世間の荒波

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wikiから拝借。葛飾北斎の「富嶽三十六景」より。

「世間の荒波にもまれる」とよくいうけれど、こんな感じだろうか。木の葉のような舟が波に翻弄されています。舟の人たちは遠くの富士山を見ている余裕はないですが、世間的にはこの構図はよく知られたものです。

また、富嶽三十六景とは関係無い話をするんだろ、と思ったあなた。。少し、あたりです。

ヒンドゥー教のアートマン、ブラフマンと大日如来はどう違うか、という問題は、ショーシャンクさまによって建てられた問題だけど、春間さまが答えることになっている問題らしいのです。

でも、わたしも混ざって答えを考えてみたいのです。

いろいろ見えてきつつあるところなのです。ヒンドゥー教のアートマンやブラフマンは、さまざまに説かれます。

インドの覚者たちは皆、自我の消滅を説いています。
アートマンやブラフマンが思考では到達しないことも説いています。

(ショーシャンクさま・コメントより)

確かに、ヴェーダーンタでは宇宙原理ブラフマンは最高のアートマンであり、一切であるがゆえに、そのかぎりでは自我は消滅してしまっています。思考の及ぶところではありません。

しかしながら、ブッダの説くところと同じとは思えません。

ブッダは何を説いたのでしょう。「作られざるもの(無為)」と名づけた「涅槃」にあっては、一切が寂滅し、寂静となっています。その最高の境地は、ヒンドゥー教と仏教とでは区別されないかもしれないのです。

もし、ブッダがその境地を空と説くなら、ヨーガ学派もまたサマーディを「それ(禅定)では対象だけ光り輝いており、自己自身が空(くう)であるかの如くになるのが、三昧である。『ヨーガ・スートラ』3.3)」と説いていて、心を止滅させるときサマーディであると説くのです。仏教とよく似ています。

だけど、よく読むと違いがありますね。「空」と「空のごとく」の違いです。

密教に説かれる大日如来は、「空」といえるでしょう。しかしまた、ブラフマンやアートマンは「空のごときもの」ということになります。『般若心経』には、「空の中には何もない」、と説かれています。一方、ブラフマンやアートマンは、熟睡時において「不死」「無畏」であって、何ものも覚知しないと説かれます。まさに「空のごときもの」と言うことでしょう。空のごときもので何が言われるのでしょうか。

それは「一切世界はブラフマンである、アートマンである」ということだと思います。「有る」と志向するとき、「無い」は消えているのです。有るものが無いものに変わったり、無いものが有るものに変わったりできないのです。それを認めると、何でもありになってしまうからです。

有るものは有る、という世界がウパニシャッドの世界とみてよいでしょう。

逆に、「生じたものが滅する」ところで止まるのが、仏教なのです。それ以上は語らないのです。

生じたものが滅して、さらにその上、滅したものが生じたりしてはならないのです。「生じたものは滅する」ことのみ認めるのが仏教です。

さて、タイトルとも合わない内容だけど、これでアップしてしまおう。

みなさま、許してね。

コメント

  1. ショーシャンク より:

    石飛先生、こんにちは。

    おっしゃるように、
    「生じたものが滅する」ところで止まるのが、仏教だと思います。
    仏陀の教えとも言えるでしょう。。
    仏陀は、一切のものが、無常、苦、無我、不浄、である、と言いました。
    常、楽、我、浄なるものを説かなかったのが仏陀です。

    ところが、大乗中期になって、大乗涅槃経では、
    如来の常楽我浄が説かれます。

    大乗後期の大日経でも、その本性は常住と説かれます。

    爪の上の土ほども滅しないものはないと説き、常なるものを説かなかった仏陀ですが
    大乗中期以降は、如来は常なるものとなっていきます。

    ここにおいて、仏教はバラモン教に近づいたのではないかという問題提起です。

    • mani より:

      ショーシャンクさま、こんばんは。

      > ところが、大乗中期になって、大乗涅槃経では、
      如来の常楽我浄が説かれます。

      「一切皆空」など、「空」がはっきりと説かれるようになったからですね。
      ブッダを「一切智者」とする思想が浸透していったからだと思います。

      「一切智」というのは、無常・苦・無我・不浄に対して常・楽・我・浄という選択肢もまた自在に語り得るということを示しており、如来の悟りの境地を表すことばということになるのではないでしょうか。ことばは空なのですから、たとえば、相手の言い方を真似てこちらの意図を伝えたりすることもできるようになりますね。

      言われたことばを、常楽我浄ということばだけ聞いて判断するのではなく、文脈やその表現などに注意して思想を判断していかねばなりません。固定した意味はもっていないのだと知ると、必ずしもブラフマンやアートマンと同じとは言えないと思います。

      大日如来は、瓔珞で身を飾り、従来のブッダ像のごとくではありません。涅槃に入った如来は、われら凡夫から見ると常であり浄な姿をとってわたしたちに示されています。ブラフマンも、不死であり楽であると言えるかもしれませんが、空の思想をもつわけではないと思います。また、不死であり楽であることはブラフマンの特徴として主張されます。
      大日如来の常楽我浄は、主張されたり、固定的に説かれたりするわけではないと思います。

      • ショーシャンク より:

        石飛先生。

        仏教史の発展段階で言うなら、
        法華経には、『誤った思想のために生じた一切の過誤から解放されて、わたしは「空」の教えをさとり、こうして「私は悟りの境地に達した」と考えました。しかし、真の悟りの境地を悟ったのではありませんでした』とあります。

        法華経には、「空」の教えが究極ではなく、大いなるものを打ち出してきているように思えるのです。

        それが大乗中期になってさらに強く、はっきりと如来の常楽我浄を打ち出してきたのではないかと思えるのです。
        常楽我浄の中でも象徴的なのが「我」です。
        それまでの仏教の旗印であったのは「無我」ですが、はっきりと「我」を打ち出しています。
        もちろん、否定されるべき「自我」という限定ではなく、限定されざる「我」つまり大我です。
        大我の思想であれば、もはやアートマンと差異がないように思えるのです。
        禅でも、「一無位の真人」があって面門より出入すと説かれます。

        特に大乗涅槃経になって、仏性=仏になる基盤といい、かなり実体的に振れているように感じます。
        ここにバラモン教の影響を感じるのです。

        • mani より:

          ショーシャンクさま こんばんは。

          > 常楽我浄の中でも象徴的なのが「我」です。
          > もちろん、否定されるべき「自我」という限定ではなく、限定されざる「我」つまり大我です。

          仏教の意図がどこにあるのか、ということが問題になるのかもしれませんね。
          否定さるべき「自我」ではないのであれば、そして、「大我」を示しているのであれば、確かに問題はありません。

          インドがめざすものなのであれば、仏教から入っていこうと、ヒンドゥー教の側から入っていこうと到達点は同じではないだろうか、と言えるでしょう。

          そうであれば、仏教とヒンドゥー教を分ける必要がなくなりますね。

          自我意識を払拭してしまえるなら、究極のところ、一つの真実に人々は住することになるわけですから。

          仏教の側のこのような姿勢とヒンドゥー教の側のこのような姿勢を認めるとき、インドの国の奥深さを感じます。

          ただ、そうは言っても、ヨーガ学派の言う「空のような」というところに問題は残るのです。ヨーガ学派がよりどころとするのはサーンキヤですが、サーンキヤで説かれる「自我意識(アスミター)」は、プラクリティ(物質原理)からの転変なのです。ということは、完全に消えるわけではないんですよね。プラクリティが転変すると、自我意識は出てきてしまうのです。

          言語でいわれたもの、すなわち、思考の結果が残るということで、プルシャとプラクリティの二つは消えないことばになってしまう。寂滅しないからなあ。。過渡的な段階として説かれるなら、そうかもしれないんですが。。

        • mani より:

          ショーシャンクさま

          > ここにバラモン教の影響を感じるのです。

          お気持ちは分かりますが、ここは仏教だからなあ。。ふつうですと、ショーシャンクさまのおっしゃる通りでしょう。

          自我意識がないと、何でもできるンですよね。相手の自我意識をくすぐることもできるのです。相手の意見をそのまま認めて、そうしながら、相手の自我意識の発露をおさえる、という手だてもあるのです。

          常楽我浄をそのまま認めて、相手にあわせることによって、自分は見解から出てしまう(空性とは見解からの出離である.『中論頌』13.8)
          という手もあるのです。難しいワザです。『中論頌』4.8と4.9に説かれます。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生、おはようございます。

            私は、仏陀はそれまでのヴェーダ宗教を否定していないと思っています。
            それどころか、仏教は明らかにヴェーダ宗教の世界観の上に成り立っていると考えます。
            輪廻転生もそうですし、仏陀が亡くなる時まで北に頭を向けて寝たのはヴェーダの世界観に基づいています。

            仏陀が強く否定したのは、業(行為)を因としない、運命論や偶然論、神による決定論です。

            それまでのヴェーダ宗教との決定的な違いは解脱へのアプローチです。
            最初は仏陀も伝統的な、生存欲を滅してアートマンに到達するようなアプローチでしたが、それでは無理と判断しました。

            続きは後で投稿します。

          • mani より:

            ショーシャンクさま おはようございます。

            こだわりがない、というのは、ある意味で恐ろしい技です。
            予測もつかなければ推測も効かないし社会通念などをぶっ飛ばしているように見えるからです。ですから、混乱を招くので、ブッダは、「何か善いことを求めて出家した」、と語っているのでしょう。

            そして、常に論理的であることを自らの戒めとして来ました。

            それに対して、龍樹は論理を求めながら、常に倫理的であることに気をつけて過ごしているように見えます。論理を貫き、無我に徹底するとぶっ飛んだ答えになるので、絶えず倫理の縛りを入れて反発の芽を摘むようにしたのでしょう。

            龍樹は、大きく誤解されて、無慈悲で冷徹な論理家であるように評価する人もいます。

            大乗では、相手の論理をも使って、ある程度進みます。自分たちの論理(=縁起)に切り替わるところで、倫理的な道であることをこれでもかと強調します。そうしないと、論に勝つためなら何でもやる「我のかたまり」みたいに見えてしまうからです。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生。

            龍樹は伝記を見ても、私には『いい人』に見えないんです。

            隠身の術を習ってレイプしにいこうというのもあまりにも非道過ぎます。
            他の悪仲間は見つかって殺されていって自分も殺されそうになったとき
            『欲望は苦の原因だ』とはたと気付き無事逃げられたら出家しようと決意します。
            しかし、これは、欲望が苦の原因というよりも、犯罪を犯して捕まって殺されそうだから怖かっただけです。

            その後、敵対する者を神通力を使ってボコボコにするのも、あまりにも暴力的攻撃的ですし
            最後、小乗の僧に『お前は俺がいないと嬉しいだろ』と言って部屋に入って出てこず
            弟子が入っていったら亡くなっていたという記述もどうもその真意がわかりません。

            天才なのはそうなのでしょうけど、かなり癖の強い人だったのですね。

      •  春間 則廣  より:

         あなたの ヴェーダ の “ 知識 ” と

           ウパニシャッド の “ 知識 ” とは

          どこで 、 どのように得たものですかですか  ?

            いい加減ではない
                 という こと  を   示してください

               (  「 仏教 」 においても  しかり )

         仏教においては
          
          「 唯識三年、倶舎八年 」  と よくいわれます

          基本的 な “ 仏教用語 ” を 学ぶ ( 「倶舎論」 ) には
            八年かかる という意味です

          しかし、 石の上にも三年  と いわれるように

           ごく まじめに 学べば 、 基礎知識としての仏教 は

         あなたぐらいの ” 学力 ”であれば 、 三年くらいでしょう

         その上で、 自分について学ぶ  「 唯識 」 が あります

         「 倶舎論 」 は 世親 が 「 大毘婆沙論 」を 纏めたモノで 
           玄奘 が 30巻に 訳しました
         ( 三十巻 というと、 大きく聞こえますが、
         「 法華経 」 が 八巻ですので 大した 分量 ではありません )
          (  分=識別  するには 多きな 量 ではない  )

           「 唯識 」 は あの 玄奘 が 「 成唯識論 」 として
            彼の 主要とするところを 取り上げて 纏めています
             その解説 は 多くありますが
           興福寺 での 太田久紀 の
           講義録 である 『成唯識論抄講』二十巻
          を 底本としての 『成唯識論要講』 (全5巻) があります
         ( わたしは どちらも手にして 読んで  5巻 でよい とします )

           まあ 入門程度 であれば、 太田久紀 の
        「 唯識の読み方 新装版: 凡夫が凡夫に呼びかける唯識 」
        https://www.amazon.co.jp/%E5%94%AF%E8%AD%98%E3%81%AE%E8%AA%AD%E3%81%BF%E6%96%B9%E2%80%95%E5%87%A1%E5%A4%AB%E3%81%8C%E5%87%A1%E5%A4%AB%E3%81%AB%E5%91%BC%E3%81%B3%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E5%94%AF%E8%AD%98-%E5%A4%AA%E7%94%B0-%E4%B9%85%E7%B4%80/dp/4804611665/ref=sr_1_12?dib=eyJ2IjoiMSJ9.I3Lup5OgZCdVloqMIi3ET8df6ozCoYJVcZENI0COZ6nuxfhd3D-IgrkDRlubIxS4YJpCKECR2VY1yRixd8bJp3ZUGuGePy_gDnhxjdDFQXAWVAooo3O-gxekxK9PPm10qliOZeLpMqpPGl-s2s_z96jbi9u3b1B_MycRr-tliEQtiG90IjBT31WGSm5mij1_cJ0HM_DXT7vV_CFMg7MmelLWR47OmQB8cdSTSLcWGzs.G3DCcmPkKJfQJWfNLoxww49giHLq8YU2RYb9epp0LWQ&dib_tag=se&qid=1711498759&s=books&sr=1-12&text=%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%B9%85%E7%B4%80
               これなどは 用語の 索引があり ! 入門書としては
            今現在 発刊されている唯識関連で BEST と 言えるでしょう

