
雪の写真を撮りました。おや、ぽつぽつアナがあいている。
これはキツネだよ。まるまる太ったキツネが悠然と庭を横切っていくのを何度も見かけている。
じっとこちらを見てたたずんでいることもある。逃げない。。まったく。
カメラを取りにいってもどると、姿は消えていました。
雪が積もると、キツネが足跡を残すのでその存在を知るのです。
でも、植物の多くは雪の下で春になるのを待っている。

元はヒャクニチソウだったんだけど、今でも「実はヒャクニチソウなんです」と言っているヒャクニチソウです。
まだ雪が頼りないな。。本格的な冬はこれからですね。
息子の介護に、手間暇かかってしまうので、なかなか更新できません。
息子ですか? だんだん体重が増えて元気になっていっている(ようだ)けど、ときどき発作を起こして安心できません。先の見通しがきかないのが難点です。
般若経典の「幻のごとく夢のごとく」を、まさに地で行っています。
あるがままが、すでに空っていったい。。。まさしく空(くう)に生きてるなあ。。
コメント
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行きつ戻りつ「 無 」還る朝( ゆきつ盛つかへるあさ )
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白 恩 ・ 白隠 禅師 和讃 縁り
譬(たとへ)ば水の中に居て
他 問えば 観ず の 中に 居て
渇(かつ)を叫(さけぶ)がごとくなり
「 勝 」 を 避け ぶ が ごときなり
長者の家の子となりて
超者 の 言え の 己 と 成り て
貧里に迷ふに異ならず
貧 「 理 」 に 迷う に 己 と ならず
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「夢幻の中で、母の呼ぶ声を聞く」
狐の足跡はわが子の足跡だったのでしょうか
子を思わぬ母はいない
母を思わぬ子はいない
無力な夢幻の中で、子は、母の呼び声を聞いている
母を呼ぶ〈いのち〉が、子に命を与えている
母を呼ぶ〈いのち〉が、「真直ぐに生きてね」と母を呼ぶ
親を思う〈いのち〉は、決して死なない
不生不滅の〈いのち〉が、真実の自己
夢幻の自我の中で、真実の自己の声が聞こえる
子の呼び声が、隻手の声を教えてくれていた
マニカナ先生、こんばんわ
犬猫キツネって自然知能(natuar intelligence)ですよね。
人間もNI。
最近はやりのAIは人工知能(artificial intelligence)
人間が技術(art)によって作り出した(羅facere)知能(もの)
犬猫キツネも「?」が技術(art)によって作り出した(羅facere)知能だと思うのですよね
かなりの学習機能付き
そして人間も「???」が技術(art)によって作り出した(羅facere)知能かも
輪廻を繰り返した高度な学習機能付き
そして釈尊に至って被造物が被造物である構造(無常・非我・空)を見破った・・・のかもにゃー
> 犬猫キツネって自然知能(natuar intelligence)ですよね。
わたしね、ずいぶん考えたんだけれども、NIを使って生きると’刹那的’になるなあって、思うのよ。目の前の苦を回避するという生活になってしまう。ところが、ブッダは、’目の前の苦’ではなくて、’構造的な苦’を回避する道を探ったんじゃないかな。
だから、一見すると苦に向かって行くように見えるんじゃないかなぁ、って思ってる。
楽と苦の極端を避けて、中道によって覚った、というのがそれ。楽に向いそれを捨て、苦に向かいそれを捨て、中に向かい、やがて、それを捨てる。「得る」と「捨てる」でいえば、最終的に「捨てる」を取って行く道。そして、「捨てる」を捨てる。
人工知能(AI)の道は、「取って行く」道。
こんな感じ。
マニカナ先生、こんばんわ
動物の母性愛や蟻や蜂の自己犠牲だけは利他ですね。
それ以外は苦楽の条件反射のような
人間も堕落すると動物と同じどころか貪欲と憎悪で動物NI以下にもなる。
アートマン理論だと自己は認識の対象外という公式ですが、
釈尊は見事に自己を相対化した境地に
アートマン理論を超えて見せたさすが印哲の最高峰
> 釈尊は見事に自己を相対化した境地に
見えてるなあ、という感じですよね。
まず、アートマンに気づくこと、その後、それを相対化すること、
一神教の世界を見ていると、二段階が必要なんだなと、思います。
アブラハムの息子は二人、サラの子のイサク、ハガルの子のイシュマエル。
ここから生まれてくるのが、ユダヤ教・キリスト教、と、イスラム教、ということでしょうか。。
これでよいなら、仲よくする道も探れるはず。
自己を探究する道は、涅槃へと導く。。そんな道を求めてほしいよね。
………
自己を客観視して自己を整える
………
最近、教育機関において「内在的言語における自己の相対化」と
いうようなことが研究されているようですね。非二元というアド
ヴァイダや如来蔵思想に近いようで、それを「言語研究」として
