絵はがきのねこ

未分類

絵はがきをもらった。熊谷守一の猫でした。くつろいでるなあ。なんて幸せな猫なんだ。こんな姿を描いてもらえるなんて。。

わたしなんか、写真に撮っただけで、「これアップしたらまずいかな、著作権がなんたらかんたら」とか思ってしまうのに。いかにも写真っぽく写してみたけど、まずかったらなしにするわ。

話題を変えて、「形而上学に行かないこと」について、いくらか語ってみる。

これって、感覚だと思う。「形而上学に行かない」とはどういうことか、感覚でつかむということかと思うのよ。

ブッダは覚りにあったとき、解脱の楽を味わっていた、と言われてる。「もう、いいや、このまま涅槃じゃ~」って思った時、梵天さんが現れて、「行かないで!法を語ってくだはい」ってお願いするわけ。。

アッタンだと思う。。梵天さんが出てきたんだわ。なぜか。ブッダが、そう言ってるんだから、そうなんだわね。こういう時に、絶妙のタイミングで出てくるのが、梵天なのだわ。

私ですら、出てきている。ブッダの本を書いたときに!

梵天は龍樹のようだった。私に、「大丈夫だから書け」って言ったんだけど、何が大丈夫なのかは言わなかったので、今となっては「騙されたかな」、って思ったりもする。騙されたというのは、言いすぎかもしれないけど、まあ、いまだに生きながらえてることを思えば「大丈夫」だったのかもしれない、って思ったりもするんだわよ。

それより偉いのはブッダ!梵天さんと約束したら、それを今でも守ってる、ってすごくない?!

考えてみたら、ブッダは約束を反故にすることはない、って気づくよね。そこがすごい。今でも守ってるンだわ。生じたら滅するきまりの世界で、ブッダ自身は人類が生きている限り守り続ける約束がある、ってすンごいことだ。ブッダだけ、世界からはみ出してる。。もちろん、世界の中にいるわれわれには、ブッダもまた、世界からはみ出さずに「涅槃に入るから」と言って死んでいく存在でもあるわけだけど。。こうして、ブッダを慕うわれわれには、ブッダはいつでも具体的に現れてアドバイスをしてくれる。

これだよ、これ!!

形而上学に行かない、という意味は。いつでも必要なときにはちゃんと現れて、教えてくれる。だけど、普段は、「それ!神話だろ」という世界にいる。。こういうことが、形而上学に行かない、という意味なのです。

普段は君臨してるけど、「今!助けて」と言うときに沈黙してしまうことが、「形而上学を語る」と言うことだって

わかった、かな?? ごめんよ、イヤミに聞こえたらごめん。

守一の猫は、いつでも寝てるね、形而上も形而下も関係ないようだわねえ。

コメント

  1. 慧樹 より:

    ……………………………………………………

    形而上の道に生かされ、形而下の器を生きている
    ……………………………………………………

    幸せそうな猫ですね。
    でも、形而下の現実は、寝てばかりいると腰痛という苦行になり、形而上の
    理法によって動きたくなるもので、〈活動できる幸せ〉を知ります。

    最近、易経を読んでいますと、繋辞上伝に次のようなものがありました。

    形而上者謂之道 形而下者謂之器

    形あるものの上位概念として存在している真理を道と言う。
    形あるものとして存在しているあらゆる現象を器と言う。

    ということであるそうです。
    陰陽太極からしたら、「形而上の道に生かされ、形而下の器を生きている」
    と、仏性(如来蔵)信心の私なりに仮に読ませていただきました。

    アリストテレスの『形而上学』にも、キーネーシス(動)とエネルゲイ
    (現実活動態)という二つの運動が論じられているそうですね。

    キーネーシス=始点と終点が運動、速やかに効果的に達成させることが望ましい。
    エネルゲイア=始点と終点はなく、「なしつつある」ことを「なしてしまった」。

    「今此処」に生きる禅に通じるものがありますし、仏性(如来蔵)によって、
    「善く生きてしまっている」という如来蔵思想にも通じるものがあります。

    祖依性の縁起の理法からしたら、形而上と形而下は、紙の裏表のような、
    「不可分一体」なのかも知れません。

    形而上と形而上を対立議論は避けて、手を合わせ、仲良しになりたいですね。

  2. Ryuko (PL) より:

    エム先生

    やっほー!

