『サンユッタ・ニカーヤ』1.1-1.4(PTS Text,I.pp.1-3) 第一篇 神相応 第一章 葦の章 1. 暴流 このようにわたしは聞きました。ある時、尊師は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ太子の林(祇陀林)にある給孤独長者の園林に滞在していました。 その時、或る神が、夜も更けた頃、容色うるわしく、ジェータ太子の林全体を輝かせながら尊師のもとに近づきました。尊師に近づいて、挨拶し、一方の隅に立ちました。一方の隅に立って、その神は、尊師に次のように言いました。 「わが友よ、どのようにして、暴流をわたったのですか」 「友よ、実に、わたしは、止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡ったのです」。 「わが友よ、では、どうして、止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡ったのですか」。 「友よ、わたしは立ち止まるとき、実際、沈みます。友よ、わたしが力を入れてもがくとき、実際、流されます」 「このように、友よ、わたしは、立ち止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を度ったのです」 「ついにわたしは見ます、般涅槃に至ったバラモンを。 立ち止まることなく、力を入れてもがくことなく、 世間の執着を超えわたったものを。」 このように、かの神は語りました。師は、承認しました。 そこで、かの神は、『師は、わたしを承認した』と、尊師に挨拶をして、右回りに回って、その場で消えました。 2. 解脱 サーヴァッティーでのことであります。 その時、或る神が、夜も更けた頃、容色うるわしく、ジェータ太子の林全体を輝かせながら尊師のもとに近づきました。尊師に近づいて、挨拶し、一方の隅に立ちました。一方の隅に立って、その神は、尊師に次のように言いました。 「わが友よ、あなたは、生き物たちが、解脱し、自由になり、遠離するものかどうか、知っていますか」 「友よ、わたしは、生き物たちが、解脱し、自由になり、遠離するものかどうか、知っています」 「友よ、では、あなたは、 どのようにして生き物たちが、解脱し、自由になり、遠離するのか、知っていますか」 「歓喜の生存が滅尽し、表象作用(想)と識別作用(識)とが尽きて、 感受が滅することにより、寂滅がある ― このように、友よ、わたしは、生き物たちが解脱し、自由になり、遠離することを知っています。」 3. 導かれるもの サーヴァッティーでのことであります。一方の隅に立った、かの神は、尊師のそばでこの詩を唱えました。 「導かれていくのは、命である。短いのは、寿命である。 老いに導かれていくものにないものは、救いの場である。 この、死へのおそれを観るならば、 諸々の福徳をなして、安楽をはこぶがよい。」 (尊師が語りました。) 「導かれていくのは、命である。短いのは、寿命である。 老いに導かれていくものにないものは、救いの場である。 この、死へのおそれを観るならば、 世間の財を捨て、寂静をねがうがよい。」 4. 過ぎていく 一方の隅に立ったかの神は、尊師のそばでこの詩を唱えました。 「過ぎていくのは、時である。渡りゆくのは夜々である。 青春の美徳は、しだいに失われていく。 この、死へのおそれを観るならば、 諸々の福徳をなして、安楽をねがうがよい。」 (尊師が語りました。) 「過ぎていくのは、時である。渡りゆくのは夜々である。 青春の美徳は、しだいに失われていく。 この、死へのおそれを観るならば、 世間の財を捨て、寂静をねがうがよい。」 |