
また春ですね。毎年春が巡ってくる。今年は、4月19日に桜の予想が出ているそうだ。毎年、桜の予想が早くなって、なんと!札幌でも、ちょっと昔より1ヶ月は早いのです。昔は、連休が終わった頃桜が満開だった。
山に新緑が鮮やかになった頃に、最後に咲く桜が八重桜だった。。ようやくこの頃、遅い北海道にも桜が終わりを告げたなあ、って思ったものだった。地球の温暖化は進んでいる。
そのうち、入学式の時には桜が咲いてることになるかもね。
生じてくるのをみるとき滅はなく、滅してくるのをみるとき生ずることはない。
当たり前なんだけど、カッチャーヤナにお釈迦さんが教えたことだよ。正見を聞かれて、こう答えたんだ。だから中道をいくんだよ、ってお釈迦さんは言ったんだ。
ぶれない、まどわされない、ってことかもね。快楽でもなく苦行でもない、そんな道を歩めたら、幸せなのさ、ってことかも。。
お釈迦さんのすごいところ、って何だと思う?
わたしはね、「生じたら滅する」と言ったことだと思う。そこで止めたことだと思うんだよ。さらに「復活する」とは言わなかったことだと思う。だから「不生」と言うんだ。大乗の生きる道だね。
声聞乗(仏弟子の世界)では「滅」という。だけど、大乗では「不生」というんだって、習ったよ。
お釈迦さんの言ったことは当たってる。「他によっては解脱できない」、って言ったこと。
自分で「解脱しよう」と思わなければ、絶対に解脱できないっていうのは、本当だと思う。
思ってもなかなかできないのに、思わなければ絶対できない!!
だから、解脱はむずかしいんだ。
今日の話は、結局、解脱はむずかしい、ってお話でした。そうなりましたな。

コメント
> 生じてくるのをみるとき滅はなく、滅してくるのをみるとき生ずることはない。
“ない” もの を 知ったうえで 生じてあるモノを知る
( “ない” もの を 知ることはない ) ということが あるかどうか
“ない” もの が “あるから” 知るのである
生じてくる(もの) は ない と 知るのである
( ここに 飛躍はないのである )
滅してくる ということは 滅する前との比較で起きつつある
( 果たして 何が 滅して “過ぎ” いく のであろうか 、、、、 )
滅 とは こっちへやってくるのか あっちへ遠ざかっていくのか 、、、、
( 存在 が 遠ざかっていく という意味 )
分かりたくない人 は 読み飛ばせばよい( 読まなくとも完全である )
読んで 不完全と知る人 に 起きている 「 縁起 」 が 見えてくる
> 当たり前なんだけど、カッチャーヤナにお釈迦さんが教えたことだよ。
カッチャーヤナにお釈迦さんが教えたこと に 立ち会う人
立っているだけではなく 聞き耳を立てる人
聞いて わが身に “問う” (問いかけている) ことをしるひと
教える前に 問いかけているのである が、
生じてきたもの だけ を 目にする人は
生じる過程に 潜む 認識の罠を見逃す
「 唯識 」 は そこを問う “学識” なのである
問う前 に 「坐」し 問うて 坐し
「坐」して 問いを五蘊から 抽出・分離 する
「 瑜伽行 」 とは 問わぬことを知ることである( 智 そのものである )
> 自分で「解脱しよう」と思わなければ、絶対に解脱できないっていうのは、本当だと思う。
> 思ってもなかなかできないのに、思わなければ絶対できない!!
思うこと から 出離する ところに 瞑想が起きる
絶対にできない と 思うわけである
思ってもできない のではなく
思うこと が 顛倒に起きる 故に 出来ないのである
( 問題 は 顛倒している と 顛倒していて 思うことである )
思ったコト は 必ず 「 顛倒 」 に起きているけれど 、、、、
「 顛倒 」 している思い では すべて顛倒の上に思いが起きる
( 思い を 起こして コト・言・事物 を 認識 知 する )
複雑 なこと だが 認識上の知 と 智慧 とは
言語化するとき おなじ ことば で あらわされる
読んでしる わが身に起きている 「 顛倒 」
じっと その “手” を にぎりしめる 、、、、
・
ぽいっと。
椎名林檎「実験中」
mani先生
>自分で「解脱しよう」と思わなければ、絶対に解脱できないっていうのは、本当だと思う。
面白いのは、『中論頌』に絶対にない言葉がvimukti, vimuktaなことですね
『菩提資糧論』にも
T1660_.32.0527c11: 聲聞獨覺地 若入便爲死
T1660_.32.0527c12: 以斷於菩薩 諸所解知根
とありますね。
解脱しないことが菩薩道なのかも……
『中論頌』が菩薩の育成マニュアルということの意味を考えています……
Pocket さま おはようございます。
>解脱しないことが菩薩道なのかも……
>『中論頌』が菩薩の育成マニュアルということの意味を考えています……
解脱しないことが菩薩道
「法を捨てよ」として、「非法ならなおさらである」と語ったブッダ。。
ほんとだなあ、と思います。
こだわらない、って大事だな、と思います。
mani先生
>こだわらない、って大事だな、と思います。
こういう先生の言葉を聞いてるとゾクチェン行者だな〜と思うのです。
「こだわらない」!
