
8月に入りましたね。息子がいなくなって3週間です。慣れてきたといえば言えるけど、あの喧噪を懐かしく思う日々があります。
龍樹は第24章まで行きました。残り三つの章だけになりました。ここから長いぞ、と自分に話しかけています。龍樹は、ブッダと向き合っていることがわかります。
わたしは龍樹と向き合いながら、龍樹が見つめるお釈迦さんを見つめています。
偉大な存在!全部一人で成し遂げた。それなのに、古道を行って、先人たちが住んでいたという古城を発見したと語るのだ。龍樹は、お釈迦さんの後をついて行って、つぶさに見届けた。お釈迦さんの経典から何からことごとく調べ尽くして、間違えた空を学んだアリッタ比丘のところまでやって来た。これが、第24章です。
偏見がない、っていかに大変なことかわかるだろうか。
わたしたちは、偏見のかけらだけで一生を終える存在なのです。世俗の習慣と偏見に彩られた世界に住んでいて、無明の中であえいでいる。
龍樹は、菩薩になった。初地の菩薩。歓喜地の菩薩です。でも、歓喜地でも、理論の最終段階にはいる菩薩なのです。そのことを、しっかり書けば、わたしの仕事は、済んだのかな。
なぜ初地なのか。。初地だけれど、理論の最終段階にはいるのか。。理論だけではなく、実践を伴うが故に、龍樹は初地の菩薩と言われるのです。
たくさんの菩薩たちがいる世界。世界の希望は、ここにだけある。たくさんの龍樹たちがこの世界から羽ばたいて、生き物たちを救うために活動していくのです。
ブッダが今はいなくても、菩薩たちがいるなら、そして三宝(仏法僧)を守っていけるなら、声聞、辟支仏、菩薩がいる世界に生きていける。。。まあ、人類が生き延びていける世界は、それしかないのかな、って思ってます。


コメント
> わたしたちは、偏見のかけらだけで一生を終える存在
“ わたしたち ” には “ あなたも入り わたしも入る ”
“ わたしも入り あなたも入る ”
(この並列の意味が分かるかな)
“ いつも 我 と ともにいる ブッダも入る”
わたしたち は 「 平等 」 という 「 永遠 」 に 生きているのです
偏見を持つ者は 偏見 を 決して離れない( しっかりと 握りしめる )
( 何故なら 離れる・しがみつく とは 「 縁起 」 なのだから )
「 縁起 」 を 知るまでは 偏見にまみれている
( 世俗の習慣と偏見に彩られた世界に住んでいて、無明の中であえいでいる )
ムコウ 岸 から 眺めているようで ソチラ岸 で あえいでいる
( 偏見に 彩られてはいない と 色眼鏡をかけているのを 忘れている )
言い方を変えると 「 色 」 を 正す 眼鏡 が
お凸の上にある のを 知ろうとしない
言い方を変えると
襟元に 縫い付けられた 宝珠 を 知ろうとはしない
> ******************
ブッダが今はいなくても、菩薩たちがいるなら、そして三宝(仏法僧)を守っていけるなら、声聞、辟支仏、菩薩がいる世界に生きていける。。
> ******************
ブッダ が いなければ
菩薩も三宝も この世に 存在する場( 「 住処 」 )がない
「 そこに 親鸞がいる 」 という 言葉 に 耳をふさぐ
( 白骨の湯 に 浸って その気分を満喫している )
それしかない と 思えば
思うところ には それしかない
ブッダ は いない と 思えば
“ いないところ に いる ” という いみを “ 知ろうとはしない ”
「 無量 」 という意味 を しらなければ 、、、、
( 知るまでは 「 量 」 の 世界で 「 量 」 を 比べる )
・
敵対する “ あなた ” と “ わたし ”
> 龍樹と向き合いながら、龍樹が見つめるお釈迦さんを見つめています
三角関係 かな ?
人 は 「 縁起 」 という “ 二つ の モノの見方 ” で
物事 に “対面” しています
今までに、 幾度となく 述べている
「 テキ 量 」 ( 商量 ではありません )
「 啻(啇) 」 と 同様(似通った)の “音” は
「的」 です 「 テキ 」 は 指摘 滴々 敵対 など
“向かい合った” その 対象 の 様を表します
( 決して 気に入ったものを “素敵” というのではない )
素ノママ に 向かい合っている モノ を 指す
ジャー(邪―) いったい 「素」 って どういう事だろうか ?