    > 私に、「大丈夫だから書け」って言ったんだけど、何が大丈夫なのかは言わなかったので、今となっては「騙されたかな」、って思ったりもする。

    いやいや、そんなこと言わないでください!僕は感謝してもしきれません!

    > 普段は君臨してるけど、「今!助けて」と言うときに沈黙してしまうことが、「形而上学を語る」と言うことだって

    なるほど、「普段は君臨してる」っていうのも、ポイントですね。

    「今!助けて」と言うときに…繰り返すことしかできない、という感じがするのですが、いかがでしょう。「沈黙」まで、いっちゃいますか…? 神秘のベールの向こう側、という感じはします。

    脱諸行的、ですよね。かっこいい言葉ができた笑

    • mani より:

      Ryuko (PL) さま ヤッホー (とこだまする)

      Ryukoさまのお役には立てたようで、まあ、よかったってことかなと納得してみました。

      > 「今!助けて」と言うときに…繰り返すことしかできない、という感じがするのですが、いかがでしょう。

      ああ、そうかも。適切な一言がほしいとき、ビシッと言ってくれない感じですねん。

      > 「沈黙」まで、いっちゃいますか…?

      ひどいかな?!ここで言えば神さまのカブが上がるのになあというところで、聞けないような気がします。
      脱諸行的! まさしく! 倫理的なように見えてそういうわけでもなく、論理的なように見えてそういうわけでもない という中道を狙ってる?

      この表現に納得する人がいるならば、神は中道的でもありますね。有有ムム。。文字通り有無を乗りこえる道ですなあ。

  3. 慧樹 より:

    ……………………………………

    出家主義の仏教は「反出生主義」なのでしょうか
    ……………………………………

    年を取ると生きることに疲れてくるのでしょうか、
    「寝ている守一の猫」は「生きることに疲れた私」のようです。
    寝るほど楽なことはない……。

    先生も、介護に疲れているのでしょうか……。
    疲れた、寝付かれるまで寝るが一番なのでしょうが、
    介護があってそんな呑気なことをしてもいらない。
    生きるって疲れますね。

    生きることが修行にも思われます。

    こんな疲れる世に、生れて来なければよかったのにと思うのに、
    自殺することも矛盾に満ちた私が、とりあえず、「この人のために」
    なんていう意味付けをして生きているようです。

    YouTubeの哲学チャンネルを見ていると「反出生主義」なるものに
    出会いました。私は反出生主義にはなれませんが、十二因縁も生死
    からの解脱という反出生主義の要素を含んでいますし、性交渉から
    離れた出家主義が反出生主義の要素を含んでいるようですね。

    生死の輪廻の苦からの解脱という厭世主義的なインドにおいて人口が
    増加しているのが面白いですが、先生は「反出生主義」についてどう
    思われるのでしょうか。

    原始仏教の出家主義は、完全が世俗からの乖離でなく「世俗との境界線」
    における出家主義のようにも思われます。

    「世俗と出家の境界線上」において四諦八正道を行じたのではないかと。

    生と死の境界線、
    出生と反出生の境界線、
    楽と苦との境界線、
    形而上の夢と形而下の現実の境界線、
    眠りと目覚めの境界線、
    無明と光明の境界線、
    出生ゼロと出生無量の境界線、

    そんな境界線に生かされてしまっている私のようです………。

    先生は「反出生主義」についてどう思われますか??

    • mani より:

      > 先生は「反出生主義」についてどう思われますか??

