龍樹を切ってみると。。

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買い物に出かけたら、道路脇に二輪クロッカスが咲いていました。春だなあ。。

『中論頌』の構成が少し見えてきた感じがありますね。

いや、ね、注釈つけようと思ったら、どういう気持ちで解釈したのか、そこが見えないとどうにもならないと思うんだよ。龍樹については、ずっとそう思ってきた。

なかなか注釈できなかったのは、どうして、そんな章分けになってるのか、全然つかめなかったからです。きっと『般若経典』あたりの影響もあるんだろうね。それと『スッタニパータ』。。

これは、大分前からそう思ってたんだけど、改めて、ここ(『スッタニパータ』)は大きいなって、思います。

言語的には、パーリ語、サンスクリット語など、現地のことばはいろいろできただろう。後すごいのは、瞑想(=ヨーガ)の能力が高いこと。。サーリプッタのような智慧のタイプだから、集中すると、とんでもないところまで完全に到達してしまう。。

たぶん、いろんな人と対話したり、「請われて師になった」って書いてあるので、いろんな人に教える中で、自分も気づいていったんだと思う。

そうじゃなきゃ、いろいろなことに気づけないよね。。

「で、お釈迦様がすごいところって、どこだろう?」って思うんだけど、

一度にあれこれ複数のテーマを考えられることだと思う。

一度に一つのことなら、誰でもできる。。それでも、「天才」とか言われるかもしれない。。

だけど、一度の思索で「あれもこれも」に対応するのは無理です。

でも!お釈迦様は四つ以上の体系理解に対応できることがわかってる。。龍樹は、二つはできるだろう、もう少しいけるかも。。で、わたしはひとつ。。ようやく、一つだから、けっこう辛いす。。

それで、時間がかかっているのです。。けっきょく、それを言いたかったの?

ま、そうなんだけど。。西洋のものを読んでるときには、考えたことなかった、のです。これは読めば、わかるっぽい、のです。今わからなくてもいつかわかるだろうと予測できる。。意外感が少ないのですが。。

でも、東洋はちがうのだ。。なんとなく「歯が立たない」感が強い。。

同時に,複数の体系理解が可能な気がする。。ヨーガの力なのかなあ。。

「輪廻しなきゃ、あかんな」って、ついつい思っちゃう。。うーーん。。

こんなこと考えてるから進まないんだぞ!

でも、ついつい、龍樹も輪廻してるんだろうなぁ、って思ってる自分がいます。。

コメント

  1.  春間 則廣  より:

       
    > わたしはひとつ。。ようやく、一つだから、けっこう辛いす。

       自分 は  一つ 
           ( 一つ のこと を 自分 と 呼ぶけれど
                      今は 意味は置いておく )

       一つ が あるから      二つ が 成り立つ
       一つ が 成り立たなければ  何も成り立たないけれど
       何か一つ が が 成り立っている ( 「 自性 」 である ) 

       それでは 「 自性 」 は 何によって成り立つのだろうか
        自分 という一つ が 成り立たせている

       自分 が ないところ は どこを探そうと 見つからない
     ( 自分が何か を 考えるところにも 自分がいる )
       自分 が ないから    自分を探すけれど
       自分 とは 探さなくとも 確立しているのである

      「 自我 」 が ある人には   自分 が ない

        ないもの を 探さない から  自我 が ある

          (  論理的矛盾 が   無いところ に 起きる )

     
     ( 矛盾 が ない )
      たった一つ の 自分  とは  どこにあるのだろうか ?

        意味なく      意味を探すこと は 可能だろうか ?
     ( ないもの を 探すことは ない“よし・因” において 成り立たない )
       探す 因 が 自分である ( “省略する因” は 分かるかな ? )

       探さなくとも 自分 は   “ここ・読むところ” に ある
         見ている自分  とは  見られている自分  であるけれど
      見られている自分   とは  見ることができない自分 である
        見ようとして  起きる  有  様 を 「 見性 」 と呼ぶ
      人の 物事のとらえよう(実) の “様” を 「 見性 」 と呼びます

     龍樹 の 論  は    偏と偏・辺と辺 との 間に起きる
      ユエあって 「 中論頌 」  と 呼ばれる
      偏見 が ユエ(由・因) である ( 周辺 が 自我の境界である )

    偏見 が 成り立つには 因  が 必要である
       ( そこには 必ず  因  “は” ある )
      あるもの とは 探さなくともある “実” である
            ( 襟元 に 縫い付けられている 宝珠・方手 である )

       その手 を 以てして   持つ手 を ジツト 見つめる

      “わたしの手” は  あなたの “手” を 握ることはできない
      あなたの手 だけ  が あなたを握りしめる
     ( “わたしの手” が あなたの手にあるとき
    あなた は わたし・自分自身 を  握りしめることが叶う )
      
      
      
        ここにおいて 自分  という  一つの事 の

           意味を述べているのである

     ( 個々 に 起きている  “意味” を 明かす  『中論頌』 )
      
      
      
         「 中論頌 」  を  読む 、、、、
     

  2. ぎんた より:

    先生こんにちは~

    今朝、いつもの買物ルートの途中にある神社の、夕方にガラガラ~って閉める鉄の門の
    上の方に、「ALSOK」のシールが貼ってあるのを発見しました。
    (え??)と思ってきょろきょろすると、母屋?のとこにもALSOKシールが貼って
    ありました。

