梅の一枝

ぎんたさまの「道真」考に刺激を受けて、あたいも書くぞ、っと。

梅の写真はない!字だけでいくからね。

『正法眼蔵』に「嗣書」という巻があって、道元が仏祖の道を嗣いで嗣法した時のことが書かれている。勝手に感動して読んだっちゃ。

「この仏道、かならず嗣法するとき、さだめて嗣書あり。」とある。

道元が中国に渡ったときのことです。万年寺の元し和尚が嗣書をささげてこう言った。

「一夜夢を見た。大梅山の法常禅師と思われる高僧が、一枝の梅をかざしてこう言った。

『もし海を渡ってくる本物があったならば、花を与えることを惜しんではならぬ』とこういった。5日も経たないうちに、道元そなたと出会った。法を嗣ぎたいと思うなら惜しまず見せよう」

こうして、道元は感涙して嗣書を拝観したのです。その夜、夢の中で道元は大梅祖師が来て花咲ける梅花一枝を授ける夢を見たのでありました。

道元の師事する天童和尚はこう言った。

「諸仏かならず嗣法(法を嗣ぐということが)あり。釈迦牟尼仏は迦葉仏に嗣法した。迦葉仏は枸那含牟尼仏に嗣法す」と。

「あれ、逆じゃないんですか」と道元が聞くと、「いや、こう習うんだよ」、と教えてくれたのです。

仏仏相嗣して今に及んでいるから、悠久の年月を数えることになるのです。もし、全部釈迦牟尼仏に始まったといえば、道元の時代まででも2000年ほどにすぎないことになるだろう。

これを聞いて始めて道元は仏祖に嗣法ということがあることを理解したのです。同時に旧弊の考えから抜け出すことができた、とあります。

梅は学問。一枝の花。釈迦牟尼仏から梅の一枝を拈って見せられた大迦葉は、ふっと微笑んだ。嗣法された瞬間だった。

こうわたしは理解してます。

ここを読んでも、ブッダの法は「論理」だって、わかるでしょう。。なに?わからん、ですと!

わかるよ、決まってる! 花は香りが命だよ、だから、鼻から鼻へと法は伝わる。仏弟子たちは香りだけを受けとる。

学ぶもの(有学)は、大地を征服(思考)するだろう。神とともなるこの世界とヤマの世界を征服(思考)するだろう。善い人が花を摘み集めるように、学ぶものは、よく説かれた真理のことばを摘み集める。(『ダンマパダ』45)

蜜蜂が、花の色や香をそこなうことなく、蜜を取って飛び去るように、同じようにして、聖者は、村の中を行きなさい。(『ダンマパダ』49)

仏教に嗣法あり。伝わる香りは法の香り。

コメント

  1. ショーシャンク より:

    石飛先生、こんにちは。

    『正法眼蔵』の『嗣書』には、
    釈尊の言葉として、
    『過去諸仏は誰の弟子だろうか。過去諸仏はこれ釈迦牟尼仏の弟子なり。』
    という言葉を書いていますね。
    出所がわかりませんが。

    さて、先生に質問があります。

    法華経サンスクリット原典の五種法を、鳩摩羅什はなぜ十如是にしたと思われますか?

    同じ鳩摩羅什訳の『大智度論』の九種法を転用したという説がありますが
    これについてはどう思われますか?

    お考えをお聞かせいただければ嬉しいです。

    • mani より:

      ショーシャンクさま おはようございます。

      > 出所がわかりませんが。

      これは、出典という意味では明確には無いと思います。ただ「サンユッタ・ニカーヤ」にこうあります。「因縁相応」の章ですが、過去仏とお釈迦さまとが7人出てきて同じ経典の内容を説いています。七つくり返されているように見えるところから、道元他の祖師たちはこう受けとったということだなと納得しています。
      道元は論理学者だと思っています。

      『法華経』のお話は別に書きますね。

      • ショーシャンク より:

        石飛先生、ありがとうございます。

        釈迦牟尼仏、あるとき阿難にとはしむ、
        「過去諸仏、これたれが弟子なるぞ」。
        釈迦牟尼仏いはく、
        「過去諸仏は、これ我釈迦牟尼仏の弟子なり」。

        このように、釈尊が阿難に質問して、阿難が答える前に釈尊自ら答えたという具体的なエピソードになっていますから、仏典に出典があるのかと思って調べましたが、見つかりませんでした。

        久遠実成の釈迦牟尼仏が無量劫において常に説法教化したということであれば、過去諸仏は釈尊の弟子とするのはわかりますが、天童和尚は、「迦葉仏は狗那含牟尼仏に嗣法す」とも言っていますので、違うのかなと思っています。

        • mani(管理人エム) より:

