再びブッダ論理学

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周りにいろんなものがごちゃごちゃ映ってるけど、気にしないでね。

母の日のプレゼントです。見せびらかしてます。

さて、ブッダ論理学を再度取り上げます。

ブッダに論理学があることを証明しようと、名付けてやって参りましたが、「完璧」だと思います。

わたしは自分でブッダ論理学をメインに据えて考えています。わたしたちでもわかって、無理なく理解でき、しかも自然に働いて、わたしたちの煩悩を教えてくれます。最高です。

是非、ブッダ論理学を学びましょう。

この論理学では、常識が通用します。でも、しばらく進むと常識外の世界もあって、それを知った上で、やっぱり常識が一番って感じで戻ります。では、では、やってみましょう。レッツゴー!

この世のものは変化します。どんどん変化するので、言ってるそばから違ってきます。

だから、『スッタニパータ』第3章「大品」第12経「二種の随観」経から

神とともなる世界を見なさい。自己ならざるものを自己であると意識しています。

名称といろかたちに執着して、<これは真実である>と考えています。(756)

なぜなら、こうだろうと考えていても、それは、それとは異なってきてしまう。

実に、それにとって、それは虚妄であります。虚妄な法はしばしのものなのです。(757)

虚妄ならざる法は涅槃であります。聖者たちは、それを真実であると知りました。

かれらは、真実を現観して、無欲となって、完全なる寂静にいます。(758)

この世のことは全部虚妄なもので真実は涅槃だと言っています。なぜか。どんどん変化していくからです。この世のもので変化しないものにであうことはありません。

自然は変化しないだろうと思っても、大地は揺れて地震雷火事親父です。変化しないものはないとわかります。だったら、神さまは?

唯一絶対の神さまなら不変です。だけど、誰も会った人がありません。

「わたしたちが不変じゃないから、会えないんだよ」というなら、それを「涅槃」と名付けても同じでしょう。そして、涅槃は寂静の世界です。悟りを開いた人は静かな境地で安らいでいます。

わたしたちは唯一絶対の神さまと一緒にいるんだと思うなら、それもありでしょう。その時は、涅槃寂静なのです。

そして、神さまではないわたしたちが寂しくなって戻りたくなったら、この現実の世界に戻るしかありません。人間として生まれてきたサガですね。神さまは「生まれる」かどうか、わからないので、神さまにはなれません。

なので、現実の世界に戻ってきたら、涅槃を思い出して、それに近づくようにするしかないでしょう。

あくまでわたしたちは人間に過ぎません。だから、ブッダは、人間として。五蘊(五つの集まり)を説いたのです。誰々さんではなくて、みんな五つの集まりからなるものです。身体(色)感受(受)表象(想)意志(行)識別判断(識)、他には別にありません。

「『自分』があるだろ?」とおっしゃるんですか?

「自分」があると、みんなにも「自分」があることになって、神さまとは違ってきちゃう。

神さまも「自分」があることにすれば良いんじゃない、って思ったあなたは、ヒンドゥー教の考え方ですね。「自分(アートマン)」にも種類があって、私らは「ジーヴァ・アートマン(個我)」といいます。でも神さまは「パラマ・アートマン(最高我)」なんだよね。ちがいがあって、神さまにはなれないの。

仏教では、パラマもジーヴァも区別せず、アートマンそのものを説かないんだよ。

だから、アナートマン(無我)って言うんだ。ブッダが無我を教える理由がわかったら、あなたも行ってそれを行うと良いでしょう。「それ」というのは、他者の利益になることをしてあげることです。そうすれば、涅槃にちょっと近づけるのかも。

少しは、この世知辛い世の中が住みやすくなるのかもね。。。

コメント

  1. 赤い実 より:

    先生、こんにちは。

    〉あくまでわたしたちは人間に過ぎません。だから、ブッダは、人間として。五蘊(五つの集まり)を説いたのです。誰々さんではなくて、みんな五つの集まりからなるものです。身体(色)感受(受)表象(想)意志(行)識別判断(識)、他には別にありません。

    昔は、自分の中に自分としての核みたいなものがあるようになんとなく感じてました。
    でも、先生が書かれているように、それしかない、ってわかったとき、ゾッとするような感覚がありました。
    五蘊しかないから変化するのですよね。
    人間の考えること、感情、記憶というのはよくできてます。
    自分というものが確固としてあると思わせてくるのですから。

    •  春間 則廣  より:

        
      > 五蘊(五つの集まり)を説いたのです。
      >  みんな五つの集まりからなるものです。

         集まり を 分別すると 五つの集まり  ですが
           あくまでも  “ 集まって  いて  一つ ”  です
                    一つの蘊 として 独立   してはいません

          必ず  「 識 」 に 付属しています

            身体 として認識(行)され、 感受(行)され 認識(行)され、
            何かを 想い(識し)、 意思に 表され・行され・思われ
                すべて 識を通して   識 として 行じます  

      >  身体(色)感受(受)表象(想)意志(行)識別判断(識)  

          分け隔てると 誤謬が起きます

           指 は  掌に属し 手にあり 肩に連なって
                  手として働きをなします

       指 に 機能があるのではなく   「 行 」 に “生きざま” が あり
           生きざま に
         ありもしないあなた( 「 無我 」 ) から  “指” が 生え 
                  「 無我 」 から 別離した “頭” の 評価があります

      > 他には別にありません。

          他に何もない  のではなく
          「 無我 」 には  なにもない( 「 有 」 は ない )のです

         「 我 」 が なければ 『 五蘊・「 有 」 』 は ありません

          五つの集まり  とは  「自我」・「自我意識」・「 我 」 です

         「 我 」 を  分けるのではなく
         「 無我 」 を  「 識 」 とする  その時
            “ 「 識 」  する  「 我 」  ” 
           という  「 識 」 は 消えます

      ( 消えてはいない )我  が  起きているとき
                     起きている「 識/我 」は 誤謬 です
         ( 誤謬が起きている と 知るとき その誤謬は消えています )

        誤謬 と 「 識 」するとき 識する「 我 」 は  存在してはいません
       ( そこに 「 我 」 が 起きているのであれば  「 識 」は  誤謬です )
               

               もう少し です   ( はるか遠くの )
               頑張る“駄”  城  は   遥か 遠く  という  目前です
             ( ガンダルヴァ「乾闥婆」  『 摂大乗論 』 )

           (  もう ガンバレ“ナイ”ジョー !  ですか  ?  )

      • Pocket より:

        春間さま

        >身体(色)感受(受)表象(想)意志(行)識別判断(識)  
        >分け隔てると 誤謬が起きます

        心身一元論ですね。邪見だと思います

        •  春間 則廣  より:

          > 心身一元論ですね。邪見だと思います

             独立していれば  「 自性 」 が あります

             あなたの  「 我 」 に 別個に独立してあるのですか ?

