衆縁和合

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新しい足跡を見つけた。3つの花びら模様。。なんだろ?なんだろね?

「縁って起こる」お話では、賛否がありそうですが、まずは世俗諦からはじめるのが筋だということで。世俗諦のおはなしです。かっこよく決めるぞ。今日も。

プラティートヤ・サムットパーダ

プラティートヤが「縁って」「縁ったあとに」「サムットパーダ」は、「サム」が「集まる」「ともに」の接頭辞で、「ウトパーダ」が「起こる」の意。

「何かに縁った後に何かが集まって起こる」っていうのが、語源解釈から導かれる「縁起」の意味です。

これって、何のことだろね?

いろんな条件や原因が集まった後に、或ることが1つの結果として起こる、という意味に捉えられるんだ。違う解釈ももちろんあるけど、今は、これで考えよう。

さて、「三苫の1ミリ」に話しを戻そう。

ゴールという結果が欲しければ、三苫選手は何度も何度もクロスボールをあげ、田中選手はそれにあわせてボールを何度も何度も蹴り込む、というお話しをした。

この時西洋では因果関係は蓋然的(確からしい)関係で、絶対ゴールする、って決まっているわけじゃない、って考えるといいました。確実じゃない関係は論理学としては使えない、って考えるんだ。

たとえば、ヒュームという人は、自然界に起こる無数の出来事をたまたま観念的に連合させたものと考えた、確かな根拠はない、というわけだね。

クロスをあげる   →    ゴールが生まれる

何回やってもある程度の確率でしか、ゴールは生まれない。だから、因果関係というのは確実な根拠がない、と考える。

仏教でも、同じだろう? 確率で考えるしかないでしょ。。

それが、違うのよ。「縁って起こる」という関係は、縁ったら大なり小なり起こることを指してこういうのです。どんなところにも何かは起こる。何も起こらなかったら?それは「起こらない」という結果として起こる。

三苫選手の場合ですが、クロスをあげる動作はかりに1つの動作としておこう。しかし、状況はその時1回限りの出来事なのです。諸条件はどれ1つとして同じではないのです。

ブッダは、確率とは異なるのです。諸縁を整え原因を極めて、結果を確実に!結ぶのです、

そんなことあるもんか、そんなうまい話がどこにある?

ブッダ:あるんだよ、無明を滅ぼしなさい、無明が滅ぶと行(意志)が滅する。ゴールを得たとき、ゴールに向かう意志の力(行)は滅してしまうんだ、目的は達成されたのだからね。

臨終の時、ブッダは弟子たちにいいました。

「さあ、比丘たちよ、今、わたしは告げる。『滅する性質(ダンマのものは行(意志)である、怠ることなく修行しなさい』と。」

「縁って起こる」出来事は毎回異なるのです。衆縁が和合して、ゴール(目的)が得られる。ゴールが得られたなら、「ゴールを得よう」という意志は止むのです。その時、無明が滅んで明智が輝き出す。

無明の滅に縁って行の滅がある、乃至、苦しみの滅に至るのです。。

ちょっと、待った!

衆縁和合っていっても、いろんな条件があるでしょ、自分の自由にならないものはどうするの?

ブッダ:じつはね、自分の自由になるものはないんだよ、教えよう。

諸法は無我である(諸々のことばは自己ならざるものである)

これを適用するのは、ブッダの公式「<クロス>があるとき<ゴール>がある。<クロス>がないとき<ゴール>がない」、つまり、この式を無我にすると良いんだ。。ええ~っ、どうやって。

ここで使われるのが「中道」。自分をもつのではなくもたないのではない、という境地をめざして、努力する。

「おれがやってやる」という気持を前面に出してはいけない、しかし、他人任せであってはいけない。この境地をめざして相手をかわしつつボールを運ぶとき、「<クロス>があるとき<ゴール>がある」という縁起が成りたつ。。ある意味、悟りだね。。

幾多の練習を経て、求道者のごとく、達人になっていくんだ。

また、余談だけど、仏教では、その人の好みを消すことはない。だから個性をそのまま伸ばして達人になれる、その達人ぶりは他の追随を許さない。

コメント

  1. えび天サンバ より:

    >ここで使われるのが「中道」。自分をもつのではなくもたないのではない、という境地をめざして、努力する。

    なるほど、となかなか言えない所が苦しいですが、あえて言ってみます。
    ボールからしてみれば、あっちのコールに入るか、こっちのゴールに入るか、なんてことはどうでもいいんですね、多分。( ´艸`)

    この野郎、さんざくさけり倒しやがって、とか、思っているかもしれないですね。

    • mani より:

      > ボールからしてみれば、あっちのコールに入るか、こっちのゴールに入るか、なんてことはどうでもいいんですね、多分。( ´艸`)

      まあ、そうですよね。
      ちょっと苦しかったか。。

      このネタは、学生さんに因果関係を作ってもらったケースから取りました。

      ボールが一番無我だったりする!?

  2. 春間 則廣 より:

      

      朝に目覚めず 寝覚の床に居座る

    > 渡辺本かな?

