西哲では有名な「うさぎーあひる」の図ですが、諸法実相との比較で出してみました。というか、ファイルの中に潜んでいたのでなんとなく出してみただけです。
仏と仏とのみ極め尽くしたといわれる諸法の実相。
鳩摩羅什は、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等の十種をあげ、サンスクリット語の原文の五種の方法を倍に広げているようにも見える。また『大智度論』には九種をあげているところと、この鳩摩羅什の十種を関連づけて考える人もいるようだ。
考えてみたけど、わたしは今のところ、「分からない」という結論です。五種を十種に広げる可能性は、いくつかありそうだし、3×3=9通りに後一個足したとみることもできるなとも思います。ひとつに決められるようなものではないだろうな、って思えてきますね。
「ある人いわく」のようにして、その時々でいくつか可能性があるのじゃないかしら、ね。
昔、わたしは、宮沢賢治の「烏百態」という詩を鳩摩羅什で、解釈したことがあります。
最後にある
「西にとび行くからすらはあたかもごまのごとくなり」は、「如是本末究竟等」を示しており、情景を思い浮かべて、思わず笑ってしまいました。
そういえば、冒頭にあげた「うさぎーあひる」はやっぱり、うさぎーあひるに見えますね。
煩悩があると一つの見方しか取れなくなってしまう、というのが、その主張するところだけど、一度「うさぎにも見えるしあひるにも見える」と習ってしまうと、そのように学習してしまうのが人間です。
ああも言えるしこうも言える、というのだと、どういう風に見るのが正しいのか教えてもらいたい、となってしまう。だから「うさぎーあひる」の図をみると、
ああ、あの「うさぎーあひる」でしょ、哲学にでてくるヤツね
となって、分かったつもりになってしまうのです。
わたしも、以前はその考え方になじんでいたので、解釈しずらいものをみると「何が隠されているんだろう」「どう解釈するのが本当なんだろう」っていつも思ってました。本当のこと?。。そんなことは、何にもないんだと分かってきたら、逆に、いろいろなことに気がついていきました。
弟子がお釈迦さまに、「ほんのの少しでも、永遠のものと言うのはないでしょうか」と尋ねると、お釈迦さんが、仏弟子に土をつまんで「この土と大地とどっちが多いか」と聞く経典があります。
わかりやすすぎる答えに「大地の方が断然多いです」と答えると、
爪の先の土を指して「これっぽっちの土でも永遠なものはない」と教えるのです。
「もし、永遠なものがわずかでもあれば、苦を滅しつくすことはできないだろう。しかし、これっぽっちの土でも永遠ではないから、それだから、修行をして精進すれば、苦を滅しつくすことができるのだよ」と教えるその論理は確かです。
「うさぎーあひる」も、「方便品」も、どこかに行っちゃいましたね。
苦は滅しつくせるのかぁ、と希望をもって、この話を終わります。
コメント
石飛先生、ありがとうございます。
十如是、特に如是本末究竟等はサンスクリット原典にないため、鳩摩羅什がどのような意味で書いたのか確かめることができません。
20才の頃、12月に新幹線に乗っていて、関ヶ原で急に雪景色になったときに、ハッと十如是の意味がわかったような気がしたのです。
如是本末竟究等とは一味、一色の意味ではないかと。
ただ、それからどのような仏教書にもそのようなことは書いてなく、『本』が『相』で『末』が『報』で、相から報までがすべて平等というようなわかったようなわからないような解説ばかりで、私の感じたのは違うのかなとずっと思っていました。
ところが最近、十如是は薬草喩品から来ているという説があることを知り、そうであれば、一味ということがあるのではないかと思い、先生にご質問しました。
開通方便が本末究竟等の意味という有力説がありますし、先生の言われるように、本当のことなどないのかもしれませんが、自分なりに考えてみます。
ありがとうございました。
なるほど、ショーシャンクさま、ご事情はのみ込めたと思います。
一味についてですが、『ウダーナ』に「布薩」という経典があって、その中で述べられています。わたしの訳したものがあります。
https://manikana.net/canon/husatsu.html
ただ、この喩えは、ウパニシャッドなどにも見られます。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』『にブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』など古い文献にも見られるのです。アートマンを認めるウパニシャッドの哲人たちが用いたものを、ブッダが無我の教えに使ったのかもしれない、とも言えるので、それらを区別するなら、ブッダは「空」も説くことが分かります。
一味をといても、「空」であるとして、アートマンの思想からアートマンを空じてしまうことができるからです。
何がすごいと言って、ブッダは、彼らウパニシャッドの秘義に詳しい哲人たちを相手にして、彼らを説得していったのです。
石飛先生、ありがとうございます。
『布薩』、読ませていただきました。
大海が一味だという喩えは、仏教に限らずインドの文献では多いですね。
法華経薬草喩品では、雨が一味となっています。
一相一味で、解脱相、離相、滅相、究竟涅槃にして、空に帰すとされています。
『本末究竟等』とは、解脱相、究竟涅槃という一相一味のことではないかと考えました。
無生法忍にも繋がっていくように思えます。
> 大海が一味だという喩えは、仏教に限らずインドの文献では多いですね。
そうなんですよ。喩えだけでは、仏教なのか,そうでないのかわからないのです。ですが、そこにこだわるかどうかで、違いが出てきます。
雨は等しく降るけれど、受け止める植物の側で、多く吸収するものもあれば、少なく吸収するものもある、ということで、うまいなあと思います。、
> 一相一味で、解脱相、離相、滅相、究竟涅槃にして、空に帰すとされています。
ほんとですよね。「解脱」「離」「滅」「涅槃」どれも、空の一味です。アートマンを説く派では、アートマンだけが残って、そこが主張になってしまうんですよね。たとえば、『バガヴァッド・ギーター』などでは、その境地を、ブラフマ・ニルヴァーナ(梵涅槃)などと呼んでいます。
微妙な差を理解して行かなくちゃならないので、仏教は難しいですね。
仏陀は、爪の上の土ほども滅しないものはない、と言いました。
仏陀は、一切の存在は無常、苦、無我、不浄と説きました。
しかし、大乗涅槃経は、
『如来常住 無有変易 常楽我浄』と説くに至ります。
大乗涅槃経は特にバラモン教の強い影響を受けているように思えます。
常楽我浄である如来とアートマン、ブラフマンの違いを先生はどう考えておられますか?
今朝の話、、、、
8時頃に朝ご飯を食べ終わり、食器も洗って、洗濯機がそろそろピロリ~と鳴るなぁぁと思っていた時に
浮かんできた歌 「インドの山奥でっっ!修行ぉしってーーーーーーーっっっっっ!」????
(これなぁに?ここしか知らないんだけども??)「ココしか知らないから、続きをどーぞー」と家族に
マイクを(ダメ元で)突きつけてみたところ、、、、、、、
家「ダーイバーダッダの魂やどしーー空にぃかけたるぅ虹の夢ーーだよ」
ぎ(ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー)「そ、そんな歌詞なのーーーーーー!!!!!知らなかった!!ダイバダッダは
お釈迦様の教団から離脱して別の団体を創った人(←ほとけ)だよたぶん(マニカナで初めて名前を見たのだ)」家「は~~~?知らねーよ!架空のキャラだと思ってるよみんな!!」
(久々にぎゃーーーーてなったわ~、可笑しすぎて泣けるレベル、なんでこんな歌が口を突いて出てきたんだろう???しばし考える。。。ぽくぽくぽくぽくち~ん。。。
あーー昨日、先生の文中に「修行」って文字を観たから、なにか心に「ずしっと」きたんだね~~~~。
で、日頃、春間さんに(次はどんな雪玉投げようか?あの歌か、この本か、、、)と、こねこねしている
から、今回これが選曲されたんだね~、てかこれ一曲しか思い浮かばなかったけどね~
ぎんたさまっち!
いろいろ反応しますた。家の洗濯機もピロリ~と鳴きます。「インドの山奥」の歌聞いたことある。。「修行」の文字も、自分で書いてて、自分で「修行かぁ」って勝手に印象づけられてました。
いわゆる「修行」って、してないせいかな、って自分で勝手に思ってました。
> 家「ダーイバーダッダの魂やどしーー空にぃかけたるぅ虹の夢ーーだよ」
提婆達多が出てくるのか。。知らなかった。。『法華経』からだね、きっと。
『法華経』にも「提婆達多品」があるのもあるしね。
勉強になりました。。
確かに、その歌のダイバダッタは法華経提婆達多品のダイバダッタでしょうね。
これが部派だと、『ダイバダッタの魂宿し』なんて言ったら大変な騒ぎになるでしょうから。
虹の夢どころか阿鼻地獄一直線でしょう(笑)
ダイバダッタを肯定的に見ている唯一の文献が法華経ですね。
提婆達多品は古くから悪人成仏を説いてると言われてきましたが
全く悪人として描いていません。
それどころか、釈尊の師匠ですね。
このあたり、法華経の成立と関係がありそうな気がします。
ショーシャンクさん、ご無沙汰してます!良く解らないんですけれど何か色々捗っているご様子で、
よかったな~と思います。ダイバダッ「タ」なんですね!最近は、wikiとかで全く確認しないで
書いているのです。前は間違えちゃいけないと思って確認しっかりしていたんですが、そうすると
手が疲れちゃって腱鞘炎一歩手前(←体からのサイン)になるので、テケトーに書きます。もし、
これを読んでる人(←ほとけ)が「ここ間違い~~~♪」と思えば、そのほうが楽しいかなと。
突っ込みがい?みたいな?
ところで、昨日我が家は、「レインボーマン」の動画を色々漁りまして。今は番組丸ごと放送禁止
みたいですが、もうとにかく!!「死ね死ね団のテーマ」が衝撃的で!!!!!!!
私はかなりの「真に受けっ子」なので。。。これは!!すごいやばいことが起こっているのでわ??
私は政治経済からっきしですから、現状の分析が出来ないのです。今は、あの、新NISAだの、
ふるさと納税とか「お得」になるように生活しないと「賢さ」を証明出来ないような空気あるじゃ
ないですか。なにか不安で。。。地震多すぎな島なのに原発の密集度は高いし。ふるさと納税に
Amazon参入なんて、ネガティブ思考の私からしたら、「日本終了のお知らせ」しにか聞えない。。。
なので、ショーシャンクさんの見立てが知りたいのです。春間さんの日本語はちょっと理解
出来ないので、質問とか出来ない。
ぎんたさん、こんにちは。
私もいまの日本の状況を見ていますと、とても悲観的です。
岸田政権、やばすぎるなあ、という感じです。
今年末にトランプが返り咲くでしょうから、なおさら日本はやばいです。
岸田ではいいようにされるだけです。
これから先、とんでもない増税も待ってると思います。
衆院選までは隠すでしょうけど。
これからは生活防衛が極めて重要になります。
一言で言えば無駄遣いをしないということです。
本当に自分にとって価値あるものしかお金を出さない、
事業者の販売促進に踊らされるのをやめるということです。
ふるさと納税もNISAも私はしてないです。
ポイ活(ポイント活動)もしません。
私は店舗を経営していてポイント何倍の日とかもしますので
事情はわかってるのですが、
結局、ポイントで煽って消費者に無駄遣いさせようとしているのです(笑)
テレビも他のメディアも盛んに『お得』と煽ってくるでしょうけど
冷静になって、本当に自分に必要かどうか、価値あるかどうか、を見極めていくのが、これからの日本では非常に重要になります。
物価と税金がこれからとんでもなく高くなるので、価値あるものだけにお金を使っていきましょう。
石飛先生、仏教と関係ないことですみません。
なるほど、、、、でも、そうすると、、物価高と重税で食料買うのがやっとになったら、
Amazonさんにあんまりお金落ちませんね。儲からない。
う~~ん、Amazonからしかもの買えないようにするとか?したら、「店舗」と「販売員」が
消えちゃうの?すると不動産の価値はどうなるんだろう?ダメだ。ムズカシすぎ
まあ、兎に角「経緯」はすっ飛ばして、「結果」から考えると、今いる日本人は(といっても
肉体だけ)来世憧れの「アメリカ人」になれまーーーーーーーーーーす。なぜか?
