心にしみる原始仏典


「鋸喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第21経(PTS Text,MN.Vol.1,pp.122-129.)
漢訳:「中阿含」一九三経「牟犁破群那経第二」(『大正蔵』一、七四四上〜七四六中)


鋸の喩え

このようにわたしは聞きました。―― 
あるとき、尊師はサーヴァッティーのジェータ太子の林にある給孤独長者の園林に滞在していました。その時、尊者モーリヤ・パッグナは比丘尼たちと長時に渡り親密に交際してすごしていました。
このようにしてモーリヤ・パッグナは比丘尼たちと親密に交際していました。――すなわち、例えば、もし誰か比丘が、尊者モーリヤ・パッグナの前で、彼女たち比丘尼を誹謗すると、尊者モーリヤ・パッグナは怒って不快になり、言い争いさえしました。また、もし誰か比丘が、彼女たち比丘尼の前で尊者モーリヤ・パッグナを誹謗すると、彼女ら比丘尼たちは怒って不快になり言い争いさえしました。このように、モーリヤ・パッグナは比丘尼たちと親密に交際してすごしていたのです。

【尊者モーリヤ・パッグナ】
さて、或る比丘が尊師のところに赴きました。行って尊師に敬礼してから、一方の隅に坐りました。一方の隅に坐った比丘は、尊師に次のように言いました。―― 
「尊師よ、尊者モーリヤ・パッグナは比丘尼たちと長時に渡り親密に交際してすごしています。尊師よ、次のように、尊者モーリヤ・パッグナは、比丘尼たちと親密に交際してすごしているのです。―― 即ち、もし誰か比丘が尊者モーリヤ・パッグナの前で彼女ら比丘尼たちを誹謗すると、尊者モーリヤ・パッグナは怒って不快さを示し言い争いさえするのです。また、もし或る比丘が彼女たち比丘尼の前でモーリヤ・パッグナを誹謗すると、彼女ら比丘尼たちは怒って不快さを示し言い争いさえするのです。このように、尊師よ、尊者モーリヤ・パッグナは比丘尼たちと親密に交際してすごしています」と。
 そこで、尊師は、或る比丘にこう言いました。――
「比丘よ、行って、わたしのことばを比丘モーリヤ・パッグナに告げなさい。――『友モーリヤ・パッグナよ、師があなたを呼んでいます』と」
「かしこまりました、尊師よ」
 その比丘は尊師に同意して、尊者モーリヤ・パッグナのところに行きました。行って、尊者モーリヤ・パッグナに次のように言いました。――
「友、モーリヤ・パッグナよ、師があなたを呼んでいます」
「わかりました、友よ」と、尊者モーリヤ・パッグナは、その比丘に同意して、尊師のところに行きました。行って、尊師に敬礼して一方の隅に坐りました。一方の隅に坐ったモーリヤ・パッグナに、尊師はこのように言いました。――
「パッグナよ、おまえは、比丘尼らと長時にわたり親密に交際して過ごしているというのは、本当か? 次のように、パッグナよ、おまえは比丘尼たちと親密に交際してすごしているというのは。―― すなわち、もし誰か比丘が尊者モーリヤ・パッグナの前で彼女ら比丘尼たちを誹謗すると、尊者モーリヤ・パッグナは怒って不快さを示し言い争いさえするというのは。また、もし或る比丘が彼女たち比丘尼の前でモーリヤ・パッグナを誹謗すると、彼女ら比丘尼たちは怒って不快さを示し言い争いさえするというのは。このように、パッグナよ、おまえは比丘尼たちと親密に交際してすごしているのか?」
「そのとおりです、尊師よ」
「では、パッグナよ、おまえは良家の子として、信によって家から出て家なき者となって出家したのではないのか」
「そのとおりです、尊師よ」
「パッグナよ、おまえが、このように、良家の子として信によって家から出て家なき者である出家者になったのであれば、おまえが比丘尼たちと長時にわたり親しく交際して過ごすのは適切ではない。それだから、パッグナよ、誰かがおまえの前で彼女たち比丘尼を誹謗するとしても、パッグナよ、在家の欲望や在家の想いのようなものを捨てねばならない。そこで、おまえは次のように学ばねばならない。――
『わたしの心を決して変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐憫の心をもって、慈しみの心を持って暮らそう。怒りの心をもたずにいよう』と。パッグナよ、おまえはこのように学ばねばならない。
それだから、パッグナよ、ここで、たとえ誰かが、おまえの前で、彼女たち比丘尼を手で打ったり、土塊で打ったり、棒で打ったり、刀剣で打ったりしても、パッグナよ、在家の欲や在家の想いは捨てるべきである。そこでは次のように学ばねばならない。『わたしは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう』と。パッグナよ、おまえはこのように学ぶべきである。
それだから、パッグナよ、ここで誰かが、おまえの面前で(おまえを)誹謗したとしても、パッグナよ、おまえは在家の欲や在家の想いのようなものは捨てねばならない。パッグナよ、そうであっても、このように学ばねばならない。『わたしは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう』と。パッグナよ、実に、おまえはこのように学ばねばならない。
それだから、パッグナよ、ここで誰かがおまえを手で打ったり、土塊で打ったり、棒で打ったり、刀剣で打ったりしても、パッグナよ、在家の欲や在家の想いは捨てるべきである。そこでは次のように学ばねばならない。『わたしは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう』と。パッグナよ、おまえはこのように学ぶべきである。