o様が先生に伝統仏教への道を勧めたのも、私的には「まさに!」なのですが
あくまで先生は学問的な龍樹菩薩を見ているので、受け入れられないということも今はわかってきましたが。
『ラトナーヴァリー』の「滅は不生」という龍樹菩薩の言葉も、意味のスライドによって「不生不滅」をプロモートをしている(西洋)論理的な瑕疵を見てしまいます。これは菩薩の慈悲行であって、三昧知、正理(yukti)であって論理学ではないのではないか、と。
先生が「論理」ということにこだわると龍樹菩薩を捉え損なうような気がしています
論理学では龍樹菩薩を捕まえられない!というのが先生の著書から龍樹菩薩を学んだ末の、偽らざる感想です。
約束を忘れていて、 何処にいるか と 電話催促され
作りかけの 投稿を ワード に残したまま 11時半に
家を飛び出し、 熱田から大須まで12分で到着した
( 忘れるほど 此処 に 執着した わけである )
今日の 昼飯会 は 私の担当だったから ヤバイ !
先ほど ついでの用を済まして 家へ戻って 開きっぱなしでスリープになった
ラップトップ の ワード を 開いたけれど
作っていた書き込み が どこのしっぽに付けたらよいのか
分からなくなってしまった
( 十年くらい前なら 問題は起きなかったかもしれないけれど 、、、、 )
問題 は わたしの能力にもあるけれど
あなたの やりたいようにある ブログにもある
何処へ付けたらよいのか 分からなくなるのが
私だけではないからである
私の投稿 は 必ず 前後の投稿 と 密接に関連している
まあ どうせ それに気づくようなお人好しのあなたではない
**********
> 二度あることは三度ある、っていうことわざは、「見つけられない わたし」なのかな。
あくまで、二度あることを三度予想した、って事かもしれない。。
二度目 三度目 どれも 目 の使い方
目 が 追う 文字 には 意味 は ない 故に
好きなように 意味を付加して どのような意味を作るか は
意味を求める者 の 求め方しだいによって 決め得る
文字 とは 一体 どのようなモノであろうか 、、、、
「 文はこれ糟粕 文はこれ瓦礫 糟粕と瓦礫を受くれば
則ち粋実と至実とを失う 真を棄てて偽を拾うは 愚人の法なり
愚人の法には、汝は随うべからず、また求むべからず 」
・
Pocketさま、こんばんは。
>o様が先生に伝統仏教への道を勧めたのも、私的には「まさに!」なのですが
「まさに!」なのですか。。oさまの道を歩んでいるような気がしてきました。
>先生が「論理」ということにこだわると龍樹菩薩を捉え損なうような気がしています
「こだわると」ときましたね。こだわらないもやってますよ(^^)。
「滅は不生」はユクティとおっしゃる気持ち、なんとなくわかるんだけど、これは、日常言語の論理もブッダとしては押さえておきたい所だろうと思ったりもします。
ブッダは日常言語の論理を逸脱することは決してないところがすごいなあと思います。
> >o様が先生に伝統仏教への道を勧めた
「 伝統仏教 」 って あなた(誰達・誰であろうとその人)の
どこ に どのよう に 存在していますか ?
「 仏教 」 が 存在する処 に ブッダ が います
あなたが ブッダ と 出会って 語り合っている処 を
今 此処 に 示す・存在させる ことはできますか ?
( わたしにはできます が あなたは その出会いを 拒否して認めない )
ブッダ の いないところ で
ブッダ の 存在 を あるかのごとく 語る
それ が 「 伝統仏教 」 ですが
あなたは 「 仏教 」 の 真の姿 を 語り得ますか ?
ホントウ の デントウ は
あなた自身 を 明るく照らし出していますか
トウ カ は 燃えていますか ? ( 灯の下は 明るいですか ? )
灯 から 灯 へと 連なる回廊 を 「 伝統 」 と 言います
「 仏 教 」 を 語り行じる 諸仏
・ ・
mani先生こんばんわ
>「滅は不生」
じっさい、不生不滅の説得的なvyākhyānaは先生が初めてでしょう(私が既存の注釈書を知らないだけだったらすみません)(『ブッダと龍樹の論理学』)
だれも不生不滅の意味がわからなかったかもしれません。
先生が伝統仏教の道を歩んでいたら、これらの意味は明らかにされなかったでしょうね。。。
>ブッダは日常言語の論理を逸脱することは決してないところがすごいなあと思います。
ナヴィヤニヤーヤも日常言語の論理を逸脱しようとしてもできなかったような
ダルシャナは解脱を目的とするから認識論と語用論を切り離さなかったせいかも
インド人からみるとformal logicは戯論でしょうね。
先生、こんにちは!
