たくさんの作品を著したとされる龍樹は、今や、わずか『中論頌』のみが、彼の真作だと出ということになっている。
この意見も古くなったかな?
でも、多くの人は、龍樹は、たくさんの作品を書いたとそのまま思っている。龍樹作とあれば、素直にそれを信じているだろう。わたしもです。多くの人の一人です。
それにただ「龍樹はたくさん書いた」と思っているわけではないのです。龍樹はたくさんの作品を書いたことを、実は、知っているのです。
「書いたのを見たの」と言われそうだけど、まあ、見たに等しいと言ってもいいかと、思ってる。
そういう読み方をしているからね。
書いたように読むときは、ブッダを学ぶとそのようになっていくんだよ。
ブッダは悪魔にこう言ってる。「悪しきものよ、おまえは安心していなさい。修行を完成した方がお亡くなりになるのは、遠くはないだろう。これから三ヶ月たってのちに、修行を完成した方は亡くなるであろう」と。(『ブッダ最後の旅』岩波文庫、p.89.)
アーナンダに語った文章なんだけど、語ったとおりに語るのが、ブッダの書き方なんだよ。だからその場にいるような気がしてくるんだ。龍樹は、その書き方を知って、『中論頌』を著したんだよ。
三世についても(過去と未来と現在)、そういう書き方になっているんだよ。
過去のことを思い出す時は、洞窟の中にいて多くの煩悩に覆われている、と語っている。(『ブッダのことば』岩波文庫、772,p.175.)
書いてあることばは、今語っているとおりに語られている。だから、あなたも、そのようにしたがって読んでいけば良いんだ。同じような気持ちになるまで読むならば、同じような気持ちになることだろう。
そうすれば、少し書いてあることが飲み込めてくるだろう。
このようにして龍樹の作品群を読んでいくならば、龍樹のことが少しずつわかってくると思う。
そして、全部、龍樹が書いたものなんだなあと実感してくるだろう。
だからね、龍樹は『中論頌』しか書かなかったとちまたでは言われても、気にしないし、惑わされないんだ。涅槃なんだよ。
知っているんだ、経典の読み方をね!


コメント
今となっては龍樹が個人なのか複数人なのか思想集団のサークル名なのかわからないのだから、論旨や論理体系の純粋論理構造物なのでとてもいいですね。
肉体やキャラクターはもはや関係ない。
カエルさま おはようさん!
「いまとなっては」というのは、ほんとそうですね。
純粋論理構造物って、わかってるんだなあ。。
なぜかそういう風に解釈されているものは殆どないのが不思議な感じがしてきます。
> 純粋論理構造物なのでとてもいいですね。
元々 すべての “ 存在 ” とは 理論的構造物 です
触れる という 構造性 は
知覚構造 に 過ぎません
・
知覚 とは 理論的構造 によって 成り立っていますが
そのようには 理解しない という
理論的構造 が 理論として成り立ちます
> 肉体やキャラクターはもはや関係ない。
関係ない とは 言えません
“ 実存 ” に こだわりを持つと
特殊な関係性 が 一般化されます
みんなで特殊性を共有すると 一般化になります
( “ 実存 ” とは 実際あるがごとく 扱われます )
春間さま
>元々 すべての “ 存在 ” とは 理論的構造物 です
なるほどぉお。。『中論頌』第20章を読んでいるので新鮮な気持ちで素直に反応します。
“ 存在 ”ということばに、ちょっとこだわりを感じます。
>> 元々 すべての “ 存在 ” とは 理論的構造物 です
> “ 存在 ”ということばに、ちょっとこだわりを感じます
“ こだわり ” とは “ 存在 ” です
私の使用する言葉 には “ 存材 ” は ありません
他方 ( 他方も存在です ) あなたには
“ こだわり ” → 存在 が ある
( あることに引き当てて あるとする
→ 引き当てるモノ が モノという存在 )
もっと 説明が必要ですか ?
あなたなら この程度 で 理論化できるはず
・
春間さま こんばんは。
>あなたなら この程度 で 理論化できるはず
反対しません。
というか、そう言うことになりそうですね。