蛇喩経

連休はいかがでしたか。あっという間にすぎましたね。

何とか「中部」経典第22経の『蛇喩経』を訳して載せようとしていましたが、連休が終わってしまいました。

息子の調子も今一つで、パッとしなかったせいもあるけど、この『蛇喩経』は、なかなか難しい経典ですね。

お釈迦さまに、力はいってるなあ、って感じです。弟子の間違いを正す内容だからか、すごく丁寧に説かれていて、「これでもか、これでもか」と進んでいく感じがします。「諸法無我」の内容が徹底して説かれている、と思います。

今、まさに暴流を渡っているのだ、と徹底して教えられますが、その内容は

「法を捨てよ、況んや非法においておや」

ということです。執っておくための法ではなくて渡るための法なのだから、ということですが、現代では、大半の人が、間違いを犯したアリッタ比丘になっているような気がします。

「諸法無我」という法の実践は、どうすれば、実践したことになるのか?’自分のもの’だけを使って川を渡ることだ、と教えられるのです。

まさに渡っている人は、他人のものを使ってはいけない、ということです。

それは、言い換えれば、肯定の後に否定が来る、ということでもあります。間違い(=肯定)から出発して、正しいもの(=否定)にたどりつく、ということだからです。

アリッタ比丘はこう言ったのです。

「まったくそのとおりです。友よ、わたしは、尊師によって障害となると言われた諸法を行っても、必ずしも障害にならないと、このように、尊師によって教えられた諸法を理解しています」

アリッタ比丘は、甘い考えに陥ったのです。ちゃんと知ってるんだから知ってることさえ忘れなければ、わが身に危難が降りかかることはない、って思ったのです。

いざとなったらやるんだから、今はなまけてもいいでしょ、という考えと同じなのです。

みんながそう考えてしまう気持、ちょっと分かった人は、ゆめゆめ油断するなかれ、ですよ。

ここで肝に銘じておこう。怖いお話でした。

コメント

  1.  春間 則廣  より:

         「法を捨てよ、況んや非法においておや」

    > 言い換えれば、肯定の後に否定が来る、ということでもあります。間違い(=肯定)から出発して、正しいもの(=否定)にたどりつく、ということ

        法 を捨てよ  → 肯定
     ( 非 法 において → 否定 )  捨てよ → ( 二重否定 )肯定

        「まったくそのとおりです。友よ、わたしは、尊師によって障害となると言われた諸法を行っても、必ずしも障害にならないと、このように、尊師によって教えられた諸法を理解しています」

    > アリッタ比丘は、甘い考えに陥ったのです。
    > ちゃんと知ってるんだから知ってることさえ忘れなければ、わが身に危難が降りかかることはない、って思った

      思ったこと →  非法 に於いて 
       ちゃんと →  知っている
                知っていること  →  (=肯定)から出発して 得た
      知ってることさえ忘れなければ  →  執っておくための法

    > いざとなったらやるんだから、

      “いざ” という  “その”時   とは    いつも今
                  いつも  “ その ”  時にいる
     
           時を超えて        「 今 」 に ある
           ↓
       “ とわ ” に つづく    「 永遠 」 の 時
     =  「 願 」 と つづく( 共にある ) 「 浄土 」

    > 今はなまけてもいいでしょ、という考えと同

      「 今 」 なまけている( なまけ の ) 「 衆( あつまり) 」
          なまけること( 一人に起き→ 衆“人” に 起きている )
                 ( なまける ) →  「 衆( あつまり) 」
            なまけていること は  「 汎・一般 」 に 当てはまる

     これを読む ( 聞 し 思する ) あなたには   あてはまらない
       聞思    していない      あなたに       問われる
       読む(  = 聞く  ) という  声聞 におきる   「 縁 」
                        「 聞くこと 少なき者   は  」
                   「 かの犂を引く牡牛のごとくただ老ゆる 」

             証文(印可)   を  手にすれば ( 不能 なし )
     ( どこにでも ) “ 押印 ”     可能 だと 思い 「 魔 」 違う

    > みんながそう考えてしまう気持

       「 衆 」 に 起きる  「 愚 」  ( 衆愚 = 皆の愚 )
      (   起されている    「 己 の 愚 」 の 集まり=衆  )

    > ちょっと分かった人は、ゆめゆめ油断するなかれ
             
       ちょっと でも分かると( うがって 思う = 近く寄ると
                       大きく見える 自分の起こす 「界」 )

       夢 のなかの 出来事なら 起きれば醒める けれど 、、、、

      醒めてはいない →  「 聞 」 を  おろそか に する 
      ( 皆の中の ) 一人 に起きている おろそかなる“ あつまり ”

