『実利論』からの引用

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今回は、画像がやけにでかいです。上村勝彦先生の『実利論』(岩波文庫)です。『実利論』には、哲学の定義があります。大事だからあげてみましょう。

哲学はサーンキヤとヨーガと順世派(ローカーヤタ)とである。哲学はヴェーダ学における法(善)と非法(悪)とを、経済学における実利と実利に反することとを、政治学における正しい政策と悪しき政策とを、そしてそれら[三学問の]強さと弱さとを、論理(へートゥ)によって追求しつつ、世間の人々を益するものである。

『実利論』の作者カウティリヤによれば、学問は四種である。哲学は三種でサーンキヤとヨーガ、それに順世派であるとされる。順世派というのは、ここでは、ニヤーヤ・シャーストラ(ニヤーヤ教典=論理学)のことです。

『ニヤーヤ・スートラ』の注釈『ニヤーヤ・バーシャ』にもカウティリヤの『実利論』が触れられていて、ニヤーヤという学問のことを「追究の学問」ととらえているのです。

つまり、カウティリヤは論理を駆使して経済・政治などにおける倫理的な側面を探っていこうとしているのです。基本姿勢は、ブッダの道です。これは、もう、どう考えても、ブッダの法なのです。

だから、インドは、アートマンを持とうが持つまいが、いずれにせよ、ブッダと共に学問を歩んできたのです。ブッダの教えだから、誰も排除せず、争わない道にあるのです。

哲学は、サーンキヤ、ヨーガ、ニヤーヤ(順世派)なのであって、サーンキヤは結局一種のヴェーダ学(=内我の学問)と結びついて、一神教の世界観を作り出して行きます。例えば、シャンカラの不二一元論哲学のような思想です。

だけど、それら内我の学問に圧倒されないのは「争うなかれ」という、ブッダの法を守っているからなのです。

神を認めるヒンドゥーの世界は、仏教を捨てヒンドゥー教へと変化していきました。しかし、神を認める立場であっても、神を認めない(=無我を説く)仏教を認めているのです。

神々が輩出する世界は、一神教にもなり多神教にもなるのです。そこで、ヴィシュヌとシヴァの二大神が人気を誇るヒンドゥー世界が作られていったのです。そして、又、当然、ブッダもヴィシュヌの化身としてヒンドゥー世界に確固たる位置を持つのです。

論理を駆使して神の世界にいたる。。。まことに、尊いおしゃかさまなのです。

えいっ! そんな終わり方かいっ?!

コメント

  1.  春間 則廣  より:

      「 和食では、器を手に持って食べるのが基本的な作法 」

       こぼれやすいモノ を こぼれないように 注意する(意を注ぐ)

         こぼれたモノ は   こぼれやすい
          ( 手皿 )    から “手” に 注意する

      器 → 五蘊・ 気 世間(loka-dhaatu) の “手皿” を 知る

       食  の  機  に 即して(器を手にして)   
             勝手 に    負ける  ( 背負義 が起きる )
         (  目を伏せる  ・  ハンガンびいき を  しる  )

         差違 判 観  は   半眼 から 飛び出す

         一歩一歩    を   大切に運ぶ  ( 経行 )

    • mani より:

      >こぼれやすいモノ を こぼれないように 注意する(意を注ぐ)

      上手の手から水漏れが起きますから。
      まあ、わたしの場合、漏れっぱなしだけどね。

      >一歩一歩    を   大切に運ぶ  ( 経行 )

      この精神が大事なんだよね。
      それにしても、春間さま、わたしは、「言葉尻を捉えただじゃれ」なんて言いません。

      『スッタニパータ』で、ブッダのだじゃれ(?)も読んでるからね。

  2.  春間 則廣  より:

    > わたしは、「言葉尻を捉えただじゃれ」なんて言いません。

       言いもしないこと  が “言い”・ことば になる

           その 「義」 を 疑 する

       心にないこと  が  言葉には ありますか ?

            *********

      だじゃれ が 問題ではなく

      駄洒落  という時の  「義」 が 問題です

        何処から始まる  か  という 基点です

      言葉尻を捕らえる 
       ということは    何処(の起点)に起きていますか ?

