降れば雪、仏教つれづれ

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降ってますね、雪。切り倒したポプラの切り株からひこばえが生えてきて密集してます。寒いので、安直に望遠で撮りました。「雪いっぱい」って、分かればよし、ってことで。

石油タンクの上にも綿帽子。今年は例年に比べて雪が少ない。石油タンクが見えてるしね。いつもの年なら、とっくに雪に埋もれているのに。これから降るのかな。

仏教的思考とそうでない思考があることに気がついた。

仏教的には、いつも、自分の見たあるがままを語る、という語りになる。だけど、「自分の見たあるがまま」というのが、すでに問題だ。だいたい、ここですでにひっかかることになっている。

「石油タンクの上の綿帽子」は見えてるまま、と見ているだろう。そこにいろんな思いがはり付く。今年は雪が少ないな、というのは見ている人の感想です。いろんな思いが一緒に語られて、一枚の写真は1つの情報や物語となっていくのです。

あくまで、見ている人の目がある。また、そこには思いもある。これらを込みにして写真一枚は提示されている。

だけど、ふつう、写真は写実につながると考えられているので、ありのままのその時の姿を表している、ととらえられるだろう。ファインダーを覗いている人の目は意識されない。ただ、そういう写真として見る人の前に提示される。それに反応して見ている側にも、いろいろな思いがわいてくる。雪国の人は雪国の人の目で見る。暖かい地方の人は暖かい地方の人の目で見る。

そこを考えるのが仏教なのだと思う。

見ていることを見ていることとして語る。考えていることを考えていることとして語る。聞いていることを聞いていることとして語る。

認識の所在が常にはっきりしている。

「誰が語っても同じ」 にはならない。「客観的」と称して、誰が語ったか分からなくしてしまわない、ここに仏教の特徴がある。

生き物の目が、耳が、鼻が、舌が語るその真実を告げているのが、仏教です。

一方の隅に立った杖をもった帝釈天は尊師にこのように言いました。―― 「沙門は何を説く人なのですか、何を論ずる人なのですか」と。

「友よ、神とともなる、悪魔とともなる、梵天とともなる、沙門・バラモンの人たちとともなる、神や人とともなる世界において、世界の誰とも論争せずにいる人がいます。また、(その人は)欲望を離れて住んでいるバラモンで、疑惑を離れ、後悔を切断し、種々の生存において渇愛を離れているその人には、想念がひそんでいることはありません。―― このように説く者がわたしなのです、このように論ずる者なのです」と。

このように言われて、杖を手にした帝釈天は、頭を振って、舌打ちをして、額に三筋しわを寄せて、杖にもたれたのち、立ち去りました。

(「中部」第18経「蜜丸経」より)

こう書いてあったら、ブッダが帝釈天とお話ししていることが分かるだろう。

そこから何を考えるかは、あなた次第なのです。書いてあることは書いてあることとして読むしかないのです。

そして、ブッダに関心をもった人は、そこから自分を知っていくのです。関心をもたなかった人は、もちろん自分を知ることはありません。

「こんな変な答えをいうなんて、ブッダってかわってるなあ。いやはや、ほとけはほっとこう、ちょっといかれているかもしれない。。」

このように反応した人に、仏教の世界が広がるでしょうか。否、ですね。

こうして、世界は、仏教に共感をもつ人ともたない人とに分かれていき、もたない人が、仏教を「宗教」に分類したので、「宗教」という枠組の中に入れられることになりました。

前回は「形而上学に行かない」というのを、仏教の特徴としてあげたけれど、もう一つ特徴をあげておこう。

それは、他と争わない、という特徴です。だから自己主張がないのです。このような理論を「諸法無我」と言います。

これを聞いた人は、思うのです。

仏教って、ほんとにほんと、自己主張がないんだろうか、いっちばん、自己主張しているように見えるんですけど。。

コメント

  1. 春間 則廣 より:

     「 自己 」 は 主張しない
     「 陀己 」 は そこから  自己の主張 を 知る
     「 仏教 」 は  そこに   主張     を 引き出す
     「 陀己 」 は そこから  陀己 である と     
                       知ることもあり 
     「 自己 」 を 見つめる  「 慧 」 を 得ることも 可

        「 自己 」 と    「 陀己 」  と  自他
        引き出す  と  引き出させられる  他己

       引き出す のは  自己 あるいは  他己 ?

