『サンユッタ・ニカーヤ』SN12-63.(PTS Text,U.pp.97-100)
63.子の肉 1.このように、わたしによって聞かれた。 あるとき、尊師は、サーヴァッティのジェータ林である給孤独長者の園に滞在していた。 2.比丘たちよ、四つの食べ物が、生類にとって、あるいは、衆生にとって、住いし、資益し、生きるために求めるものである。 3.何が四つなのか。丸めた食べ物※であるあらい食べ物と細かい食べ物が、第一である。接触が、第二番目である。意思が、第三番目である。識別作用が、第四番目である。 比丘たちよ、これら四つの食べ物が、生類にとって、あるいは、衆生にとって、住いし、資益し、生きるために求めるものである。 ※ 丸めた食べ物(段食)とは、肉体を養う実際の食べ物のことである。 【丸めた食べ物】 4.では、比丘たちよ、丸めた食べ物は、どのように見るべきだろうか。 5.比丘たちよ、たとえば、夫婦二人が、わずかの食糧をたずさえて、曠野の道を出かけるとしよう。かれらには、可愛い子供が一人いる。 6.さて、比丘たちよ、曠野を行くかれら夫婦二人には、わずかの食糧しかなかったので、それらがすっかり尽きてなくなったまま、行かねばならないだろう。かれらには、曠野の残りを越えていくことはできないだろう。 7.さて、比丘たちよ、かれら夫婦二人には、このような(思い)があるだろう。 「わたしたちにあるわずかな食糧は、すっかり尽きてなくなってしまった。この曠野の残りを越えていくことはできない。わたしたちは、この可愛い一人息子殺して、乾し肉と胡椒をまぶした肉である子の肉を作って、それを食べるほかには、曠野の残りを渡ることはできないだろう。三人ともみな死んではならない。」 8.さて、かれら夫婦二人は、この可愛い一人息子を殺して、乾し肉と胡椒をまぶした肉である子の肉を作って、これを食べて、曠野の残りを越え渡るだろう。かれらは、子の肉をすっかり食べて、そして、胸を打ってたたいて(嘆く)だろう。「一人息子はどこだ、一人息子はどこだ」と。 9.比丘たちよ、このことをどう思うだろうか。かれらはたんに戯れのために食べ物を食べるのであろうか。それとも、嗜好のために食べ物を食べるのであろうか、それとも、愛着のために食べ物を食べるのであろうか、それとも、容色のために食べ物を食べるのだろうか。 そうではありません。尊師よ。 10.比丘たちよ、かれらは、ただひたすら曠野を越え渡るために、食べ物を食べるのであろう。 そうであります。尊師よ。 11.比丘たちよ、わたしは、まさしく、このように丸めた食べ物は見るべきである、というのである。 比丘たちよ、丸めた食べ物が、あまねく知られるとき、五種の欲※を特徴とする貪欲があまねく知られるのである。五種の欲を特徴とする貪欲があまねく知られるとき、結縛に結びつけられて聖なる弟子がこの世に再びもどってくるような、そのような結縛は、もはやない。 ※ 五種の欲とは、色・声・香・味・触に対する欲のことである。 【接触という食べ物】 12.では、比丘たちよ、接触という食べ物は、どのように見るべきだろうか。 13.比丘たちよ、たとえば、皮のむけてはがれた牡牛が、塀に寄りかかって立っているとしよう。そうすると、塀ににいる虫たちが、この牛を喰らうだろう。また、木に寄りかかって立っているとしよう。そうすると、木にいる虫たちが、この牛を喰らうだろう。また、水の中に入って立っているとしよう。そうすると、水の中にいる虫たちが、この牛を喰らうだろう。また、大気の中で立っているとしよう。そうすると、大気にいる虫たちが、この牛を喰らうだろう。比丘たちよ、皮のむけてはがれた牡牛が、寄りかかって立っているところはどこでも、そこにいる虫たちが、その牛を喰らうだろう。 比丘たちよ、わたしは、まさしく、このように接触という食べ物を見るべきである、というのである。 14.比丘たちよ、接触という食べ物が、あまねく知られるとき、三種の感受※があまねく知られるのである。三種の感受があまねく知られるとき、聖なる弟子にとって、さらになすべきことは何もないと、わたしはいうのである。 ※ 三種の感受とは、楽・苦・どちらでもない、という三種を指す。 【意思という食べ物】 15.では、比丘たちよ、意思という食べ物は、どのように見るべきだろうか。 16.比丘たちよ、たとえば、人間の背丈を超える深さの火坑があって、中では、煙も出さず炎をも出さずに燃える炭火に満たされているとしよう。さて、ある男が連れてこられたとしよう。かれは、生きたいと望み、死にたくないと望み、楽になることを望み、苦しみから逃れようとしている。二人の屈強の男が、それぞれこの男の腕をとって、かれを火坑の方に引いていくとしよう。さて、比丘たちよ、この男にとって、かれの思いは遠ざかり、希望も遠ざかり、願望も遠ざかる。 17.これは、どうしてだろうか。比丘たちよ、なぜなら、この男には、このような思いがあるからである。 「わたしは、この火坑に落ちるだろう。これによって、死に至るか、さもなくば、死の苦しみを味わうだろう。」 比丘たちよ、わたしは、まさしく、このように意思という食べ物を見るべきである、というのである。 18.比丘たちよ、意思という食べ物が、あまねく知られるとき、三種の渇愛※があまねく知られるのである。三種の渇愛があまねく知られるとき、聖なる弟子にとって、さらになすべきことは何もないと、わたしはいうのである。 ※ 三種の渇愛は、欲愛(五種の感覚的な欲望)・有愛(生存に対する欲望)・無有愛(生存したくないという欲望)である。 【識別作用という食べ物】 19.では、比丘たちよ、識別作用という食べ物は、どのように見るべきだろうか。 20.比丘たちよ、たとえば、悪事をなした盗賊を捕らえて、王のもとに引きだすとしよう。「陛下、この男が、悪事をはたらいた盗賊でございます。この者に、お望みの処罰をお与えください」と。 そこで、王は、このように言うだろう。 「よろしい、この男を連れて行け。午前中に、百槍、打て。」 かれらは、この男を、午前中に百槍、打つだろう。 21.さて、王は、日中になって、このように言うだろう。 「おい、あの男はどうなったのか。」 「陛下、このとおり、生きております。」 そこで、王は、このように言うだろう。 「よろしい、この男を連れて行け。日中に、百槍、打て。」 かれらは、この男を、日中に百槍、打つだろう。 22.さて、王は、夕方になって、このように言うだろう。 「おい、あの男はどうなったのか。」 「陛下、このとおり、生きております。」 そこで、王は、このように言うだろう。 「よろしい、この男を連れて行け。夕方に、百槍、打て。」 かれらは、この男を、夕方に百槍、打つだろう。 23.これをどう思うか、比丘たちよ。この男は、一日で、三度にわたり、百槍打たれている。それによって、苦しみや憂いを経験するだろうか。 尊師よ、わずか一槍でも打たれるならば、それによって、かれは、苦しみや憂いを経験するでしょう。三度も、百槍、打たれるならば、言うまでもありません。 24.比丘たちよ、わたしは、まさしく、このように識別作用という食べ物を見るべきである、というのである。 25.比丘たちよ、識別作用という食べ物が、あまねく知られるとき、名称と色形があまねく知られるのである。名称と色形があまねく知られるとき、聖なる弟子にとって、さらになすべきことは何もないと、わたしはいうのである。 |