今日も写真がありません。
何か善いものを求めたブッダは、論理と法の地で生涯を終えました。「大般涅槃経」の中でスバッダに語っています。「善いもの」に目がいくけど、善いものを求めると、たんに倫理的になるんじゃなくて、論理的になるところがミソ!
ここが、大事なところです。そうだよね。倫理を求めるからといって、理屈も追わないんじゃ、デタラメの中にいるのと変わりません。「理屈じゃないんだよ」といった時、聞いてもらえるのは、いつもは理屈にそったことをいう人の意見です。
わたしは、ブッダがどんなに難しくても理屈をないがしろにしないことに、いつも驚嘆していました。
倫理を求めているからこそ論理的であろうとするのだな、と思っています。
論理だけで悟りにいける、このすごさをいつもひしひしと感じてしまいます。
しかも、論理というのは、相手の持っている論理なのです。論理というのはそういうものなのだとブッダから学んだのです。
相手の使う理屈がその場合の理屈なんです。
「自分はこういう理屈を使う」、だからといって、相手に自分の良しとする論理を使えというのは、どうでしょうか。最初は付き合っても、やがて、「論理自体が違うんだよね」といわれて終わってしまいます。
ここに四句分別という論理があります。インド的にはブッダの時代から用いられてきたものです。『般若心経は間違い?』という書の中で、スマナサーラ長老はこの四句分別は外道の論理で、ブッダの教えでは使わないという趣旨を話していました。
スマ長老は、ある意味正しくある意味間違っていると、わたしは思います。
ブッダは部派の人々(つまり比丘たち)には、論理として縁起を教え、四句分別は使いませんでした。しかし、外道の人々を相手にする時は、四句分別をつかっているのです。それも、その論理を自分の論理として使っているのです。そして、そのことには、スマ長老は気づいていないのです。ブッダから習わなかったからです。
四句分別と縁起の二つの論理を使ったのが、ブッダなのです。四句分別を縁起に置き換える、縁起を四句分別で表す、これらを自由自在に操ったのが、ブッダなのです。
実は、ブッダ以外に、もう一人歴史上いるのです! みなさん、もうおわかりですね。そう、龍樹という人です。
論理は変換されるのですよ。こんなことをした人は、誰もいません、ブッダと龍樹以外に。
四句分別と縁起の橋渡しをするのも、論理です。その、中継ぎの論理をなんと言うか知っていますか。うすうすみなさんも気づいているでしょう。
そう、その論理を「空」というのです。
だから、「空」は論理ではあるけれど、正確には論理ではないのです。何が論理で、何が論理でないの?
縁起と四句分別が表現されているところでは、論理として働くことができるのです。
しかし、縁起も四句分別もないところでは、空(くう)はただのからっぽなのです。
こうしてみると分かるでしょう。
スマ長老の述べるとおり、ブッダは比丘たちに四句分別を教えず、だから、空も説くことはなかったのです。禅定の中だけで教えたのです。全部縁起で行け、というわけですね。
一方、外道の者たちには、ついてこれる者には「空」を語ったのです。語ったんだからね。論理にもなるものとして語り、倫理にもなるものとして語ったのです。だから、「空」は、使うものなのです。使ってなんぼです。「絵に描いた餅」なのではなく、実際使える論理でもあるのです。
空がわかりにくいのは、言葉でもありながら、実践の中にしか現れてこないからなのです。しかも、言葉以外のところに現れるのです。いや、言葉の中に、奥底に、空気の中に、大気の中に仄見えるのです。
それはわかったけど、ところで、表題の「四句分別徹底」ってなに?
あ、忘れてました。
そうそう、ブッダは、仏弟子たちには語っていないけど、バラモンさんなど外道の人たちには徹底して四句分別の考え方を教えており、それを乗りこえる道も教えているということを言いたかったのです。
外道の人たちの偉いところは、自分たちを絶対視しないことです。
ある立場をAと主張すると必ず「Aでない」という意見が出ることを知っています。さらに、それだけではありません。「一部Aだけど、一部Aではない」という意見が出ることもわかっているし、いや、両方ともそうではない、って否定する人もいることも認めているのです。こうして4つの立場の人々がでてくることを承認しています。
西洋論理では、Aという意見とAでないという意見しか出てきませんでした。一つの意見とその否定しか認めなかったので、互いに争うことになります。しかし、体系的なことを考えるなら、4つの立場があることが分かるでしょう。
インドは体系を意識していたけれど、西洋哲学はそうではなかったのだ、と知るのです。
四句分別というのは、見解の束をまとめる体系的な理解なのです!
