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スチームの上に乗ってぬくぬくするサム。こんな細いスチームの上で腹ばいになって暖を取っている。ダンは上がらないけど、サムは定位置を占めている。
とうとう『スッタニパータ』が見えてきた。「経(スッタ)の集まり(ニパータ)」と訳される、全体五章からなる経典。
九分教にあるスッタの説明に「直説の教えである」というのがある。『大智度論』あたりがそう述べている。スッタは直説の教えか。。なるほど、ありうることだと思う。
なぜ、そう思うかと言うと、誰も、このようなことは思いつかないからなのです。とくにウパニシャッドあたりに親しんでいた人々なら思いもよらないことだろう。
人間も含めて、あらゆる生き物に共通することは何か?そこを考えたブッダは偉い。あらゆる生き物が好むことと忌避することを見つけた。「苦しみのないこと」である。
あらゆる生き物が求めるのは、苦しみのない状態だ。
楽しいことをあえて求めているのではない。
ただ、ただ、苦しみが消えてなくなってくれること、それだけが、生き物たちのささやかな望みなのです。
そこに焦点をあてて、法則化したのがブッダです。法則化だよ!法則化!
聖なる真実、四聖諦がブッダの中から生み出された。
<これ>が苦である、<これ>が苦の集起である、<これ>が苦の滅である、<これ>が苦の滅に至る道である
これらの4つは聖なる真実である。まことに、ミスなく、隙もない、体系づけられた教えにいたるその過程は、人間がぎりぎり理解できるのかどうか、という難しさである。
2600年もの間、わたしたちは、ブッダの教えを受けようと努力してきたのだ。そして、その結果、多くの、ブッダに従うものたちが出現してきた。みな、超一流の人々である。
ナーガセーナ、ナーガールジュナ、バスヴァンドゥ、日本に渡ると、聖徳太子、空海、親鸞、道元。
そして、これら沢山のものたちを束ねて、ブッダがいる。
誰もが賛成するだろう。幸せなんて、そんな大それたものを求めているんじゃないんだ。。ただただ、目の前にある苦しみが消えてくれることだけを願って、生き物は生きているんだよ、って。
『スッタニパータ』「蛇品」では最初に詩が語られる。
心の内でよく分析された諸々の思索がことごとく破壊された比丘は、
こちらの岸とあちらの岸をともに捨てる。
あたかも、蛇が、老朽の古い皮を脱ぎ捨てるように。(7)
此岸、彼岸を共に捨てるのか。。この世とあの世と考えることもできるね。つまり、輪廻を捨てる道にも見える。ブッダの教えのぶれないところが示される。ブッダの覚りのエッセンスが結晶したようにも感じられる。
「彼岸」と聞いて、悟りの世界だと思った人もいるだろう、大乗に親しんでいるならば。
だけど、こういう言い方の中に仏教がある。言葉が揺れ動きながら、その人の中でしっかりと一つの意味をもってくるのを待っているんだ。確信したとき、その人には、ブッダの教えが根付いているんだね。
***
最近、縁起にしたがって出てくるものを書いているので、とりとめがないかもしれない、と思ってます。この形式(ワードプレス)を利用して、「今この時」を切り取る意識で書いてみてます。
私は、ブッダ世界の住人です。
コメント
***
> 人間も含めて、あらゆる生き物に共通することは何か?そこを考えたブッダは偉い。
偉いこと を いう ( 偉い人の尺度 を 知る )
えらいことである
ブッダ は 「 無量 」 を 説く
> あらゆる生き物が好むことと忌避することを見つけた。「苦しみのないこと」である。
苦しみ が 解決して 「苦しみ のないこと」が 知られる
> あらゆる生き物が求めるのは、苦しみのない状態だ。
苦しみ を 知らぬ ということとは 違うこと
> 楽しいことをあえて求めているのではない。
ただ、ただ、苦しみが消えてなくなってくれること、それだけが、生き物たちのささやかな望みなのです。
ささやかなる ことに 大きな意味を付加する
大小に こだわる 苦しみ
> そこに焦点をあてて、法則化したのがブッダです。法則化だよ!法則化!
