テーブルの花

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ミニだけど豪華なお花です。となりにあるラベンダーは、庭先から採ったものです。

『中論頌』第20章が、ようやく決着しました。今までの龍樹解釈とは似ても似つかないものになってきました。どうすんだよ。。って気持ちです。まあ、でも、一応はあってるし、解釈できてるし、矛盾は今のところないし、これで行くしかないんじゃない。。

わたしの本も出してくれるうちが、花だってことでいいんじゃね。。良いんじゃね。。良いんじゃ。。ね。。って言えるのかな、って気もしてくるけど、良いことにしよう。。

実は19章以降は楽勝のつもりでした。複雑にはなるけど、中論頌全体から見るとそうでもないんじゃないかって、思ってた。。

とんでもなかった。。龍樹先生。。ほんとに「言失」やってるとは思わなんだ。

どうりで、『中論頌』だけが龍樹作とされるわけだ。。これが龍樹作でないことになったら、龍樹に何も残らないからね。。でも、これを、龍樹作と認めると芋づる式に全部の作品を龍樹作と認めなければならなくなる。。って、意図せずにやったかもしれないけど、龍樹は、うまくやったと思います。

真実は、暴かれずにはいられない!

って、ことなんだ。わたしが得たものは、どうやっても消えていかない。。たとえわたしが死んでもいつかわたしのように考える人が出てきて、やがて知っていく。。知っていかざるを得ないんだね。もちろん、わたしじゃないので、関心は微妙にずれるんだけど「知りたいことを知っていく」ってことは、変わらないんだ。。

インドには、ヨーガの伝統がある。

ヨーガはブームとなって、流行(はやり)のシステムとして機能してるけど、どの時代にも合わせられてどの時代にも最先端と言われる、そんな要素をもっている。

その要素が、実は、「無我」と言われる思想なんだよ。世界の中で、無我が公(おおやけ)に唱えられたことにより、人々や生き物がどれだけ助かったか、計り知れないほどだ。。

こう書いているけど、「お釈迦さんには怖いものは何もなかった」と言い換えても、同じことなんだ。

だから、仏教では「無畏」ということが言われるんだ。

無我は、無畏と「同じ」で、「『同じ』という思想はない」という点で、新しいんだ。

だから、「同じ(一つ)ではなく異なるのでもない」と言われるんだね。こんがらがった?

お釈迦さんの言うことを黙って聞いている「凡夫」と言われる生き物が、いかに真実を得ていくか、ってお話です。

わたしも、ようやくわかってきました。なにが?何がわかったの?

自分が、正真正銘の凡夫だってことが。。たぶん。。だけど、龍樹もわかったんじゃないかな。。

自分は、「賢い」と世間からいわれる凡夫だって!

わかるだけよかったんじゃね。。わからないよりは。。ね!

わたしもよかったよ。。

コメント

  1.  春間 則廣  より:

       
    > お釈迦さんの言うことを黙って聞いている「凡夫」と言われる生き物が、いかに真実を得ていくか、ってお話です。

        得ていく過程  が 真実( 「 道 」 ) ですが

       しらなければならないこと ( いつもそこにある得るモノ  )

       とは  知ってはいない・知らない  ということです

       道に迷うのではないけれど    未知 が  「 道 」 に ある

    > わたしも、ようやくわかってきました。なにが?何がわかったの?

        わかったこと  を  いま在る ミチ で 語る  その道、、、、

      わかっているのではあるけれど ( ミチ で あると )
        わかる=わからない
          ( わかっていること を キチ の言葉で語る )

    > 自分が、正真正銘の凡夫だってことが。。たぶん。。だけど、龍樹もわかったんじゃないかな。。

       “正真正銘の凡夫”  である と  知る
         “正真正銘”  なること を  知らぬ  “凡夫”
       ( 正真正銘 を しること を  覚知 正覚 と 呼ぶ 伝統 )

    > 自分は、「賢い」と世間からいわれる凡夫だって!

