『コード・ブッダ』を読む

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ようやく少しばかり読み進みました、『コード・ブッダ』です。なかなか読み進められなかったのは、作者の円城塔氏が、論理学という観点を忘れずにいるからだろうと思います。論理学という立場を貫くと、コンピュータ・サイエンスと論理学の共通項に至るんだけど、それは、ブッダの道でもあるとわたしは思っています。

わたしは、円城塔氏のことを、仏教のことをわかりそうでわからない筆頭なんだなあ、と理解しました。円城塔氏は、「仏教って何か?」はものの見事に外しているんだけど、どうして、それがわたしにわかるかというと、わたしも龍樹に会う前同じように思っていた時期があったからです。

論理ということを考えると、ブッダは論理学を構築しました。だけど、ブッダは論理をそんなに表に出さなかったのです。彼は究極には倫理を希求したのです。円城塔氏も倫理学をやったと言っています。

だから同じなんだけど、ブッダは悟りを開いて円城塔氏は悟れていなかったのです。

わたしは、ブッダより龍樹を使ってブッダの法に迫ったんだけど、円城氏は違うみたいです。

上の本は『現代哲学基本論文集』という本で坂本百大編による過去の外国のエポック・メイキングな論文を集めて和訳したものです。中に、アルフレッド・タルスキの「真理の意味論的観点と意味論の基礎」という論文が入っているんだけど、それを円城氏は、何も断ることなく、さりげなくひいているのです。

彼も苦労したんだなあとわかったけど、そのようなところをうろちょろしている限りは、ブッダの悟りは、まるきり望めないのです。全く逆だから。この「逆」というのが、仏教のことばでは「顚倒」と言われるのです。

この辺はわたしもわかったの。論理学というのは、ヨーガなんです。だから瑜伽行学派とも言うでしょう? 変なこと考えちゃダメよ。これはね、円城塔氏に言ってるのよ。思いっきり外しそうな予感。。

ヨーガを行ずることはインドの哲学の基本だからね。だから、哲学は宗教的にもなるのよ。

そういうことは、『現代哲学基本論文集』には全く載っていないのよ。

論理学がヨーガであることをしゃべるよ。論理というのは、或る意味、自分を縛る法則なのです。ブッダの教えを実践して、ブッダの言うとおりになるかどうかやってみなくちゃならない。だから「顚倒」を真に受けるなら、ヨーガを実践して、ブッダと同じ境地に至ることが必要なのです。

そのため、こだわりを持たないようにしなくちゃならんの。「こだわり」は煩悩と言われます。

日本で言えば、道元や親鸞は到達したのです。小(少)乗も、大乗も、そこは乗り越えているのです。だからね、円城塔氏が、「こういう方向の先に仏教はあるだろう」と思っているそっちの方向には仏教の「ぶ」の字もないのです。

「苦行は必要ない」とブッダは根気よく繰り返した。「悟りはアルゴリズムによって到達するものではないからである。たとえばわたしはみずから悟りを得ることのできぬ者だけを悟りへと導くが、自ら悟りを得ることの出来るものを悟りに導くことはしない」(pp.65-66)

ブッダは、誰も導かない。全部自分でやるんだよ。ブッダは、わたしがラージャガハへの道を説いても、そっちに行く人もいれば行かない人もいる、それをどうすることが出来るでしょう、っていうだけなんだ。

だからね、自分の行く道は自分で決めるのが仏教なんです。決めてその道を行く人はやがてラージャガハにたどり着く。そのことを示すのが、縁起であり、因果であり、そして空なんだ。

ラージャガハについたら目的は達成されたのだからね。涅槃だよ。

今日はここまでにしよう。。。っと。

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