ムリョウ で 教え説く 「 無量 」 の 徳
> 聖なる真実、四聖諦がブッダの中から生み出された。
<これ>が苦である、<これ>が苦の集起である、<これ>が苦の滅である、<これ>が苦の滅に至る道である
これらの4つは聖なる真実である。
> まことに、ミスなく、隙もない、体系づけられた教えにいたるその過程は、人間がぎりぎり理解できるのかどうか、という難しさである。
「 まこと 」 には 隙がない
ぎりぎり の 上 で 生きている ギリギリ なる 命の営み
> 2600年もの間、わたしたちは、ブッダの教えを受けようと努力してきたのだ。そして、その結果、多くの、ブッダに従うものたちが出現してきた。みな、超一流の人々である。
“努力” では 得られない
“努力” せずに 得る 「 天才 」
ただし、 “上”を向いていても “下”に落ちてくる
というような モノ ではなく
“右” に あったり して ウオウサオウ する
まことに テンサイ というものは 期せぬところに 起きる
期するところ を 知る 「 天才 」 は
「 天 」 が 与える が 如く ( 承けとる もの である )
> ナーガセーナ、ナーガールジュナ、バスヴァンドゥ、日本に渡ると、聖徳太子、空海、親鸞、道元。
> そして、これら沢山のものたちを束ねて、ブッダがいる。
“ 一つに束なる ”
“ ひ と つ ” の 「 真理 」 たち
> 誰もが賛成するだろう。幸せなんて、そんな大それたものを求めているんじゃないんだ。。ただただ、目の前にある苦しみが消えてくれることだけを願って、生き物は生きているんだよ、って。
願わずとも 眼前にある “正法 眼蔵”
『スッタニパータ』「蛇品」では最初に詩が語られる。
心の内でよく分析された諸々の思索がことごとく破壊された比丘は、
> こちらの岸とあちらの岸をともに捨てる。
といっても 荒波に もまれるわけでもない
> あたかも、蛇が、老朽の古い皮を脱ぎ捨てるように。(7)
>此岸、彼岸を共に捨てるのか。。この世とあの世と考えることもできるね。つまり、輪廻を捨てる道にも見える。ブッダの教えのぶれないところが示される。ブッダの覚りのエッセンスが結晶したようにも感じられる。
> 「彼岸」と聞いて、悟りの世界だと思った人もいるだろう、大乗に親しんでいるならば。
キンシガン 的 に シガン を 見ると
ぼけていて “ 蔵 が ぶれる ”
ぶれる から “そこ” に つかまってしまう
“ そこ ” を 近 此岸 と 言い
“ 遠近 ” の 同時性 に 惑う
> だけど、こういう言い方の中に仏教がある。言葉が揺れ動きながら、その人の中でしっかりと一つの意味をもってくるのを待っているんだ。確信したとき、その人には、ブッダの教えが根付いているんだね。
根付いている と 知らせようとするが、 根付かない
***
最近、縁起にしたがって出てくるものを書いているので、とりとめがないかもしれない、と思ってます。この形式(ワードプレス)を利用して、「今この時」を切り取る意識で書いてみてます。
私は、ブッダ世界の住人です。
***
“わたし” という “ 存在 が ない ” と 知り
“ わたしたち ”
すべて を ( ヒトツトコロ に ) 納める 「 悲願 」
いつくしみ の 眼 は
哀愍 の 慈“悲” に あふれている
ひとりひとり が ひとりとして 立つことができる
その 彼岸と此岸 そこに起きる 「 中州 」
其処 に 立つ 底としる 天より賜る
「 中州 」 に ひとり
ブッダ は
友 と ともに歩もう と
自らを支える 「 アシ 」 を もちいる
人 は 考える アシ で あゆむ 、、、、
( ヨシアシ を 捨て て あししげく あゆむ )
捨てれども 欲しき の ぬかるみ 踏み込み つ
みゆる 雨 あし しげし ことのは
・
彼岸や此岸に執着したらヤブヘビなんでしょう
聖にも俗にもこだわらない
如来にも菩薩にもこだわらない
釈尊にも龍樹にもこだわらない
人それぞれ成るように成る
仏道にも仏教にもこだわらない
野良猫が餌をもらったらくわえたままさっさと去るように
雀が餌をついばんだらさっさと飛びたつように
> 執着したらヤブヘビ
そうだよね。執着したらヤブヘビだ。
執着はしないのよ。。最終的に解脱するから。
善いものを求めて論理と法の地に暮らしたブッダ。
真実を求めて倫理的になっていった龍樹。
だから、こだわらないにもこだわらない。
>こだわらないにもこだわらない
これは普通にこだわってるw
でも、人間ってこだわってないと言っても何かにこだわっているのが個性ですよね
とことん断捨離して何が残るのか
シッダルタ王子も成道したといいながら80を超えるまで
他人のために他人の苦の緩和のために生き続けていた
こだわりと言わなくても何かがあるので生き続けていた
もはや行ずる必要はないので純粋な利他
別に次のステージに行く必要がないのに利他
本当にこだわりが皆無なら即般涅槃ですよね
> もはや行ずる必要はないので純粋な利他
> 別に次のステージに行く必要がないのに利他
> 本当にこだわりが皆無なら即般涅槃ですよね
ここで思いつく答えが、梵天と約束したから、というもの。
悪魔と会話して「もう涅槃に入りなさいよ」という勧めに応じて、三ヶ月後に涅槃に入るだろうと言って、入ってます。