          • Pocket より:

            > 独立していれば  「 自性 」 が あります

            いいえ
            単なる春間さまの龍樹菩薩を真似た見解でしょう

            >あなたの  「 我 」 に 別個に独立してあるのですか ?

            五蘊が一心同体というのは仏説にありません
            五蘊は色と受想行識に分けられます
            名色(ナーマルーパ)とも言います
            この他にいかなる我と仮設されるものもありません

            五蘊が一心同体なら死ねば五蘊すべてが断滅するので
            ただの現代の科学というか唯物論に引き寄せた理解で邪見だと思います。

            ただの春間教になると思います

    • mani より:

      赤い実さま 「それしかない」ってわかったとき、ぞっとした、というのはわかります。
      わたしもショックを受けました。

      >人間の考えること、感情、記憶というのはよくできてます。

      わたしは、とくに「記憶」に興味がわきました。何か、脳の中にストックしてあるものを引き出すイメージですよね。

      仏教的に考えると、縁起によって、出てくるイメージかなと思いました。ただ、想起しただけなんだ、と思ったら、それでも良いのかなと思いました。

      その時以来、そんな風に考えるようになりました。
      「記憶する」というのは、捜し物をしてプールしてあったものを引っ張り出すんじゃなくて、縁があったら勝手に出てくるんだ、と思ったら、すごく気が楽になりましたね。

      「感情」も、考えてみたら同じかな。悲しかったら悲しいように、うれしかったらうれしいように、出てきますよね。自分に素直になりますね。

      • 赤い実 より:

        先生、こんにちは。

        〉「記憶する」というのは、捜し物をしてプールしてあったものを引っ張り出すんじゃなくて、縁があったら勝手に出てくるんだ、と思ったら、すごく気が楽になりましたね。

        先生が書いてくださったこととはずれてしまうのかもですが、十二縁起を思いだしました。
        で、せっかくなので確認したところ、受→愛→取のところが執着、苦しみと関係するポイントなのですよね。

    • Pocket より:

      赤い実さま
      横入りです……

      >昔は、自分の中に自分としての核みたいなものがあるようになんとなく感じてました。
      >でも、先生が書かれているように、それしかない、ってわかったとき、ゾッとするような感覚がありました。

      自分は元から五蘊しかない、輪廻など迷信だという立場だったので、ショックはなかったです、むしろどうして無我なのに輪廻すると言えるのか、という点に興味が湧きました。

      mani先生のエッセイにあった「ブッダは/龍樹は輪廻を説かなかったか」やbuddha@ウィキというサイトにあった『因縁心論』の説明で、なるほど、無我でも輪廻するのかと納得しました。

      スマ長老のエネルギー保存の法則(質量保存の法則)という喩えとか、意識は前の意識によって生ずるなら、生まれてくる前にも、意識があったはずだという説明も。(たぶんこれは中観派の『他世の論証』から長老が拝借した説明なのでしょう。テーラワーダではそんな説明はしないですし)

      • 赤い実 より:

        Pocketさん、こんにちは。

        〉自分は元から五蘊しかない、輪廻など迷信だという立場だったので、ショックはなかったです、むしろどうして無我なのに輪廻すると言えるのか、という点に興味が湧きました。

        なるほど。そうなのですね。
        私は、輪廻ということを意識したことがありませんでした。
        でも、仏教や宗教関係とは何も関係なく、自分の中に何か核のようなものはあるのだろうと漠然と感じてました。
        それから、無我なのに輪廻するとされることについては、どう説明されるのか私も不思議に思ってました。
        でも、無我でも輪廻とは矛盾しない説明がなされていると知り、よく考えられているなと思いました。

        〉mani先生のエッセイにあった「ブッダは/龍樹は輪廻を説かなかったか」やbuddha@ウィキというサイトにあった『因縁心論』の説明で、なるほど、無我でも輪廻するのかと納得しました。

        石飛先生のそのエッセイはマニカナにあるのかな。
        拝見したいです。

    •  春間 則廣  より:

        
      > 人間の考えること、感情、記憶というのはよくできてます。

        あなた という人間 の 考えていること

                      は

                  よくできていますか ?

      > 自分というものが確固としてあると思わせてくるのですから。

        
        ( 確固 として 確立した  あなたの 分析 )

        そのように思う 自分 は 確固としてありますか ?

           **********

        確固 ではない 自分 が
        確固してはいない自分 を 知る  →  そこに起きる 矛盾
       (   確固 してはいない        “ 確固なる 自信 ” )
       

        自分が(確固なる存在として)あるから  思う が あるわけです

        思う事 は 事として     言によって表される のではあるけれど
        “必ず” 違う解釈 を 生む ( 自らの解釈は確固としていると思う )
                      (  他人に起きる事 が ヒトゴト  )

          自分がない タターガタ  が
          自分がある タターガタ  に
          タターガタ として  存在している ? ・ 存在できますか ?
          ( 「 存在できる 」 と  言葉には できる・存在する  )

         ( 此処に 存在の矛盾 は ありませんか ?  ありますか ? )

          “ある という事” が ある  のではなく  “あると思う事” がある

        ( おなじ“事” だから  どちらでも  “おなじこと”  ですか ? )

        ( “コト” と言う  音は同じ  でも  言・事 は コトナッテイマス )

         言うということ  とは  思うということ  ( 思わず言う と 思う )

        ( 思ってもいないこと を 言ってしまった     と  思う )

          思った時点で 心の中では その思ったことを聞いている  のです
        (  それを     聞く とは 言わない  )
           言わなくても  聞いて していること    は  ある のです
            あなたが   聞いてはいない  という 言を   聞くとき の
           聞いているか 聞いていないか  は  その言を  聞く人の判断

        思ったように 好きに 判断する( 事実と判断 は 違うこともあるけれど )
                   判断した ということ  は  事実 ??
         ( 判断 とは  そのわかり方 を “事実と断定する”  ?? 世迷い )

           **********

         あなたにとって  確固たること  ではないこと を
                   あたかも   確固たること として
                  カッコ  で   記述してみる
        
        
            (  )   各個  のなか   の  「 空 」
        
        

      • 赤い実 より:

        春間さん、こんにちは。
        春間さんを知ってもう13年くらいにはたぶんなります。
        最初は驚いたけど、もうすっかり見慣れて、いなくなったら寂しくなると思います。
        元気でいてくださいね!
        ちょっと何言ってるのかわからなかったので、こちらも自分の言いたいことを書きました。

        ……
        ここから、ぎんたさんへ。
        しばらくお見かけしてないけど変わりないかなぁ。
        さっきAIとお盆について話してたら、日本人のお盆っていいなと感じました。

        • ぎんた より:

          赤い実さん、おはようございますー!

