上から読んでも山本山(やまもとやま)、って感じのことばですね。
訳すと、法随法(ほうずいほう)。
始めてこのことばに出合ったのは、『スッタニパータ』の「船経」でした。この経典は、すごく勉強になる経典でした。https://manikana.net/canon/nava.html
ブッダって、学校のせんせーみたいだなぁ、って思ったものでした。
317 かしこい者が、注意深く、これを(自分の)目的として、
『スッタニパータ』第一章「船経」
法にしたがって法を実践していきながら、
このような人に親しんで怠ることがないならば、
智慧のある、分別のある、卓越した者となる。
「このような人に親しんで」とある、「このような人」とは316の詩に出てくる人のことです。
316 人が、誰かから法を聞いて知るならば、
『スッタニパータ』
神がインドラ神を敬うように、その人を敬うべきである。
博学(多聞)のその人は、敬われると、
きよらかな心をもって法を顕わにする。
ここを読んだとき、学校で習う勉強の仕方と同じだと思いました。先生のいうことをよく聞いてそのとおりにやってみる、それが大事なことだと言っています。
「ダンマアヌダンマ(法随法)」とは、勉強を習ったら習ったとおりにやってみることを指しています。足し算でも引き算でも、習ったら習った方法で、そのとおりに自分も実践してみるのです。これを究めて行けば、その道のプロになっていけるのです。
「ダンマアヌダンマ(法随法)」にはもう一つ大事な要素があります。自分でやることです。他の人に頼んでやってもらっても、ダメなのです。自分がやらなきゃ、意味が無いのです。身につかないからです。
そして、ここに奇蹟があるのです。縁起の関係が起きてくるからです。
法に従って法を行うことは、繰り返しになるように見えます。何度も同じことを繰り返しているように端からは見えます。
ほんとに繰り返す人もいます。それでは、ダメなのです。ただの繰り返しです。
でも、そうではなくて、法に従いながらもさらに自分自身で工夫を重ねながら実践すると、繰り返すようではありながら、繰り返さない学びができるのです。
繰り返すのではなく、繰り返さないのではない、という道を行くと、ひらけた場所に来るのです。
それがサマーディ(三昧)だよ、と教えてもらって一息つくことになります。ああ、そうだ、一息ついちゃいけない。その到達点を吟味してみるのを忘れてました。
吟味してから、沙門ゴータマは、こう述べたのです、「これは涅槃ではない。無所有処定に到達するだけだ」と。そして、アーラーラ・カーラーマ先生のもとを離れたのでした。
絶えず、どちらにもよらないように、と注意深く進む道が「中道」なのです。
ダンマアヌダンマは、繰り返しでもなければ、何かを選びとって行くことでもない。どこにも触れないように、と、そうしながら進む1つの道なのです。
だから、自家撞着は起こさない、そんな道なのです。
コメント
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>「ダンマアヌダンマ(法随法)」にはもう一つ大事な要素があります。
自分でやることです。他の人に頼んでやってもらっても、ダメなのです。
自分がやらなきゃ、意味が無いのです。身につかないからです。
身についていないこと を 自分でやる
→ 身についてくる
自分で 他の人に頼む ( 自分で頼む )
→ 身に着いている人 の 法 随 宝
やる意味がある ( 法随法 )
自他 の 身につく ( 自他 とは 不二 の関係 )
「 他 」 の 身 に つかなければ
「 自 」 という 存在(性) の 「 無 」
他 が あって 自 が 起きている
他 に あって 自 に ある 「 根拠 」
自分でやる → 「 自己 」 が そこに起きる
( 起こすべきではない 自己 )
誰がやろうと 自分事 ・ ヒトゴト
自分の修行 などではなく( という 所有物・宝 など ない )
他によって 与えられている 「 修行 」 ・ 荘厳(華厳)
多 宝(法) 問う ( 二如来並座 )
一即多 ( 一に始まり 二に 開く ) 法随法 の 二如来
大事 という時の 小事 なること の 要素
小事とあなどることなかれ
あなどらない だから、自家撞着は起こさない
> そんな道なのです
( 損して そんな・そのような 徳とる そう いう 道 )
・
「比較(慢)」というのは「違いを知っている」から「出来ること」でして
法のみを知るならば「他法(四方/六方/八方)」と「比較しない(他がない)」んじゃないでしょか?
