『サンユッタ・ニカーヤ』12-23(PTS Text,U.pp.29-32) 縁由(理由、ウパニサー) 1.サーヴァッティーに滞在していた時のことです。(そこで、尊師は、次のように語りました。) 2.比丘たちよ、わたしが見てもいるし、知ってもいる漏(煩悩)の滅尽を説きましょう。実に知らずに、実に見ずに、説くのではありません。 3.比丘たちよ、わたしが知ってもいるし、見てもいる漏の滅尽とは何でしょうか。 〜という 以上が色かたち(色)です、〜という以上が色かたちの集起です。〜という以上が色かたちの没です。 〜という以上が感受(受)です、〜という以上が感受の集起です。…。 〜という以上が想い(想)です。… 〜という以上が形成作用(行)です。… 〜という以上が識別作用(識)です。〜という以上が識の集起です。〜という以上が識の没です。 このように、比丘たちよ、知ってもいるし、見てもいるならば、漏の滅尽があるのです。 4.比丘たちよ、滅尽があるとき滅尽における智があって、それもまた理由のあることだ(サ・ウパニサー)と語るのであって、理由なしにそうするのではありません。 5比丘たちよ、その滅尽における智の理由は何でしょうか。 それは「解脱※である」と言わねばなりません。比丘たちよ、解脱を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 6比丘たちよ、解脱の理由とは何でしょうか? 「離貪※であると」言わねばなりません。比丘たちよ、離貪を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 ※解脱:解放され脱すること。 ※離貪:貪りから離れること。 7比丘たちよ、では、離貪の理由は何でしょうか? それは「厭離※である」と言わねばなりません。比丘たちよ、厭離を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 8比丘たちよ、厭離に対しては何が理由なのでしょうか? それに対しては、「如実智見※である」と言わねばなりません。比丘たちよ、如実智見を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 9比丘たちよ、如実智見に対しては何が理由となるのでしょうか? それに対しては「三昧※である」と言わねばなりません。比丘たちよ、三昧を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 ※厭離:厭い離れること。 ※如実智見:あるがままに見たり知ったりすること。 ※三昧(サマーディ):心が一つのものに集中している状態。 10比丘たちよ、三昧に対しては何が理由となるのでしょうか。 比丘たちよ、それに対しては、「楽である」と言わねばなりません。比丘たちよ、楽を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく言うのではありません。 11では、比丘たちよ、楽に対しては何が理由となるのでしょうか? 比丘たちよ、それに対しては「軽安(きょうあん)※である」と言わねばなりません。比丘たちよ、軽安を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 ※軽安:身心が軽く安らかになること。 12では、比丘たちよ、軽安に対しては何が理由となるのでしょうか? それに対しては、「(心の)喜びである」と言わねばなりません。比丘たちよ、(心の)喜びを、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく言うのではありません。 13比丘たちよ、(心の)喜びに対しては、何が理由となるのでしょうか? 比丘たちよ、「(身体的)喜悦である」と言わねばなりません。比丘たちよ、(身体的な)喜悦を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 14比丘たちよ、それでは(身体的)喜悦に対する理由は何でしょうか? それに対しては「信である」と言わねばなりません。比丘たちよ、信を、私は理由のあることだと語るのであって理由なく語るのではありません。 15 比丘たちよ、信に対する理由は何でしょうか? それに対しては、「苦である」と言わねばなりません。比丘たちよ、苦を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 16比丘たちよ、苦に対する理由は何でしょうか?それに対しては、「生まれることである」と言わねばなりません。比丘たちよ、生まれることを理由のあることだとわたしは語るのであって、理由なく語るのではありません。 17比丘たちよ、生まれることに対しては何が理由となるのでしょうか? それに対しては「生存である」と言わねばなりません。比丘たちよ、生存を、私は理由のあることだと語るのであって理由なく語るのではありません。 18比丘たちよ、生存の理由は何でしょうか? 比丘たちよ、それに対しては、「取著である」と言わねばなりません。比丘たちよ、取著を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 19比丘たちよ、取著に対して何が理由となるのでしょうか? それに対しては「渇愛※である」と言わねばなりません。比丘たちよ、渇愛を、私は理由のあることだと語るのであって理由なく語るのではありません。 ※渇愛:強い貪り 20比丘たちよ、渇愛に対しては何が理由となるのでしょうか? それに対しては、「感受である」と言わねばなりません。 …21それに対しては、「触である」と言わねばなりません。 …22それに対しては、「六処である」と言わねばなりません。 …23それに対しては、「名色である」と言わねばなりません。 …24それに対しては、「識である」と言わねばなりません。 …25それに対しては、「形成作用(行)である」と言わねばなりません。比丘たちよ、形成作用を、私は理由のあることだと語るのであって、理由なく語るのではありません。 26比丘たちよ、諸行の理由は何でしょうか? それに対しては無明であると言わねばなりません。 以上のように、比丘たちよ、無明の理由(ウパニサー)は諸行であります。諸行の理由は識であります。識の理由は名称と色かたち(名色)です。名称と色かたちの理由は六処です。六処の理由は触です。触の理由は感受です。感受の理由は渇愛です。渇愛の理由は取著です。取著の理由は生存です。生存の理由は生まれることです。生まれることの理由は苦しみです。苦しみの理由は信です。信の理由は喜悦です。喜悦の理由は喜びです。喜びの理由は軽安です。軽安の理由は楽です。楽の理由は三昧です。三昧の理由は如実智見です。如実智見の理由は厭離です。厭離の理由は離貪です。離貪の理由は解脱です。解脱の理由は、滅尽においての知識であります。 27比丘たちよ、たとえば、山の頂上に雨が降りそそぎ、その水が低地へと流れ下り、渦巻きながら山の渓谷や谷川を潤し満たしていくでしょう。山の渓谷や谷川の水流は小さな池を満たすでしょう。小さな池を満たし、大きな池を満たし、小さな川を満たし大きな河を満たして行き、大きな河を満たして大海を満たして行くように、 28比丘たちよ、そのように、無明の理由は諸行であり、行の理由は名称と色かたち(名色)であり、名称と色かたちの理由は六処であり、六処の理由は触であり、触の理由は感受であり、感受の理由は渇愛であり、渇愛の理由は生存であり、生存の理由は生まれることであり、生まれることの理由は苦しみであります。 苦しみの理由は信であります。信の理由は(身体的)喜悦であります。喜悦の理由は(心の)喜びであります。喜びの理由は軽安であります。軽安の理由は楽であります。楽の理由は三昧であります。三昧の理由は如実智見であります。如実智見の理由は厭離であります。厭離の理由は離貪であります。離貪の理由は解脱であります。解脱の理由は滅尽における知識であります。 |