         ( 但し、 きちんと学ぶのでれば 浄土真宗 の 上田義文 は必須です )

          「 般若心経 」 などは  「 唯識 」 を  学ばなければ
                     その   「 意 」  は  「 空 」 ではなく
                 空虚 でしかありません ( そこに  「 行 」 がない )

               「 易行 」  とは   「 意 」 においての 「 行 」 
                    だから     「 苦行 」 を 要  とはしない

            怠りなく  学び 
               その 学び を 今後の糧 に されることを 祈念します

                 真名び が  道でもあり 糧でもあるけれど

             名(名辞) を 学びて
                      学びつつ  新たなる糧で 道を歩む

             「 精進 」 できる から  「 精進 」 という 名辞 が  ある

           “ できる ということには  できないこと が 含まれている  ”

              という  事  実 (  「 論理 」  )

        • ショーシャンク より:

          学生の時に、家で犬を飼っていました。
          その犬はときどき、開いた本をじっと見ていることがありました。

          『この犬はこうやって本を読んでいる気分になってるんだな』と微笑ましかったです。

          •  春間 則廣  より:

              凡夫が 凡夫である  と 知る

                “ その 知りよう ”  が 凡夫 を 作っています

               凡夫なりに  「 世間 」 を 知る
                  凡夫だから 世間 を そしり
                          「 苦 」 を 歩む 
                    それなりに知って
               知った 認識・しりよう で 「 苦 」 を 識し 歩む

              その知りように起きる  「 楽 」 を 望み
                  好ましい “ことば” を 道しるべ として 希求する

              「 われいまだ生を知らず いわんや 死においておや 」
                論語 < 先進 >   「 未知生焉知死 」

                知ったことを 積んで 知ること を 知る・得る

                 知らぬこと を 積んで  何を得る ?

                  凡夫 を 得るのではあるが

                         「 慧 」 にこそ 凡夫あり

          • ぎんた より:

            ワンちゃんの「中の人」は人間だから、前世でしていたようにしているのだと思います。

            飼い主さん(人間)のことが好きすぎて、形だけ真似しているわけではありません。

            気分というのはそうなんでしょうけれど。ショーシャンクさんのおじいさんのそのまた

            おじいさんなのかもしれません。

          • mani より:

            ショーシャンクさま いやぁ、「ひ、ひどいわ」、ってくらい悪く描かれてますね(笑)

            小乗の比丘のお話は分かります。高齢になった龍樹は、ダレも願わないならそろそろ死ぬ時機だと考え、「あなたはわたしが長く生きることを望むか」と尋ねたけれど、快く思っていなかった比丘は「望まない」と答えたので、身体を残し輪廻して行ったのだと思います。

            まあ、わたしも、はじめはショーシャンクさまと同じような理解でした。しかし『方便心論』など読み進むうちに、その人となりが分かってきました。逆に、龍樹はブッダの法をブッダの説く通りに受けとめています。言われたことをそのまま信じて行動してますね。いったん、自分の理解に疑いが生じるときれいに評価が反転します。今では、龍樹ほど純粋な人はいないと思っています。

            人間、書いてあるとおりに文章は読まなきゃダメなんだなと思っています。

            その辺のところは『龍樹と語れ!』という本に書きました。

          •  春間 則廣  より:

            > 『この犬はこうやって本を読んでいる気分になってるんだな』と微笑ましかったです。

               その犬 が
               あなたの世界( 「 世間 」 ) で
               あなたの気分( 「  識  」 ) と なっています

                微笑ましい あなたの日常  ですか ?

              その判断( 「 分別 」 ) を もってして、
                 その  “判断” を 判断する
              漂う縄 の 片方をつかんで 判断を起こし
                漂う波 に 抗おうとする ( 平静 を 求める )
              つかむ自分(  「 自己 」 ) は
             安全な岸辺にいて“ 微笑ましく 思っている ”のかな ?
            ( それ ?  は   微笑ましい 出来事  なのかな ? )
               “それ” って   何を指しているのかな     ?

                   二重性( 表裏一体 ) に 気が付けるかな ?
                 ( 何のことやら “ 珍紛漢紛 ”
                   “ 「 瞑想 」 に ある者 ” だけが知る )

                微笑ましい としる 微笑ましき 認識
                                   と 認識する
                 (  そのような  二重構造 では ありません  )

               いくら 二重構想 を 積んでも   積んでいく 二重構造
                  一つの  「 世間 」  で   一つ を つかむ 「 己 」 

                  だから
              “ 唯一 平静 を 知る  「 己 」 ”
                          (  その子 は どこの子  )
                      その気 何の気  気になる気 ?? 
             ( 「何」 とは  南無 か 難 か なんだかわからない )

               木にもならない   気ノミ 木ノママ  木実の”ママ ”

              遊んでいる   暇 はない  気がする    遊んでいる最中
            ( その 際 中  “中”に浮き 偏 を離れる    偏 ですよ ! )

                   片を離れて    もう一片  を  つかむ
                 つかんだ右手  と  もう一つ  つかめる左手
                  両手 塞いで     噛みつく  手  も  ある

                なん手  おこった
                    ( チャッタ ! )  起こした   と
                      微笑む 手  
             (  っ 手ん ・ 点  で   話しにならぬ 手 ん 開  )
                  開 ( 介意 ところに 届かぬ 展 カイ の 怪 )

             かく靴 隔靴 と 笑い転げる 微笑み ( 微小 ・ 極大 )
                     極大  チャッタ !   巨大なる 尊大

               そんな  微笑ましい  尊自
                     微笑んで いられ ますか  ??
                        ( あられ 降る )

          • ショーシャンク より:

            春間さん。

            春間さんは、よく自分の読書量を誇ってマウント取ろうとすることが多いです。
            今まで、春間さんがいかに多くの本を蔵書し読書してきたか、さんざん聞かされました。

            ジャンヌ・ダルクについての議論になったときも、『私はジャンヌ・ダルクの本を20冊以上持っていてすべて熟読している』と言ってましたね。
            ところが、春間さんとジャンヌ・ダルクについて話してみると、基本的な史実も知らないし、事実関係も間違いだらけで、議論の中身についてもほとんど中身のない薄っぺらいものに終始していました。
            私は『これで20冊も本読んだの?』とびっくりしました。
            これなら、ジャンヌ・ダルクについての本が20冊以上あるにしても、そしてそれを読んでいるつもりとしても、私の犬が開いた本をじっと見ていて読んだ気になっているのと違わないな、と思ってしまったのです。

            その後、春間さんお得意の道元や親鸞に関して話したときも、中身があまりにもないことから、その都度、私の犬が本を見ている姿を思い出していたのです。

            今回、自分の蔵書から唯識の本などを何十巻か挙げられていたので、思わず書いてしまいました。

            ご無礼すみません。

          • ショーシャンク より:

            春間さん。

            道元について石飛先生が書かれていた『風性常住』の公案は、私は本証妙修ということだと書いたところ、先生はとまどっておられたようでしたので、
            レスを付けてきた春間さんに『春間さんはどう思いますか?』と問いかけました。

            この問いは道元の核心だと思っていますので、あれだけいつも道元のことを書いている春間さんがどう言うか、楽しみにしていました。

            しかし、春間さんは、真正面から答えることをせずに、質問には質問でごまかしていました。

            親鸞の言った、善人なおもて往生す、の言葉を春間さんが書いてきたときに、善人と悪人の意味について質問しました。
            善人は自分を悪人だと思ってない人、悪人は自分を悪人だと思っている人、というような答えでした。
            しかし、なお突っ込んで質問するとやはりごまかして逃げてしまいました。

            これらのことがあったので、春間さんが言うように本を何百冊何千冊読んでも、瞑想を何十時間しても、この結果ではね、と思ってしまったのです。

            読書量や瞑想量を誇るのであれば、ごまかさずに真正面から答えてほしいものです。

          • mani より:

            ショーシャンクさま そうかぁ、春間さまにお尋ねだと思って控えていました。

            風性常住は、本証妙修の内容だとおっしゃっていたのですね。やはり、読みきれていなかったかも。

            「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」
            と「現成公安」には載っているので、それが答えだと思っています。

            「風が吹かないところはない」という道理を、おまえは知らないのだ、と述べているので、
            風の性は常住であるというのはいいけど、その風は起こるところにはどこでも起こる、と言うことに気づいていないようだから、わたしは扇で仰ぐのですよ、と述べていて、縁起についてのブッダの公式をちゃんと知らないことを言っていると思います。

            本証妙修とは、直接的な答えの先にある空まで読みこんだ答えのような感じですね。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生。

            いま確かめましたら、マニカナ道場のNo.23015あたりから
            風性常住の公案と道元の本証妙修について書いています。

            No.23036 で、ごまかす春間さんに私が怒っています。

          • mani より:

            ショーシャンクさま おそれいります。道場、なくなってしまって残念なことです。

            「現成公案」は、わたしとしては、道元が楊光秀に与えたこれから修行するための心得みたいな感じのものだと思っています。仏教を参究するときこんな風にするんだよ、と書いて示したものと考えます。地水火風の四大と虚空のテーマにそって取り上げていますね。ブッダの縁起の教えも説かれるし、自然の有り様を見ていくなら、ブッダの教えが「縁起」や「空」として手に入るという、仏教エービーシーみたいな内容だと思っています。
            自然界を見ていると、そのまま公案の形で現成してくるから、それを参究せよ、ってことだなと受けとめています.パーリ経典に説かれるブッダの教えと同じものを道元は手に入れてると思います。すごいな、って思ってます。こうなると、ショーシャンクさまの理解とは少少違うかもしれません。

          • ショーシャンク より:

            『現成公案』では、
            風性常住の公案の直前に、
            魚と水、鳥と空の喩えがあります。
            修証つまり修行と悟りの喩えです。

            魚が泳ぐこと、鳥が飛ぶことが修行の喩えで
            水や空が悟りの喩えでしょう。

            この喩えでは、水や空が常住であるように、悟りも常住ということです。

            つまり、本証をあらわしていると私は考えます。

            道元のなかでは、修行して悟るのではなく、修行と悟りが魚と水の関係ということでしょう。

        • ぎんた より:

          あああああああ、、、、、全然難しすぎるーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!

          えぃ!!!!歌の爆弾をくらええええええーーーーーーー(雪玉シーズンは終了しました)

          Adoの歌ってみた「ブリキノダンス」!!!

          • mani より:

            > Adoの歌ってみた「ブリキノダンス」!!!

            わたしも。。
            https://utaten.com/specialArticle/index/4372

            個人的には、サンスクリットキュードー系って言ってるところが受けました。。

            微妙にヒンドゥー教系統ってところが、「処世術」だなあ、って思う、わたし的にはね。いろんな宗教混じってるよね。

            匂いなんだろね。これは歌っても大ジョブだぁって。。ことなんかな~~

          •  春間 則廣  より:

            > 自然界を見ていると、そのまま公案の形で現成してくるから、
            > それを参究せよ、ってことだなと受けとめています.
             