元素・原子 とは グリースでアトム といい それ以上分解できない 意
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90
二つの事 を 対面させているけれど
どのように 対面しているかが わかりますか ?
一面 とは 二面からなり 三面 とは 二面をみつめる“素” で起きる
“ソ” の モノ を 「祖」 と 呼び
過去の七仏 とは 「 祖仏 」 なのです
「七」 ではあるけれど 素である(ソレ以上分割できない)
「 仏 」 です ( モノ・物・者 の 祖の姿 )
二面 に 「敵面」 していますが、 「対面」のこと です
テキテキ(滴々) と 受け継がれている 「仏法」を 言っています
「 仏法 非遥 心中側近 」 の 「 中 」 「 中論頌 」 の “中”
最澄 への 尺牘( 「 風信帖 」 ) で 説かれている 「 法 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E4%BF%A1%E5%B8%96
「 一處 量 テキ 仏法 大事因縁 」 で 指し示している
「一処」・「素」 です 仏法にテキ面し その意味を 量する
空海 を 軽んじて いてはいけない ( 最澄に諭しているのです )
あなたが 空海よりも 重い “商量” を 持とうと
それ(商量は)は あくまでも あなたの“感想”に 過ぎない
( 「 法 」 ではなく 「 有 」 に過ぎない )
「 仏法 」 は 遥かにあるのではない けれど
「 心 中 」という意味は 「 即 近 」なのです
あなたが掴もうとしているのは あなたという塊 に 過ぎない
塊 は ( アトム ではなく ) 「 縁起 」 に 起きる
( 固まって 打ちこわし 難き 敵 たる 商量 )
ぎんた さん から チョーワカラン という お言葉を受ける
分かろうと マイト(MIGHT)
( あやふやなる )
此処・其処 に ある 「 仏法 」
あればよい のです
どのようにあるか を 「 商量 」 されようと
素 の 姿 は 「 法 」 として 確立している
七仏 と 現 仏 とが 歩んでいる道( 「 法 」 ソ の 姿 )
過去 という “モノ” は 未来において確立する
“ あなた ” と “ わたし ” の 未来を見つめる
「 止觀 妙門 」という “妙” な “門 ” の 下
「 頂戴供養 」 し 「 不知攸厝 」
・
「 花は愛惜に散り 草は棄嫌におふる の ミ なり 」 『 現成公案 』
( ミ・実 ナリ・成・現成 )
・
春間さまおひさ。
うちの庭は棄嫌におふる の ミ なり
なんかのミもなってる。スズランの赤い実がついてることもある。。
春間さまおはよう!
> あなたが掴もうとしているのは あなたという塊 に 過ぎない
縁起ですからね。 「あなたが掴もうとしているのは あなたという塊 に 過ぎない」ということばの縁起によって、わたしは春間さまのおもい(考え)を知ろうとする。
縁起というのは確かによい方式だと思います。必ず自分自身をさらすから。
> あなたが 空海よりも 重い “商量” を 持とうと
たとえば、こんな風に。。「おたがいさま」という空気をかならずだすのが「縁起」。
その縁起で勝負して、お釈迦さんに勝てる人はいない。
そう思う。
> ***********
> あなたが 空海よりも 重い “商量” を 持とうと
たとえば、こんな風に。。「おたがいさま」という空気をかならずだすのが「縁起」。
その縁起で勝負して、お釈迦さんに勝てる人はいない。
> ***********
空海 を (結果的に)軽んじていれば あなたの行為(思慮)は
( あなたにとっては )空海よりも重い
( わたしのこと を 言っているのではありません )
これは “おたがいさま” かな ?
わたしは 釈迦 に 挑むつもりもなく また 挑むことはしない
あなたが お互いさま
という空気 を 吸っているだけではありませんか ?
勝負しているかどうか は 「 縁起 」 に乗せるのは 適当ですか ?
> そう思う。
思おうと 言おうと それは 憲法上の自由にすぎない
「 自由 」 を 否定する自由 は 憲法上でも認められてはいない
あなたが行使している自由 が どんな自由 かは
あなたが決めることではなく 牟尼に属すること
ただし わたしについて あなたが下す判断 は 言論の自由です
これは “おたがいさま” かな ?
・
春間さま おはよう!
**********
> あなたが 空海よりも 重い “商量” を 持とうと
たとえば、こんな風に。。「おたがいさま」という空気をかならずだすのが「縁起」。
その縁起で勝負して、お釈迦さんに勝てる人はいない。
*************
これ!わたしが書いたのかあ。。わたしっぽくないなあ、って思ったのよ。引用も使ってるけどね。
たぶん、これが「縁起」だね。
わかる?
