(昔のエッセーを三点あげてみました。「ブッダは輪廻を説かなかったか(上)(下)」「龍樹と輪廻転生」です。楽しんでくださいね。)
大乗仏教中観派の開祖龍樹は、仏教史の中の巨星である。彼はゴータマ・ブッダに次いで多くの人々に人気がある。その鋭い論法と自由奔放な論理展開、さらには、彼を特徴づける空(くう)の思想は、わたしたちを魅了してやまない。
これらは、龍樹の独自の思想として語られたりするが、しかし、一つ、忘れてはならないことがある。
わたしの見たところ、龍樹はブッダの忠実な注釈者である。彼ほどブッダの言葉のすみずみまで熟知した人はなく、彼ほどブッダの心のひだの奥底まで知っていた人はいない。
独自に見える論法や空の思想も、元をたどるとみなブッダの経典の中に見いだされる。ブッダの説く法にしたがって、その法をさらに龍樹の時代に合わせて展開したのが、彼の著作群であると言ってよいだろう。
そう言える証拠として、わたしはみなさんに自分自身を差し出したい。龍樹作『方便心論』を読んで、わたしが理解したのは、じつはブッダの法だった。それは、『ブッダ論理学五つの難問』(講談社選書メチエ)にまとめた通りである。
輪廻思想についても、先に「ブッダは輪廻を説かなかったか」(上)(下)と題して、本誌『春秋』に寄稿させていただいたが、その内容はブッダの説く思想であると同時に、じつは種明かしをすると、龍樹の説く思想でもあったのである。龍樹の作品『中論』の偈頌、『方便心論』、『宝行王正論』、『因縁心論』、後は、おそらく龍樹作である『大智度論』を註釈として、阿含経典にあるブッダの輪廻転生の哲学説を検討し確かめたうえでまとめたからである。
龍樹で有名なのは、空の思想なので、龍樹の輪廻思想はどこにあるのだろうと思われる人もあるかもしれない。龍樹の説く輪廻説と空との関係を少しお話ししよう。
善悪と空
これまでの龍樹思想研究は『中論』を主体としている。そのためかどうか、龍樹の思想解釈には、誤解や混乱があると思う。ここは、まず『方便心論』を取り上げてみよう。
『方便心論』には、「善悪」と「空」という二つの言葉が出てくる。善悪の特徴と空の特徴をよく知るならば、みな悩みも障害もなくなるだろうと説かれるが、さらにそれについて、『方便心論』は重要な提言をするのである。それは、ものごとを語る順序についてである。
もし、最初に「あらゆるものは空であって、幻の如くであり、真実ではない」と「空」を説くと、智者はわかるが、愚者は混乱してしまう。だから、愚者には、まず、行為とそれには結果があること、煩悩の束縛と解脱のあること、行為する者とその結果を受ける者のことなど、つまり、「善悪」を語らねばならない。そうすれば、愚者でもすぐにわかって疑うことがない。この後に、ようやく空の説明に入るべきであると説くのである。
「善悪」とは、すなわち、輪廻の境涯を指している。善い行為をすればよい境涯に生まれ、悪しきことを行うと悪しき境涯に生ずるというあり方である。これは、『中論』では「世俗諦」と言われる。
一方、「空」とは、この場合、輪廻を脱した者のあり方を指している。こちらは、「勝義諦」と言われている。
さて、そこで、愚者とは誰だろうか? 『方便心論』は内科医チャラカを対象に書かれた批判の書である。だから、この書は、非仏教徒にあてたものと見ることができる。この場合、愚者とは非仏教徒なのである。 しかし、一方、『中論』は、部派など仏教徒に向かって説かれた批判の書である。彼らは、既に輪廻の行程は熟知しているはずである。この行程は、ブッダが十二支縁起説の順観によって示していたのである。だから、『中論』はそこから脱する道の方に力点が置かれることになる。こちらの道は、十二支縁起説の逆観にあてはまる。このため、縁起のもつ「空」という性格が重視して説かれているのである。
善悪を説き、次に、空を説く。これが、龍樹の主張する順序である。 同じことが、『宝行王正論』にも説かれる。ここでは、「まず法による安楽があるならば、その後、至福(解脱)の達成がある。安楽を獲得したあと、それから後、至福へと向かうのである」と説かれ、「善悪」と「空」は、それらの実践によっていたる境地、すなわち、「安楽(アビウダヤ)」と「至福(解脱)」に置き換わっている。そして、第一章では、実際に「安楽」それから「至福」という順序で、内容的には、善悪とその報い(一・七~一・二四)が、次に、空観(一・二五~一・三四)が説かれている。
縁起と空
善悪を説き、その後、空を説くのは、これらだけではない。『中論』によっても、それは、はっきりと知られる。第二六章の十二支縁起の説明で、無明に始まり老死に終わる十二の行程が説かれ、苦しみが集まり起こるさまが述べられる。ここに「善悪」のあり方が示される。そして、次に、無明が滅することにより、次々と後のものも滅していき最後に苦が滅すると、「空」のあり方が示される。