      反出生主義というのも、生存(有)への執着への裏返しのような感じがします。
      欲の渇愛、生存の渇愛、生存を離れることの渇愛と三種あるといわれますが、三つ目の「生存を離れることの渇愛(ヴィバヴァ・タンハー)」に近いのかなと思ったりもします。
      主張して、意見として出している時点で、闇は深いように見えますね。

  4. カエル より:

    騙されても騙されてなくても、利他のarhat に近づいたのだからいいんじゃないかと

    ティラノサウルスとかには夢で会えるのですが、梵天様とか御利益のありそうな方には会えないし、いつでも連絡とれるとこまで到達してないのですよね。

    梵天様とSignalアプリの番号を交換するところまでいったら成道ですな。

    • mani より:

      > 騙されても騙されてなくても

      贅沢言っちゃあかん、ってことかなぁ。。

      > 梵天様とSignalアプリの番号を交換

      緊急地震情報みたいなもんかな。。すごく昔に駅のプラットホームで一斉になったことがあったっけ。
      列車と同じで、くるのを待つしかなかったなあ。わたしの携帯にはついていない機能だったっす。さびしい。

      • カエル より:

        Lineのセキュリティの高いやつですね。
        SignalとTelegramとかですね。
        TelegramはTwitterみたいな機能もあります。

        メッセージが梵天様に届いて既読になったかまでわからないとね。

        夢に1回聖徳太子が出ただけじゃいかんですにゃー

  5.  春間 則廣  より:

    > ***********

    形而上学に行かない、という意味は。いつでも必要なときにはちゃんと現れて、教えてくれる。だけど、普段は、「それ!神話だろ」という世界にいる。。こういうことが、形而上学に行かない、という意味なのです。

    普段は君臨してるけど、「今!助けて」と言うときに沈黙してしまうことが、「形而上学を語る」と言うことだって

    > ***********

      教えて欲しい  という 局面に    ( 人の生 に )
     “ 教える こと ” が  現れる ( 現れてくれる 人 )
       表わすこと は 教えて欲しいこと ( 欲求の具足 )
         具現化 であり 、 形而上 に ではない
          欲しいこと は 形而上にあり
          欲しいモノ は 具現である
      “ 欲 ”  は  「 識 」 に 起き
      “ 求 ”  は  「 生 」 に 起きる
         「 生老病死 」 は  「 縁起 」 に 起きる

       “ 君臨 ” は  君( 貴君 ) に 臨して 知ること
        君主 は     「 他 」 である ようにみえて
        「 自( 自我) 」  の  対峙 に 起きている
      自ら築く 自らのオウコク ( 王国 であり、 負う酷 である )

         王国に君臨する ( 創り上げられた ) 鏡像
            そして
     鏡像 に 対峙する 自像( 創り上げられている 自我 )
     虚像 が 鏡像 を 望む ( 遥かにある )
     虚像 が 鏡像 に 臨む( 間地かに臨み “望”臨する )
     する )
          ボウボウ たる 知見
        「 仏法非遥 心中即近
           迷悟我れに在り 則ち発心すれば 即ち到る 」

    > わかった、かな?? ごめんよ、イヤミに聞こえたらごめん。

    • mani(管理人) より:

      >     君主 は     「 他 」 である ようにみえて
      >     「 自( 自我) 」  の  対峙 に 起きている

      いつもそう見てしまうと、いつもそう見てしまう。同じ意見ばかりが出てくる見方になってしまうかも。

      「そういう意見を持つのは、あなたの<自我>のせいだろう」、ということだけど、そこに縛られてはそこに縛られることになる。

      「自我の行方を追っていく」という方法もあります。
      自我を糾弾するのではなく、それがどのように消えて行くのかを知ることが知るべきことかもしれないのです。

      どのように消えて行くのかを知ることが、倫理だったりするのかも、と思ったりもするのです。なぜなら、「どのように消えて行くのか」ということは、縁起に従う以外に方法がないのだから。つまり、時を語る者であるのが、ブッダなのだから。

  6. 慧樹 より:

    ………………………………………………

    輪廻も解脱も形而上学ならば、発心のみ
    ………………………………………………

    仏教には十無記があるという。

    世界は永遠であるのか
    世界は永遠でないのか
    世界は有限であるのか
    世界は無限であるのか
    生命と身体は同一か
    生命と身体は別個か
    修行完成者(如来)は死後存在するのか
    修行完成者(如来)は死後存在しないのか
    修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
    修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