          ショーシャンクさま こんばんは。

          わたしは、『サンユッタ・ニカーヤ』のニダーナの章で過去七仏が出てくるのを不思議に思っていました。どう解釈したらよいかわからなかったからです。

          「嗣書」を読んで,すごく納得したのです。
          同じ文面で過去に六人名前を連ねていて、しかも経典の中身は全く同じです。無師独悟でさとったと言われるので、ヴィッパッシン仏のことまではわかるんだけど、それから先はあんまり情報がないみたいだなって思ったのです。

          釈尊としては、過去の五仏は、ただ同じように悟ったんだとわかるだけで、それぞれ仏の嗣法と理解できるんだけど、ヴィパッシン仏は順番から行くと自分が次に来るから嗣法したんだな、って思ったのじゃないかなと理解してます。

          ここは、悟りが普遍的だということを示しているのかな、って思ってます。言ってみれば、個人の悟りは個人のものと言えますが、それをすべての生き物に広げたのは釈尊なんですよね。

          理論体系が完璧だと思います。「時」を入れるところでは入れているし、入れなくていいところは入れていない。あらゆる人が理解できるお話しになっていて、一つのストーリーを追えば、矛盾が出ません。

          道元は、空を会得しましたね。部派の思想ではなく、空まで行っています。

          ショーシャンクさまはどう思いますか?

          • ショーシャンク より:

            石飛先生、ありがとうございます。

            法華経にありますように、悟りは同一味だと思います。
            釈尊の悟りも迦葉仏の悟りも過去諸仏の悟りも一味でしょう。
            誰々の悟りということがおかしいことで、
            その『誰々』がなくなったのが悟りでしょうから。

            先生の言われる『空の悟り』がどのようなことかはわかりませんが、
            学生時代に少し触れた道元の真価が、原始仏教を経て法華経に入って初めていま感じられるようになりました。
            『正法眼蔵』は、法華経を縦横無尽に説き明かしたものだと感じられます。
            この『嗣書』の章は理解できないことが多いですが。

            法華経の考えでは、部派仏教の悟りや解脱は本当の悟りや解脱ではない、ということだと思います。
            そう法華経に書いてあります。
            それを先生は、『道元は部派の思想ではなく空まで行っている』と言われていると理解しました。

      • ショーシャンク より:

        石飛先生、追加です。

        過去七仏が同じ内容を説いたことからであれば、
        釈尊が迦葉仏の弟子とするのが時間からは自然ではないでしょうか。

        また、天童和尚は、
        「迦葉仏は、狗那含牟尼仏に嗣法す」と言われていますから
        論理的には、狗那含牟尼仏は釈尊の弟子というより、迦葉仏の弟子であるのではないでしょうか。

        この章を『論理的』と言われる意味がちょっとわかりません。

        • mani(管理人エム) より:

          ショーシャンクさま

          > 論理的には、狗那含牟尼仏は釈尊の弟子というより、迦葉仏の弟子であるのではないでしょうか。

          言われてみますと、そうですね。迦葉仏は、『スッタニパータ』の中に、かれの説いたとされる経典がありますね。たしか、「なまぐさ」と言われる経典です。違ったらごめん。

          わたしは、この経典から、迦葉仏は釈尊とタイプが違うんだなと思ってます。仏としては悟りの内容は同じだとわかるけど、それぞれ個性の違う人格だったということで理解してます。。って言うか、それしか理解のしようがないです。

  2. ぎんた より:

    な、なるほどです。大体の雰囲気は感じ取れました~!たいへんにエモい(←語彙)お話ですた。

    梅いいですよね~。私は「月影」というのが好きです。ええ、、ガラスの仮面ぽいからです。

    そして、昔からのぎんたの懸案事項なんですが!!!その、中国に渡れる人ってのがもの凄く限られた、

    家柄が良くて、賢い人(一休宗純みたいに天皇家に繋がりあるとか、大学出てるとか)ですよね。

    そこに置かれた人がなるべくしてなるというのは、それはそれでドラマチックなんですけれども、

    そのポジションに生まれてない人には適性は無いのか?という不安が付き纏うんです。あと、師匠の

    理解が及ばないほどに革新的な人っていうのは、対象外になっちゃうじゃないですか。

    なので、なるべく多くの人が勝手に目指して、みんなが絡まって化学反応が起きた先に、誰も予想

    出来なかった領域があったらいいなと思うんです。

    • mani(管理人エム) より:

      ふむ、ふむ!エモかったすか。。
      道元のお話し、ってば、結局、中国の高僧も道元も、結局、夢の中で、梅やりとりしただけなんすよね。

      だから、あんまり知られてない話みたいす。

      偉く生まれても残らない話もあるし、偉くなく生まれても残る話もある。。

      ぎんたさまは、そのかきこみが後の世に残ってインターネット上で有名な猫出身者になるかもしれない。
      「置かれた場所で咲きなさい」と言ったキリスト教の人の名は残らないとしても、村を托鉢してまわったミツバチの聖者は、サーリプッタって言われて、その名を残すかもしれない。

