
百日草が咲いたので、それをアップしましょう。百日草ばっかだな、って言わないで。咲いてる花からタネをとって、次の年に生まれてくるんだから、仕方ないんだよ。どうしても似たような草花になってしまいます。
最近は、身体と心のことを考えて暮らしています。五蘊について、色受想行識(身体・感受・表象・意志・識別)の順序のことを、折に触れ、考えています。特に、色(身体)が最初に順序立てて説かれるのが気になっています。色受想行識の、この順序は、わたしたちの煩悩の順序だなと思います。
それにしても昨日アップした文章はわかりにくいなあ。何を言いたいのかさっぱり分からん。自分で書いてて自分で読んで分からんなと思います。あれこれ、付けたり足したり書き換えをしながら整理して書き直してます。だから書き足した部分は赤色に文字の色が変わってます。
五蘊に話を戻すと、『ヨーガ・スートラ』です。およそ11世紀以降に、ハタヨーガの創始者ゴーラクシャが出てきてはじめて身体のことをあらためてヨーガに取り入れて考えていくのです。そうわたしは考えています。
『ヨーガ・スートラ』は、基本的に、ブッダの思想でいえば無色界(身体のない世界)をイメージしているのです。欲界・色界・無色界の三つを、ブッダは説いたけれど、仏弟子たちには身体から入っていって、無色界へと脱けてゆく順序で悟りへの道筋を解き明かしています。
一方、仏教の影響を受けたヨーガ学派では、異なる道筋が説かれていきました。
ゴーラクシャにいたってはじめて身体を身体として意識することになりました。だから男性と女性が意識されてくるのです。そこにある思想は、頭頂のシヴァ神と尾骶骨に眠るシャクティ女神(クンダリニー)の合一として知られてくるのです。梵我一如の系譜です。仏教の影響は受けているけど、その悟りの内容はウパニシャッド思想なのです。
『ヨーガ・スートラ』は仏教から生まれてきたのだけれど、その思想は仏教ではありません。バラモン教乃至ヒンドゥー教の思想です。
まず、ブッダの法には生老病死(四苦)が説かれるけど、この前提には身体が意識されています。身体を持たなければ「生まれること」はありません。
でも、生まれたての赤ちゃんにその自覚はありません。だんだんと身体があることは意識されてくるのです。しかし、修行をするヨーギンたちは、思考に浸り無色界を経験します。こうして思索が進むと、仏教では唯識という思想が生まれて来ます。この世界は「ただ識のみ」、つまり、識別作用がこの世で一番大事だと考えるようになります。
思考は、人間の特権のように考えられ、言語を持つことも特別視されます。思索や言語を重視するのは西洋的な思想だと思います。ところが、現実を振り返ると、身体を自覚的に意識するのは、物心ついてからなのです。その後、大きくなるにつれて思索の比重が高くなりついには唯識思想が生まれてくるのです。
『ヨーガ・スートラ』は、現実に、この、思索を重視する順序で説かれていると思います。つまり、身体は問題にされず、身体などないかのように扱われ、心の問題に集中して説かれてきたのです。これが『ヨーガ・スートラ』の立場です。身体には触れてあっても、どことなく希薄な印象が漂います。
『ヨーガ・スートラ』が書かれた後、ゴーラクシャが出て『ゴーラクシャ・シャタカ』が説かれるのです。そして、ハタヨーガが生まれてくると、ハタヨーガに注釈を付けたスヴァートマラーマは、ハタヨーガはラージャヨーガ(『ヨーガ・スートラ』のヨーガ)の前段階だと位置づけるのです。あくまで、ラージャヨーガの補助として考えられているのがハタヨーガなのです。
ゴーラクシャは、身体におけるヨーガの実践をしました。心は振り捨て、男女交合のヨーガの境地を説いたのです。ゴーラクシャは、全然違うように見えても『ヨーガ・スートラ』の思想と深く結びついているのです。
ゴーラクシャが出るまでに、ブッダから数えて1500年くらい経っているだろう。これだけのことを知るのにわたしは自分の人生の大半を費やしています。「ブッダは一切を知っていた」ということを知るためにわたしは勉強してるんだなあと思います。
で、タイトルの「無我」は何?
あ、これね。。一切を知る者(ブッダ)は、無我なんよ。そして、わたしたち凡夫とブッダをつなぐ架け橋になるんよ。
凡夫には我があるが、ブッダには我はない、って知るんだよ。
ヨーガ学派等のインド哲学は、ウパニシャッドを含むヴェーダの伝統の中にあります。そして、仏教の影響を色濃く受けています。
説明を詳しくしてみました。少しわかりやすくなったかな。


コメント
春間 則廣 より:
あなたのコメントは承認待ちです。
2025年8月15日 8:17 AM
*
承認を 待ちきれず 再投稿
*
> アヘン戦争勃発によってそれまでの中国の歴史が大きく変化した、その「変化」とは何だと思いますか?という質問です。
「 中国の歴史 が 大きく変化した 」
という時の 歴史 とは何を指すのか
大きく変化した という モノの見方を支える 事実
その 根拠 とは アヘン戦争勃発 によって 起きたのですか ?
そもそも 「 中国 ・ CHAINA 」 とは
いかなる “ 統治体制 ” を指していますか ?
「 中国 」 とは いつ起きた国 ですか ?
「殷」・「秦」 と 名づく “国” が
存在したということ は 事実と認めましょう
それらの国は 漢民族 と呼ばれる人 が 構成員だった のも
認めましょう
漢民族 の 歴史 が 大きく変わった事実 を
あなたは 問題として 問いかけているのですか ?
