カレンデュラ(きんせんか)はハーブの仲間らしい。花が可憐でかわいいのです。
一度買ったら、種は花が終わると自然にできるので、毎年、種が増えていく。自然にこぼれた種から発芽しないかなと思ったけど、案外発芽しないので、プランターに植えて苗にしてから移植しました。
***
人がいると、どうしても、その人らしさが出てしまう。同じカレンデュラでも色の濃い薄い、花の付き方、花びらの形など、みな微妙に違う。この違いにまで気づくか気づかないかで、世の中をどう見るかが違ってくる。
微妙な差異を切り捨てて一つにまとめようとする力を、「偏見」という。
そもそも微妙な差異なんて、気づくことすらなかったわたしたちなのである。ただ、自分を差別化して優位に立ちたいと願ってきたわたしたちなのである。こういうことになると、どうなるだろうか。
こうして、自分だけは差別化したいが、他の人々の微妙な違いには気づかない、という「見方」に立つ生き物になってしまう。
あれまあ。。
***
そこで、ブッダは言うのである。
「縁って起こる」、と。どんなものも、「(何かに)縁って起こったもの」なのである。
***
こうして「偏見」から逃れる道をわたしたちに示してくれた。わたしが生まれたのも、こうして育って、仕事をしたり看病したりくつろいだりしながら生きているのも、「縁って起こった」ためなのである。
世界のあらゆるものは、縁って起こった、のである。
だから、そのもの自身、おまえ自身つまり自分自身、というのが、あるわけではないんだよ、その意味では、みんな中身が空っぽ(空)なのさ。縁って起こったものならば、縁らないならば起こらない、と言えるだろうから、ねっ。
たまたまお父さんとお母さんが結婚しなかったら、生まれることもなかったわたし。
たまたま生まれて、たまたま育って、たまたま死んでいく そんなわたし。
みな同じ。。いや、みな、条件が微妙にちがう。。なのに、生まれてきて死んでいく。
何が同じで、何がちがうんだろ???
ああ、わかったよ、生まれる条件はみな微妙に違っているんだけど、ただ一つ共通するものがあるんだね。それはなに?みなさん、わかった? わたしはわかったよ。では、言うよ。
***
それはね! 「生まれなかったら死なない」という一点が、みな等しいんだね。
***
「生まれなかったら死なない」という側面をみれば、みな生き物は平等だけど、「生まれるならば死ぬ」という側面で差異が生まれる。。
だれなの?「はぁ、さいですか」なんて、気の抜けた返事をしてるのは。。
真理をかたっている(つもりな)のに、ことばにすると間が抜けて聞こえる。さすが、お釈迦さまだわ。
「生まれたなら死んでいく」、これだって、共通してるだろっ! という意見もあるだろう。だから最初にあえて言ったのよ、
微妙な差異を切り捨てて一つにまとめようとする力を、「偏見」という、ってね。
「縁って起こる」というときは、条件の違い、原因の違い、いろんなことを考えてるのよ。だから、どこまでも「縁って起こる」ということを追及できる。
時空を超えて、追究して行くと、ブッダの三千大千世界が広がっていくのである。
オレガノの花です。ハーブなんだけど、
「カレンデュラとは違うんだぜ、おれがノ だい!」
って言ってます、ふふふ。
コメント
偏見 ( おおきくみる )
大小 遠近 「 縁起 」 に 起きれども 、、、、
近いと 大きい
遠いと 小さい
差異 と 左右
さいをいう ・ さいうをいう
その差 は サイに入り、ビに入る( 微に入り際にいる )
さようなさい は もんだいにされない
もんだいにされない さい に 問題を提起する 才
その 瀬戸際
( という ) 問題意識 の おきる 際 の
立つ “キワ” のこと
きわめて 微妙 なる 「 妙 」 の 起き方
( きわめず とも しりうる トモ に おきる
こころの いろ )
( 友 と よばれて とまどう トモ
ともにいみをきわめず )
ともなくして しろうとも
ともにおきる 「 縁起 」
とも 知ることは適うのか
とまどうとも すすむみち に とうがたつ
「 中道 」 という
「 偏 」 に おきている 「 見 」
それが こころの まんなか に たてられている
「 見 」
たてられているところ を みのがす
みるいち みるみち
みち を あゆむ
みち に おきること
みちみち て あしもとにおよぶ なみ
・
はじめ良ければすべてよし、って言葉と、終わりよければすべてよし、という二つの言葉。これらはどこか似ているようだけど、使われる状況は随分と違うようです。そりゃはじめとおわりが違えば逆でしょ、とか思いますが、そんなに簡単にそれらの言葉を並べてみるのはちとまずいかもしれません。でもまあ、それはそれってことで(コンテキストは各自で調べてみて)。
はじめ良ければ、というのは、例えばオギャアと生まれるとオメデトウとか言われたんだから、あの世に行く時もオメデトウでしょ。
微妙な差異とかって、そういうことなのかなあ。
終わりよければ、というのは上記からすると、オギャア、と生まれたんだが、オメデトウどころか赤ちゃんポストとかから人生始まって、色々な人々とか経験のお陰で、見事に大家族を作って畳の上で大往生しました。とか。
エビ天サンバさま こんばんは。
ピンとこないかな?