先に拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」(上)(下)では、ブッダの哲学は、弁証法の哲学であると述べた。苦しみにいたる輪廻の道筋をまず説き、次にそれを脱する道筋を示すという順序で語られると強調したのである。この根拠におかれるのが、縁起(因果関係)である。このように、縁起は、時間に縛られた関係である。ブッダの説く縁起が因果関係であるなら、龍樹の説く縁起も、また、因果関係である。
従来、龍樹の説く縁起は、相依相関の関係であるとよく言われる。それは、『中論』のみを考察対象とし、「空」を先に取り上げたことに起因する誤解ではなかろうか。つまり、「善悪」の思想を意識しなかったために、最終的に「縁起」が時間を説く関係であることを見落としたのではないかと思う。この問題については、いずれ機会を見て詳しく論じたい。
龍樹の輪廻思想
さて、具体的な輪廻転生については、『中論』第二六章を見ていこう。ここで、龍樹は十二支の縁起説を説明しているが、ブッダの十二支縁起の定型的な説明とは少し異なっている。龍樹の説明は、生死流転の因縁(ニダーナ)をとくに意識して、『大縁経』や『サンユッタ・ニカーヤ』一二・六五にあるような、九支縁起や十支縁起の行程をここに重ね合わせて解釈しているように思う。
ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。
龍樹も、同じように、十二支縁起を、識(意識)を中心とするこの世からかの世への生死の流転として説明するのである。具体的には、第二六章の最初に「無知(無明)に覆われたものは、形成力(行)によって再生に向かう三通りの行為をなすが、それらによって、趣(来世に住するところ)に赴くのである」と述べて、次に「形成力(行)を縁として、意識(識)は、趣に入る」と説明している。
また、拙稿「ブッダは輪廻を説かなかったか」では、わたしは、遺伝子DNAの過去から未来への伝達が現代科学における輪廻転生であると述べ、それに対比させて、意識(識)の過去から未来への伝達が、ブッダの輪廻転生であると説明した。そう言えるのは、現代科学もブッダの教説も、因果関係を主としているからである。だから、現代のわたしたちにとっては、このDNAの喩えもそんなに悪くはないと自分では思っている。
しかし、龍樹の説明はもっとよい。彼は、「過去から未来への識の伝達」という輪廻のメカニズムを、縁起を基盤としながら上手に説明してくれる。 『因縁心論』の註釈で、彼は、師が口に唱えるものを弟子がまた唱え、というように師資相承の教えの伝達を喩えとして持ち出すのである。師の唱えるものが、臨終の意識にあたるとすれば、弟子の唱えるものは、その次に続いて生ずる意識になる。そうして、口伝の教えが代々伝わるように、識もこの世からかの世へ伝達され輪廻していくのである。
龍樹の喩えは、現代のわたしたちに、輪廻転生の仕組みとともに、口伝による仏法のありさまについても如実に教えてくれている。巧みな喩えと思う。


コメント
先生、こんにちは。
〉このように、縁起は、時間に縛られた関係である。ブッダの説く縁起が因果関係であるなら、龍樹の説く縁起も、また、因果関係である。 従来、龍樹の説く縁起は、相依相関の関係であるとよく言われる。それは、『中論』のみを考察対象とし、「空」を先に取り上げたことに起因する誤解ではなかろうか。つまり、「善悪」の思想を意識しなかったために、最終的に「縁起」が時間を説く関係であることを見落としたのではないかと思う。
龍樹の空もブッダの縁起を基本にしているということですよね。
私もでしたが、相依相関の関係のように考えてしまってましたが、龍樹が批判したのは自性についてであり、時間(前後)については否定していないですね。
赤い実さま こんばんは。
>龍樹の空もブッダの縁起を基本にしているということですよね。
>私もでしたが、相依相関の関係のように考えてしまってましたが、龍樹が批判したのは自性についてであり、時間(前後)については否定していないですね。
相依相関の関係は、龍樹自身が否定しているように思います。
必ず、時差のある関係を説いています。
縁起は原因になることを体験してから起こる関係です。縁ったあとで起こるのが「縁起」ですよね。「同寺二起こること」は互いに無関係であると述べていると思います。
> 必ず、時差のある関係を説いています。
時差 が 有る 処 で 時差のある関係を説く
「 永遠 」 に 導く ( 「 永遠 」 を 歩む 龍樹 )
龍樹 って 「 世間 」 に 存在していますか ?