“ 中国の歴史 ” とは 何を指しているのですか ?
( 漢民族 以外の )異民族 によって 統治された
という “ 漢民族の歴史 ” の 変化を指しているのですか ?
そもそ
モンゴル人(民族) ・ 満州民族 とは 中国人 ですか ?
ウイグル チベット は 「 中国 」 ですか ?
漢民族 が 異民族によって 統治・征服 された という
「 歴史 」 を 否定するものではありませんが 、
それは 歴史上に於いて、統治する者 が 変った という意味です
「 中国 」 という概念 が
現在の中国 と言われる 国 の
( 統治者 ではなく ) 国境内に住む 人々 を 指すのであれば
その人々の歴史 が
“どのように変化したか” を 述べることはできます
( 変化したのか ・ 変化していないのか ・ 継続していることは何か )
> 対話の資質がある人であれば、相手の文章の全体からその質問の意図するところを汲み取り、それに対して真摯に答えようとします。
あなたには 対話の資質 が 備わっていて
わたしには それが “ 根本的 ” に 備わっていない
という 指摘
質問に真摯に答える そのためには
質問の意味( 根本的認識 )に 相違があっては
何に対して 答えているか が “ 意味をなさない ”
現在の中国 と “英国” とは 大陸続きではありません
アヘン戦争 勃発時 の 「 清国 」 とは 「 中国 」 ですか ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E6%B0%91%E6%97%8F
さらには 「 大宋国 」 とは 「 中国 」 ですか ?
「 元 」 という “国” によって 「 元寇 」 が 起こされました
その 「 元 」 の どの統治部分 が 「 中国 」 ですか ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
「 随 」 「 唐 」 とは いかなる理由をもって
中国である と されますか ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
唐の最大領域は高宗期の660年代で[45]、直接統治地域は東西が朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。
唐は漢民族の王朝か ?
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-011.html
「3~7世紀の中国は分裂と再統合の時代であり、民族融合の時代でもあった。華北で遊牧民(胡)と漢人は入り乱れて抗争するとともに混血や文化の融合が進み、そのなかで成立した北魏・隋・唐の王朝は鮮卑の拓跋氏出身者を中心に、それと協力した漢人貴族が支配層を形成した「胡漢融合政権」であり、その典型が「唐帝国」である。」
中国の歴史 が 大きく変わった という時
それは どの民族の歴史ですか ?
漢民族の歴史 であれば
異民族に統治されていても 「 漢文化 」 というもの は
変ることなく 継承されて行きます
「 科挙 」 という 制度 は 民族を超える
( 異民族が統治制度とする ) 漢の文化 です
現在 の 中国 まで ( “ 変らず ” )
中国 は 「 漢文化 」 に 大きく拠っています
唐・元・宋・清 も 漢習慣 に 馴染んでいます
歴史 が 大きく変化した という時の
“ 焦点 ” ( 論点 ) は どこにありますか ?
あなたの真摯さ が “ 真摯の本質 ”
だとする 根拠 は なんですか ?
( それに外れる 問題点をはっきりさせよう として
問題とされることの争点 を 確定させようとする )
わたしの 誠実さ とは
問題をはっきりさせずに( 争点をたがえたまま にして )
議論を続ける ことですか
わたしが 問題点をはっきりさせようとする 行為 は
あなたの質問態度 からは
「 対話の資質が決定的に欠けている 」 こととなります
> 原始仏典では、「mūla」という語が「根本的な原因」や「基礎的な教え」を指して使われています。
根本・対話の焦点 を 曖昧にしている のは
あなたではないですか ?
> akusala-mula は、不善の根本で三毒のこと。
dhamma-mula は、法の根本、教えの根源や基盤のことです。
それが あなた には! あてはまらない 根拠 は
なんですか ?
当てはまる
あいまいさ に 答えない わたしは
悪さら akusala 「mūla」 の 保持者ですか ?
イムーラ 屋 の 小豆バー に こだわるわたし 、、、、
あなたが 「 善人 」 とする ( あなたが 「 善人 」 である )
根拠 に あなたは 則って いますか ?
( 「 不善 」 が あなたに起きていない理由を知りたい )
・
*
これ以上の やり取り が 建設的ではなくなる
という 危惧の元 での
投稿制限
( だと思います )
まあ あなたのブログ ですから
あなた の 軍隊 です
ミリンダパンハ と 書き込んだ意味
・・・・・・・・・・・・・・・・・
王よ、あなたは今日ここに歩いてこられましたか、それとも車に乗ってこられましたか?
車に乗ってきました
それならば、あなたは車がどういうものかご存知でしょう。私に車がどういうものかを教えて下さい。それは轅(ながえ)ですか?
いえ、違います
車軸が車だろうか、それとも車輪か、車室か、車台がそれか?
違います
では、軛(くびき)か綱か鞭(むち)か?
違います
それならば、それらを寄せ集めれば車になりますか?
そういうわけでもありません
そうであれば、それ以外に車なるものがありますか?
ありません
王よ、私はあなたに問いを繰り返しても、一向に車が何なのか分かりません。それは単なる名称ですか?とはいえ、実体なくして名称のみがあるはずもない。あなたの言われることは無茶苦茶です。皆さん、このような嘘偽りを認めてもよいものだろうか?