       わたし  でも!   たまには !
        「賢い」 と   世間からいわれる
     ( 「 世間 」 の かしこい 理解を持つ人たちから 、、、、 )

       その時  わたしは 彼らの仲間 に 入らせてもらえる
      ( 彼らは  “凡夫 である という 自覚を持たない”  ゆえに 賢い )

    > わかるだけよかったんじゃね。。わからないよりは。。ね!

      なんか   わからないほうがよかった

            と いうことが  伝えられている気分がする

    • mani(管理人) より:

      春間さま こんばんは。

      >なんか   わからないほうがよかった
              と いうことが  伝えられている気分がする

      それは気のせいだわね。

      「賢い」と「凡夫]の違いは、オリジナルかどうかで決まると思う。

      だれでも、自分で気づかないならば凡夫人です。
      そう思うなあ。

    • ぎんた より:

      >わたし  でも!   たまには !
          「賢い」 と   世間からいわれる
       ( 「 世間 」 の かしこい 理解を持つ人たちから 、、、、 )

         その時  わたしは 彼らの仲間 に 入らせてもらえる

      彼らは春間さんが、「マニカナの妖精」として活動してることは知っているんですか?
      仏教について語ったりしてるんですか?

      •  春間 則廣  より:

          
        > 仏教について語ったりしてるんですか?

          私の語ること は すべて  「 仏教 」 です

           「 仏教 」 であるから  わたしは 断定形で話します

           かれらは 「 仏教 」 を 語りません(語らない)
              ( 「 仏教 」 があるゆえに  語らない ということが ある )

           「 唯識 」 を 学んで 得ると  物事は はっきり見えるようになります

            はっきり  あるがままに見たこと を あるがままに語ります

             だれでも 見えたことを 見えたままに語るけれど 、、、、

           「 唯識 」 を 知ると  誰にでも見えていることが  わかる

           衆人 の 見ていること は 衆の物の見方( 一つではなく 一面 )

             ものごとのありよう  は  “ 一つ ” であり 「 無一無二 」
        ( 一面 ではなく “一つ の もの”  のありよう )
              “象”の鼻 は 象であり  “象”の足 も 象である
               ↓
            “蔵”されているモノ を  長く引きずり出すのではなく 

               蔵している 「 蔵 」 すべて  を 観る 

           この世 は  一つである と  「 唯識 」 で 知る

             「 縁起 」 の 起きない   「 唯一 無二 ・ 無一 無二 」 

              一つの 「 識 」  が   すべてを生んでいる

                「 瑜伽行 」   を 通して  「 唯識 」 を 得る

        • ぎんた より:

          「唯識」については一個体験があるので、今日か明日に書きます。
          お寺に行って講義を受けたんです。

        • ぎんた より:

          >「唯識」については一個体験がある

          こんなこと書きましたが、昨日からあちこちほっくり返して、やっと貰った
          資料発掘しましたが、見ても、良くわからなかった。記憶とも違った!

          いつも観ている番組、「こころの時間」で唯識の研究者の先生がお寺で講座を
          やっていて、結構大勢の人が受講しているようだから、ぎんたも行ってみた。
          (少人数で小さい教室だと、なんか怖いから)遠かった~~~~~。
          で、「唯識三十頌」世親菩薩造てやつをお唱えしたり、話し色々訊いたんだけど、
          自分で書いたメモがもうわからない。。。

          縁起の故に無我なり、とかメモしてあった。

          資料に、観心覚夢  唯心如夢  唯心夢也 とかぱら~~っと書いてある同じ
          ページに、
          「憎い人」というのは錯覚であるって書いてあって、全然納得いかない。

          で、これも自分のメモでちょっと意味不明なんだけど、
          誓願、矢を射て的を突きぬけた先 自灯明って書いてあって。
          誓願ていうのは、的に当たったと思った先まで続く、続けないといけない?みたいな。

