
慈悲喜捨の四つを四無量心という。って、ことは知っていたんだけれど、なかなか四無量心の「捨」が使えなかった。
必要だということもわかる。
現実に、使えないのは、わたしの心のせいだということもわかる。
でも、最近、少しずつ「捨」を使えるようになってきた。お釈迦さんを見てると使えてくる。。
ただお節介なだけだと思う。他人に任せるところは任せないといけない。
みんな「自分」があるのだから。
そこは尊重しないといけない。。ってことに気づいた、のです。
そこで「尊重します」と述べよう。
なるほどなあ。。四無量心か、無量にあるから、なかなか、悟れないんですね。
なかなか難しいものですね。
捨の心を無量に持たなくてはならないわけか。。こんがらがるなあ。
今日は写真が取り込めないで難儀しました。接続が悪くなっているのかな。一応、なんとかなったので、これで終わります。


コメント
> なかなか難しいものですね。
難しくはありません( 難しさ は ありません )
「 有 」 を 捨てる(離れる) だけです
ある( 「 有 」 ) から 離れられない のです
どうやったら 離れられるか から 離れること です
あるもの は 決して 無くならない
けれど
「 有 」 から しか “「 無 」 に行けない ” という “心”
そこから 離れるのです
「 心 」 の 問題です
解こう とさえ せねば 「 心 」 は 平穏です
“ 難しくはない けれど 難しいと思う心 は ムツカシイ ”
「 悲しみ を 悲しんで は いけない 」
そこの “心” に “解” が ない・ある
> 捨の心を無量に持たなくてはならないわけか。。こんがらがるなあ。
捨てよう と云う “心” から離れれば
すてるモノ は 「 心 」 には ありません ( 「 無量 」 です )
( 量 “する心” を いくら 量しても ・ 考慮しても
“するモノ” は 決して 握られた手から離れない )
簡単な構造 です が 「 悲しみを 悲しんでいてはいけない 」
( 行くところ とは 悲しみのないところ )
いかに 「 瞑想 」 が 大切かを しることです
( しること とは 行うこと )
オコナウコト ハ ケッシテムツカシクハナイ
( ソノヨウニ オコナウ ココロ ノ ウチニヒソンデイル )
・
「 無量 」を 量してはいけない
> 難しくはありません( 難しさ は ありません )
> 「 有 」 を 捨てる(離れる) だけです
“ 難しさ ” とは 「 有 」 です
『 法華経 』 は そこを説く 「 経 」 です
だれでも “ ほとけ の みちをあゆんでいる ”
「 仏法 の 大 海・道 には 信 より 足を踏み出す 」
難しいこと とは 難しくはないこと
「 悲しみ を ! 悲しんで は いけない 」
「 喜び を ! 喜んで いては いけない 」
喜びも悲しみも怒りも 自然に生まれ出るのであれば
( 「 生 」 の内ではあるが )
↓
“ 自然に ” 受け入れても構わない
↓
しかし そこにとどまれば ! ↓
↓
「 生 」 は
「 老 病 死 」 を 生みだす
↓ ↓
↓
“ 輪廻する生 ”( 病する 生 )
を 選んでいてはいけない
・
>“ 輪廻する生 ”( 病する 生 )
を 選んでいてはいけない
それってあなたの感想ですよね?wwwww
そういえば、前に春間さんがオススメしていた本、『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』を
図書館の閉架図書から借りてきたゆ。ページを触ってみたら、ちょっと辞書っぽい紙質
で、(辞書の紙ほど薄くはない)文字がいっぱい過ぎたゆ。難しい文章ではないと
思ったけど、読んでもひとつも脳に留まらなそうだったから、そのまま返したゆ。
そのまま返すのは心苦しくて、なんか、真如苑の代表が法要の時にお経典を
ぱらららららららら~~~~ってやる儀式の真似事をしてみてから返したゆ。
またなんかいい本あったら教えてね~~~~
あ、でも、その時図書館うろうろして、自分史上、かなり重要な本に出逢えたゆ。
『倫理的なサイコパス』尾久守侑著だゆ。
これからは、倫理的なサイコパスを目指すゆ。でも、まだ上手くいってないゆ。
「ゆ」の使い方も、どこかで見かけて使ってみたけど、きっと用法間違ってるゆ。。。
> それってあなたの感想ですよね?wwwww
これを あなたの感想 って 言います
わたしは 感想を述べません
事実を述べています
感想 と 読み過ごすのは ( 日本国憲法 上の) あなたの基本的人権です
べつに 感想を否定しているわけではありません
みずからの感想 に 囚われることの
危険性 を 指摘しているだけですが
別に危険ではない という あなたの断定 には 逆らうことはできません
分からせようとして 述べているのではなく
わかるということ の “ 多様性 ” を 知らせているだけです
“ 一様なる ” みずからの見解 に ある人 には
“ 届かない記述 ” だと 熟知したうえでの 記述 です
あ、そ、、、、
ぎんただって事実だけを延べているよ。本当にそう思ったことだけを書いてる。
だって、神でほとけの人間さまに、間違った情報届けるわけにはいかないし。
> 本当にそう思ったこと
それは “ 思ったこと ” ではなく “ 本当の事実 ” ですか ?