憧れてるから。戦争で負けてるし、大体の凡人は英語で躓いてるし。だからね?せっかく
アメリカ人に生まれ変わったのに、「中の人」の記憶通りに生きてしまうと、また前回の日本を
トレースしたような人生になってしまうので、「こだわり」とか「違和感」とか考えずに
精一杯生きるんにゃ!!!!お釈迦様と同じ間違いはダメ、ゼッタイ!!
そんなこと思ってると、家族が「そういえば、今アメリカ大変らしいよ?万引き法で1000ドルまでは罪に問われないから警察も呼べないらしいよ!」と。
ええええええーーーー?、でもTVでやってくれないと!動画見ない世代は絶対アメリカに
行っちゃうよ!日本が滅んでアメリカ行ってまたアメリカ人としてアメリカ滅ぼして、そんにゃ
「遊牧民」をしている内に全世界が「被爆国」になっちゃうにゃーーーーーー
ああああ、どうしようショーシャンクさん!ショーシャンクさんの店舗をどうにかして守りたい
けど、ショーシャンクさんの代では逃げ切り可能かもしれないから取り越し苦労かもしれないし、
そもそも、ぎんたの「読み」って当ったことあったんでしょうか????
取り乱してしまい申し訳ないです。ごめんなさい。。。
マニカナで仏教のお話聞いてるのは心が安らぐんですが、ちょっと社会に目を向けると途端に
目眩がしてくるのです。(←うん、猫だからだね!)
失礼しました。気を静めてきます。。。
ち、違う、「遊牧民」じゃない。なんていうのかな、「ジプシー」みたいな感じの移動する民。
ぎんたさん。
物価高や重税になればなるほど、Amazonなどのネットで買う人は増えます。
店舗と比べ安いですから。
店舗では到底太刀打ちできません。
Amazonは一人勝ちになりそうです。
それに、店舗は万引きに年々侵食されています。
特に最近は酷いですね。
人件費を抑えると万引きが増え、万引き対策に従業員を増やすと人件費が大きくなりすぎます。
ただ、日本にとって希望がないわけではないです。
今もそうですが、トランプになればアメリカはさらに中国にきつく当たり、膨大な関税などかけていきます。
中国は没落して、日本とインドがメリットを受けるでしょう。
ですから、いまは、日本の半導体株が上がっています。
しかし、今年後半、中国の没落が鮮明になったら、中国が物凄いデフレに突入して
世界経済を巻き込むかもしれません。
ですから、株も先行き不安な部分があります。
いまのところ日本の将来をかなり悲観していますが
ぎんたさんを見ていたら大丈夫に思えてくるのは私だけでしょうか(笑)
え?中国が没落ですか?家族は、中国は意外と外国に対して悪いことしてない、みたいな感じの
ことを言っていましたが、、、。他国の没落前提で自国の利益考えるのは危険な気が。。。
でも、今の中国の人の「中の人」は前世何人なんでしょうか?は~~~歴史をきちんと学んで
おけばよかったんですかね?みんなグルグル巡っているんでしょうに、、、
「平等」て、ほわわんとした理想ではなく、もっとシビアな「科学」だと思います。
どこの国に生まれても「ぃやっほ~~~ぅ!!いい国に生まれたぜ~~~~」となったらいいのに。
苦労は「恋愛」とか「天変地異」だけで。。。
悪いから没落していくのではなく、アメリカが追い落とすから没落していくのです。
日本の半導体が世界を席巻したときに、アメリカが日本を追い落としたために
その後日本の半導体や電機産業が没落していって、
中国や韓国や台湾が大きく飛躍したように。
今度はアメリカは中国を追い落としていきますから
インドが飛躍して日本が復活する可能性が出てきました。
事の善悪ではなく、物理現象に近いです。
日本も悪いから追い落とされたのではなく、アメリカにとって脅威だったからアメリカは追い落としたのです。
なぜ脅威になるかというと、アメリカの「中の人」と日本の「中の人」の組み合わせにより
前世物理的にあったことが繰り返されていて、「脅威」が発生してそのような行動を起こさせるんだと思います。富岳でこの歴史の辺りが今ココとかできればなーーー、、、
富岳、あのマスクのやつの映像ってあんまりにもレベル低すぎないか?と我が家で不評。
(たぶん、もっとすっっごいシュミレーション裏でやってるんでしょ?わくわく)
日本は「一人勝ちしよう」なんてさもしい行動とると、ぜったい叩かれるんだと思います。
*
論語 朝に道を聞かば
論語 里仁 四
「 朝聞道夕死可矣 」
朝の自分 は 道を聞く人である
昼の自分 は 道を歩む人である
夕の自分 は 死に辿り着こうと 可として
( 他によって )動かされぬ人である
どこを探そうと “ 本当の自分 ” は 見つけられない
養老孟子 「 ものがわかるということ 」 39p.
X 学ぶとは ものの見方が変わるということ
学ぶとは “ モノ ” の見方が 変らなくなるということ
・
えーと、、孟子の名言見てきますた。いっぱいあるーー。気になったのは
人のその言葉を易くするは、責めなきのみ
行い得ざるものあれば、皆反りてこれを己に求む
この2つ~
今、あの危険な団体への次なる一手を考えないとです。なにか小説読もうかなと。
養老孟司の「中の人」は昆虫です。で、中の人が昆虫だと脳の面積違いすぎ&人間と暮らして
なかったので、昆虫だったときの記憶は今世で出てこない。その前に人間だった時の記憶を
引き出せるので、前前世きちんと学問を修めていれば、ものすごいアドバンテージがあるわけ
なのです。昆虫の時せっせとごはん集めてる種類なら完璧~、、という「私な仏教」設定。
♪インドの山奥でんでんでんろく豆うまいまめーだーかの学校はーかーわのなカラス何故泣くのーカラスの勝手でしょ♪
地域によって差がありますね。
うちの家族は「出っ歯のなんたら~」でしたーーーー
カエルさんは映画「君たちはどう生きるか」観ましたか?
残念ながら観てないです。
どちらかというとゴジラが観たいかな(笑)
映画館はずうっと行ってないな。
あ、そうでしたか。「君たちはどう生きるか」の最初のほうにかえるがいいーーーーっぱい
出てきて、内心ひぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーーーっとなった瞬間がありましたが、ぎりぎり
のところで(カエルさんも観てるかな?)と素のぎんたに引き戻すことに成功して事なきを
得ました。ありがとうが言いたかったんです。
主人公の少年が、大叔父のあとを継いで自分がやって来た作業をやれとか言われるんですけれど
あとは継がない(=同じやり方はしない)ていうんです。そこが最高にエモかったです。
ううう、、、こういう時語彙があったらいいなと思います。→ツッチのムビログ観るとすごすぎ
で泣けます。
ゴジラは本当に「に、逃げなきゃ」という臨場感がもの凄かったです。あとらんまん夫婦の
共演にニマニマしました。
……………………………
提婆達多は釈尊の先生
……………………………
竜神の八歳の娘が成仏するという法華経「提婆達多」品。
釈尊は差別なき世を目指したのだと思う。
それよりも、提婆達多は釈尊を殺そうとしたが、その提婆達多は釈尊は、
「前世で提婆達多は私の先生だった」
というのが最近になって腹に落ちた。
歴史上の人物も私の先生」
今、セネカの『正の短さについて』を読んでいるが、諸行無常の説明で
あるようで仏教的だ。読書は楽しい。
修行とは、釈尊の示した八正道のような「努力を楽しみ」ことだと思う。
努力に遊びたい。
…………………………………………
十如是の如是は有無の否定(空・無)
…………………………………………
あるHPにある十如是のサンスクリット語からの解釈です。
石飛先生はどう思われますか。
① 相… “lakṣaṇa”=特徴・特質・外形・姿かたち=真理としての如是相は無相
② 性 “svabhāva”= “svabhāva” 自性・本性・本来のありかた=如是性は無性
〈相即性・相性一体〉
④ 力 “bala”=内に秘めた力、力用、潜在能力=真理として如是力は無力。
⑤ 作 “kāraka”=作用・はたらき・力の発動=真理としての如是作は無作。
⑥ 因 ”hetu”=原因・理由・動機=真理として如是因は、無因。
⑦ 縁 “pratyaya”=主原因を助ける無数の補助因=真理としての如是縁は無縁。
⑧ 果 “phala”=結果=真理としての如是果は無果。
⑨ 報(果報)”vipāka”=瞬間の感想だから境界=果報の有無は否定されま無果報
⑩ 本末究竟等 “sama”=究めれば平等=真理としての本末究竟等)は〈空〉
諸法実相とは、諸法の真実の相を観ることで、真実の相とは無相だから、
諸法が無相(空)であることを観察する。
まずは、諸法を観察し、次に諸法の実相を観察して、真実を得たならば
真実を本に諸法を観察する。
芳和さん。
なぜ、本末究竟等のサンスクリット語がsamaなのですか?
法華経のサンスクリット原典には、十如是はありません。
鳩摩羅什の漢訳にしかないのに、サンスクリット語を確定するのはおかしな話です。
……………………………………………………
仏教からみた金融投資行(お金の善き循環)
……………………………………………………
S金融投資家様、硬直していた日本の金融政策にも正常な変化が生じたもので、
この機に、一言、個人的な感想を述べさせていただきます。
かも「ポイント政策」というのも、生活に苦しい一般大衆にお金を回すという
意味で意義があると思います。貯まったポイントを使ってレストランで食事も
できます。
問題は、「お金の善き循環」ではないのでしょうか。
史上稀なるマイナス金利政策は、その「お金の善き循環」を目論んだわけですが、
お金が企業・資産家で止まり動脈硬化を起こしてしまったようです。
お金を貯め込んでポイントを必要としない資産家から税金を取り、社会に還元
すれば、お金という経済の血液は循環するではないのでしょうか。
金融投資家や起業家は、勝ち負けや私利私欲に走りがちですが、それは仏教から
した貪欲であり、〈自然の摂理〉に疎いということになります。
仏教では、客観という現象世界は、「観念が生み出した想像物」ということで、
言語で表されたものは実在するという実在論とは違う、変わり物です。
いわば、「自己と世界の交流」ということです。
宮沢賢治風に言うならば「世界が幸せになれなければ自分は幸せになれない。
という自己と世界の縁起の理です。
而して、「社会にお金が循環しなければ個人個人にお金は入らない」。
ならば、仏教の視点からしたら金融投資家はどうしたらいいのでしょうか。
そればもちろん、私利私欲ではなくて、社会のために、お金が善き循環する
ように自分のため込んだお金を投資すべきではないのでしょうか。
「自分が損するではないか!」と叱られそうですが、「仏教とは損することだ!」
とある高僧は申していました。
自我の欲望を捨て自己が透明になれば、みんなと共にという「自然の摂理」が
働いてくると言います。
そういう「自然の摂理」に順じて大企業家になった方もいらっしゃいます。
社会のお金の循環に貢献した者にこそ、血液がよく回るようにお金が回ってくる。
私利私欲が旺盛な穢れた私にはお金が回ってこない。
トホホですので、心を浄める修行に遊んでいます。
お金は経済の血液です。
動脈硬化を起こさないように、お金の循環に貢献したですね。
というのが、個人的な感想です。失礼しました。
わかっていない ということを 伝えているのだけれど
わかるということ が わかるのかな ?
