緊急で! ブログを書いてみよう。
龍樹がわかってきたので『中論頌』第17章から第18章に進んだことをお伝えします。第17章は、理解するのが骨だった。
「言失」は、昔、書いたことがあるので、二番煎じだなという感じで書きました。「もう聞いたよ、その話」って言われないかヒヤヒヤしたけど、みんな優しくて言わなかった。
心の中のことは、誰もが「わからないだろう」「知られないだろう」って思ってるけど、そんなことはない。心の中のことほど、露わになるものはない。。
だから、誰も何も言わなくても、心配しなくていいんだよ。君の言いたいことは誰かがわかってくれてるんだ。
自分に引きつけて話すと、
『中論頌』が龍樹作だというのは善いとして、『方便心論』も『大智度論』も、龍樹作ではない、ってことになってるけど、そんなことは、誰もが無視している。
「誰も」というのは言い過ぎです。学界は『中論頌』だけ龍樹作にしている。。のだから。
でも、心の中のことほど露わになるものはない。「言失」によって、二度繰り返すことは無駄骨だ、とわかったんだ。常にこの世は変化して止まない。。けど、というか、だから、というか、二度、同じ川に入ることはできない。
「同じ」は、そもそもないからね。常に変化するなら、「まえとおなじ」はあり得ないんだ。
でも、でも、
人間の心は「同じ」を求める。。「ああ、これ、まえにもあったな」って。
前にもあったことを見つけていくと「同じ」という感覚がわいてくる。
そして、気づいた人は、こう言うんだ。。「歴史は繰り返す」って。
万物は流転するから、同じ川には入れないんだけど、同じ川に入って水浴びする、のは、子供の頃何度も経験するんだ。。
「どちらの言い方も正しい」って言われる。どちらもわかるからだ。
そこで、かんたんな結論。
同じ川に入る、同じ川に入れない、だから、同じ川に入る
同じ川に入れない、同じ川に入る、だから、同じ川に入れない
こんな風に言うと、二つの意見が出てきてしまう。そこで、これら全部を合わせて否定する。
同じ川に入るのでは、なく、同じ川に入らないのでは、ない。
そこで「不一不異」(同じではなく、違うのでもない)という言い方ができるんだ
ブッダの「中道」だね。これは文字通りなんだ。
つまり、「同じでもなく違うのでもない」なんて、いってみれば、からっぽだろ?
何も言ってないに等しい。。ってことは空だね。だけど、少し納得しただろ。。そうかぁ、こういうわけで空っぽなのか、って、わかっただろ、その分、賢くなったような気がするだろ?
そう言うことなんだよ!人間だけが立派なんじゃないよね。他の動物たちも賢いだろ。。争わないもんね。他の動物たちと同じような見解に到達するのに、どれだけかかってるんだ、人間は。
こういうわけで、戯論(けろん:いろんな意見)は寂滅(じゃくめつ)するんだね。
「緊急」でもなかったかも。。。


コメント
ちょーいまさら質問ですが
> 学界は『中論頌』だけ龍樹作にしている
『中論頌』以外の竜樹造を竜樹作とすると「何が起きる」のでしょうか?
横入りすみません
『大智度論』のない龍樹菩薩とか考えられないなぁ……
Pocketsamaこんばんは。
>『大智度論』のない龍樹菩薩とか考えられないなぁ……
わたしもですよ。現代の科学書(?)を読んでる気分でした。博学だしね。
ナンダカンダさま おこんばんは。
>『中論頌』以外の竜樹造を竜樹作とすると「何が起きる」のでしょうか?
たぶんですが、何も起きないと思うのですが。。
わたしは、龍樹がたくさんの作品を書いた、という意見で、龍樹作と称されてきたものはみんな龍樹作なんだろうと思ってます。
たくさん作品を書いたのは、話題が広がっているからです。
どんな話題にもついて行けたから作品もたくさん書けたと思ってるんです。
根底には論理がしっかりあるからだと思います。
すごいのは、龍樹によって「ブッダは何も説かなかった」と言われていることです。
そういう見方を伝えれば、ブッダは自分の仕事が済んだと思ったこと、これがすごいことだと思ってます。
エムセンセ
> 学界は『中論頌』だけ龍樹作にしている
ってことは、学界では『中論頌』以外は竜樹作ではない、ってことですよね?
私は学界の中の人ではないので、(ここでエムセンセが言う)「学界」ってどっちの川に入っているんだろう?っていう好奇心が起きてしまったのでした🤔
ナンダカンダさま
>学界では『中論頌』以外は竜樹作ではない、ってことですよね?