            *********

      わたしは  ここに 書き込んでいます
     ( わたしは 何処にいますか ? )

       書き込んだ  「義」   に も います
                     しかし
      読むあなたの   ( 読み取る“義” に いるのです )
           読まれて   構築された 仏教思想

       読み取った“義”  は  何処にいますか ?
            ( “義”  の 「 住処 」 は何処ですか ?  )

      「 唯識 」 は その  「 住処 」 を 明かします

        瑜伽行 の 中 に  “偽” は ない( 「 住処 」 を持たず )

         「 行 」 は 必ず  「行」 の 主体に  問いかけ ます
            主体(五蘊)    とは    どのようにして うごめくか

     聞く・聞かず   とは   誰の咎 ?
      「 知ると知らざると  何誰が罪過ぞ 」
       「 解宝の人は 礦石を宝と見る 」

       どのように読もうと   読む限りは  すべて 解 を 持つ

        礦石  は   礦石であるゆえ に  礦石となる
     ( ゆえ を 問う  → 礦石を問う講釈  )

        礦石 とは 「 宝 ・  法 」  を たもつ身に 宿る

      あなたの  一番大切 な あなた 
            ( 私は何処に 「 住処 」 を持っていますか )

        「 マッリカー経 」   ミズカラヲタスクモノノタスク

  3.  春間 則廣  より:

      空海  「 風信帖 」  第一帖 

        *********

    > 止観妙門 “頂戴供養” 不知攸厝

    「 止観の妙門 不知 オクトコロ 」  “ 供養に起きる攸 頂戴する ”

       生きる と 死す(シヌ・止ス)

      生きる を 「 生」 とし、 動くことを意味する

       何故 生きることが始まるのか( 命はいかに生まれ出るか )
         ということを  明かすことはできない
       (すでに始まった “後に” 言える ことであるゆえに )

       始まる前に 何があるかを 始まった ところ(土俵の中)で考える

        「 死 」 を
        生きている視点で(土俵上で、土俵内のこととして) 考える

      空海  「 風信帖 」  第一帖 

        *********

    > 止観妙門 “頂戴供養” 不知攸厝

    「 止観の妙門 不知 オクトコロ 」  “ 供養に起きる攸 頂戴する ”

       生きる と 死す(シヌ・止ス)

      生きる を 「 生」 とし、 動くことを意味する

       何故 生きることが始まるのか( 命はいかに生まれ出るか )
         ということを  明かすことはできない
       (すでに始まった “後に” 言える ことであるゆえに )

       始まる前に 何があるかを 始まった ところ(土俵の中)で考える

        「 死 」 を
        生きている視点で(土俵上で、土俵内のこととして) 考える

        小佛陀 と呼ばれた  天台智ギ は
      それを  「 マハー 止観 」 と 明かす

         「 止観 」 とは “ 死 観 ” と    同音である(同意である)
      ( 「 死 」 の 何たるを “知・シ” って  相違を 起こすことが可能 )

        供養 ということ を 知る    効用・供用・ 「 経 」 用
      「 法 大事因縁  共建法幢 報 仏恩徳  」

        「 法 」 とは
              大事なる「 因縁 」

        法幢 を 「 ひるがえして 」 仏・恩徳 に 報恩 する

  4. Pocket より:

    mani先生

    >ブッダもヴィシュヌの化身としてヒンドゥー世界に確固たる位置を持つのです。

    ニヤーヤが言及されていたので、『ニヤーヤクスマーンジャリ』を見てみました。

    「この世において、何らかの究極の目標を求めている人々がいるが──」(iha yadyapi yaṃ kamapi puruṣārthamarthyamānāḥ-)

    「善逝(スガタ)の徒(仏教徒)たちは”一切処にあるものである”と言う。」(sarvatra iti saugatāḥ)
    ということで、ウダヤナにとっての仏教徒とは、一切処に偏在する識を説く、唯識性を説く瑜伽行唯識派なのだな、と。

    そういえば、中村元先生がシャンカラ本で「現代のインドの若い学生(当時)にはシャンカラではなくダルマキールティが人気だ」とおっしゃっていて、ダルマキールティを大変高く評価する中村先生の主観が混じってるのじゃないかと思いつつそうかもなーと思ったことがあります。

    ニヤーヤに関しては、
    「述べられたことが適切、妥当であること」(yāvaduktopapanna iti naiyāyikāḥ)
    とあって、すごく仏教だなあと思いました。

    世間のよりどころ(ローカナータ)たるバガヴァットを説く唯識仏教は果たして、有神論者たちに仲間と思われたのか、異端と思われたのか、色々気になる今日この頃です。

    取り留めが無くなりましたので真実語を唱えて締めくくりとします。

    おん、ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそうぎゃーてー、ぼーじーそわか!」

    一切が吉祥でありますように!(Sarvamaṅgalāni)