……………………………………………………………
布薩(海)・一味の法=違いがあってもみんな仲間
……………………………………………………………
経典訳の無量提示という社会貢献に感謝します。
「布薩」を読ませていただきました。
個人的な感想としては、海とは「みんな仲間」に譬喩で、
布薩とは、「みんな仲間の戒め」、戒定慧の戒と読ませていただきました。
どなたかが、「オレは、現象世界の一味を悟った」というようなことを
仰せのようで、それが法華経の薬草喩品にあると申しますので、法華経
を包みつつ超えた者として、童子に帰り薬草喩品を再読してみました。
スタンダードは、岩波文庫本の坂本・岩本訳注『法華経』でしょうね。
補足として中公文庫の松濤・長尾・丹治訳『大乗仏典・法華経』。
それと、法華宗的で自己主張が植木雅俊訳『梵漢相対照・現代語訳・
法華経』を読み比べて偏りのないようにしています。
先ず「空」は、ブラフマン・アートマンの否定も肯定もしていません。
有無の判定を絶するのが「空」だと学んでいます。
ブラフマンの実体を粉砕すると「みんな仲間という理法」が生れる。
アートマンの実体を粉砕すると「仲間に生かされている自己」が生れる。
といったところというのが個人的な感想です。
好き嫌いのない仏陀はアートマンを嫌わらず排除しないはずです。
空思想と法華経は別物と説く学者さんもいますが、空思想も法華経も
仲間ですし、『バガヴァッド・ギーター』といったヴェーダ聖典も仲間
ということではないのでしょうか。『観音経』的には、観音菩薩がそれ
ぞれの能力や立場に応じて慈悲の法を説くということですかね。
一例―――「薬草喩品」(岩波文庫・法華経(上)』221頁。
「例えば、カーシャバよ、大きな雲が三千大千世界のすべてを覆うて、
あたり一面に雨水に雨水を降らすと、雑草・樹木の類はすべて生気を
取りもどし、〔それぞれの能力に応じ〕〔生育の場所の応じ〕また〔勢い
に応じて〕水を吸い上げ、〔それぞれの種属〕に相応しい大きさに成長
するように、完全な「さとり」に到達した如来がいかなる教えを説こう
とも、それ教えはすべて同じ味であって、世界の繋縛からの解放とか
対象に執着する心の完全な解脱というものをもっており、仏に智慧に
達することを究極な目的としているのである。
私なりに言えば、如来の理法の雨は「総合病院」のようなもの。
内科・外科・産婦人科・耳鼻咽喉科・眼科・神経内科・歯科…等々、
それぞれの病気の種類に応じて、平等に治療を施し健康な人間にする。
さまざまな病気という違いがあっても、みんな平等に治療を施し、
仏陀という医王は、みんな平等にすべての苦しみを無くすということ。
『中論』の八不でいえば「不一不異」ではないのでしょうか。
世界の生きとし生けるもの「みんな仲間」ということでしょう。
世界は私、であり、私は世界。
だから、世界中の生きとし生けるものと「共に生きる」。
というのが菩薩である。
深めて行けば、華厳哲学の事事無礙法界に至りますが……。
『法華経』を読み返してみて、そんな風に思いました。
ショーシャンクさま こんばんは。
> 大乗涅槃経は特にバラモン教の強い影響を受けているように思えます。
> 常楽我浄である如来とアートマン、ブラフマンの違いを先生はどう考えておられますか?
人によっては、そう見えることもあるかもしれない、と思います。
しかし、大乗中期といわれる時代にならないと、「常楽我浄」は出てこない、というところがミソだと思います。
ブッダの教えと同じことが説かれていると思っています。ブッダは、「空」はほとんど説きませんでした。ところが時代の流れにより、龍樹が出てくると「空」はどんどん「説かれる」ようになります。
空とは何か?出来事・現象と関わりますが、特に、ことばと関わるのです。言語のあり方にもこだわらない、という姿勢を打ち出すのが、「空」の思想といえるでしょう。
ですから、「こだわらない」という思想がはっきりと「空」で示されるようになってから、常楽我浄が出てくるのです。言語にこだわらないからです。
ブッダは、有為・無為とわざわざ言い換えなければなりませんでしたが、空と示されてしまえば、相手の用いる言語を使って「こだわり」を抜いて説くことが可能なのです。
アートマンやブラフマンを説く人たちは、絶対的真理として説きますね。ところが、仏教徒の人たちは、「我」と説いてもそれにこだわって絶対的真理として説いているわけではありません。涅槃は寂静であって、戯論寂滅の状態なのです。アートマンやブラフマンも、有るのでもなく無いのでもない、という程度にしか説かれません。
ことばでいわれても、それは空なのですから、相対的に変化していくだけなのです。
たとえば、今では「如来」といわれても、仏像になってるだけ、とも言えます。仏像も古くなるだろといわれると、この世のものはみな古びていきますから「その通り」といわざるをえません。そのとき「諸行無常」という法が浮かんでくるかもしれません。「常」ということが思い起こされてくるかもしれないですね。確かに諸行無常という法は常かもしれないなあ、と思うこともあるでしょう。
「龍樹はことばを解体した」とかいわれますが、仏教のことばの使い方はこんな感じです。
ことばはいつも同じ意味ではないのです。
語られるたびに変化してやまないのです。
ですから、バラモン教の影響を受けてはいる、と言えますが、そこには、仏教の味わいが潜んでいると思っています。
見方を変えれば、インドの思想で仏教の影響を受けない思想はない!という風にも言えるのです。最近『ハタヨーガプラディーピカー』を読んでいますが、最終的には仏教の思想にもいけるなあと思ったりもします。
内容的には変わっていませんが、誤字など若干訂正しました。
石飛先生、ありがとうございます。
言葉に囚われない段階になってから、空や常楽我浄が説かれるようになったということですね。
私の考えでは、仏陀の『無記』をかなりの人が誤解していった歴史的経緯があって、それへの反発のような気がします。
『無記』を無と捉えてしまい、灰身滅智の方向に流れていき、仏教が唯物論、虚無論の色彩を帯びてきて、大いなるものを見失ったことへの反動だと思っています。
大乗の中期、後期になるとその傾向が強まります。
大乗涅槃経の『常楽我浄』や密教経典の宇宙原理たる大日如来と、アートマン、ブラフマンとの違いを明確に指摘できる人がいるでしょうか。
あまりにもバラモン教に近くなりすぎて、ついにヒンドゥー教に吸収される形でインドから仏教が消えていきました。
現代の仏教でも、輪廻も神霊もないと断言する仏教者が多いことを見ても
その一面、大我を強調する仏教者も多いことから見ても
歴史上の仏陀の『無記』の真意はなかなか伝わらなかったように思えます。
ショーシャンクさま 返信が早くてびっくりです。
> 歴史上の仏陀の『無記』の真意はなかなか伝わらなかったように思えます。
このあたりにご返信をしてみましょう。
この辺のところ、確かに自分の煩悩に合わせて『無記』を解釈しますのでいろいろな伝わり方をすると思います。
それはそれでいいのかもしれないと思ったりもします。「無記」をブッダは「肯定も否定もしない」ととらえる人もいれば、ブッダの気持としては「賛成しかねる」ってことかなと思ったり、まあ、いろいろでしょう。
ただ、ショーシャンクさまは悲観的な解釈ですが、わたし自身はまったく違います。仏教はインドに脈々と根付いていて、その教えは失われてはいません。それどころか、ヒンドゥー教は、やがて遠い未来に仏教へと発展していく要素をもっているように見えたりしています。
『バガヴァッドギーター』の中には仏教の要素が色濃く残っていますし、ちょっと真面目に考える人であれば仏教が勝れていることは、明確だと思います。
ヒンドゥー教の聖者たちは、みなブッダの教えが優れていることを知っていて、そこから吸収していっています。ヨーガ学派しかり、サーンキヤしかり、ニヤーヤしかりです。世間が何を言おうとも、世界中にいる智慧ある者たちはブッダの思想に一目おかざるを得ません。
そうやって、今日まで仏教はなくならずに続いていると思います。
学問は多数決の世界とは関係無く、智慧を開発することによってしかその精髄を得ていくことはできないと思っています。
水は高い方から低い方に流れるようにできているのです。ブッダを無視して生きられる生き物はいないと思っています。
石飛先生。
『ヒンドゥー教はやがて、仏教に発展していく』というのはすごい言葉です。
そうなれば、最高ですね。
シャンカラは仮面の仏教徒と言われていますが、ヒンドゥー教の主流です。
つまり、ヒンドゥー教に仏教の大きな影響があるということですね。
ただ、シャンカラは著書のなかでさかんに仏教を論破しようとしたりしています。
仏教の方でも、最初から、バラモン教を外道として排斥し、
共通性を認めようとはしませんし、自らの独自性や優位性ばかり強調してきました。
どちらも、極めて強い影響を受け合っているにも関わらず。
変な関係ですね。
ショーシャンクさま 変な関係というのはごもっともな意見です。
バラモン教やヒンドゥー教関係の学派は決してブッダに賛成することはありませんが、「仮面の仏教徒」に見られるように、ブッダが否定した通りに学派を作っているのです。
「五比丘」という経典で説かれる
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>に合わせて
一元論、二元論、多元論がヒンドゥー教の側で作られていきます。
それぞれヴェーダーンタ、サーンキヤ、ニヤーヤです。
https://manikana.net/canon/anattalakkhana.html
ですから、「これこれしてはいけない」というブッダのことばどおりにヒンドゥー教が生まれてきているので、インド思想はブッダがお膳立てしたと言っても過言ではありません。
ヒンドゥー教関係の人々はものすごい能力をもっていると思います、まじで。
自分でも、どのように理解したら良いのかちょっと分からないほどです。とてもおおやけにはできないんですけれど、世間の目とは全く異なるようにも見えてきますよ。
石飛先生。
ヒンドゥー教からは、現代になっても、世界教師といわれるような人たちが輩出されています。
ラーマクリシュナにしてもヴィヴェーカーナンダにしてもヨガナンダにしても、聖人と呼ばれる人が多くスケールも大きいです。
仏教からは、世界的には、禅を広めた鈴木大拙くらいでしょうか。
ヒンドゥー教のスケールの大きさ、清濁ごった煮みたいな包容力というかいい加減さは極めて魅力的です。
『おおやけにはできない』などとおっしゃらずに、是非、その『ものすごさ』を教えてください。
水は、宇宙船の中ではコロコロ~とかふわふわ~とか宙に浮いていますyo!
君に伝わる という 誤解
伝わってはいない という 正解
無 を 知る という 慢心
知らぬ という 誤解
知るまで 知らぬ
知る ということ
知らずに使う 知るということ
春間さん。
誰にも読めない、誰も読まない、自己満足だけの文章を他人のサイトに延々と書き続けて、
何の意味があるのですか?