“ 本当にそう思った ” ということは ある意味 否定しません
本当だと思った と 思う ということ に 過ぎません
事実の解釈 は 変わり得ます ( 一つの解釈にすぎない故 )
おなじことが 私に返る ということを 返す返す考えるには
考える 所以 ( 拠り所 ) が 必要です
その拠り所 が 自分であれば 自分を信用するしか方どのように導いて来たか
その信用 が 今のあなたを どのように導いてきたか
そこに問題を見出さなければ あなたの信念 は 「 仏 」 の信念 となります
「 平等 」 だから 信念に違いはない
なのに あなたは 違う という思いに取りつかれる
単なる個人の感想 だと 個人の感想ではなく ( 事実であるという )
普遍の感想 へと 昇華させる
「 事実 」 というものは 対立する二つの事項 ではありません
「 解釈 」 という 感想 は 必ず 二律する相反する相 起こします
しかし あなたは みずからの感想 を 唯一の事としている
( “ 唯一 だとは 思ってはいない ” という 感想を唯一のものとしている )
きちんと 検証したうえで投稿してはいないので
すこし 校訂します
> 本当にそう思ったこと
それは “ 思ったこと ” ではなく “ 本当の事実 ” ですか ?
“ 本当にそう思った ” ということは ある意味 否定しません
しかし
“ 本当だと思った と 思う ” ということ に 過ぎません
事実の解釈 は 変わり得ます ( 一つの解釈にすぎない故 )
おなじことが 私に返る ということを 返す返す考えるには
考える 所以 ( 拠り所 ) が 必要です
その“拠り所” が “自分”であれば
自分を信用するしか方法はありません
その信用(信用してきたあなた) が
今のあなたを どのように導いてきたか 、、、、
( 信用方法・信用の根拠であるあなた は 全く変わってはいません )
そこに 問題がなければ
あなたの信念 は 「 仏 」 の信念 となります
「 平等 」 だから 信念に違いはない
( 仏陀 と あなた は 「 平等 」 の下で 何の変りもない )
なのに あなた は 違う という思いに取りつかれる
( 仏陀の 「 平等 」 を あなたの 「 平等 」 は 否定する )
単なる個人の感想 だと 個人の感想ではなく ( 事実であるという )
普遍の感想 へと 昇華させる
「 事実 」 というものは 対立する二つの事項 ではありません
「 解釈 」 という 感想 は 必ず 二律する相反する相 起こします
しかし あなたは みずからの感想 を 唯一の事としている
( “ 唯一 だとは 思ってはいない ” という 感想を唯一のものとしている )
心は 一つ ( 世界は一つ )だけなのに
( そう 口では言うけれど )
人々は “自分の心という 拠り所” に つかまり続ける
一本の糸 に ぶら下がる 自分の腕 を 頼みとしている
( 糸は細い ゆえに 同じ糸につかまる者を ふり落とそうとする )
「 蜘蛛の糸 」 の 主題です
「 翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下おろしなさいました 」
あなたは それは個人の感想にすぎない と
みずからの 意図 を しっかりと握り 、、、、、
・
春間さま わたしも引っかかる
>わたしは 感想を述べません
事実を述べています
事実というのはないのではないか、と思います。事実があるなら感想もあるでしょう。
言葉遊びのようになってしまう。。
> 事実というのはないのではないか、と思います。
それは 事実ですか ? 感想ですか ?
