虹の彼方へ

未分類

赤い実さまのことば「自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理が大切かなと思ったのです。昨日の自分のコメントへの補足です。自分がこれまでそうしたことがあったから、このように思いました。」

わたしも、考えてみました。これ(=赤い実さまのこのことば)って大事なんじゃないだろうか。ブッダも、こういう風にしたんじゃないだろうか、って。

覚りを開いたといわれるブッダ。この世に戻って、みんなに教えを説くときは「如来(タターガタ)」といわれてます。だから、「ブッダのことば」は、ぜんぶ「如来のことば」ということになりますね。

ブッダもまた、自分のことを如来と称してます。つまり、この世に戻ってきた「このような状態にある者」ということですよね。

つまりは、「この世に戻ってきた」というところに意味を見いだす人々(凡夫たち)もいるかもしれないと思うのです。そういう人たちのために、「如来」と言ったとすれば、そういう人たち向けに特別に語ってもいるでしょう。

そこを理解するとき、なぜ「何かしら善いものを求めて出家した」とスバッダに語ったのか、わかるんじゃないでしょうか。(『ブッダ最後の旅』岩波文庫、p.161)

この世にいる限り、この娑婆世界にいる限り、善悪を知って暮らさなければならない、という意味が出てくるなあと思うのです。

赤い実さまが述べた「自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理」を、ブッダもまた実践しながら語ったので、倫理的に語ることになったのだなあと思うのです。

ということは、如来であるブッダは、教えとして語る限りは、「自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理」として、倫理的に語るということが出てくるなあと思うのです。

こういう風に理解すれば、赤い実さまの考えにも納得できるなあと思って、すごく「なっとくなっとく」と思いました。

「如来」のことばの意味もわかったし、ブッダのことばの意味も、当然わかるし、「諸行無常の世の中を生きる」ということも当然のように出てくるし、大乗の『涅槃経』の意味も明らかになったなあと思って満足した次第です。

わたしたちは、この世にあるかぎり、(諸行)無常の世を生きている、ということを覚悟(仏教要語)しなければならないのです。

そこを見つめることが、仏教を生きる、ということなんだなあと覚ったのです。

かしこくなったかんじがするかって?

なんもしません。。でも、ぶっきょ、じゃね!

コメント

  1.  春間 則廣  より:

    > 赤い実さまのことば「自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理が大切かなと思ったのです。昨日の自分のコメントへの補足です。自分がこれまでそうしたことがあったから、このように思いました。」

       言葉 というモノ は 便利なものである

     使い方を誤っていると知るまでは 便利に思える

       諸刃の刃 ではあるが

        傷つくのは いつも 自分が構築している世界

     同じ思いを持つと 同じようなことが 思いに浮かぶ

      
      わたし には  違うことが 浮かび上がってくる

      わたしは違っている という 思い

    • 春間さま

      >わたし には  違うことが 浮かび上がってくる

      そういうこともあるでしょう。
      tanzaさまご紹介のリンクのところを読みました。下にあります。
      https://note.com/timetraveljpn/n/n01ee9aca7265

      現象的に説明すると神道と仏教の二つが日本にはあるように見えるでしょう。

      だから、そのように説明されていると思います。でも、イスラム教もキリスト教もヒンドゥー教も、他のどんな宗教も拒否しないのが仏教的あり方なのだと思っています。

      アショーカ王は仏教を大事にしたけど、他の宗教も大事にしました。そこを受け取ったのが日本だと思っています。聖徳太子によってね。
      蘇我と物部の争いを決着させた聖徳太子。

      あらゆる宗教を受け入れることになりました。
      宗教による見解の苦しみがない日本。

      「争うな」は、重要で高度な教えだと思います。
      ヒンドゥー教は「争うな」を受け入れました。争わない二大神、シヴァとヴィシュヌがいる世界。仏教も受け入れています、ヴィシュヌの9番目のアヴァターラとして。

      >わたし には  違うことが 浮かび上がってくる

      そういうこともあるでしょう。
      そこを見つめて「争わない」を実行できる人をブッダと呼びます。。

      と、そのように、わたしは思っています。

      •  春間 則廣  より:

        > >わたし には  違うことが 浮かび上がってくる

        >  そういうこともあるでしょう。

          「 そういうことはないでしょう。 」 と 聞こえます( 理解します )

          ここが   ( あなたが ? ・ わたしが ? )
                   理解出来てはいないところです

                “ ここ ” って  どこでしょうかね  ???

              ( 「 唯識 」 とは 此処に於いての 「 行 」 )

          あまたは ここ    に  「 住処 」 を置きながら
               “ ここ ”  を   知ろうとはしない
                かのごとく    聞こえる( わたしに起きる理解 )
             ( 聞こえているのは  自分という “存在” の 声 )

          “あなた” と “わたし”  とが 往ったり来たり “交錯”する
            (  耕作するのは  パーラドヴァージャ か 牟尼 か  )

        決して  こうさくしない   それ? は  あなたまかせ 、、、、
           ( コウサク とは   このように 行われているけれど
                        合点 という   点 は
                  「 符 」 の 上 での 起こり事  となる  )

          わたしは 決して  争いを起こさない
              争い  とは アナタ の  「 心 」 に 起きるのみ
            ( 彼方 に 起きているのか  此方 に 起きるのか ? )

            読み過ごす と 理解は通り過ぎていく  、、、、
          ( よく読みなさい とは   主張  してはいない
             読まない人  には  読めない ということが 起きない )

              ヨメナイヒトニヨムトイウコトガオキルケレド

                   ヨマナイ ? ( 世迷い ? )

          “  此方  “ とは
           ドナタ の 此方( 「 心 」 ) に 起きているのか

         (  おいおい   此方 を あなた が 独占している )

         “ 争そい ” とは 此方に起きて  あたかも 彼方にあるがごとし

        > と、そのように、わたしは思っています。

           思っていること と   現実   とは
                      ( 此方に於いて ) 符合しようと

           それは あくまでも  「 符 」 の 上での 起こり事

          「 無明 に 起きる 」 という 「 符 」 を  カミ シメル

          わたしは 我無 を カム( 神む ) が ごとく 、、、、

               ハギシリヲオコスガゴトシ

         

        •  春間 則廣  より:

          > あまたは ここ    に  「 住処 」 を置きながら

            あなた の 打ち間違いではありません

           「 衆 」 という  “ あまたの考え ” を 言っています

           ( 頭の考え  の 打ち間違いではありません ) 

            “あなた”( 此方 という わたし ) に おきる

             数多 の 心 ( あまたというひとつ )

                    ( あたま は 一つで
                       並列して  考えを起こす )

             ひとりで ( 一人の手 ) に  起きる

                   にぎりしめる   ひとのこころ

  2. tanza より:

    紅葉の季節、奈良・京都は外国人観光客で大賑わい、彼らは寺院・神社・庭園などに驚嘆し、日本人の公共心にも感銘を受けている。
    だが、日本の宗教については、よく分からないと言っている。
    それで、下記リンクの記事にあるように、通訳案内士が彼らに説明をしている例があるようだ。

    『外国人に伝える日本の宗教あれこれ』
    https://note.com/timetraveljpn/n/n01ee9aca7265

    •  春間 則廣  より:

      神道 とは 一人の心(中)に起きる こと(「 道 」を 歩む )

       「 仏教 」 は 「 衆 」( 人々 )の中 に 起きる

       ( 「 道 」 を 説く ) 

        説くという道 を 歩む  「 仏教 」 

       歩み方 を 知る  心頭( めっきゃくにより 神へと 通図 )

        あなたにわからぬこと を  誰に分からせる ?

