龍樹菩薩は頭が良かった。だから、ブッダの書いてることがみんなわかった。
そして、『中論頌』を著したんだ。喜び勇んで著した。そのときは何も考えてなかった。お釈迦様を理解した喜びだけだった。
それからだよ。。彼の苦労が始まったのは。
みんなみんな、そうなんだ!こんなに理解できてるんだから、悟ったはずでは?って思うんだけど、ここから、ホントーの苦労は始まるんだね。
わかるよ、龍樹! 菩薩だってことが身にしみてわかる!
必要な苦労は誰もがしなければならないもの。
最初にわかったら後から苦労する。最初にわからなかったらそのときに苦労する。必ず忘れず苦労だけはついてくる。。こういうことなんだ。.仏教ってのは!
本当は、誰もが知ってるんだ。。自分に素直になったとき、お釈迦さんが正しいって。
誰もが知ってるんだけど、それを正面から言う人はいない。。誰もいない!
だけど、よく仏教は流行ったなあ、これまで、仏教が世界中の心の半分を占めていたなんて。
誰が信じるのだろうか。。
たぶん心だけの世界になったら、もっと仏教は流行るんだろうね。
身体があるから、違う宗教があるんだろうなあ。。不思議な感想だけど真実だと案外思ってます。
龍樹は菩薩の初地で歓喜地、って実感できて良かったよ。
すげえぜ!お釈迦さん!龍樹が子分なんだから。。あいつは何でもやりますぜ。


コメント
mani先生
>龍樹は、函は中身が空っぽのものである。ゆえにそこに入る物すべてもひっくるめて、中身が空っぽなのだと、得意げに結論づけるのである。これが、龍樹がよく用いることば遊びの詭弁なのである。
詭弁というより龍樹菩薩の語りが空性として立ち現れてくる三昧(集中力)がないと詭弁でしょうね。。。
だから自分にはやはり『般若経典』を貪り読んだ龍樹菩薩が原点にあると思うのです。
『中論』は大乗菩薩の修行速習マニュアルでしょう。
しかし『中論頌』だけだったとは思えないです。簡単な注釈書を作ったと思うのです。
それが『無畏論』(アクトーバヤー)だったと。
>龍樹! 菩薩だってことが身にしみてわかる!
『菩提資糧論』と『十住毘婆沙論』と『大智度論』あたりになると、菩薩!って感じが強くなって行きますね。
だから、歓喜したナーガールジュナは、歓喜して、菩提資糧を説いたのであった……。
Pocketさま、こんばんは。
>だから自分にはやはり『般若経典』を貪り読んだ龍樹菩薩が原点にあると思うのです。
私は少し違う印象なんだなあ。『般若経』は、兄弟のような気持ちで読んだと思ってます。むしろ、龍樹と似ているのは、道元かもしれない、って思ったりします。
違うかもしれないけど、今のところそう思ってます。
>『中論頌』だけだったとは思えないです。簡単な注釈書を作ったと思うのです。
そうですね。私も、そう思う。『無畏註』は龍樹でいいんだと思います。
『無畏註』の最初に自在天などをあげているでしょう?
あのあたりを読んで、般若経典は超えてるなあ、って思いました。
子分ていうのにちょっと違和感があって、やっぱり弟子?か、もしくは、
分身とかじゃないかなーと思います。もちろん、パイセンです。
ぎんたさま いちおー「弟子」なんだろうなあ。
どっちかっていうと「分身」に一票です。
子分は、「違和感あり」で了解です。
世間的には、天才って言われると思うんだけど、ブッダの前ではありんこレベル。。かな。
ぎんた様
>やっぱり弟子?か、もしくは、
>分身とかじゃないかなーと思います。もちろん、パイセンです。
賛成!龍樹菩薩はブッダの弟子っすよ、やっぱり!
分身だと久遠実成の法身釈迦牟尼仏を見据えるようになって行きますね〜
なむみょうほうれんげきょう。。。
じゃあ、弟子で分身でパイセンにしておきます。
先日紹介した、『インド不二一元論哲学・原点へのいざない』(宮元啓一・著)を読み進めている。(続き)
14頁〜 さて龍樹は日本仏教八宗の祖と崇められることから、龍樹の簡単な詭弁論法に簡単にひっかかる仏教学者が後を絶たない。
つまり、こういうことである。眼が花を捉えるとき、眼は「捉えるもの」であり、花は「捉えられるもの」であるが、「捉えるもの」は、「捉えられるもの」が無ければ成り立たない、また、「捉えられるもの」は、「捉えるもの」が無ければ成り立たない。ゆえに、互いに「因果関係」にある、言い換えれば「同時因果」の関係にあると。
・・・・・
だが、原因は必ず結果よりも先に成立している、というのが共通の考えである。「同時因果」など、あり得ないのである。
・・・・・
これについて、ほとんどの同時因果論信奉者は黙り込んでしまうが、ごくふつうの人は、「当たり前ですね」とすぐに答える。これは本当の話である。
・・・・・・・・・・・・
tanzaさま
>言い換えれば「同時因果」の関係にあると。
これは明確に宮元先生の誤解です。
龍樹菩薩は『廻諍論』で「同時因果」の関係を否定しています。
以下に引用します。
pitra yady utpādyaḥ putro yadi tena caiva putreṇa /
utpādyaḥ sa yadi pitā vada tatrotpādayati kaḥ kaṃ // NagVv_49 //
もし父が子を生じるべきであり、もしまた、子によって父が生じるべきなら、こ〔の場合〕に、誰が誰を生じさせるのかを言いなさい。
kaś ca pitā kaḥ putraḥ tatra tvaṃ brūhi kathaṃ tāv ubhāv api ca /
pitreputralakṣaṇadharau yato nas tatra saṃdehaḥ // NagVv_50 //
こ〔の場合〕は、誰が父で、誰が子であるのか。貴方は言いなさい。どのようにして、その両者が父の指標と子の指標を帯びるというのか。
というのも、我々にはそこに疑念があるからである。
naiva svataḥ prasiddhir na parasparataḥ pramāṇair vā /
bhavati na ca prameyaiḥ na cāpy akasmāt pramāṇānāṃ // NagVv_51 //
もろもろの認識手段は、自ら成立するのでもなく、相互依存によって(parasparataḥ)、もろもろの〔他の〕認識手段によって成立するのでもない。
もろもろの認識対象によってでもなく、無因に〔成立するの〕でもない。
—————————–
この51句で相互依存、因果同時を否定しています。*parasparamというのが「同時因果」に該当します。龍樹はこれを否定します。
菩薩は初地の歓喜地 初詣 去年 は 去るけれど去らず
>言い換えれば「同時因果」の関係にあると。
言い換えようと ( 言い換えなかろうと )
誤解です
言葉の “同時因果” を 分かってはいないから です
同時 という 世間の因果 に 縛られているのです
因果なければ( 因が なければ )果はありません
因 が 起きるときには 果 は(既に)起きています
果 が 起きているから 因が起きる のです
けれども 人は 永遠を理解できず
同時 も 理解しません
「 永遠 」の 中では 因果 は 並列して起きています
中 と 外 とも 同時に起きます
すでに “起きる” ということに(前提に)
“横たわる” ということが
“基盤”(grounded on arising) なっています
( 基盤 は 起きることが 基盤 です )
朝 起きた 所以に 朝ご飯 を 食す
( 朝 が 「 世間 」 に起き ご飯 が 迷に起きる )
同時 という 時 は 何処に起きる ?
( ここ・あそこ は 何処に・ どうして 起きる? )
昨日 と 今日 とは 太陽を回る」地球の位置
違うところを回っているから
今と昨日 は 違う のが 当たり前
違う と 判じる 位置はどこ ?
( 当たり前 に 当たると 前と後 とが 決まる )
お凸の見く方向 が 前ではあるけれど
空間 の どこに 前がありますか ?
( 認識上に 前後が起き 世界 には 前後はない )
「 平等 」 とは “そこ・世界” に 起きるが
世界 は 平等 という 言葉に起きるわけではない
起きていること は ( 寝ていることを含め )
「 平等 」 という (仏・法)世界に起きている
一人の世界 に 独りの 「 仏 」
「 仏 」 と 「 仏 」 とは
( 過去仏 と 未来仏 とは )
同時 ではあるが 違う “時” に 起きている
( 時 とは 場所にすぎず
場所 とは 仏世界 に 起きている )
あなたが 立つ位置が決められて 移る位置 が 起きるが
その位置 と 彼の位置 とは 並んで起きている
認識が起きると 違いが起き 違いが “誤”に起き
誤 が 考えを生み 語 に 起きる
考え(認識)は ゴ(前後・正否・主語)に 起きる
認識しないモノ を “認識して”
認識した モノ に すり替える
( 認識できないモノ が 存在しなくなる )
「 真理 」 は どこにも存在しないけれど
それを 知らぬもの(知恵に縋りつく者) は
存在しないモノ であろうと 言語上 存在させる
真理を慧とする者 は 知を捨て 「智」に 立つ
( 「 共建法幢 」 の “法幢” の立つ 智・地・基盤 )
> これは明確に宮元先生の誤解です。
龍樹菩薩は『廻諍論』で「同時因果」の関係を否定しています。
> 以下に引用します。
> もし父が子を生じるべきであり、もしまた、子によって父が生じるべきなら、こ〔の場合〕に、誰が誰を生じさせるのかを言いなさい。
あなた(の認識) が 父子 を 生じさせる
> こ〔の場合〕は、誰が父で、誰が子であるのか。貴方は言いなさい。どのようにして、その両者が父の指標と子の指標を帯びるというのか。
というのも、我々にはそこに疑念があるからである。
疑念などなく 父 は 子の前提である
> もろもろの認識手段は、自ら成立するのでもなく、相互依存によって(parasparataḥ)、もろもろの〔他の〕認識手段によって成立するのでもない。
という 智 は 認識手段 に 割り込む
> もろもろの認識対象によってでもなく、無因に〔成立するの〕でもない。
“因によるのではなく” “果によるのでもない”
当然( 当然 とは 「 世間 」 に 起きるが
「 世間 」 は 因果 から 外れない )
当然 という 状況 は
検討 を 離れているのである
( そのようなこと を 「見」 と 名づけます )
> この51句で相互依存、因果同時を否定しています。*parasparamというのが「同時因果」に該当します。龍樹はこれを否定します。
龍樹 が 否定しているのではなく
あなたの 読み方(認識) が それ(?) を
肯定できない ( 「他」に 依らず )
( 正否を あなたの 認識 ・「我」に 頼って起こす故 )
自他 とは 認識上に起きるのではなく
「 真理 」 に 起きる
ただし それを認識する のは (“不”) 自由 である
フ フ フ と 笑う が 声には出さず
邪気 を 起こして 邪鬼 を 踏んづける
そう ジャ ではない
勝者 ではなく 邪苦者 なのです
当然( といえば 検討は起こされない )!
