たとえば、「色(身体)は、わたしの本体ではない」というのは、何を言っているのでしょう。
目で見えるもの、耳で聞こえるものなど五感の対象と、心に思うことの一切について、「これはわたしではない」「わたしのものではない」「わたしの本体(attan)ではない」とあるがままに正しい智慧をもってみなければなりません。
おやつのプリンを独り占めして「わたしのものである」と思っちゃいけない。
サッカーボールをサッカー大好きの自分と結びつけて「ボールはわたしである」と思ってはダメ。
自分の見解に固執する人は「この考えこそわたしの本体である」と考える。
心の思いにとらわれる人は「この思いこそわたしの本体である」ととりつかれてしまう。
欲に貪る人、怒りに震える人、無知の闇に沈む人、みなとらわれる。
一つのことばにとらわれると「これは無我だ」「これは非我だ」とこだわってしまう。
そして、そこにしがみつく。「無我を説かないのがブッダだ」「非我を説くのがブッダだ」
ではでは
ブッダ自身のことばを聞こう。
この世間の多くは、カッチャーヤナよ、近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、近づかず、執らず、確定しない。すなわち、「わたしにとって自己がない※(自己がある)」と。
『サンユッタ‥ニカーヤ』12.15
※ attA na me ti (わたしにとって自己はない)とある。第六結集版では、attA me ti(わたしにとって自己はある)となっている。
7 生じてきているその苦しみを「生じている」と、滅してきているその苦しみを「滅している」と、疑うことなく、ためらうことなく、他を縁とせずに、ただ、この知識だけが、ここにある。カッチャー(ヤ)ナよ、この限りで、正しい見解がある。
「 一切がある」というこれは、カッチャーヤナよ、一つの極端である。
「一切は無い」というこれは、第二の極端である。
カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、如来は、中(道)によって法を説く。
一筋縄ではいかんよね。
如来は、極端のどちらにもよらない道を説くのね。有によらず無によらない道を説くの。
つまり、見えてるとおり、聞こえているとおり、思っているとおり、ただ現成しているものを説くのです。https://manikana.net/canon/kaccayanagotta.html
なかなか難しいね。時に、こんなことも思うでしょう。
過去世において、「わたしは過去世に存在していたんだろうか」
また、未来世において「わたしは未来世に存在するのだろうか」
また、現在世において「わたしはいるんだろうか」「いないんだろうか」「わたしは何だろうか」「どのようなものだろうか」「この者はどこから来てどこに行くのだろうか」
と考えても
「このような道理は知られないのです」とあります。。
その理由について、こう書いてあります。
これは、どうしてなのでしょうか。比丘たちよ、なぜなら、聖なる仏弟子には、この縁起とこれら縁起した法が、あるがままに、正しい智慧をもってよく見られているからなのです。(『サンユッタ‥ニカーヤ』12.20)
書いてある意味を正しく知ることは容易ではありません。薄紙を剥がすように徐々に現れてくるのです。縁起と縁起した法が正しい智慧によって見られるまで、苦労して進むのです。
ちなみに、インド哲学の中でサーンキヤの思想が確立されるまでに、ブッダからだいたい1000年くらい必要だったのです。イーシュヴァラクリシュナの『サーンキヤ・カーリカー』は、4-5世紀に作られたといわれています。
六派哲学といわれるインドのヒンドゥー教系統の哲学は、アートマンを説きます。六つの学派は、2つずつ組みになっていて、一元論、二元論、多元論を示し、ブッダの説いた、<これはわたしである><これはわたしのものである><これはわたしの本体である>という要素をそなえている、と、説明はできないけど、わたしはそう考えています。
コメント
その手の教義にも議論にも関わらないのが一番。
ただひとりサイの角のように歩め。
*
> ただひとりサイの角のように歩め。
どこで その訳 を “ 手 ”に 入れたのかな ?