「学会では」というのはちょっと主語が大きすぎるかもしれません。
一応のコンセンサスとして『中論頌』だけは疑いようがない、という感じかと。
海外のChristian Lindtnerとかはもっと多くの著作を真作と認めてますし😓
おー、pocketさま、ありがとうございます🙏
違う意見もあるということがわかりました。
なぜかと言うと「学界」と「同じ川の例」が同じレイヤーに見えなかったのでちょっと混乱したのでした。
ひとりごとですよー
「学界」と「学会」ということばが出てきましたが、「学会」が研究者の所属団体を意味するとしたら、「学界」はわからないをわかりたい人たちがわかったことを発表する研究者の場だというのが私の理解です。さらに学界の字面をつらつらと眺めていると学のダートゥって意味にも取れるなぁ。。。と
ところで、インターネット空間で情報(データ)が伝播するとき、「データの同一性(同じであること)」を保ちながら通信するルール(プロトコル)にTCP/IPモデルってのがあります。(文字とか文章とかの)ひとまとまりのデータをバラバラにしないで運ぶための交通ルールみたいなかんじです
そのモデルは4つの層に分かれていて、層に分かれているから役割分担&連携しながらデータを送ることができるらしいです(一車線だと時間&コストが掛かるので車線を増やす感じ)
データのまとまりを一意(同じもの)として扱うんだけどそのまとまりが伝播する層は多層構造で、各層はデータを・・・って・・・どこ(どっち)の話だ?となってしまってTCP/IPモデルの説明は何度読んでも????と迷います
ことばもデータ(情報)だとすると、それを伝える層(音とか文字とかディスプレイとかとかとか)見ている対象、視点とかとか、が変化する(または条件が違う)のだから自分も他人の話もそりゃーかみあわない方が多いだろうなと思われ
かみ合わないこと(同じでないこと)の方がしょっちゅぅ起きるのが世の常の無常が同じ(状態 or 条件?)ってことのかなぁ🤔🤔🤔
「わかる/わからない」ことの「わからなさ」がチョットワカッタかなぁ
> 海外のChristian Lindtnerとかはもっと多くの著作を真作と認めてます
真作 かどうか は 問題でではありません
その著作 が “ 龍樹 ” か どうか です
「 ブッダ 」 か どうか です
( 「 真理 」 か どうか )
Buddha が そこに
“生きている” か どうか です
( そこに「 永遠の命 」 を
“見出す存在” が “友として起きている” か どうかです )
真作 であろうと 偽作 であろうと
Buddha を 見出す ( 「与」 Buddha が そこに立つ )
という 意味が起きる か どうか です
「 法華経 」 では そこを「 唯仏与仏 乃能究尽 」と 説き示します
Buddha として 生きる自覚・言い切る生きざま が あるかどうか です
( そして 此処にも ↑「 唯仏与仏 乃能究尽 」
が “与仏” として “生きています” )
あなたは これ(?) を 与仏 として 読んでいますか ?
凡愚 と 認めて 凡愚で読みますか ?
( これ(?) は ・ ソレテ 居る カドウカ は
Buddhaの問題 であり ソレ? を Buddhaは 問題とはしません )
「 永遠に生きる・一度だけの生 」 の
「 永遠 」 と 「 生きる 」 とを “ 再度 問います ”
「お前はどうあるか」 と “言う” 問い が 木霊 します
・
あれ?この文章はちょっとわかりやすいぞ??
春間さま おは!
>Buddha が そこに
“生きている” か どうか です
( そこに「 永遠の命 」 を
“見出す存在” が “友として起きている” か どうかです )
「もしかしてキリスト教とちゃう」と時々思うんだよね。。「永遠の命」はないです。
「永遠の命」の代わりに「涅槃寂静」と言います。
> > Buddha が そこに
“生きている” か どうか です
“ 生きている ” という 意味 が “ 死んでいる ”
( “ 生きている ” ) か どうか という意味です
存在していれば その存在 は
“ 「 自我 」 なる 「 主体 」 ” によって 認識されます
その 「 認識 」 は 死んでいます
その命( 「 認識 」) は 限りにあるからです( 「 縁起 」 に起きている )
「 生 」 が起きれば 「 死 」 が そこに起きています
が !
あなたが どちらかに( 「 死 」 に ) 執着すれば
限りある命 として 死んでいく( 死に必ず到る )
“ 死んでいる命 ” なのです
ありもしない 「 死 」 を 目の前にして 執着しているのです
生きている 「 智 」 ではなく 死んでいる 「 知 」 です
( 生きている 「 知 」 と 同義 です )
必ず 他方 は 「 縁起 」 して 起きます
「 永遠 」 なる ことば は
仏陀 によって 仏陀に 起きている「 生 」に起きる
あなたには
限りがあり 繰り返される 「 生 」 に 起きる
決して 輪廻することなく 「 今 」 が とわ に 続く 「 生 」
返信は 無用です
しかし (あなたのような) 拒否 ではありません
・
> 「もしかしてキリスト教とちゃう」と時々思うんだよね。。「永遠の命」はないです。
“ キリスト教 ” って なんですか ?