    〈輪廻からの解脱〉を中心課題にするインド思想は、見えるものの奥にある
    見えないものの探求という形而上学に満ちている。論理学派もまたしかり。

    古代インドに形而上学という概念があったかどうかは知らないが、仏陀の
    十難無記が形而上学だとすれば、〈輪廻〉や〈解脱〉は形而上学と取れる。

    この「輪廻や解脱(形而上学)には趣かない」というは、実践的には、
    「八正道に励め」ということではないのか。

    さらに解脱にも趣かず、ただ「発心あるのみ」と空海や道元は言う。

    「迷悟我に在り、則ち発心すれば即ち到る。明暗他に非ず。則ち信修すれば
    忽ちに証す」空海『般若心経秘鍵』
    「一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくの如し」道元『発無上心』巻。

    「初発心時便成正覚」――『華厳経』

  7.  春間 則廣  より:

     動く と 止まる  は   とき に 流れる  
           ながれる    とき  も あり
           ながれぬ こと・とき  も ある
        ありそうでない  両極・面 ( タイジ )
                   良面  を  ありと観る

    どのように観るのか  ということに タイジ していく

      見ている 自我 という一人  を  いつも 退治していく
       退治する 自  と 対峙していく  もう一人の 自
     二つの自 を 見つめる  自 という  “密” の 自・事
      ミツ・ミ で 囲う △ を   「 坐 ・ 禅 」 と  観る
      よくよく 止まって 流れを   「 止観 」  する “密”
        みつ ける まで すわる ・ みつ け つつ も 止まる
          止まるから  動く こと が できる 、、、

      ( 動く と 止まる  は
             ときにながれる ・ 流れるとき も ある )
       流れ を 出でる 止まる ( 止まる時に流れる 、、、 )

    >   ということだけど、そこに縛られてはそこに縛られることになる

       時 は ときとして    止まる ように見える
            とき  に    三(身)出だす 解き
          密・みつ に  絡んでいるから  ほぐす

        解(ホグ)されず に 絡みこんで  ヨミ 過ごす
         ( 仮 等 まった  まま     ままにならず )

      思うよう に   読まれない ・ ままにならない
         のは  思うことを欠くから・ままにあるから 
      ( おもったまま  描く   事象 の すがた )
        黄泉  すごす  夜見 の 暗闇
          (  暗闇 と   知る  明智   )
          
       “わけ” の 分からない つまらない  描きかた
      ( “わけ” が あっても  わからない つまらない )

        つまるところ すべてを知っているから “知る”
         “わけ” に つかまる
                 つまらない つかまりかた

       アヴィ ダルマ  とは  このようなこと
        読み過ごす人 も いるけれど、 読む人もいる
        読んで 知ろうとする人  の   独りの見方
          独り 坐り   一人  を   投じて 離れる

          離れて 知る 離れること   また 一人
      ( 「 劫 」 とは このようなこと ) 独り 立つ

    > 縁起に従う以外に方法がないのだから。

       「 縁起 」 が  起きない  という  ところ に
        起きてしまう  「 縁起 」    ・・・・・・
                         ところ が 起きない

    > つまり、時を語る者であるのが、ブッダなのだから。

        ときに聞く ・ ときは流れる ・ 解くことの難さ
         かたさ を  ときほぐす  のは ブッダ
         沙た  を     知る   のは ブッダ  

       ときを告ぐ ケン と 鳴き  ケン と 聞く
         継ぐ時     に     説き を 聞く
        「 見 」     と  聞く 
       見と見  を   「験」 の 「賢」 に  分ける
     ( 「 見 」 は   連なって  順 ヨク  続く  )

      順があって  順に囚われない  矛盾
    (  囚われるから ある 順    けれども 無 順  )
         

       順番  に   解決する   のではなく   
              一 「度」 に 起きている 

       度する者 と 度される者   とは 

       度するとき に
      「 平等 」 に 起きて 対峙し 一つとしてある             

    ・           

    • mani(管理人エム) より:

      > 度するとき に
      >   「 平等 」 に 起きて 対峙し 一つとしてある 

      こう言ってしまうと「一つ」ということがまた生まれてくる
      説明してはならないのではないか。。

      寂滅の道 

  8. 慧樹 より:

    ……………………………………………

    真理表はどうなりましたか?
    ………………………………………………

    ロボット開発をしていた頃、「AND演算」「OR演算」「XOR演算」「NOT演算」
    の論理演算とやらでシーケンスを組んだ経験がありますが、AI論理派驚くほど
    進み、私などにはとても付いて行けません。

    また、この論理演算を統計的手法で、複雑に絡まった要因(縁)から「有為な差
    のある要因(縁)」を、確率的に見つけ出す〈分散分析表〉を用いた品質管理の
    仕事をしていました。

    そういうことで「真理マトリックス」とは、ご縁がありまして、今では、2000年
    に渡る統計マトリックスである『易経』を学んでいます。宇宙的論理哲学といえ
    るものです。中国の形而上学も捨てたものではありません。

    ところで、石飛先生の『ブッダと龍樹の論理学』に、ブッダの一切知の根拠を論理
    学として示す初めての試みであるという「真理表」が載っていましたが、ブッダの
    一切知の根拠を示す論理学、という膨大な構想に付いて行けずに手元から離れてし
    まいました。

    マトリックスに関して、私の場合は易経の「六十四卦マトリックス」に辿り着き
    石飛先生の「論理表」が思い浮かんだ次第です。仮にも易経のようにまとめられ
    たら素晴らしいですね。

    論理の道に光あれ!

  9. mani(管理人エム) より:

    >「AND演算」「OR演算」「XOR演算」「NOT演算」

    演繹的な道ですね。

    >確率的に見つけ出す〈分散分析表〉を用いた品質管理の
    >仕事をしていました。

    帰納的なやり方も使っていたのですね。便宜的に仮説として使う論理ですね。

    易の64通りとは異なり、ブッダの理論は16通りか、12通りです。
    そこには、外道の説く四句分別も関わります。
    4の倍数になるのです。4つの見解の束が存在することになって、部派と大乗で分け合っています。部派が2通り、大乗が2通りです。

    どれも寂滅するところに、ブッダの理論の特異なところがあります。
    つまり、どの道を通っても覚りに(悟りに)いけるのです。

  10.  春間 則廣  より:

     > *************

      ときを告ぐ ケン と 鳴き  ケン と 聞く
         継ぐ時     に     説き を 聞く
        「 見 」     と  聞く 
       見と見  を   「験」 の 「賢」 に  分ける
     ( 「 見 」 は   連なって  順 ヨク  続く  )

     > *************

         トキ の 一声   ( 朱鷺 じゃないよ )
            https://www.youtube.com/watch?v=LeUwYaeIHKs
         ケンケン と ウルサイ かな ?

     > *************

      順があって  順に囚われない  矛盾
    (  囚われるから ある 順    けれども 無 順  )
         

       順番  に   解決する   のではなく   
              一 「度」 に 起きている 

       度する者 と 度される者   とは 

       度するとき に
      「 平等 」 に 起きて 対峙し 一つとしてある             

     > *************          

    >> 度するとき に
    >>  「 平等 」 に 起きて 対峙し 一つとしてある 
    >     こう言ってしまうと「一つ」ということがまた生まれてくる
    >     説明してはならないのではないか。。

         説明 と 見る  と  主客が出でる
          一つ を みる    もう一つ  主を見る客
          一つだけでは    存在しない   ?
       「 縁起 」 を 知る   その時 「 縁起 」 は おきる ?

            説明 が イリヨウ ですか ?