              ・・・・・・・・・

       分かっていること( 分からぬこと ) しか 伝わらない

      •  春間 則廣  より:

        > 自分の正しさに固執する心から見て構築して言動することももちろん苦しくなるし、その逆に、何でも間違えてると固執するのも苦しくなりますね。

          おいおい おいおい    書き付ける

          易々 ( 楽々 ) と  記述している 様(ヨウ)に 

         
              見えますよ (  読めます か 、、、、  )

          もっとも
              自分の苦しみは 苦しみ上手 の 手の上で踊る

          (  踊り方 を 云々するのは 無粋である  )

          たほうで   ( いっぽう ・  逸法 )

           ひとの苦しみ  とは  快楽に似ている

               ひと  まちがい  に(で)  ある

  3. 赤い実 より:

    先生、こんにちは。

    自分の文章が取り上げられて、驚きと嬉しさと恥ずかしさです。
    人の心は複雑ですね。

    自分の正しさに固執する心から見て構築して言動することももちろん苦しくなるし、その逆に、何でも間違えてると固執するのも苦しくなりますね。

    自分の見ている世界は自分が構築している世界であり、そのどこにも実体としてのものは無いのだと仏教は言っているのだろうと、少しあちこちに確認した上で自分としても納得しました。

    これについても、もし私の認識の間違いがあったら指摘をお願いします。
    以前からなんとなく知ってたこととネットで調べたものを合わせて今のを書いたので、先生のご意見を伺いたくコメントさせていただきました。

    • 赤い実さま こんばんは。

      >以前からなんとなく知ってたこととネットで調べたものを合わせて今のを書いたので、先生のご意見を伺いたくコメントさせていただきました。

      「なんとなく知っていたこと」「ネットで調べたものを合わせて」と書いてくれましたが、これはわたしにはかなりインパクトがありました。
      覚りを開いたブッダがこの世に戻って教えを説くとすれば、最初にどんなことを言うんだろう、って思ったからです。

      この点、実在論ですと、いつも同じ事を言っていればよいので、そんなに難しくありません。ところが、ブッダは「諸行無常」をまず歌ったのです.そして、この娑婆世界では「諸行無常」
      の教えにそってブッダ自ら諸行無常を守るのです。

      って、こんな風に解釈することもできるなあ、と気づいて、改めて驚愕しなおしました。
      「絶えず変化する教えもまた変化する」と思って、あらためて感心しました。

      どんなことでも、ブッダは他を思いやって生きてるんだなあとしみじみしています。実践することが大事だなあと改めて思います。赤い実さま、実践的にとらえてとらえていきましょう。

      • 赤い実 より:

        先生、返信ありがとうございます。

        人間の認識の形式を紀元前に見抜いていたブッダはすごいですね。
        そしてその形式を取るしかないところに心の苦しみは発生することを見抜いていたことも。

        実践ということで、こうした話と関連するのは、
        人には人の思い、見方、世界観があることを理解して、なおかつできるだけ平静な心、言動で過ごす、というのが浮かびますし、それはしたいです。

        • yone より:

          mani先生、赤い実さま、こんにちは。

          『自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理が大切』という考え方、とても興味深く読みました。
          ただ、実践として「人には人の思い、見方、世界観があることを理解して、なおかつできるだけ平静な心、言動で過ごす」となると、その大切とされた『倫理』は、私には『自心の平静、あるいは自己のプライドを守るための配慮(装置)』のように見えてくるのです。つまり、人と会話しても真の交流が生まれていない感覚を覚えるのです。

          私の理解では、人との会話は自己保全や自己主張のためではなく、その会話という”縁起”によって現れてくる(あるいは自己から消える)何かしらの『理』を学び、自身を善き方向へと変化させるためにあると考えています。その点で、少し疑問に思いました。釈迦牟尼仏もそのように交流されたからこそ、多くの人々が耳を傾けたのではないかと思っています。
          もちろん、私の理解不足かも知れません。もし差し支えなければ、この点についてお考えを伺えれば嬉しいです。

          • yone より:

            ちょっとわかりずらかったかも知れないと思って補足いますね。

            「自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理が大切」、この言葉は人のことばを柔軟に受け止め、自己の見解に固執しないという「外に開かれている」態度が大切だということだと思うのですが、この「人には人の思い、見方、世界観があることを理解して、なおかつできるだけ平静な心、言動で過ごす」は、それとは逆に自己を守り「内に閉じている」態度に感じたのです。

          • 赤い実 より:

            yoneさん、はじめまして。
            深く読んでくださってる方がいるのだなと、少し驚きと嬉しい気持ちです。

            〉〉人には人の思い、見方、世界観があることを理解して、なおかつできるだけ平静な心、言動で過ごす、というのが浮かびますし、それはしたいです。

            私の文章です。
            補足的に書いてみますね。

            他人に不必要な干渉をしないとか、揉め事に参入しないというようなことを意識して書きました。

            それと、上に書いたこととはまた少し違う意味で、
            できるだけ先入観を持たずに人に接する、というのも込めました。

            人との会話を拒否して平静を保つという意味ではないです。
            (ただもちろん、それも時と場合にはよります。)

            できるだけわかりやすく説明できたらと思い書いたので、冷たい感じの文章になってるかもしれません。
            その時はごめんなさい(_ _;)

          • yone より:

            赤い実さま、はじめまして。ご丁寧なご返答ありがとうございます。
            ずっと心の中で迷っていたことでしたので、思い切ってお尋ねしてよかったです。

            ということは、最初の一文は、他者のもめごとを見ていて「自分が『正しい!』と固執しているからもめるのだな……。自分が正しさに固執しなければ、もめることは少なくなるのに。。」という気づきから出た言葉、ということでよろしいでしょうか。

            そして二つ目の文は、「人と関わるときにはできるだけ平静であり、先入観や自己の見解に固執せずに接してみよう」という意図で書かれた、ということでしょうか。
            おかげさまで、何となく理解できてきた気がします。ありがとうございました。

          • 赤い実 より:

            yoneさんへ

            〉ということは、最初の一文は、他者のもめごとを見ていて「自分が『正しい!』と固執しているからもめるのだな……。自分が正しさに固執しなければ、もめることは少なくなるのに。。」という気づきから出た言葉、ということでよろしいでしょうか。

            そうですね。他の人たちを見てでもありますし、自分のこととしてが大きいつもりで書きました。

            〉そして二つ目の文は、「人と関わるときにはできるだけ平静であり、先入観や自己の見解に固執せずに接してみよう」という意図で書かれた、ということでしょうか。

            そうです。

          • yoneさま こんばんは。

            >私の理解では、人との会話は自己保全や自己主張のためではなく、その会話という”縁起”によって現れてくる(あるいは自己から消える)何かしらの『理』を学び、自身を善き方向へと変化させるためにあると考えています。その点で、少し疑問に思いました。

            釈迦牟尼仏はどうだったのだろうと考えてみました。わたしが印象に残るのは、かれが「何かしらの善いことを求めて出家した」という点です。それと、そこから「争うな」を導いて人々と会話した点です。

