安直なタイトルだが、思いつかないのでこれにする。息子は、日々に調子がよい。。のか、悪いのか、よくわからない。胃瘻から入れる栄養は、身体によいものばかり選んでいる。腸内環境を整えないといけない、というので、みそ、あまざけ、ヨーグルトなど発酵食品を入れている。食物繊維を増やすべし、ということで、サプリを混ぜはじめた。
何かひとつの思想を、食べているような気がする。たぶん、そうなんだろう。「身体によい」と信じるものを胃瘻の管から入れてみる壮大な〈?〉実験だ。煩悩は振り回されるものだなあ、とも思う。
科学の発達した時代、福利厚生の行き届いた環境だからこそ、生きていられるのだ、とも思う。
おそらく息子が生きているのは奇蹟なんだろうな、と思う。様々な原因によって、息子の生がなりたっている。衆縁和合して一つの果を結ぶ。危ういピラミッドの頂点を維持しようとしているような気がする。
いつか行(サンスカーラ、意志・意欲)は滅する時がやってくる。わたし自身はそういう思想で生きている。ブッダの思想である。そこが悟りだ。
身体が壊れる前に悟りなさい、とブッダは述べている。
身体を長く保たせようとする思想(=長寿を求める思想)、その思想であれこれ看病している。誰もが皆、それがいいと思っている。私もまた世間にあわせている。
一方、ブッダは身体を長く保たせることには興味はなく、身体が壊れる前に悟れ、という.
息子はどちらを選ぶのだろうか。。息子が決めることだろうと、私は思っている。
コメント
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> いつか行(サンスカーラ、意志・意欲)は滅する時がやってくる。わたし自身はそういう思想で生きている。ブッダの思想である。そこが悟りだ。
「 行 」 は 滅する 「 行 」
滅する 道 を 歩むとき 滅していく・滅している
思想で生きている のではなく 歩み として 運んでいる
そこに起きている 歩み を さとる
> おそらく息子が生きているのは奇蹟なんだろうな、と思う。
「 ひとの生 を 受くる は 難し 」
難きこと は 起き難きこと
「 今 その生 を 受くる 」
得難き生 に えがく ( 得 学 ・ 「 慧 」 が 苦 )
世間 に 刻苦 ガクトク ( 獲得 ・ 獲徳 )
徳 を 得ることが 苦 と 学ぶ 世間
学ぶことを捨てる そこに起きる 功徳 を 説く
> 身体が壊れる前に悟りなさい、とブッダは述べている 。
> ブッダは身体を長く保たせることには興味はなく 、
身体が壊れる前に悟れ 、 という .
悟る まで 、 体 を 、 永 く( 永久 に )
保たせる ということ を さとす
体 は 「 色 」 ではある が
「 色 」 は 「 識 」 に 起きている
「 識 」 は 「 世間 」 に 起きる けれど
「 悟り 」 は そこに於いて 「 永久 」 を 起こす
> 息子はどちらを選ぶのだろうか。。
息子が決めることだろうと、 私は思っている。
息子 が 決めて 、 あなた が 段 ずる
決めたこと が 決まらない 「 世間 」
わたし は 断じて いる
・
脳や心臓は従で大腸や太陽神経叢が主導で生きてるとはすばらしい
細胞はダルマによって生まれダルマによって死ぬ
ダルマからちょっと外れちゃうと癌になっちゃうけど
最近はダルマに戻ってアポトーシスする研究も進んでいる
脳神経は失われた箇所を残った個所が補うダルマが備わっているので
生きとし生ける細胞がダルマに従いますようにと
ロゴスともタオともいいますにゃー
脳に腫瘍が育ってくるので数回大手術をして切除しています。
> 脳神経は失われた箇所を残った個所が補うダルマが備わっているので
ほんとにそのようでなくなった回路を補うように新しい回路が生まれたりしているらしいです。
最後にやった放射線治療もいくらか効果的に作用しているのかもしれない。もはや検査もできないので、脳をはじめとする身体中の腫瘍がどうなっているのか誰もわからない。
多少錯乱しながらも、本人は「3年間寝続けました」と書いて、起きたら3月だったと書いたのは良いんだけど、いつの3月の話しなんだろ、って思っているわたしです。
死生は天にありの天命思想
人間の統治できない領域の無為自然
古代の民俗宗教がわりとしっくりくる
世の中わからないことばかり
古代の民俗宗教から、その実、自己責任の思想を説いたブッダ。
しかし、諸法無我を謳うところに特徴がある。
よく説いたなあ、と思う。。誰もしっくりこないのに、世界は、ブッダを認めている。
神々がブッダを賞賛する。
素人がとやかく言うのはよくないかも知れないけど、脳腫瘍とアトポーシスの論文ってそこそこあるのね。
きちんとアトポーシスが働くように試行錯誤している論理の方向性は正しいような。
アポトーシスでした(笑)
気がついて良かった(笑)
生じたものは滅するならいなり。
メッスル なら 稲荷
異なり なら
同意 も あり
同意できない 不滅の自己
できるもの なら 滅して下さい
出来た人 に であって
知る
出来る と言う こと
その時 出来ている人
は
誰 かな ?