       引き出す自己 を じっと眺める 「 陀己 」

      タコ は ジコ の  アシ を 食って生きる

        イチホン 食べて  次の “本”

       “ 本当 ” に 当たるまでに 七本 食べる\

       七本  ・ 「 七仏 」 

         逸 「 本 」 の 「 真 」 

            ニホン    の 「 真 」 

       黄泉 途留・途流   「 理 」  

     
          とまらずながれる ハナ ミズ キ
          ときて ながすは  メ セム ノ ミ
              せめて  しらしむくうみのしつふつ

        「 ハ アク  マク サク 」

           イチホン の アシ


     

  2. 慧樹 より:

    ……………………

    命の歌
    ……………………

    我が歌を 止めてみんなの 歌うたう 雀も猫も 命の歌を

  3. 赤い実 より:

    先生、こんにちは!
    目立たないように少し前の記事にコメントします。
    帝釈天というと、「帝釈天で産湯に浸かり」のフレーズが浮かんできちゃいますが、仏教を守護する神という位置づけもあるんですね。
    仏陀の聴聞をしたともあり、立ち去ったけど後でそうなるのですね。
    ええっと・・今、やっつけで調べたので違ってたらすみません。
    論争に持ち込みたかったのにそうできなかったので、舌打ちして立ち去った帝釈天かな。

    ところで、『ブッダと龍樹の論理学』。やはり真理表の説明が私には難しくてそこは斜め読みになっていてすみません_(._.)_
    p228~の
    「『空であるのは世界である、空であるのは世界である』と、尊師よ、言われますが、どの点から尊師よ、『空であるのは世界である』と言われるのですか。」
    「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』と言うのである。」(『サンユッタ・ニカーヤ』三五・八五)
    このアーナンダの質問のあたりを読んでみました。

    仏陀は修行をはじめた時期の弟子には、自己ならざるもの(無我)を教えた。
    そしてアーナンダのように禅定修行に進んだ弟子には、「空であるのは自己にかんするものについてである」と教えた。
    「空であるのは自己にかんするものについてである」というのは、p231に「これはわたしのものではない」にあたる、とあります。
    ここにおいて無我と空とが共通することがわかるのですね。
    空という見方ができれば、「自己」の代わりに他のないものをもってくることも可能な、より適用範囲を広げた観法とp230にあります。

    空であるのは、自己、あるいは自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』と言うのである。
    いきなりに「空であるのは世界である」とは言わず、順を追い説明している(順番を大切にするところも縁起ですね)のだなぁ、と。

    読んでなんとなく理解できそうなところだけの拾い読みになってしまいますが、またそうしていってみますね。

    • mani より:

      赤い実さま おひさ!
      なんとなく、赤い実さまのことが思い出されてくると、ちゃんとコメントがある、うれしい限りです。

      帝釈天は、確か須弥山のてっぺんに住んでて、地上では第一の神さま、のはず。インドラと言われるヴェーダの頃からいる古い神さまです。
      『ブッダと龍樹の論理学』、がんばって読んでくださっているのですねえ。ありがたいです。拾い読みでも何でもいいです。

      赤い実さま、そうそう、無我と空は共通します。無我は、執着のない様子を言います。それを考えると、空も無我と同じだから、こだわらない態度を指して空と言っても良いのです。

      赤い実さま、分かりそうなところから拾い読みと書いていただきましたが、それって「空」かもしれないですね。何が何でも、ではなく、こだわらずに拾い読みしていただけると、プレッシャーなしの本の読み方で、いいですねえ。

      春は曙、って感じで、すごく毎日眠いです。どんどん雪が融けてたぶん4月に入ったら積雪ゼロになるんとちゃうかな。
      赤い実さま、お元気でお過ごしくださいね。気が向いたらまた書き込んでね。