            どんな人とも争わずに話が出来るって「すごいことなんじゃない?」って思ってます。そして、そのことを誰も否定できない!という点に、驚愕しました。

            あらゆることばの意味で、「安心」ということを得たのだなと思います。わたしもそれを求めています。

          •  春間 則廣  より:

                

            > そこから「争うな」を導いて人々と会話した点です。

               その導き に わたしはいない

                           導かれずに  あなたと争う

               (  「出家」 から 導き出されている とは
                             あなたは  思いもしない  )

                  「 出家 」 とは  “ なんであるかを問う ”

            > どんな人とも争わずに話が出来るって

              「争い」 とは  どこに、どのように、 起きるか 
                   ということ  を
               “争わず”  に   語り合う
                       そこ  に   “争い” は 起きません
               ( ののしり だけ  が   争そい ではない )

               “争い”  は   片方に起きれば
               それ(だけ)で   “争そい事” が 起きています

                 黒白 の   決着をつける
             ( グレーゾーン に 置いて  済ませることができますか ? )

                   白くない から  黒っぽい
                 ( 黒くない なら  白っぽい ? )

               勝ち負け を 言わなければ
                       「 勝義 」 の “カチ” は ありますか ?

             「  いや そうではないのですよ 」 という 柔和さで
                 「 勝 」 を 知らしめる 
              ( 「 それは 争いではない 」   と   言えば
                  言った方 に とっては   争そい事ではない )

            > 「すごいことなんじゃない?」って思ってます。

                「 仏教 」 に 争いの種 を  ナクスみち  は 
                   ある     けれど  
               その道(?) が ある限り  争いは 失せることはない

              「 仏教 」 が ある限り において 争いは “なくならない”
                             ( ニオイ が あれば  種がある )

               「すごい」  といえば
                       そこに  「すごい」  が  ある

                 なにもすごくはないこと   を   すごい と いう

                ナンカ   ニオイマス  カ ?

                   ( 「 種 」 は どこにあるのかな ? )

          • yone より:

            mani先生、おはようございます。

            釈迦牟尼仏のお話、仰る通りだと思います。

            私は、赤い実さんの書かれた『自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理』という言葉が最後『倫理』で綴じられていることに深く感銘を受けたのです。それにつられて第二の文章の違和感を禁じえなく、私の思うことと重ねてお尋ねしてしまったのです。赤い実さんの「安心」を乱したかもしれません、赤い実さんにはお詫び申し上げます。

            その言葉は本当にすごいことばだと思っています。倫理とは他者との関係の中に生じるものですが、思えば、自身の心の中には常に自身と語り合う、もう一人の自分がいます。その内なる二人に対して、その『倫理』を当てはめて、そして実践すれば、自身のもっているこころの「苦」がすべて消滅するように思います。そしてそれは自身の内部のことだから十分に可能なことだと思うのです。それが自身に対する「空の実践」と言うのかなって思ったりしたのです。自己内での「争い」「平和」が完全に消滅する、釈迦牟尼仏もそのようなこころの状態だったので、安心を得て、恐れることなく、また争うことなく、多くの人たちにことばを語ることができたのかなって今は思っているのです。

          • Pocket より:

            春間さま

            >( 「 それは 争いではない 」   と   言えば
            >      言った方 に とっては   争そい事ではない )

            「それは争いではない。」「私は争っていない。」ということは煩悩を滅尽したブッダにしか言えないはずです。

            「私は争っていない。」ということが本当かどうかは、自心が知っているはずです。

          •  春間 則廣  より:

              
              本当 を 知る者   から の   本当の言葉

            > 「それは争いではない。」「私は争っていない。」ということは煩悩を滅尽したブッダにしか言えないはずです

               すべての言葉 が  ブッダにしか言えない言葉です
             (  ブッダ “達” は   すべての言葉の意味を知る  )

                ブッダ 以外 は     “言葉の意味を知らない”

            > 煩悩を滅尽したブッダにしか言えないはずです

              煩悩 とは 何か  を 煩悩の中で 知り得ますか ?

                  滅尽 すれば   滅尽がわかる 
                ( 悟りを得る と   悟りを得たと分かる )

               言える・言えない  を 知る

                “はず” では  物事は   「 顛倒 」 に起きている

            > 自心が知っているはずです。

               自身が所有する 「 自 心 」 は   歪んでいる
              ( 物事   とは  「 無明 」 に 起きているのです )

              「 無我 」 に   「 我 」 が 所有する ということは
                            成り立たない

             あなたは 存在してはいないブッダ のことに

               あれやこれや と “ 思いを巡らしている ”

               本当かどうか を  知って から
               本当 を        本当に使う
             ( 使ってはいけない  と “イウコト” は いけないこと )

               あなたはブッダ        ではある  けれど

               あなたは あなたである  という 問題が起きる

                 諸仏  は     佛陀 に 起きる

                「 はず 」 が いつ 確信 に  変ったのでしょうか ?

          • mani より:

            >煩悩 とは 何か  を 煩悩の中で 知り得ますか ?

            知り得ると思いますよ。自家撞着は間違いだと思うのは、そういう思想にあるからだと思います。
            煩悩とは何かを、煩悩にまみれながら知っていくのが仏教の思想であり、中道であり、八正道なのです。

            つまり変化するのが自己なのです。諸行無常の思想の中においては、真実をつかんだとき、逆転が起きる。諸法無我aがうかびあがる。
            そして戯論は寂滅する。輪廻世界から解脱する。

          •  春間 則廣  より:

               
            > 知り得ると思いますよ

              それが  そもそも    煩悩 ではない

                            と 、 煩悩で考える

            > 自家撞着は間違いだと思うのは、そういう思想にあるからだと思います

              “ 自家撞着 は  間違いである ”
             という 思い からも 離れる

               そこが、 喫緊の 重要問題  ( どこで受け取る “カ” ? )
              ( すでに、通過して、解決され  「 果 」 を得ていますか ? )

            > 何かを、煩悩にまみれながら知っていく

              「 仏教 」 を 煩悩で知る  という意味にしか聞こえません

               もちろん  「 中道 」 とは 「 偏 」 を知ることなく ては
                        存在しません

               「 (二)偏 」 に あって      「 中 」 を 知る
                 知る と 知らず   とを   知る( 知らずと知る )

              問題は 一 と 一 との間  に  知るという空間がないことです

            > 煩悩とは何かを、煩悩にまみれながら知っていくのが仏教の思想であり、中道であり、八正道なのです。

               思いを鎮め     シッカン(只管)  打坐 する
                        (  「 行住坐臥 」 すべて  「 禅 」 )
               そこ(止観) に   煩悩が入る “隙間” は ありません

                「 中道 」 もなく   「 八正道 」 もない
                         ( 正見・正思・正語・正業・正念・正定・正命 )  

                しかるに  出定 のとき  「 得 定 」 が ある

                (  そこ を 説く  仏  が  仏  として  聞く  )
                           ( 菩薩 は 菩薩である故に 聞く )
                  「 経 」  は  「 菩薩 」 の 為に 置かれる
                            ( 菩薩  は  「行」ずる のです )

            > つまり変化するのが自己なのです。諸行無常の思想の中においては、真実をつかんだとき、逆転が起きる。諸法無我aがうかびあがる。そして戯論は寂滅する。輪廻世界から解脱する。