“わたし”・“自” は 邪鬼 である
お釈迦様 の 喜びがある のではなく
( 問われるべき )
「 己 」 に 悲喜 が 起きる(降り落ちる)
「悲」 を 書き換えると 「苦」 と なる
しかし 苦にもせず 書き換えよう 、、、、
苦しみ とは 常に 牟尼に起き
(我)身に降る モノ である
( “モノ” である 故に 生滅 が 起きる )
( 滅する という コトワリ を 断られる )
春間さま
>言葉の “同時因果” を 分かってはいないから です
ってアレですかね。啐啄同時を言葉上の形だけパクったみたいな……
>疑念などなく 父 は 子の前提である
子なきときは、夫に過ぎず。子生まれれば父と為る。これ、子の父を生めるなり。
>フ フ フ と 笑う が 声には出さず
> “わたし”・“自” は 邪鬼 である
そう、春間さまは、小悪魔、邪鬼、いたずら好きな妖精(fairy)ですよね。
>そう ジャ ではない
>勝者 ではなく 邪苦者 なのです
> “わたし”・“自” は 邪鬼 である
そう、春間さまは、一切勝者ではなく、一切邪苦者なのです。ちょっと言葉遊びと、頓知めいた文章で相手をくるしめる邪悪でいたずらっこな小鬼……!
>苦しみ とは 常に 牟尼に起き
>(我)身に降る モノ である
お釈迦様も苦しんだけど心は自由だったんだと思いますよ。そこがいたずら小鬼の春間さまとの違いかな。
> お釈迦様も苦しんだけど心は自由だったんだと思いますよ。そこがいたずら小鬼の春間さまとの違いかな。
お釈迦様 のこと を あんたが言うな !
牟尼が 右と言えば それは 右を指します
あなたが 右というとき
それを聞く人 は 右手を見ますか ?
わたしは ジャキ という ガキ です
あなたが 邪鬼 というとき
邪 は どこに起きていますか ?
春間さま
>牟尼が 右と言えば それは 右を指します
牟尼がこの世はある。来世はある。というとき、それはその通りを指すのです。
>誰であろうと 最後の生 を 生きています
牟尼を邪推して自説のことわりを説く春間さま。
先日紹介した、『インド不二一元論哲学・原点へのいざない』(宮元啓一・著)を読み進めている。(最終)
100頁〜
この「肯定的否定的因果関係検証法」は、ゴータマ・ブッダが開発した「此縁性」に起因する。
・・・・
なお、西洋哲学世界で初めて因果関係検証法を定式化したのは、J.S ミルである。ただ、その内容は、「此縁性」「肯定的否定的因果関係検証法」の内容から一歩も出ないものであるが。
・・・・・・・・・・・・・・
> 牟尼を邪推して自説のことわりを説く春間さま。
春間 に 対して
自説 を 説くのは 誰ですか ?
下記リンクの見解に出てくる、「ナーガールジュナ(龍樹)の思想」は、一読の価値ありかと。
『仏教における「偶然」とその思想』
https://ocw.u-tokyo.ac.jp/daifuku24_2017a_asahi_minowa/
なんでそんな二次文献読むのか分からないですね。
ここで話すなら石飛道子『龍樹』『方便心論』など石飛先生の著作を読んでからでしょう。
ほんとうに画期的な業績だと思います。
それを措いて宮元啓一さんとか蓑輪顕量さんとか全く理解できません。
> なんでそんな二次文献読むのか分からないですね。
分かってはいなくて、分かろうとはしないからです。
>石飛道子『龍樹』『方便心論』
これは既読。
既読で宮元啓一さんとか蓑輪顕量さんを評価してるのは更に分からないですね。
tanzaさま 『方便心論』は、私もわからんところがあるからなあ。
宮元さんにも一定の読者がいることがわかります。
龍樹は「同時因果」なぞ説いていないんだが、ブッダの因果もわかっていないから仕方ないす。
ブッダは、縁起についてこう言っています。
『生まれることを縁(パッチャヤ)として老いること・死ぬことがある』というのは、如来が出現してもしなくても、『定まっていること(ṭhitā)』なのであって、その領域は、『法として住立していること(dhammaṭṭhitatā)』であり、『法として決定していること(dhammaniyāmatā)』であって『これを縁とすること(idappaccayatā)』なのです。
縁起という関係に、「同時」ということはあり得ないのです。
「二度同じ川に足を踏み入れることはできない」と言ったのは、ヘラクレイトスだけど、お釈迦さんもそれを理論化した。だから、みんなは「わからない」と言うんだね。
その上、ゲーデルの不完全性がが効いている。お釈迦さんを理解するのは今世紀最大と言われるような理論を二つも三つも知らねばならない。だから、龍樹はわかって、歓喜地にいるんだよ。
tanzaさま 混乱してると思うけど、混乱ついでにもうちょっと混乱してみてください。
「宮元本」のp.19 に
rūpam anattā とあるでしょ。この説は、どちらかというと、宮本先生は私の説いたことに反対しているのかもしれないけど、これは『般若心経』の中にある句からのアレンジだから、お釈迦さんの述べたところと違うのね。
上にある引用文参照。
お釈迦さんは文法を間違わないの。『般若心経』が間違っていると言えばいえるの。それを知ってて、あえて、私は『般若心経』に賛成するかたちで書いたのね。
それに、宮本先生のご本には、龍樹の引用箇所が示されていないのにも、問題があると思うわ。
> 縁起という関係に、「同時」ということはあり得ないのです。
縁起 は 関係性 に関わる 「法」 ではありません
「 法 」 は 関係性 には “関係はなく”
「 法 」それ自体 として 自立しています
( 自立できるのは 法だけである ということが「 縁起 」です )
繰り返します
「 縁起 」とは 人の(思い描く)関係性 に 左右されません
> 『法として住立していること(dhammaṭṭhitatā)』
> 『法として決定していること(dhammaniyāmatā)』
>「 法 」 を縁とすること( dhamma idappaccayatā )
?
「 法 」 に 縁じて 起きることが
「 法 」 である 「 縁起 」 です
「 法 」 は 法としてそれのみ で 住立しています
しかし 人の認識に上がらなければ
人にとって 認識されることはありません
される前 と した後 の
どこに 前後が起きていますか ?
する前 にも した後 にも
何ら違いのない 言い換えて補足する用もない
「 法 」 が 起きている
( する前 ・ した後 する・した に
過去 と 未来 が 今を軸としています )
認識上( 二次元・三次元 ! ) に
上下左右 は あるけれど
前後 は 四次元に起きるのみ
認識上 の どこを とっても 中央はあるけれど
中央 には 奥行き(前後)はありません
・・・・・・・・・・・
関係性 は AとBとに 同時に起きています
1+1 = 2 という関係 は
左右由自 に 行き来できても
A と B は 同時に 同じ概念を含蓄します
ただし 思考は 行き来し
一直線上に起きると認識され
前後を生んでしまいます
思考にとらわれるとき
前後が起こることは 止むを得ません
「無我」であるならば
自分と対象 とは 同一です
( それを 称して「 自他不二 」と言います )
“有我” においては 無でさえ対象化されます
誰が何と言おうと “考える我” は 考えている
“ Cogito, ergo sum ”
( ” I think, therefore I am ” )
我あり という 故を 我思う
Bierce : cogito cogito, ergo cogito sum.
「我」 は 「我」 を 複製していく 、、、、
・
mani先生
rūpam anattāを破格と見るのは古典サンスクリットを正統とするアースティカの価値観で、端的に学者のやる間違いだと思います。rūpaṃ, bhikkhave, anattā(Vin, mahāvagga)とかいくらでもヒットします。
だからニヤーヤとかヴァイシェーシカを入門にしていない伝統宗派から解釈する人間には、rūpaṃ śūnyatāの何が問題なのかもわかりません。世親菩薩も比丘を指して平気でbhikṣutvaという表現を使いますし。どうして仏典をBHSからではなく正則古典サンスクリットから解釈しなければならないのでしょうか?
エム先生、おはようございます(^O^)
(エム先生)
「縁起という関係に、「同時」ということはあり得ないのです。」
———————
例えば、椅子取りゲームをしていて、【Aさんが座ったから、Bさんが立っている。】
という現象は、縁起として考えないということですか?
この【 】は、先生は、原因と結果の同時の関係とは考えないということですか?
龍樹さんならこの現象をどのように考えると思われますか?
(Aさんが座ってるから、Bさんが立っている)
場所がAさんに弾き飛ばされて、Bさんが別の場所にいる。
この場合、空間が同時的ということで、そこに縁起は見ないということなのかなぁ??
エム先生、pipitの中での心の整理に、pipitがまだ知らない論理や考え方があるかと思い、先生に質問しています。
今、義母の介護の入り口にあります。
いろんな手続きや用意など義父と義妹が本当によくしてくれて、嫁の私は今のところほとんどノータッチです。
(今後どうなっていくか、誰もがわからないです。義母の気持ちを一番尊重する気持ちはみな一緒だと思います。)
今、私の頭の中にあるのは、
「私が付きそうから、他の人は付き添わなくて大丈夫」
「他の人が付き添わないから、私が付き添う」
などです。
この関係は、エム先生は「縁起」や「原因と結果」としてはみないということでしょうか?
どのように考えたらいいのか、いろんな考え方を参考にしたいと、質問しています。
先生の考え方や、ひょっとして龍樹さんならこうアドバイスくれるんじゃないか、とか教えていただければすごくありがたいです。
お忙しいところ申し訳ありません。
(もちろん返信はいつでも可能な時で、でお願いしますm(__)mm(__)m)
出禁になった某氏を連想する文体ですね(連想と同一は別モノ)
そして既読と理解もまったく別モノだとゆーことがごくごくフツーの頭でも「よぉーくわかる」事例ですね
「(わからないという)コノこと」自体がわからない人には、「ソレが」わかっていないことがわかり得ない
なぜならば、わかるという対象にすら「ココソコにない」から、と導かれちゃいますね
「こういっている」と引用をだけで頭を使わず、労力を使わず、語らず、あいまいすることが「無我っぽいんでしょ?」という考えが本人以外の他者にはよくわかる(よく見える)こととなります
「如是我聞」というのはブッタが言った、誰かが言った、それだけを引用すればいいんじゃね?ってことではないです
語る限りにおいて「自分が語り得る範囲」を明確にすることによって生が対象に入り、滅が対象に入る
理解していないものを他者のことばで上書きすると自分を見失うことが本人以外にはよくわかる(よく見える)
と、ワレ思ったのでした
> 「こういっている」と引用をだけで頭を使わず、労力を使わず、語らず、あいまいするこ
そういうこと に 頭を使っているわけです
“あたま” (思考) は
牟尼が 説くように 「 平等 」に 起きます
機能的 には 牟尼と “あなた” との間に “差はない”
ただし 使い方 に 差 が 起きます
( 使い方 とは ) 差 とは 起こす方向 です
( 牟尼の説く ) 「楽」を 起こす方向と倒す方向
「 楽 」という 思考 に 指向する方向が 起きます
美味しい(不味い) という 志向方向
偉い(偉くない)・優れている(劣る)
自分は同じように優れている・劣っている
( 同じ と 認める自分 )
何に比べて 優劣 は 起きるのでしょうか
( 牟尼の優れ とは あなたの認識上に
優れて起きていますか ? )
起きているのであれば あなたが牟尼 です
優れている と 規定する あなたの思考の主体
あなた が 劣っていれば 規定は根拠を失う
俺のほうが 優れている という 劣った思考
彼の方 が 優れている という 「劣」
( そのような 法の下で 裁判をする )
勝っても負けても 「 劣者 」 です
( あなたの優劣 で ここに 裁き ます )
「 中論頌 」 は すべて 此処 に 基づく
牟尼は 以下の(訳文中)テキスト上に 説いています
Su.799( 出典 中村元 訳 岩波文庫「 ブッダのことば 」p.180 )
「 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 」
ジナ(勝者)である あなた は 「勝」を 顛倒する・しない
( 顛倒してはいなければ あなたは 「 医王 」 )
“薬師如来” として 「衆生」 を 救って いる・いない
> 理解していないものを他者のことばで上書きすると自分を見失うことが本人以外にはよくわかる(よく見える)
誰(牟尼)を あなたが 理解して(体現化して)生きていますか ?