          あと!この講座の先生が!「すっきりさっぱりさわやかに~」とか信条としている
          のはいいのだが!「最近若い人で唯識(の研究)を始める人がいるのはいいんだが、
          ちょっといまいちな感じで」みたいに後進の悪口みたいなこと喋り出して、
          ぎんた(どこがさわやかだよ!!)と怒り心頭で、「矛盾してませんか?」と
          立ち上がって言いたいのをギリギリ抑えました。ぎんたの隣の席にお寺の住職と
          思われる人が途中から座ったのと(←迷惑が掛かる)ぎんたが怒りを表明したら
          その場が余計にさわやかから遠くなるから。(でも、ほんとギリギリ)
          しかしな~、テレビで観た時は面白そうな講義と思ったんだけどな~、実際は
          あんま面白くはなかったな~~

          あと、帰りがけに貰ってきた、「東京天台」第47号平成31年春彼岸号に出ていた、
          コラムお坊さんのひとりごとの中に、

          「これから五十年間、宗教サミットを継続すれば世界は平和になる」とは、およそ
          三十年前、第一回比叡山宗教サミットにおける第二百五十三世山田恵諦(えいたい)
          天台座主猊下のお言葉である。そして宗教サミットを開催するにあたって世界の
          宗教の共通点を探し、見つけ出した答えは「祈り」であった。時代は「平成」。
          世界が「平和に成った」とはまだいえないが、少なくとも「平和に成るように」と
          祈りを捧げた時代であった。

          当時、ぎんたはこれが本当にドン引きで!「祈って成るなら、仏教いらねーじゃん怒」
          となって、あと、「なにこれ、宗教のプロの人も真如苑の人と同じでピュアピュア
          なんか??たいして違わないんか??」とか、、、、、、、、、、、、、、、、、

          まあ今は、ねこ、(ねこにはわからない神でほとけの人間が祈るということに、
          人知を超えた効験があるんだろうねーーーーーー♪)という気持ちです。

          春間さん、これは事実だよ!だって、今ここに、東京天台台7号持ってるもん!!

            

          • ぎんた より:

            あー、台→第

          • ぎんた より:

            7号→47号

          • mani より:

            ぎんたさま こんばんは。

            >唯識

            わたしはね、これは、ブッダの「縁起」の理解だと思ってます。心の中で感じることや考えることがすべてなんだよ、って、お釈迦さんが言ってると、受け止めてます。

            「縁起」って、述べたのは、因果関係なんだけど、インド一般の考え方とはちょっと違うところがあって、そこを納得するからなんだと思ってます。

            インド一般では、糸が原因で、布は結果だと言われてます。でも、ブッダは、それを認めていないのです。布は糸からできているけど、それは見たらわかるじゃん。。心の中ではなくて、直接見えてるのは、縁起じゃない、って判断です。糸は糸。布は布。時には因果関係を意識せずに、「きれいな布だなあ」って見てることもあると思うので。。

            因果というのは、「雨が降ったら、川の水は増水する」みたいのです。過去に経験したことはあっても、今は、こうなっているだろうなあ、みたいなもんは、唯識による理解だと思ってもらっていいんじゃないかと。
            唯識というのは「ただ(唯)識(心の中)のみ」ということじゃないかとおもってます。

            よく言われるのが、若い女の人を見ると、若い男は「かっこいい」と思い、年寄りのばさまは「今時の若いもんは。。」と思い、ライバルの女の人は「け!わたしの方がきれいだわよ」と思い、子供は「おばさんだ」と思うような具合です。みんな、それぞれ心の中は違うんだな、というのが唯識の見方かな。。どう思う?

          • ぎんた より:

            先生~~~!!ありがとうございます!
            明日お返事書きます。

            今日は映画「黒牢城」を観てきました。仏教のことが出てきてびっくりしました。
            でも、すごく面白かったです。

          • ぎんた より:

            先生、今日はこちらは久々に晴天で湿度も低めです。(もしかして、夏一日目?)