【比丘たちへの教化】
さて、尊師は比丘たちに呼びかけました。――
「比丘たちよ、比丘たちがあるとき、わたしと心を通わせたことがあった。そこで、わたしは比丘たちに語りかけた。『比丘たちよ、わたしは一座の食を享受している(一日一食ですませている)。一座の食を食べているわたしは、病がなく、患いがなく、起居が軽やかで、力があり、安楽にすごしていると感じている。そこで、比丘たちよ、おまえたちもまた、一座の食を取りなさい。比丘たちよ、おまえたちも一座の食をとっているなら、病がなく、患いが少なく、起居が軽快で、力があり、安楽に過ごせると感じることだろう』と。
比丘たちよ、わたしには、かれら比丘たちに教誡をなす必要はなかった。(そうしようと)念を起こすだけで、かれら比丘たちには(そのように)伝わった。
比丘たちよ、たとえば、平らな大地の大きな道の四つ角に、駿馬のひく車があって、馬がつながれ、笞は下ろされていたとしよう。熟練した御者が手綱さばきも巧みにその馬車に乗り込んで、左手に手綱を取って、右手には笞を取り、望む処に望むように行ったり戻ったりするように、そのように、比丘たちよ、かれら比丘たちには、わたしは教誡をなす必要がなかった。ただ、わたしが(そうしようという)念を起こすだけで、比丘たちよ、かれら比丘たちには伝わった。それ故に、ここにおいて、比丘たちよ、おまえたちもまた、善くないことを捨てなさい。善い法において精進しなさい。そうすれば、おまえたちもまた、この法と律において、増大していき、増広していき、広大となっていくだろう。
比丘たちよ、たとえば、村や町から遠くないところに大きなサーラ樹の林があってそこはエーランダ樹で覆われていたとしよう。或る人が現れて、利を得よう益を得よう、(綺麗にして)安らぎを得ようと、彼は、サーラ樹の若芽で、曲がっていて、栄養が行きわたりそうにないものを切断して外に運び出し、林の中を綺麗にして整えたとしよう。そして、サーラ樹の若芽で、真っ直ぐによく生じたものを完璧に世話をしたとしよう。こうすれば、比丘たちよ、サーラ樹の林は、後に増えて行き広がっていき広大になっていくだろう。同じように、おまえたちも、この法と律とにおいて、増大して行き、増広して行き、広大になっていくだろう。