     > *************

       順番  に   解決する   のではなく   
              一 「度」 に 起きている 

     > *************

          度する者 と 度される者  とは 
             同一となる(  「 平等 」 に ある ) 
                一つ の 「 度 」 にある
          度する者 と 度される者 との 区別(しゃべつ) は ない

        一つを見つめる “二つ目 の 存在” に
               なってしまっては いけない
            ( 寄り目になって 見えがたくなる )

    >     寂滅の道 
     
         「 道 」 は 険しくもあり、 平易 でもある

          まあ  いつかは 何れにしても 寂滅する

          難易 を おく と  険しくなる 、、、、

    • mani より:

      >    度する者 と 度される者   とは 
      >    度するとき に
      >   「 平等 」 に 起きて 対峙し 一つとしてある 

      そうなら、「度する・度される」と言わないだろう。
      説明は難しいね、どうしても順序がついてしまう。

      説明というのは、ある種のモデルパターンなのだと気づいたのは、遠くニヤーヤを勉強している時だった。
      コウした後にアアする、などとあって、どうして、こういう順序になるのか不思議に思ったものだった。
      これが!「縁起」ということなのだ、と気づいたのは、ずっとずっと後だけど。
      プラティートヤ・サムットパーダという語には、ブッダのたぐいまれなアイディアが光っているのだと気づいたのは、いつだったか。。忘れた。
      「縁った あとに 集まり起こる」と述べて、それを熟語化してしまったブッダ。
      庶民の凡夫は「縁起が良い」「縁起が悪い」と勝手気ままに使い、意味を付与していっている。

      感心するわ、ブッダにも凡夫にも。。ブッダの凡夫を救う語の導入に、凡夫は好きなことを言ってるようで、しっかり救われている。。
      まことにありがたい!ブッダさまさま(と、こころでおもう。)

      •  春間 則廣  より:

        >    度するとき に

        >> 度するときに ( 度されるときに )

        >   「 平等 」 に 起きて 対峙し 一つとしてある 

        > そうなら、「度する・度される」と言わないだろう。

            だったら 度 いう ?

            度するとき  とは  度されるとき のこと ( 同一のこと )   

          (  “時” を 用いる “とき”
             行う時 と 行われた時   との  間に
              “時” が 起きてしまい “分け” が 起き
               その訳・ワケにより    “順”  が 起きる  )

           すべての 「 度 」 が  同一に起きているから
               衆生 (は)     皆度 に ある ( 不一不多 )
           
              起きていても 寝ている者 は・が いる
           (  目覚めて 建つ    共 建 法 幢 報 仏 恩徳  )
                 建てる者  が  建つ者( 法・報 ) 
                 「 法 」 であり  (他 )報 (方)↓ であり
                ソコ (方) に 建つ (自) 報 (恩)

           友に建つ 法幢 であり 報であり 仏であり 恩徳である

            「 山川草木 」 を 眺め 知る   
            「 悉有仏性 」 を 見てはいる  、、、、
           (  有・無 とは   「 有 」 に 囚われて いうこと  )

        > 説明は難しいね、どうしても順序がついてしまう。

           ついてしまう  ・ ついている ・ つけてしまう

           1・2・3 は 順に並ぶ 
            けれど “ 1・2・3 ” として 一つにある ( 多寡を言わず )

            一 は 一ではある が 一に非ず ( 禅 に ある )
            二 は 二ているようで 似ているに  非ず
            三 は 三しるけれど  参じるにあらず( 位置 を 動かず )

           思 利 私欲 を 離れて 死す   その 死「 无 」理
           知る所に非ず 四すところにある
                     吾蘊 を 知る ( いつ 知るや ム ナシ ) 、、、、、

        • mani(管理人エム) より:

          > だったら 度 いう ?

          仮説を用いて言うしかない。度スル・度サレルというように。
          そのとき、時が入る、順序が入る、「じゅんばんこにね」って教わるのです。

          教わった「後で」知る。。順番にわかっていくんだなあ、って。

          これを順序無視でやると、論理が壊れ、倫理が壊れる。
          最初から、度するも度されるもないのだ、と思うと、その人は壊れていく。。
          縁起を失うから。

  11.  春間 則廣  より:

    >   起きていても 寝ている者 は・が いる

        これゆえに  「 如来蔵 」 と 呼ぶ

  12.  春間 則廣 より:

     論理じゃない  という  論理  に  利があるか 、 理はあるか

         という 論

      論を待つまでもない 理由 に、付いてくる 論理

        利をもとめない  仏教 が もたらす リヤク

       利益 を もとめる ワタクシ は いずこ