            先生の文章、読み進めるうちに、段々と涙腺がゆるんできて。
            ぎんた一人に向けて、唯識の説明丁寧にしてくださって、感激で!!
            なんというか、お釈迦様に、懇切丁寧に一対一でお話ししてもらった、一般庶民
            (しかも生涯この一回しかお話し聞けない状況)みたいな気持ちになりました。
            後から考えたら、これはぎんたの気持じゃなくて、誰か他の人のだと思います。
            多分ですが。 2600年前に急に来ちゃって、じんわり面白~~となりました。
            あと、先生は龍樹だけど、お釈迦様だったんだねーーーーとか。

            そして、
            >布は糸からできているけど、それは見たらわかるじゃん。。
            のところで、その通りすぎて、笑って我に返りました。

            「きれいな布だなあ」と認識した時に一緒についてくる気持ちに大注目で、

            このきれいな布は誰が織ったのだろう、ものすごい名人芸だ!弟子入り希望~とか、
            このきれいな布は誰が身に着けていたのだろう、きっと絶世の美女だ!!とか
            この布、あの町では見たことないからきっと高く売れるぞ!!!とか
            あの人にプレゼントしたらライバルに勝つことが出来そうだ!!!!とか
            この布を纏って今夜舞踏会に行ったら、私が主役ね!!!!!とか、、、、
            この布をうちの子の寝床に敷いたら、あの子がもっとかわゆく!!!!!!とかとか

            それぞれに違う感想があると思うんですが、そのひとつひとつが一個前の地球で
            誰かが思ったことで、今度は自分がそのポジションをやることになっているのと、
            今回は選択しなかったルートもいずれ順番回ってくる、というのが確定している
            事です。確定はしているんだけども、自分がどこのルートに確定しているのかは、
            基本わかっていないわけです。その都度慎重に吟味して選択している感じで生きる
            人もいるだろうし、脊髄反射的に選ぶ人もいるだろうけど、そこに優劣はないです。

            ただ、その選択をする自分に納得感があるか、というのが大事だと思います。
            というのが、「私な仏教」です。唯識をかすっているのかとかはわかりません。
            ただ、「私な仏教」を記述したくなったのです。

            あと、先生ちょっと前に「倫理」って言葉が、マニカナによく登場したと
            思うのですが、そのおかげで、
            『倫理的なサイコパス』尾久守侑著と出会う事が出来ました!
            すーーーごい面白いぎんたの好きな文章で、精神科医の頭の中を覗かしてもらって
            いるようなエッセイなんです。きっと全部本当なんだと思います。
            (ねこ、エッセイってフィクションが混じるものなのかどうかがわからない)
            そして次に、
            『病気であって病気じゃない』もとっても良かったです。どっちもちょっとだけ
            「デスノート」出てきて笑ってしまった。

            先生お疲れでしょうが、応援しています。

            このコメントに返信はしなくて大丈夫です。

  2.  春間 則廣  より:

       
    > *************

      ( 一面 ではなく “一つ の もの”  のありよう )
           “象”の鼻 は  象であり  “象”の足 も 象である
            ↓
          “蔵”されているモノ を  長く引きずり出すのではなく 
    > *************

       何故 “蔵” を 見なければならないか

         象の足 は あなたの為にあるのではある けれど
               その前に 象の為にある  という  “事実”
             ( あなたの為に  何故 あるのか ? )  
       “事実” とは  あなたのモノの見方 ではあるが 
              “あなたの世界観”   に 過ぎない
       ( これは わたしの世界観 ではあるが あなたの世界観でもある )

      あなたの世界観 は わたしのモノ であり わたしのモノではない
      あなたのモノ( あなたの財産 であり それを
                「 仏教 」 では  artha・アルタ と いう )
       それは あなたが 所有することに意義を見出し その意義に沿った
            貯め続けてきた “価値観”   の   具現化  です

       多く 所有することに 喜びを見出した 対象  なのです

      ( ただし 「 福財 」も 財・アルタ です  ) 

      “大事 の こと” は  多さ ではなく
                 いま前にある “一つのモノ” の 尊財理由

       なぜ 衣食 を  選び   「 糞雑衣 」を  纏うのか 
                     ときに 断食 を なすのか
     ( 「 糞雑衣 」 とは 価値観に対する 衣であり 選ばれた 美衣 です )
     ( 一日に玄米三合と味噌と少しの野菜 とは    美食   であり
        供応される 布施・チュンダの豚肉 も    美食   なのです  )