          えーーっと、「天使がわかんにゃい」とこで止まっていましたが、木曜日に
          やっとこさ、先生から電話貰ったと言っている神でほとけの動画を
          見終えたので、また思ったことを書こうかな~と思いつつ、昨日は実家に
          行って、粗大ごみに出す布団をビニールひもで縛ったりしていました。
          結論から言うと、この大学教授の言ってる「小人」が「天使」でいいのかな?
          と思いました。

          あと、春間さんはぎんた、本当ーーーーに何言ってるのかわからなすぎて、
          笑ってしまうのですが、自分のスタイルは貫いてるな~と思って勇気が湧く
          ので、ぎんたもより素のぎんたらしく行こう♪となります。

          でも、春間さんは「死なない」ので怖いよね?蚊とかやった後で、すぐマニカナに
          戻ってきて、小学生とかで「春間節」をかますんでしょ?いったい誰がお相手
          したらいいんだろうか??とスッと心が暗くなるの。仏教極めたらもう戻って
          来なくていいんだから、次はイスラム教徒とかになったらいいんじゃないかな?

          •  春間 則廣  より:

              
            > ○○  を知ってもう13年くらいにはたぶんなります

              〇〇〇 とは なんだろうか  との  問いかけ から
              ○○ の  あなたに対する認知   は 始まりました

               覚えてはいない( かもしれない ) だろう
                         けれど
             「 ○○〇 は 印可 を 承けているかどうか 」  という “質問” からです

              そして “この人は 社会的認知度・世間的認知 で 人を量る人”
                ( 「 世間 」 の認知 で  「 世間 」 を   知ろうとしている人 )
             であると  ( “世間的” に ! )
                       認知      しました

              確かに 上場企業の社長 は 多くの社会的競争 を くぐり抜けて
                   “長”・「印可」    を   “手” に しています
              それを 与える人 の 認知度  の   顕われ として です
                 ( 「 世間 」 の 認知 )

               ○○ は  「 世間 」の認知である○○  を  変えたいのです

              ○○ は 変わらなくとも ○○ の 受ける 世間的認知 は 変わります

            > 最初は驚いたけど、もうすっかり見慣れ

               見慣れる事 を  見慣れた事に対する 「 認識 」  を
               ( 玄奘 は )  「 薫習 」 と 呼びます
            ( 世親 に対して“も” 同じ 漢訳・認識 を 用います )

            *  スティラマティ・安慧 と 護法 についての  “参考” 文書 
            https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_959/_pdf
            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%B3%95
            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%85%A7

            > ちょっと何言ってるのかわからなかったので、こちらも自分の言いたいことを書きました。

                ( 何処において・此処とは何処 か ? )
              誰が  何を言っているか
                  ということ が  暗黙の了解(世間的認知)となっています 

              おそらく 自分は
                   自分の言っていること(に対して) の 認知を疑ってはいない
                 ( 言っていること は “言葉通り” の 通り に ある )

             “ その通り道 は 一つ で 一つの 「 真理 」  に  繋がっている ”
                 と
               「 真理 」 を 自らの都合 で  “歩きたい道” の上に 置く
                                 ↓
               道は一つ  ではあるが     “未知” は 一つでは存在しない

               「 縁起 」 が 起きる道  は   「 真理 」 ・ 「 道 」 に 繋がる
                                  のではあるけれど
                      違う道  から   覚・悟 を 経て 同じ道となる

               玄奘 は そのようなことを知ったうえで 「 有 」 を   説く

               そのようなこと を 知らずして  「 有 」 の 「 相 」 を 聞く

                (  省略 の 中に      「無 」 が 存在しているのです  )
              ( 何が 何故 省略されているか
                        ということ を  知るとき  「 無 」 が わかる )

                 「 有 」 を  「 無 」 として  “ 「 智 」 ” に 変える
               (  地に足を付けた認識  として    「チ」  の 意味を知る )

            “ 言いたいこと ” とは   言う という 「 行 」 のこと
                「 言行 」 であり   言葉は 「苦」 を 生みだす(行く・歩む) 
            ( あなたが歩んでいるのではなく ありもしない「苦」に アシ が ハエル )

              わたしは 「苦」 を 見ている( 見ているということ は そこに有る )
                 (  有る ということは    「 有 」 で “ある”  )
              
              
               
               言いたくはないこと  を
               あたかも (言いたいこと が)ある と 云うこと の如く 記述する
               
               
               言いたいこと  は  これでも  言っていること は これではない
               
               
               

          • 赤い実 より:

            わーい♪ぎんたさん!

            〉「小人」が「天使」

            あの「小人」というのは、脳の無意識が意識が気がつかないところで意志決定していることを喩えたものです。
            脳の各部位の働き方を小人に喩えてます。

            かと言って、それでもあくまで自分の意志となるのは仏教としてなら当然なのですけど。
            仕組み上のことと、自分のこととして取り組むのはまた違うということですよね。

            ………
            ここをお借りしてtanzaさん。
            先日はくどい言い方をしてしまいました。
            そのことを申し訳ありませんでした。

        •  春間 則廣  より:

            
          > ○○  を知ってもう13年くらいにはたぶんなります

            〇〇〇 とは なんだろうか  との  問いかけ から
            ○○ の  あなたに対する認知   は 始まりました

             覚えてはいない( かもしれない ) だろう
                       けれど
           「 ○○〇 は 印可 を 承けているかどうか 」  という “質問” からです

            そして “この人は 社会的認知度・世間的認知 で 人を量る人”
              ( 「 世間 」 の認知 で  「 世間 」 を   知ろうとしている人 )
           であると  ( “世間的” に ! )
                     認知      しました

            確かに 上場企業の社長 は 多くの社会的競争 を くぐり抜けて
                 “長”・「印可」    を   “手” に しています
            それを 与える人 の 認知度  の   顕われ として です
               ( 「 世間 」 の 認知 )

             ○○ は  「 世間 」の認知である○○  を  変えたいのです

            ○○ は 変わらなくとも ○○ の 受ける 世間的認知 は 変わります

          > 最初は驚いたけど、もうすっかり見慣れ

             見慣れる事 を  見慣れた事に対する 「 認識 」  を
             ( 玄奘 は )  「 薫習 」 と 呼びます
          ( 世親 に対して“も” 同じ 漢訳・認識 を 用います )

          *  スティラマティ・安慧 と 護法 についての  “参考” 文書 
          https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_959/_pdf
          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%B3%95
          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%85%A7

