心にしみる原始仏典


『サンユッタ・ニカーヤ』35-28(PTS Text,Vol.IV.pp.19-20)

燃えている

1.
あるとき、尊師は、ガヤーのガヤシーサ山(象頭山)に、比丘たち千人とともにいました。

2.
そこで、尊師は、比丘たちに呼びかけました。

比丘たちよ、一切は燃えている。比丘たちよ、一切は燃えているとは、何であろうか。

3.
比丘たちよ、眼は燃えている。諸々の色形(色)は燃えている。眼の識別作用(眼識)は燃えている。眼との接触(触)は燃えている。そして、この、眼との接触を縁として生ずる、感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それも、また、燃えている。
何によって燃えているのか。
貪欲の火によって、怒りの火によって、無痴の火によって燃えている。
生まれることにより、老いることにより、死ぬことにより、愁いにより、悲しみにより、苦しみにより、憂いにより、悩みにより燃えている、とわたしはいう。

4.
耳は燃えている。諸々の音声(声)は燃えている。音声の識別作用(耳識)は燃えている。耳との接触(触)は燃えている。そして、この、耳との接触を縁として生ずる、感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それも、また、燃えている。
何によって燃えているのか。
貪欲の火によって、怒りの火によって、無痴の火によって燃えている。
生まれることにより、老いることにより、死ぬことにより、愁いにより、悲しみにより、苦しみにより、憂いにより、悩みにより燃えている、とわたしはいう。

5.
鼻は燃えている。諸々の香(香)は燃えている。鼻の識別作用(鼻識)は燃えている。鼻との接触(触)は燃えている。そして、この、眼との接触を縁として生ずる、感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それも、また、燃えている。
何によって燃えているのか。
貪欲の火によって、怒りの火によって、無痴の火によって燃えている。
生まれることにより、老いることにより、死ぬことにより、愁いにより、悲しみにより、苦しみにより、憂いにより、悩みにより燃えている、とわたしはいう。

6.
舌は燃えている。諸々の味(味)は燃えている。舌の識別作用(舌識)は燃えている。舌との接触は燃えている。そして、この、舌との接触を縁として生ずる、感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それも、また、燃えている。
何によって燃えているのか。
貪欲の火によって、怒りの火によって、無痴の火によって燃えている。
生まれることにより、老いることにより、死ぬことにより、愁いにより、悲しみにより、苦しみにより、憂いにより、悩みにより燃えている、とわたしはいう。

7.
身体(身)は燃えている。諸々の触覚(触)は燃えている。身体の識別作用(身識)は燃えている。身体との接触は燃えている。そして、この、身体との接触を縁として生ずる、感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それも、また、燃えている。
何によって燃えているのか。
貪欲の火によって、怒りの火によって、無痴の火によって燃えている。 生まれることにより、老いることにより、死ぬことにより、愁いにより、悲しみにより、苦しみにより、憂いにより、悩みにより燃えている、とわたしはいう。

8.
心(意)は燃えている。諸々の思い(法)は燃えている。心の識別作用(意識)は燃えている。心との接触は燃えている。そして、この、心との接触を縁として生ずる、感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それも、また、燃えている。 何によって燃えているのか。
貪欲の火によって、怒りの火によって、無痴の火によって燃えている。
生まれることにより、老いることにより、死ぬことにより、愁いにより、悲しみにより、苦しみにより、憂いにより、悩みにより燃えている、とわたしはいう。

9.
比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる教えを聞いたものたち(声聞)は、眼においても厭離する。諸々の色形においても厭離する。眼の識別作用においても厭離する。眼との接触においても厭離する。この、眼との接触を縁として生ずる感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それにおいても、また、厭離する。
比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる教えを聞いたものたち(声聞)は、耳においても厭離する。…
比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる教えを聞いたものたち(声聞)は、鼻においても厭離する。…
比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる教えを聞いたものたち(声聞)は、舌においても厭離する。…
比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる教えを聞いたものたち(声聞)は、身体においても厭離する。…
比丘たちよ、このように見ている、聞いている聖なる教えを聞いたものたち(声聞)は、心においても厭離する。諸々の思い(法)においても厭離する。心の識別作用においても厭離する。心との接触においても厭離する。この、心との接触を縁として生ずる感受されたもの、即ち、楽であるか、苦であるか、楽でも苦でもないかのいずれかであるが、それにおいても、また、厭離する。厭離しているならば、欲を離れる。欲を離れたならば、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。
即ち、「滅尽したのは、生まれることである。完成したのは、清浄行である。為したのは,為すべきことがらであって、この後、このような(輪廻の)状態になることはない」と知るのである。

10.
このように、尊師は語りました。心かなえる比丘たちは、尊師の説いたことを、大いに喜びました。

11.
また、この解説が説かれているときに、この千人の比丘たちは執着がなくなり、煩悩から心が解脱しました。



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