プラサンガ論法

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いろいろあって、考えてみています。龍樹の『中論頌』も17章まで進んでいます。なかなかすすまんなあ、って思ったあなたは、わたしが「『中論頌』の注釈をつけるのに手間取っているんだな」と思われたことでしょう。

八重桜も散り始めて盛りを過ぎてきました。早くしないと!と焦る気持ちもあるのですが、

ここはじっくりと極めたいと思うようになってきました。

第17章は、仏教が関わっているのです。仏教内部のある部派の見解が関わっています。今までもそう言われているんだけど、ここ(第17章)から本格的に関わってくるのです。

気を静めるためにチューリップでも見る?

道ばたに咲いてるチューリップです。

衝撃かもしれないけど、じつはじつは、第17章から『方便心論』が関わってくると思うんだわ。わたしも、そうじゃないかって気がしてたんだけど、プラサンガ論法の正体がここではっきりしてくるかな、って思います。

プラサンガ論法は、龍樹独自だと思われている風があるけど、実はブッダから来ている。

出版事情があるので詳しくは話せないのす。まあ、出たら読んでください。

証明にはならないかもしれないけど龍樹はほぼまるごとブッダを受け継いでいます。長い目で見ることにしました。証明はできないかもしれないし『中論頌』一つしか著さなかった、っていう人が多いかもしれないんだけど、わたしは、やがて時代が証明してくれると思ってます。ナンダカンダさまにも書いたんだけど、時代が証明してくれて、やがて、そうとしか思えないようになっていって、それが常識になっていく時代がやってくると思っています。

「龍樹とブッダは同じことを説いた」という意見は、今ここだけのものですが、やがて、そうとしか考えられない時代がかならずやって来ます。

なぜなら、ブッダは論法を駆使して説いたからです。論理の地を歩いてきたのです。そして善い

ことを求めて努力したのです。論理を甘く見ると痛い目に遭うと思っています。

今回は、ひとますこの辺にしておこう。

コメント

  1. ナンダカンダ より:

    私の文章能力ではアタマの中を記述するのがちょー難しいんですが、トンデモ角度で見てみると、、、

    例えば数学では「1=0.9999…」は「正しい」のです。

    「無我なのになぜ輪廻するのか?」という問い立てから始まるのが「1=0.99999…」の世界だとして、「無我ゆえに輪廻する」という世界もある。

    どちらも正しさにおいて正しくて、しかしそれぞれの正しさは証明できない。
    証明できないけれど「ま、いっか」というときは証明しなくても「ま、いっか」って感じ。

    そうすると、どっちでも「ま、いっか」が成り立つことがわかってくる(成り立つと断言するのではなく、多層から成り立っているのが見えてくるって感じです)

    正しさの証明は説明では解けないけれど、実践で説いていく感じです
    (固定された正しさ(名詞)から導引するのではなく、無常を正しい(形容詞)としてみる実践)

    なので解説するなというのではなく、エムセンセが日頃おっしゃっているように文章が行の足跡であるならば、説く価値(利益)はある、と「未来に向けて信じてます」

    • mani より:

      ナンダカンダさま

      >文章が行の足跡であるならば、説く価値(利益)はある、と「未来に向けて信じてます」

      足跡ってのが良いですね。足跡は残りますもんね。誰かが通ったな、ってわかります。

      実際通ることがないと、その道はわからない。ほんとは無我だけど、『我がある」とか「ない」とか言わないと「未来に向けて信じる」こともできないのかも。

      「わたし」と言わないと「わたし」って思えないものね。我思う、故に我あり、の逆か。。。

      •  春間 則廣  より:

          
        > 「わたし」と言わないと「わたし」って思えないものね。我思う、故に我あり、の逆か。。。

            “ の逆か。。。 ” の  “ 逆 ” ではない ( “ 。。。” である )

         「わたし」と云う 言葉  を  “使う”こと が なければ( 言う・聞く・思う )
        「わたし」 って 言葉  が  指すモノ  が 存在しない
        「わたし」 なる        “使う”存在 が 存在しない

        “ Ego cogito, ergo sum, sive existo ”   
                 cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り

          日本語 の 「 我思う、故に我あり 」 というときの
          句読点 の  置き方 によって   
                「 我、 思う故 に 我あり 」
           ま、 思う のが  「 我 」  ではなく    あなたなら
                     その「 我 ?」 は  「 我 」には存在していない
          
         あなたが思うこと が「 我 」 までやってくるときに 「 我 」は 
                   「 我 」を 使う存在 であり   我 である

          「 わたし 」 に ( あなたが思うこと が )やってこなくても
           あなたが使うとき     あなたには   ( 使っている )我がある

        ********************
            ここに ?  ( ここ って どこかな ? )
              『 マリッカー「 経 」 』 が  深く 関係している
           ( あなたの心 が わたしのところにやってくれば あなたはわたし )
        ********************

          あなたもわたしも 思いもよらぬこと なら  存在は思われることはない

            たとえ 存在があっても  思いが及ぶことがない( 思いよらない )

            思わぬ 我   であり
               「 定 」 に ある ・ 「 瞑想 」そのもの   なのである

  2. Pocket より:

    mani先生

    >出版事情があるので詳しくは話せないのす。まあ、出たら読んでください。

    個人的には長爪梵志にヒントがありそうだなと思いつつ楽しみにしてます(´・ω・`)👍〜♪