つまり、「はじめ」も「おわり」も、生まれたところから考える、ってことですよね。
命は神さまが授けるなら、生殺与奪は神さまが決めるけど、仏教では、そうは考えないです。
生まれる、生まれないは、いわば、自己責任。自己がなくなれば、生まれない、ということもできます。
一神教がメインの国だと、どうしても、「生まれたら死んでいく」というように、この段階で一般化してしまう。だから、「神さまは、なんでわたしにばかり試練をお与えになるのか」とか思ったりもする。
因果関係は蓋然的な推理である、とされるのも、神が世界を作るからです。
仏教だと、生まれる・生まれないから,自分で決められる、だから、「生まれないなら死ぬことはない」という前提に立つことができる。つまり、自己がいるところから、「生まれる」ということが始まるので、無我(自己はない)を達成すれば、生死を超えるということになりますよね。
無我は自己ならざるものですが、「自己でない」「自己がない」も含んでいます。段階を追って、悟りにいくのかな、って思っています。
この差異は、大きいんじゃないかと。
エム先生こんばんは。昨日、ブ〇〇クオフでサンガジャパン15(2013)を見つけて、思わず買ってしまいました。「五戒の考察」は今日の先生の返信と合わせてとてもタイムリーでした。返信、いつもありがとうございます。
2013年刊行の『サンガジャパン』ですか。今から10年前ですね。
十年一昔だから、一昔前ということになるのでしょうか。
わたしも、引っ張り出して眺めてます。
『スッタニパータ』からの引用が多いなあ。
「戒」と言っても、ダンマ(教え)の要素を含んで成りたつのが仏教ですよね。
なんか、なつかしい感じだけが残ります。時代はめぐる、ですかねぇ。
> 「 中道 」 という
> 「 偏 」 に おきている 「 見 」
中道も、見解になり得る、ということですね。
こだわるなら「 偏 」に位置する。
だから、空といわれるようになる。
空は、特に、自己に関して空である、とか、空でない、とか、いわれるので、
中道という方法より、自由度が高い。
空が説かれると、こだわらなければ,何でもできる。
偏に起きても、見にならないから。
ワザを見よ
このワザ を 見よ という ミヨ・ヨミ ではない
わざわざ 見せる 意味もなし
ワザト ( 業 と 技 と を ) 見せている
という のでもない
ただ ただ ( 只管 )
示すのみ
観る スベ を 知らせているのみ
( ソレ を ワザ で 見せている )
こと は 一つに見える けれど
重なっている 表面上のこと が
“こと” ( 一つのこと ) と 目に映る のみ
→ うつりいく 世 を 重ねて 観る 要
この “用” を 知り 「 智 」 と する
チット むつかしい “ チッタ・citta ”
“ 「 心 」 で 読む 「 識 」 ”
知 と は( 小っと は) この用を知る必要がある
( 大小 に 起きている 「 縁起 」 を 知る )
すこしだけ 見せる ( チット も 理解されない )
よみかた の “ 一つの ワザ ”
( ただ一つ を 「 業 」 で 読む )
カク者の 「 業 」 と読む
読む者の 「 業 」
( 欠いている と読む 欠いている 理解 か )
( 欠いている のは 書く者の ワザ か )
ワザワザ 書く “ こと ” に
苦労して “ 句 ” を 綴る
わけ が ない
サエザエ と 冴える クール なる ワザ
( “ ひとつ の ワザ ”を 分けて 知らなければ
一つ の “ 冴 ”も 分から ない
ワケタ “ ワザ ” )
ソレゾレ が
( それ それ ! ) 逸れ を 読む
ソレ ミタ コトカ ??