言葉遊びに堕せば それは 遊びにもなりません
論理的に正しくなければ 事実ではありません が
どのような論理にも通用する論理 が ある
というのは 事実 です が・しかし
歴史的に言っても その事実を知る人 は 多く居る必要はなかったのです
事実 とは 「 真理 」 の 言い換えと言っても差し支えありません
「 真理 」 など どこにもない
あったとしても あなたが知らなければ “ ない ” のです
ただし あなたが 「 真理 」 を知り
それにたがうこと は “ 事実ではない ” と言うのであれば
その 言明 は 事実 なのです
( そこにおいて 事実 は “アリ” です )
・
>> わたしは 感想を述べません
事実を述べています
> 事実というのはないのではないか、と思います。事実があるなら感想もあるでしょう。
感想がない とは 言ってはいません
あなたが そう感じるのであれば それは 感想としてある
という 事実 が そこにあります
> 言葉遊びのようになってしまう。。
しかし “ある” ということは
「 仏教 」 においては 「 有 」 です
「 仏教 」 においては 「 有 」 でも
“ 牟尼 ” においては 「 無 」 です
わたしは “遊んでいるのではない”
( のです が あなたはそうとらえる )
正しい行いにある人 に “正しさ” を 伝えているのです
その“正しさ” が あなたの握る“正しさ” と たがう
それは わたしには どうすることもできません
わたしは 私の歩む道にあり
あなたは 私とは 違う道にある
いくら 道は一つ という 事実があろうと
「 今 」 という 仮事( 「 住処 」 ) で
そこから “感じる事実” を 言うのであれば
同一のところに立つ とは 言えません ( あなたの道と異なる )
( 感じ方が違う と あなたは言うでしょう )
わたしは 一つの道 を いつも見ています
あなたは 一つの道 の 道々 の 景色を見る
みるところは 同じではない のですか ?
おなじようで 違い 違うようで 同じです
わたしは 「 世間 」的 に “ 大人です ”
あなたが ことば遊び だとする のを 許容します
・
春間さま
それは 事実ですか ? 感想ですか ?
言葉遊びに堕せば それは 遊びにもなりません
それはないんじゃない?
事実か感想か、ときいたのは私です。
事実とはなんぞや?感想とはなんぞや?
とたずねているのです。
先の投稿を読んではいないようなので
***********
論理的に正しくなければ 事実ではありません が
どのような論理にも通用する論理 が ある
というのは 事実 です が・しかし
歴史的に言っても その事実を知る人 は 多く居る必要はなかったのです
事実 とは 「 真理 」 の 言い換えと言っても差し支えありません
「 真理 」 など どこにもない
あったとしても あなたが知らなければ “ ない ” のです
ただし あなたが 「 真理 」 を知り
それにたがうこと は “ 事実ではない ” と言うのであれば
その 言明 は 事実 なのです
( そこにおいて 事実 は “アリ” です )
***********
感想についても すでに述べています
これは (それは) 事実です
読み返してください
感想についても すでに述べています
↓
これは (それは) 事実です
読み返してください
この立論 を 読んで
わたしのコメントに対する “問題点” を再度指摘してください
問題点 を 知らなければなりません
相手 に ある 問題点 と
自分 に 起きている 問題点 です
相手の立論に対する 問題点なら、
論の 立て方に起きる 論理的に正しくない道筋(矛盾)を示す
次に、その用語 の 使用に対する問題点 を 論理的に示さなければなりません
( 用語に齟齬があるのであれば、
まず その語の規定 を 明確にしなければなりません )
用語においての 問題点( 「 仏教 」 との 齟齬 )は
あなたの常識 を もってして では いけません
「 仏教 」 の “伝統的常識” を 知ったうえでの 規定が必要です
自分に起因する問題 は 複雑です
問題を抱えている儘 では “問題を以てして”問題を解決する という
矛盾が起きます
まずは 「 仏教 」 においての 「 正理 」を 用いなければなりません
たとえ 「 仏教 」 ではなくとも 大事な点があります
一つひとつの キーとなる言葉 それらの言葉がどのような関係でつながり、
“ 最終的に何を伝えようとしているのかをつかむ ”
ここが 肝心 です ( 基礎的な 「 心 」 のおきかた です )
わたしには それは 不十分 であると 感じられます
( あなたには それが 不十分 であると 感じられます )
( 自分に跳ね返ったことば を 聞き返し聞き返し 咀嚼しています )
・
えーー、とりあえず、文章がわからないので、わかった言葉にだけ反応すると、、
「蜘蛛の糸」、、くっそむかつく!!!!