        美食を食して 釈迦牟尼 は  「 世間 」 から 去ることを決意した

       あなたは 牟尼の決意 を あなたの アルタに対する決意 と 混同する

        “決意” する  ことなく  意を介さず  意のままに記述し

           最後の決意 へと  道を歩む 、、、、
     
         ( 何故  飛ぶ矢 が 飛ばないか  は
              「 瑜伽行 」 においての
               「 止観 」 にのみ   意味が与えられる  )

        「 止観 」 は 積み重ねることが叶わない

         積み重ねることにより  「 量 」  が  増え
       先の観 と 後の観  は  積み重なり  「 時 」 を かもしだす

    ( 今在る 自分 を  大事によく見つめる
       →  「 止観 」 とも 呼び  瑜伽行・大乗 の 起信 です )

      目の前にあるモノ は   目を所有するモノ の 見方によって 意味を持つ

      なぜ それを 大事 にするか  が       “大事” の “こと”  です

    •  春間 則廣  より:

      「美」 とは あなたの価値観 によって   決められ

             あなたの価値観 を    否定すること によっても 決められる

         あなたの価値観 を 増幅することにより

                   あなたは そこにある 違和感を得ることも 可能ではある

          美しさに 違和感を持つ  理由は   あなたの持つ 「 美観 」 に 由来する

           けっして  「 糞雑衣 」 が 美しいわけではない

           着飾ること が  不美  でもない

                 ( 地蔵菩薩 は アルタである 装身具 を 身に纏う )

           あなたの価値観  で  美衣 美食  を 規定する

    • ぎんた より:

      真如苑だと「豚肉」じゃなくて「おかゆ」だったよ。たしか。

      •  春間 則廣  より:

        > 真如苑だと「豚肉」じゃなくて「おかゆ」だったよ

          『涅槃経』 によれば、

          チュンダの家の食事で出された

           「スーカラ・マッダヴァ」 ( 柔らかい 豚 ) となっています

         真如苑 が 何を根拠に そう言っているかは わかりませんが

          ( どのような主張であろうと )

           誹謗中傷 以外であれば 、 主張するのは “言論の自由” です

  3. 赤い実 より:

    先生、こんにちは。
    さすがに本気の暑さが来てます。

    ところで

    〉とんでもなかった。。龍樹先生。。ほんとに「言失」やってるとは思わなんだ。

    ここがわからなくて(他にもわからないところはあるけど、ここが特に)気になってます。

    「言失」やってる、ってなんですか?

    • mani より:

      赤い実さま こんにちは!

      本気出して暑くなってきたんですね。今年の夏も厳しいことになりそうですね!
      無事に生き延びておくんなさい。

      さてさて、「言失」やってる、ってのは、「繰り返さない」ってことです。

      テーマ的には話題は絞られるんだけど、繰り返さないので、常に新しい要素が混じって、初めて聞くことが必ずあるって感じです。

      最後の数章になると、ブッダの「空」や「縁起」に絞られてきます。だから、わたしも、いつもの話題を新しい形にして繰り返す(?)んだろな、って、ちょっと思ったの。だから、話題的には新しいことは新しいけど、考えられない話題じゃないんだろな、って思ってたの。

      でも、ちがってた!

      『中論頌』の中身は全部違って、新しいです。
      だから、すごく理解するのに時間がかかってます。ちょー難しいです。

      •  春間 則廣  より:

             
        > 『中論頌』の中身は全部違って、新しいです。

           全部 同じこと の 繰り返し  です

                     二つ並べると  「 平等 」 と  「 縁起 」  です

           この世 において ( 彼の世においても ) 同じこと  は  二度起きません

            だから  「 真理 」 です ( 一つだけ だから 「 真 」 )

                      いつも 新しきこと だから 「 新 」

           それでも 繰り返し は 起き得る ( 「 顛倒 」 に 起きる )

              東西南北 あらゆる面に  それぞれの面 が ある

              一つに対して それぞれの 対面 が ひとつづつ起きる

            「 顛倒 」 は 一つでは起きない

            起こす人 と 知る人  との    二つの 関係性(一つの関係) に 起きる
                                   ↓
           原因 も 結果 も  起こす因 も  一つの  こと