おかしな見方じゃ、ないんだからねッ!!
あ、興奮してしまいました、失礼しました。
コメント
理屈じゃない
という 理屈
理屈を 言うんじゃない
どっち へか 分かるかな ?
*
> 四句分別というのは、見解の束をまとめる体系的な理解なのです!
まとめる と ( 束 は ) 一つ となる
体系的な理解 の 一つの束 ( である 見解の束 )
> おかしな見方じゃ、ないんだからねッ!!
という “!!” 着け猿 の “上”着
興奮しようとしまいと 上着 を 脱いで
はだか で 仮たる
カタルニオチル ほんま の こえ
・
> > おかしな見方じゃ、ないんだからねッ!!
> という “!!” 着け猿 の “上”着
まあ、そうかもしれないね。四句分別を見て、体系を意識できる人は少ないです。。というか、こういう意見に出合ったことはありません。
着け猿 の “上”着 と思う根拠を示してほしいけど。。
ブッダは新しい見方を導入している、ということを、龍樹は『中論』で告げている!
“!”は、一つにしてみました。
*
> > おかしな見方じゃ、ないんだからねッ!!
ただしい見方 なんだからねッ !!
( 眼を見開く “ !!” )
> “!”は、一つにしてみました。
( これは wink “!” )
着けざる 上着 を 取り去って
糞掃衣で語る 仮たること ではなく
ほんとうの 越え
> まあ、そうかもしれないね。四句分別を見て、体系を意識できる人は少ないです。。というか、こういう意見に出合ったことはありません。
ないということはない ( あるのには ある理由が ある )
ないこと は ない ( ある こと が ない ことがある )
あるということ を ない という 「 空 」
ないということ を ある という のでもない「 空 」
ある のには 理由があるが
その理由 は ある理由を持つ ( 理由を捨つ「 空 」 )
( 「 空 」 は 理由を語らない )
DMP.207
愚かなる我 とは 道を共にする に 値せず
DMP.208
多聞 とは キく こと 多き に いまだある ということ
上着を脱いで 衣を 変えたる人 と ただ 歩む
DMP.63
まことの おろかさ は “彼・カ” に あるや
「 四句分別 」 を 捨てるために 「 四句分別 」 を 用いる
( 「 分別 」 を 捨てる為 の 「 分別 」 に 迷う )
りくつじゃない という クツ を はいて あゆむ
・
エム先生お久しぶりです!
縁起 は、二句分別の論理形式で説かれている法 なのでしょうか?
pipitさま こんばんは。
縁起は二句分別か。。。いえ。。。違うと思います。説明するのは難しいのですが、現代的には因果関係の形を取っています。二本の式からなっていて、一本は「生ずる道」、もう一本は「滅する道」を表します。「生じたものは滅する」というやり方を式にしたので、二句分別とも言えないと思います。生じたものは滅する、ということですと、寂滅とか、寂静とかいわれる境地が現出します。二句分別は、肯定と否定のあり方を示すのみだと思います。
因果を説く、ということは、他のどの見解とも違う見方をとる、ということだと思っています。主張をもたないのです。生じたら消えるからです。
仮に現れても消えてしまうのです。そういうやり方を執ったのはなぜかというと、それこそ、苦しみのない道だからではないかと思っています。
説明しきった感じは全くしませんが、書くことも思いつかないので、これでお返事としますね。
エム先生、ありがとうございます😊
>仮に現れても消えてしまうのです。そういうやり方を執ったのはなぜかというと、それこそ、苦しみのない道だからではないかと思っています。<
生じたものは滅するという論理形式….執着が消えてしまうと涅槃なのかなぁと、先生の文章を読んで、ふと思いました。
見解も生じたものは滅する….
四句分別の論理形式の場合は、完璧なオンリーワンの見解は成り立たない、と心底から納得することで見解を離れる気持ちが起きるのでしょうか??
pipitさまぁ、ありがたや。
> 四句分別の論理形式の場合は、完璧なオンリーワンの見解は成り立たない、と心底から納得することで見解を離れる気持ちが起きるのでしょうか??