糸垂らしたときにたった一言「ちゃんと一人ずつ登れば切れたりしないから順番にね」
って添えればいいのに、何も説明しないで、人の心の一番汚いところを
誘発するように行動するお釈迦様は感じ悪すぎじゃないのか??おめーも次回は
同じ目に逢うのによーーー、(←平等)えっっらそーにーよーーーーーー!
文学とか知らねーよ!!
また 垂らす から いいんじゃない ?
ぎんたさま
「蜘蛛の糸」書いた人、芥川龍之介だからなあ。。
上から目線、って感じがするよね。
たぶん、カンダタ(主人公)に
>「ちゃんと一人ずつ登れば切れたりしないから順番にね」
って言っても、それを守るような人間ではなかったってことだと思うんだけど、
ぎんたんの優しさだよね。
問題になるのは、「捨」の心なのかな。。
自分で気づかないと「本当には気づけない」ってことだと思って見ています。
お節介にならないようにしながら「見守る」って大変だよね。
芥川って、どうよ?ってところがあって、このお話も、間違ってるんだって。
お釈迦様が出てくるんなら、「ちゃんと救えよ」ってことかも。
大乗だから、憐れみが勝つなら「如来の話」になるはずで、冷たいお釈迦様がでてくるんじゃなくて、観音菩薩あたりなら、阿弥陀さまなら、ちゃんと救ってくれたかも。
> また 垂らす から いいんじゃない ?
たらす糸(意図) は 何か ? (ということを考える 糸)
垂らすから には 上にいないと いけないけれど
“ お釈迦さん ” は 上にはいない という “事実”
上下の分け隔て( ジャーティー ) を 否定したのが 彼
( 彼 は いつも 隣に 同行している )
極楽浄土 とは 「 同行二人 」 の 足元にある
( 「 その一人は親鸞 である 」 臨末の書 )https://1kara.tulip-k.jp/life/2017021772.html
寄せかけ 寄せかけ 糸 は 幾重にも 張り廻らされ
懸けられて ている ( いと やさしき 「吟」 の いと )
「 こっちにおいで と と なり で いとをなう 」 ととはなわをなう
うしのはなわにてをかけて “ひと”つ二つ と “ひと” の みちをあゆむ
わかるように 書けば 切れずに 登れるかな
懸けた ところにおきる 欠けて はいない “ひと”のこころ
わかるように 解ているのではなく むすび め を 目 にするように
ひらいたこぶしには 「 空 」が ある
と ないこと を 示す
( あること・ないこと とは “空有” なのである )
ひとりで “昇れば” 上は遠くにある
二人して あゆめば もうひとりの智慧にふれられる
( しんらんはそっとてをさしのべる )
「 同行二人 」 とは 「 善 」 人・「 禅 」人 に 起きる
( 百・白夜 の 遊行 が そこに起きている )
じっと かんがえる その “じっと” を 「止観」 とも 呼ぶ
しろいめをむいて むいたところを “実” っと 観る
半眼 とは お凸のさきにおきている
( かくれた 禅頭 ヨウ の 凹凸 観かた )
しかん 友 よぶ 「 同行二人 」 の ミタリ その目
そっと めをつぶるけれど めはなにをみるのであろうか 、、、、
目鼻 の さきに 起きている 「 サイのつの 」
ハナ サイナラ ( 犀なら はなさきにある )
ホナ 差異なら
・
ねーねー阿弥陀って一個前の地球でお釈迦様だったっていうことはないのかな?