よくわかる とは 見られている者・見ている者 に
「 平等 」 に 起きています
等しく劣っているのに そこに 優劣をつける愚
ほんの少し であろうと 穿てば 無限へと広がっている
( “もうちょっと” とは 一寸の思考にのみ 起きる事 )
そこに “ちょっと” の 思考 が 無限を起こす
無限 が 有限 となるとき ( 同じ処に ・ 「 平等 」に )
“繰り返さない生” が 起きる ( 「輪廻」 は 終わる )
> と、ワレ思ったのでした
「と、ワレ思」う こと ではなく
問うて 問う我に 問うを起こすこと なのです
( 起きていること 全て が あなた なのです )
> 自分を見失うことが本人以外にはよくわかる(よく見える)
“わたし” に 問い返して これを “よく見なさい”
・
> 「こういっている」
> そういうこと
ね?春さん、わかりますよね?
有為の凡夫は『語る限りにおいて「自分が語り得る範囲」を明確にする』← コレを守った方(向)がお得なのです
春さんが「知っている範囲」において、ことばは常に後追いなのです
ことばの前にことばはないってのが有為(または存在というlogos)のヒミツ
慢(比較)は前後に現れる
ココ(有為)では在り方は後に決まる(同時ではない同時)
> “わたし” に 問い返して これを “よく見なさい”
いよっ!ダッタバーーーン!がココに還る
“わたし”からは以上です
> 有為の凡夫は『語る限りにおいて「自分が語り得る範囲」を明確にする』← コレを守った方(向)がお得なのです
有為の凡夫 が 有為について
( 凡夫としてではなく ) 語っている ということ
( そこ・そこってどこか を 分からずに語る )
そこ(?)に おいて
「 凡夫が凡夫に呼びかける ・・ 」
という 基本的問題点 が 起きているけれど
あなたの “ご助言” は “誤”・迷 に基づいている
( 凡夫の構成要素 )
その助言 は 有為に住所を置く 凡夫から 、、、、
あなたの語りうる “範囲” に あなたは語るけれど
範囲 なる 範疇 の 基盤 は
あなたの自意識が 聳え立つ
自己の影響下においてのみ有効
自己というものは 自己の損得の及ぶ範囲では
有効に機能する
( その有効性 に 慣れ親しんでいる あなた )
“損得” は 有為の構成要件
ただし 、
それが 尊「徳」であれば 話は 次元を変える
「 尊 」 を知って 「 徳 」を 得る
( 「 唯我独尊 」 の 意味です )
自我を切り捨てて はじめて 自我を知る
“全”方向 を 守るには
「禅」が “有功” です
> 有為の凡夫は『語る限りにおいて「自分が語り得る範囲」を明確にする』← コレを守った方(向)がお得なのです
> いよっ!ダッタバーーーン!がココに還る
既読(既知)と理解(理知)の違い、コレとココの違いが明確になりましたね
前後に起きたコトが明確になり、ソレが(私を含む)みなさまにとって”お得なミミより情報”に為ったのではないでしょうか?
成る限りにおいての情報ゆえに”他は知らんけど”
善哉、善哉
ちなみにこれは供養なんです(私に廻向はできないので)
かつて、私に暴言を言ったAさんがいました
あるとき、想いをめぐらせていると
– Aさんは後悔の気持ちはある(昔は見えなかったけれど今は見える)
– Aさんはことばが出ない、ことばを出せない(Aさんは次(対象化・言語化)のステップに”動けない”)
– 今はもう連絡する手段がない
もう会うことがないAさん(故人)の語り得ない想いを「知った時」状況が「動いた」
それがAさんと私の供養((明らかになったので次に進む、知ったことで鎮まる))だったのでした
ナンダカンダさま、
なるほどです。
私も五十歩百歩ですが。
> 春さんが「知っている範囲」において、ことばは常に後追いなのです
ことばの前にことばはないってのが有為(または存在というlogos)のヒミツ
という あなたの知っている範囲
は わたしの知ること を カバー しているかな ?
無為 には 秘密はないけれど
有為 において あなたは 裁量を起こす
ウイ と 仏語 で 言う
掛詞 で 片づけることができる あなた
ドイツ の 言葉 か 分かりますか ?
英語 や フランス語 よりも
毒逸語 は 「 聖 」・アーリア に近い
mani先生
>「宮元本」のp.19 に
rūpam anattā とあるでしょ。この説は、・・・
この部分、先日投稿しようとしたが、p.19上部の図解を見ないと、意味が通じないのでやめました。
tanzaさま
自分の言葉を持たずに誰かの受け売りで腐しに来ているだけなのだったら、荒らしと同然です。
tanzaさま これはね。いろいろあって、単純な話じゃないので。。
でも、でも、膨大な闇が広がってるけど、シンプルに考えてもそれはそれで全然大丈夫です。
文章にするなら、女性形は女性形でそろえなきゃならない、という話だから。中性形が来たら後ろも中性形にしなきゃね、ってことなんだけど。
そこにこだわっている人が、「それはこだわりですよ」と指摘された話です。
「空(くう)」は、それを論理化し、かつ、理論化したものなのです。
どう語るといいんだろうね?って、問いを常に突きつけられてるような問いが、空の論理なのです。
問いが問いなら、答えは?「こだわらない」が出てくれば、いちおーOKかな。
「元旦」記事の「『中論頌』の独自解説です。」に期待しています。
これまで、独自解説らしき他者の龍樹論を引用紹介してきたが、全ての「独自解説」について、それに「こだわらない」ことですね。
tanzaさま こんばんは。
>これまで、独自解説らしき他者の龍樹論を引用紹介してきたが、全ての「独自解説」について、それに「こだわらない」ことですね。
そういうことですが、「こだわらない」ってむずいよ。。
人間、何かには多少でもこだわってしまうもの。
小さいことにはこだわらないけど、大きなことにはどうしてもこだわってしまうんだなあ、これが!
ブッダが、いかに「こだわらない」を実践したか知ったら、驚くこと、疑いない!
最終的には、瞬間のこだわりが大事になる。。
瞬間、こだわらなければ、悟りってわかるのよ。
解脱智見という。
> 小さいことにはこだわらないけど、大きなことにはどうしてもこだわってしまうんだなあ、これが!
大中小 は 「こだわり」から起きている とわかりますか?
劣同優 も 同じ構造に依拠しています
小さなもの でも 穿てば
そこに起きている“宇宙” の “穴” は 広がる
闇の中に 何があるか
照らし出したものが そこに ある
探しようによって 照らし出し方は かえられる
こだわりに沿った 解答を見出す
> 最終的には、瞬間のこだわりが大事になる。。
大事にするところに 始まり が 起きる
たとえであろうと “始終”(に)こだわりが隠れている
照らし出し方 とは 探し方
探し方 に 沿った 照らし出し方が 選ばれ
選び方に沿う 見つけるものが 照らし出される
結論 は 思いに沿って 起き上がり
それが 何のためか は 重き に 沿うのみ
( 軽重 は 慶弔 の ごとし )
> 瞬間、こだわらなければ、悟りってわかるのよ。
解脱智見という。
瞬間 などという “間” は “真” ではない
「解脱智見」 という 知見
解脱すれば 解脱した という 最後が起きるが
知見 では それを 最初のこととする
起きた倒れた に 起きる
解脱すれば 上中下 が 同時に見える
どうように 貧富 が 分かる
分像絵 分別を着た モデルを描く
ふんぞうえ・糞掃衣 を 袈裟 と 呼ぶ
昨日図書館に行ったら、新刊に『インド仏教における「二つの真理」』があったので借りてきた。
著者・ジュニャーナガルバ(中観派)の『二諦分別論』の和訳(赤羽 律)である。二諦とは「勝義諦・世俗諦」である。
以下、「編者のまえがき」から抜粋。
仏教の多様性は、開祖の「対機説法」に端を発し、膨大な数の仏典が産出されることとなった。
・・・・
実に多様な教説がある中で、どれが最も仏陀の真意に近いのか、ということである。・・・
それが本書『二諦分別論』の主題である。
tanzaさま
>実に多様な教説がある中で、どれが最も仏陀の真意に近いのか、ということである。・・・
この発想それ自体を捨てなさい、と言いたいですね。
「それ自体(svabhāva)」を持っている人の発想なのだから。
pipitさま こんばんは。返信マークがないので、適当につけています。
>「縁起という関係に、「同時」ということはあり得ないのです。」
お釈迦様の受け売りです。椅子取りゲームでも、【Aさんが座ったから、Bさんが立っている。】とき、
Aさんが座った「から」と言っています。「同時」とみるのは、そう見る見方による、と考えます。
Bさんが立っているのは、Aさんが座ったから、です。
必ず順序があります。
プラティートヤサムットパーダ(縁起)の原語とされてますが、
私は「プラティートヤ」「縁った後で」という気持ちで訳してます。
「縁った後で集まり起こる」という気持ちで「縁起」を考えています。
いろんな条件が集まって一つの結果を生み出す場合もあるし、
一つの条件から次々に結果が生まれてくる場合もあります。
Aさんが座ったからBさんは立ってるんだ、と見る場合もあるし、AさんとBさんは「同時だ」と見る見方もあります。
知ることはそうなることだ、という見方もあれば、そうなったから知ったのだ、という見方もあります。認識論と実在論です。説明を逆っぽく考える人もいるかも。。
前者は「同時」はないと順序をつける見方で、後者は「同時」を考える見方だと思います。
「同時」と考えるときは、仏教的には、両者は関係しないと見ます。
いったんここで切りますね。
pipitさま、続きです。義母さま、ご心配ですね。。
>「私が付きそうから、他の人は付き添わなくて大丈夫」
>「他の人が付き添わないから、私が付き添う」
必ず「~から」と順序があります。
因果関係というのは、このように「知る」ことにより、順序がつけられる関係だということなのです。
仏教の考え方では、「事実が先にあって、それを知って対処する」、という考え方ではありません。
むしろ、「知るにつれて露わになっていく」という考え方なのです。
pipitさまがおばさまに付き添うのも、ほかの人が付き添わないとき、ですよね。
こういう考え方だと、フットワークが軽くなって臨機応変に対応できますよね。
お大事になさってくださいね。
エム先生、返信ありがとうございます!
(エム先生)
「プラティートヤサムットパーダ(縁起)の原語とされてますが、
私は「プラティートヤ」「縁った後で」という気持ちで訳してます。
「縁った後で集まり起こる」という気持ちで「縁起」を考えています。
いろんな条件が集まって一つの結果を生み出す場合もあるし、
一つの条件から次々に結果が生まれてくる場合もあります。」
なるほど!
縁起には順序がある、ということですね?
(エム先生)
「Aさんが座ったからBさんは立ってるんだ、と見る場合もあるし、AさんとBさんは「同時だ」と見る見方もあります。
知ることはそうなることだ、という見方もあれば、そうなったから知ったのだ、という見方もあります。認識論と実在論です。説明を逆っぽく考える人もいるかも。。
前者は「同時」はないと順序をつける見方で、後者は「同時」を考える見方だと思います。」
なるほどー
認識論では必ず順序があり、(表象が現れる順番といえるのかな?)、実在論的認識だと、「同時」と見ることがある。。。ということかなとエム先生のコメントを読んで思いました。
(エム先生)
「むしろ、「知るにつれて露わになっていく」という考え方なのです。
pipitさまがおばさまに付き添うのも、ほかの人が付き添わないとき、ですよね。
こういう考え方だと、フットワークが軽くなって臨機応変に対応できますよね。」
認識論ですね!
