
とうとう雪が降りました。早く写真を撮らないと消えてしまう。取り残したラズベリーの葉にもうっすらと。

コスモスも雪化粧。どんどん融けていきそうな、はかない雪です。
「はかない」で思い出したけど、昨日の話しの続きを、少し。
佛法中有。以世界悉檀故實
有。以各各爲人悉檀故實有。以對治悉檀
故實有。以第一義悉檀故實有。(『大正蔵』25,『大智度論』,p.59b)仏法中の有は、世界悉檀の故に実有なり、各各為人悉檀をもっての故に実有なり、對治悉檀をもっての故に実有なり、第一義悉檀をもっての故に実有なり。
これは、実は、「空」の論理を示していると思う。或る立場を仮設して、それにより「実有である」と言っているからだ。
一つの事態を、立場を変えて見るならば、「実際に有る」と認識できるということは固定的な見方を採らない、ということでもある。
立場を変え、場合に合わせ、適切に説明できるなら、ブッダは一切智者である。
世間の人に合わせて「人はある」と言い、<人>にこだわりを持つ人には「人はない」という。見解をもつ人には、それを否定する見方を教える。最後は、あらゆる見解やこだわりを寂滅へと導く教えを教える。すべてが寂滅すれば、苦しみは消える。涅槃である。
最終的には、あらゆる生き物を苦の滅へと導くように、ブッダは説法する。
そのためには、どんな苦労も厭わない。。あ、「苦労」ではなく、く苦の滅>への道でした。
ありとあらゆる状況から、その道を瞬時に組み立てられる、って、やっぱり、神さま仏さまの領域じゃないだろうか。
わたしが、他の宗教より仏教を取る理由は、瞬時に、その方法を教えてくれることだ、しかも理詰めで。わたしでもわかる程度の難しさで教えてくれる!
そこがすごい!と思うのです。
ああ、スッキリした。消えゆく雪と共にアップしてみよう。

コメント
痛み止めで、頭がフラフラしている
そこの ところ で 伝える
>わたしが、他の宗教より仏教を取る理由は、瞬時に、その方法を教えてくれることだ、しかも理詰めで。わたしでもわかる程度の難しさで教えてくれる!
>そこがすごい!と思うのです。
分かったこと は 過去のこと
分かる ということ は 今のこと
分からせる というところに、起きていること
分からせて、 はじめて “ワカッタ” という 過去のことと連なる
“どのように 分からせるか” に 方法 がある
一つ に “わたしでもわかる程度” で、 相手も 応じる
二つに 、 分らない人 に 分からないままで
分かったことを伝える ということ
二つ に 二つある
一つは 分かったつもりで 分かったことを伝える
二つは 分かったつもりでも 分かっていることが
きちんと 伝わる ということ
分かった ということは 行ない( 「 行 」 )を 知らしめる ということ
行ないに “顕わす” ということ が 菩提にのること
龍樹 の 方法 は 龍樹で 完結している
あなたの 方法 を あなたは 築く
あなたが築いた あなたが気付いたこと の 顕分化( あなたの言葉 )
そこから 起す あなたの言葉
( 龍樹の言葉 ではない あなたの言葉 )
龍樹 を 繰り返していては いけない
( 分かるか 分からないか 分からないけれど
あなたの歩み方で 「 行 」 を示す )
( 再度重ねて“虚” とする → わからなくする )
分からなくとも 伝える
その方法 を ここに 「 行 」 とする
> ああ、スッキリした。消えゆく雪と共にアップしてみよう。
きえゆく 雪のよう に 消えていく “フミ” を 踏んで
スッキリしている人 に 伝えてみる
・
痛み止めは効いてきましたか。
間違って、送信ボタンを押してしまった。
痛み止めで少しはいたいのがおさまればよいのですが。
余計に頭がいたくなりそうなことを書いてしまうかも。。そうなら、すみません。
> 分かったこと は 過去のこと
ブッダや龍樹の場合、そうとも言えないのです。
そのことを考えるたびに、今現在において、新鮮な感動があるのです。
何度でも感動できる。。そして、今現在のことだと思うことで、また、新たに感動が蘇る。何度でもおいしいブッダ味。
>> 分かったこと は 過去のこと
> ブッダや龍樹の場合、そうとも言えないのです。
> そのことを考えるたびに、今現在において、新鮮な感動があるのです。
あなたの 分かる 感動 のこと を 言っていない
分からせる ということを言っている
> 何度でも感動できる。。そして、今現在のことだと思うことで、また、新たに感動が蘇る。
> 何度でもおいしいブッダ味。
分からせるというところに、 共に分かつ 感動がある( 倍なる 感動 )
感動は そこに 共立しなくとも
分からせるということ に ( 伝えるということに ) “フタツ” あり
“ フタツ ” とは 二つある
一に 不達 、 二 に 、 二つ
( 二 の フタツの一つ )二つ(一つ) に 二つある
一つは 分かったつもりで 分かったことを伝える
二つは 分かったつもりでも 分かっていることが
きちんと 伝わる ということ
分かった ということは 行ない( 「 行 」 )を 知らしめる ということ
わたしの「行」 は 一つしかない
分からせることが出来ない
ワカルカナ ?
分からずとも 伝わっていること 、、、、
・
> 分からせる ということを言っている
分からせることは、わたしの役目ではないからなぁ。。それは縁起だから。
わたしは、自分のできることをするしかない。
>> 分からせる ということを言っている
( わたしの = あなたの )できることを言っている
> 分からせることは、わたしの役目ではないからなぁ。。それは縁起だから。
役目( 役割 ) は 、 あなたが決める ( のかな ? )
役目 も 、分からせるという「行」 も 、
「 わたしの役目ではないからなぁ。。」 と 決める あなた
「 『 縁起 』 が決める 」 と 決める あなた
> わたしは、自分のできることをするしかない。
出来ないこと( と決めた 自分から 離れること )
は 、 決めることから 離れること により
出来る・出来ない から 離れる
出来ることをしている のではなく
していること を できることと している ( 決めている )
出来 も しないこと( できないこと ) を するのは
“ 空虚 ” に つながる ( と 感じやすい )
だれが していること を 出来ること・出来ないこと と
決めて 、 出来ることだけをしているのかな ?
それは、 していること
“へ” の 意味付け = 認識 = 「 識 」
自分の 「 識 」 に 更なる 「 識 」 を 重ねている
二重の 「 識 」 の 裏の姿( = 表の 色 )
出来ること なら 挑戦することもない
出来ないこと ・ していないこと
「 裏 」 の 意味 を 「 行 」 ずる
「 識 」 から 離れ
雪のように消えいく あゆみ の “ フミ ”
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