ムニノシンユウ

       ただし たわむれに すなをつんでも ぎょうはぎょう

    • ぎんた より:

      たわむれに爆弾投げとく。

      びじゅチューン!のやつ  ワンちゃんが最高にかわゆい大活躍のヤツ!!!

      「アルノルフィーニ夫妻のベルト防衛戦」

      あと空海の!

      「立体曼荼羅マスゲーム」

      あと、いっぱい動物出てくる!

      「樹花鳥獣図屏風事件」

      あと、「ムンクの叫びラーメン」「レーサーはゴーギャン」「アルルの訳あり物件」
      「特急三日月宗近」「オフィーリア、まだまだ」もーーーー!!!

    •  春間 則廣  より:

      < 善なることのすべて >

      岩波の該当箇所

        ( 岩波文庫 「 神々との対話 」  p. 191 )

        ( 164p. も 参照  要す  )

       **********

        WEB の ここを 参照してみてください

      https://j-theravada.com/dhamma/kougi/kougi-085/

       <  抜き出し >

      またある日、コーサラ王が、自分が考えたことをこのようにお釈迦さまに報告しました。
      「世尊の教えは完全に語られています。しかしその意味も善友と関わる時のみに限ります。悪友と交わる時ではありません。」

      お釈迦さまは「その通りである」と賛成され、善友と交わることについて説法されました。(Saṃyutta Nikāya 1,87)

      良い友人は自分をしっかりと導いてくれるし、すばらしい影響を与えてくれる。それどころか、良い友人に恵まれることが、人格を完成させるための、たった一つの条件なのです。

      • ぎんた より:

        自分の周りに善友を配置したと思っても、政治が悪かったら駄目じゃね❓️
        あと、釈迦族殲滅しちゃったんなら、
        今まで言ってたこと全部無効じゃね❓️

      • ぎんた より:

        あと、世界がこんなふうなら、
        仏教の進捗状況かなり悲惨じゃね❓️

      • mani より:

        春間さま 
        >WEB の ここを 参照してみてください

        違うこと書いてあるのかと思いました。。よかったよ、違わなくて。

        わたしの友人はおしゃかさまなのです。

        だから、ね、おしゃかさまが悪い奴でもちっともかまわないのよ。。
        ブッダ論理の人だからね。すべては自己責任。