“新約聖書” の “あなたの解釈” ではないですか ?
ナザレのイエス の ことば が
「新約」にあるのではなく
あなたの言葉(解釈) が “ 実 ” と なっているだけです
新約 といおうと わたしは なーんにも約束してはいません
約束を破っている という方が まだましです
わたしゃ 便宜的に キリスト教徒 と 言ったりします
そんな キリストの再来 には 興味はありません
十字架に死んで 命(の言葉) を (伝聞の形で)私に残し
その “ 「 法 」 としての ” 命 に わたしは生きている
一度だけの (今ある) 輪廻することなき 命 を 生きている
あなただって “ 今ある命 ” を 生きているから
牟尼 は 「 平等 」 を 説く
死に行く命 に つかまっている(囚われている) のは
誰なのであろうか ???
・
ナザレのイエス の ことば が 新約にあるのではなく
春間さま こんばんは。
> “新約聖書” の “あなたの解釈” ではないですか ?
ちがう!春間さまのことばですよ。「永遠の命」と言ったのは。
龍樹の解釈を入れて考えてみてますが、「永遠」が出てくるんだなあと思ったのです。
春間コラ貴様!!!もっとわかる日本語にしろ!とりあえず爆弾食らえー
アイナ・ジ・エンド ルミナス – Luminous
>> 「 永遠に生きる・一度だけの生 」 の
「 永遠 」 と 「 生きる 」 とを “ 再度 問います ”
> 龍樹の解釈を入れて考えてみてますが、「永遠」が出てくるんだなあと思ったのです。
“ 解釈を入れて ” という
“ 語 ” に対する “ 解釈を問う”
“ 龍樹の解釈 ” である と云う “ あなたの解釈 ”
「永遠」とは 何を意味していますか ?
アミターユス を かみ砕くと (よく噛んで 食物とすると)
「 無量 」 なる “時という概念” (と云う概念!) となります
“ 「 今 」という「 住処 」 に 囚われていること ” からの 開放
↓
「 永遠 」 とは 「 無量 」 なのです
「 生 」( 「 生きる 」 ) とは 何を意味していますか ?
Buddha が “生きている・活きている” から “活躍” しているのです
( 何故 今ここに活きている のが “ 見えない ” のでしょうか ? )
龍樹 が “イキテイル” ・ 息する息吹 が “見える” から
その “息吹” を “四食の一つ” と する(して食す)
「 パン 」 は イエスの肉 であり
「 葡萄酒 」 は イエスの血 なのです
「 言葉 」 が 「 血肉 」 なのです
「 行 」 が 「 血肉 」 なのです
生きている意肉 が Buddha・「 真理 」 なのです
Buddhaの「 行 」 が 「 血肉 」 なのです
ここで 再度 「 生 」 の “ 意味を問います ”
牟尼 が 「右」 といえば それは 「右」のこと です
あなた が 「右」 といえば ↓
それは ( 「 縁起 」 して ) 「左」を指します
牟尼が右と言えば それは “あなたにとって” 「左」のこと
( あなたの「左」 は 「右」 に 「 縁起 」 して起きている )
“わたし” は “ あなた ” ではないから
“ あなた ” は “ わたし ” ではない
“ わたし ” には あなたが右を向く のを どうすることもできない
「 行 」 (歩み事) は あなたに起きる 故である
( “ わたし ” の 歩み事 は あなたの認識下 に 起きる )
ここで 再度 “ トウ・投げかける ”
“ わたし ” は あなたに生きている「 血肉 」 かどうか
「 今 」 に 生きる という 「 行 」 はどこに起きているか
“ わたし ” とは “あなたの認識に生きる” しか ないのだろうか ?
「 無量 」 に 生きることは 出来ないのであろうか ??
> ○○○○のことばです
と言う とき( その時がおきる 「 住処 」 ) は
誰の言葉 であろうか ?
ことばを慎む とは 行いを慎むこと です
「 慎む 」 とは ヴィリヤ です
ツツシンデ この言葉 を あなたに贈る
受け取られない食物 は わたしに還り
わたしの血肉となる
Su.462 ( 出典 中村 元 訳 岩波文庫「 ブッダのことば 」 p. 95 )
「 生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる 」
煩悩 は “あらゆる薪 から起きる” のではなく
“あなたが握りしめる薪” に ヒ が ついて起きる
“あなたが握りしめる薪” に キ が つかないから起きる
・
春間さま おはよう。
>> 龍樹の解釈を入れて考えてみてますが、「永遠」が出てくるんだなあと思ったのです。
>“ 解釈を入れて ” という
> “ 語 ” に対する “ 解釈を問う”
> “ 龍樹の解釈 ” である と云う “ あなたの解釈 ”
> 「永遠」とは 何を意味していますか ?