          どこにも   「 言失 」 はない   ということ が  「 言失 」 である

          どこにでも  「 言失 」 が 起きる ということ が  「 言失 」 である

                 「 言失 」 が 二つ起きる

      • mani(管理人) より:

        赤い実さま こんばんは。

        またまた、やって来ました。
        今回、『中論頌』を読んでみて、ほんとに難しいなあと思うんだけど、まず難しい点は、この書の構造がどういう構成になっているのかさっぱりわからなかったことです。

        ようやく、目鼻が付いてきました。一応、『スッタニパータ』の第4章「八偈品」を下敷きにしている点に気づいたんだけど、それだけじゃなくて、10章前後あたりは外道の思想に目を向けていることもわかりました。
        従来の解釈では、龍樹は、部派のアビダルマ思想の批判と捉えることも多かったけど、それだと割が合わないなあと思ってました。

        今回、龍樹の気まぐれにも付き合ってみて、けっこうわたし的にはわかった感じがしました。

        この本は、出しますよ。まだ完成してないけど。。

        • 赤い実 より:

          〉今回、『中論頌』を読んでみて、ほんとに難しいなあと思うんだけど、まず難しい点は、この書の構造がどういう構成になっているのかさっぱりわからなかったことです。

          そうなのですね。
          先生に難しいのだから、私とか難しすぎるのは当たり前ですね(^_^;)

          〉一応、『スッタニパータ』の第4章「八偈品」を下敷きにしている点に気づいたんだけど、それだけじゃなくて、10章前後あたりは外道の思想に目を向けていることもわかりました。 従来の解釈では、龍樹は、部派のアビダルマ思想の批判と捉えることも多かったけど、それだと割が合わないなあと思ってました。

          部派への批判として書かれた、というのはネットで見られる簡単な説明にもありますが、その目的だけではなかったということですね。

          〉この本は、出しますよ。まだ完成してないけど。。

          はい。楽しみです!
          出版になったら、ライフワーク的に少しずつ理解できたらいいなと考えています。

          • mani(管理人) より:

            赤い実さま おはよう!

            >部派への批判として書かれた、というのはネットで見られる簡単な説明にもありますが、その目的だけではなかったということですね。

            そうなんだ!と思うのです。部派批判は有名ですが、龍樹はインド哲学全体を見渡しているので、どう考えてもサーンキヤだよなあとか、いろいろ思ってしまうのです。

            『方便心論』にはもっと様々なことが書いてあるしね。
            お釈迦さんの視野の広さをあらためて思います。お釈迦さんの博識には驚かされっぱなしです。
            きっと、龍樹もびっくりしたんじゃないかと思うなあ。

      • 赤い実 より:

        先生へ。 返信ありがとうございます。

        〉さてさて、「言失」やってる、ってのは、「繰り返さない」ってことです。

        そういう意味だったのですね。
        言い間違い、もしくは、わざとぼやかして言ってる、のようなことかと勝手に想像してました。

        〉テーマ的には話題は絞られるんだけど、繰り返さないので、常に新しい要素が混じって、初めて聞くことが必ずあるって感じです。 最後の数章になると、ブッダの「空」や「縁起」に絞られてきます。だから、わたしも、いつもの話題を新しい形にして繰り返す(?)んだろな、って、ちょっと思ったの。だから、話題的には新しいことは新しいけど、考えられない話題じゃないんだろな、って思ってたの。 でも、ちがってた! 『中論頌』の中身は全部違って、新しいです。

        先生の中論頌の解説が出版されたら読みたいので、その前に既に出ている他の解説本を読んで雰囲気を掴もうとしました。
        難しかったですが、無自性であることをいろんな角度から述べているのだろうなというのは感じながら読みました。

        次第に頭が疲れすぎて、その最後のほうの章は未読です。
        そうなのですね。
        その最後のほうの章は、また新しいことを龍樹は展開してるってことなのでしょうか。

        難しいことが書いてあっても、先生の書かれることなら、開いた心で入ってくるかもと思うので、出版になったら読んで理解できたら嬉しいです。