心にしみる原始仏典


『サンユッタ・ニカーヤ』56.11(PTS Text,SN.Vol.V,pp.420-424)
漢訳:雑阿含経 三七九 轉法輪經(『大正蔵』二、一〇三下〜一〇四上)

如来によって言われたこと 1

1. このように、わたしによって聞かれた。
あるとき、尊師は、バーラーナシーにある仙人の集まるところ(イシパタナ)の鹿の園(ミガダーヤ)に滞在していた。

2. そこで、尊師は五人の比丘たちに呼びかけた。
「比丘たちよ、これら二つの極端は、出家者が親しみ近づいてはならないものである。何が二つであるか。

【中道】
3. それは、愛欲において欲楽の生活に耽溺することであり、下劣で卑しく、凡夫に属するものであって、聖ならざるものであって、利益のないものである。
 そして(もう一つは)、苦行を実践することであり、苦しみであり、聖ならざるものであって、利益のないものである。
 比丘たちよ。これら二つの極端に近づくことなく、中道が如来によって悟られた。それは、目を開き、知をもたらし、寂静、証智、正覚、涅槃に導くのである。

4. 比丘たちよ、如来によって悟られた中道は、目を開き、知をもたらし、寂静、証智、正覚、涅槃を導くが、それはどのようなものか。これこそ、聖なる八つの道である。これは次のようなものである。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
 比丘たちよ。これが、如来によって悟られた中道であって、それは、目を開き、知をもたらし、寂静、証智、正覚、涅槃を導くのである。

※ 正見(正しい見解)、正思(正しい思考)、正語(正しいことば)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づき)、正定(正しい禅定)

【苦聖諦】
5. 比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみなる、聖なる真理である。  生も苦しみであり、老いも苦しみであり、病気も苦しみであり、死も苦しみである。愁・悲・苦・憂・悩も、苦しみである。
 怨憎のものに会いかかわるのは、苦しみである。愛するものとの別離は、苦しみである。求めたものが得られないのも、苦しみである。要するに、五取蘊(人間を構成する五つの集まり)は、苦しみである。

【集聖諦】
6. 比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみの原因なる、聖なる真理である。
 再生をもたらし、喜びと貪りをともない、あちこちで歓喜に満たされる渇愛である。これは次のようなものである。欲の渇愛と有(生存)の渇愛と無有(生存のないこと)の渇愛である。

【滅聖諦】
7. 比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみの滅なる、聖なる真理である。
 その渇愛を残りなく離れ滅し、捨て、放棄して、解脱し、執着のないものとなることである。

【道聖諦】
8. 比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみの滅に向かう道なる、聖なる真理である。
 それは、じつに聖なる八つの道である。これは次のようなものである。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定※である。

9.<これ>は、苦しみなる、聖なる真理であると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみなる、聖なる真理は、証知すべきであると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみなる、聖なる真理は、証知されたと、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。

10. <これ>は、苦しみの原因なる、聖なる真理であると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦の原因なる、聖なる真理は、捨てるべきであると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみの原因なる、聖なる真理は、捨てられたと、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。

11. <これ>は、苦しみの滅なる、聖なる真理であると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみの滅なる、聖なる真理は、証明さるべきであると、比丘たちよ、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみの滅なる、聖なる真理は、証明されたと、比丘たちよ、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。

12. <これ>は、苦しみの滅に向かう道なる、聖なる真理であると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみの滅に向かう道なる、聖なる真理は、修習すべきであると、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。
 また、<これ>である、苦しみの滅に向かう道なる、聖なる真理は、修習されたと、比丘たちよ、わたしにとって、いまだかつて聞かれたことのなかった法において、眼が生じ、知が生じ、智慧が生じ、明智が生じ、光明が生じた。

13. 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように、三度転ずる十二相のもの※である、如実なる知見が、完全に清浄とならなかったあいだは、わたしは、比丘たちよ、神、悪魔、梵天を含む、沙門・バラモン、人と神とともなる世界において、無上の正等覚を悟ったと、公言することはなかった。
 
※ 9〜12の節でわかるように、苦・集・滅・道の聖諦が、それぞれ三つの展開で確認されるので、3×4=12となって、十二相のものと言われる。

14. 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように、三度転ずる十二相のものである、如実なる知見が、完全に清浄となってから、わたしは、比丘たちよ、神、悪魔、梵天を含む、沙門・バラモン、人と神とともなる世界において、無上の正等覚を悟ったと、公言したのである。
 じつに、わたしには、知と見とが生じた。すなわち、『堅固であるのは、わたしの心解脱である。これが、最後の生まれである。今や、ないのが再生である』と。

15. このように、尊師は語った。心かなった五人の比丘たちは、尊師の説いたことを大いに喜んだ。
 ところで、この解説が説かれているときに、コンダンニャ尊者に、塵を離れ垢を離れた法の眼が生じた。すなわち『およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質である』と。
 
16. じつに、このように、尊師によって法輪が転ぜられているとき(=法が説かれているとき)、地の神々は声をあげた。
 尊師によって、このような無上の法輪が、バーラーナシーにある仙人の集まるところ(イシパタナ)の鹿の園(ミガダーヤ)において、転ぜられた。それは、沙門にも、バラモンにも、神にも、悪魔にも、梵天にも、あるいは、世界にいるどんな者によっても、反対されることはないだろう。

17. 地の神々の声を聞いて、四大王の神々(四大王天)も声をあげた。
 尊師によって、このような無上の法輪が、バーラーナシーにある仙人の集まるところ(イシパタナ)の鹿の園(ミガダーヤ)において、転ぜられた。それは、沙門にも、バラモンにも、神にも、悪魔にも、梵天にも、あるいは、世界にいるどんな者によっても、反対されることはないだろう。

18. 四大王の神々の声を聞いて、三十三天の神々、夜摩天の神々、兜率天の神々、楽変化天の神々、他化自在天の神々、梵衆天の神々が、声をあげた。
 尊師によって、このような無上の法輪が、バーラーナシーにある仙人の集まるところ(イシパタナ)の鹿の園(ミガダーヤ)において、転ぜられた。それは、沙門によっても、バラモンによっても、神によっても、悪魔によっても、梵天によっても、あるいは、世界にいるどんな者によっても、反対されることはないだろう。

19. この刹那、この瞬間、このわずかの時間に、梵天界にいたるまで、声があがっていった。この一万の世界は震え、大きく震え、激しく震動した。無量の広大なる光明が顕れ、それは、神々の天の威力を超えでたのである。

20. さて、その時、尊師は、感興のことばを発した。
『了解したのは、じつに、友よ、コンダンニャだ。了解したのは、じつに、友よ、コンダンニャだ』と。
こうして、コンダンニャ尊者には、まさに『了解したコンダンニャ』という名前がつけられることになったのである。


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