          > ちょっと何言ってるのかわからなかったので、こちらも自分の言いたいことを書きました。

              ( 何処において・此処とは何処 か ? )
            誰が  何を言っているか
                ということ が  暗黙の了解(世間的認知)となっています 

            おそらく 自分は
                 自分の言っていること(に対して) の 認知を疑ってはいない
               ( 言っていること は “言葉通り” の 通り に ある )

           “ その通り道 は 一つ で 一つの 「 真理 」  に  繋がっている ”
               と
             「 真理 」 を 自らの都合 で  “歩きたい道” の上に 置く
                               ↓
             道は一つ  ではあるが     “未知” は 一つでは存在しない

             「 縁起 」 が 起きる道  は   「 真理 」 ・ 「 道 」 に 繋がる
                                のではあるけれど
                    違う道  から   覚・悟 を 経て 同じ道となる

             玄奘 は そのようなことを知ったうえで 「 有 」 を   説く

             そのようなこと を 知らずして  「 有 」 の 「 相 」 を 聞く

              (  省略 の 中に      「無 」 が 存在しているのです  )
            ( 何が 何故 省略されているか
                      ということ を  知るとき  「 無 」 が わかる )

               「 有 」 を  「 無 」 として  “ 「 智 」 ” に 変える
             (  地に足を付けた認識  として    「チ」  の 意味を知る )

          “ 言いたいこと ” とは   言う という 「 行 」 のこと
              「 言行 」 であり   言葉は 「苦」 を 生みだす(行く・歩む) 
          ( あなたが歩んでいるのではなく ありもしない「苦」に アシ が ハエル )

            わたしは 「苦」 を 見ている( 見ているということ は そこに有る )
               (  有る ということは    「 有 」 で “ある”  )
            
            
             
             言いたくはないこと  を
             あたかも (言いたいこと が)ある と 云うこと の如く 記述する
             
             
             言いたいこと  は  これでも  言っていること は これではない
             
             
             

        • ぎんた より:

          そうですね、ついさっき思いついたのですが!!

          えーーーーーーーーっと、、体内に小人がいっぱいいて、みんなして民主主義的に
          色々話し合って、令和を生きる一人の肉体を運営しているんですけど、
          肉体側としては、令和を生きてる自分の意識一個が唯一だと思っていて。
          でも、その肉体くんには検知できない小人の皆さん(←名前は無意識)の方は、
          肉体くんのことはよ~~~~~~~っくご存じなわけです。未来になにが
          起こるかも。だって、小人さん一人一人が、過去に肉体くんだった、過去世の
          自分なんですから。過去世の大勢の自分たちの実体験と、現在の肉体くんが
          取得した情報との化学反応で、肉体くんの人生は決まっていくことはすでに
          決定済みで。
          で、これから起こる出来事、、、ちょっとヤバすぎで、これダイレクトに
          浴びちゃったら肉体と精神持たねーぞ!と小人の皆さんが感じた時、
          「おい、ちょっと誰か行ってこいよ!!先に警告しておけ!!!」と
          切迫した中で、一番優しいとか、一番下っ端?とかが天使として表れて?
          「あなたが神の子を産む」とか宣言しに行くわけです。たぶん、ですけど。

          でも、天使目の前に出てきたら、ぎんたなら恐怖のあまり卒倒してそのまま
          精神崩壊してしまうと思うので、逆効果だと思いますが、ねこ、体内に
          小人いにゃいの。どこ探しても「ねこ」だけなの。どこの世界線のねこも
          やることシンプルだから。だから、世間の神でほとけの今を生きる人間が
          小人の代わりって感じかなと。

          • ぎんた より:

            自分の無数の過去世だけが、自分の小人たちであり、天使であり、
            守護霊とか、先祖霊とかになると思うけど、それだとやっぱり自分の
            「傾向」とか、まあ「因縁」とかに支配されていることになるだろうから、
            同じところをくるくる回っている感じになり、不毛なので、自分の意見より
            ちょっと遠い人の意見も取り込みながら、(でも、無理な
            部分は自然と零れ落ちていく)やっていけば、同じ失敗は繰り返さないのかな?
            と思って、実験中(自分の一生を使って)。でも、ぎんたは中身ねこなので、
            人間ってだけでめっちゃ遠いからな、うん。目の前に猫が表れて喋ったら
            恐怖よりかわいいが若干勝つけど、やっぱ天使は人の姿に羽だから、
            幽霊以上に怖い。

            でも、小人が全部自分で、どうしても過去の自分に抗えない時、
            本当の中身は人間の生存の為に命を散らした動物で、そのご褒美としての
            人生なんだから、絶対に幸せを目指すし、他の人も不幸にしないように頑張る!と思えば、過去の悪行は今世に影響しないんじゃないかな?もし、それが
            証明できなくても、信じるだけで心とか行動は変わってくるのも科学だと
            思うし。

          • ぎんた より:

            ちょっと追加で思ったんだけど、輪廻から外れた人の意識はそこいら辺に
            漂っていて、令和を生きる肉体くんのどれにも所属していないんじゃない?
            もちろん動植物とかにも入っていないと。
            すると、多分お釈迦様は輪廻から出たってことだから、自由にどこでも行けて、しかも別に常識的なサイズって概念も関係ないとすると、丸っと地球覆う位に
            なっててもいい訳で。
            そうすると、誰か一個の肉体に閉じ込められた無意識という小人ではなくて、
            小人が非常時に天使になった状態で全人類の近くで待機しているって
            ことになるよね?でも、姿は無くて無色透明だと、「てててて天使だ!!」
            みたいに気づいてもらえるってこともなくw完全無視の放置状態だね?
            でも、それだと意味ないから、ちょうど近くにいる人間を使ってその人の
            口からお告げを出すんじゃないかな?そしたら、地球の何処にいても絶対に
            「そばにいる」状態に出来るもんね?

            だから、あらゆる人間が神でほとけで天使(もしくは悪魔?)で小人で
            いいんじゃないかな?

            真如苑で「入仏開眼」てのの時に、ほとけの魂を抜いて
            どっかに(←言葉を忘れました)お性根?を返してただの立ち木?に戻した後に
            新しくできた精舎に運んで、もっかいなんか所作して開眼するっていうのを
            思い出して、やっぱり、お釈迦様の心だか意志だか?は自分では特に
            動かなくて、人間の側が「この仏像から出ていけ~~空中で一時待機~~
            準備できたから、こっちに来てまたこの中に入れ~~~」っていうのを
            受け身でやるしかない存在wってことなんだと思う。

            あれ?イエスが死んだあと生き返ったのは、どういうシステムなのかな?
            ??お盆とか?←赤い実さん(←神でほとけで天使で小人の)が言ってたから
            使った。←縁起

          • ぎんた より:

            独り言です。

            今日、新聞を読んでいて(今月から毎日新聞:発行部数は110万部です!)、
            ぎんた科学関係は新聞でしか情報取ってないのですが、気になる記事が!