               しているから ( してくる )  ( している他 → してくる自 )
               → 参究 が “ してくる ”   と  同義 となる
                     ↓
                 参究 している  から     している自然界(他) が
               ( している 「 己 」 に )   現成してくる( 「 自他不二 」 )

              “ 修証一如  とは  そのようなこと を言っているのではない ”

              自然界 は  そのままの姿 で( 公案の形で も )現成している
                そこに    その姿 が  ある から  参究できる
               現成している 自他 が  (本来の姿として) そこに “ある”

               (参究に対しての)形 がなく  参究 が なく ( 坐禅がある )
                “本来” がなく “ある” が   ない   ( 「 無 」 )
               来るところ がなく 来ているところ も  なく 去 あることもない
               求め歩む道はなく  求め得る  「 道 」 もない
               (     無得  「 中道 」      )
                    帰去 → 不来不去 

              (  「八不」   不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去  )

                『中論頌』 観因縁品 ( 大正蔵 30 1 b )
            「 不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、
              不来にして亦た不去 」

                 一つ なく  ( 二であり )       
              (  不一 とは  二つめがある  ) 
                二つ なし ( → 不二=不異 )
              ( 二つの間に 異 なし →  「 平等 」 )

               等しく平ら であり 現成して 突出するところなし
                 平 であるゆえに   等しき も なし

                 ただ ただ   只管     「 止観 打坐 」
                   ひたすら  励む  も    なく
               観 する ところ に 止まり  「 只管 打坐 」

            >  パーリ経典に説かれるブッダの教えと同じものを道元は手に入れてる

                教えなく 手にするものなし  「 空手 」
                   その手 を  たづさえて  “ 帰郷 ” する 「 還郷 」
                       (  帰 去・郷 → 不来不去   ゆえに  還・廻  )
                廻り 廻りて  キョウ にある キョ  に  今日 到る → 今日庵
                                        (  公 案 に  興ずる  )

                 こうなると  あなたの理解 と ちょちょっと 違う  かも

    • mani より:

      > 仏陀は、一切のものが、無常、苦、無我、不浄、である、と言いました。
      > 常、楽、我、浄なるものを説かなかったのが仏陀です。

      ショーシャンクさま

      「無常・苦・無我・不浄」を説いて「浄・楽・我・浄」は説かなかったとするのですね。

      びみょーに反対します。「世界は常住なのですか」「世界は無常なのですか」と尋ねる十難無記の問題ですが。ブッダは無記をつらぬいています。ここは、どのように解釈しますか。

      • ショーシャンク より:

        石飛先生。

        そのご質問は以前にもされていて、答えたところ、
        『まあ、いいとしましょう』と言われていましたが(笑)

        そのときの私の答えをコピーしたいのですが、最近、パソコンを立ち上げずに、
        Kindleタブレットをパソコンがわりにしていますので、
        (掲示板の投稿も銀行振込も何もかも)
        今のところコピペがうまくできないのです。
        長い文章なのでそのときの私の文章をコピペできたら貼ります。

        • mani より:

          ショーシャンクさま

          わたしも過去ログあさりましたが、うまく見つけられませんでした。

          > 『まあ、いいとしましょう』と言われていましたが(笑)

          そんなことを言ったのですね。どうもすみません(笑)

          「ある」にも「ない」にもち近づかないブッダですから、「常住を否定する」とすれば、ある意味、訳あってのことでしょう。

          まあ、厄介なところに入り込みますよね。。とおわる。。

  2. 慧樹 より:

    ……………………………………………

    対象は観念の構造物として平等一味

    法華経研究をされるショーシャンクへ、方便品の方に応援メッセージ
    を贈ってあります。

    さて、ブラフマン・アートマン、そして大日如来ですか。
    方便品の方にもレスしておきましたが、諸行無常・諸行無我の仏教に
    おいては「対象は観念の構造物として平等一味」。

    そしてそれは、すべて「後付けのロジックという方便」と今更ながら
    実感されています。

    観念の構造物として、みんな仲間ですよね。
    それぞれの個性がせめぎ合い向上する仲間です。

  3. 慧樹 より:

    ………………………………
    ………………………………

    インド密教は最後の足掻き

    波を乗りつつ舵を切り、富士に見守れて荒波を超える漁師たち。
    八方にらみの彼らには不死のお山が観ているはずです。

    さて、胎蔵界曼荼羅の大悲の大日如来と、金剛界曼荼羅の智慧の大日如来
    に日々礼拝している身として『大日経』の感想です。

    「仏の言わく、菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟す」

    が心に染みていまして、礼拝しつつ参究して来たのですが、
    菩提心=金剛界曼荼羅
    大悲=胎蔵界曼荼羅
    と少しずつ少しずつ身心に沁みて参りました。

    まあ、それらも「仮の名称に過ぎない」と実体を解体していますが…。

    ヒンズー教と融和しようとしたインド密教は、ヒンズー教対等の最後の
    悪あがきだったようですね。やがてイスラムにボコボコにされる。

    でもいいじゃありませんか。
    シルクロードを経由して、中国を経由して、荒波を超えて、
    胎蔵界と金剛界をくっつけた空海の真言密教に発展しているのですから。

    北斎画の波を乗り切る漁師は、空海であり私だ。
    ほら、不死が見ているぞ。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      『インド密教は最後の悪あがき』と書いていますね。
      真言宗信徒を自負するあなたが、本気で言っているのですか。

      密教はインドから中国を経て日本に来たのです。

      インド密教という言葉をわざわざ使うということは、
      インド密教、中国密教、日本密教と違うということですか。
      あり得ません。
      そのように密教を分けること自体、センスがない。

      『最後の悪あがき』とは何ということを言うのでしょう。

      密教を冒涜していますね。

  4. カエル より:

    大日如来と過去仏の関係は烏賊に?

  5. ショーシャンク より:

    ヴェーダ宗教の、生存欲を滅するための苦行では解脱に行き着かないと思った仏陀は、苦の縁って起きる原因を探し、その原因を消滅させる道を行きます。

    ヴェーダ宗教のように、アートマン、ブラフマンを想定し瞑想する道でもなく、徹底的に苦の原因を突き止め苦の原因を消滅させる方法でした。

    アートマンを想定することは、ただの『想』でしかなく、それも自我を形成するものでしたから排除します。

    そして、解脱した如来の死後については無記とします。
    解脱した後に、存続するものがあるのかないのかについては無記でした。

    このように、仏陀はアートマンを否定したわけではなく無記としただけです。

    しかし、部派仏教になってからは特に無記は「無」の方向に傾いてしまい、灰身滅智が理想とされていきました。

    このようなものは仏陀の真意ではないと反発したのが、大乗仏教運動であり、まずは維摩経や法華経が登場して、部派を糾弾しました。

    そして、大乗中期になって大乗涅槃経が出て、如来の常楽我浄を打ち出すに至ります。

    大まかに言えば、部派仏教は「無」にぶれていき
    大乗仏教はその反発として特に中期以降は「有」の方向に行ったように思えるのです。

    石飛先生が、ヒンドゥー教はやがて仏教になると言われたのは、かなり凄い言葉だと思います。
    その言葉に多くのものが詰まっているように思えます。

  6. 慧樹 より:

    ……………………………………………

    説一切有部は「三世実有・法体恒有」

    ショーシャンク先生、
    「部派仏教は無にぶれて行った」と仰せですが、説一切有部という名の通り、
    「一切の法は有る」と言って、法を七十五法に分析し、七十五法の関係性と
    いう「ダルマの縁起」を説いていませんか。

    そのダルマの縁起の細密性には学ぶべきものがあって、昔の日本の高僧たち
    は、「唯識三年・俱舎八年」と、俱舎論(説一切有部)を学んでいます。

    仏教の基本は、有無中道ですから「無」に振れてはいないと思います。

    そして、『ヴェーダ聖典』に基づく六派哲学の法の分析を遥かに凌駕してい
    ます。一般教養程度に学んでみてはいかがですか。

    深層心理に興味のあった私は、大乗のアビダルマと言われる「唯識仏教」
    から入ったのですが、法の分析が有部以上に100法もあり、長い間、
    楽しませていただきました。

    「説一切有部」と「瑜伽行唯識派」は二つで一つのお仲間です。

    仏教の基本は、苦楽中道・断常中道・有無中道という中道で、仏教とは
    「中道を自覚する」ことだと私は思います。

    一般常識程度に、有部と唯識を勉強されたらいかがですか?

    私は現在、東の易と西のストア学派を学んでいます。
    善く学び、善く生きたいですね。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      バラモン教は解脱したらアートマン(ブラフマン)に到達すると説きます。
      (アートマンとブラフマンは一如です)
      しかし、仏陀は、解脱した後、ブラフマンのような何かあるのかないのか、については無記としました。
      解脱した如来の死後、存続するアートマンのようなものがあるかないかも無記としました。

      仏陀は常なるものをはっきりとは説かなかったのです。

      根本分裂を経て、部派仏教になってからは、煩悩を完全に滅した状態が理想とされ、灰身滅智を究極としました。
      つまり、火が消えた状態、何もない状態が理想とされていきました。
      神霊の存在についても語られなくなり、唯物論虚無論の色彩が見られるようになりました。
      もちろん、全くの唯物論や虚無論ではありませんが、その傾向を帯びてきたということです。

      そのような傾向に反発して興ったのが大乗仏教だと思っています。
      法華経を丹念に読んでいくと、大乗仏教が部派仏教のどこが間違いだと思ったかがはっきりとわかります。

      「説一切有部は一切の法は有るとしている」と書かれていますが、
      一切の存在を実体的に見るというのは唯物論的な見方そのものです。
      こもように、唯物論的な傾向を帯びていったと言えるのです。

      解脱した後、灰身滅智した後、大いなるものを説くか説かないか、ということです。

  7. 慧樹 より:

    …………………………………………………………

    「ヒンドゥー教はやがて仏教になる」には反対

    「同教一乗」とも言いますが、こういう自己中心的な統一思想に私は
    反対します。プーチンのような侵略思想になってしまうからです。

    仏道は、そういう強烈な自己中心性を制御して生きる道だと思います。

    私は、華厳(毘盧遮那仏)の「別教一乗」に帰依したしまして、
    マニカナに引き寄せられるは、自己中心的な統一思想に反対する
    ためなのかも知れません。

    仏教は中道です。
    統一にも分散にも傾きません。
    統一に偏る思想は危険です。

    説一切有部⇒唯識⇒如来蔵思想⇒華厳哲学

    という「縁起論」の「探求の歴史」を、一般教養程度に学んでみたら
    いかがですか。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      石飛先生の言葉の表面だけをなぞっても本質には触れられません。

      あなたは、言葉の上っ面に振り回されて、その奥の意味を洞察しようとしない。

      同教一乗=自己中心的な統一思想
      とは、幼稚なレッテル貼りです。

      このようなレッテル貼りがあまりにも多すぎる。

      インドではいったん仏教はヒンドゥー教に吸収されて消滅しました。

      石飛先生は、表面的にはそうかもしれないが、実際、仏教は大きな影響をヒンドゥー教に与え続けていると思われているのでしょう。
      これからもヒンドゥー教における仏教の影響力が大きくなっていくと言うことを、石飛先生は言われているのでしょう。

  8. 慧樹 より:

    ……………………………………

    大乗『涅槃経』は中道の書

    ショーシャンク様。
    大乗『涅槃経』については、10年来、かの〈みちお様〉に絡まれつつ
    深く読んでことはご承知でしょう。

    〈みちお様〉は無に傾いて虚無的な箇所を選択して読んでいましたが、
    大乗『涅槃経』は「中道の書」です。

    私の影響で、ミチオ様は、大乗『涅槃経』の和訳である、田上太秀訳
    『完訳・大般涅槃経』第一巻を購入して読んでいました。

    私の場合は、頭がクルクル舞いされるそれを、妻の影響もあって、
    四巻すべてを三度音読しています。

    頭がクルクル舞いになるのは、それは、断でもなく常でもない、有でも
    なく無でもないといった、一般的な分別意識では理解できない、
    二元対立の超越といった「中道」の方便を説いているからです。

    一度『涅槃経』と読解に挑戦してみたらいかがですか。

    真剣に楽しく学ぶその時が「常楽我浄」です。
    苦は楽しい。

    • ショーシャンク より:

      慧樹(芳和)さん。

      芳和さんは、そういえば、真如苑の信者さんでしたね。

      ぎんたさんの言われる「あの危険な団体」も真如苑だった気がします。

      私の周辺には、真如苑の信者さんが全くいないので、どのような宗教か知りません。

      教義や修行方法など、なるべく詳しく教えてください。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。
      真如苑の信者さんにはいい人多いですか?

      私はどの宗教の信者さんもあまり知らないんですが、
      信者さんで言うと、エホバの証人の信者さんがいい人多いような気がします。
      と言っても数人しか知りませんが、どの人も優しくて上品です。

      私の会社の従業員にエホバの証人の信者さんが一人いました。
      20才くらいの女性でした。
      ある時、その店の飲み会で、『じゃ、乾杯しようか』と言ったら
      隣に座っていたその女性が小さい声で『すみません。私、乾杯できないんです。』と言うのです。
      びっくりして『えっ?何で?』と聞くと
      『宗教上の理由です』と申し訳なさそうに言っていました。

      乾杯が宗教儀式だとは初めて知りました。

      何か、宗教団体に入ると、不自由だらけだなあと思います。

      束縛が増えるだけのような気がしますが。

      • 慧樹 より:

        …………………………………

        すべては、「今を善く生きる」ための方便

        …………………………………

        私は、真言宗で真如教徒ではありません。
        妻は、真摯な真如苑の教徒です。

        私は哲学的で、妻は宗教的です。
        二つで一つの縁起の関係ですから、とても善き関係です。

        違いがあっても、互いを認め合い、仲良くやっていますよ。

        朝の勤行は、真如苑のものを少し取り入れて
        妻と共に真言宗のものをしていまして『般若心経』が主です。

        『般若心経』読誦だけでもいいじゃありませんか。

        みんな向う三軒両隣の只の人で、
        すべては「今を善く生きる」ための方便です。

        「今を善く生きる」という目的を間違わなければいいのではと。

        真言宗も宗教団体ですが、自由の選択意志を尊重しますから
        束縛からの解放で、「精神の自由」を得て自律への道です。

        真如苑も個性(仏性)の開花ですから、精神の自由を得て
        善く生きるということでしょう。

        ショーンシャンク様は、何を目的に仏教の研究を為されているの
        のですか?