春間さまの解釈を指しています。春間さまが最初に述べた意味です。
春間さま
>ありもしない 「 死 」 を 目の前にして 執着しているのです
これって世間でよく言う「死は存在しない」(経験不可能)って奴ですか?
Pocketさま おはよう。春間さまへの疑問・質問ですけど、
わたしも答えてみてもよいかな。
>これって世間でよく言う「死は存在しない」(経験不可能)って奴ですか?
よく辛い人生を送って亡くなった人に「これで楽になるねえ」と話しかけてる人もいますよね。
正直なところ、死は来るとわかるもんだと思っています。。あとで、「てっきり自分は死んだと思ったけど死んでなかったのかあ」って、いうこともあると思うけど。
> > 「永遠」とは 何を意味していますか ?
> 春間さまの解釈を指しています。春間さまが最初に述べた意味です。
最初に述べた意味 を あなたが あなたなりに解釈して 応えたわけです
その あなたの最初の解釈 が
単なる あなたは龍樹に則っている という 自意識です
ここ以降 を 何度でも 読み返してください
**********
> 龍樹の解釈を入れて考えてみてますが、「永遠」が出てくるんだなあと思ったのです。
“ 解釈を入れて ” という
“ 語 ” に対する “ 解釈を問う”
“ 龍樹の解釈 ” である と云う “ あなたの解釈 ”
「永遠」とは 何を意味していますか ?
アミターユス を かみ砕くと (よく噛んで 食物とすると)
「 無量 」 なる “時という概念” (と云う概念!) となります
“ 「 今 」という「 住処 」 に 囚われていること ” からの 開放
↓
「 永遠 」 とは 「 無量 」 なのです
「 生 」( 「 生きる 」 ) とは 何を意味していますか ?
Buddha が “生きている・活きている” から “活躍” しているのです
( 何故 今ここに活きている のが “ 見えない ” のでしょうか ? )
龍樹 が “イキテイル” ・ 息する息吹 が “見える” から
その “息吹” を “四食の一つ” と する(して食す)
**********
そして 読み返したのであれば ! 再度 !
わたしの用いる語 「 永遠 」 とは どういうモノ でしょうか ?
分かってしまった( Buddha ) のであれば 読み返す必要はない
けれど
分かろうとするのであれば 分かるまで 読んでください
( 分からなければ )
ただし あなたに必要のないこと は あなたには 不要 です
わたしは 提示するのみ 歩んで 分かるのは あなたです
・
春間さま おはよう!
>最初に述べた意味 を あなたが あなたなりに解釈して 応えたわけです
それは違うよ。それに対して、わたしはこう言ってる。
>ちがう!春間さまのことばですよ。「永遠の命」と言ったのは。
>龍樹の解釈を入れて考えてみてますが、「永遠」が出てくるんだなあと思ったのです。
ここで、「龍樹の解釈」とあるのは、「一般的なことばの持つ意味において」ということです。
でも、答えなくても良いよ、春間さまの答えはわかっているから。
> わたしは 提示するのみ 歩んで 分かるのは あなたです
わたしは自分で答えを見つけているから、提示しなくても良いです。。
Pocket 様
> >ありもしない 「 死 」 を 目の前にして 執着しているのです
> これって世間でよく言う「死は存在しない」(経験不可能)って奴ですか?
ありもしない 「 生 」 を 目の前にして 執着している
ということです
あなたは 「 生 」 って
どういうモノ か どういう事 かを 知っていますか ?
釈迦牟尼 が 一度だけの 「 生 」 を
今も生きている と 知っていますか ?
釈迦牟尼 は あなたの 「 生 」 において 死んでいるのですか ?
生きている ということ ・ 死んでいる ということ
とは
どういうことでしょうか ?
「 命 」 って どこに どのようにありますか ?
五蘊の 上に( 下に・中に ) 存在していますか ?
上下左右真中 って 誰の どこから 決められていますか ?
決めているのは 「 自性 」 ではないですか ?
( 自己が中心にあって 上下左右真中 が 起きます )
Su.1055 ( 出典 中村 元 訳 岩波文庫「 ブッダのことば 」 p.222
「 メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
1056
このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。 」
・
〉 わたしは自分で答えを見つけているから、提示しなくても良いです。。
あなたが受け入れなければよいだけです
ここは あなたのサイト であると 同時に WEBの窓です
あなたが提示を拒否する ということ を わたしは受け取ります
わたしが提示したことは わたしに返り わたしは反芻します
受け取る 人が いる かもしれません ( わたしは受け取る )
少なくとも 小さくとも 大きな 荷物 を わたしは背負って歩む
春間さま
> あなたが受け入れなければよいだけです
そうですねえ。。そういうことにしましょうか。
まあねえ、いろいろありますよね。。なんだ、この答え!