      よく考えるんだけど、有名な龍樹は、その後どこに輪廻したんだろ、って思うんだ。あれだけ有名なのに、その後、龍樹の生まれ変わりはいっぱい出るけどそのときの名前が知られていくだけだ。。本人は「自分は龍樹の生まれ変わりである」と言った、として残るだけ。

      後の世に生まれた有名人は,皆龍樹ってことにしてもいいかも。

      思い出した。
      高貴な生まれの女の人が中央アジアで葬られてミイラになった。発掘された、若くして亡くなった貴婦人のミイラは、世界中に愛されている。。んだけど、本人は死んでよかったか、聞いてみなくちゃわからないよね。

      ロマンチックなお話しにしてみました。。。どこが?

      • ぎんた より:

        ご、ごめんなさい。その、龍樹ですけれど、、、、一般的には知名度低いと思います。業界内と
        世間での感覚にはもの凄く乖離があると思います。世間を観察して思うのですが、近頃は「阿弥陀」
        だって、存在感はかなり希薄です。今、世間で「あみだ」と聞いたときに真っ先に思い浮かぶのは
        「アミダ(くじ)」のほうです。(ぎんたは聞き取り困難症の傾向があるので、アミバと変換してしまうかも)「ほとけ」と聞いたら佐藤二朗ですね。(←ぎんた調べ=ぎんたひとりを調査しました。ぎんたの感覚はかなり平凡なので大体世間的にはこんな感じでしょう)

        この情報量がものすごい時代に「有名」はどうだろう?相当な「悪名」でないと「有名」なれないと
        思います。

        あ、そうそう!一昨年のどこかで、たしか読売新聞の広告に「たつき諒」(←ほとけ)という人の著作が紹介されていて。なんと!自分の見た予知夢を漫画にしたものなんですーー!!すごすぎ!
        で、その本の表紙イラストの夢日記の名前が「竜樹Ryo.Tatsuki」となっており、、、、
        (えーーーーーー、、これは本名なの?夢で見た名前をペンネームにしたの??なんなのーーーーーーーーーー)と思い。。。
        2025年7月5日になんかあるんですって!!「災難」が!!ここに向かってなんか準備せなあかん
        らしいですyo!!
        「龍樹」もそこに乗っかっていったら面白いのでわ?と思いました。というとあの危険な団体が
        ムカツクことに喜びそうなんですよ。2,19日がメモリアルな日だから。。。滅びろ

        • mani より:

          ぎんたちゃま 知名度低い「龍樹」でOKなんす。

          > 自分の見た予知夢を漫画にしたものなんですーー!!すごすぎ!

          やっぱ、夢が出てくるんか。。たつき・りょう という名前の人。

          道元もそうだけど、高僧の夢と道元の夢がつながってる。。梅の一枝で。
          たつき・りょうという人も、予知夢の話しでつながる、空(くう)と?

          「夢」ってあるでしょ。引用した『ダンマパダ』は「花」という章に説かれている内容で、ブッダが「空(くう)」の思想を説いたものとされているんだわ。
          「幻のごとく、夢の如し」は「般若経典」の空をうたったもので、ここともつながってるんだよ。

          空はめったに説かれないのよ。。ブッダが避けてるの。

          ぎんたさまはただの猫じゃない。。ぎんた猫。。畏れおおくもぎんたねこなりぃぃ。。なに?ぎんたねこって?

          わたしも知らない。。(予知)「夢」だから、「空(くう)」に紛れるやも。

          • ぎんた より:

            ぎんたは、、だって、、、

            「地雷踏みっこ猫オーグ」だもん。京極夏彦とマニカナのみなさんによって生み出された。。。

  3.  春間 則廣  より:

    箇箇佛ともに正嗣なり。
    つらなれるにあらず、あつまれるにあらず。
    まさにかくのごとく佛佛相嗣すると學するなり。
    阿笈摩のいふところの劫量壽量等にかかはれざるべし。

    •  春間 則廣  より:

       < 訂正 >  
        阿笈摩  のいふところの劫量壽量等にかかはれざるべし。
        ↓
        諸阿笈摩  のいふところの劫量壽量等にかかはれざるべし。
      ( 小阿含経 )


         岩波文庫 「 正法眼蔵 」 (二)
                正法眼蔵第三十九 嗣書  391p


        SAT  正法眼藏 (No. 2582 道元撰 ) in Vol. 82 

      18佛トモニ正嗣ナリ。ツラナレルニアラス。
      アツマレルニアラス。マサニ19カクノコト
      ク佛佛相嗣スルト學スルナリ。諸阿笈摩
      教ノイフトコロノ劫量壽量等ニ20カカハ
      レサルヘシ。