悟った後、更に地球一個分経つと、阿弥陀に昇格するの。
> ねーねー阿弥陀って一個前の地球でお釈迦様だったっていうことはないのかな?
一個前 も 一個後ろ も ありません
あなたが 前を向けば 反対が後ろ です
あなたの 向き合い方 が 前後を決めているだけです
阿弥陀仏 を 知った人が お釈迦様 です
二人が 前 を 向いていても わたしは 反対を向く
わたしは あなた方 が 逆向き だと 知っている
アミダ(サマ) とは 量ることができないこと を 知る人です
無量寿如来 といい 無量光如来 とも言います
“寿” とは “時”の概念 です 時とは 無量であり
“未来 と 過去” とは 量することができない( 「 空 」なのです )
“光” は 「 色 」 を “意味付けます”
その意味付けが 無量( 意味を持たない ) ということが
無量光 と 表されます
色彩 は 光を読み取るところに起きている 記号にすぎません
記号 に 意味があるのではなく
記号をどのように使うか が 意味付け です
光(光子)によって “形” が 記号づけられます
光子とは、電磁波(光・電波・X線など)を粒としてとらえたときの最小単位であり、質量ゼロ・電荷ゼロの基本粒子で、電磁力を伝える役割をもつ量子です。エネルギーと運動量をもち、波と粒の両方の性質(波動性と粒子性)を示します。
光子 “自体”(?) ( 光子には 実体はありません )
が 認識により “実体化される”
“ 光 ” は 「 無量 」 であるゆえに
「 仏道・真理・光 は もとより豊倹より跳出せる 」 (正法眼蔵)
生滅あり 迷悟あり 生佛あり
生があり 死があり 尺度があり 真否がある
これである という “偏り” が あるゆえに 真実 が ある
> 悟った後、更に地球一個分経つと、阿弥陀に昇格するの。
昇格 も 降格 も ありません
そもそも 尺度はない 故に 阿弥陀( 「 無量 」 )は 存在しない
なにかがある ということは 尺度( 量った量り方 ) なのです
“昇降するうちに” ( ソウコウ 言ううちに ) 落ちていく尺度
そもそも “一個” ということが 存在できない故に 個性は存在しない
二個があり そこに尺度が置かれ 二つの違いが生まれ 差異が起きる
みずからの尺度 を 「捨」 すれば 「 平等 」 が 起きている
「 山川草木悉有仏性 」 とは 想 黙 を 眺める( 止観 する )
弥陀 の 心に 起きること
あなたが 「仏性」 を しらなければ 「 悉有仏性 」は ありえず
仏性 も 悟り も 真理 も ない
あるのは あなたの 尺度(想念) に 起きている
幻 ( 魔 保ろし )に 過ぎない
・
> 芥川って、どうよ?ってところがあって、このお話も、間違ってるんだって。
間違っているところ に 着目する
( 自他に起因する ) 問題点 が あります
着目の仕方 で 正しい・間違い が 規定されます
正しく間違っている と 知ることができる 間違っているところ
間違いを見出す “道具” となる 正しいこと
記述に 正否 の 齟齬があろうと すべて間違っている とは 限らない
けれど
論理的に見れば 全体として( 構築論 として ) 誤っている
翻って あなたには 全体として“間違い” は ありませんか ?
正しさの基準 とは 「 世間 」 において そのようにあります
そこをよく “心して” 誤りをみつめつつ
ひふみ と 数えていく 、、、、
芥川 には 鋭い着目点 と 誤った “学習” が 併存しています
どこに 着目するか で あなたの人生が 決まっていく 、、、、
・
春間さま
>> 芥川って、どうよ?ってところがあって、このお話も、間違ってるんだって。
芥川の「間違い(?)」は、お釈迦様が出てくるところらしいです。
大乗なら「阿弥陀さまだろ」ということらしいですが、お釈迦様でも良いんじゃない、って思っています。
カンダタを救えなかったので、芥川の設定ではこういうお話になったのかな、って思っています。声聞乗は菩薩乗とは異なる発想だからね。
納得いくかどうか、わからんだけど、簡単に思ったことを書いてみました。
先生!またご挨拶もせずに春間さんに絡んでいってしまった!!
