something new

何か新しいことを書かないと、コメントが限界超えちゃう。。写真もないし。。追われる日々。ココログで時空について書いた。

なに?ココログって?まだ残ってたの?

残ってたんす..よく分からないniftyの仕様ですが、書いたら書けるので、ぼそぼそつぶやきながら今日に至っています。「管理人エムのカレーな一日」https://manikana.cocolog-nifty.com/main/

これだけhttps:になってるしね。よくわからないね。

だけど、「時を語る」ことは大切だ、ということはわかる。というより、語り始めると、時の中に入っていることを知るのです。「始まり」ができるからね。その次に、「中間」が来て「終わり」も来るんだね。

こうして人は「時を語る者」となるのです。

まず過ぎていった「過去の世界」を知る。それから、これから起こるだろうことに目を向ける。それを「未来(まだ来ていない)の世界」と名づけてみる。そして、それを考えている自分を「現在」とおくと、時は三つの相を帯びて広がる。それから、並べてみる、過去があって、現在があって、未来がある、という順序が出来上がる。

現在を重要視すると、空間が生まれてくる。過去と未来を現在において語る、という広がりが生まれる。時は、どっかに飛んで行っちまう。空間に気を奪われ、「考えるわたし」に夢中になる。虚空を見つめて、その広がりを「はてしがない」と満足する。。「空(そら)」が生まれてくる。

「空(そら)を考える自分」に、満足すると、自分が広がる。。「わたしはいる」と思う。・

916. (第十四経第2偈)

尊師は言いました。「多様な想いの名称に関して、根本にある『考えたあと、わたしはいる』という一切を破壊すると良いでしょう。自己のうちにある渇愛は、どんなものでも、それらを調御することを、常に気づきをもって学ぶとよいでしょう。(『スッタニパータ』)

ブッダの教えを知るべし、ね。

「空(そら)」は消えて、肥大したわれは空(くう)となる。

時も、仮に説いてみるもので、空(くう)も仮に説いてみるもの。時空を知ると、寂静にいたる。寂滅にいたる。

「われおもう、ゆえにわれあり」については、ブッダは執らないことをしるのです。

ブッダの後に出てくる思想だけどね。

ブッダは、あらかじめ、後に出てくる偉大な思想「われおもうゆえにわれあり」をとらないとしるのです。

***

ここでつけ足しておきましょう。

ブッダは「あらかじめ知っている」ということを、ここを確認します。

ブッダがまだ起こっていない未来のことまで知っていることになるので、彼は「一切智者」なのです。

デカルトは、1596年に生まれ1650年に亡くなったフランスの哲学者、数学者、近世哲学の祖と言われている。デカルトの頃からでもすでに2000年は経っているブッダの教え。うそだろ、ってみんな思うにちがいない。。

コメント

  1.  春間 則廣  より:


           
      「 順序 」 建てて ( “共” 建 法幢 )
        順を捨てて     横に並び( 朋友 ) 
        法幢 の    たなびく さま  を “ 観る ”
           ( 知 は  ふれている・縦横に移ろう )

       揺れている “ チ ” を 揺れずに   観る

    >  順序がつく、ということは、私は時を語っているのです。だから、この語りでよいのです。

      ブッダ は 時を語る ト キ でも

       止まる キ( 起・記・“気持ち” ) を 用いない

       登る(ト) 気ウン を アウン の ナ カ に 語る
            (  名を 借りて 、 仮 を  カ タル  )

       (順序)   づける  ということ  と
       (カタリで)  良い  ということ
      ( 良い ~ 悪い  と 順序つける )

      記 するとき には  記する対象 は 
        止めて  “見”られる    「 世間 」 の  目
        止めずに 留(トト)める  「 止観 」 の 観察

       あなたは  “ 時に ” ・  ときおり 
             「 止観 」 の   芽 を そだてて いる

    > 無我にならないと、自分の中で、こんな風には思わないからです。

              自分を捨てて
    >  ブッダは、無我を得てから、
           我を捨てることを得つつ
    >   無我だと   語ったということを知る  ことになります。
          語る 過去  が  今・未来 を 越えて
         “ 仮 去 ”  に    起きる

    > 知らないことを知らないと知っていることによって、ブッダは一切智をもっていた、と知るのです。

      知らない  という 対象  を  知っていて
          知る・知らない    を  知っている

      玄奘 は 「 一切 」 を “ 使わなくてはいられない ”
     ( 「 一切 」 に 触れるとき   “一切” は  逃げていく 
                触れた対象 は  手の内に 止まる    )

      玄奘 は ナーランダ で “ 知る ” ということを
                     気築   挙げてしまった
      ( “自ら” の 瞑想 を  記そうと “ 努力する ”  )

          「 瞑想 」  派   記するモノではなく  するもの
        している者  だけ が  “気” ということを “ 知って行う ”

         行っている こと  を      知る に    止める
     ( 止めて  「 観 」 することを ) 見て 知るに   囲う

    >   そのことすら知らないことに、
         ブッダのことばを聞いて、気づくのです。

       気付いている( 気付き 続ける 過去完了 ) 者 が
         気づいた者 へ  導きの道標 を 置く

       気付いている( 気付き 続ける 過去完了 ) 者 が
         気づいた者 へ  導きの道標 を 置く

         置かれている  「道標」  は
         置く道   の  すべて   を  指している
     (  置いて 留まり  「 止観 」 の “眼” で 指さす  )

  2.  春間 則廣  より:


       
          親指 “ トム ” ( Tom ・ Thumb ・ some ) 作務 

          親指 を建てて  YES (ナザレの) を 示す

           (  キリスト は  寝転んで 死んでいる  )

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%8C%87%E3%83%88%E3%83%A0

  3. カエル より:

    英語のsomeとパーリ語のsankharaのsanは同根かにゃ?

