パンサラッサの同着一位の話しに不思議を感じたのだけれど、もう一つ不思議を感じたのでその話題を取り上げてみよう。「三苫の1ミリ」という名前で世間に知れわたった話しです。自前の写真はなしで、世間に行きわたったこの写真で、話してみよう。(写真を撮った人は、AP通信のフォトグラファー、ペトル・ダビド・ヨセクさん。写真を取ったいきさつあり。https://number.bunshun.jp/articles/-/855640)
サッカーのルールではボールが線の上に1ミリでもかかっていれば、アウトではない、ということになっているのだそうだ。三苫選手はスペインとの試合で、ラインぎりぎりのところからクロスボールをあげ、それを田中選手が身体ごとネットに押し込んでスペインから1点を奪ったのです。勝ち越しのゴールとなるので、紛糾したけど、ゴールは認められて、日本はスペインに勝利したのです。
なぜ、三苫選手はクロスボールを放り込んだのでしょう。
なぜ、田中選手は走り込んでクロスボールごとネットを揺らすことができたのでしょう。
アウトかもしれないのに。。
縁起の公式があります。わたしがブッダの公式と名づけたもので、全部で4つあるけど、今は2つを使います。
<クロス>があるとき <ゴール>がある
<クロス>がないとき <ゴール>はない
何度も何度も練習した。クロスをあげて、それにあわせてゴールを奪うのを。なぜって、クロスをあげられないときゴールはないのだから。
西洋論理学では、クロスをあげても必ずゴールが生まれる訳ではない、と考える。だから違う方法でシュートをねらったりもする。因果関係は帰納論理であって、蓋然(がいぜん)論理にすぎないのだから。
ブッダ論理は、違う。蓋然論理ではない。「クロスをあげるとゴールが生まれる。クロスをあげないとゴールは生まれない」という二本の式からなる関係なのです。
ゴールをねらうならどうするか。
三苫選手はクロスをあげ続けることになる。クロスをあげなきゃゴールはないんだから。そして、田中選手はクロスに合わせて飛び込みつづけることになる。クロスに反応しなきゃゴールはないんだから。
縁起は、原因に縁って結果が生ずる関係なんだけど、ゴールという結果を得るには何をしなければならないか明確になる関係でもある。
やることがはっきりくっきりするんだよ。迷いがなくなる。
クロスがないときゴールはない クロスに反応することがないときゴールはない
三苫選手と田中選手の心にのうちに刻まれたこの関係を何というか?
部派仏教では、 「増上縁」 っていうんだよ。知らずにブッダの教えになじんだ人々は、その思想の元でサッカーをする。
縁起に従うと、時に、不可思議なこと、奇蹟が起こるんだよ。アッブダダンマというんだ。
信のあるものは、時に、縁起にしたがって不可思議を体験する。
縁起が成りたっただけ、とも言えるけど、
その「縁起が成りたつこと」こそ、1つの奇蹟に見えてくるんだ。
これに魅せられて、だんだん仏教にはまってくのさ。。
コメント
エム先生、こんばんは。
三苫の1ミリ、知らなかったけど、今日たまたま堂安のプレイ動画見てたら、二点目がこれだったので驚きました。納得のお話、さすがは伝家の宝刀の切れ味はお見事です。ところで最近の日本サッカーはとんでもない異次元のレベルではないか、とか思ったけど、戦略と選手のフィジカルが双方ともにこなれてきた結果なんでしょうね。これもやはり精進のお陰か。(笑)
えび天サンバさま ちょいおひさ!
最近、思うところがあって、この世に現れる縁起の姿を描写してみようとしています。
「三苫の1ミリ」には、もしかすると、お釈迦さまのご加護とか、阿弥陀さまのご加護とか、神さま仏さまのご加護を感じる人もいるかもしれない。
実は、ニヤーヤ学派、って、この思想なんですよ。アートマンを認めるけど、無我も方便的に認めている。大半仏教なんす。
しかし、人間の作ったルールを超えず、しかも、ねらった効果を得させる思想って、いったい。。誰が作ったのか、無為の仏さまのしわざ(?)です。。こうして、寂滅するんです。
*
ゆく河の 流れ たえずして かのうたかたは消えゆく夢のごとし
ぬくぬくと さまようがごとき うつわに起きる なみ に めをやり
一言いわんとほっせども
ときおりすさぶ 木枯らしの いきにふれず
くちびるとじて 珈琲 を 下げる
*
> くちびるとじて 珈琲 を 下げる
沈黙が雄弁なこともあり。。
縁起は、毎日考えている。。よく考えてみれば生まれてからずっとだわ。
インド哲学やってほんと!よかった。
マニカナ先生、おはようございます
ヤバイ。ネタがここまで育ってしまったか。
マニカナ先生は部派から大乗、真宗の救済系だからいいか
競馬もサッカーもゴールラインは人間の作ったもの
人間のつくったもので一喜一憂しないところに戻って相対化もできる
自由自在、如来如去がいいですな
> 競馬もサッカーもゴールラインは人間の作ったもの
そうなんですよね。これを諸行無常というわけです。
有為の世界に生きるわれわれ。
無為を夢見てる。。
如来も寂静もまた人間が作ったゴールだったりして
> 如来も寂静もまた人間が作ったゴールだったりして
うん!