5月10日に録画した、NHKEテレ ファンタジーに秘められた宗教(2)「蜘蛛の糸」を
再度観ました。原作のポール・ケーラス著『カルマ』は西洋人向けに書かれた仏教を
解説するための物語ですが、この本、1894年にアメリカの雑誌に掲載されると評判を呼び、
その年のうちにトルストイが翻訳、ドイツ語、フランス語にも訳され、日本でも翌年に
英語版が出版されて、そこから3年後には鈴木大拙が『因果の小車』として出してるんだそう。
先生が今度出す本もこんな感じで、次々といろんな国で翻訳されたらいいですね!
そうそう、ぎんたは義母が亡くなり、初めて「枕団子」というのを作りました。
YouTube6本8回くらい見てやりましたが、ねこ、案の定、まん丸が作れなくて、
ユーチューバーと同じ手つきでやってるのに、丸じゃなくて、甘食みたいというか、
独楽を上下にくっつけた様なというかな形になって、途中で90度方向を変えて丸めたり
するなど、苦労しました。170gの上新粉で10個の団子を作り、下6個、中3個、
上1個に積み上げました。これは物理的な「事実」です。ぷん。←春間さんに対する
怒りです。。。
駄文失礼しました。
ぎんたさま わたしの本は、諸外国語に翻訳されないと思います。。とうてい無理だと思うなあ。なんとなくめげそうな感じがしてきました。
かみさまほとけさま、わたしをおすくいください。。なさけないっす。
息子の具合がよくないので、いまは、めっちゃ弱気です。
枕団子を作られたんですね。わたしも、そろばん玉のようになってしまって、丸くなりません。わたしの場合は、枕団子でなくてただのダンゴだったけど。
コツがあるんだと思うなぁ。。
よし!元気出すぞっ、とっ!
そろばん玉!そうです、それです!
先生、先生自身が神でほとけなんですよ、自分で自分を救うんです。
もしくは救わないんです。ただただその体験するんです。残念ですが。
弱気なら、今は弱気が必要で、元気出るタイミングで元気が必要なだけです。
ぎんたさま こんばんは。
>弱気なら、今は弱気が必要で、元気出るタイミングで元気が必要なだけです。
そうか。。そうなんだね。「弱気は必要」って、覚えておこう。
弱気も、コミでわたしだし、ね。ぎんたん、ありがとね。
> わたしの本は、諸外国語に翻訳されないと思います。。
本は翻訳できますが 「 心 」 は 翻訳できません
「 心 」 とは 読むモノ ではなく 共に たかなる “こと” です
ことば( こと の は ひろがっていく その 先っちょ )
その さきに は な さ くう 「 有 」 のすがた
葉 は ふるえている ( こころを ゆらしている )
ひとつのは に ある ひかりのすがた は ふるえている
ほんやくされた ことのは で も ひとはすわることができる
ほんやく されなくとも おきたこころの ゆれはつたわっている
> とうてい無理だと思うなあ。なんとなくめげそうな感じがしてきました。
「 無 」 理 を もってして 「 有 」 理 を つかむ
めげそうなかんじ を みつめることができる “眼”
眼でみて 解するのではなく 眼を通して カン して いるのです
( 勘違い も カン のうちの “カンジョウ” です )
あらゆる こと を
感情 を 解せず (介すことなく)
よく 観 聞き し そして わすれず( 解を得る )
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
ひとはかならず めげている こころ を ながめることがかなう
できない とすると できない ミチ を あゆむこととなる
( 未知 とは できるできない を 跳出している )
未知 のことで 「 道 」 を 量る と おもさをあやまつ
かるくかんじたり おもすぎると “おもったり”
キチん と “できてはいない” から 未知 なのです
既知 のこと で ミチ・ 「 道 」 は はかれない
( はかる 心 から はなれる )
「 心中側近 」 仏法非遥心中側近