あなたについて は あまり心配していません
あなたには 「 道 」 が 見えている からです
( 「 道 」 から 外れている と知ること
も 「 道 」 の上にしか成り立ちません )
外れているかどうか は 正しい視点の上に成り立つからです
しかし 「 言葉 」 は 二つの違った道にまたがります
( 二つでも 「 道 」 とは 一つである けれども 、、、、
「 世間の道 」 と 「 道 」 に 分かれる )
「 正しさ は 正しくない故に 正しい 」
「 般若 」 です
あなたの 「 言葉 」 は 違いあって対立する 二つの意味を持っています
その “一つ” に 意味があると 記述しているのです
窓 から 窓の外 を 見る人もいます
( そのように 見える 窓 から
わたしはのぞき込む ・ わたしがのぞきこまれる )
あなた は みずからのこと を “ わたし ” と 呼ぶ 、、、、
“ あなた ” とは これを読む すべての 人( 衆人・とらわれし人 )
“ わたし ” は みずからの内 の “ あなた ” に 呼びかける
何度でも 反芻して 老いた牛の如く やせ衰える 、、、、
老いた牛 でも 草を食む 少聞の “ わたし ” は
ツツシンデ 食すがごとく ゆっくりと かみしめる 、、、、
「 仏道もとより豊倹より跳出せる 」
・
mani先生、春間さま、こんにちわ
ちょっと調子が悪くてレスが遅くなりました
春間さま
>釈迦牟尼 が 一度だけの 「 生 」 を今も生きている と 知っていますか ?
法華経ですかね?
でもこれも春間さまの立場の一つに過ぎないんだろうなあ……
春間さまの百面相では、その時々でその時々のことを語るのであった……
mani先生
>正直なところ、死は来るとわかるもんだと思っています。。
ですよねぇ……人は一人ではないのだから、誰か周りにいて、その死を知っていると思います
自分ではない身近な誰かが死んだのだから、自分にも死はあることは明らかでしょうね
マーニプッタ君(by カエルさま)のことが思い浮かんで、ちょっと、レスに思い悩んでしまいました。心に浮かんだそのままを書けばよかったのだ。。
Pocketさま こんばんは。
>ですよねぇ……人は一人ではないのだから、誰か周りにいて、その死を知っていると思います
マーニプッタのこと、ご心配いただいてありがとうございます。
淡々としている姿に、自分の息子ながら「すごいな」と思います。
たぶん、「時」というのはないんだろうなと思っています。
それにしても、仏教をやってよかったですよ!生きる道だなと思います。
死を語るようでいて、生を語っているなと思います。
>> 釈迦牟尼 が 一度だけの 「 生 」 を今も生きている と 知っていますか ?
法華経ですかね?
釈迦牟尼 は あなたの中で 死んでいますか ?
まあ 生きていても 意味がない あっても知ろうとはしない
( 意味がない という 意味 を 牟尼は説く )
説いていても 聞かなければ 意味はない
> その時々でその時々のことを語る
このこと は どの時で どの時の事を 語っていますか ?
すべての人 は この時に この時のことを語る
けれど どの時にも当てはまらないこと を 語っている
あなたは 例外ですか ?
・
春間さま こんばんは。
Pocketさまへの返信かもしれないけど、ここに書きます。
>すべての人 は この時に この時のことを語る
けれど どの時にも当てはまらないこと を 語っている
そうかもしれないけど 「この時に この時のことを語る
けれど どの時にも当てはまらないこと を 語っている」ということは重要だと思っています。
人の思いはどこにでも行く。。そして思いだけは残ってそこにとどまる。。それを後の有情が受け止める。。
よし!これで返信だ!