( 「 中論頌 」 は 「 世間 」において 認識されている )
龍樹・仏陀 は どこに どのようにして 存在しています か ?
時差 が あるのは 「 実体 」が ある 故である
( 考える「 実体 」が なければ 「 無我 」 という 根拠がない )
「 我 」 が 「 無我 」 を 思慮する
根拠「 自我 」 が 根拠 を 証明する 根拠 なのです
“時差” も “実体との関係” も “事実として存在する”
牟尼 も 凡夫 も 同じ土台で 思慮される
土台 から 離れる のは ドダイムリナハナシ である
( と 凡夫 は 配慮を巡らせる )
> 相依相関の関係は、龍樹自身が否定しているように思います。
否定される「 実体 」 が「 有 」 である“故” が 事実の 根拠‣故
龍樹が否定 しようと あなたが肯定 していれば 龍樹は無効
龍樹が否定 している と あなたが 肯定している(事実がある)
龍樹が 否定しようと肯定しよう と
相違相関の関係の否定 ということ は
あなたの(あなたが否定する事実の) 肯定 なのである
「 縁起 」 は 「 縁起 」 の起きる処 に “事実としてある”
事実 という 実体 が ある処 を 「 世間 」 と 名付ける
( アクマデモ わたしがある 処 で わたし が 名付ける )
実体がなければ 実体を云々 できぬ
( わたし とは 「 我 」 であり 実体である )
自己否定して 破綻しているのかな ?
・
春間さま こんばんは。
> 龍樹 って 「 世間 」 に 存在していますか ?
大半の人は知らないでしょう。存在してることを知ってる人は一部かも。
>龍樹が否定 しようと あなたが肯定 していれば 龍樹は無効
まあそうなんだけど、「龍樹が否定する」ってことに意味があります。
>自己否定して 破綻しているのかな ?
そうでもない。。わからんだろね、春間さまには。たまには、ちょっとつついてみました。
赤い実さま、mani先生
>相依相関の関係のように考えてしまってましたが
『空七十論』のカーリカーの
「互いが互いによって成立しない」(”gcig las gcig kyang” ma grub ste)という言明
によってはっきり証明できると思います。
『空七十論』の自註にこの箇所を「相依相関によっても成立しない」(”phan tshun” du yang ma grub bo)と言い換えてあるので、同時成立を否定しているのは間違いないと思えます。
『中論頌』だけが龍樹菩薩の著作だと言われたら、ちょっとムリですが(笑)
Pocketさま こんばんは。
>『空七十論』の自註にこの箇所を「相依相関によっても成立しない」(”phan tshun” du yang ma grub bo)と言い換えてあるので、同時成立を否定しているのは間違いないと思えます。
そうですよね。
「縁起」という関係は、必ず時差を伴うんだけど(「時差」を出すのは煩悩と春間さまに言われるかもしれないですが)、‘縁りて起こる関係’なんだから、そうですよね。
>『中論頌』だけが龍樹菩薩の著作だと言われたら、ちょっとムリですが(笑)
ここがネックになるのかな、案外マジで(笑)
「『中論頌』だけ龍樹作」ってのは、(違うことは誰もがわかると思うんだけど)完全に否定されずに残っちゃうのかもね。「他には書かなかった」は証明できないのかな??
>「他には書かなかった」は証明できないのかな??
あれ、これ変ですね。
わたしは龍樹作品といわれるものは全部彼が書いたと思ってるから、
「他にも書いた」は証明できないのかな??
でなくちゃおかしいか。。
> 龍樹が批判したのは自性についてであり、時間(前後)については否定していないですね。
ブッダ は 「 永遠 」 を 説きます
「 永遠 」においては 時 は 意味を持ちません
「 世間 」 の 「 法 」 では 「 永遠 」 を 問います
春間さま こんばんは。
> 「 世間 」 の 「 法 」 では 「 永遠 」 を 問います
一般の人の思いに合わせて、そう説いている、と思います。