きちんとできないのに 既知 で 未知 を “はかる” ( 仏法非遥 )
あそび(遊・非遥) こころ
は あなたの 解の すぐ横に起きる
( あなたの 解に あなたの解する遊び が ある )
“ まっ直ぐ ” を 見ているようで すがめ に なっている
( 「 卒堵婆の方 を すがめに見やりつつ 」 )
盛りだくさん に 盛っていること を 「豊」 と 見る
ぐっと 引き締まったことを 「倹」 と 知る
( 仏道もとより豊倹より跳出せる ゆえに 迷誤あり )
いくら 多語 で 語ろうと タコのことばに スカンタコ
・
光の速さ で 位置を変える 光子 には “相対論” 的には 時間は無関係である
翻って 私たちの “身体” は 量子論的 光子 によって 構成されていて
光子の動きで 身体の位置の変動を “体験している”
光子 は あらゆる場所 から 発せられていて
その 発する時 と 到着する時 との間には 時間は関係しない
( 位置を 瞬時に変えている )
光速 では・ならば 時間と“距離” とは “止まる”
わたしの “思い” は 発した時に あなたへと伝わる
“思い” という モノ・現象 は 量子の動き なのです
( 量子を止めることはできぬ が 乱す心 は 止められる )
動きによって 動きを制す 動かぬ心・持続する坐
観測する時 “時が生じ・時が生みだされます”
観測 を 積み続けると 時は移ろいます( 移ろう時を積み重ねる )
移ろうう時 は 移ろう心 の その 背後を支える
鬱ろう から うつ・憂い が 起きます ( 憂い から 移ろう が 起きる )
“確固” から 動かぬ心が 発します
( 端坐 黙想 坐禅心 )
親心(御心) と 自分の財 とを ごちゃまぜにする
・
春間さま
>芥川 には 鋭い着目点 と 誤った “学習” が 併存しています
「誤った」というのは、自分のことではないことを考えることなんだと思います。
そのように納得しています。
> 自分のことではないことを考えること
自分事 として “ 考えて” 自分なりに 解釈する
“他人事” です ( 自分を カンジョウ に 容れる )
( 怒り や 迷い や 喜び“言” として 記述する )
よろこび方 には 可亡し み・見・実 が ソコニ よこたわっている
喜んでいる場合じゃない と 知って “喜ぶ” 喜び
かなしみ を 亡きモノ 邪なく あるモノ として 迎え入れる
自分のこと とは 自分で考えたこと ではなく
自分を “すでに知って 知りつつある” 他人事 なのです
「 平等 」 という 意味 を
不平等から捉えると
なんでも平等に分ける ということ が 等分 と される
他人の目を 意識して 少しだけ分ける ということに 躊躇が起きる
多い・少ない を 「量」 で 量る
「 無量 」 の 「 時 」 ・場所・ 「 住処 」 で
「 無 」 に 彷徨う 、、、、 ( ステッペンウルフ )
Der Steppenwolf Born to Be Wild
heavy metal thunder が 鳴り渡る 、、、、
自分のことではないこと が 自分“意”外 に 起こる理由はない
( 他人 の 意識 を 自分 で 意のままに 推測して固定する )
納得 が 掴み取られて 納められるところ ガ 「 個我 」 です
たとえ 個のもの でも 分け与えるとき 他人と ともに たずさえる
携えられたモノ にも “ 「 己 」 性 ” が ある
( コ コ の ところ・こころ を じつと かん我得 観変え 、、、、 )
「 己 」 言う こと を 観かえ ながら 観ずる
( めくるめき その 「観」 を
碧巌録 第一二則 「 花簇簇 錦簇簇 」 と あらわす )
父さん は アサ カ ヲ アラウ 、、、、
( 坐宙 に アラワレシ アラソウ コト ナキコト・アリシコト )
・
まあ 通説では、
極楽浄土は阿弥陀仏の世界
釈迦牟尼仏は世間に起きる(起きて出でる)
翻って、 極楽浄土は世間の概念
阿弥陀仏とは概念を無量する