そうそう、ブッダはくりかえし「争うな」と主張しています。完全にこの理論を掌握しています。
「完璧なオンリーワンの見解は成り立たない」ことを告げているのです。
そして、「見解を離れる気持ちが起きること」を「空性」と龍樹は呼んでいます。「空性とは見解からの出離である」と『中論』で述べています。
四句分別でいえば、「Aである」と「Aでない」の両方が成り立つ場面を問題にしているとも言えます。だから、空は「一切」を対象とするのです。
自分で突っ込んでみます。
> ブッダはくりかえし「争うな」と主張しています。
ブッダは主張しないんじゃなかったの、と、突っ込み入れます。そうなんですよ。自分の教団に入ってきて弟子になった者たちには、こう教えたけれど、それ以外の者たちには言わなかった、と言えます。ただ、それ以外の人でも、尋ねた人には答えた、ということだろうと思います。
我が有る者たちには、秘匿の教えになるけれど、無我なる者たちには、争わないブッダの無我の行為になる、というところ、まことにもっておもしろいことです。
エム先生おはようございます。
返信ありがとうございます!
>四句分別でいえば、「Aである」と「Aでない」の両方が成り立つ場面を問題にしているとも言えます。だから、空は「一切」を対象とするのです。我が有る者たちには、秘匿の教えになるけれど、無我なる者たちには、争わないブッダの無我の行為になる、というところ、まことにもっておもしろいことです。<
おもしろいですね!
秘匿でありながら、そこにいてくれる。
その気になれば、開かれている。
いろんなレベルで、があるとおもいますが、わたしレベルでも、、、
元気でます😊♪
北海道は雪がたくさんで大変だと思いますが、少しでも軽くなりますように🍀
いつもありがとうございます。
m(_ _)m
お、ここにもコメントがあるので、「秘匿の教え」について書いてみます。
「大般涅槃経」の中に、ブッダが「師の握り拳(=秘匿の教え)はないよ、ことごとく弟子たちに持っている教えを語ったよ」という場面があります。
ウパニシャッドの思想の中には、輪廻の教えなどは師から限られた弟子に森の中などでこそこそ教えられた教えがあったことが説かれています。
全部開かれた教えであるのに、理解する人が少ないのが仏教の特徴ですね。
さて、ところで、なぜ、インドでは体系が意識されてきたのでしょうか。一つの見解ではなくて、見解の束からなる体系だった理解が為されたのでしょうか。
わたしは、その答えは、インドの思想がyogaを基本においていたからだと思っています。言い換えれば、実践的な理解が重要であったからだと思っています。
禅定や瞑想を用いて、体得して行くことが大事だったからだろうと思います。
*
> 見解も生じたものは滅する….
「 生労病死 」
「 生 」 から 「 死 」 に至るのは
“ 滅する ” わけではない
“ 不死 ” ということが、 “ 滅する ” という こと
生じたモノ が 滅する のを 「 不生 」 という
> 四句分別の論理形式の場合は、完璧なオンリーワンの見解は成り立たない、と心底から納得することで見解を離れる気持ちが起きるのでしょうか??
見解 が 成り立つうち は
いくら心底 からだと 感じようと、 それは見解 に 過ぎない
納得 などということは
納得できないことにより、 簡単に 否定され得ること
( 納得できないこと に対して は、 理由は 必ずしも 不用 )
( ただし、 有無 を 納得すること は、 勝手にできる )
・
あら?前半を自分で消してしまったようなので、その部分を再投稿しますね。
(^◇^;)
>四句分別でいえば、「Aである」と「Aでない」の両方が成り立つ場面を問題にしているとも言えます。だから、空は「一切」を対象とするのです。<
一切 だから、見解の全・体系が、四句分別なのですね!
一切 を知って、しかも空性だから、対機説法も可能となる…
と書いたつもりが、消えてしまってたのでもう一度書きました。
よろしくお願いします(^○^)
pipitさま、めちゃ!難しい話になってきますね。
> 一切 だから、見解の全・体系が、四句分別なのですね!