私は嘘偽りなど申してはおりません。「車」というのは、それぞれの部分が依存し合った関係性の下に成り立っている呼称・記号・通念・名称です
よくぞ言われた、王よ。あなたは車の何たるかが分かっておいでだ。それとまるで同じで、私、ナーガセーナとは、頭髪・肌・爪、骨に肉、心臓に脳髄、感覚、思いなど、それぞれの部分が依存し合った関係性の下に成り立っている呼称・記号・通念・名称で、人格の実体ではありません
・・・・・・・・・・・・・・・・・
この軍隊 は わたしの軍隊 だったはずだが
“ 政権 ” が 変ると
“ 同じ ” 軍人 が 違う思想 の 下で
“ 同じ ” 自己規制 を する
“ 同じ ” と 言う意味 は
“ 同じ ” ですか ?
異なった 意味ですか ?
・
先生、こんにちは。
高原リゾートに宿泊してきました。
食事がバイキングで食べ放題なんだけど、いろんなものをほんの少しずつだけにしてきました。
欲はほんとに苦しみにつながりますからねぇ。。
今、なんとか痩せようと絶賛努力してるのです。
そしたらなんだか胃が小さくなってきてるのを感じてきてます。
身体と精神はつながってて、欲を持ちすぎないってことが心身どちらにとってもいちばんの薬なのかも、と実体験中です。
最終的には出産前の体重まで戻したいのでかなり険しいけど、ゆっくりやってきます。
赤い実さま
お盆休みですね♪ いいですねえ。
絶賛努力が実りますように、お祈りしています。
欲を持ちすぎない、って、わたしたちには大事ですね。まったく欲がないのも困るけど持ちすぎも困ります。
世間を知るために、欲のありどころを探ったりしてます。
それにしても「無我」のタイトルで書いた内容は分かりにくいですね。
ボチボチ書き直したりしてます。自分の中でまずはまとまらないのが最大のネックだな、って思ってます。
出産前の体重に戻せたら教えてね。拍手しますので。
ちなみにわたしは介護があるので体力つける方向にがんばってます。だけど、もう少し痩せても大丈夫かも、って、時々考えてます。
1月2キロ減量が目標で、10か月かかります。
もっとかかる気がするけど達成したら報告しますね(^○^)
心が柔軟だけど無責任ではない。
日常的な現れとしてはこうなれると無我なのかもと考えたりします。
世界がこうなればいいなとか理想はあるけど、なんとかできるのは自分のことだけなんですよね。
身近なところで八正道をがんばろう。
世界の権力者こそ八正道してほしいと感じたりもするけどそれも難しいですね。。
こんにちは!今日も暑いです~
ダイエット開始されたんですね!17日の朝7時に、TBSの「健康カプセル!」で
「リバウンド」みたいな内容がやってたので、TVerでチェックしてみては?と
思いました。朝食用意しながら背中で聞いていたのですが、なんか、
一月で2キロってワードが入っていたと思います。
ハッピーセットの件、ぎんたもすごく悲しくなりました。で、思い出したの
ですが、マックのCMで、家族4人でマックに来ていて、小学校中学年くらいの
お姉ちゃんが、ちょっと考えて「もう、ハッピーセットはいいかなぁ」と
卒業宣言?するのをまだハッピーセットが嬉しい妹が怪訝そうな表情で見る。
みたいなのがあったような。あれ?ハッピーセットって年齢制限とかなかったの?と思いました。売れればいいだろうみたいな売り方なのか、、、、?
ポケモンの会社とはどういう取り決めになってるのか?とか考えました。
ニュースで子どもが、「ああいう大人にならないようにしようと思いました」
と言っていて、(がんばれ!!)と思いましたが、貧すれば鈍すで、社会情勢
が悪いと、何をしてでもという方向に人は行きがちだから、大人がもっと
社会を良くしていかなきゃな、と思いました。
で、食べ物を粗末にすると罰が当るとか、(もったいないおばけがでる~とか)
いうけれど、システムとしては合ってると思います。
あの、店に放置されたバーガー、、それでもいい!ごちそうだ!!食べたい!
と群がる子どもなんていうのは今の日本にはいません。(そうしたいけどできない子はもしかしたらいるかもしれないけれど)でも、食べ物がなくて
餓死寸前という子どもがいる国はあるでしょう。ありますよね?したら、
その国で亡くなる子は、「弾き飛ばし」で、次は日本に来れます。だって
「弾き飛ばし」力が最大だから。すると弾き飛ばされた日本人の、まあ
よく食べ物腐らせちゃうタイプの人が、動物経由したのち最貧国へ生まれ変わる
と思うんですよ。このシステムが「平等」です。
キリスト教の(うろ覚えだけど)「金持ちが天国にいくのはらくだが針の穴を
通るより難しい」もこのシステムのことを言ってると思います。
だから、日本人は食べ物が余る状況を見ると、無意識に恐怖を感じるんだと
思います。こんな状況はけしからーーーんと企業に電話とか掛けたり、メール
したり、SNSに投稿したりするのは合ってると思います。
ポケモン好きのお子さんがいる親が行動すれば一番きくし(顧客だから)
子どもにもよいお手本になると思います。
なにか、赤い実さん(神でほとけ)が心にふっと思った事があったら、
教えてください。よろしくお願いします。
ぎんたさん、こんにちは!
太ってる場合じゃないなって、やっと本気出したけど簡単には減ってくれない。。でも継続するね!