.
*
いなり
京都の伏見稲荷を中心とする稲荷信仰、狐塚に稲荷が祀られる
キツネ に 乗った ダーキニー(Dakini)( 荼吉尼天 ・ 明妃 )
( 無上瑜伽タントラ の 密教修行で、
行者の性的パートナーの役
真言宗 では
荼枳尼 は 胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ、
奪精鬼として閻魔天の眷属となっている
お稲荷さん の 神さま は 普通 荼吉尼天 !
異 は ありやいなや 、 いなり と い ふ
・
*
メッスル なら いなり
異なり なら
同意 も あり
同意できない 不滅の自己
できるもの なら 滅してください
出来た人 に であって
知る
出来る と言う こと
その時 出来ている人
は
誰 かな
・
> 誰 かな
ブッダかな。。
滅するなら 異なり と読むなら、大乗にいくかなぁ。
「滅」に反応してしまう心が、部派を呼び起こしたのかも。
声聞乗、辟支仏乗、菩薩乗の三乗はやがて一仏乗へといくのだ、というのは、尊い‘思想’なり、とわたしは思うけど。
『法華経』は、ありうる奇蹟のように見えます。
*
> > 誰 かな
> ブッダかな。。
唯仏与仏 ( 乃能究尽 )
ノウ なくして 知るを 尽くす こと 与わず
能 の ない人 には この仕組みが 分からない
究尽 に 仏 あり
そこにありて 仏 を 知る
仏 を 知る のは アナタニアル
*
*
> ブッダ
ブッダ とは どのような存在か ?
知るということを 尽くした人 ( Buddha )
此処に起きている( 記されているこ ) ことの
正しいか・誤っているか を 知る人
知る ということを “ 知る ” 人
ここに記す人 は 「 知るということを “ 知る ” 人 」
で アル か イナカ ( ないか・あるか )
これを読む人 は どのような人 か
その読み取ること は 正しいか・誤りか
それをしる人 は 誰か ?
・
> その読み取ること は 正しいか・誤りか
それを考えてしまうと、堂々巡りに陥るような気がする。
識別判断したなら、それで行く。うまくいかなかったら、それを訂正する。
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> それを考えてしまうと、堂々巡りに陥るような気がする。
それを 考えないと 堂々巡り に 意味がなくなる
> うまくいかなかったら、それを訂正する。
うまくいくまで 訂正する ?
人の生 は 受けた時から サンスカーラ を 巡る
巡る サンスカーラ に 逃げずに 問う
( 問いて 問いて 問いて
説かれていること に 見出す )
問うこと が 道を歩むこと
「 我 日に 三省する 」
やがて “巡り合う” 三省することのなき 道
とうことのなき
歩みを つづけている 道
そこに 起きていく 「 瞑想 」
そこから 起きていく 意味
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サンカーラって広義と狭義の2つがありますよね。
第一結集時はどっちの意味で使われていたのでしょうね?
釈尊の最期の言葉が見事だから、広義かな?
> サンカーラって広義と狭義の2つがありますよね。
わたしたちが二つを認めている、ってことかな、って思ってます。
人によりそれぞれの意味で受けとられていたのではないか、って思っていますが。。空だからね。
言葉は道具であり、道具の使い方、加工の仕方でその人がわかる
サンカーラに広義と狭義があるとして、どっちかがオリジナルでどっちかが派生した意味
なぜ派生したかを推理するのも一興ですね
十二因縁説の体系に合わせたアヴィッジャーの次をサンカーラにしたために「意志・意欲」を強調する狭義が派生したのではないかなと
お釈迦様の最後の言葉はさすがだなあ
> アヴィッジャーの次をサンカーラにしたために「意志・意欲」を強調する狭義が派生したのではないかなと
う~む、そうなのかな?