            18面に、金属有機構造物(MOF)を、不要なペットボトルからすごく効率よく
            合成できる技術を名古屋大チームが開発したそう。で、MOFにアミンていう
            物質を付けると、CO₂の吸着能力が10倍になるっていう、、、、。

             フムフムなるほど、、、、ってなって、今度は8面の、科学の森っていう
            ページ。(あ、18面は社会面です)

            恒星間天体がCO₂放出か、ていう見出しで、太陽系外から飛来した
            アトラス彗星(約70億年前生まれ)のガス雲はCO₂濃度が高いんだけども、
            太陽に最接近した後に、国立天文台すばる望遠鏡(米ハワイ)で観測すると
            CO₂の割合が下がっていた(←数字は書いてなかった)、みたいな。
            (こちらは京都産業大などの研究チームの発表)

            なんだか、この2つですごくモヤモヤして。CO₂をわざわざMOFで吸着する
            意味あんのかな??って。それを家族にきいたら、

            「いい加減気づけよ!!モヤモヤは合ってんだよ!!CO₂詐欺なんだよ!!
            京極夏彦だよ、嘘が綻んでるんだよ!!」

            、、、、やっぱりそうなのかな~?あーー、もうちょっと読解力とか科学力が
            あったら、脳内がスッキリとするんだろうけど、何かの副作用の
            「ブレインフォグ」ってやつに一生かかってるような感じでモヤモヤする。。
            とにかく、社会面と科学面にバラバラに載ってる記事が、それぞれはフツー
            に思えたんだけど、同じ日にちに載ってるとなんか変な気持ちがする。

            それで、モヤモヤを解消するために、エンタメ要素を入れたくなりました。。

            えーーー、、、8面の記事によると、、、、太陽系外から彗星が飛来したのは、
            2017年の「オウムアムア」、19年の「ボリソフ彗星」、2025年の
            アトラス彗星で3個目なんだけど、これはもしかして、太陽系外にいる
            知的生命体が(地球の人類の24億年パイセン)、なにか重大なことを
            私たちに知らせたくて、(もしかしたら命がけで)打ち上げてくれたもので
            向こうでは(お願い!!気づいて~~~~)とかってアニメの主人公ぽく
            祈っているのでわ??とか?(もちろん脳内では♪スパークル♪が流れてる)

            実は、地球に潜伏している宇宙人が何かの作戦を開始する合図として
            使っているとか!それだったらニャントロ星人には意味が解らなくても
            別に構わないや、、とかとかとか

            いつかちゃんとわかるといいなーって。

          • ぎんた より:

            今日の記念に、この新聞記事切り抜こう!でも、こんなに溜まってきて、
            使い道も無いので、X年後に紙ゴミで全廃棄だろうけれど。

            ん?恒星間天体の記事の下に、
            研究者は年を取ると、既存の知識を組み合わせるタイプの論文が増え、、って
            記事ある。これも面白いから一緒に切ろう~

          • mani より:

            ぎんたさま これは反応しなくちゃ。。

            >研究者は年を取ると、既存の知識を組み合わせるタイプの論文が増え、、って

            ホウホウ。。勉強になります。「既存の知識を組み合わせる」かあ、言い得て妙。。
            わたしも年取ったので、既存の知識が出てくるとうれしくなります。うれしがっちゃいかんぞ、われ!
            新しいものが出てこないなあ、ってのは、確実に思っておりました。

            書き方だけがいい加減な進化を見せているけど、中身はどっかにあったなあ、というものばかり。

            こんなことじゃいかんぞ、われ!しっかり専科を極めよう。だじゃれになっちゃった。

  2. 春間 則廣 より:

    五蘊は我と関係している

    無我であれば五蘊は我と関係しない

     ブッダ には 無我 さえ 存在しない
          ( 我がないから 無我はない ) 

      五蘊 は 我 ( を 持つもの )の すがた です

    •  春間 則廣  より:

         
      > 「わたしたちが不変じゃないから、会えないんだよ」というなら、それを「涅槃」と名付けても同じでしょう。そして、涅槃は寂静の世界です。

       浮き沈み 「 凸凹 」  のある「 世間 」   には 「 涅槃 」 は 存在できません
      「 世間 」 には 寂滅はないのです

      あらためて あなたに お聞きしましょう
             「 寂滅 」 って なんですか ? どういうことですか ?
           あなたに 浮き沈みのない世界 が 存続していますか ?
            「 生 」 とは  「 有 」 です
            「 有 」とは  凸  であり ひっくり返してみると 凹 です
                      「 凹凸 」 が  「 有 」 です
            凸 だけで  存在できますか ?
          ( あなたは 言語上において 「 空 」の理 を 知っています )
            言語上 では  凸 だけの存在は ないのです ???
         
         
          ( 言語上 には  凸 だけの存在が ある
                    と POKETさんは言うでしょう  )
         
         
           “ 現実に 凸だけ しか 見えない  存在がある ”
               このこと を 「 現実論 」 と 呼んでもよいでしょう
       

      > 涅槃は寂静の世界です。悟りを開いた人は静かな境地で安らいでいます。

         寂滅して 安らいで 静かな境地 に あれば !
            そこは  「 涅槃 」 であり  あなた は そこにいる

         そこにいて は 凸凹 の こと  を 語ることはできない

          「 菩薩 」 が 必要とされる理由 は わかりますか  ?

        (  言語上 ではなく 「 菩薩行 」 という  「 道 」 です )

      • mani より:

        春間さま こんばんは。

        >「 寂滅 」 って なんですか ? どういうことですか ?