話が少し違うけど、たまにAIと対話して教えてもらってて。
プーチンはNATOへの恐怖で自縛してるよね、って語り合ったの。
もう大抵の国々は戦争なんてしたくないし、大国である自国(ロシア、中国あたり)さえ平静にしてれば脅威じゃないのに自分から手を出していくのが理解に苦しむよね。
ほんと、八正道してくださいと思います。
mani 先生、
確かハタ・ヨーガについては同様のことを言った記憶があるのですが、マツェンドラナータ、ゴーラクシャナータの系譜は、彼らが9〜11世紀頃の人とされ、伝承が文献にされたのが後代ということで、歴史文献学ではあまり興味を示さなかった感がありますが、ヴィルーパの著とされるAmṛtasiddhi の発見によって一気に様相が代わり、ハタ・ヨーガ研究が活性化しております。これが最新研究の一つと思われます。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390585407760485376
これと別に前も言ったと思いますが、チベットの訳師で高名なヴァイローチャナの系統のハタ・ヨーガもあります。これは翻訳文献からか、あるいはニンマだからか、あまり学会では注目されませんが、インドでの成立は8世紀を遡ると思われます。
さらにダルマキールティ『量評釈自註』での仏教の母タントラに関する言及から、恐らくハタ・ヨーガも7世紀には成立していて、さらにはインド・チベットの伝承どおりもっと早くからあった可能性が高いと思ってます。
中国に伝わらなかったのは、まさに密教だからだと思ってます。翻訳史を成立史にするのは無理だと思います。下限になっても、その流れで成立史を描くのは無理でしょう。
「ブッダは一切を知っていた」というのは、ハタ・ヨーガも知っていたということでしょうか? それはそうだと思います。『梵網経』の記述で過去世の話が出てきますが、ブッダはあらゆる過去世、地球とかが何度も生滅している過去世の記憶があるので当然でしょう。
oさま こんにちは。
>確かハタ・ヨーガについては同様のことを言った記憶があるのですが、
すみません、何度も教えていただいているのに、頭に入ってませんでした。スルーしてしまっていたようです。
>ヴィルーパの著とされるAmṛtasiddhi の発見によって一気に様相が代わり、ハタ・ヨーガ研究が活性化しております。これが最新研究の一つと思われます。
そうか。。不勉強ですみません。でも、教えていただいてぐぐっと身近になった感じがします。
わたし的には、サーンキヤは気になっていていろんな解釈の可能性を感じています。
これから資料が見つかるか分かりませんが、ブッダとクリシュナ・ヴァースデーヴァ(『バガヴァッド・ギーター』と関連付けられるヤーダヴァ族の精神的指導者)の関係も気になっています。ブッダはクリシュナに教えた可能性もあると思います。
>「ブッダは一切を知っていた」というのは、ハタ・ヨーガも知っていたということでしょうか?
後にどのように展開するかは知らなかったとしても、理論的な対応は見事です。あたかも「知っていた」かのような完璧な対応です。ですから、縁起自体も凡夫に合わせて瞬時に編み出した可能性があります。
輪廻を考えると、oさまのおっしゃるような説明もまったく納得できます。
いずれにしろブッダは一切智者であるというのには疑いはありません。
mani 先生、
クリシュナ・ヴァースデーヴァ、懐かしいです。学生のころサーンキャと唯識、パンチャラートラのヴューハ、仏教の生起次第が関係すると思って検討したことを思い出しました。
今考えると法性は体験するけど、それを言語化するとヴィヤヴァハーラによって適当に乗せられちゃうので、ヴィヤヴァハーラの起源とか変遷を検討しても仕方ないというか、ほとんど徒労だとあの頃の自分に言ってあげたいです。
なので、受用身や变化身の「ブッダ」が「クリシュナに教えた可能性」も考えられますが、クリシュナも法性として体験したけど、ヴィヤヴァハーラによってヴァイシュナヴァナ的に言語化されたんじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?
oさま おはようございます。
クリシュナ.ヴァースデーヴァに目をつけたのは、ブッダとかぶるからです。
これは、自分の勘なんだけど、大念処経が説かれたのはクル国のカンマーッサ・ダンマというところらしいです。
で、クルといえば、クルクシェートラ。後にバガヴァッドギーターの舞台になるところで、めったにブッダが出かけなかったところです。
ここを問題にしたのが『パティパダー』(テーラワーダの月刊誌)で、誰かがスマ長老に質問をしていたのです。
大念処経はテーラワーダで重要視される経典ですが、なぜサーヴァッティなどブッダがよくまわっていた場所ではなく、辺境のクルで説かれたのか、と。
そこで、ピンときたのです。わたしのヴィヤヴァハーラかもしれませんが、ヤーダヴァ族のクリシュナ・ヴァースデーヴァと自然に結びつき、ブッダを敬いながら彼を捨てウパニシャッド思想に基軸をおいて再編したと、思ったのです。
だから、『バガヴァッドギーター』には仏教の影響が色濃く見えるし、我と無我の対立も顕著です。なのに、争わないのです。
>クリシュナも法性として体験したけど、ヴィヤヴァハーラによってヴァイシュナヴァナ的に言語化されたんじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?
どうも、それだけではないように思うのです。わたしは、四句分別は、当時の沙門たちの独自の思想でウパニシャッドの基調となっている思想だと思っています。
それをブッダが縁起と絡めて論理的に行き来出来るように組み替えたと思っています。これが、ブッダのすごいところです。そこに気づいたのが、龍樹です!