あなたは、誰かのコメントがあれば内容に関わらず全く同じパターンの反応をしていますが、
決まりきった同じパターンを延々と繰り返すことを離れるのが仏法です。
もし、本当に私の文章の内容に対して自分の意見があるのであれば、
大乗涅槃経の常楽我浄たる如来や大日経の宇宙の原理たる大日如来と、
アートマン、ブラフマンがどう違うのか、その違いを明確に述べてみてください。
どうせ答えずに、決まりきったパターンの言葉でごまかして逃げるだけでしょうけど。
……………………………………………………
方便=直接経験の「後付けのロジック」仮設
善き縁を得て、法華経を再読させて戴くと、「是法不可示・言辞相寂滅」
という言句が飛び込んでくる。「戯論寂滅」ではないか。『中論』も訳し
た鳩摩羅什らしいと思った。
「この法は示すべからず、言辞の相が寂滅すればなりなり」
岩波文庫の坂本・岩本サンスクリット語訳では次のようにある。
「それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない」
中公文庫の松濤・長尾・丹治訳のサンスクリット語訳では次のようにある。
「それを示すことは不可能であり、それを言い表すことはできない」
岩波書店の植木サンスクリット語訳では次のようになる。
「それを明示することもできないし、そのために言葉も存在しない」
四者とも意味は同じだが、『中論』に参じた者にとっては鳩摩羅什訳が
心身に染みわたる。
釈尊が直接経験で悟った法は言葉では語り得ない。
だからと言って、言葉で語らなければ人々に、その法を開示悟入させる
ことは出来ない。而して釈尊は、人々に法を悟らせるために「修道論」
という後付けのロジックを編み出した。
「真実の法」は、八正道という修道の只中にある(修証一等)。
言語による説明はすべて後付けのロジックである。
而して釈尊は、後付けのロジックによる議論の中に悟りはないとして、
形而上学的議論には無記をもって答えた。
ただし、戯論寂滅の経験をした菩薩からしたら、「種々因縁 譬喩言辞
而爲衆生 演説説法」の世界をなるという。
「無量無数の方便と種々の因縁と譬喩とをもって、衆生のために演説したもう」
而して、戯論寂滅(空の体現)の経験後には「全ては方便(仮設)」と知るが
故に、あらゆる哲学宗教も、その枠を超えて、「如来法の説法」として学べる
包容力を得る。
大乗はインドに非ず、国境を越えたシルクロードとマリンロードに在り、ローマ
のストア学派に中にも在った。セネカもマルクス・アウレリウスも仏法を語って
いた。
ストア学派はコスモポリタン(世界市民)だが、大乗もまたコスモポリタンだと
思う。――後付けのロジックという個人的感想であるが。
無数方便即一仏乗――すべては理法を自覚するための方便。
菩薩は、すべては方便として絶対肯定できる。
「後付けのロジック」に気づかせていただいたのは、下記のYouTubeである。
参考までに。
原始仏教【インド哲学解説】 (youtube.com)
https://www.youtube.com/watch?v=0NKsFFNIbMI
(原始仏教・すべてはここから始まった)
石飛先生。
方便品第二が題名ですので、方便品で前から疑問に思っていたことを質問します。
方便品の前半では、仏の智恵がいかに難解難入かがこれでもかとばかり強調されています。
声聞や縁覚、新発意の菩薩はもちろん、ガンジス川の砂の数の不退の菩薩がこぞって一心に思っても、仏の智恵を知ることはできないと書かれています。
熟練した菩薩たちでも到底知ることができないのです。
いかに難しいかが強調されています。
ところが、後半になると途端に、極めて簡単になります。
子供が戯れに砂で仏塔を作れば、
子供が戯れに草や指で仏像を描けば、
人が散乱の心で花を一つ画像に供養すれば、
人が散乱の心で塔廟の中で一たび南無仏と唱えれば、
皆すでに仏道を成じたり。 と説かれます。
簡単、この上ないです。
この落差を先生はどう解釈されていますか?
ショーシャンクさま
正直にいうと、わたしは、最初は『法華経』が読めませんでした。「序論」でひっかかってしまって、ありえない展開のような気がしました。
「序品」では、釈迦牟尼仏が集まったみなの前で「大いなる教説」という、この経典の内容を説いていて、みなはじっと聞いているのです。終わって、ブッダは神通により奇蹟を示すのです。多くの仏国土が現れます。
それを見て不思議に思ったのが、弥勒菩薩(釈迦牟尼の次にブッダになる人)です。
弥勒は、ふつうに「これは一体何だろう」と考え、それを文殊が説明するという内容になっています。文殊の説明も、実は、ふつうじゃないですが、一応説明になっているので、われわれには、まだ了解できるのです。
こんな変な経典はどこにもありません。
しかし、『法華経』を伝えた人が体験の中から生み出されてきたものをそのまま伝えたと知ると、まさしく「ありうる経典」となるのです。
常識ある<大人な>人々には、どういうことだろうと疑問が出るけど、言われたことを言われたままに受け取る<無垢な子どもの>人々には、疑問なく受けとめられる内容なのだ
と知ります。
こう理解して、わたしは『法華経』を読めるようになりました。禅定や瞑想を駆使して、自己の心を開発しながら、自分の心を見つめていくと、ブッダの教えがみえてくるのだなと思いました。
出所は、『スッタニパータ』第4章「八偈品」のテーマを語ったものだということも理解できます。一切智者ブッダと言う特徴を余すところなく展開した経典が『法華経』という経典だと思います。
日本に伝わったのが『法華経』だったので、人々はスルッと受領しましたね。下手に無駄に知識がないところが良かったのかも。
そして、それに一役買ったのは、『法華経』を受けとめ人々に伝えた聖徳太子かもしれない、と思っています。日本の思想の中で、聖徳太子は大事な人だと思います。
仏教的には、無垢な・子どものような心が必要なのだと思います。賢しらに、ことばをこねくり回して、あげくトンデモない理解に至るのではなく、直観的に知ったらそれをひたすら念ずる浄土思想のようなものが、日本人の心にピタリとはまるのだろうと思います。
その意味で、聖徳太子、法然、親鸞の系譜は、日本人の心情に合っていたと言えると思います。庶民の、ひたすらな心というのは、その遥かな昔、釈迦牟尼の心の中に認めることができます。
わたしは、子どものような心の、修行時代のゴータマが好きですね。また、龍樹も同じです。陰身の術を学ぶとき、一生懸命、その先生に従って勉強した龍樹にも認めることができると思います。
南無阿弥陀仏の心に通じて行くと思っています。そういう意味では、法然に惹かれる自分がいます。知識に溺れず心に傲らず、ってところなのかな、と。。
自分で突っこんでみます。
> 子供が戯れに砂で仏塔を作れば、
> 子供が戯れに草や指で仏像を描けば、
> 人が散乱の心で花を一つ画像に供養すれば、
> 人が散乱の心で塔廟の中で一たび南無仏と唱えれば、
> 皆すでに仏道を成じたり。 と説かれます。
> 簡単、この上ないです。
難解難入なのは、上の教えが「諸法無我」の会得を意味しているから、と理解するとどうでしょうか。
石飛先生、ありがとうございます。
私も先生の感じ方と似ているところがあります。
法華経はとにかくチンプンカンプンでした。
最初から如来寿量品には強く惹かれましたが、その他は『何だ?これは』ばかりでした。
授記の場面が延々と続くのは、とにかく退屈で退屈で、『だから、どうした?』と聞きたくなりました。
荒唐無稽なおとぎ話にしかみえない話も多く、それに何の意味があるのか、さっぱりわかりませんでした。
私は、もうずいぶん長い間、毎日、見宝塔偈や世尊偈、序品や方便品の最初と共に、如来寿量品と如来神力品の2品だけは全文読経していますが、如来神力品は最近になってやっとわかった感じです。
全文を毎日読誦してもチンプンカンプンでした。
咳払いや指パッチンなど誰にもできるのに、なぜ神通力となっているのか、さっぱりわかりませんでした。
法華経と比べると他の経典は理解が容易です。
分かりやすいのです。
法華経だけはまさに難解難入です。
スマナサーラが動画で法華経のことを言っていました。
内容が全くない、最悪だと。
大乗仏典でも法華経以外はまあいいところもあるが、法華経だけは全く内容がない、脱線脱線脱線物語だと。
最初に受けた私の感覚と似ています。
結局、法華経は禅の公案のようなものだと思います。
ある一点がわかればすべて氷解するけど、それが突破できなければ、チンプンカンプンだと。
確かに、日本は聖徳太子によって、まさしく法華経の国となりましたね。
法華経の日本への影響は絶大です。
今昔物語などでも、経典のエピソードは法華経ばかりで、華厳経や般若心経が好きだった時に古典を見て、なぜ、法華経以外の経典がほとんど出てこないのか不思議でした。
太子町にある聖徳太子廟に行ったとき、物凄く強い『気』を感じました。
私は別に何かが見えるというような能力は全くないのですが、
鈍感な私でも強く感じるほどの『気』でした。
それから、私は、聖徳太子というのはすごい人だったんだろうなと思うようになりました。
ただ、先生のおっしゃる、修行時代のゴータマが子供のような純真な心というのはそうでしょうけど、陰身の術を学ぶ時の龍樹は、純心とは思えないんですけど(笑)
いやあ、ショーシャンクさま、分かるところもあり、分からないところもある、という展開かと。
> 陰身の術を学ぶ時の龍樹は、純心とは思えないんですけど(笑)
いや、わたしも、そう思ってました(笑)。隠身の術を習うとき、先生は一錠丸薬を渡すと、龍樹はその成分をすべて言い当てたとありまして、根は純なヤツだったんだな、と思った次第です。やっぱり、ブッダに教えてもらわないとダメダメだったんだなと思ったりします。
スマ長老が『法華経』をぼろくそに言うのも納得です。富永仲基も『法華経』を、効能書きばかりで丸薬がない、とブツブツ言ってました。
わたしも最初は『法華経』って空の思想とか分かってるんかなとか、失礼なことを思っていたんですが、『法華経』それ自体がブッダの一切智を明らかにする経典だから、これでいいんだと分かって、逆に敬う気持が強く出ました。
サーリプッタも「譬喩品」で真実に触れて喜んでるし、逆に考えると、部派は偏狭に陥って『法華経』の出現を待たなければならなくなったのだと思ったりもします。三乗一乗の教えは一切智者ブッダの根源的な教えだと思います。
聖徳太子の廟には、気が満ちているんですね。そうなら、まだ日本は安泰かな、とか思ったりします。
神々と仏が住んでいる国日本、ってことで、この先迫害されても、日本はなんとか生き残っていくんじゃないかと。、
あのーー「スマ長老」の「中の人」は、大乗仏教の人じゃないかと、びくびくしています。
だって、前世で悟ってたらもう輪廻しないんでしょう?でも、今上座部仏教てのが、昔からの
伝統として脈々と続いているってことになると、そろそろゼロ人になってないとおかしいのでわ?
だからね、いくら悟ったからって「一切救う」とか言って、上座部仏教の人に転生しちゃあ
だめじゃんんんんんんんん!!!!!!!!!!失礼じゃーーーーーーーんんんん
大乗仏教の人のばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あ、でも、いいのか!!!残念な大乗仏教徒を輪廻から脱出させてくれているんだね?