・
「 はなのいろ は うつりにけりな いたづらに
あかくもゆれ ど いろ かわりなし 」
・
ワザを見よ
このワザ を 見よ という ミヨ・ヨミ ではない
わざわざ 見せる 意味もなし
ワザト ( 業 と 技 と を ) 見せている
という のでもない
ただ ただ ( 只管 )
示すのみ
観る スベ を 知らせているのみ
( ソレ を ワザ で 見せている )
こと は 一つに見える けれど
重なっている 表面上のこと が
“こと” ( 一つのこと ) と 目に映る のみ
→ うつりいく 世 を 重ねて 観る 要
この “用” を 知り 「 智 」 と する
チット むつかしい “ チッタ・citta ”
“ 「 心 」 で 読む 「 識 」 ”
知 と は( 小っと は) この用を知る必要がある
( 大小 に 起きている 「 縁起 」 を 知る )
すこしだけ 見せる ( チット も 理解されない )
よみかた の “ 一つの ワザ ”
( ただ一つ を 「 業 」 で 読む )
カク者の 「 業 」 と読む
読む者の 「 業 」
( 欠いている と読む 欠いている 理解 か )
( 欠いている のは 書く者の ワザ か )
ワザワザ 書く “ こと ” に
苦労して “ 句 ” を 綴る
わけ が ない
サエザエ と 冴える クール なる ワザ
( “ ひとつ の ワザ ”を 分けて 知らなければ
一つ の “ 冴 ”も 分から ない
ワケタ “ ワザ ” )
ソレゾレ が
( それ それ ! ) 逸れ を 読む
ソレ ミタ コトカ ??
「 はなのいろ は うつりにけりな いたづらに
あかくもゆれ ど いろ かわりなし 」
・
> 観る スベ を 知らせているのみ
> ( ソレ を ワザ で 見せている )
これが、ブッダのワザですよね。
一つの経典を、四通りに読ませる術がある。
たとえば、「田を耕すバーラドヴァージャ」経で、
「自分で耕して食べなさい」というバーラドヴァージャに対して、
「自分も耕して食べている」というのが一つの答え。
布施、布施されるもの、布施する人との関係を教えるのがまた一つ。
布施と心を浄めることとの関係も語られている。
布施に縁って覚りへの道を歩むやり方が、聖と俗に分けられて語られるのが一つ。
まだまだ読みとれるかもしれない。
スベを教えて、ワザを示す。。なんのこっちゃと言われそう。
あけぼのに さきし 仮練頌 等 ・ 金せむ 果
「 はなのいろ は うつりにけりな いたづらに
あかくもゆれ ど いろ かわりなし 」
「 はな 」 とは 彼の時代 では
「 法華 」 の 「 は な 」 という意味
( は な れ いく ・ う つ り いく
いろ は ・ こと の は
いたる ・ つ つ う ら に )
あかく も ゆれ ど いろ・こと に かわりなし
あかく ・ あけしく ゆれ ども よ に は かわりなく
予 という 世
われ と ゆい・言い 割れ る 我・予
「 分別 」 を 抜いては 心 ・ 芯 を 探せず
彼の時代( このじだい )
小町 に ありし みほとけの ことのは
ありといえども なきにひとしき ひとひと の 「 識 」
それを あらしめ なかめし ( 名 仮 召し ・ 名を知る )
小野 にて うまれし ダイショウ の 「 縁 」
明け 暮 の 小町 に 訪ね・とわむ その 「 識 」 の いろ
「 ゆれて つぶ らむ あかつき の
のぞみ し みつめ い ろ の うつりに くれあける 」
くれてやろうと うけるものなし
なして そうかは しるひとに
しらせて あらしむ うつりし いろは
こと は まわりて した に おつ
いま まさ に ち こう して ある ことのはの あつまり
あやしう こそ もの くる ほし けれ
平安 の こまち に やどりし しんち の あや
( 日野 出る 日野氏に 受け継ぐ 言の葉 の コト )
「 日のいづるところの天子 」
暮する ところの 天子 に もの( 言 ) いわむ
( 巌・いわお と なせる ことのは の あつまり )
誰に あろうと 彼の “ 知 ” に あらず
ありて しらしむ こまち の 「 智 」
しりて つかわせ つかえし このよ
よせて かえす の なみのおと
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