自力他力シャカリキ

元日に、大きな地震が日本列島を襲ってから、早くも5日が過ぎました。

あらたまって、「新年。。」などと言ってる場合でない、って感覚でしょうか。

カエルさまのコメント「自力救済」のことばをあげよう。

釈尊の教えは、自力救済の教えだ。。いつでも。。方便として「他力」があるだけ。三世にわたる「自力救済」は、さまざまな教えを生んで人々の助けとなる。自力救済なんだけど、みんなが助けてくれる。

たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、 尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし(法然「一枚起請文」)

みんなが助けてくれるんだけど、自力救済なのだ。

みんなは「他力」、自分は「自力」、何かを変えたいなら自分が変われ、と考えても、何かを変えたいなら世界を変えろ、と考えても、行いは同じことになる。思った分だけ、変わっていくから。

「一文不知の愚鈍の身」であろうと、自分でそのことを知れば、賢い人だよ。「智者のふるまい」に身をやつしても、それが自分のことと気づかなければ、愚かな人だ。

愚かを抜け出し、賢いを手に入れたいなら、四の五の言わずにまずは「念仏でも唱えるんだな」って、良くやくざ映画で言われる台詞だ。。だけど、この台詞、バカにしたものではない。バカになってみなさい、ってことだよ。

文字通りにとった人は、自力救済の道に入ったことを知るだろう。阿弥陀さまの助けを得たのだから。

ことばは相対的だから、わたしの言うことを変だと思った人は、あなたが変なのだ、とも言えるのです。

今回は、写真はないのよ。

コメント

  1. カエル より:

    おはー

    おのが無知を知り、ただ一向に「いきとしいけるものが幸せでありますように」と念じて精進すべしべし

  2. カエル より:

    自力といいながら多くの存在から学んで他力でもある
    善友に感謝するのは謙譲の美徳
    自力の人は自力を誇らない

    釈迦族の比丘やサーリプッタやアーナンダからもいろいろ吸いとったのではないかなと

    釈尊一人なら比丘尼は認めなかったかもねん
    わりとマジで熟考してそうw

    • mani(管理人エム) より:

      > 釈尊一人なら比丘尼は認めなかったかもねん

      世の中に、アーナンダがいたから、こんな風に変わってきたのかな。
      こんな風って?どんな風?

  3. ぎんた より:

    あの危険な団体で「自分を変えろ」とか言われ続け、もがいてきたけれど、
    20年やってても、まったく、なーーーーんにも変えられなかったよ。で、代表の
    指導が「ありのままで」とかに変わっていって、今あるもので何かするのか?って思って。観察するのと空想するのが好きだから、そこを意識して生活してて、
    で、なにより猫が好きだから、(前世猫だったかも)ってうっすら思っていただけなのを「絶対猫だったに違いない」と信じきってみたよ。で、お釈迦様は弓の名手みたいなんがたしかあったと思うんだけれど、2600年前にお釈迦様が射た矢が、今ぎんたのとこに飛んできて、ひげをかすめてハタリと地面に落ちたんで、拾って、ぎんた、何かやってみるよ!!とお約束したんだけれども、時が経つにつれて、(は~~猫って日向と炬燵、寝る、ちゅ~る)しか出来ないことに
    気づいてしまって、、、しかも、紅白であのちゃん動いてるの初めて見て、こんな個性全開で頑張ってる人がいて、猫猫吐吐だし、ぎんたなんもやることなくない?という今現在。

    • mani(管理人エム) より:

      ぎんたちゃま、「自分を変えろ」と言われ続けてもかえられなかったのは、納得できなかったから、とちゃう?
      誰でもそうだけど、他人に言われて、言われた通りにそうできる人はほとんどいないと思うんだ。

      なぜか?
      紫の着物のおばちゃんは、やったんを見て、必ず「もっとやれ」と言うだろうし、ぎんたちゃまは猫だからちゅ~るもくれないのにやるもんか、って思うだろうし。

      年賀状をもらったら、そこに「好きなことだけして嫌なことはしない」をモットーに生きてます、と書いてありました。

      自力は、好きなことに発揮される。嫌だったら、他人に押しつけちゃえ、って思うよね。でも、他の人が「いいよ、やったげる」っていうなら、急に悪い気持ちがしてきて、「あら、いいよ、わたしがやるよ」って言うんだ。それで、「いいよ、わたしがやるよ」と互いに言い合うことになって、最後は二人でやろうとなるんだね。で、けっこう楽しく嫌なことができちゃう。。おばちゃん、それ見て「あれ、失敗したかな」と心に変化が起きるんだ。。

      以上が、元旦の夢、なんだけど、心はこんな風に移ろいやすく影響されやすい、ってお話しです。

      おばちゃんは変わったので「ありのままで」って言うようになったのかも。。違うかな?