【女主人ヴェーデーヒカー】
比丘たちよ、昔、このサーヴァッティーに、ヴェーデーヒカーという名前の女主人がいた。比丘たちよ、ヴェーデーヒカーという女主人は、次のような善い称賛の声が挙がっていた。――
「柔和であるのが、ヴェーデーヒカーという女主人である。謙虚であるのがヴェーデーヒカーという女主人である。物静かであるのが、ヴェーデーヒカーという女主人である」と。比丘たちよ、ヴェーデーヒカーという女主人には、カーリーという名の女奴隷がいた。彼女は、有能で怠惰なところがなく仕事をてきぱきこなしていた。
さて、比丘たちよ、カーリーという女奴隷は、このように思った。――
「わたしのご主人さまには、このような善い称賛の声が挙がっている。すなわち『柔和であるのが、ヴェーデーヒカーという女主人である。謙虚であるのがヴェーデーヒカーという女主人である。物静かであるのが、ヴェーデーヒカーという女主人である』と。一体わたしのご主人さまはほんとうに物静かなのだろうか。だから、内にある怒りが現れないのだろうか、それとも、物静かではないけれど、ただわたしは仕事ぶりがてきぱきしているため、わたしのご主人さまは物静かで、内にある怒りが現れることがないだけなのだろうか、本当は物静かではないのではないだろうか? わたしは、ご主人さまを調べてみましょう』と。
そこで、比丘たちよ、奴隷女カーリーは日中に起きた。すると、比丘たちよ、女主人ヴェーデーヒカーは奴隷女カーリーにこう言った。――
「おやまあ、カーリー」
「何でしょう、ご主人さま」
「どうして日中に起きたのですか」
「とくに何もありません」
「何もないですって、悪い奴隷女だわ、日中に起きたのに」
と、怒って喜ばず渋面を作った。
そこで、比丘たちよ、奴隷女カーリーにはこのような想いがあった。――
『わたしのご主人さまが物静かなのは、内にある怒りを表さないからであって、真実には物静かなのではない。わたしの仕事ぶりがてきぱきしているのでそれで、わたしのご主人さまは物静かであるにすぎない。内にある怒りを表さないだけで、真実に物静かなのではない。さらにいっそうご主人さまを調べてみましょう』と。
そこで、比丘たちよ、奴隷女のカーリーは、さらに日中遅くに起きた。そこで女主人ヴェーデーヒカーは奴隷女カーリーにこう言った。――
「おやまあ、カーリー」
「何でしょう、ご主人さま」
「どうして日中もっと遅くに起きたのですか」
「とくに何もありません、ご主人さま」
「何もないですって、悪い奴隷女だわ、日中もっと遅くに起きたのに」と、
その時、比丘たちよ、カーリーという奴隷女にはこのような想いがあった。―― 
『わたしのご主人さまが物静かなのは、内にある怒りを表さないからであって、真実には物静かなのではない。わたしの仕事ぶりがてきぱきしているのでそれで、わたしのご主人さまは物静かにすぎない。内にある怒りを表さないだけで、真実に物静かなのではない。さらにいっそうご主人さまを調べてみましょう』と。
そこで、比丘たちよ、奴隷女カーリーは日中さらに遅くに起きた。すると、比丘たちよ、ヴェーデーヒカーという女主人は、このように言った。
「あらまあ、カーリー」
「何でしょう、ご主人さま」
「なぜ日中に起きたの?」
「とくに何もありません」
「何もないですって、悪い奴隷女ね、日中に起きたなんて」
と怒って喜ばず、閂のくさびを取って頭頂部に打撃を与え、頭が裂けた。そこで、比丘たちよ、奴隷女カーリーは、裂けた頭から血を流しながら近隣に恨み言を言った。――
「見てください、柔和な人のしたことを。見てください、謙虚な人のしたことを。見てください、物静かな人のしたことを! どうして、一人の奴隷女が日中に起きたと怒り喜ばず、閂のくさびを取って、頭に打撃を与えて、頭が裂けるようなことをするのでしょうか」と。 比丘たちよ、それから、ヴェーデーヒカーという女主人には、それ以後次のような悪い評判が起こった。――
「暴悪なのがヴェーデーヒカーという女主人である。謙虚でないのがヴェーデーヒカーという女主人である。物静かでないのがヴェーデーヒカーという女主人である」と。
全く同様に、比丘たちよ、ここにいるある比丘たちは意に沿わない言い方に触れない間は柔和な上にも柔和であり、謙虚な上にも謙虚で、物静かな上にも物静かである。

