ゆきやなぎ

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桜もまださいてて、ゆきやなぎが満開です。まだ5月なのにほとんど散ってる桜もあります。

今回は、コメント欄でショーシャンクさまが話していたことについて、私も意見を言ってみようと思って書き込んでいます。

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コメント欄(抜粋)より

》世界的には、マイナーかもしれないけど、やっぱり怒りを説かない仏教やヒンドゥー教はすごいなと思ってます。

(引用部分は、私石飛が書いたのです)

そうですね。仏教とヒンドゥー教はすごすぎる、最近特にそう思えてきました。
ただ、ヒンドゥー教からは世界的な教師が多く生まれましたが、
仏教はどうもパッとしません。
禅やマインドフルネス瞑想というメソッドだけは流行るのですが、
仏教の教えというのはマイナーなままです。

仏陀の理法は人類の至宝だと思いますが。

(以上、ショーシャンクさまが書いた部分です)

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仏教の教えがマイナーなままなのは、自己主張しないからじゃないでしょうか。

「禅やマインドフルネス瞑想というメソッドだけ」流行るのは、人々がメソッドだけ取り入れようとするからじゃないかって、気がします。庶民レベルでは、そんなものかなあ、って思ったりしますが、どうなんだろう。

わたし的には、仏教が最高峰なんだけど、ショーシャンクさまはヒンドゥー教と仏教をあげている。

仏教の良さは、自己主張しないことだと思う。無我だからね。

ヒンドゥー教は、ちょっとだけ自己主張するのでその分だけ目立つ。だけど、ヒンドゥー教もヨーガと仏教の縛りを受けるので、ヒンドゥー教もマイナー路線を歩まざるを得ない。一神教の人々は自己主張をするので、争いが絶えない。

いわゆる西洋思想ばかりが目立ってしまうのは、仕方のないことだ。

三毒(貪瞋癡)を説いたのは、一切智者お釈迦さんである。すべての生き物を救うので「一切」といわれ、「智者」といわれる。誰も救えないような者たちをも救う、そんな神さまである。地獄にまで来てくれる。無我なので謙遜しない。無我なので事実として述べている。なので偉そーに聞こえるときもある。

落ちこぼれた者たちの最後の砦だ。これがどんなに救いになることか、経験したものでなければわからないだろう。。と、書いたけど、実は、おちこぼれ専用の神さまなので、ちょーちょー頭が良くできてる。

どんな人でもわかるように話せて、どんな人をも納得させる。それこそ、どんな人をもだ!

わたしがお釈迦さんを褒めるのは、ミスを犯さないからである。どんな人も、人であれば、ミスを犯す。間違わない人はいない。ただ独り例外を除いて。。その例外者がお釈迦さんなのだ。

わたしは、最初ブッダはヨーガを実践していたのでミスを犯さないのかと思っていたけど、そうじゃない。ヒンドゥー教はミスから自由ではない。

おそらくは、長い輪廻の後にブッダとなったのだろうなあ、って思いたくて思ってるんじゃなくて、そうとしか言いようがないのでそう言ってみているのです。以上です。 

コメント

  1.  春間 則廣  より:

        
       ミス は いずこ に

    > ***********

    ちょーちょー頭が良くできてる

    どんな人でもわかるように話せて、どんな人をも納得させる。それこそ、どんな人をもだ!

    わたしがお釈迦さんを褒めるのは、ミスを犯さないからである。どんな人も、人であれば、ミスを犯す。間違わない人はいない。ただ独り例外を除いて。。その例外者がお釈迦さんなのだ。

    > ***********

     並べ方 を なおしてみよう  ( このように並べる ミス ! )

     ***********

    どんな人でもわかるように話せて、どんな人をも納得させる。それこそ、どんな人をもだ!