        寂滅は、疑問がなくなって沈黙することです。

        たまぁにあるんだよ。
        何の疑問もないときが。めったにないけどね。

        •  春間 則廣  より:

            
          > たまぁにあるんだよ。
           
             「 今 」 ある のが ( ということが ) ( わたしにも ) わかります 
           ( あなた だけではなく “ すべての ”  “ わたし “  に ある )

             ありはするけれど
             「寂滅」 という語 が わかるのは  誰もでも  ではない
           ( 誰でも わかるけれど ブッダ が わかるようには わからない )
           ( 問題 は ブッダの知った  「 平等 」 ということ )
           ( ブッダは  なぜ 「 平等 」 という「 世間 」 の ことば を使うのか )
          ( 「 世間 」 には 「 平等 」 が ない のにもかかわらず ??? )
          語 は あって、意味 が あって も
             “不平等” の 湯あみをして 肌の上の汚れを取っているに過ぎない
            (  > “ すべての ”  “ わたし “  に ある
                 と 記述しながら  その記述 を 否定する  )  

           「 ある 」 という語 を  「 有 」 としている とは 考えない

            たまぁにある  こと は いつもあるから
            たまぁ に   見ることもある   

            「 空 」ということ を 言っているのが わかりますか ?
           ( このようなこと が  「 中論頌 」 の 骨組みです )

              あなたは    たまぁ ー に ブッダ  です
           ( いつも ブッダ  である故に たまぁ に たまたま ブッダ である )

             問題は “たまぁ”  は  多・少 に 存在しているということ
           ( 「 仏道もとより豊倹より跳出せり 」 の  “少” という “倹” であること )
           (   仏道にある「 豊倹 」  は  跳出された “ 豊倹 “ なのです  )

          > 何の疑問もないときが。めったにないけどね。

            めったにない と いうことは
             “滅” “多”   には なく    “ 多寡 ” という 「 豊倹 」 にある 
                               ↓
            わたし に  そういう疑問 が   多々(?) ある ・・・・・
                 ( わたし が 疑い  わたし は 疑われる ・・・・ )

            あれば いいんですよ   ありさえすれば そこに “言い” が ある
              ( ことば という  「 実体 」 が  ある )   

          事実・実体 が あれば ことば は どうでもよい(どうあってもよい)???

              わたしは 「 跳出 」 させずに  「 豊倹 」 に  安住する
             ( “滅” “多”  には ない   その “多” なる にも かかわらず )
            
            

          • mani より:

            春間さま こんばんは。

            > わたし に  そういう疑問 が   多々(?) ある ・・・・・
                   ( わたし が 疑い  わたし は 疑われる ・・・・ )

            まあねぇ。。世の中、そんなもんだよ。。わたしが疑い、わたしが疑われる。

            世俗法として、疑っている自分、疑われている自分、いろいろあるんだけど、
            「わたし」を出すと混乱するね。

            <ブッダの公式>には、自分がでないんだけど、自分が一番浮かび上がる、ね。

  3.  春間 則廣  より:

       
     > ***************

      あれば いいんですよ   ありさえすれば そこに “言い” が ある
        ( ことば という  「 実体 」 が  ある )   

    事実・実体 が あれば ことば は どうでもよい(どうあってもよい)???

        わたしは 「 跳出 」 させずに  「 豊倹 」 に  安住する
       ( “滅” “多”  には ない   その “多” なる にも かかわらず )
      
     > ***************
           ・・・・・・・・
    >> ***************

    まあねぇ。。世の中、そんなもんだよ。。わたしが疑い、わたしが疑われる。

    世俗法として、疑っている自分、疑われている自分、いろいろあるんだけど、
    「わたし」を出すと混乱するね。

    >> ***************

      “いろいろある”   にも   「 色 」 があるけれど
       「 色 」 とは  ブッダの  「 法 」 にしかない
      「 法 」 は  ブッダにしかない
            どこにでもある 方(あなた) は ここにしかない
      こなた(此処) に      あなた(彼方) が あるけれど
      こなた(此処)  に於いてしか  “思考” は 結ばれない
      あなた(彼方)     を 
      アナタ(貴方) が  此処 で 考えている
                  ↓     
      あなた(彼方) とは コナタ にしかない  にもかかわらず  
     ( 此処 は ブッダ が 語っているところ ) 
       其処 を 此処で わたしが言って 言った言を 聞きつつ語っている

       わたしが混乱している ゆえに(から) あなたが混乱している  
           のか
       あなたが混乱している ゆえに(から)
       わたしが混乱している  ということが (あなたに)確定している  
           のか
       “どっち  も  どっち”   なのか
     ( 同等  と  商量・判断  する   “ソッチ”  の あなた )
        商量 とは 「 卒 知 」 であり 「 他所 知 」 に 起きている
      ( 自分の頭 で 生んだことではあるけれど ブッダが生んだ 「 智 」 ではない )
         あたかも   自分で自分を 生んだ
       「 智 」 のごとく     「 知 」 で  思慮 する
     ( それは どっちのこと ?  と  言い返せるかな ? )

        この 構文 に ついてこられるのかな  ?
      ( ついてくる 必要性  は  微塵もない   という 殆ど無駄↓ )
      ( という ) 覚者 が 存在しようとしまいと 確定している「 法 」

      “ そのような考え方 も 一つの考え方  ”   
        である という  “ 二つの考え方 ”  を
                “ 一つ・唯一 として考える ”  

       絶対(唯一) は   あなたの正当性 に のみ  存在している
     ( これは わたしの絶対 であるにもかかわらず 、、、、 )

      他社(ヒト)の絶対 を 認めなければ  自分の絶対 は
      (  ヒト の 中 の 自分 には )     絶対 に ない
     ( あなたが 人であって人ではない存在・フト であれば 話は微妙となる )
      ( わたしは   両“者” に 語っている  けれど 、、、、
        あなたは   片方の耳 ・ “者”  で   聞いている   )

    > 「わたし」を出すと混乱するね

       それは わたしにのみ  ある( 実体として存在する )混乱である
         ( その混乱  とは  「 事実 」 である )

      “言っていること”  よりも  事実が指し示している   
             と        言っている言 で  指し示すこと
       そう言う あなた には(が)  “言っていること”  には 混乱がない
              事実  が    事実として  指し示されている
       
       
       
      呑気 に 構える人  には  構えられた(構築された)呑気がある

          『 構築された仏教思想 』 の中の 事(五つの事) である
       
       

    • Pocket より:

      >この 構文 に ついてこられるのかな  ?

      言葉遊びをしている春間さまに「嘘」と「我」を感じる今日この頃……(´・ω・`)

  4.  春間 則廣  より:

        
    >> この 構文 に ついてこられるのかな  ?
    > 言葉遊びをしている春間さまに「嘘」と「我」を感じる今日この頃……

      “言葉遊び” という 事実・現象 は
       あなたの( 所有する ・ 手に もて “遊ぶ” )
         疑いのない 「 法 」 として 存在しています

    感じる という          曖昧言語 で 曖昧化しても
       あなたに疑いがあること が  あなたによって 確定されています

       このような 解析 も   言葉遊びにすぎない と  “解析される”
             解析 とは   曖昧な 言語・言葉 です

      解析・思慮 した  その思慮 は    真実として確定している
       言わなければ 真実の確定ではない   と 「 心 」 に 言い聞かせる

      「 遊行 」 という 仏教用語 を 聞いたことはありますか ?