先に言われちゃったにゃ。
> ******************
最澄 への 尺牘( 「 風信帖 」 ) で 説かれている 「 法 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E4%BF%A1%E5%B8%96
「 一處 量 テキ 仏法 大事因縁 」 で 指し示している
「一処」・「素」 です 仏法にテキ面し その意味を 量する
空海 を 軽んじて いてはいけない ( 最澄に諭しているのです )
あなたが 空海よりも 重い “商量” を 持とうと
> ******************
ここが AI では 決して 解決できないところです
> あなたが 空海よりも 重い “商量” を 持とうと
この “ あなた ” とは AI です
AI は “商量” だけしかできない
決してできない ( いまのままでは 、、、、 )
ただし 「 誓願 」 が AIにできるのであれば
はなしは 別次元へと 飛び出す
「 仏道もとより豊倹より跳出せる 」
仏法 もとより 豊倹より 跳出せる
これが AI が ( もとより ) 読めないところです
・
みんな(神でほとけ)の偏見を持ち寄って、投げ合って、火花が散ったりして、
なにか、暗闇が明るく照らされたりするんにゃ~
だから偏見つよーーーーーっがいいんにゃ~
ぎんたさま おはよっ!
>だから偏見つよーーーーーっがいいんにゃ~
お!逆説的な答えですね。
だけどさ、そう言えるのは、ぎんたんが「暗闇だっ」ってわかってるからだと思うにゃーーーー
宮沢賢治の「貝の火」でも、みんな激しく美しく光る光に心奪われてたにゃ。。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1942_42611.html
先生~~これは読んだことなかったです!!なんで狐っていつもこーゆー役なんでしょうね。
まあ、みんな最終的には全役やるんですけど。(ホモイもむぐらも全部)
「暗闇」ていうのは、なんとなく出しましたが、(あ、世の中ヤバい)っていうのは、
2018(もしくは19)年に、サザンオールスターズの、
「闘う戦士(もの)たちへ愛を込めて」のMVを観て、
映画の主題歌って知らなかったから、闘う人への応援歌とは思えずに、なにかものすごく
世の中が荒廃しているという危機感を、強烈に持ちました。(よ~く見れば、ラスト
光に包まれてるけど)
あと、紅白で欅坂の人が倒れた、って時に、調べて「サイレントマジョリティ」って曲を
知って、大人(=真如苑の幹部連中)wに対して、ぎんたノーと言わなきゃみたいに
なりました。そっから、最新の曲をちょっと意識してチェックするようになったんです。
~~これは、独り言なので返信不要です~~
昔、なんか苑の行事?でモーニング娘の曲で踊る、とかなった時に、
「?それ、なんですか?」みたいな感じでしたw 同じ経の子が
「えーーーっと、アサヤンて番組がテレ東であってー、、、」てとこから
説明してくれました。
「そうなんだー」と言いましたが、世間の盛り上がり加減は想像できなかった。
その頃は中の人が、まさか猫だなんて、思ってもみなかった。今は、世間の空気感
みたいのは意識しているけれど、みんなの好みとかすごく細分化しているから、
なかなか難しい時代だにゃ。
今は、「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」を観ながら、この二人が贅沢に吸ってる
のを奪って、ヤニ子にあげたい!!(あああ、でもそしたらヤニ子の肺がぁ!!)
となってます。最新に追いついたんじゃね?(どやぁ)
でも、近頃はタバコ吸う、じゃなくて、ヤニ吸うと言うんだね?とかまだ古いようです。
あ、「ヤニねこ」の明朝体?の、明るいオレンジのタイトルを見ると、個人的に
「くるねこ」を連想してしまう。全然読者層被ってないけど。ヤニねこのほうは、
ちょっとヤニで煤けているんだね。
あと!!!!
ヤニねこのアニメ、脚本がしかのこの人って!!もうぎんた、感謝と信頼しかない。
ぎんたさま おはよ!
今頃おへんじかい、おせーよ、って言われちゃうかも。
さいきん、youtube見るようになって、「世の中が荒廃しているという危機感」をちょっとわかるようになったかも、かも。
>ぎんたノーと言わなきゃみたいになりました。
若い人のエネルギーって必要かも、って、すごく思ってます。
さらに、過激に若者のエネルギーは世界を変える、って思ってます。
世の中、縁起しかないんじゃないかって思う。好きなように言ったらええんや、って思うなあ。悪いことにはならない、とも思う。へたしても輪廻するだけだし。
あ、先生~返信ありがとうございます。
>へたしても輪廻するだけだし。
そうなんです。へたしても輪廻するだけだし、上手くいっても輪廻するのでは?