                顛倒の姿 が 輪廻しているだけです
              “ 戯論は寂滅する。輪廻世界から解脱する ”  という 顛倒

                「 真実 」 とは  掴むモノ ではなく
                 「 行 」  に   顕われ出るモノ

                  掴むと思う  そのときに
                         すり抜けていく 指の間 に
                  木枯らし に 舞う  いてふ  を ナガムル

          • Pocket より:

            春間さま、mani先生

            >それが  そもそも    煩悩 ではない
            >と 、 煩悩で考える

            有漏心で、煩悩は煩悩であると、あるがままに知る

            >「 仏教 」 を 煩悩で知る  という意味にしか聞こえません

            煩悩の身で仏教を知ってブッダになる。
            そうでないと、煩悩のないブッダだけが仏教を知るという、誰も救われない教えになるでしょう。

            >問題は 一 と 一 との間  に  知るという空間がないことです

            あります。2つのanta(辺)を知ったなら、極端に近づくことなく行じます。
            頭でっかちな春間さまには

            この コ ト ワ リ が ワ カ ル カ ナ ??
            一切不識 ということは 一切可識 ということです

            >思いを鎮め     シッカン(只管)  打坐 する
            >            (  「 行住坐臥 」 すべて  「 禅 」 )
            >   そこ(止観) に   煩悩が入る “隙間” は ありません

            だから只管打坐している間に身心脱落とヴィパシャナするのです!

            >  顛倒の姿 が 輪廻しているだけです
            >  “ 戯論は寂滅する。輪廻世界から解脱する ”  という 顛倒

            春間さまはシッカン(只管)  打坐 してますか?

            >諸行無常の思想の中においては、真実をつかんだとき、逆転が起きる。諸法無我aがうかびあがる。
            >そして戯論は寂滅する。輪廻世界から解脱する。

            これが古仏の道径です。

          •  春間 則廣  より:

                
            > 有漏心で、煩悩は煩悩であると、あるがままに知る

               有漏(煩悩) の 道を歩む

              “あるがまま” とは 便利な言葉
               有漏 であるときは 有漏(「 有 」 路) しか 歩まない

               有ゐの奥山 けふもゆく ( 浅き夢 とは 思いもよらず )

                えひ も せず  なのに  “避け” を 飲む
                             酒に交われば 赤くなる

                菩薩 の 「行」  は(が)  「 作仏 」 の 行

            「 汝等皆行菩薩道当得作仏 」
             『法華経』「常不軽菩薩品)」(『法華経』下 岩波文庫 p.136)

               仏となる身 を 菩薩は軽んじはしない(常不軽菩薩)
                自ら が 歩む道を見る   ↓菩薩
                     「 自他不二 」 であると知る →  菩薩
                ( 他人事 ではない 自分の世 の  事 )

                有漏で歩む  のではなく “ 菩薩で歩む”
               ( 「 経 」 は “ 菩薩の道を歩む者の為 ”)

               同じ道  でも   景色は 見る者の心によって変わる

                有漏   で   無漏を知ることはない
                        ( 知る とき・場所 は 無漏にある )

                煩悩にあるときには 煩悩が支配している 「 心 」 

                 「 心 」 は 同じ文字ではあるが “心が違う”

               見えているモノ  を あるがまま に見る
                             ということは
               “善悪 を 超えて”  あるがままにある

                  悪行  を   あるがまま(悪心のまま) 歩む
                 菩薩行  を   菩薩が歩む ( 善行 )

               どちらも “あるがまま” ですが  あなたは どっち ?

              “善心” を “悪心” で “解釈する” 「 有漏・煩悩 」

            > 2つのanta(辺)を知ったなら、極端に近づくことなく行じます。

                「 中道 」 という 極端 は  ただ一つ の  「 道 」 

               一つ と 一つ  との間  だから 「中」 というのではない
                 ただようところ を  中心 と  見間違う 「中」

              “ 頭でっかち”   が   頭でっかちな春間 と 名付ける
             ( 大小 に とらわれて    「 無量 」 を “のがす”  )

            > 一切不識 ということは 一切可識 ということです

               一切不識   一切不思議 ( 不思議 を 思議する カシキ )
                  可識 は  一切識・不識    には 入らないのかな ?

            > ○○○はシッカン(只管)  打坐 してますか?

                まずは 「 只管打坐 」 して  問いなさい

                「 只管打坐 」 の 「 意味 」  を  問い

                  歩む道( 有漏・煩悩 ) を   直しなさい
                (  同じ道   なのに      “景色は変わる” )

               歩みさえすれば “景色は変わる”  と 煩悩は 囁く

            > これが古仏の道径です。

              これ  って ( 古仏の道径 とは )
              あなたの足下 に 起されている 「 道・真理 」 ですか ?
             ( 「 自他不二 」 を 顛倒する )

               あなたが どのような道 を 歩んでいるのか 、、、、

             ( 「 自他不二 」 を  顛倒する  「 有情 」 )
                自問自答   が  “わたし”  に 起きる

  4. tanza より:

    >わたしたちは、この世にあるかぎり、(諸行)無常の世を生きている、ということを覚悟(仏教要語)しなければならないのです。

    これから冬になるが、生まれた時代・場所に応じて工夫しますね。

    『【江戸の冬の真実】マイナス4度、暖房なし。100万人の巨大都市はどうやって凍死を免れたのか?』
    https://www.youtube.com/watch?v=Ie-Nko54t90

    • tanzaさま なるほど!北海道とは違う冬の過ごし方ですね。

      実は、わたしも経験があります。

      昔、子供が小さかった頃、子育てを終えた東京のおばさんが自分の使ったグッズをいろいろ送ってくれたのです。
      おんぶする時に着る背中に羽織る「亀の甲」と言われる綿入れはんてん。子供用の短いズボン等など。。
      ところが、北海道と違いすぎて使えませんでした。生地の厚い半ズボンは、足がむき出しなのでいくら地が厚くても子供には寒くて着ることができません。北海道じゃ、雪の中でも大丈夫なように手足を覆う繋ぎのスキーウェアみたいなのを着て遊ぶのです。長靴とスキーウェアを繋ぐ部分はまたレッグウォ-マーみたいなものを長靴の上にかぶせるのです。

      背中だけ温かい「亀の甲」の半天は、手足がむき出しなのでお母さんも寒いです。最近はおんぶ紐は使っているのを見なくなりましたが、おんぶしたときに着るコートを着るのです。

      東京の冬は、寒いですよね。夏を旨とした家の造りになってるのはすごくわかります。

      地球温暖化で気候変動の激しい昨今、これからどうなっていくのでしょう。

  5. tanza より:

    第二次世界大戦で、日独伊は敗戦国となり、国際法違反の「占領憲法」を押し付けられた。
    その後、独伊はそれを破棄したが、日本は今だに執着・保持している。

    ブッダの教え「執着を捨てよ」があるが、日本人の多くは知らない?

    • tanzaさま

      >ブッダの教え「執着を捨てよ」があるが、日本人の多くは知らない?