        教えて頂けませんか。

        • ショーシャンク より:

          芳和さん。

          仏教を研究する目的を質問されているので答えます。
          精神の自由に達するためです。
          ですから、私はいかなる宗教団体にも宗派にも入る気は全くありません。
          すべての宗教団体、宗派、教義は精神を束縛するものです。
          人はただひとりあらねばならない。

          私が、部派に分かれてから無に傾いたと言ったのは、解脱した後の境地についてです。
          バラモン教では解脱したらアートマン、ブラフマンに達するとされます。
          仏陀はそのようなアートマンを説かず、如来の死後を無記としました。
          常楽我浄なるものを説かず、無記としたのです。
          部派は灰身滅智を理想としていきます。
          神霊の存在も説かず唯物的になっていきます。
          一方、大乗は中期以降には、仏陀が説かなかった常楽我浄を打ち出していきます。

          仏陀はあくまでも常なるものについては無記でした。

          仏陀は如来の死後については無記でしたが、解脱していない衆生の死後については数多く説いています。
          しかし、例えば、スマナサーラが『死後の世界はあるのか』という動画で何と言っているか知っていますか。

          芳和さんは、
          空=縁起=中道
          これが釈尊の根本思想だと書いていますね。

          しかし、仏陀は、縁起だから空と言ったことは一度もありません。
          仏陀は空についてはほとんど説いていません。
          説いているところは、生じたものは必ず滅する、はかないものと世界を見よ、という意味でのみ言っています。
          仏陀が縁起と空を結び付けた言葉を挙げてください。
          私もあなたの質問に答えましたから、あなたも私の質問に答えてください。

          仏陀の言う縁起とは十二縁起のことです。
          そして、仏陀の言う中道とは八正道のことです。

          仏陀が、
          空=縁起=中道 と言っている言葉を挙げてください。

  9.  春間 則廣  より:

      仏教の解説 ではなく 

    自らはどのように生きるか  の  「 仏教 」 

    そのための あらわれとして の  「 仏教 」 

    • ぎんた より:

      蝶が羽ばたくと竜巻が起こるんでしょ?にゃので、取り敢えず「あの危険な団体」をぶっ潰すと

      にゃにか、蓋が開いて?いい感じになるんじゃにゃいかという、生き方でしゅよ。

      「~でしゅ」の時は、こはる日和.のちまたんのイメージでやってます。

      あきらめたらそこで試合終了ですよ….?は、『はっちゃんの明日元気になあれ』八二一著

      p106,107のイメージです。

    • 慧樹 より:

      …………………………………

      「今を如何に生きるか」ですね

      春間さんも善きことを言うではありませんか。

      自らはどのように生きるか  の  「 仏教 」…ですね。

      その今を善く生きる道が「中道」だと思います。
      で、今は、セネカの「今を生きる道」を学んでいます。

  10. o より:

    > この福徳によって一切見を得て罪過という諸敵を負かし、生老病死の荒波湧き立つ有海から有情を救い出しましょう。

     荒波といえば今の私にはこれです。これは静寂された師匠が教えの終わりに誓願文として唱えられていたものの和訳です。

     師匠の縁で最近観音行を修したのですが、その誓願文でも用いられていて、今更ながら感慨深かったというか、師匠の加持を感じました。

     典拠というか源泉は『ジャータカマーラ』のようですが、多少異読あります。『ジャータカマーラ』では「この福徳」はヤシャに自分の血肉を与えた福徳ですが、当然師匠が教えの場合は師匠が教えを聞いた福徳、観音行の場合は観音行を修した福徳を指すと思われます。

      「一切見」は一切知、ダルマキールティ註だと「所知障を断じたこと」「諸敵を負かし」が「煩悩障を断じたこと」と解釈されています。

     そこでやっと「荒波」ですが、生老病死、有漏法一切でしょうね。世事と言い換えてもいいと思います。世事が押し寄せてくるのが世間の「荒波」ではないでしょうか?

     そういう世事を乗り越えて利他行、普賢行をなすという誓いですね。

     師匠は世事の中で自然に自ずと利他行、普賢行をなされていたのだという思い出と、私のような凡庸で嫌なヤツにもそういう道を示してくださった恩の深さをちょっとだけ感じられたのが加持のように思われます。

     「自分は見解から出てしまう(空性とは見解からの出離である)」すばらしい。最近のエム先生はますます融通無碍ですね。随喜、随喜!

     最近は仏教も歴史的批判的研究では本質的でないという方も増えてきて先ずはいいかんじです。
     それから映画『ザ・カップ』のキェンツェー・リンポチェの『ブッダが見つけた四つの真実』が結構エム先生に通じるものがあると思います。

     それではいつものように『中論』成就を祈願しております。

    • mani より:

      oさま おはようございます。

      > 歴史的批判的研究では本質的でないという方も増えてきて先ずはいいかんじです。

      おお、いい感じですね。昔の人たちが語っていた評価は、やがて、そのまま蘇ってくるだろうと思っています。

      やがて仏教ルネサンスが起こってきて、人類を救う、というシナリオを考えていますが、どうかなあ。

      • o より:

        エム先生、ご返信ありがとうございます。

        歴史的批判的研究、とくに実在論に立つ歴史を前提とすると縁起の理解すらえられず、ましてそれを見解として生きることは全くなるなりますね。

        テーラワーダが『勝義空性経』を三蔵から排除してるのは歴史的批判的研究にとって大きいですね。ブッダゴーサは同様の句を引用してて、結構微妙ですが。

        仏教ルネサンスが早く起きないと、地球に生物が暮らせなくなりそうです。

        • mani より:

          oさま 時間的に言えるぎりぎりですが、おはようございます。

          実在論に立つと、「縁起の理解すらえられない」は、本当ですね。

          それと同時に、縁起というのは、こだわりを持つところから始まるので、まず間違ったところから出発するという道筋を得ないとだめなんですよねえ。
          間違えたいと思う人はそんなにいないから、仏教は人気が無いのでしょうかね。みんな自分を正しいと思いたい、というのが本音です。
          テーラワーダが『勝義空性経』を認めないのは、空は言語で表してはならないとするからでしょうか。

          おっしゃる通り、地球滅亡も現実味を帯びてきたような気がする今日この頃です。
          仏教が三千大千世界に行きわたりますように。

          • o より:

            エム先生、

            > 縁起というのは、こだわりを持つところから始まるので、まず間違ったところから出発するという道筋を得ないとだめなんですよねえ。

             仰る通りです。流石です。学者でこう考える方は極めて少ないと思います。だから三宝帰依して信から始まり法を聞くわけですが、人文学問・科学は概ね「常識」を拠り所にしているので、全く逆ですね。仏教で言われるように顚倒してるわけです。

             仏教は結構人気だと思います。特に海外では。

             テーラワーダが『勝義空性経』を認めない理由は、その可能性が高いかもしれませんが難しいですね。なにせテーラワーダ教学をほとんど決定づけたとされるブッダゴーサは同様の偈頌を引用してますので。もっとも、私がテーラワーダ教学に疎いだけかもしれません。

             ただ、歴史的批判的研究で行くにしても、もはやパーリが最古とか原型に最も近いという素朴な源泉探求 Ad Fontes はもはや学問にも値しないと思います。

             なぜなら、少なくともパーリ三蔵は、シンハラ語みたいな現地語に訳されたものの再訳であることが昔から明らかだからです。

             仏教の考え方で、資本主義などの成長、進化、他者を無限に支配するというような考え方が改まらない限り、たとえエネルギー問題や環境問題が技術的に解決されたとしても、いずれ生命の生存に適さない環境になると思います。

             そんな中、素晴らしい師や法友に恵まれたことだけは、過去に感謝します。

  11. 慧樹 より:

    …………………………………………………………

    「常楽我浄」を「中道の論理」に基づいている

    「無常・苦・無我・不浄に対して常・楽・我・浄」も語り得る。

    と『涅槃経』の常楽我浄に対して、自己中心で何でも有り的な発言
    うする先生もいますが、涅槃経の「常楽我浄」は、空・仮設・中道
    という「空の論理」に基づいています。

    不二中道という仏教の真実に基づいています。

    「無常・苦・無我・不浄」と「常・楽・我・浄」の相対を絶した
    ところの「真常・真楽・真我・真常」です。

    真常=断常中道=断も常も平等に肯定する「真実の常」
    真楽=苦楽中道=苦も楽も平等に肯定する「真実の楽」
    真我=有無中道=無我も有我も平等に肯定する「真実の我」
    真浄=浄穢中道=浄も穢も平等に肯定する「真実の浄」

    大経経典は、「空の体現」の後付けのロジックです。

    『中論』観四諦品
    14偈「空の成立する人には一切が成立し、空の成立しない人には
    一切が成立しない」
    18偈「縁起であるところのものを、すべてわれわれは空と説く、
    それは仮名である。それはまさしく中道である」

    『廻諍論』帰敬偈
    「空と縁起と中道とは同一議であると教えた類のない人〔仏陀〕を
    礼讃する」

    空=縁起=中道――釈尊の根本思想である「不二中道」への回帰。
    『涅槃経』の常楽我浄も「中道」に基づいているから仏教といえる。

    仏教の正道は中道である。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      》》「無常・苦・無我・不浄」と「常・楽・我・浄」の相対を絶したところの
        「真常・真楽・真我・真浄」です。

      と書いていますが、それでは、
      この真我と、バラモン教(ヒンドゥー教)の説くアートマンとはどう違うのですか?
      その相違点を教えてください。

      アートマンも『永遠・至福・真我・清浄』であると説かれています。

      また、アートマンは、相対を絶したものと説かれます。

      多様は錯覚であって、あるのはアートマン(ブラフマン)だけと説かれます。

      どこが違うのでしょうか?
      お答えください。

  12. 慧樹 より:

    ………………………………

    インド哲学の知識も必要+

    石飛先生の難しいお話を聞くためには、一般教養的なインド哲学の
    知識が必要だと思います。最近はYouTubeも発展してきてよくま
    とめられていまして、私も初心に帰り学び直しています。
    参考までに紹介させていただきます。

    https://www.youtube.com/watch?v=P0IviccxpDc&t=37s
    インド哲学解説はじめます (youtube.com)

    https://www.youtube.com/watch?v=JChzdoXiyoQ
    ウパニシャッド哲学【インド哲学解説】 (youtube.com)

    https://www.youtube.com/watch?v=i_GX0qVq6rc
    ヴァイシェーシカ学派【インド哲学解説】 (youtube.com)
    https://www.youtube.com/watch?v=r572XrejVq0&t=77s
    ニヤーヤ学派【インド哲学解説】 (youtube.com)

    https://www.youtube.com/watch?v=61TwcvOe660&t=7s
    サーンキヤ学派【インド哲学解説】 (youtube.com)
    https://www.youtube.com/watch?v=MW8fHuUq-Xs
    ヨーガ学派【インド哲学解説】 (youtube.com)

    https://www.youtube.com/watch?v=r572XrejVq0&t=77s
    ヴェーダーンタ学派【インド哲学解説】 (youtube.com)

    https://www.youtube.com/watch?v=Eusrb8UCpdM&t=4s
    六師外道【インド哲学】【沙門の思想】 (youtube.com)
    https://www.youtube.com/watch?v=YyhdGUOKBMA&t=63s
    ジャイナ教【インド哲学解説】【六師外道】 (youtube.com)

    https://www.youtube.com/watch?v=0NKsFFNIbMI
    原始仏教【インド哲学解説】 (youtube.com)

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      あれほど、私に対して矢継ぎ早に書込みしてきたのに、
      私がそれに答えて、あなたに質問したとたん、だんまりですか?

      私はあなたの質問には答えましたので
      今度はあなたが私の質問に答える番です。

  13. mani より:

    > こうなると  あなたの理解 と ちょちょっと 違う  かも

    なんか、最初の理解がわたしの書いたこととは違うかも。。

    修証一如は、この世に生を受けたということからくる必然。
    空の姿だから、いつも、ワクワクする。

    生きるということは、修証一如を怠らないこと。

    怠らない、ってのがいいでしょ、どうかな。

    •  春間 則廣  より:

      > 生きるということは、修証一如を怠らないこと。

          怠っていると 生きていることにならない 生き方
             その生き方  が  生きている   生き方 
                ↑ 
        これって 生き(てい)る  ってこと と  言えないかな ?