    >  ここで肝に銘じておこう

           聞思 しよう ( と 確認=モンシ する )

    >  怖いお話でした。

       いくら  読んでも      怖くはない話
       ( “聞思” することなき  少聞の人 の 
                        読んで起きる  聞く ということ )

        怖い と 読んではいけない  ( 肝に 銘じる 道 )
                             「 心 」 に 刻む
          “ 聞 思 ” するという    「 楽 」 へ 続く道
       ( 「 今 」 の 歩みの下 に  起きている 「 脚下照顧 」 )

    •  春間 則廣  より:

        荒波に耐える
            あたらしき 「 札 」

      https://www.cnn.co.jp/style/design/35135543.html

        富士の横に 明るき  “透かし”  

          透かして見る → 察 する   

        秀逸 の 起きている 「 道 」 ・ しんにゅう (あたらしき道)

    • mani(管理人エム) より:

      >    法 を捨てよ  → 肯定
      > ( 非 法 において → 否定 )  捨てよ → ( 二重否定 )肯定

      そう読みましたか?
      なるほどなあ。。ショーシャンクさまの解釈に近いものがありそうですが。

      「肯定の後に否定が来る」という順序を入れると、確かにそうなるかも。
      龍樹風にいうなら、中道ということになるのかも、ね。

      龍樹が歩むゴータマの道ですね。。

    •  春間 則廣  より:

      > そう読みましたか?

        (?)  そう読んだ かな ?

      > なるほどなあ。。ショーシャンクさまの解釈に近いものがありそうですが。

         なるほど に   こうべを垂れる   否 保 かな

         こうべ  あげ  とどかぬ 句微 に  おなじかな

         近くとも  遠く 感じる  知覚 の 機微
                   感じたこと  は  “書く者” に 及ばず

        あなたの 解釈  にも 言え
        ショーシャンクさん の  能 ( 解 力 )にも 言える

      > 「肯定の後に否定が来る」という順序を入れると、確かにそうなるかも。
      龍樹風にいうなら、中道ということになるのかも、ね。

         「 肯定 」的 解釈 を  戴く
           龍樹 なら 切る    風 なら 取り敢えず 、、、、 

      >> ( 非 法 において → 否定 )
      >    捨てよ → ( 二重否定 )肯定

       ( 肯定されている )       (法を)捨てよ
         法を捨てよ   ( 否定において  法を  保て )

          「 法を捨てよ、況んや非法においておや 」

            これが  「 法 」  だと知る    “書く者”
       ( 肯定されている )   (法を)捨てよ   捨てるモノなき 「覚」
         ( 取捨 は あるが  選択 に拠らない  只管  → 打坐 )

         「 覚悟の遅速 」 に 未だ至らぬ
          →  「 道 」 を 知らずに 遅速 を 選ぶ 「 翳障の軽 」
             ( 道を歩む が     どの道  かを  選んでしまう )

      「 慈父 導子の方 大綱  此れに在り 」
           ( 此れ  「 道 」・此れに在り と 導く 慈父の己 に )

      >  「諸法無我」という法の実践は、どうすれば、実践したことになるのか?

         此れ 此の如く 「 道 」・此れに在り と 導く 慈父の子 を )

      >  ’自分のもの’だけを使って川を渡ることだ、と教えられるのです。

       “ 「諸法無我」という法 に 起きている ’自分のもの’ ” 
        とは   諸法に通づる  起こされることなき 「 唯我独尊 」

         導く 慈父 は 文殊の利剣 を 摂りて  
              能く八不を揮って かの妄執の心をを絶つ 
        「 賢者の説黙は 時を待ち 人を待つ 」
             「 文殊は是れかの人なり 」

         「 独空畢竟の理  義用最も幽真なり  」

          「 二我 何れの時にか 断つ 」  
            何れの時 であろうと  断つならば 時は “切れ去る” 
          「 阿陀は是れ識性なり 」
           アーリヤ(阿頼耶) に 起きるは 「 識 」の性 に 過ぎず 

      「 無無明 亦無無明盡 」 から   「 無苦集滅道 」    ト ハ
              「 因縁 」 であり    「 仏の三昧なり 」  と 證る 
                          「 依声得 道の三昧なり 」
           ( 何処において  仏の声 を サマディー に 観ずるや )

      >  ちょっと分かった人は、ゆめゆめ油断するなかれ、ですよ。

         「 油断 」 は 我に起き  “諸法” に 汎( 般 ) じる

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