      「執着を捨てよ」は、たしかにそうなんだけど、「不執着も捨てねばならない」もそうなのです。執着と不執着を捨てるなら、「執着」という見解に近づかないと言えるので、そこを求めなければならない、ということかもしれない。。

      • tanza より:

        >執着と不執着を捨てる

        「肯定されるぺき attan」と「否定されるぺき attan」について、
        下記論文があり、これは一つの解釈なのか。

        『原始仏教における無我説の再考:西 昭嘉 (曹洞宗宝珠寺住職)』
        https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpbs/16/0/16_KJ00001034396/_pdf/-char/ja

        • mani(管理人) より:

          tanzaさま こんばんは。

          これは、面と向かってそう言うと「ちがう」といわれるケースになるかと。。
          実践的に「空」とひとこと言えば済んでしまうケースではないかと思います。
          『中論頌』一八章にアートマンについて述べてあります。

          その場合、アートマンを中道としてみるのが、ブッダ的には正解なのかなと思います。
          自己(アートマン)なのではなく、自己ならざるもの(アナートマン)でもない
          という姿勢で取り扱うのがブッダの法に則った所作かと思います。

          •  春間 則廣  より:

            SuttanipAta(Sn.756G を取 り上 げるこ とが で きる。
            見よ ! attan でない もの を attan で あ ると思い 込み,神々 と世人は名称と形態 とに執着してい る。こ れ こそ真理であると考えてい る。 (Sn.756G)こ の 詩句は我々凡夫が attan で ない もの (anattan )を attan で あ る と思い 込み,それに執着してい るこ とを教えてい る 。 無我説は,この 過っ た見解を持つ 凡夫に対し, その見解を排除するためのもので ある)

            「一 切の 事物は attanではない もの で ある (諸法無我)」 と知慧をもっ て観る とき,人は苦しみか ら遠ざか り離れる。 これは人が清らかになる道であ る。(Dhp .279)

            *****************

            > 一 切の 事物は attanではない もの で ある (諸法無我)

                Attan とは  「 我 」 によって 捉えることができる
                 「 認識 」  である
              
              さて “ 「認識」 を以てして ”
                  「 認識 」 は 捉えられるものかな ?

              網を手にして   網を 網の中に
                        入れることができる  かな ?

              “ 出来てしまう認識 ” で ( “ 「認識」 を以てして ” )
                     「 認識 」 とは   何であるかを 認識する

                 “ 出来てしまう認識 ” の  “オールマイティー” さ
             
              すべてが  眼前の “ゼン” に載る  “自分の茶” 
                 ALL  ( AND NOTHING )    “ MY TEA ” 
              飲み干して   頭脳を覚醒させる

               「 我 」 を   「 我 」 と 見る(認識する) のは 
                 UN「 我 」 ( an attan ) である  nattan です
                Do you    UN―derstand ?( UPアップ かな ? )

             “ 上下 ” を ひっくり返しても  「上下」  は 変らない
             (  いや 下は上 となる ?     解する情 は 変らない )

                ( 出典 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」 169p.)

            『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、
                二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。

            *****************
            756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
            757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

              過ぎ去った筈 の 虚妄  は 虚妄として 留まっている
                        ( 虚妄  は  過ぎさる モノ  かな ? )

            758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
            759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの

            *****************

              みよ 人々 は     平安  を “虚妄なる世 において” 
               安らぎ  として    “ 楽しむ  ”

               Su.762 ( 岩波 172p. )
              あなた が  「 我 」に於いて 楽しむことを 
               聖者 は      苦しみ と  諭す
             
            *****************

          • tanza より:

            >実践的に「空」とひとこと言えば済んでしまうケースではないかと思います。

            そうですね、西昭嘉氏は曹洞宗宝珠寺住職なので、「空」を承知済みの上で、敢えて自己解釈論として述べたかったのかも。

  6.  春間 則廣  より:

    「 虹の彼方へ 」   滲む 認識 に 馴染む

    • ぎんた より:

      春間さんの文章よくわからないけど、『柳宗悦 美を生きた宗教哲学者』若松英輔著
      は分かり易いよ!まだ最初のほうしか読んでないけど。

      •  春間 則廣  より:

        > 分かり易いよ!

         分かって   どうしたの ?

         分からなくて どうするの ?

           違いは  何なのかな ?

          読むだけなら  違いはないよ !

        • ぎんた より:

          ここはぎんたの考えと違うなーーーー、、あーーでも表現が違うだけなのか??
          とか考えるんだよ。考える材料なの。こんな風に出来たらいいねぇぇぇぇ、、、
          とか、ねこは考えるんだよーー。しみじみしたり、こくこくしたり(納得)
          するの。ねこは。。。

  7.  春間 則廣  より:

    >  ・・・とか考えるんだよ。考える材料なの。こんな風に出来たらいいねぇぇぇぇ、、、
    とか、ねこは考えるんだよーー。しみじみしたり、こくこくしたり(納得)
    するの。ねこは。。。

      考えて 納得して   どのように   する  の ?

      考えるだけなら 考えないのと  どう違う ?

       考えるだけ なら 前と 違わない

          前 と あと  と   どう違う ?

    •  春間 則廣  より:

      >  考えるだけ なら 前と 違わない
      >      前 と あと  と   どう違う ?

        もしも ! 思い という “モノ”  が “ 物事 ” であるならば

            「 事 」 は 様相 を 見せる( 変える )

            物事 には “ 行ないの背景 ” が ある
         ( “背景” が 変って見える  という 表の面 が ある )

        思う ということ  が 「行」 であるならば
            善い思い は 「 善行 」  であり
            悪い思い は 「 悪行 」  です

        「 悪 」 を 起こさない    ということは
        「 善 」 を 起こさなければ 起きる機縁 が ない

         悪いという思い  は   「 善 」 を 思い起こさずには
         起きる機縁 に 欠けます
       ( 親鸞 は ここに 於いて 「 悪人正機 」 を 知る )

       “思い起こす という 善行”  が 「 事 」 を 支えます

       ( 「歎異抄」 13段  こころにまかせたる 「 行・生 」  )
         害せじ と “おもふとも”  ( 知らずとも )
         ヒャクニンセンニン( ゼンニン ) を 殺す

       ( 「歎異抄」 12段   学ぶという 「 行・生 」  )
         「 善悪浄穢なき おもむき を もとき
            きかせられさふらはばこそ
          学生 の かひ  にて さふらはめ 」

         分かろうと 分かるまいと
                分かってはいなかろうと
          “ 行って 表れている表面 ” で 
               人は 「行」 を 裁く ( 裁くという「行」 )

       ( マタイ福音書  7:1-2 )
        『  裁くな 裁くその「行」 で 人は裁かれる 』
                  7:1-5
         まず自分じぶんの目めから梁はりを取とりのけるがよい。そうすれば、はっきり見みえるようになって、兄弟きょうだいの目めからちりを取とりのけることができるだろう    

           裁かれる  わたし  は
              その  「行」 から  外れている ?
            ( 難 の 「行」 やら
                   訳が分からぬ  「 難行 」 ・ 聖道門  )
       

        難ごと に おわしますやら 、、、、

          親鸞 よりも よく物事を知る  あなた 、、、、

       
       (  「歎異抄」 2段    釈 虚言 したまふべからず  )
                      「 釈 」 を カイシャク するべからず
               「 惣じてもて存知せざる 」   
               「 “面 面” (表裏) の オハカラヒ なり 」