にゃるほど、にゃるほど、なんか心が軽くなりました!
実在論だと、どうしても過去の付属情報が重くなっていきそうだし、情報の軽い認識論のほうが心も行動もいろいろラクそう!
助かりました、お忙しい時に返信ありがとうございました!
m(__)mm(__)m(⌒∇⌒)
pipitさん、こんにちは~先生からお答えいただいて、心すっきりで良かった
です!
ぎんたも、「私な仏教」で考えてみました。こんな感じです。
Aさん(=神でほとけ)の中身は素早い系の昆虫で、Bさん(=神でほとけ)の
中身は松坂牛です。
中身が素早い系の昆虫だと、スピード勝負に強いです。で、中身が昆虫だと
人間の体に入った時には、前世昆虫とは流石に気づけない。一個前の生に頼れない時、
以前に人間だった時の思考や意志とかを引っ張ってくるので、
「駆け引き」とかも出来て有利です。
Bさんは、松坂牛だったので、人間にそれはそれは大事に育てられました。
いつもストレスない状態、リラックスした状態でいられるように、気配りされて
優しく声掛けしてもらいながら育ちました。人間の言葉を聞いて育ったんです。
なので、人間の言葉を聞くと、無意識に少~~し前世の「おっとり、のんびり」が
復活してしまうんです。
と、いう条件があらかじめ備わっているので、「椅子取りゲーム」をした場合の
勝敗は前世によって定められているのです。
前世の因で、今世の果がすでに決まっているので、(おれ、鬼ごっことかドッジボール
とかいっつも負ける)と、どよどよしなくってもいいんです。でも、どよどよしたら
どよどよする人の気持ちわかるから、それもまたいいんです。とにかく
神でほとけが決めてるんだから、おっけーにゃんです。
ぎんたさん、こんばんは!
椅子取りゲームの原因と結果は、相手が要因ではなく、自分が要因ということでしゅか?
そんで、どんなになっても、神で仏だからなんでもオーケーということなのかな??
全部自分の業だ、と、思えると、気楽になるのかな?と想像してみました。
他人への怒りも落ちちゃうのかな?どうかな?
神で仏だから、まぁなんでもいいや、と思えると、これまた心が楽になるのかな?とも想像しました。
💭💭
そうなんです!!
あんまり、他の人と比較しすぎない、劣等感に縛られ過ぎない効果があります。
「~過ぎ」は良くないから。。。
あ、実は一番気が楽になるのは「神様・仏様」なんじゃないかと思います。
だって、「ちぇ、せっかく絵馬まで書いたのに、第一志望受かんなかった」
みたいな、気持ちを受け止めなくて済むから。
前に大河「鎌倉殿の13人」観てた時に、北条政子の小池栄子に、宮沢りえが
「そんな、戦勝祈願なんてやめなさい、相手方だって祈ってるんだから、
神仏はどっちの味方したらいいのかわからないじゃない」みたいなことを
言っていて、(でも、風水みたいなのはしていたw)ほんそれ!!!と
思いました。
たしか、真如苑でも開祖が、氷がもっと売れるように晴れの日がこのまま
続くようにしてほしい、農作物の生育に影響するから早く雨を降らせてほしいと
みんな別々のことを言ってきて困った、みたいなこと言ってたと思うけど、
神様なんか日頃からすっっっっごい困ってるに違いないと。なので、
みんなが「神でほとけ」としてやっていきます、としたらすごい喜んで
もらえるんじゃないかと思って。。。
もともとぎんたは、「神様、目の前に連れてきてくらたら信じるし」みたいな
タイプなんだけど、「すべての人が神でほとけ」って設定すると、
「神は絶対にいる!!!!!!!」て人の言葉を信じないといけなくなって、
じゃ、いる前提で物事を考えないとな、、、、となりました。
あと、真如苑が嫌すぎて、「神様!!神様のご用に私を使ってくださって
結構ですから、神様の計画に外れたことは思いつかないようにしてください!」
と、思わず祈ったことがあったなぁ、、、、と、映画「君の名は」の
テレビ放映を観ていて、あの主人公の女の子が「東京の男子高校生になりたーーーーーーい!!!!」みたいに叫んだ時に、思い出しました。
魂の叫びみたいな。
その直後に「あ、全部みんな、がっちがちに決まっているんじゃない?」
と思いました。
ぎんたさん、こんにちは!
原因と結果でガチガチに決まってるなら、その原因は自由に選択できるの?
殴るor殴らない、とか。
その原因も、その前の生で決まってしまうの。誰もなんにも間違えないの。
「運命変わった!!」っていっても、変わることは決定されていたの。
あ、もちろん、「これは個人の感想です」なんだけども。
ぎんたさんへ
お返事ありがとう!
生命はプログラミングされてるロボットみたいということ?
因果応報なところが「仏教」ということなのかな?
>生命はプログラミングされてるロボットみたい
そうとも言えます。それと前からたまにおもうんだけれど、
もし、この地球全体が、だれか小学生の夏休みの宿題の「地球観察キット」
かもしれなくて、でもそれは絶対にガラスケースの内側にいる私たちには
確かめようもなくて、外側で観察している子にしてみれば、ありんことかと
変わらないのかなー、、、、、と、考えたりします。なので、念のため?
「観察されてるのはわかってんだかんな!!」とか、
「観察している君と、我々は平等なんだかんな!!」とメンチ切ったりします。
でも、そんな状況だとなんだか絶望的だから、その絶望の中でも、なんとか
楽しく生きたらいいのではないかと思い、与えられた環境の中でなるべく
楽しく物事を考えたらいいのかなーとなって、
今、pipitさんと話してるのって、誰かほかの人達が一個前の地球でそのように
していたのを、繰り返してるんだ!!わーーーーーーこんな感じ
なんだねーー!!
出逢えてすごーーーーーいぃ!!!!!
エモーーーーーーーい!!!!!!!!!!!!
全てが新鮮~~~~~~!!
と、すると、ぎんたはやっていけると思い、そうしていて、
緊張感のある「使命感」がいい人はそのようにすると思います。
ぎんたさん、考えてることを教えてくれてありがとう!
縁ある生命は何処かであってお話ししてたのかもだね!
🌏🪐🌌🛸
「同時因果」などと言われているのは、「因果と相関の混同」に起因している影響が大きい。
tanzaさま 間違いについて、コメントするのは難しいですね。
Pocketさま、遅くなりました。考えてました。
>rūpam anattāを破格と見るのは古典サンスクリットを正統とするアースティカの価値観で、端的に学者のやる間違いだと思います。rūpaṃ, bhikkhave, anattā(Vin, mahāvagga)とかいくらでもヒットします。
これなんですよね。すごく考えてました。
これね、(私の知る限りの)最初は、スマ長老がおっしゃったと思うんです。文法がおかしいって。
まあ、そうなんですけど。お釈迦様は、間違わない、って思って、経典(sn.12.20)見たら、
比丘たちよ、何が、縁起なのでしょうか。比丘たちよ、『生まれることを縁(パッチャヤ)として老いること・死ぬことがある』というのは、如来が出現してもしなくても、『定まっていること(ṭhitā)』なのであって、その領域は、『法として住立していること(dhammaṭṭhitatā)』であり、『法として決定していること(dhammaniyāmatā)』であって『これを縁とすること(idappaccayatā)』なのです。(SN12.20)
『定まっていること(ṭhitā)』という女性名詞は「界(ダートゥ)」(女性名詞)につけられたものなんですね。
一応、お釈迦様としては、文法的にそろえているんだなあ、って思った次第です。
だから、変だと思いました。
>rūpaṃ, bhikkhave, anattā(Vin, mahāvagga)
こういうのも、たぶん同じで、rūpaṃってあっても、文字通りのrūpaṃではなくて、「界」の実例のrūpaṃという意味かもしれない、って思いました。
あ、 anattāは男性形だったっすね(笑)
もう一度考えてみます。。
この女性名詞の使い方は、実は、ナヴィヤ・ニヤーヤ学派の関係を言い表す表し方と同じで、そこから気づいたんですよ。
お釈迦さんから来てるとはしらなんだ。
mani先生
>(私の知る限りの)最初は、スマ長老がおっしゃったと思うんです。文法がおかしいって。
スマ長老が文法の性の不一致を問題にすることはないと思います。スマ長老はサンスクリット否定派なので。
パーリ語は人工言語ではないので、性が一致することはむしろ少ないです。
たぶん、それはリンゴは果物ですか?(色即是空)では、果物はリンゴですか?(空即是色)というものだったと思います。
う〜ん、mani先生の中ではニヤーヤ風味にrūpaṃ anattāは変で、rūpaṃ anattakaṃはOKなんですかね?
お釈迦様の時代にパーニニって生まれてましたっけ?
Pocketさま、「空即是色」とは言えない、とは言っていますが、『般若心経は間違い?』では「色即是空」は正しい、という意見ですね。
おそらく、パーニニはお釈迦様の後ですね。
話を戻して考えると、「色即是空」はいえるけど、「空即是色」はいえない、と言うのもおかしくないですか?
パーリ語の語順ってそんなにきっちりしてないと思うんだけど。
『スッタニパータ』787にこんな詩があります。
787.(第三経第8偈)
諸々の法に近づく者は、議論に近づいていきます。近づくということのない者に対して、いったいどのようにして論を起こしたらよいのでしょうか。なぜなら、得たものも捨てたものも(自己ということも自己のないことも)、かれにはないからです。かれは、この世のなかで、あらゆる見解をぬぐい去りました。
attaṃ nirattaṃ na hi tassa atthi: adhosi so diṭṭhi-m-idh’eva sabbā ti.
「得たもの」と「捨てたもの」と訳す個所がattaṃ nirattaṃです。私は一応、「我」と「無我」とも訳せるなあと思って( )の中には入れたんですが、ほかの訳では皆「得た」の方だったので、そっちを取っておきました。
Pocket さま、続きです。私は文法問題はあまり関わりたくないんですが、一応スマちゃまが「空即是色」がおかしい、っていってる意味はわかります。
その考え方だと「そうなりますね」ということです。
さらに、わたしが『空の発見』の中で書いたことは、スマ長老に反対して「色は空性である」も読みとしてあり得ると書いています。
「界」(女性名詞)として捉えているんだろう、というお釈迦様の読みの可能性を、採用しています。
私としては、一貫してるんだけど、ぐちゃぐちゃになったような気がする。。
mani先生
>Pocketさま、「空即是色」とは言えない、とは言っていますが、『般若心経は間違い?』では「色即是空」は正しい、という意見ですね。
いえ、私はそうは思ってないのです。「空即是色」が間違いとは言っていません。
rūpaṃ śyūnyatāと言った時に輪廻の辺に寄らない、śūnyataiva rūpamと言った時に涅槃を辺と見てそこにも寄らない
賢首大師法蔵の解釈で納得できます。
BHSなのにこれをパーニニの古典サンスクリットとして読もうとすると変になると思います。
>attaṃ nirattaṃ na hi tassa atthi: adhosi so diṭṭhi-m-idh’eva sabbā ti.
ビルマ版の本文は以下のようになっていますね。私が見ているPTS版では異読でもAttā nirattāはないです。
Attā nirattā na hi tassa atthi, adhosi so diṭṭhimidheva sabbanti.
