「小空経」『マッジマ・ニカーヤ』第121経(PTS Text,MN.Vol.3,pp.104-109.) 漢訳:中阿含経、一九〇経(『大正蔵』一、七三六下〜七三八上)。 チベット訳もあり。北京版、九五六、第三八巻(p.272-1-2〜p.279-3-7)。 一部「無相心三昧」の個所で、ミスがあり訂正しました。(2012.11.08) このようにわたしによって聞かれた。あるとき、尊師は、サーヴァッティに滞在し、東園の鹿母堂(ろくもどう)に住していた。 さて、尊者アーナンダは、夕刻時に独坐の瞑想より立ち上がって、尊師のところに近づいた。近づいて、尊師に敬礼して一方に坐った。一方に坐して、アーナンダは、尊師にこのように言った。 「尊師よ、かのあるとき、尊師はシャカ族のところに住しておられました。都市は、すなわち、シャカ族の都城です。 尊師よ、そこで、(次のようなことが)わたしによって、尊師より、面前で聞かれ、面前で受け取られました。(つまり)『アーナンダよ、わたしは、今、空性の住処に多く住している』と。 これは、わたしによって、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意され、善く知られるものでしょうか?」 【森についての想い】 「たしかに、このことは、アーナンダよ、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意せられ、善く知られた。かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している。 あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、象や牛や馬や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、 そのように、実に、アーナンダよ、比丘は、村についての想いに集中することはなく、人についての想いに集中することなく、森についての想いによって独住に専念する。 かれの、森についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう(adhimuccati)。 かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、村についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、人についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あるのは、この森についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは、「空であるものは、この想いにあるものであって、(それは)村についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるのは、この想いにあるものであって、(それは、)人についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、森についての想いによる独住であって、それだけが、空でないものである」と(知る。) 以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【地についての想い】 さらに、また、アーナンダよ、比丘は、人についての想いに集中することなく、森についての想いに集中することなく、大地についての想いによって独住に専念する。かれの地についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 アーナンダよ、あたかも、牛の皮が百の棒でよく打たれてしわがなくなるように、そのように、実に、アーナンダよ、この大地について、高いところ低いところ、川の淵、切り株や刺の多い藪、山の崖である一切に専念することなく、地についての想いによる独住に専念する。かれの地についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれは、このように知る。 (すなわち、)あったのは、人についての想いによるもろもろの不安であるが、それらは、ここにはない。 あったのは、森についての想いによるもろもろの不安であるが、それらは、ここにはない。 あるのは、この、地についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、人についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、森についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、地についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【空無辺処についての想い】 さて、また、アーナンダよ、比丘は、森についての想いに集中することなく、地についての想いに集中することなく、空無辺処の想いによって独住に専念する。かれの、空無辺処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、森についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、地についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あるのは、この空無辺処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、森についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、地についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、空無辺処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【識無辺処についての想い】 さて、また、アーナンダよ、比丘は地についての想いに集中することなく、空無辺処についての想いに集中することなく、識無辺処についての想いによる独住に専念する。かれの、識無辺処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、地についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、空無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あるのは、この識無辺処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、地についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、空無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、識無辺処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【無所有処についての想い】 さて、また、アーナンダよ、比丘は空無辺処についての想いに集中することなく、識無辺処についての想いに集中することなく、無所有処についての想いによる独住に専念する。かれの、無所有処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、空無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、識無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あるのは、この無処有処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、空無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、識無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、無所有処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【非想非非想処についての想い】 さて、また、アーナンダよ、比丘は識無辺処についての想いに集中することなく、無所有処についての想いに集中することなく、非想非非想処についての想いによる独住に専念する。かれの、非想非非想処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれはこのように知る。 (すなわち)あったのは、識無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、無処有処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あるのは、この非想非非想処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、識無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、無所有処についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、非想非非想処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【無相心三昧】 さて、また、アーナンダよ、比丘は無所有処についての想いに集中することなく、非想非非想処についての想いに集中することなく、無相心三昧による独住に専念する。かれの、無相心三昧に向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれはこのように知る。 (すなわち)あったのは、無処有処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あったのは、非想非非想処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この身体だけによって六処をもつものであって、(それは)命あるものであることを縁とすることによっている、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、無所有処についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、非想非非想処についての想いに向かうもの「である」と知る。 「あるのは、この身体だけによって六処をもつものであって、(それは)命あるものであることを縁とすることによっている、これだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【命を縁として、身体によってのみ六処をもつ】(無作) さて、また、アーナンダよ、比丘は無所有処についての想いに集中することなく、非想非非想処についての想いに集中することなく、無相心三昧による独住に専念する。かれの、無相心三昧に向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれはこのように知る。 (すなわち)この無相心三昧は作られたものであり思念されたものである。何であれ作られたものであり思念されたものは、無常であり滅する性質のものであると知る。 かれは、このように知って、このように見て、欲の煩悩から心が解脱し、生存の煩悩から心が解脱し、無明の煩悩から心が解脱する。解脱したものについて、解脱したという知がある。滅尽したのは生まれることである。完成したのは、清浄行である。為したものは、為すべきことである。ふたたび、この状態(この世)に戻ることはない、と知る。 かれはこのように知る。 (すなわち)あったのは、欲の煩悩によるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、生存の煩悩によるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あったのは、無明の煩悩によるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。 あるのは、この身体だけによって六処をもつものであって、(それは)命あるものであることを縁とすることによっている、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、欲の煩悩としてあるものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、生存の煩悩としてあるものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、無明の煩悩としてあるものである」と知る。 「あるのは、この身体だけによって六処をもつものであって、(それは)命あるものであることを縁とすることによっている、これだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。 このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【清浄であり最高にして無上な空性】 アーナンダよ、過去の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していた沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住していたのである。 アーナンダよ、未来の時において、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているだろう。 アーナンダよ、今現在、清浄であって最高にして無上な空性に達して住している沙門やバラモンたちは、みなすべて、まさしく、清浄であって最高にして無上な空性に達して住しているのである。 それ故に、アーナンダよ、ここにおいて「清浄であって最高にして無上な空性に達して、わたしは住しよう」と、このように、アーナンダよ、学習すべきである。 このことを語ったのが、尊師であった。心かなえる尊者アーナンダは、尊師によって語られたことを大いに喜んだ。 マニカナ・ホームページ |