         「 法文等をも知りたるらんと
             心にくく思し召して
          おわしましてはんべらば、大きなる誤りなり 」

        真実とは ( 念仏とは ) 
       「 まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん 
           また地獄に堕つる業にてやはんべるらん
                      総じてもって  存知せざる 」   

         分かってはいない者  が
         分かっている貴方の “面”  に ツバ を 吹く
                ( “上” に 向かって   下に落ちる )

                「  面々 の 御計らひ   なり  」

      • >「 悪 」 を 起こさない    ということは
        >「 善 」 を 起こさなければ 起きる機縁 が ない

        そうは思わない。悪いことを止めようとすることが、すでに善なのだと思う。

        「悪いことを今日もしなかった」ということが、勇気と前進への一歩になると思ってます。
        「犯した罪で宿業によらぬものはない」ということ、肝に銘じます。

        •  春間 則廣  より:

          > そうは思わない。悪いことを止めようとすることが、すでに善なのだと思う。

             それは  “ 西洋流 ”の  “ モノ ” の捉え方

            “思う” という “こと” を   事実に分類
                    モノ扱いして   絶対化 ( 「 有 」 と 化す )

            「 善 」とは モノであるから 「 縁起 」に起きる

             ( これは 釈 が得た ゼン である )

            ( 事実 とは  「 縁起 」 に起きる 故に 
               事実 という 一つの見方から 離れる 、、、、 )

           止めようとする道 に起きる    止めること  は 
             しようとする 処   から    離れている 

            同じ道 に 起きていれば   “同じである”  ならば
              “善悪 という  領域の違い”  は  問われはしない

             思うこと  と していること  との  乖離 があるゆえに
               していること を  乖離から外す
             ( 思うことによってではなく  していくことで )

                “ 性善説 ” と  「 如来蔵 」  とは  “別” である
             ( “同   じ”      人の歩み  ではあるが
               “別” という    「 分別 」 を知らなければ 、、、、 )

          > 「悪いことを今日もしなかった」ということが、勇気と前進への一歩になると思ってます。

             今日 は   「 善人 」  で   ヨカッタネ !

  8. tanza より:

    世の中には、ブッダの教えに必ずしも賛成でない人がいる。

    そこで、今流行のAI(Web検索)に問い合わせると、一例として以下に。

    質問:ブッダの教えに、諸行無常なので「執着を捨てよ」がある。これに対する反論は?
    回答:https://felo.ai/search/3gcBqQcxtZ6cNsG3p5YxKf

    • AIに聞くのは、イマイチだと思う。AIはサンスカーラをもたないから、ブッダの意図も何もかも判断できないと思います。

      ブッダははっきりと述べています。『スッタニパータ』863

      「愛しいものから、闘論や諍論、悲しみ憂い、ものおしみをともなうこと、慢心や高慢、中傷をともなうことが起こります。ものおしみと結びついて、闘論や諍論が起こります。諍論が生まれ出たとき、いくつもの中傷が起こるのです。」

      869「愛しいものから、闘論や諍論、悲しみ憂い、ものおしみをともなうこと、慢心や高慢、中傷をともなうことが起こります。ものおしみと結びついて、闘論や諍論が起こります。諍論が生まれ出たとき、いくつもの中傷が起こるのです。」
      870「触れること(触)を原因として、快と不快があります。触れることがないとき、これらはありません。『生存から離れることと生存』という、それが意味するところのものも、これを原因としていると、わたし(ブッダ)はあなたに述べます。」

      これだけではわからないけど、ブッダはAIを超えています。AIを「サンスカーラがない」と分析できることがその証拠の一つです。
      ブッダは、AIと違って、この世に「善いもの」をもたらそうとしています。ブッダは、ここでは、あらゆる苦しみのうちで「見解からの苦しみ」をのがれる術を語っています。

      諸行無常も、そのための手段と言えます。西洋思想に対する(仮に語る)アンチテーゼです。

      • tanza より:

        >AIに聞くのは、イマイチだと思う。

        それに気づいている方は、「文系バカ」でなく、論理・数学・縁起の重要性を認識している。

        参考記事:昨今のAIブームは「言語能力こそが知能である」という誤解に基づいているという主張
        https://gigazine.net/news/20251128-ai-bubble-llm-fundamental-mistake/

        •  春間 則廣  より:

          > 「言語能力こそが知能である」という誤解

            「 言語能力こそ は 知能である 」

            自分の 言語能力  に (こそ)  気付くべき
                 ( 人 は 知能 を 言語化して 育む )

              言語能力 は 知能である  けれど

            AI や AIブーム に それがあるかどうか  は

              言語能力 を もってして 気付くこと
            ( 気づくことが出来るだけの  能力はあるかな ? )

             この 言語(?)  の  意味するところに
                         気付くことはできるかな ?

          • tanza より:

            >自分の 言語能力  に (こそ)  気付くべき

            なるほど、春間則廣様は、自身の言語能力向上に努力している。

          • >言語能力 は 知能である  けれど
            >  AI や AIブーム に それがあるかどうか  は
            >    言語能力 を もってして 気付くこと

            煩悩がないと「言語能力 は 知能である」とは言えないのではないかと思います。

            だからね、AIやAIブームに煩悩があるかどうかを調べればいい。。

        • tanzaさま こんばんは。

          >それに気づいている方は、「文系バカ」でなく、論理・数学・縁起の重要性を認識している。

          まあ、誰でもわかるよね。。

          ブッダの論理学には尋と伺というのがあります。尋は「粗い思考」と訳されます。伺は「微細な思考」です。ことばを伴うものは粗い思考なのです。ことばで表せない思考が微細な思考です。そこからすると、言語は、一つのこだわりだと言うことが分かります。つまり、煩悩なのです。
          何ものにもこだわりを持たないブッダは、じつは、「最強の戦士」でもあります。
          自分の「空」の理論すら、空ずることが出来ます。つまり言語で否定する前に、ブッダは消えているのです。

          言語で否定すれば否定になると考えている人の思想なのです。それは「実在論」と呼ばれています。

          • >言語で否定すれば否定になると考えている人の思想なのです。それは「実在論」と呼ばれています。

            最初の文は主語がなかった。「それは」あたりを加えてみてね、てきとーに。

            実は一番わからなかったのが、浄土真宗、親鸞聖人の教えです。本当のこととは思えなかった、というのが正直なところですが、空を知って、阿弥陀仏を知りました。
            知ってからは、「南無阿弥陀仏」と唱えるしかない人生です。

            親鸞聖人のことばが身にしみる。。

          •  春間 則廣  より:

               「 伺 」 とは 「 密 」 とも言える
               「微細な思考」  でも  「智」カヨレバ 無限に広がる

               気付き を 平たく言うと  「 覚(悟) 」 となる

            「 伺 」 を モッテシテ 「行」ずることを  ゼン行 と 呼ぶ

              ( 襟元のチンターマニ を 手にする 管理人エム 様 )

            >    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
            >言語能力 は 知能である  けれど
            >  AI や AIブーム に それがあるかどうか  は
            >    言語能力 を もってして 気付くこと
            >    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            >> 煩悩がないと「言語能力 は 知能である」とは言えないのではないかと思います。
             
               ある・ない を言うのは  煩悩である   とも言える
                    ただし
             そこに煩悩がある とき  に 煩悩をつかう “ブッダ・龍樹” 
                  ただし そこ は    「 煩悩即菩提 」  である
                 ( 「 浄土 」 に 煩悩が起こせるかどうかという問題 )
               “思考” が ある  故に “思考” を 用いて 対処する