    ここは、みんなが安産祈願として、しゃもじにサインペンで、「無事に元気な子が
    生まれますように!!」とかって書いて、境内に吊るしてるとこなんです。。。

    そんな大事なお願いをたーーーーっくさん受け付けて置いて、警備はALSOK。。。

    や~~~人間って面白いでしゅね~~~~~、イリュージョンすぎる。

    まあ、でも、神でほとけが興した警備会社に勤める神でほとけの従業員がいざと
    いう時には、駆け付けてくれるシステム、、いいかもしれない。分業ってやつかにゃ?
    そうおもえば当然って感じでしゅかね。

    何年か前に、ぎんたもみんな(神でほとけ)を真似して、
    「みんなが早く自分が神でほとけだと思って行動を起こしますように」って
    祈願しゃもじに書いて境内にぶら下げてきたのですが、、しばらくして
    やっぱ恥ずかしいかも~~とこっそり外しに行ったら、もう合格祈願と安産祈願の
    しゃもじ達に埋もれてどこにあるか見つけられずに帰ってきました。
    2.3日前だから見つけられると思ったのが甘かった。

    えーーー、、、何が言いたいかというと、
    >お釈迦様は四つ以上の体系理解に対応できることがわかってる

    ていうののすごさは、お釈迦様の側にあるのではなくて、それがわかる先生たちに
    あるのだし、お釈迦様だって、先生のポジションに行ったら一つしかわからないん
    だし、神様だって、ALSOKに守ってもらわないといけないのですから、
    全然なんにも気にしなくておっけーと言いたかったのです。

    •  春間 則廣  より:

        
      > すごさは、お釈迦様の側にあるのではなくて、それがわかる先生たちに
      あるのだし、

        「すごい」 って言うときには
        「それがわかる自分はすごい」
           という 意味しかありません 

         自分になければ   どこにもない
         自分にある    と 自分で決める
                 決めることができる自分  の
                  何という素晴らしさ !

      > お釈迦様だって、先生のポジションに行ったら一つしかわからないん
      だし

         一つ分かれば  全てわかる

         ただし 、 分からないときには
               分からないということ も 分かってはいない

         お釈迦様 は 人は  「 平等 」 である  と  “ 説く ”

           いくら説かれていても    分かろうとしなければ
             「 平等 」 とは   ( 言語音の上にだけある )            
            どこにも存在しない    「 真理 」 にすぎない
       

      お釈迦さん が 分かったことは 誰でもわかること

          問題が起きる ところ(道)は
              
            分かったということ と することとが

             同じ道 に 置かれないということ

         そうであっても  「 平等 」 だから 厄介である

       ( 繋がっていない道は存在しない と 法華経に説かれている )

    • mani より:

      ぎんたさま こんばんは。

      あったかいコメントありがとうございます。
      ほんと龍樹は混乱する。。奈落の底に突き落とされます。。

      >神様だって、ALSOKに守ってもらわないといけないのですから、
      全然なんにも気にしなくておっけーと言いたかったのです。

      そうかぁ。。そうだよね、神さまもALSOKに守ってもらう。。すんばらしい!

      なるようになる。。ってことだよね。よし!元気出して進むぞ!

  3. tanza より:

    ブッダの教えの基本は、諸行無常なのだから執着を捨てよ、にある。
    だが、人類は不変なものを作成し、それに執着している。

    参考動画:【養老孟司】現代の都市生活の問題とは?
    https://www.youtube.com/watch?v=DAX1F6ZjaLI

    • mani より:

      tanzaさま こんばんは。

      養老孟司さんの動画、ありがとうございます。

      >諸行無常なのだから執着を捨てよ

      もしかして「そうなのかな?」って、思わせるところが、ブッダなのかな?

      永遠と無常は紙一重で、変わらないものを求めた、ということも言える。。
      「涅槃」は変わらない寂静の世界ですよね。

      人間てのは、かわらないんだな、っておもわせられるよね。。

  4.  春間 則廣  より:

    > 人類は不変なものを作成し、それに執着している。

      不変なものはありません

      聖書が不変ではなく 読む人の解釈 が 変わらない限り 不変なのです

      どのように執着しようと 不変ではありません

      執着は時とともに様相を変える

      生まれたままの人  が  生まれかわったように 考えを改め変える

      生まれたまま    と   どう違うのかな ?

    • mani(管理人) より:

      春間さま

      > 不変なものはありません

      不変なものみっけ。

      春間さまの答えは、きっとこうだろなあ、って思ったら、やっぱりそうだった。

      「不変なものはありません」って春間さまならいいそうだなあ、って思ったら、やっぱり、そうでした。

      •  春間 則廣  より:

        > 「不変なものはありません」って春間さまならいいそうだなあ、って思ったら、やっぱり、そうでした。

          不変なのは あなたの感じ方

          不変 を 見つける あなた ( 見つけられない あなた )

        • mani(管理人) より:

          春間さまぁ、ここもこの答え予想しました。

          >不変 を 見つける あなた ( 見つけられない あなた )

          二度あることは三度ある、っていうことわざは、「見つけられない わたし」なのかな。

          あくまで、二度あることを三度予想した、って事かもしれない。。