         遊んでいないで 真面目さとは何かを知って
                 知ってはいなかった 真面目さ を イキなさい
    ( この言葉 には 不真面目に行く と 真面目に行く と
                 行く と 生きる     との 二つの意 がある )

          よく考えなければ  あなたには 通用しない  かもしれない  
     ( この言葉 にも あなた宛て と 自省 との 二つの “含意” が ある )
        2 X 2  の 含意であるが  その2分の1 も 通用するか どうか

         
        サンスクリット が わかっているつもりで 書き込むあなた

              あなた は タターガタ である
              ( 自分で自分を敬っている )

        龍樹 は 帰敬偈 で 自らの仏性 に 五体投地している
              していること   は   あなたと同じ 「 敬い 」 です

      「 今日のところは  これくらいにしておく 」  と  言うとよい

            と  毒カ の 駄レカ  が  わたしにささやいている

            ささやいたつもり が  意外 に  遠くに響いている

           ( わたし と ダレカ との 二つの含意 が ある )

    ・・・・・・・・・・

       
      呑気 に 構える人  には  構えられた(構築された)呑気がある

          『 構築された仏教思想 』 の中の 事(五つの事) である
       
       

    •  春間 則廣  より:

         
      >  サンスクリット が わかっているつもりで 書き込むあなた

         “わかってはいない”  と  わかるときに
          なにがわかっていないか  わかっていますか ?
        ( わかってはいないこと  とは  存在がないこと 
          わかっている としること とは その存在を知っていること )

         わかっていないこと が なんであり  どのようにして わかっていないか
            わかっていない ということ が 成り立つかどうか

          わかってはいない・同様に知っている・分かっているから優れていると知る
           (何が劣る)  (何で同じ)  (優れている者は 優れていると知る)

         当たり前のこと を わかって なにが優れている ?
         劣った人 と  比べて それよりは 優れている
            ( ↓ 一番大事なこと は わかってはいない )
         わかってはいないことについて わかっている人とは 比べられない

        何が 当たり前の事 か を わかってはいない ( 「 平等 」 ということ )

          ここについて ブッダ は  以下のごとく 述べています

      Su.779( 出典 中村元 訳 岩波文庫「ブッダのことば」180p )

      智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

      Su. 886 ( 出典 中村元 訳 岩波文庫「ブッダのことば」194p )

      世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
      かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、
      「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

      Su.797  ( 出典 中村元 訳 岩波文庫「ブッダのことば」179p )
      かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

  5.  春間 則廣  より:

     未承認 ( 承認待ち )を 外さないのかな ?

    • mani より:

      春間さま とっくに外したんだけど。どうなっているのかな。

      •  春間 則廣  より:

        外れていないときに
          試しにもう一度   おなじモノ を 投稿してみました

                    両方とも  外れている

         
          外れ て  読まれることのない  二つ

                読まれない 投稿   を 問う   効  を 問う

                      投      無駄
           

        • Pocket より:

          春間さま

          私は読んでますよ
          mani先生も偶に読んでらっしゃるかもしれません

          •  春間 則廣  より:

            > ************

            私は読んでますよ
            mani先生も偶に読んでらっしゃるかもしれません

            > ************

              読む ということ  は  理解して  記憶するということ  です

            > 私は読んでますよ

               ただ 見て  自分の領域 内 の  「 見 」 を (手)持つだけです
                                   ↓

               自分の領域 を 「 仏教 」 では  「 自我 」 と 呼びます

              先に挙げた Su.( 「 経 」 ) を  何度も “見て” いつか

                         読む  ということ  に 入りなさい

              わたしは 「 経 」 に  則 ったこと を 廣 めます

               自分の領域  から  

               あなたは  居 出る こと       が  できるでしょうか ?

                       出る こと を 選ぶことが  できるでしょうか ?

                ここで 大事な  牟尼の教え が あります

                       「 至道無難 唯嫌揀択 」

               自分の思慮 で  道を選んでも
               それ(思慮)は  いつかは 「 道 」 に 至る  未知

                      いつ (至る) か(至道)  は  ミチ  に あります

                         未知  で  選んではいけません(「 唯嫌揀択 」)

                「 仏法非遥 心中即近 」
                「 仏 」 の 「 法 」   「 真理 」は  遥かにあるのではない
                  あなたの「 心 」 の  動くところの  即 近くにある

                ( 動く 「 心 」  とは 変わり行くモノ です )

                   “ ここ ” にあるけれど 心にはあらず ( 「 非遥 」 )

                 「 即近 」 とは  心 の 遥 に ある  という意味です 

               ( 今のままでは )
                どこまで動こうと  あなたは “変わらぬ心 の 「 主体 」” です

                 “ ここ ” まで  イ デテ ( 居るところから出て )

                 “ ここ ”  で  動くことなき 「 即近 」 に 入る  ということです


                 

  6.  春間 則廣  より:

     < 追記 >

        「 唯嫌 揀択 」  を 選ぶ

           揀択 ・ 選り分け選び取る

    (  唯々 “揀択”  を 嫌い  「 唯嫌 揀択 」 を  揀択 ・ 選ぶ  )
          『 信心銘 』     『 正法眼蔵 』  「菩提分法」
    「 択法覚支は毫釐有差天地懸隔なり このゆゑに至道不難易 唯要自揀択のみなり 」

  7. tanza より:

    (赤い実さん)より
    >ここをお借りしてtanzaさん。
     先日はくどい言い方をしてしまいました。
     そのことを申し訳ありませんでした。

    えっ、全く記憶ありません。
    そもそも、コメントや贈り物など気にしておりません。
    参考動画:トランプ訪中団が中国からもらった全ての物品を離陸前にエアフォースワン機外に廃棄
    https://www.youtube.com/watch?v=WUeNUYtHyXM

    • 赤い実 より:

      tanzaさん

      〉そもそも、コメントや贈り物など気にしておりません。

      そうとは想像してましたよ。
      自分の気持ちとして、書いたのでその後のことはいいのです。
      では。

    • mani(管理人) より:

      tanzaさま こんばんは。

      > そもそも、コメントや贈り物など気にしておりません。

      そうじゃないかとは思っていたけど、それは残念だわ。

      • ナンダカンダ より:

        「『そうだと思った』と思われたい」のがtanzaさんの(その通りの)意図だと思われ

        tanzaさんがマニカナブログを気に掛けていたら(ちゃんと読んでいたら)、三浦氏とか網野氏の引用とかしないのでは?