ありがとう~
おれ、すごいネガティブすぎるのかな?いっつもびくびくしているの。
…………………………………………………………
思考停止の春間様は、ヨーガ派のサマーディでは
『ハタヨーガプラディーピカー』………ヨーガ派ですね。
原子論のヨーガ派と無我(無性)論の仏教とは、根本的に対立しませんか?。
そのせめぎ合いが互いを高める意味があるのですが……。
オーム真理教がヨーガ派の修道論で極端な超能力主義に陥った。
そして、春間様の思考停止状態も、ヨーガ派のサマーディによるもののような
気がします。
原子論(実体論)のヨーガ派と実体否定の縁起論の仏教とは根本的に違い、
その修道論においても根本的に違います。
三昧についても、「思考停止のヨーガ派」と「止観の仏教」の違いがあります。
そして仏教の基本的な修道論は「四諦八正道」。
それを展開発展させて「三十七菩提分法」。
大乗仏教では「六波羅蜜」。
そして唯識では十住・十行・十廻向・十地の四十一位の修道論。
華厳では、十信・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の五十二位の修道論。
ヨーガ派は、正戒・内戒・座法・調息・制感・凝念・静慮・三昧の八修行。
出発点が違いますから、到達点も違ってくるのではないのでしょうか。
春間様の「思考停止状態」は、ヨーガ派のサマーディ(三昧)のようです。
石飛先生はヨーガ派の修行をされているのでしょうか。
真直ぐに修行されんことを祈念いたします。
私も場合、調息は行っていますが、唯識・華厳の修道論に準じていまして、
善財童子に還っています。
無常の仏教の場合は、思考停止状態を続けられません。
コロコロ変わる私であります。
ヨーガ学派【インド哲学解説】 – YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MW8fHuUq-Xs
がよくまとめられていますので参照までに。
*
> どうせ
どうせ って どういう・どのような 意味 の 言葉ですか
決まり切った 意味 は 何故 、 誰が 決めたのですか ?
どうせ 答えられずに 逃げるだけ
> 答えずに、決まりきったパターンの言葉でごまかして逃げるだけでしょうけど。
答えても 答えが分からない から 答えから逃げる
ごまかして逃げている ことに
気が付いてはいない のは 誰ですか ?
決まり切った パターン に
落ちいっているのに 気が付けない のは 誰ですか ?
あなたが 逃げている と 指す 現実 は
どこに起きている 現実 ですか ?
あなたの見ている 現実 とは ( 誰の ) 現実ですか ?
( 虚妄 の 法 とは あなたの 現実 ? )
あまたの現実
「 現実 」( 「 法 」 ) とは
何であるか が 分かっていますか ?
「 深 著 虚妄 法 」
ここが分かる と 仏道 に ある
と 分かる ( 「 慧 」 を エル )
> 後半になると途端に、極めて簡単になります。
極めて簡単なこと を 簡単に行ってみてください
( 子供が戯れるように 砂で 仏塔を作れますか ? )
子供の戯れ には どのような意味があると思いますか ?
( 子供の心で ) 簡単 に 答えてみてください
子供でも出きる 簡単なこと でも おとな が 出来ない(こともある)
( おとな の 意味 を 知っていますか ? )
できること できないこと も 「 法 」 です
いえないこと いえあること が 「 法 」 です
( いえない こと が 「 出家 」 です )
( いえある こと が “入” 家 です )
家 に あって 言え を 言い
言う を 聞かず 「 深 著 虚妄 法 」
ものごと を 論じるのであれば
必ず 共通の定義 に 沿わなければなりません
あなたが使う “ 大乗涅槃経の常楽我浄たる如来 ” とは
どのような存在ですか ?
“ 大日経の宇宙の原理たる大日如来 ”
ということ は 「 経 」 の どこに ありますか ?
それを そのように 訳す あなたの言葉 は 正しい訳ですか ?
必ず 共通の定義 に 沿わなければなりません
( あなたの ) そこにある 菩薩 とは
( 仏 の いう ) ボーディー サッタ の ことですか ?
・
『どうせ』というのは、今までそうだったので今回もどうせそうするでしょ?という意味です。
1回も質問にまともに答えたことがなく、いつも質問には質問で返してごまかすかだけですから、『どうせ』今回もそうするんでしょ、という意味です。
やはり今回も質問には質問で返してきましたね。
大乗涅槃経の『如来常住 無有変易 常楽我浄』と、アートマン、ブラフマンの違いは何かを明確に述べてみてください。
大日経の大日如来とアートマン、ブラフマンとの違いは何かを明確に述べてみてください。
質問の主旨は、仏陀はすべては滅する、常なるものはないと言ったにも関わらず、大乗の中期以降には常楽我浄を打ち出してきたので、そのような、常なる存在とは常なるアートマン、ブラフマンとどこがどう違うのか、という質問です。
質問にこれ以上質問で答えないでもらえますか。
質問でごまかさずに答えてください。
『子供が戯れに砂で仏塔を作る』だけであれば
子供が遊ぶような純真な心を持つことが重要で、簡単なことではないのだ、
と解釈できるでしょうけど、
『人が散乱の心で花を一つ供養すれば』とあるので
純真な心の大切さや難しさを説いたものではないことがわかります。。
一心にではなく、『散乱した心で』とわざわざ書いていることを無視してはいけないのです。
ショーシャンクさま おもしろい問題ですね。
> 『人が散乱の心で花を一つ供養すれば』とあるので
> 純真な心の大切さや難しさを説いたものではないことがわかります。。
大乗ですからねえ。自力の修行ではなく、経巻受持を歌ったものと見てもよいかもしれません。経巻受持というのは、『法華経』という経典の奥底にある「論理」を受けとめて、そこに信をおくことと言っても良いかもしれません。
わたしは、『法華経』は論理に満ちた経典と受けとめています。
ふつうに考えると変かもしれませんが、釈迦牟尼の一切智に関わる経典と言うことが素直に信じられる人には何の抵抗も無いと思います。
ブッダを殺害しようとしたあのデーヴァダッタが善知識として登場することも、含んでいると思います。
だけど、信じがたい経典だという思いをもつ人もいることも分かります。
*
マニカナ 先生 へ
大日如来 とは 考えに当たるモノ(存在) ではありません
アートマン ブラフマン には 「 空 」 が ありません
( そこには 考える 素材 = 「 自我 」 が あります )
そこが違いです
大日如来 に 出会うには 理趣( 「 理趣経 」 ) が 必須です
出会ってもいない者 に 考えに当たるモノ ではないモノ を
説明しても 意味がない( 当たる意味が存在しない )
説明で 大日( マハーバイロチャーナ )を 知ることはできません
大日 の “ありよう” は 一つ( 一 よう )ではありません
( それには 恵果 が 空海以外 に
胎蔵・金剛 両界 を 伝えなかった 意味があります )
大日 には 思考に於いての “ありよう” が ないのです
「 仏教 」 に出会う為 には 「 瞑想 」 が 必須です
親鸞 は 比叡山においての ( 密教の ) 修行 に於いて
( いわゆる ) “法華”の瞑想 を ( いわゆる ) 厳しく 修していた
にもかかわらず ( 大日 に )菩薩 に 出会うことはできなかったのです
“ 山を下りて ” 六角においての 百日の瞑想 の中で
ヨウヤク 如来 に 出会うことが 出来たのです
( 「 行者宿報設女犯 」 の 理趣 を 体得したのです )
“ 最澄 に 空海が 「 文はこれ糟粕 文はこれ瓦礫 」 と 告げた ”
こと( の意味 ) を 知らなければなりません
( 最澄 の意味 釈迦 の 意味 を 知る = 体得する )
「 (秘蔵の)奥旨は文を得ること貴しとせず 」
最澄 に “文” で “劣る” あなた
には “それは当たりません”
( 文にこだわり 道に迷う )
< 参考 >
https://www.kyohaku.go.jp/jp/learn/assets/publications/knm-bulletin/09/009_ronbun_c.pdf
たしかに 釈( 説明文 = 「 理趣釈 」 ) は 釈氏 に 存在しています
しかし 「 空 」 は 釈迦 にも 釈氏 にも 存在しません
( 反論するのであれば = そこに「 空 」 が あるのであれば
存在しないモノについて 説明して 分からしめてください )
あなた には 大日 は 存在していません
( すべてを超えて 光照らす 照らし照らされるもの が 遍在するにもかかわらず )
大日如来 は 観音菩薩 であり 釈迦牟尼仏 なのです
道元 も 観音 に 出会って います
( 「建撕記」 に 当たれば 分かります )
仏師 は このような記述 を 知ります( 理解できます )
いわゆる 釈氏=法師 でも 理解できないこと を
あなたが 理解できますか ?
( 法師 とは 法嗣 の 意味 )
意味不明 で
交錯し顛倒する( 読むに値しない ) この “ 文 ” を
あなたは “ 蹴とばす ”
・
春間さん。
アートマン、ブラフマン=自我がある、思考がある。
仏教=自我がない、思考がない。
このように単純に色分けしているのは、あなたがヒンドゥー教の系譜を知らないだけです。
インドの覚者たちは皆、自我の消滅を説いています。
アートマンやブラフマンが思考では到達しないことも説いています。
自我の終焉は、仏教の専売特許ではありません。
『仏教偉い、仏教凄い』と凝り固まる必要はないのです。
*
「 仏教 」 ( 「 密教 」 ) と ヒンドゥー教 ( ウパニシャッド )
> アートマン、ブラフマン=自我がある、思考がある。
> 仏教=自我がない、思考がない。
> このように単純に色分けしているのは、あなたがヒンドゥー教の系譜を知らないだけです。
そのように 単純に 色分け して いますか ?
「 仏教 」 においての 「 色 」 を 「 識 」 の範疇で
( いとも簡単に ) 色分け しているのは 誰ですか ?
わたしが いつ どこで
“ 「 仏教 」 には 思考がない ” と 記述しましたか ?
あなたには あって ( わたしには あるか を 問われない )
そのような 関係性にある
「 自我 」 が ないということ は 単純なことですか ?
「 唯識 」 を 学びなさい
>> アートマン ブラフマン には 「 空 」 が ありません
( ないものがない = なんでもある ≠ ないもの は 見えません )
あるのであれば 見えている 「 空 」
見えない ところに “ だけ ”
存在している 「 空 」 を ミル( 観る )
見えるところ が 存在しなければ 存在できない 「 空 」
見得るところ には 存在していない 見えないところ
頭の悪い人 は 頭のいい人のこと が 悪い頭で判断して 分かる
悪い人の 悪い判断
頭のよい人 は 頭の悪い人のこと が 経験として 分かる
( 頭の悪い 自分 を 見ることができる )
その 経験の範疇 に於いての “ 頭の悪さ ”
経験 は 「 道 」 に 起きていて 物事 は 全て続いている
善し・悪し をしる ・ 前後に続く が 前を決めている 「 自我 」
後ろを 振り向いて はじめて分かる “ 前 ” ( の 悪しきこと )
眼前 に 観る 悪しきこと
善事 も 悪事 も 陽が当たって はじめて 「 色 」 となる
( その 「 陽 」 が バイロチャーナ です )
その 「 識 」 ( 「 六識 」 ) を マハー する
「 唯識 」 ( 「 唯識 」 があって 「 密教 」 が ある )
「 密教 」 と ヒンドゥー( インド・シンドゥー ) とは 深く関連している
( 空海 が 拝火教・ゾロアスター・波斯 を 学んだ 意味 が そこにある )
日本には 中期密教 が 敷衍された
( 一部 平安末期 に 立川流 が 起きている )
・
大日如来とは、考えに当たるモノ(存在)ではない。
アートマン、ブラフマンには『自我』がある。
これが、あなたが書いた答えですね。
それを、大日如来とアートマンの違いとしていますね。
しかしながら、
ヒンドゥー教でも、アートマン、ブラフマンは考え、思考では到達しないと説かれます。
ヒンドゥー教でも、自我の消滅を説きます。
ですから、あなたが書いた『違い』は違いではないのです。
それと、あなたは、自分のことを『頭のよい人』と思い込んでいて他人を『頭の悪い人』と見下していますが、
頭の悪い人ほど自分を過剰評価して自分が頭がいいと勘違いするようです。
本当に頭のいい人は、石飛先生のように、自分を客観的に観ることができるので、自分の能力を過剰に思い込むことがなくむしろ過小評価しがちです。
知らないことは知らないと言えるし、読んでないものは読んでないと正直に言うのです。
> ******
大日如来とは、考えに当たるモノ(存在)ではない。
アートマン、ブラフマンには『自我』がある。
これが、あなたが書いた答えですね。
それを、大日如来とアートマンの違いとしていますね。
> ******
それが あなたが書いた ( わたしの ) 答えです
わたしの 答え かな ?