          誰でも 一緒  (  一所懸命 に 生きている   )

           生きる局面  の  順は 生きざま  →  先後 なし

          →  すべての人 が 成就する と 確定している →  「 如来蔵 」 

            局面  に  囚われすぎると  囚われ に 囚われる

          これが 「 答え 」 だけれど 、、、

          “ 逃げている ” で 片付け て ( 偏 に 住し )
         ( その偏にして ) 逃げているのに 気が付けない
         (  “法すでにたれりとおぼゆ” 己 を  携えて  逃げる  )

              気が付く  まで  の  歩む道程
           ( すでに )  成就  が  予言 されている → 安心安心

       

      > 怠らない、ってのがいいでしょ、どうかな。

         怠っている  から →  “ ひとかた は たらず  と おぼゆる・知る ”
          知る という充足 が起き 、 
       起きるに伴ない 怠りを充足する
           怠らない と  怠り と  たらず  と  三者(三つは)同居
                         → たらず =  おぼゆる
              足りてはいない → 修する・“取する” → 生きる・行ずる

           “取する” のに 主 たるもの  が  たらずという 理・履 修
           副 たる 服すること(いつもの心)  が  法すでに たれり とおぼゆ
                 また あゆみ  二たび  歩む  履し理  垂れ理 を 歩む

          すでに 垂れて  たりている  のに  、、、、 垂れし   大海 に 漂う

               たる・たらず の 心身   に  參飽 できるかどうか 、、、、

           怠りなく 行う     とき( ソコ ) に
           怠りも 起きている  ( 參飽 せず )

       「 身心に法いまだ參せざるには  法すでにたれりとおぼゆ
           法もし身心に充足すれば  ひとかたはたらずとおぼゆるなり 」

  14. 慧樹 より:

    ……………………………………………………

    真如苑の三つの歩むは、私には向いていない

    私は外部のものをコントロールする気もないし、コントロールされる気も
    ありませんから、「私の質問に答えていない」と言われても困るのですが、
    「己事究明の公案」として自己を深めるためにお答えいたしましょう。

    「私の周辺には、真如苑の信者さんが全くいないので、どのような宗教か知り
    ません。教義や修行方法など、なるべく詳しく教えてください。」

    実質的な教徒ではない私などよりも、超情報化社会ですから世界に開かれた
    サイトも用意されていますので、そちらの方が詳しいでしょう。

    https://www.shinnyo-en.or.jp/sp/glance/
    真如に触れる|真如苑 (shinnyo-en.or.jp)

    私は真如苑を俯瞰して見ていまして実質的な教徒ではありません。
    しかし、妻が真如教徒なので、道を誤らないように、教義や諸行方法など
    知ってはいます

    1,所依の経典は『涅槃経』
    2,主な修行は、六波羅蜜を包含するという「三つの歩み」
      (1)お救け(勧誘)
      (2)お歓喜(布施)
      (3)奉仕(利他行)

    ということですが、接心修行(霊能者と共の接心)に重きをおいています。

    自分を「発見」する接心⇒発見を日常に生かす「実践」⇒「成長」につながる精進
    「発見」⇒「実践」⇒「成長」のサイクルだそうです。

    取りあえずは「自己の成長」の論理にはなっています。

    ただ、観音信心の私の修行法では、一心称名で仏に心を投げ入れる「接心」ですか
    ら、真如苑の「霊能者と共の接心」では、介在者が邪魔なので私には向いていません。

    また、「お救い勧誘」という同教一乗による勢力拡大には反対する立場ですので、
    もちろん私には向いていません。

    ただ、お歓喜や奉仕は布施波羅蜜と受け取って賛同しています。

    私には向いていませんが、真如苑に向いている人が20~30万人いるのですから、
    真言宗の禅宗も凄いが、真如苑も凄いじゃありませんか。

    「自己の精神」の内部に善悪があり、外部には善悪はないようです。
    「法の中の自由です」――法に触れない限り邪悪とすることはできない。
    危険団体という正邪の判定は自己の精神に有る。

    そんな邪悪判定から自由になりたいものだと思います。
    ただ、「変人な私には向いていない」というだけです。

    真如苑だけでなく、向いているものがそれぞれは有るはずですね。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      30万人信者がいるから凄いのですか?
      それならその何十倍もの信者がいる創価学会は何十倍も凄いということですか?

      私は真如苑のことを全く知りませんから正邪の判断はしていませんが、宗教団体自体が束縛、牢獄だとは思っています。
      どの宗教団体も教祖が絶対ですよね?
      教義に沿わない思考は排除されますよね?
      そのようなものに縛られるのは、精神の自由とは正反対でしょう。

      それに、ぎんたさんが『危険な団体』と告発しているのですから
      その理由を聞いてあげるのが『慈悲』ではないですか。
      是非、そのような声に耳を傾ける自由さは必要ですよ。

      さて、質問に答えてないというのは、次の2つです。

      上の投稿を見ればわかります。

      1、あなたの言う『真我』とアートマンはどう違うのですか

      2、仏陀が、空=縁起=中道と言っているところを挙げてください

  15. 慧樹 より:

    ……………………………………………

    言葉の定義を絶対視していませんか?

    >30万人信者がいるから凄いのですか?

    キリスト教・イスラム教からしたらゴミみたいなものですが、
    30万人が心の成長をしているのなら凄いじゃないですか。
    変人の私にはそんな力はありません。

    真如苑も凄ければ、無宗教という一千万人の人々も凄い!
    無宗教の人々が凄ければ、宗教に取り組む一人も凄い。

    自然の摂理に生かされている命から見れば、平等一味です。
    単独では生きらない縁起の自己として平等ではありませんか。

    一切衆生悉有仏性――みんな凄い!

    >どの宗教団体も教祖が絶対ですよね?
    >教義に沿わない思考は排除されますよね?

    一神教はその傾向が強いですが、八百万の神の遺伝子を持つ寛容性のある
    日本人には向いていないと思います。

    しかし、人は実体を求める悪癖がありますから、経典研究の学者さんの中の
    中には経典の教義を絶対視する方もいますね。ショーンシャンク様にも傾向
    はあるようにお見受けします。

    だから、言語を絶対化して、
    1、あなたの言う『真我』とアートマンはどう違うのですか
    2、仏陀が、空=縁起=中道と言っているところを挙げてください
    と他者をコントロールしようとしてしまうのだと思います。

    〔1〕のご質問に関しては、すでに次のようにお答えしているはずです。

    真常=断常中道=断も常も平等に肯定する「真実の常」
    真楽=苦楽中道=苦も楽も平等に肯定する「真実の楽」
    真我=有無中道=無我も有我も平等に肯定する「真実の我」
    真浄=浄穢中道=浄も穢も平等に肯定する「真実の浄」

    真というのは中道のことではないかというのが個人的な感想です。

    「アートマン」のことは分かりません。
    それが分れば解脱だと言われますが、私は解脱を目指していません。
    「今の命を如何に生きるか」を探究しています。

    〔2〕に関しては、かつて何度となく例を挙げているように、私は、
    『スッタニパータ』全体が(空=縁起=中道)を語っているように
    思われます。また、ショーンシャンク様のご質問にはすでに下記の
    ようにお答えしています。

    …………………

    聖典信仰といいましょうか、教典に拘束されているショーシャンク様は、
    その根拠を聖典で示せというのですね。ならば『中論』から示して起き
    ましょう。

    『中論』観四諦品
    14偈「空の成立する人には一切が成立し、空の成立しない人には
    一切が成立しない」
    18偈「縁起であるところのものを、すべてわれわれは空と説く、
    それは仮名である。それはまさしく中道である」

    『廻諍論』帰敬偈
    「空と縁起と中道とは同一議であると教えた類のない人〔仏陀〕を
    礼讃する」

    を聖教量にしております。

    …………………………………………

    よろしければ、訳の分からぬ『中論』などにも目をお通しください。
    また、変人な私は、言語実在論者ではないことをご了承下さい。

    >それに、ぎんたさんが『危険な団体』と告発しているのですから
    >その理由を聞いてあげるのが『慈悲』ではないですか。
    >是非、そのような声に耳を傾ける自由さは必要ですよ。

    記事を見て聞いていますよ。
    見ているだけでよかったのですが、私の個人的な感想の述べさせて
    いただきましたら余計に荒れてきまして、変人の私にお手上げです。
    自己の精神の外部はコントロールできませんから、見て読んで聞いて
    いるだけでいいのじゃないのですか。

    ショーンシャンク様が、変人な私など相手にせずに、ぎんた猫さんの
    お話を聞いてあげたらどうですか。

    ショーンシャンク様検事様、自己との対話を楽しませていただき、
    ありがとうございます。承認・評価も答えも問いません。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      1、真如苑は30万人信者がいるから凄いと書いたのはあなたです。
      それだけの支持を獲ているのが凄いということですね。
      新興宗教はさかんに宗教勧誘活動しますよね。
      それを大切な修行だと説くことが多いです。
      だから無理な勧誘を受けて仕方なくとか義理でとか人間関係を壊したくなくて仮に会員になる人、会費を払う人も大勢います。
      芳和さんも奥さんと仲を壊したくなくて会員になって会費を払ってるのではないですか?
      宗教団体の公表信者数はそのように実態より大きく膨らましていますし、数で凄い凄くないは判断できるはずはありません。

      2、宗教団体、特に新興宗教団体の教祖が絶対だというのは、別に一神教に限りません。
      仏教系の新興宗教団体でもそうでしょう。
      真如苑では、信者が教祖の批判とか自由にできるのですか?

      3、仏陀は常なるものを無記として、説くことはありませんでした。
      永遠なるもの、常なるものとしてのアートマンを説くことはなかったのです。
      しかし、大乗も中期以降は、如来の常楽我浄を打ち出してきます。
      それなら、永遠・至福・我・清浄と説かれるアートマンに近づいたのではないかと言うのがそもそもの問いです。
      それにわざわざレスする形で芳和さんが投稿したのですから、どこが違うかを答えずに『アートマンのことはわかりません』と言うのでしたら、答えにはなりません。
      ただ、レスの形だけで自分の説を述べるだけということです。

      4、芳和さんは、『空=縁起=中道』が釈尊の根本思想と言いました。
      ですから、仏陀がどこで、空=縁起=中道を説いていますか、その典拠をお示しくださいと言ったのです。
      龍樹の著作を出しても、それであれば『空=縁起=中道』が龍樹の根本思想と書けるだけです。
      例えば、仏陀は阿弥陀仏の名前を唱えれば救われるとは説きませんでした。
      法然や親鸞が言ったのです。
      『阿弥陀仏は釈尊の根本思想』と言うのは無理でしょう。
      釈尊の根本思想と断定するからには、仏陀のどの言葉からそう思っているのかを示してください。

      5、ぎんたさんのここでの発言に対し、あなたは『論争は止めよ』と書いていました。
      ぎんたさんが、団体を危険だと思っているなら、『止めろ』と脅すのではなくて、この場で、どこが危険だと思っているのかを聞けばいいではないですか。
      真如苑の芳和さんにたいしてレスつけているにですから。
      ぎんたさんが、私にレスつけるのであればいくらでも聞きますが、ぎんたさんは、芳和さん関連でコメントしているのでしょう。
      芳和さんが本当に真如苑の会員でも信者でもないのであれば、自由な立場から聞けばいいだけです。
      しかし、芳和さんの態度は真如苑を守ろうとして言論封殺しているように思えました。

  16. 慧樹 より:

    ……………………………………………………

    ブラフマン・アートマンは名前だけ(不可説)

    >多様は錯覚であって、あるのはアートマン(ブラフマン)だけと説かれます。
    >どこが違うのでしょうか?
    >お答えください。

    その答えとして、六派哲学の解説を乗せたのですが、不十分だったようですね。

    上記のことは下記のヴェーダンダ学派ですね。

    https://www.youtube.com/watch?v=AzDLJILjTMQ
    ヴェーダーンタ学派【インド哲学解説】 (youtube.com)

    仏教もヴェーダンダ学派も、現象はすべて仮象・幻で実在しないと説きます。
    その出発点は同じなのですが、
    ヴェーダンダ学派は、ブラフマン・アートマンは実在とし、
    仏教は、ブラフマン・アートマンも名前だけで、中味は空っぽで実在しない。
    とします。

    すなわち、ヴェーダンダ学派は、現象界の名の中身は空っぽだが、
    アートマン・ブラフマンの名の中身はあって実在すると説きます。

    仏教(大乗)においては、現象界の名も空っぽで、アートマン・ブラフマン
    という形而上学的な根本原理も中身は空っぽ。一切皆空とします。

    ヴェーダンダ学派は、現象界空だが形而上学的根本原理は実在と説くことは、
    大乗仏教(唯識)では法執(法に対する執着)とします。

    ヴェーダンダ学派―――我空法有
    大乗仏教――――――――我空法空

    大日如来は「空を本体とする如来」で、名もなき真理を会得するために方便です。
    そして、その始まりは原始仏教にあります。ゼロという始まりには無限の可能性
    発展性があるのだと思います。

    https://www.youtube.com/watch?v=0NKsFFNIbMI
    原始仏教【インド哲学解説】 (youtube.com)

    そういう論理はさておき、八正道(中道)の修行をするところに真実が現成するの
    だと思います。

    こんなことを仮に信じる変人もいることをお許し下さい。
    修行中の身の拙い解答をお許し下さい。

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      実在するとは実体があるということです。
      実体があるとは、生滅する現象の奥にあって存続するもの、です。

      実在しない、実体がないのであれば、永久に存続はしないですね。
      それでは、常楽我浄の常とは言えないではないですか。
      常楽我浄の我とは言えないではないですか。

      何もかもが空っぽ、ですか。

      法華経では、『空を悟って、悟りの境地に達したと思っていたが、真の悟りではありませんでした』と書かれています。

      法華経に帰依していた聖徳太子も『世間虚仮 唯仏是真』と言いました。

      しかし、あなたの言うことによると、世間も空っぽ、仏も空っぽ、何もかも空っぽ、と言うのが仏教ということですね。

      現象も仏もすべてが空っぽというのであれば、虚無論とどう違うのですか?