比丘たちよ、意に沿わない言い方に触れてからはじめて、比丘は『柔和である』と知らねばならない。『謙虚である』と知らねばならない。『物静かである』と知らねばならない。 わたしは、比丘たちよ、衣や食べ物や臥坐具や病人のための医薬品のために、善いことばを語り善いことばを語るものとなる比丘を、『善いことばを語る者』とは言わない。それはどうしてなのか?
なぜなら、比丘たちよ、かの比丘は、衣や食べ物や臥坐具や病人のための医薬品を得られないならば、善いことばを語るものではないし、善いことばを語るものとなることもないからである。比丘たちよ、比丘が法を敬い、法を重んじ、法を尊敬して、法を供養し、法を尊重しているならば、善いことばを語るものであり、善いことばを語るものとなる。そこで、わたしはかれを『善いことばを語るもの』と言うのである。
それ故に、比丘たちよ、『法を敬い、法を重んじ、法を尊敬し、法を供養し、法を尊重しているものは、善いことばを語るものであると語るだろうし、善いことばを語るものになるだろう』、と。このように、比丘たちよ、おまえたちは学ばねばならない。
比丘たちよ、他の者たちがおまえたちに語っている語りの方法は五つであると言おう。――
(1)時にしたがっているか時にしたがっていないか、(2)真実であるか真実でないか、(3)柔和か粗暴か、(4)利益を伴うか伴わないか、(5)慈しみの心によるか怒りの心によるか、である。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき、時にしたがって語るだろう、あるいは時にしたがわずに語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき真実によって語るだろう、あるいは真実でないものによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき柔和に語るだろう、あるいは乱暴に語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき利益を伴うことによって語るだろう、あるいは利益を伴わないことによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき慈しみの心によって語るだろう、あるいは怒りの心によって語るだろう。比丘たちよ、そこで、おまえたちはこのように学ぶべきである。――
『私たちは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう。そして、その人を慈しみを伴う心で満たして暮らそう。一切をもつその対象世界を慈しみの心によって広げ、大いなるものとし、無量となして、怒りなく悩害の心なく広げて暮らそう』、と。比丘たちよ、このように学ばねばならない。

比丘たちよ、人が鋤とかごをもってやってきて、このように言うとしよう。――
『わたしは、この大地を大地でなくしてしまおう』と。そこで、彼は、そこここを掘り返し、そこここに(土を)まき散らし、そこここに唾を吐いて、そこここに放尿したとしよう。――
『おまえは大地ではない、おまえは大地ではない』と。
おまえたちはこれをどう思うだろうか、比丘たちよ、その人は大地を大地でないものとするだろうか」
「いいえ、そうではありません、尊師よ」
「それはなぜだろうか」
「なぜなら、尊師よ、大地は深くて量ることができないからです。それを大地でなくすることは容易ではありません。その人はただ疲労困憊してしまうだけでしょう」
「このように、比丘たちよ、他の者たちが語っている際には五つの語り方で言うことだろう。―― 
(1)時にしたがっているか時にしたがっていないか、(2)真実であるか真実でないか、(3)柔和か粗暴か、(4)利益を伴うか伴わないか、(5)慈しみの心によるか怒りの心によるか、である。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき、時にしたがって語るだろう、あるいは時にしたがわずに語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき真実によって語るだろう、あるいは真実でないものによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき柔和に語るだろう、あるいは乱暴に語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき利益を伴うことによって語るだろう、あるいは利益を伴わないことによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき慈しみの心によって語るだろう、あるいは怒りの心によって語るだろう。比丘たちよ、そこで、おまえたちはこのように学ぶべきである。――
『私たちは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう。そして、その人を慈しみを伴う心で満たして暮らそう。一切をもつその対象世界を慈しみの心によって広げ、大いなるものとし、無量となして、怒りなく悩害の心なく広げて暮らそう』、と。比丘たちよ、このように学ばねばならない。