そのような解釈 は 「 仏教 」 ではない
犀の角 を 眺める ことを( ように ) 保ちながら
独り の 「 瞑想 」 を 保ちつつ 歩め
という
日常においての 「 瞑想 」 の 大切さ を
教え説く 「 経 」 です
・
石飛先生、おはようございます。
先生が挙げられた経典のその部分だけを見ると、大乗仏教を投影して仏陀を読んでもいいように思えます。
「そうだよね。極端を取らずに中間の道を行くのが中道だよね」
「有無も苦楽も長短も高低もみんな相対であり仏教者は不二中道を行くんだよね」
「無数の原因と条件によって成り立っているのが縁起。すべての存在は縁起によっているので自性がない。空だよね。」
「だから、縁起と空と中道は同じこと。」
「仏教の根本は縁起と空と中道である。龍樹も仏陀も変わらない」
しかし、その経典には続いて結論部分があります。
先生の訳を載せさせていただきます。
※※※※※※
生じてきているその苦しみを「生じている」と、滅してきているその苦しみを「滅している」と、疑うことなく、ためらうことなく、他を縁とせずに、ただ、この知識だけが、ここにある。カッチャー(ヤ)ナよ、この限りで、正しい見解がある。
「 一切がある」というこれは、カッチャーヤナよ、一つの極端である。
「一切は無い」というこれは、第二の極端である。
カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、如来は、中(道)によって法を説く。
すなわち、
無明を縁として行がある。行を縁として識がある。識を縁として名色がある。名色を縁として六入がある。六入を縁として触がある。触を縁として受がある。受を縁として愛がある。愛を縁として取がある。取を縁として有がある。有を縁として生がある。生を縁として老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。このように、これらすべての苦の集まりの集起がある。
無明を残りなく離れ滅するから、行の滅がある。行の滅から識の滅がある。識の滅から名色の滅がある。名色の滅から六入の滅がある。六入の滅から触の滅がある。触の滅から受の滅がある。受の滅から愛の滅がある。愛の滅から取の滅がある。取の滅から有の滅がある。有の滅から生の滅がある。生の滅から老死の滅があり、愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このように、これらすべての苦の集まりの滅がある。
※※※※※※
『すなわち』に続いて語られるのは十二縁起の順観逆観です。
相応部経典の因縁相応に限らず、仏陀が説いている縁起の法とはことごとく十二縁起のことです。
私は大乗仏教しか知りませんでしたが、原始仏典に当たり始めて、「これは大乗仏教の知識をまずは白紙にしないと仏陀の真意は分からないな」と思ったのです。
巷に溢れる仏教書では、縁起とは「無数の原因(因)や条件(縁)によってすべての存在がある。だから自性などない。空である。」という解説ばかりだからです。
仏陀が言う縁起とはことごとく十二縁起のことだと知った時、それまでの知識を白紙にしようと思いました。
エム先生、
『中論』で唯一経名が挙げられる『カーティヤーヤナ(迦旃延)への教戒』のパーリ相当経ですね。
中道の根拠ですね。
oさま こんばんは。
>『中論』で唯一経名が挙げられる『カーティヤーヤナ(迦旃延)への教戒』のパーリ相当経ですね。
そうです。
わたしは、パーリ語経典に基づいて、『中論頌』は書かれたと思っています。結局、ブッダは形而上学を語らない、ということの根拠の1つになりますね。
意識してませんでした。
「形而上学を語らない」ということがこれほど大事なことだとは気づいていなかったです。
エム先生、
パーリがアーガマとは意見が異なりますね。となると例えば『勝義空性経』はアーガマになってないことになりませんか?
その根拠を伺いたいところですが、こんなところで言えないでしょうし、私も戯論が過ぎるので、そろそろ失礼いたします。
ありがとうございました。
ショーシャンクさま こんばんは。
>仏陀が言う縁起とはことごとく十二縁起のことだと知った時、それまでの知識を白紙にしようと思いました。
その態度は立派なことだと思います。ご自分で追究して行くことは必要なことであり、特に仏教においては当然です。
「如来所説経」などから、どうして「中道」が説かれるのか、当然疑問になってくるでしょう。
『スッタニパータ』や「中部」『小空経』などから、どうして「空」が説かれるのか、疑問が出てくるでしょう。
それから、縁起といわれる関係にも目が行くでしょう。
みんな、自分自身で考察してたどりついたと思います。ショーシャンクさまのこれからを、おおいに期待して見守って行きたいと思います。
エム先生、こんにちは(^O^)
肩こりなおれ〜調子上げ上げ〜↑(願!)
今、中部経典62経「大ラーフラ教誡経」を読み始めてて、
(パーリ語)
MN 62: Mahārāhulovādasutta—Mahāsaṅgīti Tipiṭaka Buddhavasse 2500
(光明寺経蔵さま日訳)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn07/mn07c03.files/sheet001.htm
その中に出てくる、
①netaṁ mama, ②nesohamasmi, ③na meso attā’ti
を理解したいなぁと思っているのですが、
①ne 否定、taṁ それは、mama 私のもの
②ne 否定、so それは、ham?私?、asmi(atthi、有る、存在する、の現在形?)