    • ショーシャンク より:

      芳和さん。

      》》ショーシャンク様は、変人の私など相手にせずに

      いやいや、芳和さんや春間さんが、私が投稿するごとにレスを付けてくるのです。
      はっきり言って、うざいです。
      私は、芳和さんや春間さんには何の興味もありません。
      ここに投稿するのは、石飛先生の考えをお聞きしたい時だけです。
      私のコメントにはレスしないでください。
      いちいち私の名前を出すのもやめてください。
      うざったいので。

      芳和さんや春間さんのように、自分の考えをアピールしたいために投稿しているのではないのです。
      芳和さんや春間さんは、石飛先生に真摯に質問して学ぼうとしたことは一度もないですね。
      どちらもむしろ、上から目線で『教えてやる』といったコメントばかりです。

      芳和さんも春間さんも、
      『自分は悟っている。自分は分かっている。自分は修行している。自分は言葉を超えた真理を体得している。お前は悟ってない。お前は分かってない。おれが教えてやる。』アピールばっかりです。

      私は石飛先生に訊きたいだけですので、芳和さんや春間さんのレスは要らないのです。

      そのようなアピールをしたいのでしたら、どうぞ自分の弟子をつくって教えてあげればいいではないですか。

      『言葉ではない。行だ。修行だ。禅定だ。』と言うのであれば、街で瞑想道場をつくって、集まってきた人に修行を教えてあげればいいではないですか。

      •  春間 則廣  より:

        > はっきり言って、うざいです。

            うざい人生 を 作っているのは 
              誰ですか ? ( 邪魔 は 誰の生 に 生起 ??? )
         
          他人のセイ であって
            自分は それには 一切 関係がないのですか ?

          ” うざい ” と 罵って
                  よそへ 追いやれば
                 ”解決 ” しますか ?

          何故 ” うざいこと ” が
              自分の人生   に 起きているのでしょうか 、、、、

           
        > 私は、芳和さんや春間さんには何の興味もありません。

           そう 言うこと は あなたの勝手
          ( 何の興味もなければ  読まなければよい )

           あなたの勝手  に  ( 他の )勝手 が起こる

          自分の順だから  ( トッタモン勝ち )
          順序を乱されるのは 迷惑ですか ?
           ( あなたは 勝者の如く振舞う けれど
                      “勝者・ジナ”  ですか ? )
        >      **********
        『自分は悟っている。自分は分かっている。自分は修行している。自分は言葉を超えた真理を体得している。お前は悟ってない。お前は分かってない。おれが教えてやる。』アピール
        >      **********

            悟ってはいない 分かってはいない  修行していない

            と 否定揀択 する その心 の 根拠 は  悟り ・ 分別
              「 正精進 」 から 来ていますか ?
           もし そうではないのなら  唯嫌 賢者 苦  を 知らなければ 、、、、
              道を歩むのに 妨げ なのは ( そこに起きる苦 は )
              選ぶ基準 に 囚われている  自己の 好嫌 なのです

           何故  わたしが そこに書き込むのか には 理由があるけれど
               その理由 は  あなたが 眼をつぶるところ から
               起きています ( 好嫌 の 狭間 に 起きている )
           管理人エム 様 は その仕組み に対して
            十分な 配慮 を 欠く ( 恐れがある ) から
           「 語 」 を 組み上げる その  「 顛倒 」 について
                   労派心 ( 要心 )  を  起こすのです

          こうして 記すと   アンジン   が  生まれます 、、、、 ??
                      イアンジン  かな  ?

            勝手 の 手 には     そこに 二つの面があり 
               ( 掌 と 甲  ・  つとめつかさどる たなごころ の 効 )
           それは  「 空 」であり 「 縁起( 因縁 )」 におきます

         あなたが 自己の意見 を 管理人エム 様 に 伝えたいのなら
          ( 個人的 に )メール したらどうですか

         ここで 広く ( 皆に ) 知らしめたいのであれば !

           その広さ に  芳和 さん “も” 入る
           入れるかどうか は     管理人エム 様 の 認可
            いれないように  ( あなたにROMに 都合のよいようにと )
            管理人エム 様 に    願うべきであり
            あなたの希望  は    そこ(?)から
                        ここに対する 可否 が 決まる

            自己中心的  なのは 誰かな  ?

        • ショーシャンク より:

          春間さん。

          私は石飛先生のお考えを聞きたいだけで、『ここで広く皆に知らしたい』などとは思っていませんよ。
          皆に知らしたいなら自分のブログに書けばいいだけですから。

          春間さんは、『修行だ。瞑想だ。言葉ではなく行だ。』というのであれば、仏教学者が主宰するサイトに書き込んでいる人相手にアピールするのではなく、自分で街に瞑想道場を開いて、集まる人に瞑想修行を教えればいいではないですか。
          仏教学者のサイトで言うのではなく。
          なぜそうしないのですか?

    • ショーシャンク より:

      この際ですから言っておきます。

      芳和さんも春間さんも、自分は悟っていると思い込んでおるようですが、
      自らの心を洞察したことはありますか?

      両者とも、このマニカナにさかんに書き込んでは
      『自分は悟っている。修行してる。お前は悟っていない。』ばかりアピールしてます。

      マニカナと言う他人のサイトで、自らの承認欲求の渇きを埋めようとしています。
      そのような自分の心の中を洞察したことがないのでしょう。

      自らの承認欲求に振り回されている時点で、悟りとはほど遠いのです。

      承認欲求を満たそうとするために、コメントのほとんどが、自慢か誰かの貶しかばかりです。

      承認欲求がプンプンするところに誰も共感しません。

      私は悟ってると思ったこともないし言ったこともありません。
      ただただ仏陀が本当は何を言いたかったのかということ、そして、大乗仏教はなぜ興ったのかということを探索しているのです。
      自分は仏でも菩薩でも声聞でも縁覚でも天でもなく、人である瞬間もそれほどない人間です。凡夫も凡夫、凡夫のなかでも下位です。
      それは自覚できています。

      芳和さんと春間さんは、自分は悟っている意識が強すぎます。

      • mani(管理人エム) より:

        ショーシャンクさま こんばんは。気になるところがあるので少しだけ。

        > ただただ仏陀が本当は何を言いたかったのかということ、そして、大乗仏教はなぜ興ったのかということを探索しているのです。

        ここなんですけど、ブッダには何か言いたいことがあるとお考えですか?

        覚りを開いた後、言いたくない方に傾いたんじゃなかったのかなと思います。大乗が興る理由にもつながると思いますが。。いかがでしょう?

        • ショーシャンク より:

          石飛先生、おはようございます。

          仏陀が悟りを開いた時に、そのまま説かずにおこうと思ったのは
          『説いても無駄だ。誰もわかる者はいないだろう』と考えたからです。
          それは、『世の者は、執着を楽しみ執着に歓喜している』からです。
          仏陀の理法をわかる者はいないだろう、と考えました。
          仏陀の理法とは、『苦』ということです。
          『一切の形成されたものは苦である』ということです。
          愛着は苦、執着は苦、愛する対象は苦であるのに、
          すべての者は楽しみとなし快楽となし歓喜している。
          説いたところで、労力だけ費やしへとへとになって無駄に終わってしまう、馬鹿馬鹿しいことだ、と考えました。
          そこで、梵天が来て、『世の中には汚れの少ないものもいる。分かる者もいるから説いてください』と懇願します。
          それで、仏陀は説こうと決意します。

          確かに、仏陀の在世中は、仏陀の理法が分かる人が数多く出ましたが
          仏陀滅後は、仏陀の真意からかけ離れていったと私は考えています。
          仏陀の真意からかけ離れていったから、仏陀の真意の復興運動として大乗仏教が興ったと考えています。

          仏陀の理法とは四諦十二縁起です。
          その根本は、『苦』です。

          法華経にも、『苦を苦と知らない』ということが出てきます。

          結局、人間は苦を苦と知らないのであり、苦の理法は受け入れられず変節していってしまいました。

          • ぎんた より:

            >仏陀の理法が分かる人が数多く出ました

            ここが疑わしいと思います。片手くらいしか分らなかったと思います。時代が早すぎるのは
            よくないです。で、大乗が起こる頃になって、そのころの世の有様を見てやっと分って
            大乗で修正しようとしたんだと思います。

          • mani より:

            ショーシャンクさま、さっそくありがとうございます。

            > 仏陀の理法とは、『苦』ということです。

            ブッダには言いたいことがあったというわけですね。
            でも「苦を苦と知らない」ならば、それはそれなりに幸せなんじゃないでしょうか。

            一切の作られたものは苦である、というのは、決まっているのでしょうか。もし、そうなら実在論ということになりませんか。

            わたしは、アリストテレスの何でも快楽とする論を読んで、びっくりしました。
            人の死すらも、甘美な思い出のように考えて「一種の快感がともなう」と述べています。ホメロスも憤激について「それは滴る蜜よりはるかに甘い」と言っている、と書いてありました。

            アリストテレスを読むと性格悪くなりそうですが、なるほど、書いてあるような感覚も確かに味わったことがあるなと思います。

            これらの論は決まっているのでしょうか。

          • ショーシャンク より:

            石飛先生。

            》》仏陀は言いたいことがあったということですね

            はい。本当に言いたかったことは、生じるものは滅する、苦である、ということです。
            それを四諦十二縁起という形で説いていると思っています。
            しかし、後世においては、四諦十二縁起という仏陀の理法は、瞑想するものもいなくなっています。

            》》「苦を苦と知らない」ならば、それはそれなりに幸せなんじゃないでしょうか

            苦を苦と知らないまま死を迎え死後の世界に赴くのであればそうでしょう。
            しかし、老いに比例して苦の集積が膨大になっていきます。
            死に直面して悲嘆にくれます。
            若いときでも、快楽という苦に行き着くものによって苦しみの現実をごまかして生きています。
            ストレス発散にやけ食いするとかです。
            すべての楽しみは、鬱屈を一時的に発散できたときに生じます。
            だから、楽しみは長く続かない。

            人は苦の集積に向かっているので、死に直面しても苦を感じない人はいないと思っています。

            》》一切の作られたものは苦であるというのは決まっているのでしょうか。それなら実在論ということになりませんか。

            生じたものは必ず滅します。
            だから、そこにとどまるものは必ず苦であるのです。
            そこから解脱したところが寂静だと説かれます。
            実在論とか哲学的なレッテル貼りには興味ありません。
            仏陀の根本は、生じたものは必ず滅するから苦、ということだと私は思っています。

          • ショーシャンク より:

            ぎんたさん。

            片手ですか?
            一番最初の初転法輪のときに、修行仲間に説いて、次々と悟っています。
            これが5人ですので、すでに最初で片手です。

            原始仏典によると、その後、弟子は膨大に増え、次々と悟っていきます。
            仏陀が生きているときは悟る人は極めて多かったというのが書かれています。

            もちろん、原始仏典自体が嘘でデタラメだという人もいるでしょうから、その人なりの感じかたでいいとは思います。

          •  春間 則廣  より:

            >>>>>ただただ仏陀が本当は何を言いたかったのかということ、そして、大乗仏教はなぜ興ったのかということを探索しているのです。

            >>> ここなんですけど、ブッダには何か言いたいことがあるとお考えですか?
            >>> 大乗が興る理由にもつながると思いますが。。いかがでしょう?

            >> 『説いても無駄だ。誰もわかる者はいないだろう』と考えたからです。
            >> それは、『世の者は、執着を楽しみ執着に歓喜している』からです。
            >> 仏陀の理法をわかる者はいないだろう、と考えました。

                ( 分かる・分からず に かかわらず とにかく 断定する )

            >> 仏陀の理法とは、『苦』ということです。

               『執着を楽しみ執着に歓喜している』 あなた ?
                 それとも
             執着を楽しみ執着に歓喜している 者 から 離れている あなた ?
                 それとも
               離れようとはしているが、 
               離れようとしているところだけに 執着・着目する あなた ? 
             ( “ 離れている ” ところだけ     見ていたい あなた ? )

                離れていない のは
                離れていない ということを 受け入れないこと ??
                ( 少しでも 離れている ということに 執着→離れない )
                ( 少しだけ 離れられないところがある  あなた ) 
                ( 少ないところ を 大きく取り上げる   あなた )
                ( 多く  そこから離れられていると  自覚するあなた )

             大事な処では 「 苦 」 を生む 執着から 離れられるあなた
                   = 大事ではないところで 執着するあなた

            >  ブッダには言いたいことがあったというわけですね。
              ( とりあえず 言いたいことがあった と しましょう、、、、 )
            >  でも「苦を苦と知らない」ならば、それはそれなりに幸せなんじゃないでしょうか。
               執着 を 執着と知らない と  執着はない となる
                 ( それなりに ? )     ( 幸せ に 思う )

                幸せは 一人でやってくるのかな ?
              ( 一人身の幸せ には 「 他 」 が 介在している )

            > 一切の作られたものは苦である、というのは、決まっているのでしょうか。もし、そうなら実在論ということになりませんか。

              どこで 作られたか  で  実在  は 虚仮 とも なる
                  どこか(?)   で 実在 が 存在の基盤を失っていれば
                  この世( 「 世間 」 ) 作られてにある  と 言えても 
                     ある・ない ということさえ ない
             
               ないところ に 住む人  が  ある といえば ある
                                   ない といえば ない
               あるところに住む人    は  ない と聞けば ある と 思う
               ( ない についても 考えるけれど あるという前提から 離れず )

                「 苦 」 の ない人  は  いない
              ( 聖者 は  「 苦 」 のある人 が いる   という )
              ( 愚者 も あるという  けれど  愚者の考えで言う )

                  どっちだろうか ?   苦しんでいる人に聞く

                  苦しんでいない人  に   「 火宅 」 を 教える

                「 お前なんかに  教えられる 道理はない 」 と言う

                生じている苦を滅すると (その)生じたものが滅します

                  「 苦 」が 滅しても  寂滅 ではない  ?