比較があるならば、疑がある、疑があるならば我がある、その為に法=信がある
ってことで、なぜアングリマーラは阿羅漢になれたかとか、比丘サンガが根本分裂したとか、大乗が誕生したとか、とかも矛盾しないなぁ…
と、ワレ思いました
………………………………………
私は「随法者」に劣る「随信者」――祈りの道(パクティ)
「ダンマアヌダンマ(法随法)」の内容がどんなものか知りませんが、
石飛先生は「法隋法」をなされているのですか。
秘密にされないで修行の内容を教えていただけたら幸いです。
次の藤本晃先生のものを参照にしています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpbs/19/0/19_KJ00004002328/_pdf/-char/ja
藤本氏は浄土真宗の僧侶でもありますから、「聞法」の根拠としているのかも
しれません。
私の観音信心の場合、唯識仏教によれば、「三十七菩提分法」の「信 ・精 進 ・
念 ・定 ・慧 ]の五根力法です。念定慧による「信解脱」への道とでもいいま
しょうか。
ヒンズー風なら、神への「信愛の道」という「パクティ」――【祈り】の道。
ただ、大いなる神(理法)を信愛し祈るだけ。
これは、「隋法者」よりも劣ると言いますが、しかしこれは、貧乏で学問のでき
ない人にも、文字が読めずに理解力のない人にも、法の話を聞く時間もない人
にも、身分差別を問わず、誰にでもできる。
それこそ、貴賎を問わない「修行法」だと思います。
インドで仏教が滅んだのは、お金持ちできない学問に走った面もあったそうです。
インドの殆どの人は貧乏で学問をする余裕もなく働きずくめ。偉そうな僧侶の話
を聞く時間もありません。
そんな難しい仏教から人々は離れて行って、多くの神を信じるヒンズー教に
取って代わられた。
人々に寄り添う大乗仏教は「祈りの道」を取り言えることによって発展した
のではないのでしょうか。また上座部の「慈悲の瞑想」も「祈りの道」です。
上座部といえども、在家の人は「慈悲の瞑想」ぐらいしかできません。
難しい学問による仏教は、日本においても消滅して行くでしょう。
だからこそ、難解な学問の唯識仏教は、人々には観音信心という「祈りの道」
を推奨した。
それは『十住毘婆沙論』易行品の「現生不退・憶念称名」の道でもあります。
それが、観音経の「一心称名」であり、法然の「称名念仏」です。
井筒俊彦がイスラム教から起こしてイランで勲章のもらったスーフィズム
もまた「祈りの道」です。
その誰にでも平等にできる随信法という「祈りの道」を馬鹿にしないで、
大切にしたいものです。
芳和さまのおっしゃる「祈りの道」も、法随法なのですよ。
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> 次の藤本晃先生のものを参照にしています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpbs/19/0/19_KJ00004002328/_pdf/-char/ja
>> 悟 りは あ る 時突 然 開 け る もの で は な く
開くまで は 閉じている
( 入ること が できる時 開いている と 言える=言う )
半開き であろうと ( 目的があるのであれば ! )
入れれば良い
ずいぶん開いたものだ と 眺める 阿羅漢
もう そろそろ 開くのは止めて 入ったらどうかと
勧める ホウワ ( 随 法 )
どこまで開けるか で 「 預流 」 が 決まるのではなく
暗闇 から 明けることが 出来るのであれば
( アサ ) 陽 が 昇っている と 言ってもよい
あるとき 突然 ( 物事・世事 ) が 見えるようになる
見えるようになれば 「 道 」 を タガウ ことがない
誰かにとって は 明るくとも
誰かにとって は まだ 「 道 」 が 身 得ぬ
身 に ついて 観得る ならば “ あかるい ”
「 吾 」 の かるさ で 飛翔する
「 風信 雲書 自天 翔臨 」
そこを 開いて ( よく読み・よく聞き ) 奥 を しる
「 止観 」 が なければ 開かれることはない
開かれてはいない者 に 扉の 中 外 は
扉によって クギラレテ いても 同じ 仏国 だと しめす
そんなこと 信じない という者 に 開かれている 仏国
( 信じない という 扉 は 開いている )
( 生死 を 分かつ “ 天国 ” の 扉 )
見なければ みえない ( “身” に つかない )
見えている のであれば いるところは 見えている
どのように表わそうと
自獄 から モノを言えば ( 形而 上 で 足踏みすれば )
地獄 は 地獄 テンゴク は 足下 に 起きている
ソッカラ “ 卒 ” から 離れる = 卒業(ゴウ)
「 己 」 っ から 「 他 」 から を しる ( 得る )
完全な阿羅漢 とは 不完全な者 の 形而上に起きる事
「 法 随 法 」 とは アルハット の ダメ ノ 他から かな ?