人間が作ったものの中では最高ですじゃ。
人間は苦からただ逃げようとするけど、
ブッダは逃げずに苦を善悪の味つけで料理したんですもん。
119 悪が煮られず悪果がない間は、悪人でも運のよいことがある。いったん、悪が煮られると、悪人は悪の報いを知るのである。
120 善が煮られず善果がない間は、善い人でも不運にみまわれることがある。いったん、善が煮られると、善い人は、善の果報を知るのである。
(『ダンマパダ』)
ぎんたは2020年に、『枕草子のたくらみ「春はあけぼの」に秘められた思い』
山本淳子著を読んで衝撃を受けまして。(こ、この人は清少納言の生まれ変わり
じゃね?まるで見てきたかのように語ってるけど?!!!!)と思いました。
なるほろなるほろ、、、、現代人っつっても、みんな「由来??」があるのねぇ
と思いました。しょんで、マニカナに来た時、一瞬で先生が龍樹であることが
解ったと言う訳なんです。ちゃんと、前になにかあっての、今。みたいな。
で、すぐには解らなかったんだけど、会話しているうちに、春間さんが中国で
猫を切ったんじゃね?と思い至りました。
あ、あと、NHKでズームバック×オチアイて番組観たときに、「宗教」の回で、
「ぼくにはぼくの教義があります、それはあえて宗教と言っていいと思う」とか
言ってて。(ほ~ぅ)と、思っていたら、そのあと付け足しで小声で、「仏陀だって最初はクシャトリアだったんですから」みたいなことを言ってて。
なるほろなるほろ~じゃ、ぎんたもじぶんの教義を整理してみるわ~、ところで
クシャトリアってなに?みたいなって、で、同じ年にマニカナに乱入し始まったら、なんとなく「私な仏教」ができましたとさ、縁起でしゅね~~~~。
要は、「私な仏教」とは誰か(←ほとけ)にサクッと影響されまくる、ということのようです。
あ、なんで『枕草子~』を読んだかというと、図書館の返却棚に置いてあって、
直前の2週間で誰か(←ほとけ)が借りた本♥というのが魅力でいつも注目しているのですが、(枕草子はがっこで習ったぞう)と思って何気なく借りました。
ぎんたさまさま おはようござい!
> ちゃんと、前になにかあっての、今。みたいな。
長い過去世を経て今に至るの図。
昔、わたしが鈴虫だったときも、ろんり、ろんりと鳴いていた。みたいな。
でもでも
たぶん、わたしは、龍樹でなくて龍樹んちのトナリに住んでた者じゃないかと。。
> 要は、「私な仏教」とは誰か(←ほとけ)にサクッと影響されまくる、ということのようです。
それでいいのかも。みんなほとけなら、それでいいよーな気がする。
えーー、先生は龍樹だよ!だって、世界一龍樹のこと好きでしょう?で、研究も世界一しているじゃないですか!疑いようが無い。
ぎんたも、世界一タイ位に猫が好きなのは、前世猫だったからですし。
あ、あと、「ぎんたも自分の教義を整理してみるわ~」は正確ではなくて、
「今までうっすら~~と思っていたことを、教義として纏めてみるわ~」
でした。
ぎんたさまさま、龍樹のことはだいすきですよぉぉ。
ところで、龍樹は、ブッダがいっちばん好きなんよ。
ブッダのこと、まるっと分かった人は龍樹だけだとわたしは思ってる。
どうして龍樹はブッダ(悟りを開いた者)にならなかったんでしょう。
何で、菩薩のままブッダの世界の住人をやっているんでしょう。
ブッダ・ゴータマに惚れたから、ってのが、私の答えです。
いいのかな、こんな世俗っぽい答えで。
な、んで?、、、、、えーーー考えたことも無かったーーーーー!!
なんで、、そうしたか、、、?動機?気持ち?うーーーーーん、
本人と答え合わせ出来ないことなんか、考えても無駄な気がしないでも
ないけど、、確かに、、なんでだろう~?
「悟りを開いた者」しかも、一番最初に、、が仏陀だけど、それと
同じことは「出来ない」からかな、すでに仏陀がいる以上。
…………………
バラモン支配に対抗したクシャトリヤの釈尊(仏教)
…………………
クシャトリヤの登場でヴァルナ制度の復習。
クシャトリア=古代インドのヴァルナ制度(種姓・カースト制)での
第二の種姓。輪廻思想はそのカースト制の裏付けで、アーリア人の
原住民支配に利用された。
リグ・ヴェーダの創造讃歌『プルシャ・スークタ(原人の歌)』
神々が原人を切り分かちたるとき
いくつの部分に切り離したるや。
その口は何に、両腕は何になりたるや。
その両腿は、その両足は何とよばれるや。
その口はバラモン(司祭)となれり。
その両腕はラージャニヤ(武人)となれり。
その両腿からはヴァイシャ(農民、商人)、
その両足からはシュードラ(奴隷)生じたり。
1,バラモン=『ベーダ聖典』の権威に基づいた司祭階級。
2,クシャトリヤ(ラージャニヤ)=王族・武士階級。
3,ヴァイシャ=地主農民、商人階級。
4,シュードラ=奴隷。
前4世紀、王族武士や豪商が台頭してくると、バラモンのベーダ聖
典支配に対抗し、自由思想家が多く現れ、釈尊のその中の一人。
第一階級支配に第二階級が対抗するのは世界史のパターン。
釈尊は行為論者としてヴァルナ制度に反対してが、仏教が滅亡状態
あのガンジーがカースト制度に固執したように、現代でもインド人
の種姓差別の根は深い。
「前4世紀」を「前5世紀」に訂正。
「仏教が滅亡状態」を「仏教が滅亡状態にあるインドでは」に訂正。
お詫びして訂正させて頂きます。