だから、彼も、論理を自在に行き来出来るやり方を身に付けたと思っています。
なかなか説明するのが難しいのでいろいろ悪戦苦闘しています。
mani 先生、
クリシュナ・ヴァースデーヴァとブッダの関係は、それだけではなんとも言えないですね。
> わたしは、四句分別は、当時の沙門たちの独自の思想でウパニシャッドの基調となっている思想だと思っています。
> それをブッダが縁起と絡めて論理的に行き来出来るように組み替えたと思っています。これが、ブッダのすごいところです。そこに気づいたのが、龍樹です!
だから、彼も、論理を自在に行き来出来るやり方を身に付けたと思っています。
以上はmani 先生の説が正しいと発表された時に思い、ずっと従って来ております。
oさま
四句分別は肝ですね。それは置いておいて、わたしは『バガヴァッドギーター』が気になっていました。あれはスムリティあつかいですよね。アーガマもスムリティといえば言えます。
『ギーター』は仏教の裏返し、いや逆バージョンとも言うべきものだと思っています。
たとえ、ヴィヤヴァハーラであっても、新しい説とするのは容易ではありません。
>ヴィヤヴァハーラの起源とか変遷を検討しても仕方ないというか
わたしもそのように思ったこともありましたが、浄土教を知ってから、考えを変えました。
それと同時に、仏教ではなく、バラモン教やヒンドゥー教のアートマンの説とする場合においても(仏)法を正しく理解していないと出来ないのではないかと思うようになりました。
今も、実際、そう思っています。
そうでなければ(=ここまで正しく仏法を会得していなければ)アートマンの思想に行くことも難しいと思います。仏教にも、バラモン教にも、ヨーガが必要とされるゆえんだと思います。嘘があってはならないのです。
mani 先生、
四句分別は肝ですね。それまでのティレマンスとかの解釈だと隔靴掻痒でよく分からなかったのがmani 先生の解読で一気に開け、六十二見や十四無記なども明解になりました。画期的な研究成果だと思います。
それだけでなく四問記、中道などなどmani 先生の論理解読は圧倒的です。
浄土教は因縁、縁起ですね。ヴィヤヴァハーラとは違うように思います。因縁、縁起は有意味だと思われます。だから経典に説かれていると思います。巧く説明できませんが、例えば現代でも悟った聖者の伝記を読んで、このようにすれば悟れると理解でき、またオイラにもなんとかなるんじゃないかと励まされるようなかんじかと思います。
ヴィヤヴァハーラ的研究の典型は「アミダ=ミトラ」の西方起源説のようなものですね。
oさま 四句分別を評価いただいて嬉しいです。
わたしが、ブッダで驚愕したことは、一つの論理を別の論理で置き換えるやり方です。そんなことが出来るなんて思いませんでした。
その繋ぎ方について、倫理(=善悪)を軸にしていることを知ったことが、ますます驚愕でした。
全部持っているものは、わたしたちの手元にあるものです。つまり、凡夫が持っているものに過ぎない!
だけど、それを巧みに使いながら、すべての生類を救うように調えるなんて、なんてブッダはすごいんだろうと思います。
他にも神様はたくさんいるけど、たとえば、絶対的な唯一神でも、他の生類を、実際に救えてないじゃないですか?
つまんないなと思います。
>浄土教は因縁、縁起ですね。ヴィヤヴァハーラとは違うように思います。
なるほど。一つの論理の枠内で、ということですね、わたしの言い方では。
そういう意味では、時間軸を空間軸へと変換するやり方かもしれません。
それによって、空と縁起の変換がスムーズになった、というか、自在性を得た、というか。。
mani 先生、
論理については、私は頷くだけです。
> それを巧みに使いながら、すべての生類を救うように調えるなんて、なんてブッダはすごいんだろうと思います。
ブッダの言う通りにすれば、少なくとも苦は軽減しますよね。
> 絶対的な唯一神でも、他の生類を、実際に救えてないじゃないですか?
ですよね。一神教の神って『梵網経』で説かれる一人だから寂しくて色々創造して、創造物に崇められる神がピッタリだと思います。
それで有の立場だから別で書いたヨレンタの言葉のように正義とかいって争いになって苦しみを増やしてるだけにしか思えません。
祖国を殲滅されても怒りすら起こさなかったブッダと全く違いますね。
無我、空性と利他が世界の常識になったら、かなりよくなると思います。
いろいろ、失礼いたしました。
身体の部位を一つだけ選ぶとしたら
丹田の一点ですね
器官や部位ですらない1点かも
煩悩や雑念を調御するのは脳ではなく肚
全身は1点に、1点は全身に
インドってアビダンマでもヨーガでも
百科全書的な知識体系が好きですよね〜
明日人生が終わるかもしれないもで
一つだけ選ぶ
カエルさま
>インドってアビダンマでもヨーガでも
>百科全書的な知識体系が好きですよね〜
うーん、そうなのかな~。
インド哲学は、もしかすると丹田型でもあるかな、って思ってます。
丹田と百科全書の、二大神ってのはどうかなあ。。ヴィシュヌとシヴァみたいに。
ひさびさにどうもです。
このブログテーマのコメント欄、議論が盛り上がると誰が誰に返信したかひじょーーにわっかりにくいので、ま、いっか~~~モードになっておりましたが、ちょっくらお節介にやってきました。
wordpressのコメント機能
> コメントを_____階層までのスレッド (入れ子) 形式にする
よく見たらこのブログのコメント欄も最初のコメントに対して入れ子になってるっぽいですが、地味すぎるのでよく見ないとわからなかったです。つか、コメントの返信が途中で途切れているように感じるのはコメントの階層が浅いから?