      • ぎんた より:

        「自分を変えろ」と言われても変えられなかったのは、「そもそも自分とは
        どういうものか」という分析が出来てなかったのが一番。(猫って気づいてなかった。思った事を言え言え言われても、前世でしてこなかったことは出来ない)それと、コレは後から気づいたのですが、もし、私が引っ込み思案(今でいう陰キャ)を変えて、社交的で明るい人(=陽キャ)を目指す(=精進とかする)ってことは、陰キャより陽キャのが上位みたいなことになっちゃうのか?それはどうなのなんか違うんじゃない???てとこに納得がいってなかったのです。だって、私うちのぎんたんのどういう所が好きかって、しんねりしてビビりで家政婦は見たみたいになってるところが好きなんです。来客時は物陰に隠れて。それが最高にギザカワユスなのに!!!
        あの危険な団体って、やはり指導的な立場の人は、堂々と&笑いも取りつつ喋るみたいなタイプが重用されてて、それは社会全体でもそうだと思いますけど、段々世間の価値観も変わっていってるし(漫画中の多様なキャラとかの影響もあるのかな?地味~なキャラがたまに口開くと面白いとか、4年に1回しか働かないけど難事件を解決する警察官とか?すみっコぐらしが人気になった時は、えー凄い!時代はここまで来たかとワクワクしました)そもそも、自分が「陽キャ」と思えるのは、「陰キャ」の存在と引き比べてであって、全員が「陽キャ」でそれしかいないんだったら「陽キャ」て認識は消滅するんであって。←これって仏教ぽくないですか?

        あと、これだけははっきりと言っておきたいのですけれど。

        猫は人間から「ご褒美がもらえるから」なにかするわけではありません。
        やるのが「楽しいから」やります。ねずみ取りとか。ただ、猫種の存亡に関わることは楽しくなくてもやります。でもそんなことは極力回避したいですし、そもそも猫の生殺与奪は人間が握っているので、なんとか人間に働きかけようと頑張っています。でも、ちゅ~るはください。今ちゅ~るは「ご褒美おやつ」ではなく、総合栄養食タイプも発売されていますので、通常のごはんですから。前世猫だったときは、文章なんて書かなかったのに、今書いているのは「京極夏彦が役小角でぎんたを操ってこれを書かせている」と信じると面白すぎるから、←きっとコレが正解~~~~!!!と思ってやっています。「信じる」大事です。世界中のひと全員が神でほとけなんだからそれを信じて動いてみれば「神風」だって吹くと思います。

        紫の着物のおばちゃんの意識は昭和42年8月6日で止まっています。当然。
        そのおばちゃんの言動がその時はフツーだとしてもすぐに時代錯誤になる。「あの時こう言ってたけれど、今はこんな時代だよ?」と報告したりしてます。

        あ、宇多田ヒカルの「道」を聴きながら、進みます。でも調子に乗ってた時期はない、です。まだ目に見える成果とかないので。目に見えないものは、
        目に見えるものが教えてくれてると思います。

  4. 慧樹 より:

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    法然「一枚起請文」の感想
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    法然「一枚起請文」のご紹介ありがとうございます。
    ネットでじっくりと学ばせていただきましたので、童子の感想歌です。

    称えれば
    自力他力は
    ないそうで
    辺り一面
    南無阿弥陀仏

    善財童子に帰った新年でございます。

    被災地へ
    南無阿弥陀仏
    眼に涙
    優しき心も
    あったと気づく

  5. 慧樹 より:

    …………………………………

    あなたと共に あなたと共に
    …………………………………

    宇多田ヒカルの「道」。母を亡くした悲しみが伝わる。
    そして、亡き母と共に在ることによって「生かされている自分」に気づき、
    悲しみを乗り越えて行く。

    深い愛に讃嘆し童子歌を捧げたい。

      亡き母の
      悲しみ超えて
      ヒカル「道」
      あなたと共に
      あなたと共に