・
また、言葉遊びですか。
あなたが書いた奇妙きてれつな、日本語としても可笑しな文章を、日本語に要約したのですが、
もし、あなたが書いた文章と意味が違うというのであれば、どこが違うか、そしてどういう意味なのかを説明してください。
違いを説明できないですよね?
あなたは、用法的にもおかしな文章を書いて、自分を防御していますね。
まともな分かりやすい日本語で書くと、その内容の薄っぺらさが露呈して、
しかも矛盾点が浮き彫りになるので、論破を怖れて、解読できないおかしな文章をわざわざ書くのですよね。
もういい加減、正々堂々とされた方がいいですよ。
本当に頭のいい人は、難解なことも、誰にも分かりやすく書けるのです。
*
> 本当に頭のいい人は、難解なことも、誰にも分かりやすく書けるのです。
本当に 頭のいい人 のことが 分かる
頭のいい人
人は 自分の理解の範囲 で 人(他人)を理解する
あなたは頭がいい と
頭のいいあなた が 評価する
分かり易く書いた わたしは あたまがいい ?
・
春間さん。
ヤフー掲示板やこのマニカナに私が来た最初からあなたに何度も言っていますが
私に絡んでこないでください。
私は、石飛先生に真摯に質問するために来ているのです。
投稿する人に対して、あなたは決まりきったパターンの反応ばかり繰り返してきました。
『俺は悟っている。俺は分かっている。おまえは分かっていない。言葉ではわからない。俺は言葉でわからないところを分かっている。』
こればかりですね。
それはよくわかりましたから、さっさと自分でホームページ立ち上げて、そのご高説を思う存分披露してください。
私は石飛先生と対話しようとして来ています。
私はあなたには何の興味もないのです。
あなたが直接絡んで来なければ、あなたにコメントすることは一切ありません。
私が初めてマニカナを見たときには、マニカナの投稿数の7割以上があなたの投稿で占められていました。
新しい人が入りづらい雰囲気でしたし、古参の人もほとんど投稿しないような状態でした。
誰でも石飛先生と話すと、もれなく春間さんの『俺は分かっている。おまえは分かっていない』コメントが付いてくるので、明らかに新しい人は避けている雰囲気でした。
ですから、私は何度も注意しました。
春間さんがマニカナの主のような顔で支配していたら閑散とし続けるなと思いました。
そして、とうとう、ヤフー掲示板時代のアラシたちが集まって来てしまいました。
四人組です。
この四人には共通点が多いです。
まず、マニカナに学ぼうとして来てないこと。
自分は分かっているということを認めさせたいためだけに来ていること。
ですから、自分の読書自慢や自分のご高説披露ばかりで、石飛先生に真摯に質問することは一度もありませんでした。
ご自分のご高説が素晴らしいと確信しているのであれば、いつまでも他人のサイトに寄生してばかりいないで、自分で掲示板を立ち上げて、自分の力で発信したらいいと思いますよ。
そうすればはっきりわかります。
自分の高説をどれだけの人が興味を持ち、どれだけの人が共感してくれているか、が。
その現実と向き合う勇気が春間さんにはありますか?
すべての用語の
定義を確定して下さい
あなたの使う意味 と
齟齬があれば
論は成り立ちません
あなたが 仏教徒の
菩薩であるなら
話は別 です
『大日経の大日如来とアートマン、ブラフマンとの違いは何か?』
という問いです。
あなたの考える『大日如来』、あなたが考える『アートマン、ブラフマン』で答えてください。
け、、、んかをやめて~ 二人を止めて~~
私の為~に~争わない~で もうこれ以上ぉ~~~(←誰もテメーの為に争ってねーぞ)
はっっ!!釣られてしまった。もしか二人は演技しているのでわと思って。。。
真剣に議論しているだけなのにっっっ(注.議論は論争ではありません。やれやれもっとやれ!!)
ぎんたさま 笑ってしまいましたっっ。
スマ長老の「中の人」のお話、おもしろかったです。
でも、スマ長老は前世は違う宗教で、今回始めて、仏教徒になったカモしれない。。ってこともあるかも。
わたしは、過去世には、たぶん本の中にいる紙魚(しみ)という虫だったような気がしてならないです。龍樹本を食べまくったおかげで、人間に生まれたような気がするにゃん。。そういえば、猫もやったことがありそうす。
あーなるほど~、違う宗教は思いつかなかった!今度、スマ長老に訊いてみてください。
スマ長老は、青山の岡本太郎記念館で「座ることを拒否する椅子」を見て、傑作と思ったそうで、
気が合うな~と思いました。
先生が紙魚だったとき食べた「龍樹本」は、発禁本?禁書?のようなもので、読めた人が
片手位しかいない稀少本ではないですか?人間に燃やされちゃって、で、人間の都合で先生は
死んだので、人間になれたとか。。。
記憶がないので、何とも言えないんですけど、むか~し、インドから本を買ったことがあって、それを開いて見ていたら、本の間に虫が挟まっていて、銀色していて、本の中をピッと逃げました。
インクの字のところがミミズの這ったような虫食いになってて、こいつ本を食べたな、ってわかったのです。
インクのところはおいしいんかな。それとも、インク発明される前は、マヌスクリプトと呼ばれてる木の葉に墨で書いたものもあります。それも食われたりしてます。
なんか妙に親近感を覚えたので、これは前世のわたしの姿ではないだろか、って思ったのでした。
字は食べただけで読めてないので、発禁本かどうかはわからんけど、読む人約一名くらいしか思いつきまへん。龍樹の好敵手です。
内科の医師チャラカという人です。インド医学の大家で、その筋では神さまのように扱われているそうです。日本でも伊藤武氏がチャラカの本を出していますよ。
チャラカ関連の本、料理本もありました。読んでみたいです。あと、文殊くんが殺したのは
純陀じゃなくて、お釈迦様なのかな?と今朝の1時頃に思いました。だって、悟りを教団の外へ
流出したくないでしょうし。
あ、あと先生!「猫もやったことありそう」なのは、やはり紙魚のような実体験があるのですか?
もうそろそろ人間は、大体ざっくりすべての条件の人間を体験していそうですが、
(ダライラマ以外)覚えているのは前世のみと思っていました。前前前…………世分全部
引き出せたら中々すごいかもしれません♪経典を読むとそれが出来るようになるのでしょうか?
まあ、私にそれは無理なので、「全ての人が神でほとけ」で何か教えてもらえるみたいにして
います。学問を修めていないので春間さんのようなタイプからは受け取れないのが残念~~~~
と思い至った今日この頃。。。「教室」が怖かったからな~~~同じ学年の人が40人も集まって。
猫、母猫と兄弟5人くらいだし、家で飼われていたら、人間自動給餌器4.5人だし。地域猫ならば
餌やりさんと他数名の撫でてくれる人とかで外だから逃げ場もあるしな。そして、体は人間だから、
いろんな方向に向けられる耳も無ければ、しっぽもひげも無い。そんな状態で常に「後ろの席」の
人がいるなんて!!怖すぎ!まだゴルゴも知らないから「俺の後ろに立つな(座るな)」とか
言えないし。(いや、言ったら酷いことになるし)
ぎんたさま
> (ダライラマ以外)覚えているのは前世のみと思っていました。
ブッダはどこどこまでも遡れたんだって。
> 「猫もやったことありそう」なのは、やはり紙魚のような実体験があるのですか?
あら、はずかし。紙魚も実体験などと言うにはあまりにも貧相ですし、実は、猫はわたしの死んだ父ではないかと疑ってます。
父が亡くなった後、うちに来たので、他人とは思えません。
インドの大地で象や猿だった気分がムンムンします。猫はあんまり無いです。だから、わたしはブッダの前世物語、『ジャータカ』が大好きで、とても他人ごととは思えません。もろ、感情移入して読んでます。
………………………………………………
私たちを無分別智に入らしめるための方便
私は法華経の「同教一乗」に違和感があり、それを包みつつ超えた
華厳の「別教一乗」に共振している者です。
しかし、お二人の熱心な法華経談議に刺激され、セネカ『怒りについて』
の読書の合間に、懐かしき『法華経』を再読してみました。
(セネカも善く生きるための方便――みんな仲間)
岩波文庫版で言えば、110ページの「かくの如き諸の世尊も、種々縁と譬喩
と無数の方便力とをもって、諸法の相を演説したまう」から、118ページの
「一切の如来は、無量の方便をもって、諸の衆生を度脱して、仏の無漏智に
入らしめたまえば、若し法を聞くことあらん者は、一つとして成仏せずとい
うことなからん」までですね。
128ページに、「無分別の法を説かん」とあるように、子の箇所でいう無漏智
とは、戯論寂滅した「無分別智」―――「無漏智=無分別」と仮設しています。
以下のような何項に渡る具体的方便は、「衆生を無分別智に導くこと」を目的
としていると読んでいます。(先生も、承認有る無しの分別を超えた「無分別智」
に入れたらいいですね)
「無数方便即一仏乗」の具体化ではないのでしょうか。以下のように取り合え
ずまとめてみました。
1,布施・持戒・忍辱
2,精進・瞑想・理知の諸行
3,教戒に忍耐強く従う
4,遺骨に供物、仏搭の建立
5,童子が作る泥の仏搭の建立
6,金銀財宝で造る仏搭の建立
7,美しき仏の絵画
8,童子の戯れによる仏の絵画
このような行を継続すれば「慈悲ある人」となり仏道者となる。
9,搭廟に華や香をたむける
10、仏像に楽器を奏でて供養する
11、仏像に歓喜の心で手を叩いたり歌を唄う
12、仏像に合掌礼拝する
13、搭廟で南無仏と称える
14、過去の仏から法を聞く
以上のような「無数の方便」で仏は法を説いている。
その目的は、衆生を無漏智(無分別智)に入らしめるため。
言い方を換えれば「言語以前に帰せるため」と読めます。
紀野一義先生は「法華経はイメージで書かれた経典であり、法華経
を読むとはイメージ脳を訓練することだ」と言っていましたが、
私も、法華経は「童話」だと思っています。
童話に中に、論理では把握し得ない真実が秘されているのだと思います。
イメージと論理の調和が必要なのではないのでしょうか。
…………………………………………………
否認に感謝――承認欲求を捨離する訓練
「あなたのコメントは承認待ちです」
それは「承認」と「否認」を分別しているわけですね。
そして「否認」とは「ある物事を事実として認めないこと」ですから、
「私の発言が事実かどうか精査している」ということになります。
「事実でない根拠を示す」のが対話や議論のルールですが、
それを要求すると「貪欲という苦」が発生しますから要求はしません。
承認欲求は苦を招くので、「承認欲求の捨離」に精進していますのです、
逆に「承認欲求の捨離の訓練」になります。
無数の方便は、自己を向上させ、善く生きさせてくれるためにありました。
否認に感謝いたします。
慧樹さま、またの名、芳和さま おはようございます。
「否認感謝」ということですが、
まともに受け止めるとトンデモないことになりますね。
学習したわたしは、わたしが気に入るだろうと芳和さまが考える内容の投稿を承認したりもしますし、そうでないものを承認したりもします。
わたしが求めているのは、「本気で書いたもの」です。
芳和さまは、あまりに書きすぎて、何が本気か、もうわからなくなっているように見えます。
わたしに不満たらたらなのはよくわかるのですが、それを明らかにする手立てがありません。どこかにとっかかりをつかめないかな、と思ったりしています。
芳和さまは、きっとわたしに甘えているんだな、って今のところ思ってます。
…………………………………………
「否認」も釈迦牟尼(理仏)の声
個人的な感想に対してお返事ありがとうございます。
これも観世音の大悲と受け止めます。
ところで、「否認感謝」をまともに受け止めるとトンデモないこと
になります。と仰せですが、具体的に同様にトンデモないことに
なるのか教えて下さい。
私は観音信心ですので、一切の現象は観音の大慈大悲と信じて
いますので、承認も否認も分け隔てなく観音の慈悲です。
その方便も「無分別智・平等性智の道」と受け止めています。
すると、罵りや災難や否認も、「自己を向上させる理法の声」と受け
止めれば、怒りや怨みも無くなり、理法に煩悩を昇華できます。