    • mani より:

      Pocketさま こんばんは。

      ウダヤナが、出てきますか。。かれはねっからのアートマン論者ですね。

      ニヤーヤやってた時は、ウダヤナは絶対にやろうと思っていた人物でしたが、行く前に龍樹に流れて終わってしまいました。
      新論理学派の祖を、ガンゲーシャ以前のウダヤナとする人もいます。そのくらい重要人物だと思っています。

      中村先生は、ダルマキールティがたしかにお好きはお好きですが、先生自身は論理的なセンスは皆無だと思っています。先生の‘論理学研究’というのはでたらめだと思っています。

      論理学というのは、ヨーガの要素が色濃くあります。その論理を受け入れて人生を歩むんですから当然そうなります。ブッダもそうですよね。

      学問的にいうならば、ブッダは倫理学者でもあり、論理学者でもあった、というのがわたしの理解です。

      •  春間 則廣  より:

           物事 は 量子論的 に 考えなければならない

            近くの事 は  大きく “感じる”
            遠くの事 は  小さく “見える”   “ こと ”

           “ こと ” は   重大である ( 大小をいう )

           小さいこと   は         見過ごされやすい
           大きなこと( 重大事 )  は  大したことはない
            どちらにしても       ( 見過ごしても小事である )

           ここにある 論理的飛躍 を  埋めることが出来なければ
             「 論理 」  が  手の内にあるとはいえず
         非r論理離的思考 に 染まっている と “ 知らねばならない ”

            「 仏法非遥 心中即近  」 卍続蔵1-41-4 「般若心経疏」 明曠
                   「 心中即近 」 とは  遥かにあることである

           普通( あなたの論理では ) 遠くのモノとは 手が届きにくい
              近くのモノ  へ  手が届いている と “ おもい違う ”

            量子論 では  “一つの電子” が 同時 に 複数の位置にある

          ( これは 二重スリット で 縞模様として観測される )

           二重スリット で 観測する  ゆえに
                      二重に存在する
         一つと観測するとき “一つという 二重スリット”  が 存在する

          存在 は  「 有 」 と  「 無 」  という
                     二重スリット  で
                     有無を明かされる ( 非論理的に思考される )

            予測 という “始まり” を 起こし  決した 「 果 」 を 受取る
              その 「 果 」  を  始まりとして  道筋を決める
                 (  結果  は    予測の道筋に起きる事  )
                                                  
           このような 「 理 」 は   予測上から 外されている !
             ( 理解 させること は  困難を極める ことである )

           小さいこと  を  識別( ジュニャー) するには
            大きな頭 では    無“リ” である
          (  大きいこと  から   “離” できれば  小事であると分かる )
          (  離 ということを    得れば・利せれば   大事を得る     )

           以上  “日常 の 些事” を 如何に大事にしているか

             を  「 縁起 」 を 通して 「 側近 」 に 寄ることを説く

              離遠 に 延喜 の 響きあり ( 擬音 精舎の鐘の声 )

        • ぎんた より:

          >“日常 の 些事” を 如何に大事にしているか

          あのね、こないだの選挙で、初めて投票した人が当選した!!!!
          やったーー!と噛みしめているのです。

          はじめて、、、、うれしい。。。

  5.  春間 則廣  より:

    >  はじめて、、、、うれしい。。。

       
      “日常 の 些事”   かな ?

         大事  かな ?

  6.  春間 則廣  より:

    大事の事  とは  何故 大事かを知ること

       小事 を 穿てば    大事に至る

       ヒトノセイ  とは    一大事

       小事に埋もれる     大事の事

    • ぎんた より:

      相変わらず、言ってる意味がわかんないけど、全然気になんない、ねこだし。
      人間がなんとかしてくれるはずだから、寝てまってるだけにゃし。
      全部決まってるし。

      •  春間 則廣  より:

                *
        > 全然気になんない、ねこだし。

         ねこ は 寝てる子    ではない

          寝てるように見える   「 己 」 の モノの見方

             木にはならない 人の気 という 果実
                が
           そのように実を結び  気にならない のだろう  と
            思われることを     期する

          ねこ  だと言う  ひとのこ の 思い( ねこと・寝言 )

             「 ねこ も 気から 落ちる 」