以下のリンクのような感じでカスタマイズすると可読性があがると思いますが、、、なんつーコトをセンセに言うのはコクなんじゃろか?とも思ったりするけど言ってみたり。
と、言ってみたとして仏教者になんか言うと「関係なければスルーされる」ので言って見ます。めんどくさかったらスルー進行で。
メインテーマではなく、個々にカスタマイズする方法です。(メインテーマを壊さないと復帰しやすい、メインテーマを壊すと復帰しにくい)
ttps://web-ashibi.net/archives/900#toc4 ←(wordpressの)CSSで見た目を調整した例
ttps://wordpress-tips.com/post-120/#コメントの有無でタイトルを変更する例 ←「…する例」までurlリンクです
残りはAIに!
やった!と嬉しくてしかたないので書かせてください。
旦那に「お墓は買わずに樹木葬でどう?」と打診したらOK出た。
よかった! 子どもにそんなことで苦労させたくないからさ。
千の風になってーーー♪がいい。
意見の一致!いいですね、おめでとうございます!
個人の墓だと掃除が大変です。我が家の墓は、なぜかドクダミが大量発生して、
年数回格闘しています。
お隣にも移っちゃったので、申し訳なく思っていたのですが、うちほど広がらない
のです。砂利を敷いてあるからかな?
テレビで観た海外のどこかで、お墓がすごく可愛く飾り付けてあり、それを
観に観光客が行くみたいな場所があって、お墓があるのもまた善し、という感じでした。でも、ものすごい広大ですてきな森のようなところにお家の木があって、
そこに辿り着くまでと、自分達の木にお参りした後も、一連がピクニックみたいなのも楽しそう~、、まさに鎮守の森ですね~(探せばもうあるよね)
渋谷ってここ10年ぐらい?(もっと前から?)アーバンな大人の街に転換しようと
して失敗してるじゃないですか。多分、金持ってる大人を呼び込んだほうが
渋谷に金が落ちると思って。(あるいはかつて渋谷で遊んだ若者が大人になったから
その人達をターゲットにしよう的な)で、あのハロウィンで(無意識に)若者に抗議の行進されて、もの破壊するやついるからって仮装も禁止?(まあ仮装できると犯罪者が喜ぶから?治安維持のために?という体で)
楽しいことも、一定水準レベルの治安が維持されてないといけなくて、私は
渋谷のハロウィン楽しそうって思ってました。好きな格好に仮装、でもそれは
その人の「個性」か「中身」みたいで。もう渋谷が無理なら
どっかの地域復興で仮装盆踊りとかやったらいいのに。安全にやるために
智恵をしぼる。
仮装盆踊り! それなら盛りあがりそうよね。
いいね(≧∇≦)b
風習は、無常ゆえにアップデートしていけばいいのだ!
樹木葬どころかほんとは個人的には風葬でいいんだけど、法律がそれは許してくれないからね。
五蘊にまみれた認識主体(A)
→
五蘊を相対化した認識主体(B)
→
それ(B)を相対化した認識主体(C)
→
それ(C)を相対化した認識主体(D)
→
それ(D)を相対化した認識主体(E)
→
→
→
どこまで行けるのかな
mani先生 こんばんは。 身体と心のお話をうかがい、
1 アドバイスを聞いたチューラパンタカの変化について考えました。するとそれは
2 法句経の〈言葉〉218・276、〈三相〉277~279・282、〈智慧〉383~385のことと思われ、
3 その順は、八千頌般若経初品の説く順のようにも思われました。
拙く長い文となってしまい申し訳ございません。
1 チューラパンタカの変化について考えました。
〇言葉…言葉へのとらわれがとけ、浄に向かって只管に行う。
〇三相…ものと身の塵浄も、起きては消えて姿が変わる。苦も楽も心のほかのはたらきも、すべてのものごとは、条件により起きては消える。くびきを負い、巡るばかりは徒なこと。
三昧に入り三相が観え、気づきと放下をくりかえし、或る時、何かカラリと変わる。
〇智慧…明智がわかり、教えが成った。浄も不浄も取りはしない。
2 それは法句経の〈言葉〉218・276、〈三相〉277~279・282、〈智慧〉383~385と思えました。
〇言葉…「言葉で説き得ない」(法句経218)、「自らつとめよ、如来は教えを説くのみ。」(同276) 即ち「教説を聞き覚え分類するのは体得ではない。献立表に料理の味はない。権威・伝承・概念にとらわれず、如来の方便を自ら試し体得し初めてわかることを直に味わうべし」。
〇三相…「心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。」(同282)とあり、世尊の教説のメインは、入三昧し、三相を観る、四諦による智慧の到達だと思われます。277~279は到達へのポイントをはっきり示しているように小生には思われます。
〇智慧…その到達を示す世尊のことばが、法句経に並んで記されていました。
「諸現象の消滅を知って為されない(akata)ものを知る」 (法句経383)⇒avikārā (無為)
「対立する二つの事象を超えるなら彼はよく知る人である」(同384)⇒avikalpa(不分別)「彼岸(覚り)も此岸(迷い)もなく怖れもなく束縛もない」 (同385)⇒prabhāsvarā(耀)
これらのことばの類義語が八千頌般若経梵文の冒頭のキーワード(⇒右)になっていました。
3 〈言葉〉〈三相〉〈智慧〉の順は道行般若経(T224)初品が説く順に似ていると思います。
〇言葉…菩薩や到達した智慧は、言葉や概念にはない(法字了無425c21)という注意喚起があり、「不有有心亦不無無心426a2」という第四句(または双非)のみで、最初の説明が終わっていました(ガンダーラ断簡も同様)。カーティーヤーヤナ経が想起されるようにしたのか、あるいは、言葉の及び得ないところに読み手が気づくきっかけとして第四句が適している、と撰者はみたのかもしれないと思いました。(支謙訳以降の般若経には、prabhāsvarā(耀)、avikārā(無為)、avikalpa(不分別)に対応するキーワードが、ここの説明に加わっていますが、道行般若経では、それらの語は冒頭にはなく、「三相」から徐々に現れ、「智慧」のところで一気にまとめて記されており、その記し方は観察に沿っているように思いました。)