「こうだったらいいな、こうならないかな」みたいな願望って、何も持たなかったとしたらどうなるのだろう?とかふと考えました。
まず、そんな人がほんとにはいないだろうなとも思いつつ…。
むしろ、持ちすぎてるからこそ苦しむのですよね。
でもでも、仮に持たなかったら…生存してないですよね。
この塩梅が難しいのでしょうね。
とか、他人事のように語ってしまいました。(^_^;)
春間さんに、「仏教は他人事ではありません」という文言が出ることを強く願望しておこう!
自分をみない人には自分ごとが成り立たない
他人事ですか
春間さん。言葉足らずでした。
〉〉春間さんに、「仏教は他人事ではありません」という文言が出ることを強く願望しておこう!
これね。春間さんが「仏教は他人事ではありません」と私に対して言ってくれないかしら…という願望を表した文章なのです。
わかりにくくてすみませんでした。(^_^;)
だから何?と言われそうですけど、そういうことです。
自分を見ても 人は自分の見方 で 自分を見るものです
「 仏教 」 には 自分というモノ はありません
存在 は すべて モノ と 言い換えることができる
存在の仕方 とは 自分ごとに過ぎません
「 仏教 」 とは 釈迦牟尼の 独り言 です
他人事ですか ? ( 自分ごとにすれば 仏陀 です )
ばーーーーか、ばーーーーーーか!!
自分がどう見られているかじゃなくて、自分はこれをやりたい、やる。
やりたいこと、やったことだけが自分なんだ。 by岡本太郎 なんだよ!!!
それに加えて、一生のうちでどんな情報を、どんな気持ちで受け取ったのか、が
自分にゃんだよ!!!!!!
> 一生のうちでどんな情報を、どんな気持ちで受け取ったのか、が
自分にゃんだよ!!!!!!
ぎんた さま
自分 って いうようなモノ が ない
って いうこと を 「 仏教 」 では
「 無我 」 って 言います
無我の境地 が ( 大雑把に言うと ) 「 瞑想 」 です
自分という 感じ方の中心 を 感じ取ることなく 夢中になっている様子です
また、 特殊な仏教用語 ですが 「 非我 」 と いう人もいます
自分=我 とは 感じる・認識している主体・自分自身
ではない 我=自分 ではない という意味です
認識・感知 は 状況に応じて
同じ こと・状態 を 正反対に受け止め 得ます
心 を 気持ち と 翻訳することは
自分の気持ち次第 で 選択できることです
その人 の 五蘊(身体) は 何ら変化なくとも
「 心 」 は 何処へでも行くことができます
( その 「 心 」 の あるところ を 自分 と 言います )
( そのような 「 心 」のありよう を
「マリッカー経」で 釈迦牟尼は 説いています )
何処に心があろうと あるところの主体 が とらえがたき「 心 」 です
その どこにでも存在できる 主体 を 傷つけてはならない
それは 自分自身である他人 の 大事な心(得) です
自分 とは 自分であって 他人ではない
( ありもしない 自他の境界 を 引く )
「 他 」 とは すべての事物・存在 を 指す言葉です
ある存在 は “自分との境界” を 以てして 「 他 」 と されます
( 存在を感知する自分 は 感知される自分 との間に 境界があります )
しかし “その境界” は 感知の仕方 で 存在を決されます
( 通常 それを感知することはありません )
ただ 正しい瞑想 においてのみ 自分と自分を見つめる自分 とが
見つめる自分 によって 同一の存在 と なります
( 二分でき その両方を見つめる 自分が起きます )
三つ の 三角の頂点 の 一つ一つの周りに
三つの自分 が 円周 を 描きます
三つの「縁」 が 重なるところに
普段見ることのない 自分 が 起きています
こういうこと は “分かる必要” の “ない” ことです
( “ない” という こと・存在 が “ある” という “こと” です )
あるようで “ない” 「 仏教 」 が “ あります ”
「 仏教 」 を 出すことができる人 を Buddha と 呼ぶ習わしです
( あなたは 「経」の中に入って 仏陀と出会っていますか ? )
「 唯仏与仏 」 とは
仏 と 仏とともにある仏・出会う仏 を言います
仏と仏 との間に 「 究尽 」(究めつくすこと) が 起きます
頂上 とは あなたが登り詰めた
現実( 耶摩・ヤマ の 頂 )をさす言葉です
何処であろうと そこより上 が 存在せず
その周りと下 を 見ることができる位置 を 頂上 とします
( 上を見上げても 天空 という 空があるのみ です )
目を周囲に巡らすと いくつもの頂上がある と 気づきます
そこかしこに 黄泉・ヤマ の表出 を 見ることができます
あなたの立つ 底に 耶摩 が あなたを支えているのです
あなたが “ オヤマ ノ タイショウ ” です
大将 の上に 元帥(大王) が 采配を振るっています
以上 あなたの 感じている
心 の すみか・住所 のことを 終わります
・
> ぎんた さま
自分 って いうようなモノ が ない
って いうこと を 「 仏教 」 では
「 無我 」 って 言います
知ってる!マニカナでさんざん見た!