                無指考 ・ 無ホウコウ ・ 無大乗  の 「 浄土 」

               “言語能力”  は  「 煩悩・“ 欲 ” 」 に 起きる
             ( 言いたい 心  と   知りたい 欲求 )
                
                “この世 ・「 世間 」”  に  「 生 」 を 受ける
               ( 知能 は  欲求を満たす 故に 欲求を起こす )
                  満たされてはいない と  知り (知能を起こし)
                    起こす故  の     「 果 」 が 起きる
                   満たされる  欲求  ( 満たされない 欲求 )

                “ある=ない”  という  法を起こす( 縁起が起きる )

            >> だからね、AIやAIブームに煩悩があるかどうかを調べればいい。。

              煩悩 は  読み手 に “握られる” ( 握る煩悩 が 起される ) 

                  何処に 何があるか  を  知る 「 煩悩 」
             
                 煩悩 は 煩悩(知能) によって  起される 、、、、 
             ( 制裁与奪 と 生きる “野生動物”  を 都会的に捉える )
             ( 難事 とは   人は   野生に生を受ける者 である事 )
                  ( 野生 に おいて )
             与えて  釈す  のは 知能である( 言語によって 限りを与える )

              「 無量 」 の 浄土   である ( 如来の世 )

                 エド は 凶徒 の 手の内にある ( 遷座に過ぎない )
               ( 遷都 ではない   京都 に  座・高御座  が ある )
            https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c06114/
             「 鼓(こ=たいこ)の音で参列者が敬礼。安倍首相が高御座の正面に進み出ると、陛下がお言葉を述べられる 」

               知能を以てして  知能を感知する( 感知されない 異能 )

             しらべる心 に 縁って 調べられる(異能 は 機能を 超える) 

              いくら調べようと
                そこは・すべて   は 「 世間 」 に 起きていること
                  そこに 住んで   「 世間 」 を 探索する

               “ ない ”  という時   「 縁起 」 は 起きる

                 坐すところ は 常に 低い ?  高い ?
              ( 坐して 思考を 巡らさず  →  無視考・無指向・「 脚下照顧 」
                上下に執われる  “思考”   を   巡らす  ( 脚上の頭脳 )

                ま   これらのこと  は
                      思考を離れて はじめて 嗜好できること

  9. tanza より:

    煩悩には個人差があり、例として、学歴に執着・不執着の人がいる。

    参考動画:学歴は無価値、“土下座力”が金を生む|東大卒より中卒社長
    https://www.youtube.com/watch?v=UKn2RZ3J6to

    • mani より:

      tanzaさま この人の意見ですね。「勝つために」って言ってますね。

      この人の価値観は、そこにありますね。お金が欲しいかどうかによりますねえ。
      わたしは、それより、この動画の作者の善悪を知りたいです。。

      • tanza より:

        >この動画の作者の善悪を知りたいです。。

        この人は現実直視なので、諸行無常に逆らわない。

        • mani より:

          tanzaさま

          >この人は現実直視なので、諸行無常に逆らわない。

          現実直視の人は、「現実」という一つの価値を持っている。
          それは多くの人が現実に抱く価値でもある。諸行無常のままに流れていく人でもある。

          •  春間 則廣  より:

              
            > 諸行無常のままに流れていく人

                それが  「 恒常 」 かな ?

            「 有情 」 の 作る 限界( 眼界・色界 囲いに住む )

                ウゾウ ムゾウ  の  うじょうむじょう

             「 無常 」  トイ ウ( 問 有 )  「 有 常 」

              じょうにまかせて  しょう( 小・像 )にとらわれる

             常( 見えてはいない世 ) ・ とらわれしゆえの「 情 」 

                   読み過ごす  のも  ショウがない かな ?

                   しょう いう

            こと を いっているわけではない

          • tanza より:

            >諸行無常のままに流れていく人でもある。

            ネットで検索したら、下記の面白い動画があった。

            動画:【総集編】誰もが気付いていない世の真実を明かします
            https://www.youtube.com/watch?v=RtxJJkYzNQM

  10. mani(管理人) より:

    tanzaさま あら、スマナサーラ長老だわ、こんばんは。

    仏教は、思想的には、西洋思想のアンチテーゼだと思います。
    ただ、それを面と向かって言わないのは、争わないということもメッセージの一つにしているから。

    諸行無常と一切皆苦はセットになっていて、西洋のプラトン的思想に対抗しています。こちらは、一切皆楽の思想とセットになっています。
    声聞乗をいくテーラワーダ仏教は、仏教の思想をお釈迦さまの真実ととらえています。

    大乗や密教とは少し違うかも。。テーラワーダでは空は知っているけど、これを「説かない」をモットーにしています。

    •  春間 則廣  より:

       「 無常 」 の   「 無 」 とは
       「 常 」 とする  「 心 」 に
         起きる ( 起きてはいない )
        「 認識 」 に かかります( カンケイ・関係 )

        なぜ “起きてはいない”     にもかかわらず
            “起きている”  事  に  (対) して
          カッコ ・ 覚し 、確固定    する のか

         また 、   漢語 の 性質上
               “ 音 “ が 似た文字 は
              音の似た  文字の意味 を 指してもいます
            ( ム・無・无 )  ( ジョウ・常・定・情 )

         ( やまとことば は   さらに 上を行く ・ “このうえ” )

         ム とは ナシテ(なづけて) 「 无 」 を言い 
               閉じた口を ひらく・発する ときの意 で使う 
               無・意  を   「 み 」 と  音する (*)

          人は 「 あっ!」 と 発するとき
                       発する 「吾」 に 立ち返ります
        ( あわれ なる  こと  わっ れ   に  起きます )

         (*)  こじつけ だと    己事つける     個の認識 

       ( コジツケ ではなく みんなそう感じている と 感じている )

        皆 が どうであるか  より    吾が どうあるか ?
      ( なぜ 多勢 を 背にしなければ  “弱い  ” のか ? )

         その感じ方  あわれなること  “この(どの?)上” なし
        ( うわっ ! という        吾  の ことかな ?  )
        (  ワタシ   は      自らのこと を 「吾」 と いう )
           吾     とは      誤 であり 吾 である  (*)

        これくらいのこと が 読み取れなければ 
             聞取 できている  とは  ならず
              問 を  取する      のみ (の 身・看・観)

       ( 問われている意味を取せず  問う・闘 を 起こす のみ )

            わたしはたたかいをおこさずしめしているのみ

            「 それを嘘だというならどうしようもないのです 」

        わたしは道を示す   歩むのは あなたというわたし です

         (  あなた と 指し示す   「 我 」 に 対面する  )

        電気があって 光がある  のではなく
       「 ひかり ・ 陽 仮 」 が ある   ゆえに  電気がある 

           リンゴ を 味わう ( 無常を味わうことはできない )

          「 ひかり 」 とは   すべての “みなもと”  です
           
          みえている  という    思いに変わる 「 ひかり 」
           (  みえていれば     光るけれど  )

            光 って     み 得 難い
          「 光明 」 に   メヲツム ル

          問題 は  スマ は (吾ではなく)
                 馬鹿(才能のない輩・吾) に 話している
                   ということ

         (  「 無明 」 に 起きる   とは  別の意味  )

      • ぎんた より:

        馬と鹿を使うなーーーーーーーー

        おめーは失礼なんだよーーーーーーーーーーーー

        •  春間 則廣  より:

          > 馬と鹿を使うなーーーーーーーー

          > おめーは失礼なんだよーーーーーーーーーーーー

             使っている のは 誰と誰 と 誰  かな ?