中村先生は「かれは執著することもないし、捨てることもない」(大意)という風に訳していますね。
>「界」(女性名詞)として捉えているんだろう、というお釈迦様の読みの可能性を、採用しています。
先生の行者としての読みだと思っています。
Pocketさま、
>rūpaṃ śyūnyatāと言った時に輪廻の辺に寄らない、śūnyataiva rūpamと言った時に涅槃を辺と見てそこにも寄らない
賢首大師法蔵の解釈で納得できます。
まあ、またまた違う解釈が出てきました。これ以上はさわらない方が良さそうですね。
「正しい」「間違い」だけではない解釈というのもいいもんだなあという気がします。
>先生の行者としての読みだと思っています。
まあね。。そういうことにしておこう。
銀行口座を開設する際、「本人確認書類を見せて下さい」と言われる。
衆議院議員総選挙で、投票の際、投票者の本人確認は行われない。
このことからも、「諸法無我」の真実は実証される。
また、「仮装踊り」などは、無我の具体的表現だとも言える。
参考動画:「このキツネ最強!京都に現れた可愛すぎるキツネの赤ちゃんの凄まじいひょっとこ踊り」
https://www.youtube.com/watch?v=CZeOa4bbMng
瞑想について、脳科学的測定結果の記事紹介。
『瞑想の達人である「僧侶の脳波」を測った結果、驚きの実態が判明』
https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/191585
tanzaさま、おはよう。
僧侶の脳波については、以前にも見たことあります。スマナサーラ長老は認知症になったお坊さんのことを語っていました。。
でも、心は清らかだったそうです。
それが目的なんだから、阿羅漢でいいんじゃない。。って思います。
科学的なデータを信じる現代人。
ブッダは、それについても語っている..空であると。
信じるものがあることは幸福でもあり、不幸でもある。
ちなみに空は信じることではない。。
mani先生
>ちなみに空は信じることではない。。
śūnyatā sarvadṛṣṭīnāṃ proktā niḥsaraṇaṃ jinaiḥ /
yeṣāṃ tu śūnyatādṛṣṭis tān asādhyān babhāṣire // MMK_13.8 //
空性とは一切の見解から出離することであると勝者によって説かれた。
だが空性を見解とする者は、救いがたいと説かれている。(13:8)
ここ微妙ですね。空見を信じている人はたくさん居るけど、空を実践している人はいない。
たぶん一切の見解から出離することは、解脱と同じですね。
ブッダは一切の見解から解脱している。一切の見解から出離していることは、一切の煩悩から解脱している、空性を現観していないとムリだろうと思います。
ここ、「だが空性を見解とする者は、救いがたいと説かれている。」これ龍樹菩薩も自戒の言葉としているのではないかと思います。
「勝者によって説かれた」という出典は『宝積経』ですね。
「ye hi kāśyapa śūnyatopalambhena śūnyatāṃ pratisaranti, tānahaṃ naṣṭapraṇaṣṭāniti vadāmi」
「実に、カーシャパよ、空性を捉えることによって、空性に依止するもの、彼らを救い難く迷った者と私は説く。」
ブッダによって説かれた、とある時、その出典は龍樹の考えたブッダではなく、大乗経典にちゃんと出典がある……。
Pocketさま こんばんは。
>「実に、カーシャパよ、空性を捉えることによって、空性に依止するもの、彼らを救い難く迷った者と私は説く。」
>ブッダによって説かれた、とある時、その出典は龍樹の考えたブッダではなく、大乗経典にちゃんと出典がある……。
ああ、なるほど。。こうして、時代を超えるジナたちが出現することになるのか。。チーム大乗なんだね。。
わたしは、「空性とは一切の見解から出離することであると勝者によって説かれた」によって救われたと思ったっす。やっぱりそうかあ、と納得。
龍樹は歓喜地の菩薩だなあ、とも思いましたね。
mani先生
>チーム大乗なんだね。。
「チーム大乗」というか宝積経のKāśyapaparivartaは普通に大乗経典の古層ですけどね……。おそらく龍樹菩薩の時代にはすでに存在していた可能性が高いです。
龍樹菩薩の言葉をKāśyapaparivartaがパクった?みたいなのは倒錯だと思います。
すいません、頑固で。
Kāśyapaparivartaは後漢の179年には漢訳済み。龍樹菩薩の生没年は諸説ありますが、一般的な推定(150〜250年頃)と重なるか、むしろ龍樹が活動を始めるより前に翻訳が完了していた可能性すらあります。
「空性が一切見解のniḥsaraṇaである」という説に該当する部分は最古漢訳(『仏説遺日摩尼宝経』)を軽く触った限りでは見当たりませんが、「空見が癒しがたい」というのはハッキリ見つかります。
勿論インドで原典が成立し、それが中国に渡り、翻訳されるまでには相応の時間がかかります。
この年代を逆転させるには、漢訳の年代そのものを覆すか、龍樹の活躍年代を大幅に引き下げる必要があります。
「龍樹がすごすぎるから、大乗経典(の優れた部分)も彼が書いた/彼が元ネタ」というのは、一種の「天才史観」で、上座部の比丘もよくやる初歩的な勘違いです。
Pocketさま こんばんは。
>「龍樹がすごすぎるから、大乗経典(の優れた部分)も彼が書いた/彼が元ネタ」
Pocketさま、そんなことは言ってナイス。
わからんかねえ。。
般若経典と龍樹の違いを、また宝積経典と龍樹の違いを!
龍樹は、ブッダの体系に気づいたけど、大乗仏教の面々はブッダの体系の一部分に気づいたといっています。
菩薩の初地なんだけど、ブッダの体系の全体像に気がついたといっています。彼は、頭だけは良かった、っていってます。ブッダにぞっこん惚れてます、ってことがわかります。
それ以上でも以下でもない、です!
mani先生
>Pocketさま、そんなことは言ってナイス。
了解デス。すみまセン。。。
ん〜ブッダの体系に気づいたというか……逆ではないかと。。。
大乗仏経の方々はブッダの広い面を網羅したけど、それを体系立てたり、阿含経や部派アビダルマと対比、対峙させることはナカッタ……
Pocketさま こんばんは。
>ん〜ブッダの体系に気づいたというか……逆ではないかと。。。
私は、昔、こう思ってた。。だれでも、ブッダの体系を得たならば、空に気づいて、ミスを犯さなくなるって。。
そんなことはない、って、龍樹で知った。。
彼は、しょせん歓喜地の菩薩に過ぎない。。
>大乗仏経の方々はブッダの広い面を網羅したけど、それを体系立てたり、阿含経や部派アビダルマと対比、対峙させることはナカッタ……
ブッダに言われたとおりにしたんだと思うなあ。。
大乗という呼び名は正確だと思います。
Poccket さま
>ん〜ブッダの体系に気づいたというか……逆ではないかと。。。
私が気づいたのは龍樹です。
大乗の人々は龍樹ほど体系の理解が進んではいなかった。
>大乗仏経の方々はブッダの広い面を網羅したけど、それを体系立てたり、阿含経や部派アビダルマと対比、対峙させることはナカッタ……
そうね、そう思います。おのおの体系立てるというよりアビダルマ的なアプローチだったのかな、って。
mani先生
>そんなことはない、って、龍樹で知った。。
そうですかね。。。龍樹のミスが何なのかはよくわかりません。
スマ長老が仰ってるようなのは『大智度論』etc.がカバーしていると思います。
>彼は、しょせん歓喜地の菩薩に過ぎない。。
『廻諍論』と『大智度論』を見ている限り、さすが歓喜地という感じもしますが。。。
>大乗の人々は龍樹ほど体系の理解が進んではいなかった。
>おのおの体系立てるというよりアビダルマ的なアプローチだった
ですかねえ……。だから『大智度論』が輝くのですが!
Pocketさま、こんばんは
>さすが歓喜地という感じもしますが。。。
歓喜地の部分は、やっぱり歓喜地だなあと思いますよ。龍樹は喜びすぎてしまう。。わかるけど
『大智度論』は現代人の科学者が書いたようだなあと思いました。
>科学的なデータを信じる現代人。
これは、全ての現代人なのか、一部の現代人なのか?
tanzaさま、こんばんは。
>これは、全ての現代人なのか、一部の現代人なのか?
科学より、自分の欲望を優先する人もいる。
某国の大統領とか。。
科学より、自分の欲望を優先する人もいて、そんな人が大統領になる
という現象も科学そのものだと思います。
そんな生き方を見て、自分はあんなことできないとドン引きするか、
あんなやり方があるのか、なら自分もと思うかも、一個前の地球で決まってて、
(科学そのもの)それが、ちゃんと選択出来ている気がする場合もあるし、
全っ然選択肢なんか見当たらなかったよと言う人もいると思います。
みんながいいとこ(いいルート?)を取っちゃって、ここしか残ってない
みたいになる時もあると思います。
>科学より、自分の欲望を優先する人もいる。
某国の大統領とか。。
参考動画:【圧勝の高市首相にトランプ💢】選挙は勝たせてやった!金はまだか⁉️ 85兆円(5500億ドル規模)の対米投資遅延にいらだち隠さず!
https://www.youtube.com/watch?v=Q5xwzke-vXc
> 科学より、自分の欲望を優先する人もいる。
> 某国の大統領とか。
某国の大統領 が 自分の欲望を優先している としても
それを認める(確認する)方法 が “欲望に基づいている”
> 科学より、自分の欲望を優先する人もいる。
> 某国の大統領とか。
某国の大統領 が 自分の欲望を優先している としても
それを認める(確認する)方法 が “欲望に基づいている” のであれば、
欲望 に沿った 確認事項が顕在化する だけです
その欲望 には 浄・不浄 が 起きています
きよらかさ は 欲望に基づきません ( 「誓願」 に 基づきます )
だれの どのような 欲望 を 願っているのか
検証 できているのでしょうか ?
常に 「 精進 」 ということが ここに起きています
精進 は カナタ にあるのではなく 「 心中側近 」 に 起きている
誰の心中か を “自っと 手を見つめて
>だれの どのような 欲望 を 願っているのか
> 検証 できているのでしょうか ?
検証が必要とは思いませんでした。見てればわかるから。
“自”っと 手を見つめて 「脚下」 を 照顧 する
> でも、心は清らかだったそうです。
清らか ではない者 が 清らかさを 判断する(商量する)
彼らの 量る 清らかさ は
何処に根拠を置いて 成立するのであろうか
仏陀 に 根拠を置くことができる 諸仏
根拠を知る者 を 仏陀 と 呼ぶが
「 唯仏与仏 乃能究尽 」 という 法句 を 軽んじていてはいけない
なんでも知ろうとする 知るということを知らない あなたに 問いかける
春間さんが「あなたに」っていうとなんかぎんたに言われてるような気がして
はい??ってなるんだけど、さっぱり。
で、Pocketさんと、先生が話していることも1mmもわからないんだけど、、、
今日は、フィギュアのペアが金メダル取ってて!!ぎんた長いことがっつり
ひとつの競技を観戦するということをしていないんだけど、
(なんだか落ち着かなくて観れない)
朝ニュースで流れてきて!!もう感激しかない!!
『銀のロマンティック…わはは』川原泉著で、日本のペアは層が薄くてみたいな
とこから、もうファンタジーな展開で(漫画だから)感動で涙したわけなんだけど
それが!!40年経って現実に!というか、軽々と超えてきたのですよ!!