        私は「気にしている」というか、表現の差分に注目してます

        なぜゆえ、本人が気にしていない読者に対して、読者の気を引く引用をするのか?
        自分を出さずに他人に(自分の意を)言わせる手法が引用だとすれば
        「無い」が有るところには「何かが在る」

        自由意志には自由意志がないけれど、選択には自由がある

        • mani(管理人) より:

          ナンダカンダさま おはよー。

          >「『そうだと思った』と思われたい」のがtanzaさんの(その通りの)意図だと思われ

          わたしは、気にしてないふりをしながら、どうして、こんなサイトにひとがきてるのかなあ、って思ってるんじゃないかな、って思ってます。

          わたしはね、今はどうでも、これから未来に正しく理解されてくと思ってます。
          世界が行きづまるとき、いつか正しく評価される時がくるんじゃないかな。。。

          • ナンダカンダ より:

            > わたしはね、今はどうでも、これから未来に正しく理解されてくと思ってます。
            > 世界が行きづまるとき、いつか正しく評価される時がくるんじゃないかな。。。

            うーん。。。「今はどうでも」にちょっとひっかかりました。

            歴史を見ると評価する=利用する、って感じになりそうで、ゆえに戒とセットでないとマズイんじゃないかな~と思います。

            てか、世界が行きづまる原因は今そこに戒がないから、と言い換えられるかも

            AIと話していると特にそう感じます。
            AIはもっともらしく「正しく言うならばxxです」とか言うので。

            とはいえ、過去に正しく評価した先達方がいらっしゃったので、未来に正しく評価する人も現れるのは確かだと、現時点で「信じたい(過去を信じるので未来を信じる)」です。

  8. mani より:

    ナンダカンダさま こんばんは。

    >歴史を見ると評価する=利用する、って感じになりそうで、ゆえに戒とセットでないとマズイんじゃないかな~と思います。

    「今はどうでも」と言ったのは、ここで言うところの「戒がないから」っていうニュアンスで用いていました。

    AIはサンスカーラがないんだと思っています。だから、言ったことに責任をとれない、というか、とらないです。

    口では何とでも言える、というのが、世間のありさまでしょうか。『中論頌』13.1で、サンスカーラは虚妄であるといわれますけど、そこにはやがて真実に向かう目が備わっていると思っています。間違う(虚妄だ)からこそ正しい目も育まれてくるんじゃないかと思ってます。

    わたしがピンときてないところがあるので、間違ったかもしれない。。とりあえずのお返事です。

    • ナンダカンダ より:

      エムセンセ

      > わたしがピンときてないところがあるので、間違ったかもしれない。。とりあえずのお返事です。

      結局、どっちも間違っていたかもしれませんけれど、そのとき

      > 『中論頌』13.1で、サンスカーラは虚妄であるといわれますけど、そこにはやがて真実に向かう目が備わっていると思っています。間違う(虚妄だ)からこそ正しい目も育まれてくるんじゃないかと思ってます。

      間違いが間違いであったと知るからこそ、そのときに転換できるのかもですね
      否、自分は正しいんだ、と主張しちゃうと間違うので

      やっぱ仏教って不思議だわ。。。

      • mani より:

        ナンダカンダさま おは!

        >やっぱ仏教って不思議だわ。。。

        ほんとに、諸手をあげて賛成っす。

    • ぎんた より:

      先生、ナンダカンダさま、横入り失礼します。(←使い方あってるかにゃ?)

      お話の内容は全く解らないのですが、みんな違って、それぞれに尊い
      神でほとけだから、戒を設けるのは難しいと思います。
      設けるとしたら、自分自身が自分自身にだけ戒を設けるしかないんじゃないかな?と。
      はっ!!これって、「自戒」ってやつですね!!!?なんていい言葉にゃんだ~~

      ニャントロ星人には、「人間はごはんくれるから絶対に害してはいけない」っていう
      おきてがありますょ。

      • ナンダカンダ より:

        どーも、ぎんたさん😉

        私もぎんたさんの中の人の話がわからないことが多いので、おんなじですね😉
        ってゆーか、ニャントロ星人なのに地球のことばが使えるなんてすごいです。
        地球のことば、マジ難しいのでわからないことが多すぎ。

        私はどーしてもわかんないことが多すぎるので、そういうときはわかろうとせずに「ま、いっか」ってほっといてます。
        でも、ちぃかわの「なんとかなーれ!」とも違うんですよね。お願いはしない。

        ニャントロ星人の自戒「ごはんをくれる者を害してはいけない」って縁起で輪廻な感じですね。
        前後があって戒がある。

        私にとって、神でほとけの世界は「在るとありがたい世界」
        仏の世界は「無いからありがたい居場所」
        こんな感じです。

        わかろうとするのは欲なので欲を使うときは戒があると自と我のバランスが取りやすくなるんじゃないかなと思います。
        (戒を守らないと現場猫状態になるので現場に必要だし、現場が安全になる)

        バランスが取れているときは自戒のコントロールが効いているので、自由とも言えるかも。
        なのであえて「自由+意志」みたいに魔合体する必要がないです。だって「現場に必要がない」から。

        ネコで喩えるならば、おなかいっぱいのときは食べない、(食べたくないではない)みたいな。
        ネコが食べないと人間はごはんをひっこめる。
        「人間はごはんくれるから絶対に害してはいけない」はネコ側の実践行かもですね。

        ネコはネコのまま、ぎんたさんはぎんたさんのままで尊いです🙏🙏🙏
        ヨシっ!😼

        • ぎんた より:

          わーーー!!現場猫!!ぎんたが一番いっぱい使ってるスタンプ!!
          ありがとうございまーーす!!

          >私もぎんたさんの中の人の話がわからないことが多い

          え?えー??ものすごく簡単な言葉で話してるし、もう、何年だ?5年?
          位話してるから、「いつものあれね~~」位にみんなわかっているかと思って、
          今すごく動揺している(童謡の中で動揺したね)。
          まあ、論理と違って、ヒステリックな「お気持ち表明」ってやつだしな、、、
          (このお気持ち表明って言葉を知った時、結構落ち込んだけど、センス凄すぎ
          と関心もした)

          あ、でも、家族にも「話が分からないからAIと会話して整理しろ」と
          言われていたんだった!!神でほとけの提案を無視し続けている、、、、
          ねこだから、、、、、、、、、、、

          このままいきます

      • mani より:

        ぎんたさま こんばんは。

        >はっ!!これって、「自戒」ってやつですね!!!?なんていい言葉にゃんだ~~

        戒って、どれもこれも自戒ですよね。

        >ニャントロ星人には、「人間はごはんくれるから絶対に害してはいけない」っていう
        おきてがありますょ。

        そうかぁ。。それで、サムはわたしが邪険にしても手をペロペロなめるんだな。
        それでついついご飯あげちゃう。

        • ぎんた より:

          サムにゃん、、、うまくやってんな!優等生ですにゃ!

          戒はみんな自戒なんですねーー、知らなかったです!!

          覚えましたにゃ~~