〇三相〈426a19~ 中公文庫P14.L9~〉…五蘊にとらわれず取得せず(不住・不受)、有為相を追わず(不行)、一切の概念事象を取得しないゆえ三昧は際なく無量である(一切字法不受 是故三昧 無有辺無有正426b1)。それは離有為・離有辺・アナッタ―の三昧と思われました。
〇智慧〈427c15~ 中公文庫P34.L11~〉…上記の「無有辺無有正」が、到達した智慧を言いかえているとすると、「摩訶衍者 無有正也 不可得辺幅427c30」とあることから、「摩訶衍」とは、「無量無比の、際なき智慧 = マハー智慧」であり、到達した智慧の別名と思われました。また、衍と空は等しい(衍与空等428a7)という句がありました。
到達した智慧の言いかえと思われる句を、縦と横が類義の関係に、ある程度なるように以下に記してみました。各自が修めたことを各自で確かめる手がかりになるように思います。
〈世尊のことば〉 〈道行般若経〉 〈梵文・中公〉〈羅什・支謙〉
為されない(akata) (法句経383) 無有作・為無作など avikārā 不壊
ひろくて涯しがない(法句経180) 不可得辺幅・無所住など 変化しない 無為
二つの事象を超える (同384) 不有不無・無有両法など avikalpa 不分別
虚妄な論議をのりこえて(同195) 不可知・不可見など 分別を離れる 無雑念
彼岸此岸なく束縛もない (同385) 譬如空・無所生など prabhāsvarā 本浄
憂苦を渡り安らぎに帰す (同195) 無著・無縛無脱など 浄く輝く 浄・光明
*漢訳「浄」は「一を争わない」=「無縛無脱」「無有両法」ということかもと思いました。
ガンダーラ語仏教写本の、八千頌の断簡があるコレクションに、同じ所で見つかった八偈品・法句経があるそうです。古経に世尊の肉声を聞く人たちが、修行において一層近しく世尊の声が聞こえるように、八千頌初品を編んだのかもしれないと思いました。そして、道行般若経の「道行」が「仏道を行じて歩むこと」を示すならば、上記の法句経276~279・282が、法句経第20「道品」にあるのも、たまたまではないように思われました。
読んで下さり、ありがとうございます。
*
> 世尊の肉声を聞く人たちが、
世尊 の 肉声を聞く人 とは 釈迦牟尼 であり
牟尼 と 平等なる 人 であり あなたです
“声” とは 発せられることにより 即近・隣人 に 届き
隣人 とは その声を聞く “ 自分 ” ニ ホ カナラズ
一歩 の 発するところに 似歩 が 起きます
“みずから” と 「 他 」 とを 分けるのは
“ 分別 ” であり 自らに起きる 「 自 」 に 他なりません
「 愛 」 するのも 執着から離れるのも
「 自 」 の中 に 起こす・起きる こと です
読んで 得た こと とは
読むことの中 から ( 読むという歩み 方 )
“ 其処 ” から 出でることはありません
ただし 歩んで得たこと を 言葉として 読む限り
歩んでいること を 分別可能です
( その得たこと とは 歩み方であり 言葉ではありません )
読んでいるのでは なく 当てはめているのです
( 当てはめて 等しい とされる 歩みがなければ
どこに 等しさを 比べることが起きるのでしょうか )
Su.799( 中村元 訳 岩波 「 ブッダのことば 」 180p )
『 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 』
当てはめている 「 自 」 も
その対象の 「 他 」 も
「 自 」 の 心中に起きている 「 分別 」 です
> 修行において一層近しく世尊の声が聞こえるように、八千頌初品を編んだのかもしれないと思いました。
釈迦牟尼 と 共に歩みを運べなければ
牟尼 の 声 は “ム ナシ 苦 ヒ ビク” の 身 です
“遠い”・“近い” とは 分別によって決められた “虚 理”
( 知覚 に あって 虚しく 響く 比丘の耳・身体 )
「 無 」 とは 「 有 」 に 他ならず
ムナシ とは ウナシ の 聞き違いです
沈黙 の 「 瞑想 」 から 「うなし」 と 発(音)すれば
「む」 という 音 が 聞こえてきます
それを 聞いて 得れし と 聞くことができれば
悲しみ の 発するところから
離れて居ます ( はなれ “今” する )
あなたは 頭で理解する
足で歩む という 「 同行 」 の 意味を知るまでは
( 意味 を 歩む までは )
聞いて・読んで 理解する ということ から 離れられない
ここまで 記述しようと 読んではもらえない 、、、、
( よまないのはわたし の 布 世 為 かな )
・
*
> 咲いてる花からタネをとって、次の年に生まれてくるんだから、仕方ないんだよ。どうしても似たような草花になってしまいます。
それは 咲いている花 を 見ているのが( 記述しているのが )
アナタ ダ カラ ( あなたの体 だから )
近くにあるのに 遠くにあるがごとく キョリ を 量る
牟尼の目 で 見ているから 近くと 遠くとが 比較できている
( けれど )
執して トル のは 「 自己 」 の 眼 の 我が身
同じ幹(枝) から 発する 同じような花
一つの 黄色の花 と 思えるけれど
黄色 とは
白い“色” の 範疇に起きている 「 識 」
背景 に ある 枯れた芝 の茶 と 瑞々しき緑の葉 とは
認識が作る 垣根の中 の 出来事
ミドリ(看取り) と 枯れ( 彼 れ ) との 境目を作る
わかるまでは わからない わかるということ
宇宙に生きている 命 という “ 自身 ” が
部分である けれども
身 摂れる 全体である
・
春間さま
>わかるまでは わからない わかるということ
「わかる」ということから離れなさい、とブッダは言った
と理解しています。
それじゃぁ、「わからない」ということになるのか?