>無我の境地 が ( 大雑把に言うと ) 「 瞑想 」 です
自分という 感じ方の中心 を 感じ取ることなく 夢中になっている様子です
へーーーー!そうなんだねぇ~~
> また、 特殊な仏教用語 ですが 「 非我 」 と いう人もいます
自分=我 とは 感じる・認識している主体・自分自身
ではない 我=自分 ではない という意味です
ここらへんで、怪しくなってくる、、、、
> 認識・感知 は 状況に応じて
同じ こと・状態 を 正反対に受け止め 得ます
そりゃーそうでしょう!!!
> 心 を 気持ち と 翻訳することは
自分の気持ち次第 で 選択できることです
ん?ん???2行のうち、上の行のイメージがあやふやになる。2行目は当たり前って感じる。
>その人 の 五蘊(身体) は 何ら変化なくとも
「 心 」 は 何処へでも行くことができます
( その 「 心 」 の あるところ を 自分 と 言います )
うんうん、心は自由にどこへでも行けるねぇ、、、
>( そのような 「 心 」のありよう を
「マリッカー経」で 釈迦牟尼は 説いています )
ねこ、経典わかんにゃい
>何処に心があろうと あるところの主体 が とらえがたき「 心 」 です
わーーーん、本格的にわからないーー
>その どこにでも存在できる 主体 を 傷つけてはならない
それは 自分自身である他人 の 大事な心(得) です
自分 とは 自分であって 他人ではない
本当にそう思います。
>( ありもしない 自他の境界 を 引く )
境界線がないことがわからない
>「 他 」 とは すべての事物・存在 を 指す言葉です
ある存在 は “自分との境界” を 以てして 「 他 」 と されます
( 存在を感知する自分 は 感知される自分 との間に 境界があります )
しかし “その境界” は 感知の仕方 で 存在を決されます
( 通常 それを感知することはありません )
ただ 正しい瞑想 においてのみ 自分と自分を見つめる自分 とが
見つめる自分 によって 同一の存在 と なります
( 二分でき その両方を見つめる 自分が起きます )
三つ の 三角の頂点 の 一つ一つの周りに
三つの自分 が 円周 を 描きます
三つの「縁」 が 重なるところに
普段見ることのない 自分 が 起きています
もはや、完全に理解を手放した。読んでるけど頭にはいってこない
> こういうこと は “分かる必要” の “ない” ことです
( “ない” という こと・存在 が “ある” という “こと” です )
あるようで “ない” 「 仏教 」 が “ あります ”
シ~~~~~~~ン
> 「 仏教 」 を 出すことができる人 を Buddha と 呼ぶ習わしです
( あなたは 「経」の中に入って 仏陀と出会っていますか ? )
「 唯仏与仏 」 とは
仏 と 仏とともにある仏・出会う仏 を言います
仏と仏 との間に 「 究尽 」(究めつくすこと) が 起きます
ねこはそんな作業はしない。
>頂上 とは あなたが登り詰めた
現実( 耶摩・ヤマ の 頂 )をさす言葉です
何処であろうと そこより上 が 存在せず
その周りと下 を 見ることができる位置 を 頂上 とします
( 上を見上げても 天空 という 空があるのみ です )
目を周囲に巡らすと いくつもの頂上がある と 気づきます
そこかしこに 黄泉・ヤマ の表出 を 見ることができます
あなたの立つ 底に 耶摩 が あなたを支えているのです
なんかここの表現は好きぃ~~~
> あなたが “ オヤマ ノ タイショウ ” です
みんながそれぞれそうだと思う。
> 大将 の上に 元帥(大王) が 采配を振るっています
元帥誰やねん??
以上 あなたの 感じている
心 の すみか・住所 のことを 終わります
・
頂上ってとこで、Eテレで見た、なんかすごい急斜面にへばりついてる、
山羊?を思い出しました。なんて言ったっけな~??と。
アイベックスだった!頂上は関係なかった。ダムの垂直のところに
張り付いてるのだった。