> たぶん、「時」というのはないんだろうなと思っています。
「 時 」 は “あなたの想念” の 中に 存在しています
「 怨念 」 のようなものです
「 実体 」は どこにもないけれど あると信じて“疑うことのない”
あなたの 「 本体 」 に 存在する
“ 疑うことなき 今考え得ている自分 ” は “思い” として
存在するゆえに今考えている
“ 思い ” とは 「 実体 」 です
「 実体 」とは 物質 なのです
「 物質 」とは 素粒子の活動 なのです ( “活動” ですよ ! )
“活動” が “活動” を 感じる( 活動に共鳴して活動する )
意味が分からない だろう と 思います 、、、、 ( 活動します )
“ あなた ” という 活動は
意味を捨てて 共鳴する ( 波紋が重なって交じり合うように )
「 戯論寂滅 」とは このような様 を 言い表します
( あなたの 思いなる波 は 重なる波紋に重なる )
“ “ 重なる波紋 に 重なる波紋 ” は “ 重なっている”一つ“ の波 ” ” です
( “一つ” とは “単独=一つ” では 存在できません
必ず 重なり という 「 縁起 」 で 起きています )
「 戯論 」 に 「 戯論 」 を 重ねる 「 戯論 」
「 戯論 」 は 「 寂滅 」 しています 、、、、
( 寂滅してはいない と 「 戯論 」を 重ねる 、、、、 )
あれは「 戯論 」である と 「 実体 」は 「 論 」 を 重ねる
>> けれど どの時にも当てはまらないこと を 語っている
>> あなたは 例外ですか ?
> 人の思いはどこにでも行く。。そして思いだけは残ってそこにとどまる。。
その とどまっている 宇宙( 「 世間 」・ 世情 ) は
波 となって “とどまっている”
( とどまる波 が どこに存在していますか 重なる想念
あなたの 揺れ動く “想念” として 波となる )
固定した あなたの 時(時という想念)の 間 に 波が起きている
どこから どこまで が “一つの波” です か ?
( “一つ” とは “固定”した波 の “動き方を表す波” です )
> 死を語るようでいて、生を語っているなと思います。
「 生 」 を 語ること が 「 生 」 です
「 生 」 で 「 生 」 を 語っても 「 生 」 は 解き明かされない
しかし あなたは 「 生 」 を 「 智 」 って 語っている
( だから 心配してはいない のです )
> それを後の有情が受け止める。。
受け止める(重なる)波 は 波として 動いていく( 波状をなす )
止まってはいない 波 を “止める(重ねる)受け止める” 波
その有様 を 「 有 」 と 表す 「 智 」
・
ナンダカンダさま 出遅れてます、わたし、コメント書き込みに。
>> 学界は『中論頌』だけ龍樹作にしている
>ってことは、学界では『中論頌』以外は竜樹作ではない、ってことですよね?
>私は学界の中の人ではないので、(ここでエムセンセが言う)「学界」ってどっちの川に入っているんだろう?っていう好奇心が起きてしまったのでした🤔実は
実は、わたしも学界事情に詳しくないので、少し前の知識になってるのかもしれないです。
わたしは、世間の人が龍樹作といってるものは龍樹作でよいのではないか、という風に思っています。
『中論頌』がなぜ龍樹作になっているかというと、これも龍樹作ではないことになったら、あの‘有名な’龍樹に、著作がなくなってしまうので、さすがにまずいんじゃね、と考えたのではないかと、本気で思ってます。
エムセンセ、タイトルに反してぶつぶつレスしてすみません
「言失」レスと連動してますが、ぎんたさんの「わからん!」を眺めていると結局「わかる」ってどーゆーこと?って立ち止まってしまったのでした。
日常会話で「わかった」というのは「(自分は)理解した」という意味で使うけれど、「わかるー」というのは「共感しているよー」という意味で使ったりします。
ならば、そっかー「わからん」という訴えには「わからん」と「共感できない」という意味があるんだなーと。。。
ことば、めんどくさい。空を導入しないとニンゲンモメる。
ナンダカンダさま いつまでもレスして、こちらこそすみません。
>ならば、そっかー「わからん」という訴えには「わからん」と「共感できない」という意味があるんだなーと。。。
そうですねぇ、それには経験あります。昔、龍樹の言ってることがちんぷんかんぷんだったとき、とうとう、ある日、「もしかして龍樹の言ってることが正しかったりして。。???」と疑問の芽の芽の芽が生じたんですよ。その時、自分が初めて素直になって、他人の話を聞こうという気持ちが生じたんです。
いや、びっくりしましたよ!!
龍樹って、嘘つきじゃなかったんだ、って初めてわかりました。
お詫びの印に、今じゃ、龍樹のしもべです。
ナーガダーサですか。シャーキャダーサではなく。
しかし、ガンダーリー写本などの研究は革新的ですね。
やっぱりテキストではなく、ダルマですよね。
oさま こんばんは。
>やっぱりテキストではなく、ダルマですよね。
わたしなんか、それだけでやってます。
おお!
oさま 暑いですね。
今回、出す『中論頌』ですが、もしかすると、oさまのお役に立てるかもしれないという、希望がわいてきました。
もしかしなかったら、ごめんなさい。。先に謝るって、どういうことなんだ、っていわれそうです。
mani先生、
昨日暑いところにきました。汗出ますね。最近は北でも日によって暑いですね。気候変動は抑制したいですね。未来のために。
ご心配には及びません。期待しております。
oさま こんばんは。
ほんと!暑いす!