例えば、比丘たちよ、或る人が黄色や青や赤の染料を取って、このように言うとしよう。――
「わたしはこの虚空に色を描こう、色を明らかに表そう」と。
比丘たちよ、おまえたちはこれをどう思うだろうか、その人はこの虚空に色を描いて、色を明らかにすることができるだろうか?」
「いいえ、それはできません。尊師よ」
「それはどうしてか」
「尊師よ、なぜなら、虚空は、形をもたないものであって、見ることのできないものだからです。そこでは色を描くこと、色を明らかに示すことは容易ではありません。それまでに、その人は疲労困憊してしまうでしょう」と。
「比丘たちよ、他の者たちがおまえたちに語っている語りの方法は五つであると言おう。――
(1)時にしたがっているか時にしたがっていないか、(2)真実であるか真実でないか、(3)柔和か粗暴か、(4)利益を伴うか伴わないか、(5)慈しみの心によるか怒りの心によるか、である。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき、時にしたがって語るだろう、あるいは時にしたがわずに語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき真実によって語るだろう、あるいは真実でないものによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき柔和に語るだろう、あるいは乱暴に語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき利益を伴うことによって語るだろう、あるいは利益を伴わないことによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき慈しみの心によって語るだろう、あるいは怒りの心によって語るだろう。比丘たちよ、そこで、おまえたちはこのように学ぶべきである。――
『私たちは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう。そして、その人を慈しみを伴う心で満たして暮らそう。一切をもつその対象世界を慈しみの心によって広げ、大いなるものとし、無量となして、怒りなく悩害の心なく広げて暮らそう』、と。比丘たちよ、このように学ばねばならない。

たとえば、比丘たちよ、人が燃えた草のたいまつをもってやってきて、このように言うとしよう――
『わたしはこの燃えた草のたいまつでガンジス河を燃やして善く熱してしまおう』と。
比丘たちよ、あなた方はどう思うか。その人はこの燃えた草のたいまつでガンジス河を燃やして善く熱してしまえるだろうか?」
「いいえ、尊師よ」
「それはどうしてか」
「なぜなら、ガンジス河は深くて無量だからです。それを燃えた草のたいまつで焼いて善く熱することは容易なことではありません。それまでに、その人は、疲労困憊してしまうでしょう」
「比丘たちよ、他の者たちがおまえたちに語っている語りの方法は五つであると言おう。――
(1)時にしたがっているか時にしたがっていないか、(2)真実であるか真実でないか、(3)柔和か粗暴か、(4)利益を伴うか伴わないか、(5)慈しみの心によるか怒りの心によるか、である。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき、時にしたがって語るだろう、あるいは時にしたがわずに語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき真実によって語るだろう、あるいは真実でないものによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき柔和に語るだろう、あるいは乱暴に語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき利益を伴うことによって語るだろう、あるいは利益を伴わないことによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき慈しみの心によって語るだろう、あるいは怒りの心によって語るだろう。比丘たちよ、そこで、おまえたちはこのように学ぶべきである。――
『私たちは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう。そして、その人を慈しみを伴う心で満たして暮らそう。一切をもつその対象世界を慈しみの心によって広げ、大いなるものとし、無量となして、怒りなく悩害の心なく広げて暮らそう』、と。比丘たちよ、このように学ばねばならない。

