息子は亡くなりました

未分類

7月12日朝方、難病の息子は亡くなりました。わたしが看ている時でした。すべてが終わりました。

長い輪廻の旅路に向かいます。予想のつかない、わたしの理解の果てにある子でした。わたしは、息子のよき理解者とは言えなかったけど、文句も言わずに居てくれて感謝です。

わたしは、息子の死を妹に告げて、何かエピソードをもらおうと思ったけど、何もありませんでした。父が亡くなったとき「バングラディシュの庭の木の上にいて、末の妹を訪問している」と言っていたので、何かエピソードがあるかな、と思ったのです。

息子は、わたしとは似ても似つかない性格で、いつも驚きでした。たぶん覚ってないので、輪廻の身であることだろう。わたしが母親をやらせてもらって、感謝してる。。面白い人生でした、わたしはまだ終わってないけど。

平凡なわたしの子として、その名前を刻んでいくんだろうな。そう思うけど、予想のつかない自由人として、悟りに向かう我が子に、エールを送ります。

コメント

  1. えび天サンバ より:

    息子さんの長い闘病生活は、茨の木のようにエム先生の道を守護していたようにも思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

  2.  春間 則廣  より:

        
    > わたしが看ている時でした。すべてが終わりました。

      すべてが終わった    ようではあるが 「 輪廻 」 しているのですね

               ( 看ている あなたは   “ 終わってはいない ” )

        すべて あなたの世界   での     出来事  です      

     ( 自分で囲っている “自分という世界” ・ 「 世間 」 での出来事 )

      「 世間 」 的 (?)に 言うと  “他人・私” 事・「 モノ 」 です
     ( わたし は     「 世間 」 において モノを言うのを 見逃さない )

        もちろん 「 事実 」 という “「 モノ 」は 共有できる ”
      (  「 世間 」 において  は   事 を 掴み取ることができる )
             ↓                                   
           「 事実 」 という  幻想( 「 モノ 」 )を  共有できる

    > 長い輪廻の旅路に向かいます。予想のつかない、わたしの理解の果てにある子でした。

      みずからの理解( 人の心 ) は 何処にでも 行くことができる
       ( それを  “ みずからの 「 心 」  への  邂逅 ”  とも 呼ぶ )
       その “ 行き着くところの すべて・「 心 」・場所・「 時 」” で
            自分より 大切なもの を 見出すことはない

        “ 理解の果て(心の中)” に   理解がある  けれど

        “ 理解ではない 果て ” も   「 心 」 の 中にある
     
       ( ハテ  ?  イズコ  デ アロウカ ? )
         果てのない旅  を 「邂逅」  とも 呼ぶ

     ***** 「マッリカー経」(中村元『神々との対話I』p.169-170)

    「あらゆる方向に、心で探し求めても、自分よりもさらに愛しい者を得ることはない。このように、他の人々にとってもそれぞれの自己は愛おしいものである。それゆえに、自己を愛する者は ・・・・・・・・・・・ 」

      「 他者を害する 」 とは    “ 他者を死に至らしめる ”  と                               
        読み替えることもできる  ( 自他を混同することができる )

     ******

    > わたしは、息子のよき理解者とは言えなかったけど、文句も言わずに居てくれて感謝です。

      “ よき理解 ”  とは  あなたに起きて あなたの 「 心 」 の
                     “ 外 ”  へ 追いやられる  「 モノ 」
      (  はたして  「 今 」 掴んでいるモノ   とは   
        “ナン” であろう ・ 難 である ・  ナン なのか を 知る  )

     「感謝」 とは  “ 外に向けるモノ ” ・ 外に向かって宣言するモノ
                 ではなく     “ 内に起きて 内向くモノ ”

      外に向けた「 言葉 」・外向きの言葉   を   内向き に 聞く

     ( あなた ではなく 他人 である )   龍樹  は 

                        『中論頌』・帰敬偈  で

            みずからの “ 頭 ”  を  “ ウチ・ツチ ” に 着ける

       あなたは  “ じっと ”   聞いている   内を眺めている 、、、、
                             ↓      
      「 止観の妙門 頂戴供養 」    ( マハー  ジャーナ )
                             ↓
      「 恵止觀妙門 頂戴供養         不知  攸厝 」

                         ( 『 風信帖 』 )

     
         「 窟観 」 において     「 世間 」 を 離れる 、、、、、

  3. o より:

    極楽誓願、唱えます。

  4. カエル より:

    謹んでお悔やみ申し上げます。
    実存主義の視点からは介護者も被介護者も勇者に見えます。
    シーシュポスの神話ほど救いのない世界ではないように感じます。
    われわれも肉体から自由になるまでは全体像は見えないのかもしれません。
    生きとし生けるものが幸せでありますように。

  5. Pocket より:

    砂漠を行く沙門のように、輪廻の新しい旅に立たれたご子息に楽がありますように……

  6. 赤い実 より:

    息子さんのご冥福をお祈りいたします。

    •  春間 則廣  より:

      > 息子さんのご冥福をお祈りいたします

        祈る  “ 場所 ” と

        祈られる先 の “ 場所 ”  との  関係性は    イズコニ ?

        「 冥福 」 って  どこに  どのようにある    のですか ?

  7. ぎんた より:

    先生、、看ている時だったのが本当に、息子さん親孝行だと思います。

    これからどこに行く計画なのか、わからないけれど、
    今世の善きものを持って次のところに赴くんじゃないかと思います。

    善き家族のところで生きられた、という記憶かなとぎんたは考えるけど、
    神でほとけの息子さんの気持ちはわかりません。ぎんたがそう思いたい、という
    ことです。

    ご冥福をお祈りいたします。

  8. 近侍郎 より:

    心よりおくやみ申し上げます。安らけくご自由なる処を思いお祈りいたします。

  9. mani より:

    みなさま、暖かく個性豊かなお悔やみの言葉をいただき、本当に感謝です。

    どんな時でも、マイペースをくずさない子でした。
    時たま仏さまよりマイペースかも、と思わせて、やっぱりマイペース過ぎる生き方でした。だから、マイペースに死んでいったのかなと思っています。

    しばらく、こんな感じが続くのかな。。親は立ち直れてません。

  10.  春間 則廣  より:

         
    > しばらく、こんな感じが続くのかな。。親は立ち直れてません。

       続ける 気持ち  が  ある限り   その気持ち(ソンナ 感じ) は 続きます

      親 は  立っていられなくとも

      子 は  “ 「旅立ち」 の 道 ”  に  あります ( すでに 立つ )

       立つ処  は  同じ道 の  “ 道中 ” です

           (  「 中論頌 」 の 「 中 」 です )   

      何処に立とうと  立つ処 は  “ 同じ 道 の 「 中 」 ”

       「 中 」 は    「 言失 」 に  当たる  のかな( の中 ) ? ?

        ナカナカ   大きな問題 を 孕む  ナカ    アユミツヅケル