こんなところに契約の要素が入ってくるのか。。ふうむ。
五戒は常に守られているんですね。
梵天勧請あたりはアーリア神話的ですな
シッダッタ王子と梵天や悪魔の対話なんて如是我聞のしようがない神話なので
こだわらないw
昔の人も同じ疑問を共有していたので梵天勧請のような神話が成立したのでしょう。
結局のところ真実は釈尊の直接聞くしかない(チラッ
> 結局のところ真実は釈尊の直接聞くしかない(チラッ
そういうことなら、そうですねぇ。。
私は別に不満はないです、直接聞いてみた結果だと思っているので(笑)
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ミリンダ王の「対話力」――聞く力
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世界史を学に連れ、みんなのための大乗仏教は、シルクロードにせよ
マリンロードにせよ、ギリシャ・ローマ文化とインド文化の交流で発生
したと私は思う。
『観音経』は大海原を超える香りがするし、『般若心経』は荒野を旅する
者の香りがし、『華厳経』などでは砂漠を照らす太陽の香りがする。
アレキサンダーの遠征でインド西北部にギリシャ人によるグリーク朝が
されて久しい。仏教解説書に取り上げられいたので概要は又聞きしている
が、あの三部作を読む力は私にはなかった。しかし、中村元がYouTube
でも語っているのでお話を聞くのも悪くはない。
五蘊無我説という教理はともかくとして、ギリシャ人らしいミリンダ王の
対話力、その「聞く力」である。対話力に優れたギリシャ人の長所には学
ぶべきものがある。
聞いて問うミリンダ王、聞いて語るナーガセーナ――という構図が面白い。
ソクラテス以来のギリシャの対話力・聞く力を学びたいものである。
みんのための大乗仏教は、東と西の対話のおいて起こったのだ思う。
「語る」とは「聞く」ことであった。
> 『観音経』は大海原を超える香りがするし、『般若心経』は荒野を旅する
者の香りがし、『華厳経』などでは砂漠を照らす太陽の香りがする。
確かに、香りがする。ブッダの時代から、そこはかとなく漂ってくる香りである。インド亞大陸と呼ばれるように、外界から切り離されるようでありながら、外界とつながるそんな香りである。
西海岸出身のプンナという弟子が、故郷に戻って法を広めるが、そこに住んでいるのは多くは海の民である。古代の人々の活発な往来が浮かんで来る、ね。、、
………………………………
梵天は社会的連関の象徴
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先生方によって「梵天勧請」の解釈がありますが、ここでもまた独特な
解釈を面白く拝見されていただきました。いろいろな読みがあって良い
と思うのですが、カオスもまた面白いですね。
梵天(ブラフマン)は、インドにおいては「世界の創造原理」の人格化
ですから、ブラフマンなくしてインドの宗教(ヒンズー教)はあり得ま
せん。
私たちは、西洋近代の「科学・合理・論理」信仰に飼い慣らされてしま
ていますが、捨てて来てしまった神話の中にも真実が秘されているよう
です。
山口益先生は、梵天を「全人類の代表」と読まれ、中村元先生は、梵天
を「社会的連関の象徴」と読まれていまして、個人的にはお二人の解釈
に共振しています。中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』450ページから転載
してみます。いかがなものなのでしょうか。
………………………………
この伝説のうちには、さとった真理は深遠であるけれど説かねばならぬと
いうことが前提とされている。それは、人生の真理の実践は、社会から切
り離された個人において実現されるものではなくて、他人との連関におい
て、すなわち社会的連関においてなさねばならぬという思想を前提として
いる。表現は極度の神話的で古代的であるが、論理的につきつめるとこう
いうことになるのである。
そこでやがて仏弟子たちの見るところによると、釈尊が悟りを開いたのは、
他人を利するためであると考えられるようになった。
*
>> 結局のところ真実は釈尊の直接聞くしかない(チラッ
> そういうことなら、そうですねぇ。。
私は別に不満はないです、直接聞いてみた
結果だと思っているので(笑)
直接聞いた 人 に 直接聞く
直接聞いた結果 結果を得る
得たモノ を 聞考 する
聞して 得る 考(慮)
不満がある ( そこを支える “満” )
“ べつ ” に 起きる のが 「 分別 」
“ とも ” に 起きる の が 「 真 」
共 とは 遠くにありて ちかくしる
満ちて なお引く しほ の はま
引きて たなびく 知ろ キ ク モ
アマツ チ 知りて 承ける ミ チ
みちゆえに あゆむそのあし よくふみしめる
こう カク と 口中 あふるる つばき とぶ
あまつ ち の なみだしぼりぬ 下の先
あじわい あふれ しほ を しる
・
あるなし を 言いて そこしる 鳴き と 有理
ありつ あゆみつ みちのさき
しりつ なくし つ みちの ゆへ
ゆへあり しりぬ ゆの ぬくみ
したりつ しりつ ゆへ を きく
・