例えば、比丘たちよ、猫皮のふいごがあって、(それは)よく打たれよくもまれ十分になめされて、やわらかい綿のようで、サラサラという音もせず、バラバラという音もしないとしよう。
そこで人が木切れや小石をもってきて、こう言うとしよう。―― 
『わたしは、この猫皮のふいごを、(それは)よく打たれよくもまれ十分になめされて、やわらかく綿のようでサラサラという音もせず、バラバラという音もしないが、木切れや小石で(打って)サラサラという音を立てよう、バラバラという音を立てよう』と。
これをどう思うか、比丘たちよ、その人は、この猫皮のふいごを、(それは)よく打たれよくもまれ十分になめされて、やわらかく綿のようで、サラサラという音もせず、バラバラという音もしないが、(それを)木切れや小石で、サラサラという音を立てたりバラバラという音を立てたりできるだろうか」
「いいえ、尊師よ」
「それはどうしてか」
「なぜなら、尊師よ、この猫皮のふいごは、よく打たれよくもまれ十分になめされて、やわらかく綿のようで、サラサラという音もせず、バラバラという音もしないからです。それを木切れや小石でサラサラという音を立てたりバラバラという音を立てたりするのは容易ではありません。それまでに、その人は疲労困憊してしまうでしょう」と。
「比丘たちよ、他の者たちがおまえたちに語っている語りの方法は五つであると言おう。――
(1)時にしたがっているか時にしたがっていないか、(2)真実であるか真実でないか、(3)柔和か粗暴か、(4)利益を伴うか伴わないか、(5)慈しみの心によるか怒りの心によるか、である。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき、時にしたがって語るだろう、あるいは時にしたがわずに語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき真実によって語るだろう、あるいは真実でないものによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき柔和に語るだろう、あるいは乱暴に語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき利益を伴うことによって語るだろう、あるいは利益を伴わないことによって語るだろう。比丘たちよ、他の者たちは語っているとき慈しみの心によって語るだろう、あるいは怒りの心によって語るだろう。比丘たちよ、そこで、おまえたちはこのように学ぶべきである。――
『私たちは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう。そして、その人を慈しみを伴う心で満たして暮らそう。一切をもつその対象世界を慈しみの心によって広げ、大いなるものとし、無量となして、怒りなく悩害の心なく広げて暮らそう』、と。比丘たちよ、このように学ばねばならない。」

【鋸の喩え】
「比丘たちよ、両方に持ち手のついた鋸で、偵察している盗賊が(あなたの)手足を切るとしても、そこで心に怒りを生ずる人は、わたしの教えを実践している者ではない。ここでも、比丘たちよ、おまえたちは次のように学ばねばならない。――
『私たちは心を変えないようにしよう。悪いことばを言わないようにしよう。(他の)ために憐れみの心をもって暮らそう。怒りの心でいないようにしよう。そして、その人を慈しみを伴う心で満たして暮らそう。一切をもつその対象世界を慈しみの心によって広げ、大いなるものとし、無量となして、怒りなく悩害の心なく広げて暮らそう』、と。比丘たちよ、このように学ばねばならない。
比丘たちよ、おまえたちは鋸の喩えの教えをつねに心にとどめていなさい。比丘たちよ、おまえたちは、細かなことでも大ざっぱなことでも、承認できないようなことばの使い方を見るだろうか」
「いいえ、尊師よ」
「それでは、ここで、比丘たちよ、この鋸の喩えをつねに心にとどめておきなさい。それは、長夜にわたり、おまえたちの利益と安楽をもたらすだろう」と。

尊師はこのように語りました。心かなえるかれら比丘たちは、尊師の説いたことを大いに喜びました。


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