すげーーーーこんなもの見れるなんて思わなんだ。。。
で、ここ来て15時位?から文章書く前に、家にある本読むか、と読んで泣き、
あ、もしかしてxで誰か言ってるかも?とx行ったら、とっくにトレンドに入って
定価360円の本が、9,600円になってるって誰か言ってて、Amazon行ったら
本当だった。は、早い、、、、、世の中の動き、、、、、、
でも、でもね!!ぎんただって、、猫って決めたときから、ずっとずっと
目指しているのですよ。『銀のロマンティック…わはは』のポチのように
やれないかなって、ポチ本当にいい仕事したから、よし!ねこだってって!!!
でも、40年競技に関わってきたすべての人が繋ぎ続けて、ここまで大輪の花が
咲いたの本当にすごい。技の進化もすごい。前の人がここまで出来て、それを
見た次の人がここまで出来て、、、を重ねていってそれぞれは一歩ずつかも
しれないけど、ここまでたどり着いたんだね~~~と感無量、、、
ぎんた様
>Pocketさんと、先生が話していることも1mmもわからないんだけど、、、
mani先生(石飛道子先生)の『ブッダと龍樹の論理学』か『ブッダ論理学五つの難問 (講談社選書メチエ 335)』を読んでみてください。
図書館で借りるだけじゃ訳わからないまま返却することになると思うので、今、丁度Amazonでいい感じの値段で中古が買えますよ!
>なんでも知ろうとする 知るということを知らない あなたに 問いかける
何でも知ろうとするのは、知るということを知らないからです。
そうしなければもっともっと知らなかったのです。
> そうしなければもっともっと知らなかったのです。
少し知っている と 少し(だけ)知らない
(だけ) か どうか は 知られないけれど 、、、、
最後 の 一段を上る までは 一段階上には いけないけれど
位置・イチ( 一 は) 変わって “その一” 以上にあがっていると
思い 間違う ( 思い というモノ は 必ず 「 顛倒 」 している )
そうではない という “ 思い ” が 心を支配する 、、、、
これは 思い ではない ( 牟尼が見出した 「 法 」 である )
もっと もっと と 無知の範囲で 思い 願う( 要求する )
もっと もっと 知るということ を 軽視(知)することを 求めている
求めても得られない
求めることなく ただ “ ひたすら ” に 歩みを進める
求める心から 自らを 解き放つことができるまで 、、、、、
あなたの立っている “ 位置・一 ” は 決して変わらないのだけれど
求めれば 一 が 荷 になる ( 重き ニ を背負う )
( 求めなくとも ) あなたの 足下 は
どのようなときにでも あなたの足の下 に 変わらず存在している
あなたは 完全な “ 一 ” の下にあると 牟尼は “ 円満 ” を 説く
(認識という)一本の線 の上 ではなく
“ 円・縁 ” を 用いる 日の本 の 上に エン が 回っているけれど
演ずる 自己は 一本の線で ぶら下がっている マリオネット である
日本の 人形 浄瑠璃 は 黒子 を 決して隠さない
チカクヲシルカラ トオクガワカル ( ごく近いところに起きる 知覚 )
その “ 近く ” を 頼って 遠くを知る ( トオ ノ 苦 を 見ない )
↓
苦しくはない と 苦しみに親しむ
このような苦 を このように記述する者の苦 として カタズケル(蹴り倒す)
しょせん わたくしごとであり ヒトゴト である
人 毎 に ヒトゴト が 起きている と 一言 で 片づける
わたし は “ あなた ” に ( これを読む わたし に )
語りかけているのです
読んで 知りつくす わたくしごと 、、、、
> 検証が必要とは思いませんでした。見てればわかるから。
目の見える人 (物事が見える人)
見えるということ を 問い質したい
も
判断の基準を持つから 見ればわかるのです
赤んぼ は 母親の目 を見て 他の人の目を 類推する
慈母 の 目 ( ただし 自分の子 に対して )
すべての人 を 慈愛から ( 見つめることができれば )
“ 見ればわかる ”
どんな人でも 見てわかる ( 見れば 認識する )
> 春間〇〇が「あなたに」っていうとなんかぎんたに言われてるような気がして
はい??ってなるんだけど、さっぱり
あなた とは あなた ぎんた(さん) で 間違いはありません
これを読む人 一人(ひとり) が あなたです
( わたし も・は これを読んでいます )
あなた とは わたし宛 であり あなた宛て ですが
自己を観る ということを いまだ知らぬ人 は
あ なた が わたし だとは
知ろうとはしない人です
じっと 手を見る 啄木 とは 自分自身なのですが
悲しみに打ちひしがれる 「 己 」 は 己の手を見て 己を知ろうとはしません
わかろうとしないうち は わかる ということは
わかろうとしないうち は わかる ということは
決して訪れることはありません
見出すもの ではなく 訪れてくるモノを 受け入れる のです
わかろうとするとき 訪れに気づく機縁が起きます
いつか かならず “ あなた ” に わかる
法華経 に そのように説かれ
常不軽 は そこに 手を合わせます
全ての人が神でほとけなんだから、「欲望」と「誓願」は区別されないんじゃないかな?
神様に「幸せにしてください」って祈ってなんもしないよりは、実際に動いて
自分の幸せをなんとか確保しようとしてくれる方が、神様大助かりじゃない?
でも、自分とか自国が幸せになるのと引き換えに、他人や他国を陥れると、
その人達も神でほとけだから、ちょっと問題で、その人達にものすごい劣等感とか
敗北感を与えると、「弾き飛ばし」にあうから注意が必要で。
もし、滅ぼされちゃったなんてことになると、次滅ぼした国の人を弾き飛ばして
その国の人になり、中身が滅ぼされた国の人って知らないで、生きて、条件的には
強いんだけど、「前世で実際に何があったか」を知らないといけなくて、
他国からの滅ぼされの可能性が薄い場合は、天災とか他のことで滅んでいくとか。
で、弾き飛ばしにあったほうは、もしこのシステムを採用している場合は、
あの国は、今の自分の国より地理的条件がいい国だから、あそこへ行きたいな~
と、あらかじめ狙いすましていれば、そこに行くでしょう、だって、弾き飛ばしの
威力はすごいから。他力本願てやつ?でも、そこでちょっと問題があって、
もし自分の国が最高にいい国で、これ以上のところは見当たらないってことに
なった時は、「昆虫」とか「動植物」になって、また人間になるまではちょっとした
旅なのです。次人間になるのは、歴史が一巡して、かつてこんな人いたね?って
ところで、ほぼほぼ同じ人物として、同じことするために生まれてきます。
科学的なの。
先日、YouTube見ようと思ってテレビをつけたら、BSで「ダークサイドミステリー」
やってて。途中からだったんだけど、古代メキシコ「いけにえ」の謎~死と生の
ふしぎな世界の再放送。急いで録画した。
いけにえにされちゃった人って、全然寿命じゃないのに殺されて、しかも生きたまま
心臓取り出されるとか、もうあまりに酷い仕打ちを受けるわけだから、当然
弾き飛ばしも最強なわけで。すると、このメシーカ人に「女神にしたいから」と
申し込まれて、隣国へやられてしまったコルワカンの王女はものすごい
弾き飛ばし力を発揮して「王女」以外になるよね?やっぱり、「男性で強い」が
安全そうだ、となる。でも、次に待ってるのは「強い戦士」をいけにえにする環境で、
やっぱり自分が選ばれちゃう。すると、やっぱ、貴族の「息子」じゃん?てなって、
飢饉が襲ってきて、かなりレアなケースだけど、貴族の子息がいけにえにされちゃう。
こうなってくると、流石に本人も気づいて「この国ではないどこかへ」ってまったく
イメージできない「遠い国」にやってきたわけなんだけど、そこで待ってるのは
「魔女狩り」で、結局火あぶりになっちゃう。猫も一緒に火あぶりになっちゃう。
そこで、彼女はハッ!!!となって。猫、毛皮着ている。かつて一番最初に自分が
いけにえだったのって、人間じゃない、人間になる前の、動物として毛皮を剝がれた
ときだったって。
「ねこさんは、それでいいの!!!!!!!!!?」
「いいもなにも!イエネコ族は、全猫の存在全部を人間にベットして
しまいましたから、全責任は自分たちにあります。害獣と言われようが、妖怪と
言われようが、魔女の手先と言われようが、神と言われようが、家族だろうが
人間がそう思う、と言えば、そんなものにしかなれないんですよ!!!!!!!!!」
「そうなのね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「こんな時は、悲しいとか悔しいとか理不尽だとか怖いとかの気持ちにフォーカス
しないで、ただただ熱tttttttttっつい!!!!!!ですよっ!!!」
「わかったわ!!!!!!!!ありがとうね!!!!!また会おうね!!!!!」
心頭滅却すれば火もまた涼しってのは、高度な修行してないとできませんので。
> 神様大助かりじゃない?
神様 は 助けを要しない ・ 大助かりもない
インディアン 嘘つかない 神様 大助かり
赤いほっぺを膨らませ 今日も寒いか 二月の雪
え?フツーに困ってると思うけど?
あ、で、コルワカンの王女は、皮を剥がれて、神官がそれを着ているんだけど、
父親である王が儀式に招待されてそれを見て驚愕って、、、、本当に彼女が「女神」に
なるって信じ込んでいるんだね、、、、、信じるコワイ。俺なるべくなんも信じない。
で、ここでその神官を見て、思い出したのが「のこたん」!のこたん脱皮して、
その、ほぼほぼのこたんの着ぐるみを、ばしゃめ(馬車芽めめ)が着るんだよ~~!
すべすべして快適~かなんか言って!部室で。ばしゃめはお米も作ってくれるの。
癒される~~~~。なんだか荒んだ心が救われていく~~~~~~
しかのこありがとう~~~~もう、ネトフリでは見れないの、、悲しい、、、
円盤てやつを買わないといけないのかな?再放送もしないかなーーー
で、続きですけど、どうやら「いけにえ」にされるのは、自分が前世のことを
覚えてなかったからなのと、来世、何をするか、しないか具体的に
決めなかったからじゃないかと思い至りました。
「誰にも殺されない人生を歩みたい!!!!!!!!」これだーーーーーー!!
しょんでもって、次にいったのは、スペインで、エルナン・コルテスになって
まあ、戦いには勝ちまくって、でも、部下もいっぱい死なせちゃって、最後は
赤痢で亡くなりましたとさ。とっぴんぱらりのぷう。
番組見て、思いつきました。小説書くみたいな作業ではなくて、こんな可能性も捨て
きれないよね?と考えました。愉快な感じにはならない性分。。。
物事は、縁起や因果で、一般的に「原因→結果」だと理解されている。
だが、量子論では相依性も認めている。
参考記事:『「ニワトリとタマゴ、どちらが先か」問題で量子論がついに最終解答! 「原因→結果」を超えた“非限定的因果順序”とは!?』
https://tocana.jp/2018/12/post_18151_entry.html
> “非限定的因果順序”
だからどうなの ?
飯食って くそ ひな が 一日
tanzaさま おはよう!
>だが、量子論では相依性も認めている。
なるほど。「量子論では」とつけないと成り立たないんだね。
「量子論では」みたいのを、仏教の立場では「界」というんだよ。
量子論で相依性を認めるのはなぜかわかりますか。その時には時間を入れないからだね。
現代の量子論では、龍樹の相依性(縁起)を認めている。
tanzaさま
>現代の量子論では、龍樹の相依性(縁起)を認めている。
これが理解できない!「相依性(縁起)」という言葉です。
縁起は、縁った’後’起こる、という関係です。しっかり、時間が入るのです。
さらに「識に縁って名色があり、名色に縁って識がある」と互いに支え合って立っている葦束を喩えにしている、このような関係もあるのですが、このことをさして言っているのですか。
現代の量子論を持ち上げすぎているんじゃないか、という疑いを消すことができません。
>これが理解できない!「相依性(縁起)」という言葉です。
ネットでの検索に時間を要したが、下記はどうか。
『縁起と相依性』
https://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud117.html
tanzaさま 佐倉さんを引用されたのですね。
で、ブッダは?