法華経で言えば、在此而説法(一切の現象は釈迦牟尼の説法)です。
峯の色 渓の響きも みなながら 我釈迦牟尼の 声と姿と(道元)。
どんな思想にも欠点はありますが、「二項対立を絶する道」にどんな
問題があるのでしょうか。具体的に教えて頂けたら参考になります。
………………………………………………
「一心欲見仏 不惜身命」ですが……
一心欲見仏 不惜身命(法華経・寿量品)
自己承認はさて置き、ダメな私なりに、仏という理法に生涯を賭けて、
常に童子に還り学んでいます。
教育論が違うのかもしれませんね。
先生の教育論は「私の言うことを本気で聞け」でしょうか。
しかし、無記を徹底すれば、経典の記述も仏教の教育もなくなりなり、
すべては自己の自覚にかかって来ることになります。
教師もなく生徒もなく「共に学び」、自己を明確に表現しつつ、
共に向上してゆく――というが民主主義的な教育論と学びました。
自覚向上するのは自己に在ります。
『臨済録』で言えば、教える者と教えられる者の絶え間ない入れ換え
というところでしょうか。「負うた子に教わる」とも言います。
而して、素直に「個人的な感想」を述べされていただいています。
個人的な感想ですから、「分かってもらおう」という自己承認欲求も
貪欲もありません。
道元禅師の言句を借りれば只管――「ただ書く」です。
「甘え」も「強がり」も無く、ただ書くだけです。
読まれても読まれなくても……。
万物流転を説いたヘラクレイトスが「闘争は万物の父」であると
言いましたが、それも一理あるようです。
*
> 『大日経の大日如来とアートマン、ブラフマンとの違いは何か?』
という問いです。
問う限りには あなたが
あなたの考える『大日如来』 とは 何であるか
『アートマン、ブラフマン』 とは 何であるか を 提示して
その提示に対して 答えなければ
( あなたと ) 論ずる意味はありません
( 定義なしでは 噛み合いが そもそも 生まれ出ません )
そうではなければ ( 名詞のさす対象 は )
言葉( あいうえお・単漢字 ) の 違いでしかありません
大日如来 とは 無量光如来をマハーする 如来です
如来 とは アミタ であるにもかかわらず そこに
「 量 」 という 概念をかぶせます
「 法華経 」 には
諸仏 は 仏の 知見 を 多くの人に 示さんがために
菩薩 にのみ 教化 する と ( 菩薩に ) 教えます
( 如来 とは 仏 と 同義 と 捉えても 構いません )
あなたが 菩薩ではない 限り(に於て) 仏の教義 は 知らしめられません
( 岩波 (上) 96p. )
何故 無量にもかかわらず 知る・知らず の 量 が あるか ?
それは、 あなたが 「 世間 」 に 執着しているからです
執着の上で いくら 論を積もうと その量 は 虚論でしかありません
子供の 小さな手の 一握りの砂が 仏世界 を 創り出します
執着にまみれた その手で握る 砂 の その 「 量 」 を 量っても
多い少ない という 執着 しか そこにはありません
しかし 衆生のその手で握る砂 は すべて “ 仏世界 に ある砂 ” です
その砂で 塔を 建てる ・ 法幢 を なびかせる ・ 済度する
“ 菩薩 に その意味の同じ を 仏は 教化 している ” のです
砂 と 風 と 救いの手 とは そこに於いて 「 平等 」 です
( 「 平等 」 とは 全く同じで
量においての 同不同 が 無い・ある ということです )
有無に執着すれば ないものがない という ことになります
( あるものがある にもかかわらず あるものはなし )
有るもの の はなし と ないはなし を しています
あなたにとって は
珍紛漢紛 は な し に ならない 教化 です
あなたが 起信(発願) すれば
仏 は その教化 から ( 菩薩の所為を 経て )
衆生 に 悟りを 示します( 済度します )
菩薩が済度するのではなく
あるがまま(如来として) 衆生 は 悟得 しているのです
諸仏 は あまたに ( 「 無量 」 を 示し )
このようにして その仏世界 で それぞれに 済度しています
・
春間さん。
全く答えになっていません。
仏陀は、『爪の上の土ほども、滅しないものはない』と言いました。
一切のものは、無常、苦、無我、不浄、と言いました。
しかし、大乗の中期以降になって
常楽我浄が打ち出されました。
大乗後期には、大日如来が説かれることになります。
一方、バラモン教(ヒンドゥー教)では、アートマンは永遠であり、至福であり、我であり、清浄だと説かれます。
つまり、アートマンは、常、楽、我、浄、だと説かれているのです。
ですから、大乗中期以降は仏教はかなりバラモン教に近くなったのではないか、バラモン教の影響が強くあるのではないか、と石飛先生にお聞きしたのです。
その、石飛先生と私との会話に春間さんが割り込んで、『誤解』だとか『慢心』だとか書き込んできたので、
『それなら、大乗涅槃経の常楽我浄や大日経の大日如来と、バラモン教が説くアートマン、ブラフマンとの違いを明確に述べてみてください』と言ったのです。
この質問に答えてください。
*
この 叢林に於いて 一人 を “ 探す ”
「 請け取て沙汰せん人こそ理非をば明らむべけれ。
吾が分上にあらぬ此の如きのことを、
理を枉てその人に云んことも亦非なり。 」
ではあるけれど 、、、、、
一つ一つ の 用語(の選び方)によって
話す人 の 心が 分かります
例 の 一端 を 上げましょう
> はっきりわかります
はっきりわかっている 自分 の 話仮(わかり)かた
は 多くの人が 共感できる
> 自分の高説
高低の判断 が 大事
高いところから、低きを眺めている
> どれだけの人が興味を持ち、どれだけの人が共感してくれているか
“ いいね ” が 欲しい
はっきりわかる人 を 対象 としてはいません
( あなたに限らず ) 人は自分の“理解” から 離れることは
容易ではありません
(“理解” とは あなたの「 識 」 に起きる 法の見え方です )
“ 諸法 ” ではあっても 「 実相 」 ではありません
このこと に対して 仏典を 引用して(言い換えて)みます
『法華経』方便品 (大正蔵九・五下)
「 唯仏与仏 乃能究尽諸法実相 」
「 唯 仏と与仏 のみ 乃(いまし)能く 諸法の実相を 究尽す 」
T0262_.09.0005c10: ・・・・佛所成就第一希有難解之法。唯
T0262_.09.0005c11: 佛與佛乃能究盡諸法實相。所謂諸法如是
T0262_.09.0005c12: 相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。
T0262_.09.0005c13: 如是縁。如是果。如是報。
あなたの目に映る “相” (眼前の一つ・双)= 諸 法 は
「 縁起 」に起きている 一つの 法(あなた と 諸 対象物) です
どのように つまびらかにしても
み得るモノ は その者の見方 から
離れず 両面を見たと 思っていても
それも( それは ) 一面(一局)なのです
大衆( 多くのあつまりの人 ) は 自分のヨクするように( 欲・良く )
相を見( 「 見取 」 し ) そこに 迎合しています
“ 多き ” は “ 正しき ”に(は) 非ず
( 大小・多少 は 「 縁起 」 する ゆえに 小・少 は 非正 )
仏 は ただ 菩薩 を 教化 する
( 大宋国 に 一人二人 「 正法眼蔵随聞記 第三 11 」
「 大未国の叢林にも
一師の会下に数百千の中に
まことの得道 得法の人 は 僅か 一 二 なり 」
( 『 正法眼蔵随聞記 』 二 ・ 14 )
http://watanabe12.justhpbs.jp/newpage3.html
「 国に賢者一人出来れば其の国興る
愚人ひとり出来れば先賢のあと廃るるなり
是を思ふべし 」
************
( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 )
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
************
「 法華経 」 には
諸仏 は 仏の 知見 を 多くの人に 示さんがために
菩薩 にのみ 教化 する と ( 菩薩に ) 教えます
( 如来 とは 仏 と 同義 と 捉えても 構いません )
あなたが 菩薩ではない 限り(に於て) 仏の教義 は 知らしめられません
( 岩波 (上) 96p. )
分上にあらぬことを 文上 に 記して
なにを か 期せん
帰すところなき 人の生 に 記せん
・
春間さん。
『仏はただ菩薩を教化す』という言葉を挙げているのは、
自分(春間さん)が仏で、教化しようとする菩薩が石飛先生と言いたいのですね。
ですから、あなたはさかんに石飛先生に向けて、いろいろ教えを垂れているということですね。
もちろん、私は他人の趣味をあれこれは言いません。
あなたが、そのような仏ごっこ、覚者ごっこを楽しみ、その楽しみに執着していることをとやかくは言いません。
好き勝手にすればいいことです。
最初からお願いしているのは、私には絡んでこないでくださいということです。
そもそも、私は菩薩ではないのですから、あなたの言い分だと私に絡んできても意味のないことではないですか。
どうぞ、仏である春間さんは、菩薩を探しだして教化してください。
私への絡みはお断りします。
*
> 私への絡みはお断りします。
仏である わたしに 何を断るのですか ?
ま
断りの言葉 は ”勝手” に 起こされます
そして
書き込み も ”勝手 ” に 起きます
読む対象に ( 種子 は 育つ場合もある )
素材 は あなたでも、 主食 は 別かも知れません
おかず は 素材でなり 主食 は 読み取りに起きます
わたし も 素材 ( あなたにとっては 粗財 )
おかず とらず
いからず いかす ( 囚われざる は 肝要のこと )
しかし その ザル を 自己は 容易にすり抜ける
「 法華経 」 を 読んでください
・
春間さん。
私が『私へのレスはしないでください』とお願いするたびに
あなたは言ってましたね。
『あなたに向けてレスするのではなく、自分のレスを見ている人たちに向けている』と。
あなたは、日常生活でも出会った人に『マニカナを見なさい』とさかんに言っていたようですから、大勢の人が春間さんの投稿を見ているという意識が強かったのでしょうね。
しかし、閉鎖するときも『春間さんの文章が見られなくなるのが残念です』といったような惜しむコメントが一件もなかったことを考えれば、あなたの投稿を大勢の人が見ているというのは自意識過剰でしょう。
もちろん、強い発信力を持つ人が悟っているわけではありません。
強い発信力を持つ人で、とんでもない人は数多くいます。
賛同者が多くても、ろくでもない人も多いことです。
しかし、本物の人は例外なく言葉に力があります。
影響力があるのです。
一言もしゃべらず米をついていた慧能は名前を出さずに詩を貼り出しただけで
僧堂が大騒ぎになりました。
古来、悟った人、本物の人で、何十年も言葉を語ってきたのに賛同者が一人もいない、あるいはほとんどいない、という人は絶対にいません。
イエス・キリストも5千人を超える賛同者がぞろぞろついてきていました。
仏陀も瞬く間に従う弟子が膨大な数になりました。
賛同者が多くいてもダメな人間は数多いですが、
悟った人、本物の人は必ず言葉に影響力があり、賛同者が多く出てきます。
歴史を見てそう思います。
つまり、何十年も毎日大量に文章を発信しても賛同者が全くいないのは、本物ではなく、悟ってもなく、仏などでは全くないということです。
*
> 最初からお願いしているのは、私には絡んでこないでくださいということです。
自意識過剰 です
あなたは 素材 であり、「 諸法 」です
最初 には お願い の 文字
して なかは
お願い のようには 聞こえませんが 、、、、
> 私への絡みはお断りします。
わたしは お断り しない
勝手に 投稿するのは( 書き込むのは )自由 です が
それは
あなたに許された場合 にのみ 起きている 自由 ?