                   おめー は 失礼ではないかな ?

          •  春間 則廣  より:

            スマ さん  は

              まだ、  日本語がおぼつかない 

               君も 同様である !

          • ぎんた より:

            当たり前だろ?おりゃー、人間1回目にゃんだよ!

            スマ長老は、CINRAってサイトで岡本太郎の『座ることを拒否する椅子』に
            触れていて、青山の記念館に行ったことあるんだな、ぎんたと一緒~!と
            思ったよ。

  11. tanza より:

    インド思想・論理は四句分別だが、西洋思想・論理は2元論・排中律が主流で、ビジネスでも「2元論ビジネス」として計画実施が多い。
    (1)競争ビジネス:競馬・遊戯・スポーツ(大谷翔平は経費扱い)
    (2)紛争・戦争ビジネス:意図的に対立を起こす。例として、
      ヴィクトリア・ヌーランド国務次官の「マイダン革命」。

    日本でも「2元論ビジネス」に熱心な人がいる。マスコミも同じ。

    • mani(管理人) より:

      四句分別は、西洋では理解されない。排中律ビジネスだから。。
      四句分別は、ヴェーダ・ウパニシャッド思想からくるもので、その上に仏教がある、ってわたしは思ってます。
      テーラワーダのスマ長老は、まだ対立の構図にいる。。一切智(サルヴァジュニャ)を求めるわけではないから。大乗・密教は、一切智を育てる教えです。

      誰でも幸せを求めている。。苦の滅を説いたおしゃかさま。。生き物の求めるものだ。

  12. tanza より:

    >自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理が大切

    この倫理に基づき『LGBTQ理解増進法』が成立し、「男女共通トイレ」の導入を進めようとしたが、性被害への不安から女性の利用が進まず、自治体によっては導入が停滞している。

    • ぎんた より:

      >「男女共通トイレ」の導入を進めようとした

      ここ!この時に、その会議に「女性」はいたのでしょうか?
      ちょっと考えれば、いやそれ絶対盗撮の機械取り付けられるよね?って
      気づくと思うんですが、、、。なにか、補助金とかそういうのの関係で、
      会議の席に着いた時には、すでに「男女共通トイレ」設置は決定済みで、
      女性が何か言っても阻止できないのかな??

    • yone より:

      tanzaさま、こんにちは。

      本当に、「自分の正しさに固執しない物の見方・考え方から生まれる倫理」に基づいて、『LGBTQ理解増進法』や男女共通トイレの導入が進められたのだろうか、と考えます。当事者同士の十分な対話や合意形成が行われたのかを改めて考えることが、この倫理の本質を理解するきっかけになるのではないでしょうか。
      私は、その「自分の正しさに固執しない物の見方・考え方から生まれる倫理」というものは、倫理を生み出す根本的な考え方、すなわち『メタ倫理』のようなものだと思います。

    • >>自分の正しさに固執しない物の見方考え方から生まれる倫理が大切
      >この倫理に基づき『LGBTQ理解増進法』が成立し、「男女共通トイレ」の導入を進めようとした

      これは「(自分の正しさに)固執している例」だと思いますよ。「固執しない」という”不執着”の思いも徹底しなければならない、とお釈迦さまは思っているように、わたしは感じます。

      「固執する・固執しない」の二つを離れたとき、その思いは誰にとっても気にならなくなる、と思います。

  13. Blume(hana) より:

    先生、おはようございます。
    少し掲示板をおやすみしますと書いたばかりに書き込んでしまうことお許しくださいm(__)m

    私が最後に書いた後からも、ずっとこちらの皆さんの投稿を読んでいました。
    私は仏教徒ではないですし、哲学のことも宗教のこともよくわからないので
    書かない方がいいのかなと自制していたのですが、今の先生の投稿を読んで
    どこか救われたような気がしましたので。

    >知り得ると思いますよ。自家撞着は間違いだと思うのは、そういう思想にあるからだと思います。
    >煩悩とは何かを、煩悩にまみれながら知っていくのが仏教の思想であり、中道であり、八正道なのです。

    間違ってはいけない、自己撞着してはダメなんだと、いつも私は自分にそう思ってきました。
    だから自分に対する少しの間違えも許せなくて、
    その度に私って何て情けないのだろうなと思ってきました。
    それで先生は私に自然体でって書いてくださったのだなと思いました。

    先生の言葉を読んで思ったのです。
    それが仏教徒でなくても、日々知っていくのなら、日々変化していこうと努力するのなら
    今それが間違っていたとしても、未来には何かを掴めるかもしれないという
    希望があるのだから知っていくこと気づくことを続けていこうって。

    それは自分に対しても他人に対してもとても優しい言葉であって導きなのかなと感じました。

    わざわざ書くほどのことでもないのかもしれませんが、
    先生の言葉に感動したのです。
    それが伝えたかったんです。

    先日は青森で大きめの地震がありましたよね。
    北海道も揺れの強い地域もあったみたいで心配しています。

    寒さも強くなってきましたので、お身体に気を付けてくださいね(^▽^)

    ではでは、ありがとうございました!

    • Blume(hana) より:

      それと先生、私いつもそうなのですが、
      自分が書いたものを時間が経って読んでみると
      なんだかとても嘘くさく感じるのです。

      これは自分が無理をしていて
      自分の自然体の中から発せられた言葉ではないからなのでしょうか?

      • Blume(hana) より:

        ホント、何度もすみません。
        きっと自分の中に何か正しいことを言わなければならないような
        そんな意識があるのだと思いました。

        ここを克服したいです。
        自分にも他人にも寛容になりたいです。

        先生、すみませんでしたm(__)m
        少し整理が出来たかもしれません。

      • Blumeさま こんばんは。

        >なんだかとても嘘くさく感じるのです。

        ああ、それでいいのだと思います。
        わたしも、Blumeさまは、やがて立ち直るだろうなと思っていますので。
        「その時は真実であった」ということが大事なんだと思います。

        Blumeさま、「その時は真実だった」ということがどれほど大事か、経験したものでないと
        ”決して”わかりません。
        その時の真実を積み重ねて、最終的な真実(涅槃)に至るんだなと思っています。

        だから、優しいblumeさま、心配しないで!

        • Blume(hana) より:

          先生、こんにちは(^▽^)

          お忙しい中、返信をありがとうございます!

          >Blumeさま、「その時は真実だった」ということがどれほど大事か、経験したものでないと
          ”決して”わかりません。
          その時の真実を積み重ねて、最終的な真実(涅槃)に至るんだなと思っています。

          今の私には先生の言葉の意味が分からないのです。
          ですがいつか「あの時先生が言っていたことはこのことだったのかな?」と思える日が来たらいいなと。
          そう思います。

          ありがとうございます!

  14. tanza より:

    >つまり変化するのが自己なのです。

    参考動画:歳を重ねて気づいた、人生の本質。養老孟司の深く染みる感動哲学
    https://www.youtube.com/watch?v=9hqQrIoiMGI