③na 否定、meso 私とそれ ?、attā本体
↑パーリ語の辞書を見て、わからないなりに、この単語はこういう意味かな?と考えました。
それで、英訳では、
①This is not mine,
②I am not this,
③this is not my self.
と訳されていたのですが、、、
MN 62: Mahārāhulovādasutta—Bhikkhu Sujato
それで、エム先生のブログ記事の最後にあった、
>六派哲学といわれるインドのヒンドゥー教系統の哲学は、アートマンを説きます。六つの学派は、2つずつ組みになっていて、一元論、二元論、多元論を示し、ブッダの説いた、<これはわたしである><これはわたしのものである><これはわたしの本体である>という要素をそなえている、と、説明はできないけど、わたしはそう考えています。<
とあって、
①netaṁ mama, が二元論
②nesohamasmi, が一元論
③na meso attā’ti が多元論
と考えられているということでしょうか??
全く勘違いしてたらすみません!
経典を読んでいくにあたって、pipitの頭を整理するために質問させてください
m(_ _)m
すみません、先の投稿文(4/24 11:11)ですが、訂正としての【追加を】させてください!
———————
①netaṁ mama, が二元論【の否定】
②nesohamasmi, が一元論【の否定】
③na meso attā’ti が多元論【の否定】
と考えられているということでしょうか??
———————
めっちゃんこ違ってたらすみません!!
>①netaṁ mama, が二元論【の否定】
>②nesohamasmi, が一元論【の否定】
>③na meso attā’ti が多元論【の否定】
おおむね、いいんじゃないでしょうか。わたしは、そう考えています。
①の二元論の否定が、どういうことだろうと思われるかもしれません。「わたしのもの」の「わたし」とは、意味するところは「人」と考えてよいでしょう。
ふつう「わたしのもの」として表されるものといえば、身体と精神とか、男と女とか、認識の主体と客体とか、二つくらいに分かれるものが多いと思います。
「わたしの身体」とか「わたしの妻」とか「わたしの認識」とか、使いますので、大体「わたしのもの」でこういったものを指すと見てよいと思います。多元論はヴァイシェーシカ学派の説く六句義(六つのカテゴリー)などを想定すると良いと思います。
ヒンドゥー教系統の哲学は、仏教を非常によく勉強します。そして、その理論に併せて自分たちを構築していくのです。
恐るべし、インド哲学!といったところです。
だから、ブッダの理論通り、と言っても否定的な意味を込めてですが、発展して来たのがインドだと思っています。
ヒンドゥー教の方は、口では言いませんが、仏教の思想によって発展して来たと言える、と思っています。
エム先生、返信ありがとうございます!
今読んでる経典の中で、釈尊のおっしゃる三パターンの句の分け方がいまいちよくわからなかったのですが、
二元論、一元論、多元論でイメージしてみようと思いました。
例えば、【ルーパ(色)は】、
①私と対象の二元論として存在するわけではなく、・・・<これはわたしのものである>ではなく、
②一元論として存在するわけではなく、・・・<これはわたしである>ではなく、
③多元論の一つとして存在するわけでもなく、・・・<これはわたしの本体である>ではなく、
縁起として生じて、滅する、空性のもの、、、みたいな感じで読み進めてみようと思いました。
ヒンドゥー教は、①②③を綺麗に反転させて『有』の教えになるのかな?
そこからやさしさが生まれる道もあるのかな、と、思いました。
お忙しい中ありがとうございます!
pipitさま おはようございます。
ふしぎなことですが、龍樹に教えられたニヤーヤ学派は、自分たちの教えを整備するために龍樹の論を学んでいるようなところがあります。
他の学派も、みな同じです。
なぜ、そういわれているのか、ブッダの意図は誰もわからないのですが、次第に形になって来ると、逆に自分たちの道がみえてくるのです。
>ヒンドゥー教は、①②③を綺麗に反転させて『有』の教えになるのかな?
おっしゃるとおりなのです。アートマンを捨てられないヒンドゥー教の人々は逆に「有」へと向かう道を見つけるために、仏教を学んでいきます。
きれいに反転させて自分たちの理論を整備して行くのです。不思議な光景です。
ここを見ると、ブッダが一切智者だというのも分かると思います。ですから時代が逆行しているように見えるのです。
これだけ理知的・論理的に詰めてかかれるのに、ブッダの法は説かれていても、反論が出てこないときには消えているのです。いったん、反対意見が出たとき、ブッダは姿を表して、それと対抗する法を説くのです。その理由は、みんなの苦しみをただただ払うためなのです。
こうなっているのか。。と知ったとき、ブッダは神の座にのぼりました、わたしのなかで。