> 一切 を知って、しかも空性だから、対機説法も可能となる…
うーん、うまいなぁ。ブッダは、演繹的にもいけるんですよね。
上の文は、「四句分別」と「一切」の関係、下の文は、「空性(=縁起)」と「一切」の関係とも言えますか。共通項の「一切」を媒介にして「四句分別」と「縁起」は結びつく、と言えます。また、縁起とみると、帰納的な要素も含まれてくるから、演繹的にも帰納的にも語り得ることになります。
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絶対否定⇒仮象の自覚⇒絶対肯定⇒中の道の現成(無論争)
…………………………………………………………………
四句分別からの感想を失礼します。
考える資料に感謝します。
ギリシャ形式論理=同一律・矛盾律・排中律
同一律=AはAである
矛盾律=AはAで在ると同時にBでないということはあり得ない
排中律=AはBではなくBでないものでないということはあり得ない
インド論理=四句分別
「A」か「非A」か「Aかつ非A」か「非Aかつ非非A」であるか。
中国易経=陰陽太極(対立即統一)
易に太極有り。是両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。
ギリシャとインドの交流は中間のペルシャを通じてあったと言われる。
ギリシャの形式論理学とインドの四句分別は交流における相互作用で
確立されたものなら、どちらが優れているのかと論争せずに、お互い
を認めたいものである。
龍樹の『中論』の面白には、否定され尽くした四句分別が、仮象として
自覚されると、仮象のままの肯定として蘇る。絶対否定から絶対肯定へ
という中道の現成だという。
それは、陰と陽という相対するものが太極によって統一されるという、
中国思想の根幹である易経の陰陽太極思想に通じる。
自己も否定される絶対否定だからこそ、他者を認める絶対肯定という
「中のような道」が現成するようである。
絶対肯定に至れば、アミニズム・シャーニズム・科学も論理学も、すべて
の宗教も、それなりに認めることができるのではなかろうか。
相対を絶した絶対肯定から、平等性智のような智慧が現成するようである。
それぞれがそれぞれのままに輝く、論争なき安穏の世界の現成か。
………………………………
輝かしいAI論理学の行方
………………………………
AI論理学の進化には輝かしいものがある。私にはとても付いて行けない。
病気の診断ができる可能性もあるというから、人類に対する貢献度も大きい。
ただ、輝かしい論理学にも陰の部分があり、人間が画一化・機械化されて、
AIのロボットとして、逆に支配されてしまう恐れがあるという。
論理学も科学的合理主義も非情で冷たい。
その偏重で、私も多大な失敗をしてしまった。
そんな冷たい論理だけで人は幸せにはなれない。
非情な論理学には、非論理の情愛が必要ではないのだろうか。
非情な論理学と、情愛との関わり合いの調和が求められる。
光には影があるものである。易経でも学んでみようか。
本田濟『易』が届いた。
エム先生、こんばんは!
私はいまだにカントの『純粋理性批判』の4分の1くらいしか読めてないのですが、
>インドは体系を意識していたけれど、西洋哲学はそうではなかったのだ、と知るのです。<
一応、意識はカントもしてるみたい、という箇所をお知らせしますね。
B89(カントの文章・田村一郎先生訳)
『ところで一つの学のこうした完全性は、たんに試しに寄せ集めたものをまとめただけでは保証されない。したがってそうした完全性が可能となるのは、ア・プリオリな悟性認識の全体という理念を用い、悟性認識を構成している諸概念をその理念に従って区分することによってだけであり、つまりそれらを一つの体系として関連づけることによってだけである。』
(以文社『純粋理性批判 上』p127)
カントの場合、知性(悟性)そのものを分析してカテゴリー(対象の理解の仕方・純粋悟性概念)を導出した、と言ってるっぽいんですね。
それで感性的対象関係なしに頭だけで論理考えたら、
Aである、と、Aでない、がどちらも論証できて二律背反になるということで、論理だけでは決着つかない問いへの固定した見解から離れる、という態度に『純粋理性批判』においては至るみたいなんですね。
それが成功してるか否かはまだ私には理解できていませんが、
とりあえずカントが体系を目指してるとわかる表現は他にも目にします。
四句分別は二律背反も許容して、全て許容して、でも龍樹は最終的に見解から離れるに至るのですね(カント哲学も含め、いろいろ勘違いしてたらすみません🙇)
個人的な感想ですが、インド系?論理学は、豊かそう…
やっぱり瞑想が大きいのかなぁ。
pipitさま こんばんは。遅くなってすみません。
> 一応、意識はカントもしてるみたい、という箇所をお知らせしますね。
なるほど、さすが!カント先生。
> 論理だけでは決着つかない問いへの固定した見解から離れる、という態度に『純粋理性批判』においては至るみたいなんですね。
そうなんですか、このあたりも、さすが!カント先生といいたくなっちゃいますね。
ところで、インドが体系を意識出来た一つの要因ですが、pipitさまご指摘の通り!、私は、ヨーガ・瞑想を持っていたからではないかと思っています。どの哲学でも、ヨーガなしには話しは進みません。ごく自然と体系的な理解に至ったのじゃないかと思っていますが、このあたり、もう少し詰めてみないといけないなと思っています。