認識というのは、感覚として捉えようという意志である、ってことかなと思ったり。
わたしたちは、何も考えずにいると外界実在論者になっている、というのが、仏教の思想のような気がします。
わたしたち全員が無自覚に「実体的に見る」ということを行っているのだ、といっているような気がします。
*
“ さすが ” に いきる
さがす カ ? ・ 「 我 」
↓
( さがす のは 誰か ? )
( カ・仮 は いずこに ? )
( いきる のは 誰か ? )
・
ティピタカからアビダンマ、十二支縁起とコピペを取り除いたものが、第一回結集のなごりでしょうか。
キリスト教のQ資料のような仮説的な第一回結集のことばを再現しようという学者はいないかに
……………………………………
石飛先生はどう訳されますか?
パーリ語のサンカーラ(サンスクリット語のサンスカーラ)に対して、
中村元先生は、サンカーラ「過ぎ去る法」と。
紀野一義先生は、サンカーラを「根源的形成力」と。
下田正弘先生は、サンカーラを「自己と世界を一つに作り直してゆく」と。
羽矢辰夫先生はサンカーラを「自他分離的自己形成力」と。
とサンカーラにはいろいろな意味付けがありますが、どれも私の観る目を
深めされてくれています。
そして『パリニッバーナ』の釈尊最後の説法を。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちにつげよう。もろもろの事象は過ぎ去る
ものである。怠ることなく修行を完成させなさい」
「諸行が過ぎ行く法となること」そのことを怠りなく達成せよ。
「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ)は移ろい易いものである。
見落とすことなく、その中に居よ」
「作り上げられたものは、滅びゆく。あなたがたは、熱烈に、なすべきことを
完成しなさい」
と訳され、どれも私にとっては善知識で、サンカーラの深さを教えらます。
石飛先生はどう訳されるのでしょうか。教えて下されば幸いです。
最後の説法は、『ブッダ論理学5つの難問』(選書メチエ)の中では
「さあ、今、比丘たちよ、わたしは告げる.『滅する性質のものは、諸々の事象なのである。怠ることなく修行しなさい』と。」
と訳しています。語順にこだわっていますね。
縁起法頌に対応する妙なる訳ですな
諸々のダンマには原因がある
如来はその原因を説き給う
またその滅することを説き給う
で
滅する性質のものは
諸々の事象である
怠るなかれ
なるほど。。。
覚りの風景が見えますね。
24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。(中村訳『真理のことば、感興のことば』(岩波文庫,p.243)
、
………………………………………………………
教えを味わう楽しみ――怠らずに努力を楽しむ
………………………………………………………
『パリニッバーナ』の釈尊の説法の訳を有難うございます。
インドアーリア語族と日本語の語順は違うだから、それぞれの語順を大切
するスタンスなのですね。それぞれのスタンスを大切にしたいものです。
また、中村元訳『真理のことば・感興のことば』からの転載ありがとう
ございます。上掲書に関しては、真理のことば(スッタニパータ)を主に
学んでいたもので、疎かにしていた「感興もことば」を味わう機会を頂き
有難く思っています。
掲載されたのは、弟26章〈安らぎ(ニルバーナ)〉の24偈ですね。
その章を味わっていると、最後の31偈には次のようにありました。
31、教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみ
はすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をす
べてほろぼすことは〈すべての〉快楽に打ち勝つ。
童子の初心に帰り、教えを味わう楽しみを知った私にピッタリのことばです。
怠ることなく修行(怠らず努力)に仏教が集約されるようですね。
その修行(努力)を怠らずに楽しめたら、その時が〈ニルバーナ)〉のよう
に思われます。「感興もことば」のご紹介ありがとうございます。
*
教えを 説いて与える という 見解で
物事を見るとき
教えを味わう という 境地は失せる
自らの 立つ域 を 弁え なさい
( 説けるような 域 ではない )
説いてはいない と トク
( 得た モノ を 捨てなさい )
・