他から と言おうと 足下にある 自随 の 法
「 法 」 したがえ 法衣=糞掃衣 を 着る( きてみせる )
ありがたき 「 法 」 は “知り”から 漏れ出た
糞 に 真 みれる
ここぞと 馬鹿理 で 糞つけている 自利 ( 理トク )
誰が どのように 分つけようと 「 法 」 は 「 法 」
分づけるもの も 「 法 」 である
「 法 随 法 」
> 預 流果 に 向か う二 者 の 中 で 随 法 者が 随 信者 よ り上 位 とい う順 番 は 常 に 定ま っ て い る
上下 が あるから 足下 が 起きる
足下 に 「 法 」 がある のであれば
そこ は 下ではなく上 ( あなたに ジョウホウ を 示す )
“ 藤本 という 者 は 方ヲ タガエル ”
違えた ところ から 法を眺めて
それはまだ 「 法 」 ではない と
スマナ サン を 上げる
( すまな僧 ではなく スマヌ 僧 に 住む )
テーラワーダ とは そんなところに起きている
住んでいる ところで 縛られている ( 自 で 縛る=獄 )
「 自獄 ぞ 一定 住処 なる 」
そうしること で 縛りを解く ・ 愚禿 ・ 愚 を 解く
しんらんかお で 真宗 で カネもうけ = 葬式 仏教
寺 を 預かり シンショウ( 真 証 ) を 観ず
そういう 法 に も 隋法 は 起きている ( 瑞 法 である )
いくら 定義 しようと 定まっているモノ に
さだめは 不要 → 「祈りの道」も、法随法
・
「無我」とか誤解されやすい用語を使うのは良くないですね。
平易な言葉でわかりやすい喩えをする人が同時代にいないのであれば、法を洲としおのれを洲として激流を渡るしかない。
>「無我」とか誤解されやすい用語を使うのは良くないですね。
アナッタン(無我)を、釈尊が使ったのは、自分のこだわりに気づかせるためもあるような気がするなあ。
釈尊は「自己がない」とは言わなかった、という人々は、アナッタンに「自己はない」という意味を見ています。だけど、釈尊は「自己はない」とはいわなかったのなら、アナッタンと語った釈尊を誤解したのは、自分なのだと知るだけだろうと思うんですよ。
>アナッタン(無我)
漢語の当て方が乱暴ですね。それで本当に大丈夫なのか?
まあ、こういうのは関わらないのが吉ですね。
> 漢語の当て方が乱暴ですね。
おお、いい反応だわ。漢語のあて方は乱暴じゃないの。「無我」に「我がない」を読みこんでる解釈が乱暴なのです。
「アナッタン」は「自己ならざるもの」ということで、「無我」と訳して悪いわけではないのです。「非我」は「自己ではない」という動詞表現になっていると思う。非我と無我を対比させるのは、ちょっとことばの使い方を知らないというか。。なんというか。
この意見は、作られたもので、巧みに誤解を煽っているように感じられてなりません。
*
「 無 」 とは 隠れていて観えない という意
また 「 明 」 と 類似の音 であり
「 望 」 にも 類する
( 漢字語源 449p. 4525p. )
「 無い 」 という 語 の 対極(縁) にある 「 有る 」
( あって 初めて “逢わぬ”・“ ない” が “ ある ” )
明 ・ 望 をしる 格義仏教
・
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「 非 」 とは 背中の一対の “ 羽 ”
互いに 違う方向に 羽ばたき 「 空 」 へと 舞い上がる
少なくとも 江戸期 までは
そのように知る 「 人 」 も あった
空海 道元 だけではない
“ 多くいない ” という意味は ( 見出しさえ すれば )
数多く 存在する という意味
多い・少ない 正否 の 判断
その “ 覆い ” 頭 で 決めつける
多い・少ない・正しさ が 「 揀択 」 だと
( 気がつき )分別 できます か ?
・
(´・ω・`) ショボーン
承認待ちが解除されない…
Nanda-Khandhaさま
今、気がついた。。ごめんなさいまし。ほんと!気をつけます。
「一括操作」というのを「適用」させたので、承認待ちにならないと思います。
毎回毎回慌ててるので、いろいろ不備があってほんとすんませんです。