『中論頌』第20章まで来ました。
こんな構成になってたんだ、と知ってきています。。「新しい読みを手に入れた。ステップが上がった」というところかな。
おお! それは楽しみです。
随喜、随喜、随喜!
oさま 久しぶりに、続きのかきこみです。
>随喜、随喜、随喜!
随喜されてしまいましたが、まだ戯論寂滅できず、第20章でもがいてます。
ゴータマが出てくるとめちゃくちゃむずいですね。。りゅうじゅさま、あたまよすぎ!
龍樹さまさま、あたま、ばくはつしそうですっ!
> ゴータマが出てくるとめちゃくちゃむずいですね。。りゅうじゅさま、あたまよすぎ!
毎度 の事で ( 「 世間 」 的 には) 恐縮します !!
( 「 世間 」 を 眺めつつ それに引きずられることがないように 気を付ける )
Su.799 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫 「 ブッダのことば 」 180p.)
『 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 』
そのまま 受け止めれば なにも ムズイコトハナイ
そのまま 受け止められなければ マズイコトトナル
なぜ そのまま 受け取ることができないのか
ということを 受け取ってほしい
仏陀 を 他人とみなすゆえ に 他人事となり
( 自他 の “ 距離 ” が 生み出される )
たとえ それが “ほんの少し” の 「 差 」 であろうと
『 普勧坐禅儀 』 において ( 『 信心銘 』 から 引用し )
「 毫釐も差有れば 天地懸(ハルカ)に隔たる 」 と 述べられる
ハルカ に 隔たる という 「懸」 が 心のヒダ に なびいている
ヒダ というものは 山 と 谷 とで 成り立っているが
登る と 降りる とは “ 別の事ではない ” と 知ることが肝要
( もし ひっくり返すことが 可能なら 山は谷へと 転落する )
高い山に登るのは 難しく 谷へと落ちるのは 難しくはない
難しくはないことを 難しく感じるのには 理由がある
( 「 蜘蛛の糸 」 に 掴まるからである
「 苦 」 も 「 楽 」が あるゆえに 起きる )
みずからが 一本の意図 に からめとられている
( まとわりつく イト を 得 のは 「 時 」 が 解決する )
「 生 」 が起き 「 死 」 が 起きるときに それは 完全に解決する
が
「 死 」 とは あくまでも他人事 ( 自分はしぶとく生きている )
801 ( 180p. )
『 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。 』
( “ 住居 ” は “伝統的” に 「 住処 」 と 理解される )
“伝統” とは 固執の 「 住居・すまい 」 でもある けれど 、、、、
「 りゅうじゅさま、あたまよすぎ 」
どこが どのように “よい” のかを 特定できなければ
“よさ” は “ 何処に存在している のか ”
よい ということは わるい ということに 縁起している
なぜ どのように わるいことがおきているか を 知る要がある
「 りゅうじゅさま、あたまよすぎ 」 と 言う
わるい 「 言 」 が 起きている
なぜ悪いか は 「 善 」 を しらなければ 成り立たない
「 善 」 とは ナンゾヤ ! ( よすぎる頭 で 考え考え )
この 記述 には “ 意味がない ”
たとえ あろうと “ ある意味がない ”
( いや 意味がある あるとみつける 、、、、 )
あなたたちが 称賛する 意味がある
( たとえば 「寝言は寝ながら騙るべし」
與世隔絶 傳播執臭 這獣路上 素面各位 徑直走過 沒有對視 )
わたしは 唱参 して 意味に浸る
意味 というモノ は 「 住処 」 に 依存して起きている
( 「 世間 」 で “ 世空言 ” と・を 評ずる )
わたし( 「 自 」 ) とは
どこに どのように ( 「 他 」 に ) 「 縁起 」 して起きるのか 、、、、
わたしはこのことについて
「 今 」 は 「 イマワイ 」
いや 意ワ舞( 決する処 ・ 「 今 」 は “歪” である )
言フ という 「 舞 」 に 「 遊ぶ 」 わたし 、、、、
・
春間さま
> 言フ という 「 舞 」 に 「 遊ぶ 」 わたし 、、、、
遊んじゃ、いかーーん。
mani 先生、
そりゃ龍樹菩薩はインドでも傑出した方ですし、文献学ではずっと謎とされてきたかたですから
随喜からシモネッタで「これを三随喜という グラッチェ アミーゴ」と言いたいのを忍辱しました。
グラッチェ アミーゴ
> 龍樹菩薩はインドでも傑出した方
どのように傑出している かを 具体化できますか
ここでは 劣っている という評価 は
誰の優越性 から 起きるのでしょうか ?