と、思っています。地球が消えて、肉体が無くなって、空間に「意志」とか
「想い」だけふわ~~~~っと漂う状態になった時に、言葉も無くって
うっすら~~と、遠のいた記憶を手繰り寄せようにも、どうにももどかしい~~~
状態で、最初に感じるのは、
【あいつがムカつく】かもしれないし、
【あの、あれにまた触りたい、けどあれってなんだったっけ?】(←猫のふかふかです)
かもしれないけど、なんにしろ「欲」とか「執着」だと思います。
その時に、何に執着するのかは、各自(=神でほとけ)で選べるのだけど、
どうせなら、楽しい事柄のほうがいいな~とぎんたは思います。どうせ
みんながみんな、誰かに付き合わされて、もっかい地球やるんですから。
ぎんたさま おはよ!
>そうなんです。へたしても輪廻するだけだし、上手くいっても輪廻するのでは?
と、思っています。
あ、そうなんや。。わたしは、うまくいったら涅槃かな、って思ってます。
>地球が消えて、肉体が無くなって、空間に「意志」とか
「想い」だけふわ~~~~っと漂う状態になった時
きっと、神々さまの世界ね。
>どうせなら、(あー、、この時代のこのポジション!体験してみたかったー!!)って
いうポジションを無限に増やしたい。
こうなると「輪廻も楽し」かもしれないですねぇ。
ぎんた 様 ( 横=側近 から ちょっと・チョウダイ )
> ?
> と、思っています。地球が消えて、肉体が無くなって、空間に「意志」とか
「想い」だけふわ~~~~っと漂う状態になった時に、言葉も無くって
うっすら~~と、遠のいた記憶を手繰り寄せようにも、どうにももどかしい~~~
状態で、最初に感じるのは、
感じるのは 空間に漂っている あなたを構成する 元素
その元素 を 構成する 位置を持たぬ 電子 などの 素粒子
元素 も 素粒子 も
( 空間 という 「場」 に 存在し ) スカスカ なのです
そういうこと を 牟尼たちは 「 瞑想 」 を通じて 知り
ムニノシンジツ という 一つの生きる「場」 を 知ったのです
( どんな 存在 であろうと この場 ・“今において” 知るしかない )
存在 は (あなたという) 存在によってのみ 表現されている
その存在 が 「 無 」 に起きる
それなのに 「 有 」 に 囚われる存在 は
「 有 」 を つかんで離さない
掴んだ手 から 離れることは 掴む手を持つ存在 には 無理です
( 有無 を 離れるには 「 有 」 から 離れなければならない )
「 無 」 理 その 「理」 を 「 縁起 」 と呼びます
チョー ワカラン と “思おうと” しょうがない !
これは
“しょうがない” という
ショウ( 性 ・ プラクリティ ・ ブハーバ )の事 だからです
現象 に 囚われる 「 自性 」 には
「 ショウ・ 【 生 】 」 を 知ることはできない
( 現象 によって 現象を解き明かせない )
言葉によって 言葉の 「 性 」 を 知ることはできない
そのことを 空海 は “最澄に宛てて”
「 言葉をいくら寄せ集めても 真実は表されない 」 と 説く
「 秘蔵の奥旨は 文を貴ばず ただ 心をもって心に伝う 」
「 文は是れ糟粕 文は是れ瓦礫なり
糟粕瓦礫を受くれば 即ち 粋実至実を失う 」
(性霊集) 「答叡山澄法師求理趣釈経書」
最澄 が 天皇によって認められた 「止観」 に よってのみ 知られる
その 宝珠 は すべての人の( 襟元 に 縫い付けられている )
「 心 」 にあり
その 「 心 」 は 「止観」 によってのみ 触れることができる
「 止観 」 とは 坐禅 ではあるが 「 瞑想 」 のこと
あなたの 「 瞑想 」 は あなたの言葉の中にあり
あなたの襟元 に ある
「 無 」 「 中 」 の 「 有 」 に 起きている
( それを 龍樹 は 「 無 」 について 「 中論頌 」 で “口で語る” )
「 真理 」 は 知ろうと・知るMIGHT
あなたの 「 心中 側近 」 に “ あ る ”
すでにあるモノ を
更に 欲しがってはいけない
人 は たった一つの真実 を すでに 生きている
ある ということを “享受 できるとき” 「 仏恩 」 を 知る
( ない と 騒ぐとき ・ 一番うるさい
騒ぐ声 を 聞いているのは 側近 の あなたである )
「 ないない 」 と お凸の 眼鏡 を 頭に掲げる
・
>「 言葉をいくら寄せ集めても 真実は表されない 」
だから、そのポジションに置かれた人しか、悟れないんだったら、
順番に体験するしかないんじゃないのかな?と思ったのです。
この地球の最澄はいつか、空海の場所で体験するの!平等だから!