ナーガールジュナの理解の方に目が向けられていますが、仏教ってのはブッダの教えってことですよね。
ナーガールジュナは、ブッダの解説者としての役割を担っています。彼は菩薩地初地・歓喜地の菩薩に過ぎません。
ブッダの教えから、全部出てくると思っています。
ナーガールジュナは、縁起と空のうち、空に特化して語ったけど、順序からいけば、縁起が最初に来るのです。
ブッダの意図としてはね。完成しているのは、ブッダなんだよ!!!
どれだけブッダの法をもたすかが、人類生存の鍵を握っていると思っています!
>同じように、原因と結果も相互依存の関係にあります。
> 結果があれば、その結果には原因がある。しかし、それ(結果)がないときは、原因なるものはない。
> (空七十論 6)
> 定義されるものから定義するものが成立し、定義するものから定義されるものが成立するのであって、それ自体成立しているのではない。またどちらかの一方から他方が成立するのでもない。(また)成立していない存在が、成立していないものを成立させることはない。 これと同じように、原因と結果・・・なども説明することができる。
> (空七十論 27、28)
まあ、これは巧妙な合成による牽強付会ですね。
龍樹菩薩が空で言いたいのは、相互依存の縁起ではなく、いかなるときでも何も成立しない、不生なので。
27偈と28偈の間には龍樹菩薩の自注があって、相互依存であれなんであれ成立しない、と説かれているのですが、それを見事に省略して自説に引きつける材料にしてるだけですね。
「互いが互いによって成立するのではないので、「相依関係」でも成立しない。( gcig las gcig kyang ma grub ste/ /phan tshun du yang ma grub bo/)」
phan tshun du yang ma grub boでは自説に具合が悪いので、佐倉さんは省いたのでしょう。
以下、私訳。mtshan gzhiとかは瓜生津訳に従いましたが、相(lakṣaṇa)で良いと思います。
ji skad du bshad pa yin zhe na/
mtshan gzhi las mtshan grub mtshan las/ /
mtshan gzhi grub ste rang ma grub/ /
gcig las gcig kyang ma grub ste/ /
ma grub ma grub sgrub byed min/ / (27)
mtshan nyid kyang mtshan gzhi las grub la/ mtshan gzhi yang mtshan nyid las grub pa las rang gi grub pa ma yin no/ /
gcig las gcig kyang ma grub ste/ /phan tshun du yang ma grub bo/ /zhes bshad pa yin no/ /
gang gi phyir rim pa ‘dis mtshan gzhi dang mtshan nyid gnyis grub pa med pa de’i phyir mtshan gzhi dang mtshan nyid ma grub ste/ dngos po ‘di dag grub par byed pa ma yin no/ /
‘dis ni rgyu dang ‘bras bu dang / /
tshor bcas tshor ba po sogs dang/ /
lta po blta bya sogs ci’ang rung / /
de kun ma lus bshad pa yin/ / (28)
このように説くのなら、
定義されるものから定義するものが成立し、
定義するものから定義されるものが成立するのであって、自(みず)から成立するのではない。
相互関係的に(gcig las gcig kyang)成立するのではなく、
成立していない(もの)が成立していない(もの)を成立せしめるのでもない。(27)
定義するものも定義されるものから成立することについて、定義されるものも定義するものから成立する故に、自から成立するのではない。
互いが互いによって成立するのではないので、「相依関係」(phan tshun, interrelation)でも成立しない、と述べる。
定義されるものと定義するものの二つが成立しないという、この故に、定義されるものと定義するものは成立しないし、これらの(成立していない)存在は(何物をも)成立せしめることがないのである。
このように原因と結果と、感受と感受するもの、乃至、見る者と見られるもの等のいずれのものであっても、このすべては残すことなく説明されているのである。(28)
Pocketさま こんばんは。
>龍樹菩薩が空で言いたいのは、相互依存の縁起ではなく、いかなるときでも何も成立しない、不生なので。
あ、そっちを取りましたか。私は、龍樹は「縁起」より「空」を中心に説明しようとしているからだなあと思っていました。
戯論寂滅へと向かう点が強調されますね。涅槃寂静というか、それをあげたのですね。
ここは修行ですね。「不生」と言われてすぐにその見方ができるものではありませんので。
訂正です
☓相互関係的に(gcig las gcig kyang)
◯互いが互いに(gcig las gcig kyang)
mani先生、こんばんわ
>「不生」と言われてすぐにその見方ができるものではありませんので。
なるほど、私は龍樹菩薩は三時でも何でも不成立を説くなあと思ってみていました。すごく安易に。
不勉強ながら、縁起論争というものの詳細も初めて知りました。
今度の龍樹本でもその辺に触れて頂けると宮崎哲朗氏のポイント高いと思います(あとワタシ的にも有り難い)
次作、楽しみにしております
Pocketさま こんばんは。
>なるほど、私は龍樹菩薩は三時でも何でも不成立を説くなあと思ってみていました。すごく安易に。
ああ、これね。asiddhaですよね。「証明されない」ってことですよね。したくてできないのか、構造的にできないのか、問題ですが。ブッダから来てますね。
>不勉強ながら、縁起論争というものの詳細も初めて知りました。
私も知りません。そんなのがあったのか!私も知らないので簡単に!教えてもらえるとうれしいです。
ほとんど世間的なことは知らないので、「はじめに」でその辺を書いてます。
いやあ、難しいね。『中論頌』
私は、Pocketさま以外に『中論頌』4.8と4.9をあげている人を知りません。
『スッタニパータ』第3章「大品」12経「二種の随観経」で、声聞たちにブッダが大乗への道を与えていますね。
4.8と4.9は、ここと関連してくるんだなあ、って思ったりもします。
「空」は発見するものなんだとわかったのも、新しいし、ブッダは「人」出身で、「神」以上です、私には。
宮崎哲弥氏でした、すみません!
それが どうかしたのですか?
> 龍樹菩薩が空で言いたいのは、相互依存の縁起ではなく
言いたいことは ない ( 「 空 」 とは 言いたいこと にはない )
「 法 」 とは 言わなくともある という こと
「 縁起 」 とは 「 法 」 である故に 依存関係を離れている
> いかなるときでも何も成立しない
この 「コト」 が どのようなときに 成立している(言)か
「ソコ」 を 解き明かす のが
「 空 」 に 起きる “ 幻 ” なのです
( まぼろし は 追うことはできるが 掴むことはできない )
何も成立しない ということ を
“ 成立している 言語 では 表せない ”
ただ そこに起きている 「 精進」 が
( 問う者に ) 問われるだけである
「 精進 」 が “今” ココニ( 此処にいおいての個々に )
問われているにではあるが ないもの を 問い得ない
成立しない ということが 成立する
( いかなる 場合・“時” に 成立するのであろうか )
時と場合 とは 同じとき に 成立する 同一の事
合い 間・真みえる 重なり合う 「真」
「 時 」 など どこにも存在してはいない
「 その時 」 どの時 に それを問うのか
このようなこと が 「 中論頌 」 で 展開されている
“ どのようなこと ” が 展開されているか を
“ いかなるとき ” に “トキ” 空かす(明かす) のか
開いた口 を 閉じるときは 来るのだろうか ?
開いてはいない “口” で “目にものを言わせている” けれど
見えるモノ は 習熟した 錯誤 でしかない
滴滴(着々) と 受け継いだ 錯誤 は 何処に発しているのか
受け継ぐ者 が 受け継がせている者 ではあるけれど
“その 両名” は “同名” であり 強固な “同盟” を 結ぶ
( “ あなた ” と “ わたし ” との “二名” である )
“ あなた ” は 自らのこと を “ わたし ” と呼ぶ
( 言葉の綾 だと 誤・アヤ を 重ね合わす )
もう一度 「 経 」 を 読み直しなさい
“ 牟尼 ” が そこにおいて “ わたし ” というとき
それは “ あなた ” であり “ わたし ” なのです
( “ わたし ” とは あなたには見えない 無二・“二名” です )
> 成立しない 不生
を あなたは どのように 成立させることができる のか
それを “ことばあそび” で すましている
“ あなた ” におきる “ こなた ” の 迷誤
( “ あなた ” に起きている すまし顔 が 見える )
あなたに問う 「 不生 」 とは
いかなる 「 生 」 に 起きているのか という 問い
コレガワカラナイ のは “ アナタノ セイ ” ですよ
いくら “整理整頓” させても
「頓」 は トンデモナイトコロ ニ オキル
とんで とんで まわって まわって も 自らから離れ得ない
「 真理 」 は 言葉に起きる のではなく
「 精進 」 という 「 常の行 ・ 常行 」 に 起きている
「 精進 」 を 「 行 」 に していますか ?
比叡山 に 行き 「 常行堂 」 を 親鸞と共に
(法華)「経」 を 苦知にしながら 回ってみなさい
まわる ということを ハルマ が 悪 と 読む 、、、、
よんで知る ( あなたの “算” が 量り知る )
“ あなた ” の 「生」 に おきている “勢”
セイノビ してみる “柱の傷” ( 音と “し” の 傷 )
背伸び が なければ 目の上の」“単 虚 無” に 過ぎず
どれだけ成長しているかを 問うているのです
・
春間さま、こんばんわ
>言いたいことは ない ( 「 空 」 とは 言いたいこと にはない )
いや、私はあると思ってますよ。龍樹菩薩はどうしても十二縁起ではなく、空を説く菩提心があると(『因縁心論』、『根本中頌』で十二支も一応説いてますけど、これを否定する立場しかないのは、ね)
>まぼろし は 追うことはできるが 掴むことはできない
幻と見て、追わず、掴まない、無常性の風吹いて滅するだろうと心を決めておくのが菩薩かなと。
>何も成立しない ということ を
>“ 成立している 言語 では 表せない ”
不成立ということを、成立していない言葉で、説く。届く者には届くでしょう。
vigrahe yaḥ parīhāraṃ kṛte ‘śūnyatayā vadet /
sarvaṃ tasyāparihṛtaṃ samaṃ sādhyena jāyate // MMK_4.8 //
(空なることがらでもって)論争する場合に、空ならざることでもって、反駁をなすとも、
そのすべては反駁とならない。ただ(反駁する側に)証明すべき事柄と等しいものが生じるのみ。
vyākhyāne ya upālambhaṃ kṛte ‘śūnyatayā vadet /
sarvaṃ tasyānupālabdhaṃ samaṃ sādhyena jāyate // MMK_4.9 //
(空なることがらでもって)説明する場合に、空ならざることでもって、(その説明を)非難するとも、
そのすべては非難とならない。ただ(非難する側に)証明すべき事柄と等しいものが生じるのみ。
> **************
>> 何も成立しない ということ を
>> 成立している 言語 では 表せない ”
> 不成立ということを、成立していない言葉で、説く。届く者には届くでしょう。
「 成立していない言葉 」 という句(ク) が 成立しているかどうか
そこには 「 空 ・クウ 」 が 成立している
成立する「 空 」とは 言語・言葉 ではなく「 行 」 です
「 空 」を 言語化しても 「 法 」 を知る者のみが 分かること
> (空なることがらでもって)論争する場合に、空ならざることでもって、反駁をなすとも、そのすべては反駁とならない。ただ(反駁する側に)証明すべき事柄と等しいものが生じるのみ
これは 言葉でしかない
( ただし、 あなたが 「 空 」 を 得ているのであらば
「 空 」の 領域において “のみ” 言葉が存在している )
あなたは 「 空 」 を 智慧として いますか(得ていますか)
。 **************
龍樹 が 何を言っているか を 知るのは 龍樹 です
龍樹 とは 仏陀 であり 菩薩 でもあり 詭弁者でもある
何を言っているか が 分かりますか ?