  4. 慧樹 より:

    ………………………………………………………

    四十祖の面受をつらぬるは、仏道なり、仏嗣なり
    ………………………………………………………

    春間様、一般的な正法眼蔵「嗣書」巻には、
    「つらなれるにあらず、あつまれるにあらず」
    という語句は見当たりません。

    また、「経師論師等の測度」とありましても、阿笈摩(阿含経)の語句は
    見当たりません。特別な正法眼蔵があるようですね。

    普通の正法眼蔵には、「四十祖の面受をつらぬるは、仏道なり、仏嗣なり」
    と書かれております。

    坐禅という仏法は、面受によってつらなっている。
    その面受の血脈(系譜)が嗣法である、という道元禅の立教宣言だと
    いうのが個人的な感想です。

    正法眼蔵は正法眼蔵のままでありたいと思いますが、言語の解体と撹拌
    にご精進ください。

  5. mani より:

    ショーシャンクさま こんばんは。

    どこに書いたら良いかわからないので、ここにしました。

    > 『正法眼蔵』は、法華経を縦横無尽に説き明かしたものだと感じられます。
    > この『嗣書』の章は理解できないことが多いですが。

    実は『正法眼蔵』の中で一番最初に読んだのは「嗣書」の巻なのです。そこで、最初に道元の論理(=空の論理)を手に入れました。『法華経』を縦横に説き明かした、とおっしゃるのは確かにそういう側面がありますね。

    > 法華経の考えでは、部派仏教の悟りや解脱は本当の悟りや解脱ではない、ということだと思います。

    ここですね!根拠を見つけました。『スッタニパータ』にあると思います。3,4,5章にまたがって説かれています。ブッダの一切智は、声聞たち(部派)に向けても説かれています。ブッダは平等に教えを説いたんだなあと思います。

    > それを先生は、『道元は部派の思想ではなく空まで行っている』と言われていると理解しました。

    まあ、そうかな。嫡嫡とブッダの法を受け継ぐ伝統を守る道元。しかし、その教えは、部派の伝統が守っているものではない。道元は、空・無我を主流とする(大乗の)ブッダ論理を得ている、と理解しています。

    • ショーシャンク より:

      石飛先生、こんにちは。

      この『嗣書』の巻を『正法眼蔵』で最初に読まれるのは、極めて珍しいパターンですね。
      私ならそこで頓挫します。

      何せ『無師独悟するゆえに仏仏証嗣』というぶっ飛んだことから始まっていますから。

      先生のおっしゃる『空の論理』がわからなければお手上げですね。

      • mani(管理人エム) より:

        ショーシャンクさま

        「無師独悟」するがゆえに「仏仏証嗣」、っと、読みました。ブッダ論理だなと。
        先生は直接いらない、無しでもいける、というのは、なぜかというと、仏から仏に嗣いで行くことが自然にわかるから。。つまり、論理しか伝わるものがないのです。

        こういう風に見るんだよ、という「ものの見方」が、これしかないんだな、と。

        まず始まりを持って、最初に始まる。次に、中があって、終わりがある。終わってみると、何もない。後から考えると、最初から何もなかったんだ(=空)、と思うけど、「それを言っちゃあおしまい」なので、いかにも有る振りをする。「有る振り」だから、無明であるし、仮設である。仮設して、それが滅していくさまを眺める。。寂滅と名付ける。涅槃とも呼ぶ。涅槃寂静の道理を得る。

        他の人と話していると、ムカつくこともある。ムカつくのは、我があるからである。ムカつかないのは、無我だから。。ということで、諸法無我もゲットする。

        「おれがおれが」の人生を送っているよな、って思うけど、「みんなだってそうじゃないか」と言い訳してみる。みんな、自分がかわいいんだ、とも思う。「かわいい自分」を認めよう、って思う時もあるし、「かわいい自分はかわいくない」と思う時もある。
        かわいい自分を丸ごと捨てると、無我である。「かわいくない自分」の部分だけ捨てようと思うと、非我である。
        残っているものがあるうちは、まだまだだな、って思って、残ってるものがなくなったら、空を得たんだな、って、納得する。

        有るようにも見えるし、無いようにもみえる。有る無しにこだわらなくなると、空の会得である。。

        こんな感じです。

  6.  春間 則廣  より:

    順番 を 捨てて 順番 を 知る
     
     捨てるべき 順番  は  無かったと 、、、、

     捨てるモノ が ないから 得たモノ は ない

      無いところに 順番はない と 捨てた後にしる ?

      捨てること を 知って   手に 残る 空手還郷

            順坐 に  とどまる  いきき の いき

        カンキョウ の 時     歓喜 奇応 ・ 火照る 掌

          拾って 得する     怪 なる  無き  わらい

       丹田 より 沸きいづる     掌底 の ぬくもり