> そのポジションに置かれた人しか、悟れないんだったら、
順番に体験するしかないんじゃないのかな?と思ったのです。
そうです
思って も
思った体験 では 悟りの方向 を 向くことはできません
違う方向 を 向いている という 意味です
体験 は あなたが決めた その決め方の順 には “ 並んではいません ”
一つ ぽっつり と 佇んでいます
その佇み は 思い込み だろうと 決め込みだろうと
集中する 一点 に ひっそり と “ 坐っています ”
それを 「 仏教 」 では 「 止観 」 と 呼びます
呼んでも来ない イッテ も イキ 息 行 着かない
文は糟糠 で 文は瓦礫 です
「 糟粕瓦礫を受くれば 即ち 粋実至実を失う 」
思い 想い を 受くる ・ 受くれば 即ち 粋実至実を失う
順に思う その順 が 粋実至実 から “ 遠く ・ 近くとも遠い ”
( 「 縁起 」 にもとる ) 距離 を 生みます
たくさん経験を積んでも その たくさん は 「 縁起 」 に 起きる
( 多い 様 で 御苦笑・ 極・曲 少 なのです )
曲がった 道 の “ 中 ” ・ 真中 を 真っすぐ・ひたすら 歩む
「 中論頌 」 を 曲がりながら ひたすら真っすぐ 読む
わたしの 瓦礫 を 突き崩す あなた
・
「ォワターー!!! お前はもう死んでいる」。。。
いや、突き崩すだから
> 「ォワターー!!! お前はもう死んでいる」。。。
生死 を 超える = 生 」 を パーラー (para・超える・超越する・わたる)
“ 生死 ” という語とは
mita(思慮・想い・考慮・「量」) に 頼って 該当する語 です
( 考えの及ばないところ には 生死の問題はない )
「 死 」 が 起こされるとき
そこに 新たなる 出発点 が 起きています
「 生 」 が 「 縁起 」 して 起きているのです
生きているからこそ 死を考えるのです
「 死 」 に目を止めると 「 生 」 は 逃げていきます
終わり とは 始まりにすぎず
始まり とは 思慮に起きるのではなく 行いに伴って起きます
パーラーミタ を 到彼岸 と 訳します
( 思量を超えて 死「量」 を 離れる )
> いや、突き崩すだから
突き崩すには 「 死 」 を与える 「 生 」 から 逃れられません
↓
「 生 」 に 囚われると 「 死 」 の “監獄” に 踏み込みます
監獄 を 言い換えると 煉獄 とも 言えます
自分で 練って(思量して) 自分を其処(思料)に 練りこませる
金太郎あめ の 金の顔 は 歪んでいく
( 金の顔 を 金言 とも言います )
心の中に 誰でも 金の顔 を “持っている”(持ち続けている)
↓
けれども その 襟元の宝珠 に 思いが及ばない
ただ ひたすら 「 量 」 から 離れるとき
其処 が 彼岸 であるという 思「料」 は 起こすことができない
「 量 」 に こだわり 多くを望む
・
で、全宇宙の全存在が、地球に参集したんだけども、遠かったりすると、到着時間が
ズレて、恐竜なんかは早く来れたけど、滅びちゃったから、鳥とかの
中の生き物(中の人ではなくて)になって、、、ってやってきて、でも、
種が違うと他と話し合うっていっても、厳しいよねーとなり、
全生物共通の生物になれば話通じるんでは?ってなって、人間が出来て、人間に
なったらみんなで話し合えると思ったら、まーそう簡単でもなくて、習慣と言葉違うし。
スマホで通訳しながら話せばなんとかなると思うけど、なにか優劣とかの背景に
捕らわれると、言葉通じたとしても、有効な話し合いにならないなーみたいな。
そんで、せっかく地球に参集したっていうのに、宇宙へ出ていこうとするの。。。
これは、どっかから地球に来たから、同じことを繰り返すもんで、そうなっちゃうの。
は~~やれやれ、、、