( 自由 を 履き違える のは 左右 どっち ? )
( 論理上 ハキチガイ は 許されない ? )
いや 克痴 の 話 です ( 軽く ライト 不来 )
断り なく 書き込む 自由
あっても 断る 自由
人の書き込み に 不自由を 感じるあなた
言いかえると 自己肯定の範囲において の 自由
断る と 断言されても
一つのお願い として 処理する
( お願いする相手 を 間違えている )
管理人エム 様 が 承認しなければ
お願い は 聞き入れられない
( 願いどころ“ か ” ハキチガイ )
管理人エム 様 は 願われれば “ 一考する ”
( これを読む 沈黙の人 も いる )
沈黙 は 金 ? 禁 ?
承認 ?
クローガネ ー 個 我 ね
実 と 我慢 ?
金は寂びない ということは 「 世間 」 に 起きている
「 ものいえば くちびる 寂し あきつしま
法界 に ただ ふる はる の あ め 」
・
世界史の中の仏教(グプタ朝で編纂された涅槃経)
妻が大乗『涅槃経』の所依としているために、私も大乗『涅槃経』を参究
した経験がありますので、少しばかり個人的な感想を述べさせて頂きます。
(お二人の楽しい会話に割り込むつもりは毛頭ありません)
大乗『涅槃経』は、4世紀のグプタ朝時代に編纂されたと言われます。
それは、主な大乗経典が編纂されたBC220~AC236に栄えたイラン系の
クシャーナ朝で、涅槃経はそれらよりも200年遅れて編纂されたといわれ
ます。
インド民族主導のグプタ朝では、グローバルなイラン系のクシャーナ朝と
との民族的な対立もあり、インドの文化芸術を重んじ、インド正統派の
ヴェーダーンタの勢力も力を増して来て、インドの仏教教団も危機的状況
になって言われます。
『涅槃経』を読むと、無我や無常を虚無して攻撃してくる危機的状況が
感じれます。
ヒンズー教が成立するのは、グプタ朝とヴァルダナ朝の間位とされてい
ますので、仏教がインド正統派に席巻されて行く過程にあったといわれ
ます。
そしてヴァルダナ朝から仏教はヒンズー教にボコボコにされて行く。
現代的に言えば、イラン系のグローバリズムに対抗したインドのナショ
ナリズム化ということになります。
仏教を虚無として攻撃してくるインド正統派に対抗して中道としての
常楽我浄を説いたのではないのでしょうか。
現世を否定し、輪廻からの解脱のインド正統派(ヒンズー教)
現世を肯定し、如何に善く生きるかを求める大乗仏教。
その違いが鮮明化して時代だったようですね。
私は涅槃経の常楽我浄を、「どんな時でも、常に楽しみ生きれば
我も浄まり、善く生きることができる」
内山興正老師の「常に楽しみ我浄し」を採用しています。
ギリシャ・ローマ哲学のストア学派に仏教との交流が感じられる
ように、大乗仏教はインドの国境を越えて、シルクロード・マリン
ロードに在ったようです。
般若心経にシルクロードの香りを感じ、観音経にマリンロードの
香りを感じるのは私だけではないようです。
大日如来??
私にとっては、胎蔵界曼荼羅の「慈悲の大日如来」と、金剛界曼荼羅
の「智慧の大日如来」という「二つで一つの大日如来」で、毎朝礼拝
し、法帰依しています。
これも個人的な感想です。
*
> 毎日大量に文章を発信しても賛同者が全くいないのは、本物ではなく、悟ってもなく、仏などでは全くないということです。
大小 は 「 無量 」 に起きている 「 量 」
> 賛同者が全くいないのは、本物ではなく、悟ってもなく、仏などでは全くないということです。
本物 を しる 本物なるあなた
本物ではなければ あなたは 偽物
( あるいは 偽物に近い 本物 ? )
ま 、 エンキン は エンギ
知覚 の 自分 が 一番大きい
賛同 によって 「 悟り 」 は 試される
賛同 には 不賛同 を 含む
( ここが 論理上 わかりますか ? )
「 山川草木悉有仏性 」 とも言われる
人など も 含まれるかな ?
認めることによって 成り立つ 認可制 ( 印可 )
全くない と まったき いけん を 言う
いいか いけんか 聞いてみたい 許可制
・
…………………………………………………
石飛先生は自己中心性が強い(仮設命題)
…………………………………………………
結論から先ず先に述べます――石飛先生は自己中心性が強い。
さて、その仮設命題に対する取りあえずの妄想分別による論証です。
文字には、限りなき煩悩が含まれているようです。
マニカナにも限りなき煩悩が含まれていて、自己の鏡のようで、
マニカナも自己の鏡、石飛先生も自己の鏡――世界は自己の影像、
のようでもあります。
民主主義的な相互教育では、「相互指摘で互いを向上させる」と
言われますが、それは、「相手が自己」だからではないでしょうか。
さて、そういうことで、石飛先生に対する私の個人的な感想を述べ
されていただくと、「石飛先生は自己中心性が強い」と思います。
(それは私ですが……)
「教える私」と「教えられる相手」を妄想分別して、「私が教える」
というのも自己中心性が強いという証ではないでしょうか。
(それは私ですが…)
輪廻への執着も、「私はどこまでの有る」という自我の執着。
それも、自己中心性が強いからではないのでしょうか。(それも私)
諸法無我も仏教は、仏教に対しての執着はないのですが、「私の仏教」
にヒンズー教の統合されるような考えも、自己中心性が強い証なので
はないのでしょうか。(それも私)
『法華経』にもそういう一神教的な「同教一乗」の傾向があり、その
一点だけは違和感があり、奥深い法華経でも「同教一乗」だけには
帰依できない私です。
それぞれの教えが、それぞれのままに透明に輝き、そして一つ。
という、自己中心性が抑えられた華厳の「同教一乗」を選択しています。
私も自己中心性が強いから、そんな嫌いな私という石飛先生と戦って
しまうようです。
しかし、自己の精神以外のコントロールは不可能ですので、それも自己の
煩悩との戦いです。
コントロールできないものをコントロールしようと思うから苦が発生する。
しかし、精神の自由を得て、自己の精神だけはコントロールできる。
私は、外部の出来事に振り回せていたようです。
自己の精神をコントロールする道を真直ぐに歩いて行きたいと思います。
それには、自己中心性を消滅に向かわしめる修行が必要なようです。
そしてその修行の中に涅槃という幸せがある。
…………………………………
対象は観念の構造物
岡本太郎の「座ることを拒否する椅子」を見たとき、「座ってばかりいない
で働け!」と、笑いの中に喝を入れられたようだった。芸術という方便に
偉大な力がある。
懐かしき「座ることを拒否する椅子」という言句に接して、それに関する
スマナサーナ長老のページを開いてみたら、次のような言葉にであった。
スマナサーラ:そうです。さらに言うと、そもそも人が「なにかを認識する」
ということ自体、一時的に起こる錯覚にすぎないんですよ。
仏教の基本中の基本なのかも知れない。
これを論理的に「対象は観念の構造物」と置き換えてみた。
輪廻の解脱も、過去世の私も、ブラフマン・アートマンも、大日如来も、
仏教も、好きなアイツも嫌いなアイツも、スマナサーラ長老も、私という
存在も、対象的に考えられるものは、みんな観念の想像物。
ブラフマンも大日如来も、観念の構造物として平等一味であった。
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法華経研究をされるショーシャンクへ
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現在私は、漢~クシャーナ朝~ローマ帝国とシルクロードが通じた頃の
ローマのストア学派に魅力を感じてセネカやマルクス・アウレーリウス
等を参究しています。その当時、大乗仏教とギリシャ哲学との交流は
深かったように感じます。
基本的には、大乗仏教の生き方とストア学派の生き方には類似性があります。
仏教の歴史には、前4世紀、アシューカ王のマウリヤ王朝からスリランカに
伝わり、やがて東南アジアに伝わる上座部仏教と、後1世紀、イラン系の
カニシカ王のクシャーナ朝においてシルクロードから中国に伝わる大乗仏教
という「二つの仏教」があります。
スマラサーラ長老は、シンハラ人とタミル人の争いのあるスリランカの方で、
シンハラ仏教といってアーリヤ民族の誇り強く、驕りゆえの差別感があります。
そのタミル人批判がヒンズー批判となって、「我らことが正統」と、日本仏教
批判になるようです。
地政学的にスリランカは、ナショナリズムに陥りやすいようです。
「みんなのための大乗」は、自己否定できますから、否認も攻撃も自己向上
の糧にしますから有難いことですが、無知ゆえの批判が自己の心を貶めてい
ることに気づかないのも、アーリヤ系を驕るシンハラ人の心の狭さなので
しょうか。驕りは恐いですね。
大乗仏教はインドにはありません。世界が交流するシルクロードやマリンロ
ードにあるということが、ギリシャ哲学のストア学派に触れることによって
実感しました。
1,自分の解脱を求める上座部仏教。
2,みんなと共に善く生きる大乗仏教。
という、「自分」×「みんな」という二つの対立する仏教があります。
それは決して悪いことではなく、切磋琢磨して互いを高めるためにあるの
ではないのでしょうか。
ショーシャンクの法華経研究をされているようですね。
法華経の常不軽菩薩品を身読するために5年間、世間に叩かれに歩いた
身として、『法華経』の感想を述べされていただければ「方便即真実」。
一切法が方便であるとき、一切法は直ちに正法saddharma(妙法)になる。
そういうことで、ギリシャ哲学もまた「妙法の方便」として学んでいます。
それも、解脱や悟りを得るために学ぶのでなくて、「学ぶ」という方便が直
ちに「真実に生きている」ということです。
仏教というのは、実践を重視の実践哲学ですから、法華経も、今を善く生き
ることによって身心に沁みてくるようです。
法華経は、紀元前後100年位に渡って編纂されたと言われますから、一貫性
のないところもあります。特に、同教一乗を説かない私の普門品(観音経)
などは別物と思われます。
部外者の法華経研究では、矢島羊吉『無常法・仏教思想研究』が私には参考
になりました。
ショーシャンク様も、シンハラ人のスマラサーラ長老ようにただ攻撃するだ
けでなく、本気で真摯に研究されご自身の研究書をまとめ上げたらいかがで
すか。
私にとっては、「今を善く生きる」ことが法華経の参究ですが……。