                  「 苦 」が 滅して  そこに残るのは 何 ?

                      滅さずに 残る   思慮分別

          • ぎんた より:

            私がすごいネガティブだからかもしれませんが、仏陀から悟りの内容を聴いた時点の悟りも

            その人が死ぬころには古くなってると思います。でも、みんなちゃんと更新できたのでしょうか。

            経典に書いてあることを、「うそじゃん?」と思える人がきっと未来に出てくるはず、と読んで

            経典はわざと核心部分をずらして書いてあるのじゃないかしら?「物語」としてそのほうが

            エモいからそうだったらいいのにな、という位の感じです。

          • ショーシャンク より:

            仏陀の理法をひとことで言えば
            『生じたものは滅する』ですから、古くなることはないでしょう。

            もし、未来において、生じたもので滅しないものが発見されれば
            この理法は崩れます。
            その時は、『古くなった』と言えるでしょうけど。

        • 慧樹 より:

          …………………………………

          西洋哲学と東洋哲学の違い

          現在、大乗仏教を中心に、西のストア哲学と東の易経を学んでいる
          者として、次の哲学チャンネルのページには、全面的ではないにし
          ろ、共感するものがあります。

          西洋哲学も凄いが、東洋哲学も凄い。(性格の悪い奴の不二中道)

          石飛先生はどう思われるのでしょうか。

          https://www.youtube.com/watch?v=YR0JXZd1tzQ
          雑談(西洋哲学と東洋哲学の違い) (youtube.com)

          • mani より:

            > 西洋哲学も凄いが、東洋哲学も凄い。(性格の悪い奴の不二中道)

            互いに相いれないもの(矛盾するもの)の不二中道ですか。。
            芳和さまへの批判はそこにあるように思います。
            せめて矛盾だけでも認めないと、ほんとに何でもありになってしまう。

            肯定と否定のある判断では、顛倒ということを説いた。
            三つの選択肢のある物に限って、中道を説きました。

        • 慧樹 より:

          …………………………………………………

          釈尊様は「みんなを幸せ」を願って旅に出た

          石飛先生。
          「釈尊は何を言いたかった」ではなく「何をしたかった」では??

          性格の悪い私は、「みんなを幸せ」を願って旅に出た。

          だからこそ、釈尊様が大好きです。

          性格の悪い変人も、みんなが幸せになれればいいなと思っています。

          • mani より:

            芳和さま 

            > 「釈尊は何を言いたかった」ではなく「何をしたかった」では??

            「言う」のも、「する」のも、行いのうち。身行・口行・心行と三つあります。
            芳和さまは心行に気をつけられた方が良いかも。心に思うだけでも、行いなんですから。

  17. mani(管理人エム) より:

    > 仏陀から悟りの内容を聴いた時点の悟りも
    > その人が死ぬころには古くなってると思います。でも、みんなちゃんと更新できたのでしょうか。

    古くなりそで古くないのですぅ。。みんな、結局なんだか、わかんないから。。
    「一切智者ブッダ」と聞くと、ブッダは何でも知ってるんだな、って思うかもしれないけど、その割には予知能力とかないので、みんなは「ブッダのうそつき」とか思うかもしれない。

    んだけど、やっぱり、ブッダは何でも知っている。だれでも、老いと死から免れないことを。老いと死を乗り越えることが涅槃であることを。そこに到達出来た数少ない者の一人であることを。

    それだけでもすごくね!?

    瞑想して、最期に涅槃に入ったんだ。初禅、第二禅、第三禅、第四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、滅尽定、それから、一つずつ戻っていって、初禅まで戻ったら、また、第二禅、第三禅、第四禅と昇って、そこから直ちに涅槃に入ったの。すごっ!

    どうして、第四禅から涅槃に入ったんでしょう?わっかるかな?ぎんたしゃまっち?

    • ぎんた より:

      えー全然わからない。専門用語もわからない~

      • mani より:

        専門用語だらけだったっち。。
        わたしが思ったのは、瞑想全種類をやってみて、次に初禅、第二禅、第三禅、第四禅まで来ると色界禅(身体をもつ禅)が終わるから、身体を捨てて涅槃に入ったのかな、ってことです。空無辺処以上は、無色界禅と言われて、身体が無くても善い禅定だから、そこに入ってると考える人も出てきても良いようにしたんじゃないかな。

        つまり、「死んじゃったんだ」と思って、がっかりする人が出ないように、第四禅から涅槃に入れば、そこからもどって、わたしたちになんか言ってくれるかも、って期待する人のためではないかと。。

        お釈迦さんって優しいなあと思うところです。

        これを真似して、偉いお弟子さんたちは、禅定に入ったまま亡くなる人も出てきたんです。日本でも、空海さんとか、今も禅定に入ってる、って考えられてて、高野山では毎日ごはん運んでますよね。

        龍樹も、そうだっち。蝉の抜け殻みたいに身体だけ残して輪廻世界を抜けて行ったと考えられてます。
        なんか、ロマンチックな感じですよね。。(どこが?)

        だから、龍樹や空海は、この輪廻世界のどこかにいて輪廻していってるんだなあ、って思ってます。

        • mani より:

          涅槃に入ったお釈迦さま、って考えると、わたしたちから見たら、常楽我浄でいいんじゃない、ってことになるのかも。
          お釈迦さまは、望めば「常に来てくれて」、そして常に「安楽の状態」で、瞑想の中でいつも「気づいていて(我)」、そして、最後の特徴「浄らか」です。
          そして、いつもわたしたちの利益のために、心配りをして、わたしたちのために働いてくれている。

          悟りを開いたブッダは沢山いて、三禅大千世界の中で、それぞれ国土をもっています。お釈迦さまは、娑婆世界を作り、阿弥陀さまは極楽世界、薬師如来は浄瑠璃世界。大日如来は密厳浄土。一仏一仏国土の原則は守られる。。

          そうじゃないと、法の支配がデタラメになってしまうから。

          • えび天サンバ より:

            参禅大山世界?( ´艸`)失礼しました。三千大千世界ですよね。常楽我浄、これぞ、マニカナ先生のThe 法話ですね。有難いお話で思わず前乗りになってしまいました。ありがとうございます。

          • ぎんた より:

            あー、先生の常楽我浄はそういう感じなんですねー。私のは、「心の中にずっとほとけが
            居続けていると思えばもう楽しいしかなくて、そんな心持ちの時は争いの心は自分の中から
            流れ去っている(楽と両立出来ないから)」みたいなイメージですかね~。
            無理矢理に表現してみました。

            もの凄い怒りと、思わず吹き出しちゃうような可笑しさってどうしても同時には持てない
            ような気がするので。。。

        • えび天サンバ より:

          エム先生こんにちは。お久です。空海さんのごはん、その昔(60年前とか)は冷えた大根とか人参とかをきったものだったそうで、在家から坊さんになった奥の院勤務の若い坊さんが、そんなもんではアカンでしょ、という訳で今のような生身供のご飯作るようになったとか。

          • mani より:

            あらあ、ごめんなさい、わたしが間違えてたのね。よく見ずに打ち込んじゃ、あかんよ。。
            それにしても、えび天サンバさま、おひさしぶりです。
            昨日、えび天サンバさま、どうしているかな、って思ったところでした。

            ところで、大根一本切ったり人参一本斜め切りとかのごはん、今でもありますよね。記憶にあります。60年前でなくて10年くらい前に高野山に行きました。生身供も拝見しましたよ。

  18. 慧樹 より:

    …………………………………………
    仏陀の理法(真理)は「不二中道」

    釈尊が悟った理法とは何か?
    探求心が旺盛で凄いと思います。

    釈尊は、みんなの幸せを願って旅にでたのではないのかな。
    世界中の人々が幸せにありますようにと。

    そして、みんなが幸せになれる真理の道として「不二中道」を悟った。
    それを縁起というのじゃないのかな。

    世界のすべては「二つでひとつの一組ずつ」

    それが、易経の陰陽太極と重なるようです。
    変化を豊かに生きる。こんなのどうですか?

    https://www.youtube.com/watch?v=T8kgCZFeFdw
    易経心学 入門編(上)無料公開 – YouTube

  19. 慧樹 より:

    ……………………………………て

    石飛先生は職業差別をしますか

    >互いに相いれないもの(矛盾するもの)の不二中道ですか。。
    >芳和さまへの批判はそこにあるように思います。
    >せめて矛盾だけでも認めないと、ほんとに何でもありになってしまう。

    今日は、静岡県知事が職業差別発言で辞任に追い込まれましたね。
    「職業に貴賎はない」と言い訳をしていましたが、その平等の愛の智慧
    が身についていなかったのでしょうね。

    なぜそういう差別の心が起きるかと言えば、「オックスフォードまで言った
    オレは他とは違う」という慢心による、自己の権威付けだと思います。

    自己の権威にしがみ付く者にとっては、平等性智の道という不二中道は、
    とんでもなく危険なことになってしまうということを、静岡県知事の自認
    が証明してくれています。

    『般若心経』では、「無苦集滅道」と仏教にも無執着とありますが、
    仏教も「他とは違う」「仏教が一番だ」という権威付けすると差別を作って
    争ってしまうから、慢心の制御をして行きたいと思います。

    職業の差別が有っても、生老病死という同じ命においては平等です。
    欠かすことの役割として平等です。

    石飛先生は職業差別しますか?

    変人は「職業に貴賎がない」なんてカッコつけて人に言ってしまったもので、
    それを自ら証明するために、週に二日、休養村のトイレ掃除をさせていただい
    ています。

    『ダンマパダ』58番「泥池白蓮の教え」ではありませんが、どんなに汚い仕事
    でも、浄にも穢にも執らわれない白蓮のような「清浄心」をもって真直ぐに
    咲いていたいですね。

    『ダンマパダ』80番は、「自己を整える釈尊」を権威付けしないで、土木工事人
    も矢作り師も木工師も、みんな私と同じだよ、勇気付けてくれるところに心を
    うたれます。

    慢心の自己を整えて、職業差別をしないようにしたいですね。

  20. 慧樹 より:

    ………………………………………………

    石飛先生は、どんな修行をしていますか

    >互いに相いれないもの(矛盾するもの)の不二中道ですか。。
    >芳和さまへの批判はそこにあるように思います。
    >せめて矛盾だけでも認めないと、ほんとに何でもありになってしまう。

    矛盾―――始皇帝が大好きだった『韓非子』の言葉。
    矛と盾が、どちらが強いか比べても、埒が明かない。
    人間はそのように、比較ばかりして争う浅はかである。
    したがって、中庸の「法」による統治を行え。
    法家思想の論理です。

    比較しないで争わない道を行くための「法」です。

    「何でも有り」ではありません。
    何でも(無限定)にも、ひとつ(限定)にも執着しない「清浄心」の境地です。
    「有り」にも「無し」にも執らわれない「清浄心」に生きる道です。

    二項対立を超えた「第三の中」に生きる中道です。
    平等と差別の矛盾対立を超えた「争わない的中」の道です。

    東洋と西洋を比較しないで、互いを認めて学び合いましょう。
    東西の比較争いから、「学び合う」という第三に道を開きましょうよ。

    『中論頌』の帰敬偈でいえば「不一不異」という空の智慧です。

    『法華経』的には、娑婆は不一だが、妙法は不異であるという「三草二木の喩」。
    『阿弥陀経』で言えば、赤青黄色のそれぞれが、それぞれ色のままに輝く、
    赤色赤光・青色青光・黄色黄光・白色白光という、絶対平等の阿弥陀仏の世界です。
    『華厳経』的に言えば、一即一切・一切即一の事事無礙法界の縁起の極地です。

    仏教的にいえば、比較を超えた法による自己統治の道(中道)のこと。
    でもこれは「体験智」ですから、自分の考えに絶望して、言語以前の頭空っぽの
    直接経験をする必要があるようです。

    そのための戒定慧の修行。頭を空っぽする修行に精進したいものです。

    石飛先生は、どんな修行をしていますか。

    修行方法は違えど、それぞれ真直ぐ生きましょう。

    • mani(管理人エム) より:

      もとは芳和さま

      > 平等と差別の矛盾対立を超えた「争わない的中」の道です。

      芳和さまとお話し(?)すると、口ではどんなことでも言えるよな、って思ってしまう自分がいます。
      わたしが色眼鏡で見てるのかな、って思ったら、どうもそうでもないようで、他の方々も指摘されていました。

      「争わない」といいながら、常時お腹の中で怒りの炎を燃やしてるようにお見受けしますが、もし、その炎を消せるなら、芳和さまはみんなに好かれるすばらしい人になりそうにも見えます。予感はあたるかな。。あたるといいな。

      •  春間 則廣  より:

          〇〇さまとお話し(?)すると、

            〇〇 には (誰でも)なんでも  入る ?
             “ わたし ” も    入る けれど
             あなた(!)  と 彼の人   とは 入らない