      渡辺 照宏 (わたなべ しょうこう)の著作

        法華経物語  

      https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784006003159

      上記 の筈ですが、
      今、 当該本 が 見当たらないので 確信できません

     ( ただし、 随分前に 手に入れたはず の 
       あなたの お手元の 渡辺本 は 上記出版社 ではない筈 )

      上記 出版案内 を 乗せたのは、 

        有為にあって、 有意( ユウイ )を知り、
     「 無為 」 ・  「 (安) 楽 」  を  願する人の為です

    ( わたしの 読み難い投稿 ! を 読んでくれる人の為です )

      必ずしも、 渡辺本 に
       サンスクリット原本 の 「 一切 」 についての 記述があると、
       確認してはいませんが、 渡辺氏 を 信頼していますから 
       当該章 を 読めば、 得るところは 必ず あるはず ! 
              
       わたしの書き込み には、 “ 一切 ”返答 不用
          と記述しても
          そこには 一切 応答がない ようにと  ! 

                  想定して、  記述するモノではない  ?  

       “一切” ということは、 それ を 使用する者 は、
                    その “限定”をする 故に
                    その 限定・言底 から 外れている

             定まってしまっている、
                「 自己 」  が 其処から 外されている

         この記述 が 腹に入りうる  “あなた” へ の
                  ( いわば ) 確認の書き込み
       ( “あなた” とは これを読む人 一人一人 に あたる )

       あなた方 は  “あなた”に限らず

                  みな 仏の道 を 歩んでいる

    ( わたしは、遠くに 避けて
               あなた方 の 打ち据える 杖 を逃れる )

       仏の道 を 歩まぬ者 は 一人としてない けれ  ど

       ( “あなた”が 投げてくれる ) 度一切 を  

                           外れれるわたし  は  
          一切 の 「 度 」 から   “ 避走 遠住 ”
     

    **************

      寝覚めの床

      更級日記の作者 
     ( 菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標女 )
      が書いた  とされる 「 夜の寝覚 」

    https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=763
       
       夜の寝覚 巻一 

    「 はかなくて君に別れし後よりは寝覚めぬ夜なくものぞ悲しき 」

              *

    「他事ことごとならじを。ありし夢の名残の覚むる夜なきにこそは」と聞きわたさるるさへ、身もしみこおり、あはれ悲しきにもつつみあへず。

    「はかなくて君に別れし後よりは寝覚めぬ夜なくものぞ悲しき

    なになり、袖の氷とけずは」と、格子に近く寄り居て一人ごちたまふ気色を聞きつけて、胸つぶれて顔引き入れたまひぬるに、対の君も、とけて寝る夜ゆくのみ嘆き明かせば、「この君は聞きつけたまへるにこそありけれ。わづらはしきわざかな。」と思ふものから、あはれなど、、聞き知り顔ならむやは。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  3. 慧樹 より:

    ………………

    因果を意識するとコケる
    ………………

    禅—――――――――因果不可得
    D・ヒューム――因果律の必然性を証明することは不可能

    最近、YouTubeの哲学チャンネルで遊んでいますと、西洋哲学の
    流れが見えてきます。デヴィッド・ヒュームが「因果律の必然性
    を証明することは不可能」と言うことと、禅の「因果不可得」が
    似ていて面白いと思いました。

    実際、剣道やバレーボールなどの試合をしていて、「勝ち」とい
    う結果(因果)を意識すると失敗してしまう経験をしてきました。

    また、絵画でも「コンクールで入選して有名になりたい」と思う
    ようになると、逆に個性的な絵が描けなくなりコケるという経験
    もしてきました。

    因果律というのは、知覚が描く妄想なのかも知れません。

    増上縁を深く読み直せば、「縁は無数で掴めない」と読めまして、
    私は推論的な「蓋然論者」のようです。それも業縁です。

    どうしたらいいのでしょうか。

    D・ヒュームの名言「人間は習慣の束である」を「継続は力なり」
    と学んだことをあります。私はそれを、唯識学に「現在実有過未
    無体」とあるように、「今しかない」と「今を深め続ける」ことが
    正道と推論して、実証して行きたいと思っています。

    因果を求めないで、徒然なるままに綴ってみました。

  4. えび天サンバ より:

    エム先生、こんばんは。

    >ちょっと苦しかったか。。

    いえ、苦しいのは私だけで。(笑)
    ハイレベル&盛りどころ満載なので、ついていくのが必至。

    今年も残すところ数日ですね。本年も大変お世話になりました。
    先生並びに精進の皆さま、よいお年を。

  5. mani より:

    春間さま

    > 当該章 を 読めば、 得るところは 必ず あるはず !

    「如来寿量品」は、ゲーデルの不完全性定理の証明に深く関わると思っています。
    『法華経』全体がそう!
    体系を問題にしているんだなあ、という理解です。
    時間と空間を問題にする論議世界(界)の枠組みのお話なんだなあと思っていますだ!

    こういうコメントがふつうに書けるようになって、うれしいです。

    ドメイン使用料もはらったし、1年間はこのドメイン(manikana.net)が使える。掲示板やめて良かった (と話しが続くのです)

  6.  春間 則廣 より:

    如来寿量品 は 道元の臨終に 深く関わります

      大事な ところ  です