起敬偈 で 龍樹 は 自らの仏(性)に
五体投地(帰命)しているのです( 帰命無量寿如来 )
そこにおいて 無量 である「 永遠 」を 説いている
( 「永遠」 に 生きている 自らを 見せているのです )
あなたは 見ていますか ?
( 目覚めたときには 目覚めている と 分かるのです )
あなたは 目覚めていますか ?
「 法 」 を 得たものを 仏陀 と 呼ぶ
( 「 唯仏与仏 乃能究尽 」 )
・
このように記述すると
あなたは 問い返したくなるのではないですか ?
「 あなたは 目覚めていますか ? 」 と
“ わたし ” は 答えません
答えたところで あなたには
それを 正しく知る 智慧 が 備わらないから
「 無量の人法等の義有り 」 と 空海は言葉する
義 とは 無量の人法等 なのです
( 「 無量 」 を 文字で 量ることはできますか ? )
あなたは 「 平等 」 に発する 「 無量 」 を 知っていますか
あなたが “知恵” とすること で
わたしの言葉 を 理解するだけです
( 知恵 には 言葉が存在する けれど
知恵 で 智慧 を 得ることは可能ですか )
あなたが理解する その「 世間 」に
“ わたし ” と “ あなた ” が 生きている
もしも 彼方 に 智慧があることを しる のであれば
「 仏法非遥 心中即近 」 であることを知る
かなた か あなた か こなた か という
距離 は 無量の人法等 に 起きることはない
・
< 出典? https://www.mmba.jp/nagarjuna/madhyamakakarika >
> **********
汝は空であること、空の必然性、その意味を理解していない。
それが故にあなたはこのように侵害しているのである。
諸仏たちの説法は、二つの真実に基づいている。
世間世俗の真実と、勝義の真実との二つである。
誰であれこの二諦の区別を知らない者たち、
彼らは仏の教えの甚深の実義を理解しない。
> **********
“二諦 の 区別” は 一つの諦 を 知ることから始まり
一つの諦 を 知るためには もう一つの
たった一つの諦 を 知らなければならない
世俗の真実 は 「出世間」 によって 知られるのみである
ここにおいて 問題となる のは
“あなたが 真実と思う” そのもの・思い が
“あなたの真実である”
真実だと思う その思い で あなたの数多の真実を量る
これは 正しいことである と思う “正しさ”
その正しさ は あなたによって 保証されている
あなたは 真実の保証人 であることを 自負することとなる
“ことば” を 何処から借用しようと
借りたもの は 仮のもの (真実と言う 仮面の口元)
八偈品 であろうと 借りたもの は 返さなくてはならないモノ
返した後に 本物 が 残っているのなら
返したもの とは 自分のもの(自分という言葉)
帰った処 で 自分は 働きをなす(借りられていく)
言葉を得る のではなく 自分を取り戻す
( 自分 から 自分 で 自分を得る・諦を取り戻す )
↓
ここに 働いている 出世間 の 諦
自分のもの ではないもので 自分を取り返せますか ?
自分を知るには 自分を知っている必要がある
( 文字 を 知るということは
文字には 意味が付帯している と 知ることから始まる )
文字 とは 単なる綾 ではないのです
付帯した意味を知ることに より ( 拠ってのみ )
意味が付帯している と 検知する (これが唯仏与仏乃能究尽)
拠るところに起きている “拠るところにある 言語”
( それら言語 は 「 世間 」 には 起きてはいない )
泥棒の中で 泥棒の是非 を 量っていても
泥棒であるという事実 は 決して動かせない
「 出世間 」 に於いて の 意味は ここ(?)に起きている
泥棒 の 仲間内 で 問いかける意味はあるのであろうか
中にいる人 に 外の自由 を 指し示す
左にあれば「 中道 」と は 右に位置する
( 「 中道 」に あるときのみ 右左 の 意味が起きる )
右 とは 左に ある・起きる 「 中道 」 なのです
( 左 とは 顛倒でもあるし 真理でもある )
“自分には 理解が備わっている” という “幻想”から離れなさい
理解できなければ 理解は必ずやってきて
自ら 右手に乗せることが叶う との 信仰を持ちなさい
「 嫡流 」 である 「 釈家 」は “借家住まい” ではない
真実を 覆い カブス 歌舞 楽興 苦 でもなく「 翳障 」でもない
釈空海 と 「 風信帖 」 に 記す 意味を知りなさい
・
「風信帖」に何が書いてあるのか簡単におせーて!ってGemini3くんに
きいたょ。なんか経典だけじゃだめだって書いてあって、最澄と直に会って
話そうみたいに書いてあったと!
エッヘン! 秒で出てくるにゃ~
空海は「自分が仏陀本人だ」って言っちゃってるの??
言いたかないけど、エリートくんが陥りやすいとこに
ばっくり嵌っちゃってんねーw
そりゃー、仏教関係者から疎まれるに決まってるよねー かぁ~わいちょ!!
ぎんた様が述べている「空海は「自分が仏陀本人だ」って言っちゃってる」という事柄は何の根拠もないハルシネーションであり、弘法大師が言っているのは即身成仏であることを此処に記しておきます。皆様に不幸な誤解がありませんように。
あ、そうなんですね!!ごめーーんなさい。自分の思っていることを
言っていかないと、間違いに気づけませんよ、と昔ご霊言で
いただきましたぬんww
>どれだけブッダの法をもたすかが、人類生存の鍵を握っていると思っています!
本を書くなら、龍樹より先に、ブッダについてを希望する。
tanzaさま こんばんは。
>本を書くなら、龍樹より先に、ブッダについてを希望する。
龍樹について書くことになってるのでね。
ブッダは当時も今も人類の宝ですよね。
当時、ブッダをわかる人がたくさんいたことが、インドのすごさを物語っていると思う。
私はね、これぞ、ヨーガの伝統の力だと思ってました。
つまり、ブッダが覚りを開いたことを!
でも、違うよね。。やっぱり、努力と精進、それに智慧のひらめき。
お釈迦さんは、人類史上最強だったんだね。
今も昔も。
> やっぱり、努力と精進
努力 と 「 精進 」 とは 対立概念ですが
一緒にする “ 努力 ” に 陥りやすい
そこに 一旦 陥ってしまうと 這い上がろうとする 努力にまみれる
「 精進 」 とは 「 楽 」 であり 、 喜びの源 なのです
“ 努力 ” は 現状否定に始まり その否定の行程に起き続ける
「 精進 」 は 喜び に 始まり 「楽」 という 「 行 」 に 起きている
「 楽 」 して モウケル( 設ける ) 「 道 」 を 探しなさい
損 得 ではありませんよ ! ( 尊徳 なのです )
mani先生
>私はね、これぞ、ヨーガの伝統の力だと思ってました。
先生はニヤーヤはヨーガをしていたと思いますか?私はしてたと思うんですが……
何にせよインドは一筋縄では行かないですね。ピタゴラスみたいな不思議な神通力を感じます
>でも、違うよね。。やっぱり、努力と精進、それに智慧のひらめき。
>お釈迦さんは、人類史上最強だったんだね。
お釈迦様のちからとヨーガのパワーの二人力ですからね……龍樹菩薩はつおい!
弥勒仏の次は龍樹仏かななんて(笑)次のカルパではブッダとして邂逅するかも……
Pocketさま、こんにちは。
>先生はニヤーヤはヨーガをしていたと思いますか?私はしてたと思うんですが……
ニヤーヤ学派にとっても、ヨーガは必須だと思います。ディヤーナ(禅定)を行うとミスすることがないんですよね。頭だけを使って考えたものはミスが出るんだけど、ヨーガを行っているとミスしませんね。
日本に来る外国人観光客のインタビューが、YouTubeで見られる。
その日本についての感想で、「日本は仏教国」は建築物に着目。
でも、日本の伝統・文化・人間性については的確だ。
参考動画:「日本は全てが別次元」外国人観光客にインタビュー
https://www.youtube.com/watch?v=sfqx9zLRiU8
tanzaさま おはよう!
>でも、日本の伝統・文化・人間性については的確だ。
「でも、」ってのは、なんで?
伝統・文化・人間性は、この人(youtuber?)の見方が入ってる、と思うけど。。
わたしはね、「この見方」の中に、実は仏教があると思うんだ。。
メソポタミア文明とインダス文明は行き来していたことがわかってる。
アブラハムの宗教は、仏教とは相容れないけど、北伝の仏教は流れ流れて日本に着いた。そこでは、聖徳太子が待っていた。
日本は神道と習合しながら、ブッダのエッセンスをエッセンスとして保持していると思ってるのです。もはや、どれが仏教だったかなんて誰も気づけなくなっているのだけど。。
「和をもって貴しとなす」文化。。だね。
> 「和をもって貴しとなす」文化
「 輪 」 に 入れば “ まるく ” (に) おさ丸
おさまって( いりて ) 丸い輪の中に ある
まる の 中の 三角 は 角ばった 内容だが 、、、、
中 で 真和 せ・すれ ば かく頂点 は 円弧を 描く
切り取れば どこを見ても 角を 見得る
( 平面 に 奥行きを与えると 面と奥 との 境目に 角が起きる )
奥行き に 平面 から 対面する
視点 を変えよう
平面上の 直線 とは 位置の連続状態を表している
“ 点 ” の 連続である( 思考の前提で 連続には 途切れはない )
実際に 平面上に描いて 観測 して みれば
線をのぞき込んで似れば ( 走査電子顕微鏡で見れば )
断裂した 描く塗料 の 原子・分子 状態の断続である
見る ということは 自分の持つ “ある種の手段” で
対象との反応 を 認識すること
( 「 空 」 は 手段ではないが
クウシュ カン ゴウ ( 元経 とも読む)
→ 「 空手 還(観・感) 郷 」 『永平広録』 )
( 元々(還元) の 「業」を 見つめる 「 空 」を 手にモドス )
“元” を 起こしている
「経」・「業」を カンじる(観を起こす) ( 還郷 )
分からない のは 考えようとしないからです
すでに 薫習 されている 思考の 縄・術 を用いて
自らを縛り付け 開放する術 を 見失っている
そういう 業・ワザ で 自分の中を のぞき込む
「 和 」 と どのように 繋がっているかを 見ようとはしない
分かろうとしないから 分かる道を歩まない
「 道 」 を 歩んでいるのではなく 未知を選んでいる
既知 という 縄 ( 「 薫習 」で ) 自縛自縄
どこで どのように 学んで “正しさを確証している” のであろうか
見つけ出そうと 「 ワ ! 」って 驚くことではない
見出せば 「 和 」 なる 「 平穏 」が そこに起きている
「 和 」 を 話題にして ( マニカナ仲間 の )
“ 輪 ” から 離れて “ 和を乱す ”
話 術 を 駆使してはいるけれど
実 は ( 術 は )
効力 を 発起(初菩提) してはいない ようである
・