          (  自らに 語りかける人  は   多くはいない  )
          ( 多くいなくとも 少なくない人  は  聞く耳を持つ )

        > 口ではどんなことでも言えるよな、って思ってしまう自分がいます。

            他に 語りかけている    のであろうか 、、、、、
         そこに 於いて ( 他 を 仮 て ) 「 虚 」 を 見つめる

              コジ が ある   ( 居士 であり  乞食 の人 )
                三鈷 の 省       一個 の 己
              還り 観る 「 空手 」  「 還郷 」 教を 起こす

        > わたしが色眼鏡で見てるのかな、って思ったら、どうもそうでもないようで、
          他の方々も指摘されていました。

            と      眼鏡 を “ 掛け直して みる ”  
              ( ここに 起きている “差異の角” の 前の眼鏡 )
             彼 を見る   コを見る     方々  を みる
               (  言なる  仮色 は    此 に 発する  )
                 自分の廻りを 廻って    見巡らし
                    巡る自個 の   ケ  「 識 」を 観る 、、、、 

             ホウホウ  のてい  で 逃げかかる  己 を 観る

         “個己” で 観なければならない “此処” に 起きている こと
              ( 二つ重なっているのは   偶然ではない   )

            わたし は  あら そわない
                 “  こ と も  ”  あら たてない

             (  と いう  言 を   みつめる   観音   )

        •  春間 則廣  より:

          https://gendai.media/articles/-/85321?page=1

          racisme ordinaire ( 日常化した差別 )

             日常化している  「 顛倒 」 

          差別は言葉だけとは限りませんし、多くは揶揄やユーモアのかたちをとりますし、「尻尾をつかませないようにやる」のが常套手段ですから、何が差別か瞬時に判断し反応するのはそう簡単ではありません。セクハラや痴漢を含む性犯罪と同じで、自分のおかれたシチュエーションによっては声をあげるのが難しいことも多いでしょう。

          声をあげられないことは恥ではありません。恥ずかしいのは差別をする人です。ただ、声をあげないと、いつまでも「差別」だと認識してもらえないのです。

          サッカーフランス代表の一件で、フランス在住の著名な日本人が「酷い悪口ではあるが人種差別ではない」といったツイートをしたことが話題になりましたが、勇気を振り絞って声をあげた人たち(私たちのために声をあげて状況を変えていってくれる人たち)を「たしなめ」たりするような行為は避けたいものです。

          • mani より:

            > 何が差別か瞬時に判断し反応するのはそう簡単ではありません。

            「瞬時に」判断しているのではなく、何年もかけて判断しています。最初に出遭った時から今の今までのこと、なのです。

            芳和さまには、いろいろ思うところがあります。けれど、話すチャンスがなかったのです。善知識と言ってもいいのかも。たぶん、芳和さまは誤解して考えるだろうけども。

          •  春間 則廣  より:

             「 顛倒 」 が ある

                という意味

               日常  とは  ここに限る  ことではない

                 常行 という 行為

                  行っている  という 「 自覚 」

                   〇 △  死角

                死角 に 参画  する  「 瞑想 」

                  そこにおいて   自覚  を  捨て 去る

                とど 〇 ▽  ( カクサン ・ 広がる 意識 )
              

            ・ 

      • 慧樹 より:

        ………………………………………………………

        誰もの言語文字は煩悩の固まり(だから問答法)

        >常時お腹の中で怒りの炎を燃やしてるようにお見受けしますが

        慢心なる軽蔑も感じらますが、ご指摘に感謝いたします。
        いつもありがとうございます。

        そのように、二元対立によって成立している言語は煩悩の固まりです。
        したがって、誰もの言語文字は煩悩の固まり。
        私の文章も煩悩の固まりですので「煩悩の自己」を見つめて、
        怒りを制御しつつ「個人的な感想」としてレスをしています。

        慢心による軽蔑がある石飛先生の文章も煩悩の固まり。誰もの文章が煩悩
        の固まり。その「煩悩の自己」としては平等だと思っています。

        ただし「煩悩の自己」として平等ですので、攻める資格は私にはありません。
        ただ、民主主義には「相互指摘」があります。互いの心を深めること目的とする
        ならば、「個人的は感想」を排除してはいけないというのが「表現の自由」なの
        ではないのでしょうか。

        個人的な感想を交差させ、自己の内部から真実を見出だすというような、
        ソクラテスの問答法などを参考にしています。釈尊の対機説法の問答法なのだ
        と思います。

        https://www.youtube.com/watch?v=s9_qTvbURZI&list=RDCMUCAmfstWXkAnAVBdfAci4bzA&index=12
        西洋哲学史 古代ギリシャ哲学解説【ソクラテス】前編 (youtube.com)

        自己と問答をして、自己の内なる真理に気づくことができればいいですね。

        「争」についてですが、唯名論の立場からしますと、「争」にも実体はなく、
        「争」は「不争」との二元対立によって生起しまので、「争」だけを消滅する
        ことは出来ません。

        『スッタニパータ』は二元対立の超越を説いていますが、「争」と「不争」の対立
        を超えて、どちらにも執着しない「空争」が真実ではないのでしょうか。

        「争う」にも執わず、「争わない」にも執われない「空争」。
        二元対立を超えた心が「清浄心」。

        その清浄心に気づくための問答法ではと。

      • ぎんた より:

        ぎんたは「芳和さんの投稿うざーで斜め読みするほとけ」で、芳和さんは「ぎんたにうざがられる
        ほとけ」で価値は同じなのでよいと思います。

        フランス人の中身は何人なんでしょうね~?『赤毛のアン』を大人になって再読したときに、
        カナダでは「出稼ぎのフランス小僧」(←うろ覚え)みたいな文章出てきてえ?てなりました。
        日本人差別をたしなめるほとけに対して、そうではないと強く立ち上がるほとけがいる。。。
        自由でよいと思います。

        しかし、自分の人種にもの凄い自信があるってどんな感じなんだろう?
        未体験すぎる~~~~。でもなれない。フランス人を弾き飛ばしてフランス人になっても元の
        ぎんたの心にしかなれないから。。。

  21. 慧樹 より:

    ………………………………………………………………

    肯定に偏らず、否定に偏らず。有に偏らず、無に偏らず

    >肯定と否定のある判断では、顛倒ということを説いた。
    >三つの選択肢のある物に限って、中道を説きました。

    三つの選択肢が有るものと、無いものがあるのですか?
    「有る」と「無い」の相対対立の争いにいなりませんか?

    その有る無しの二元対立を超えて争わない道を「有無中道」というのだと
    思いますが………。

    有に偏らず、無に偏らず――偏見を無くした「中の道」
    肯定に偏らず、否定に偏らず――偏見を無くした「中の道」

    それを私は、
    始めと終わりの相対を超え、今と永遠の相対を超えて「今を善く生きる道」
    だと思っていますが、公案を真剣に楽しく遊んでみますね。

    1,肯定を選択する道。
    2,否定を選択する道。

    どちらか迷っていると死んでしまう。
    さてどうしようか?

    3,肯定と否定と相対を超えた「中の道」があった。

    しかしそれには、どうしたらいいのか。
    肯定否定の比較を生み出すのは言語(戯論)だという。
    ならば、言語を空っぽにして、言語なき世界へ往って還ってみようか。

    平静な心で、言語を手放すマントラでも唱えようか。
    オン アロリャ カソワカ

    観世音菩薩に言語の思いをすべて手放します――南無観世音菩薩。

    公案を楽しませていただき有難うざいます。

  22. 慧樹 より:

    …………………………………

    三密加持すれば速疾に顕わる

    >「言う」のも、「する」のも、行いのうち。身行・口行・心行と三つあります。
    >芳和さまは心行に気をつけられた方が良いかも。心に思うだけでも、行いなんですから。

    老婆心、ありがとうございます。
    「思い手放し」の「清浄心」の行をしているのですが、まだまだ足りませんから、
    初心の童子に帰り、「一発発菩提心を百千万発」しています。

    阿耨多羅三藐三菩提心!

    その心行だけでは、ダメなもので、口を浄める口行、身体を浄める身行をしてます。

    「おつかれさま」「ありがとう」「すみません」という口密。
    穢くて辛い事にも、喜んでするという身密。

    身心一如と申しまして、五官と五根はみんなつながっていまので、
    空海の「即身成仏義」では「三密加持すれば速疾に顕われる」
    という即身成仏義を説きます。

    仏の身行・口行・心行の真似をする身密・口密・心密の「三密行」に励んで行きたい
    と思います。

    三密行は、今を善く生きられて楽しいです。

    ご声援ありがとうございます。

  23. 慧樹 より:

    …………………………………………………

    即身成仏と修証一等も、相対を絶した中道

    即身成仏が登場したところでついでに。
    即身成仏というのは「初地即極」といって、
    空を体現し十地に初地に入ったらそこが成仏。
    なぜって、空を体現すると無分別智が生起し、
    始めと終わり分別がなくなり、
    始めが終りで、終りが始めで、
    菩提心を発したところが究極の悟りっていうのになる。

    で、終わりも始めの同じだから、そこから新たな修行が始まる。
    それは、自分のための修行じゃなくて、自分と他人の分別が
    なくなるから、「みんなのための修行」となる。

    「みんなのための修行」をしているところが即身成仏。
    そして、その初地歓喜地は、その名の通り歓喜の世界なのさ。
    ただ、なにもしないのではないよ。
    「みんなのための修行」を常に楽しむと、身心共に清浄となる。

    「常に楽しみ我浄し」という常楽我浄の道が即身成仏。
    始めと終わりの差別をしない。
    修行と悟りの差別をしない。

    修行が悟り、悟りが修行――今此処、修証一等。
    諸行と悟りは同じだ。
    八地即極の即身成仏と同じじゃないか。

    現在実有神無体――今しかない――今此処を何も求めず、真剣に楽しく生きたい。

    常に楽しみ我浄し――常楽我浄

    自然に指が動いた。

  24. mani より:

    ぎんたさま

    > あー、先生の常楽我浄はそういう感じなんですねー。私のは、「心の中にずっとほとけが
    > 居続けていると思えばもう楽しいしかなくて、そんな心持ちの時は争いの心は自分の中から
    > 流れ去っている(楽と両立出来ないから)」みたいなイメージですかね~。

    ええですねぇ。。これも、ある意味、空ですよね。誰にも迷惑かからないなら、自由におもってよい!、って考えです。

    仏さまは、頭のてっぺんから一つの音を出してただけである。それをみんな勝手に聞いて、「わたしに向かって話しかけてくれてる」って思って、それぞれ受けとって救われたのである。一音教とか言われるヤツです。

    いいねえ。
    あたってると思う。

  25. 慧樹 より:

    ………………………………………………

    外部の評価に惑わされない「精神の自由」

    >芳和さまはみんなに好かれるすばらしい人になりそうにも見えます。

    子供に言い聞かせるような母心をありがとうございます。
    私は「童子」です。

    しかし、童子は、「みんなに好かれるようなすばらしい人間」を目指していません。
    そういう外部の評価に惑わされない「精神の自由」を目指しています。

    自己がコントロールできるものは自己のみで、外部のコントロールできないものを
    コントロールしようとするから苦を生じるのはないのでしょうか。

    『スッタニパータ』25

    「わたくしは何人の雇い人でない。みずからの得たものによって全世界を歩む。
    他人に雇われる必要はない。もしも雨を降らそうと思うなら雨をふらせよ」

    承認欲求の苦から解放されたいものです。

  26. 慧樹 より:

    …………………………………………………………………

    二項対立を粉砕し、苦悩の世を生き抜け――『維摩経』

    大好きな一音教という『維摩経』が登場してので、数ある維摩経解説の中で、
    私にとって肌の合う、菅沼晃『ドラマ・維摩経・全三幕』を再読してみました。

    『維摩経』は、現代人が陥りがちな「損・得」「敵・味方」「仕事・遊ぶ」
    「大・小」「公・私」「教える・教わる」というように、すべてを二項対立で
    考えてします思考法を悉く粉砕します。その結果、全てを引き受け苦悩の世界
    を生き抜く覚悟へと導いてくれます。

    二元対立を粉砕し、全てを引き受け、苦悩の世の中を生き抜け!

    ということで、私の思想の根柢にあるのが『維摩経』の【不治の法門】であった
    と今更ながらに気づきました。『維摩経』の再読の機を与えていただき感謝申し
    上げます。

    さて、「仏陀の教えは私自身のためにある」という「仏国品第一」の「仏陀は
    一音をもって法を説く」という詩を指で読ませていただきます。

    仏は一音を以って法を演説したまうに
    衆生は類に随いて各解することを得、
    皆な世尊は其の類を同じくすると謂う。
    斯れ即ち神力の不共の法なり。
    仏は一音を以って法を演説したまうに
    衆生は各解する所に随いて、
    普く受行を得て、その利を獲。
    斯れ即ち神力の不共の法なり。
    仏は一音を以って法を演説したまうに
    或るものは恐畏有り、或るものは歓喜す。
    或るものは厭離を生じ、或るものは疑いを断ず。
    斯れ即ち神力の不共の法をなり。

    今の私にとっては、

    「出会うところ我が命」――自他不二。

    と読ませていただきます。

    これからも、二項対立の粉砕という「不二の法門」を深めさせていただく
    覚悟でございます。