いるところが、龍樹やソシュールとつながりようで、ぜひとも
研究を深めて頂きたいと思っています。
相対とは絶対に対する概念で、絶対とは相対を絶すること。
言うならば「空」のこと。
その絶対空に往ったら、現実の相対に還って、絶対と相対を同時
に観ることができるのが「覚りの達人」。
でも覚りの達人でない私たち凡夫は、絶対空の境界になかなか
達することができません。しかし、ある程度心が整えられれば、
絶対から相対を観て相対から絶対を観ることできるようになる。
『ダンマパダ』的に言えば、「自己を客観視して自己を整える」
ということで、そこから仏道は始まるようです。
自己相対化とは――自己を客観視して自己を整える。
それが、大乗仏教的には、自己の探求・己事究明と言われるもの
ではないのでしょうか。
相関関係(縁起の理法)の中に在る自己の発見だと思います。
………
側室と本妻の争い――危険な身内
カナダ・アメリカでインドによるシク教徒指導者の暗殺が取り出さ
されているので一言失礼します。二連投をお許し下さい。
『聖書』の創世記ですね。
クリスチャンでない私は、一般教養として『聖書』に読む程度で
すが、世界史からしたら、そこはセム系の三部族創成の物語と
受け止めています。
現実的には「側室」と「本妻」の争い。そして、「側室の子」と
「本妻の子」の争い。世界の歴史は「兄弟姉妹の争い」ですね。
マウリヤ朝を築いたアシューカ王も、17人の兄弟を殺したそう
ですから恐い話です。
「身内がもっとも危険だから、足元に気を配りましょう」
ということでしょうか、
他民族のインドは、厳しいカースト制によって辛うじてまとって
いるのかもしれませんね。そのカースト制を否定し、同族言語の
国を目論むシク教徒を1万人近く殺害してきた。そして現在、
大国にのし上がったインドは、他国の主権も顧みず、カナダ・
アメリカのシク教徒暗殺をしているという。
許しがたい独立問題の回避のためでしょうが……。
同じアーリア(高貴な白人)系の兄弟ですから、仲良くすると
思われますが、その高貴なブライドが身内を許さずに殺害して
しまうのではないのでしょうか。
現実問題、歴史においては、身内がもっとも危険。
関係性の中に在る自己ですから、
身近なところに気配りをする必要がありそうです。
> 側室と本妻の争い――危険な身内
これも無いわけではないけど、少し違うんじゃないか、っていう気がしてならないです。
神さまが出てこないことになってしまう。
ハガルは、サラの仕え女で、高齢のサラは自分の代わりに夫のアブラハムの元に送って妻としたのです。
子どもを産むかどうかは、神に委ねられています。
ハガルに子を与えた神は、サラにも子を与えました。だから、ハガルの子孫とサラの子孫の系譜ができることになります。
一神教は契約の宗教だというところ、もっと強調されても良いのではないかと思ったりもします。
*
ユーチューブ を 見ていたら
突然 管理人エム 様 が 登場
興味のある人は、 覗いて見て欲しい
前野隆司
意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説
https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac
1:13:37 から
( もっとも 言いたいことらしい ?? )
1:14:15 あたりで
石飛 道子 「 ブッダ論理学五つの難問 」
登場
・
ほんとだ!
無我と非我の話しをしてますね。
使いやすかったんかな。。。
*
物理学者 や、脳神経等の学者 などは、 ほんの一部 を除いて、
仏教を学ぼうとはしません。
もっとも、 「 仏教 」 は、 深く日本の思想に根付いているので
特に学ばなくなくとも、 ( 湯川氏などを見ればわかるように )
自然に( とも言えるほど ) 物事の起き方を 仏教“的” に、
眺めることが出来ます。
前野 隆司氏も 動画の中で言っていますが、
西洋人( 特に、キリスト教圏 )の人には、 説明が難しい
ということです。
チャットGPT を 使ってみましたが、その、“西洋的” 論理の構築が
前の掲示板に 投稿していた、ショーシャンクさん の 考え方に
非常に良く似ていると感じます
一つの用語 の 意味が、 多義にわたる という 前提で、
論理を 構築することが 出来ていない のです
そういうことは、 「 仏教 」 に於いても、 言えるのですが、
仏教においては、用いられる 「 語 」 の意味 は、
“ 西洋的 ”であっても、“ある程度” 厳格に規定されています
また、中国語に翻訳される場合、その語の(欠格するところが)
補全的漢字を用いて、表されます
漢字表現 は 音 を 示しますが、 よく似た音 は よく似た現象 に
通じていて、それを、漢字に表わすことが、できています
BUDDHA を、 「仏」 と したり、 「佛」 として、造語する など
違う側面 を うまく、漢字として、造語しています
仏教辞典 などを 調べてみれば、わかる( “かもしれない” )ことです