ということなんだけど、その迷いが消えたとき
明智が輝くということ なんだと思っています。
ぎんたさま
>先生、あの危険な団体では「信行解」という言葉をよく使います。
>信じて(教団とか教主とかご霊言を)、行って(三つの歩みの実践)をすると
解る。解ってから実践するんではダメで、足で歩むから解ると。
もしかすると、サーンキヤ(インド哲学・アートマンの哲学)になってるかもしれない。。
>ねこだ(信)!ねこ、やってみる(観察と考える・地雷踏む行)←今ココ
鳩やってた人の悟りの例を『大智度論』で読んだこと、あります。
猫も鳩も、八万大劫、つまり、果てしなく、ほとんど無限に続くと思う。
「観察と考える」は、ヴィパッサナー(観察)と煩悩炸裂(考える)だよね。
声聞っぽいですね。だけど「信」から入るのは五根五力で、やっぱり声聞っぽいけど、
信だけではないらしい。阿弥陀仏とかは、拝まないんだね。
>自分の中身が誰だか分るのが大前提だと思います。
>真如苑史の猫の部分のあの改訂!!まじ神!!あれがなかったら(おや?)
>ってなんなかった! ↑これは他の人も気づいてWeb集会に書いてたよ!
真如苑史の「史」が気になります。キリスト史でもユダヤ史でも同じようなもんだけど、「時間」が入ると「涅槃」にはいけない。
*
> マニカナが終了して、ここにいる人が、会社組織とか、なんとか研究所とかになって
> 一緒になにかしようってなった時とか、一体どうなっちゃうのかとか。。。
マニカナ が 終われば わたしも 終わる
マニカナ では 管理人エム 様 と (無理やり)一緒に
何(?) か を している( しでかしている )
その “ (無理やり) ” 一緒が パワハラ ?
> 春間さんの言動がパワハラと思う人も多いでしょう。
わたしは 会社にも 研究所にも 決して所属しない
ここで あなたが “ パワハラ ” かも と 憂う
いいえ 違います
読まなければ すむことですし、 読んでも いつでも 離れられます
読むことを離れれば パワー から 距離をおけるし
離れようとする人には パワー は 決して伝わらない
わたしは ( 会社や研究所にいるような “上司” ではありません )
あなたが 上から目線で見るのを
下から 受けとめている のみ
( わたしが 上から目線だと
上から目線で決め込んでいる
ということに 目をつぶっている )
上下 が 「 縁起 」 に 起きることに 目をつぶると
上か下 かを 自己の裁量で 決める( 決めつけて顧みない )
眼 は 顔の中についているけれど
認識 は 頭の奥底 から 生れ出てくる
奥底 を 言い換えると “ 上 ” となることを 理解したくない
ここが 理解できると 時 を 超越することとなる
( 理解したくない時 時 に 縛られている )
↓
*******
↓
わかるまでは わからないこと
ですが
釈迦牟尼 は “ 「わかる」ということから離れなさい ”
とは 決して言ってはいない
そういうこと を 超越して わかりなさい と 諭している
わからなかったこと が わかる
ということ が わかるということ
何がわかった かは “ わかるまではわからない ”
“ わかる ” ということは 「 分別 」 であり
ゴミ を 分けること を “ 分別 ゴミ ” という
ゴミの中で ゴミを分けても
分けたモノ は ゴミから出でず
・
近侍郎さま ありがとうございます。
熟読しています。
が、うまくトレースできないので、『法句経』と、『八千頌初品』や『道行般若経』が重なるのかわかりませんが、「そう近侍郎さまは読もうとされている」というのは伝わります。
わたし自身は、『法句経』はどちらかというと声聞乗の立場だし、『般若経』は菩薩乗をメインとするので一切智を希求することになるだろうと思えるので、
〈言葉〉〈三相〉〈智慧〉は善いところに眼を付けられていて必要な項目であるとは思うものの
『法句経』と般若経典類の違いの方に目を向けて行きたいなと思いました。
自分としては、お釈迦様のすべての理論(法)は完璧なのです。
mani先生 お忙しい中、拙文を読み頂き、まことにありがとうございます。よくいわれる話頭のもとが、八偈品801・803や、法句経383~385に現れているように思いました。
八偈品五経と第4句の関わりや、800の頌について教えて頂き、いろいろつながってまいりました。ありがとうございます。
春間さま 拙文をお読み頂きご見解を賜り、まことにありがとうございます。
お二方へのコメントをあわせて記す御無礼をお許しください。