たしかに あなたは “ 優れている ”
劣っている ということを ものともしないから 、、、、
> > 言フ という 「 舞 」 に 「 遊ぶ 」 わたし 、、、、
> 遊んじゃ、いかーーん。
いかーーん ( 異観 ) ( これには 遺憾 が あるかな ? )
も 観の内 ではあるが “ 感 ” である
「 舞 」 とは 共鳴する振動 なのです
「 遊ぶ 」 とは 「 遊行 」 です
あなたが 受け取る 私の印象 が
(あなたから) 私に授けられる 束縛 です
わたしは ワナヲトク ( ナワ なむ なわなう わたし が いる )
・
こんにちは。ハ五郎が自動翻訳機の前で居眠りをしていたら、何かが降りて憑きました。
八:寝ていたら、漢字の文が降りてきて、この手が勝手に書き出した。
隠:そなたはエドガー・ケーシーか、それとも天の高神か。
八:グラッチェ。 隠:ケーシー高峰か。 ふむ…
費城地區 我利亡者 四処遊蕩 フィラデルフィアの界隈に無敵の王が闊歩する。
服用常規 漫歩巡回 在投影中 日々の業果をつみ重ね、じぶん世界を徘徊し、
口吐白沫 直到雙眼 失去光彩 口角泡を飛ばしてる。眼光おちるその日まで、
與世隔絕 傳播執臭 這獣路上 無謬の国の王様だ。薫香みちる、彼の道。
素面各位 徑直走過 沒有對視 素面で道行く人たちは、彼を横目に過ぎていく。
大難大難 好去珍重 あぶないですな、気をつけて。
隠:特定のブツや情報が、心身の気質に沁みこんで、無謬王になっていく…。
今に始まったことじゃないが、いよいよ加速している、というお告げか。
八:まごまごしてると人は皆、種々の欲心そそられて、データセンターに繋がれて、
五蘊まるごともってかれ、そういうふうになってまう。
隠:そりぁそうだが、今回の、お題と如何にかかわるの。
八:四食三業をデトックスすりゃ、戯論寂滅、ゑひもせず、かと。
隠:まずは君からデトックス。 寝言は寝ながら騙るべし。
八:そりゃないぜぇ、セニョール。
失礼いたしました。
近侍郎さま、
グラッチェ アミーゴ
> 特定のブツや情報が、心身の気質に沁みこんで、無謬王になっていく…
特定(限定)されることのない (真実の)情報 を
手にして初めて
限定されている と いうことが 正しい情報となる
無謬王 とは
特定している と する(主張の根拠を 手に握る) 無謬王 ではないのかな ?
これくらいの 日本語 は 理解できるはず !
近侍郎さま こんばんは。
ようやく拝読!パチパチ!
いつもながら、切れのある文章に「寝言は寝ながら騙るべし」となっとくなっとく。
きれのないわたしは、キレずにやんなさい、といわれているかのよう。。
元気出ました!がんばるぞ!
わーーーぱちぱち、これ好きーー!!なんかリズム感がいいーー!!!
ケーシー高峰も知ってるwヤバいww
コメントありがとうございます。
八:お声をいただきありがてぇや、隠居。 あれ、隠居が、翻訳機械にかぶさって、いびきをかいて眠ってる。 …と思いきや、
隠:…ケーシーふたたび参上し、薫りについてさらに宣る。二番煎じと云うなかれ。
八:こんどは、隠居にドクターが降りた。どうぞ、ひん良くおねげぇしゃす。
隠:小蔥糾纏 在芬々中 草いきれに棲む、葱坊主(小パピマン)、
懸掛薫章 不加區分 香水つけて胸はって、習気を他に感染そうと、
傳播胞子 密近迷惑 飽かず辺りに種散らす。
人通三門 是如狸奴 門を出入りする猫は、
不受葷酒 種或華弁 珍味や酒をたしなまず、種や華弁を、またいでく。
打掃下了 戯論寂滅 徒な薫りをまとわない。おとといお越し、
無事珍重 御機嫌よう。
八:隠居、きょうから晩酌やめて、すぐに水風呂つかりなせぇ。お口もしっかりすすいでおくれ。クンクンかおるは、ご隠居だぁ。
隠:そりゃないぜぇ、セニョール。
失礼いたしました。
近侍郎さま こんばんは。
>人通三門 是如狸奴 門を出入りする猫は、
>不受葷酒 種或華弁 珍味や酒をたしなまず、種や華弁を、またいでく。
>打掃下了 戯論寂滅 徒な薫りをまとわない。おとといお越し、
>無事珍重 御機嫌よう。
うまいなあ。ぎんたさまも登場するね。
キレッキレですねん。
にゃ~~~。