    • カエル より:

      英語のdonateはサンスクリットの旦那と同根なのは確実か。

    • mani(管理人エム) より:

      sam(san)とsomeは、同じ語源ではないですね。紛らわしかったですね。

      samは接頭辞で「共に」「同じく」「集まり」などの意味を持ちます。
      someは「いくらかの」という意味だしなあ。

      •  春間 則廣  より:

        > ブッダは、あらかじめ、後に出てくる偉大な思想
                偉大かな ?  ( 二番煎じ )

        > 「われおもうゆえにわれあり」をとらないとしるのです。

         ・  わたしは 思う   その 根源に   「 我 」 が ある
         ・  わたしの存在の根源   は    “ わたしが 考える ” ということ 

           どのように 記されているか ではなく
              そこから 何を 得ているのか   ということ

          得ていること  が  “ 私事 ”  では 
             「 我 」  を  解明する手だてにはならない

            あなたは 文字を手にして
                       何 を  記する  ?
                       何 を  「 行 」 とする ?    
            どのように      ブッダ の 説くことに触れる ?

        ・ 

        • mani(管理人エム) より:

          >   得ていること  が  “ 私事 ”  では 
          >      「 我 」  を  解明する手だてにはならない

          そうかどうかを判断するのは、あなた‘自身’です。

          。。。

          こまったね。。

          •  春間 則廣  より:

            >  得ていること が “ 私事 ” では
            >      「 我 」  を  解明する手だてにはならない
            >>  そうかどうかを判断するのは、あなた‘自身’です。
                 。。。       ???
            >>  こまったね。。

                こまっていて (で) は いけない
                こまっていて     は いけない

                   こまる  という  おおまる
                    まる  という  ま  もる

                こ は おや? より いでて おおきくそだつ

              おやこ の うえに 順序を おいて は いけない
                  いけないところ  は   いかないところ
              おいて いくところ を みすえると
                   おいて イナイ   ( いけない )トコロ が 
                 見えて   くる
                 見えて きて・いきて  いけるトコロ が 見えている

               ところで   トコロ って  ドン な こと   。。。

          •  春間 則廣  より:

                おや の 細胞 から 個我 出でるけれど
                おや という タンパク質 は 
                親子 の 間では 差がない
              ( 蛋白質 を 選択していく ゲノム は 共通している )
                 もっと言うと AGCD  ( という 共通項 に ) は 
                       同じ ・ 「 平等 」 
                    差異がない
               「 人 」  は 平等に はっし   才なき に もどる
             
                 小丸 という  差異 を  捨てて
                小 から 大  への   ( 巡りつつ )
                   ( 差異 という )  遍歴 を 捨てる

  4. カエル より:

    英語のsomeは古英語のsum,PIEのsemでいっしょにとかひとつのという意味らしい

    https://www.etymonline.com/jp/word/some

    サムにゃんはどうかにゃー(笑)

    • mani より:

      > 古英語のsum,PIEのsemでいっしょにとかひとつのという意味らしい

      おおっ!出ましたね。サムにゃンは、にゃんとも言えんけど、ダン吉と一つだからにゃー。。

      接頭辞っつううのがひっかかったりもするにゃんこ。

      サンカーラは行蘊だよね。蘊は「あつまり」だしねぇ。
      「一族、みな兄弟」みたいになってきた。。

  5. Ryuko (PL) より:

    エム先生

    > 「われおもう、ゆえにわれあり」

    これは、言葉遊びをしても面白いですね。正確に語り得ることを目指すなら、
    「”われおもう、ゆえにわれあり”、という、”おもい”が生ずる」、だけだろう、と思います。

    「われおもう」のように、人を主語に立てると、言葉や文法の世界が、あるがままに認識された世界を、あるがままに映し出せているのかどうか、哲学的に難しい気がします。言語をいかに規定するのか、という文脈にもってかれて、戯論の世界に行きそうな気配です。

    存在や認識を表そうと思った時に、間違いなく語り得る!ことを目指すなら、素朴に、「◯◯が生ずる」、としか、言えないような気がします。

    「わたしは」というのは、表現し得ることの最小単位として考えた時、純度が低いように感じますね。

    と、考えると、結局、ブッダの言い回しになってしまっているので、やっぱりブッダってすごいんだなっと思います。

    > 「管理人エムのカレーな一日」https://manikana.cocolog-nifty.com/main/

    ああ、こちらにも書かれていたんですね!気づかなかったです。サイトには、公式ブログとしてリンクしないのですか?WordPressの日記と、なにか棲み分けされていたりしますか?

    • mani より:

      Ryuko(PL)さま 

      PLって書いてもらってよかった、てっきり、新しい書き込みだと思うところでした。

      > 「◯◯が生ずる」、としか、言えないような気がします。

      そうですねえ。こういう、認識や存在に関わる表現は、インドではしっかり確立していますね。ダルマキールティは「agnir atra(そこに火がある)」と命題を立て、ニヤーヤでは「parvato vahnimān(山は火をもつ)」と立てた。
      認識論なのか、存在論なのか、使い分けられています。

      > 「わたしは」というのは、表現し得ることの最小単位として考えた時、純度が低いように感じますね。

      執着の言葉、アハムですかねえ。

      > 「管理人エムのカレーな一日」https://manikana.cocolog-nifty.com/main/

      これは、niftyの会員ページを一度はちゃんと見ておかなくちゃと思って、見てたらココログってあったので、あれ、まだ書けるンか、って思って書いてみてるのです。
      そのうち、公式ブログとしてリンクしておこうかな。

      棲み分けは特にしてないですが、そのうち、自然と分かれてくるかも。。