もちろんのことですが、
サンスクリット と 漢字 に対して、( 少なくとも、その片方に対して )
深い造詣があり、開かれた 態度 が なければ、それは適いません、
故に、 ( “かもしれない” )こと が 起きざるを得ない と なります
究極 と 真理 を 、神に任せる “ 西洋論理 ”
究極の真理 を 、 生きざまに求める 「 仏教 」
「 真理 」 を 人が得ることが出来ない 西洋論理
( 神の示す道 を 歩む 西洋論理の下の人達 )
「 真理 」 を得て、 それを 背中に負って 示す 「 仏教 」
神の示す道 を 前に “いだいて” 、 ( その いだいた 隙間から )
我が道 を 時折 眺めて、
何是か 違和感を持ちつつ 歩まざるを得ない
西洋論理 の 人達 ( そこに トラワレル 日本人 )
人 は 決して 真理を得ることが適わない
キリスト教“的”( イスラムを含む ) モノの捉え方
“ 人は 必ず 誤った道を歩む ” という 「 真理 」
人であって 、 人ではない “ 佛 ”
いつも静かに 「 瞑想 」 に ある “ 仏 ”
BUDDHA には “誤り” はないけれど、
人の世 には それがある
それがあるゆえに、 「 菩薩 」 は 人の世に 起きる
このようなことが、 “ すんなり ” 腑に落ちる ようであれば
“ 良い ” のであるが 、
“ 良い・悪い ” は 人の世 に 起きる “ 常 ”
「 恒常 」 とは 常に執われる ときにも 起きていて
なにもの にも 囚われることがない
「 安楽 」 にも “ 起きている ” こと
*
> 神の示す道 を 前に “いだいて” 、 ( その いだいた 隙間から )
> 我が道 を 時折 眺めて、
> 何是か 違和感を持ちつつ 歩まざるを得ない
> 西洋論理 の 人達 ( そこに トラワレル 日本人 )
神は人を殺せと教えしや?
ガザの人々を攻撃しろと教えしや?
敵を殲滅せよと教えしや?
> 「 真理 」 を 人が得ることが出来ない 西洋論理
ならば、神ごと棄ててみる、って発想には、ならないんだなあ、これが。
でも、よくよく考えると、いくら神の側に真理があって、こちら人間の側にはないとしても、選択の道はいろいろあることには気づくだろう。
あたかも神のように、他の人々のことを考えてみる。。ってのも、一つの考え方である。
なぜ、戦うことしか思いつかないんだろう。
なぜ、人間と同じ発想しか思いつかないのか。
*
> あたかも神のように、他の人々のことを考えてみる。。
ってのも、一つの考え方である。
神のごとく(ように)振舞うこと を、 “ してはいけない ”
という のが、 “ 西洋論理 ” であり。
同時に、 西洋倫理 なのです
あくまでも、 被支配者 である と 洗礼を受けた時から、
“ 信じ込まされる ”
そこから、抜け出る為に 誰か が
「 神 は 死んだ 」 と 産声をあげたが、
そこに 、 “ 死ぬ べき 神 ” が いることから 、
抜け出せない 、、、、、
教育 ということは、 根本的には、
今までに、 作り上げられた 「 神 」 を 教え込むこと
“ その神 ” を 否定する こと は 、
“ 基本的 ” には、 出来ない
そこに、 “ 基本 ” が ある ゆえに
“ その基本 ” を 否定する 「 仏教 」
基本的認識 で 「 仏教 」 を 知ることは “ 適わない ”
ニーチェ の ように、
死すべき神 が そん在するゆえに 、、、、
*
* < 追記 >
死すべき神 が ソン ザイ する
ソンザイ ・ 尊 財 ( たっとき アルタ ・ 損する 罪 )
“在る”と尊ぶ 存在
“存する” もの が 子の頭 の上に 置かれる
( “ 手 ” を 以ってして 据えられる )
あなたの 頭の上 に 置かれている
「 認識 」 ( 「 識 」 )
そこに 真実 が ある故に 記述される
「 空中無色無受想行識 」
*
マニカナ先生、こんにちわ
大龍がマーニプッタに小乗でも大乗でもない中道の法を授けているかもしれない。
楽しみだ。
カエルさま
マーニプッタは、わが子ながら、けっこう変わってます。
変化する世界を、「諸行無常」と割り切っているように見える。
その実、こだわりもあるところが不思議。。すでに中道??
> 「 空中無色無受想行識 」
これを見て、安らぐ人と不安になる人がいるのは事実です。
安らぐ人は、寂滅にあるが、不安になる人は虚無を見る(のだろう)。
刹那的に生きていると虚無を見てしまうのかもしれないね。
畏れるな、と龍樹は語っている。空を見よ、と。
あるように見えても空といい、無いように見えても空という。。
そんな世界を生きている。そして、死んでいく。
……………
一切皆苦――地獄のガザ
……………
> 側室と本妻の争い――危険な身内
私にとっては、一切皆苦(四苦八苦)という苦諦の自覚。
ガザは地獄だ。
神(創造主)は自覚できない。
創造主という神が有るのか無いのか知れず。
そこから、真実の法を求める四諦の道(八正道)が始まる。