    ちょーちょー頭が良くできてる  わたしが
       お釈迦さんを褒めるのは、ミスを犯さないからである。

       どんな人も、人であれば、ミスを犯す。間違わない人はいない。

       ただ独り例外を除いて。。その例外者がお釈迦さんなのだ。

     ***********

       “ わたし ”  は ミス ! を 犯した  のであろうか
       “ あなた ”  は ミス ! を 犯さない のだ ろうか
              
               

    • mani(管理人) より:

      春間さま 人間ならミスを犯すのですが、ブッダは,ミスから無縁なのです。

      どう並べても関係ないのです。

    • mani より:

      春間さま 書くと思ったよ。。そうじゃないよ。
      讃仏乗もやってるわたしです。

      ほんとにミスがないんだ。。ヨーガをやってる人はミスがないのか、って思うけど、そんなことはない。

      どんなことを言っても、「あ、まちがえた」ということばはお釈迦さんの口からはでてこない。。
      それに瞬時に相手に合わせて組み立てる。。しかも、間違わずに。

      苦楽二辺の中道は瞬間で告げられたお釈迦さんの理論だよ。八正道も瞬時に作られたんだ。。どうして、わかるかって??

      それはね、縁起によっているからなんだ。一週間も二週間も掛けるなら誰でも思いつくけど、瞬間で言えるためには、そういう生き方をしていないと無理なんだよ。

      • 春間 則廣 より:

        〉  そういう生き方をしていないと無理なんだよ。

          今( に このように生きる )わたしには  無理かな ?

             そう言う 風 に 生きている

                あなたに問います

          あなたが  その言の通り に  あれば    問います

             無理 だから

             わたしに  できる理 を 示しているのですか ?

             わたしは

                示す理  を  瞬時に示す

  2.  春間 則廣  より:

       
    > 人間ならミスを犯すのですが、ブッダは,ミスから無縁なのです。

        それは     ( 人はミスる ブッダはミスらない )
     ( あなた に起きた )  人の認識上 の 価値判断 ではないですか ?

      ブッダ であろうと 衆生とともにあるときには 「人」なのです 

     ( 人である ブッダ と )「 平等 」 である「人」 は ミスを犯さない

       犯すならば  「 平等 」 ではない
     ( しかし 人の認識上 に ミス が あるのは  誰のミスですか ? )

       まあ あなたには ミスがある  と しておきましょう

        わたしに ミスがあるかどうか を あなたが決めることもでき
                   ブッダ が 決めることもある

    > どう並べても関係ないのです。

       あなたは 語順 に こだわって 語順にとらわれる

         センテンス上 の 名詞 動詞 が どこにかかって 成立しているかを
           あなたの      誤順 で 理解する

       「 如来蔵 」 という こと(意味)を 軽く見ていてはいけません 

      人は   「 如来 」である
      という    内容を持つ  ということが 「 如来蔵 」 です

       「 人 」 は ミスをしないけれど (あなたの) 認識にはミスがある

       人にミス が ある   のではなく
       評価が起きるところ に ミスが起きる

       人のミス を 問題にはしない人には そのミス は 存在しない

        わたしは 認識上のミス を 取り上げているのです

         ( それ見たことか と あなたは 評価する )

    • Pocket より:

      春間さま

      「お釈迦様がミスを犯さないという判断、それこそがミスである」と言いたいのでしょーか
      メタメタなことを言ってマウンティングするのは不毛だからやめましょーよ。。。

      >「 如来蔵 」 という こと(意味)を 軽く見ていてはいけません 
      >人は   「 如来 」である
      >という    内容を持つ  ということが 「 如来蔵 」 です

      その判断はミスではなく、よく判断された事柄なのですか?

      •  春間 則廣  より:

            ***************
            
        >  *********  
           「お釈迦様がミスを犯さないという判断、それこそがミスである」と言いたいのでしょーか
          メタメタなことを言ってマウンティングするのは不毛だからやめましょーよ。。。

        > 「 如来蔵 」 という こと(意味)を 軽く見ていてはいけません 
        > 人は   「 如来 」である
        > という    内容を持つ  ということが 「 如来蔵 」 です

        その判断はミスではなく、よく判断された事柄なのですか?
        >  *********

          あなたの >その判断  とは
         
               あなたの判断   によって   “事実” とされます

               >よく判断された事柄なのです  という “事実” を述べるわけです  

        > その判断はミスではなく、よく判断された事柄

           この構文による 指し示す 事実(事柄)  は
                     問いを起こす 以前に  あなたには
           既に判断された事柄 である故に 事柄として 自立しています

         

          おそらく  ( わたしの )  言っている意味 は 理解されないでしょう

           管理人エム 様 の 上に つけること

            ***************

    • mani より:

      春間さま おはよう。

      >( あなた に起きた )  人の認識上 の 価値判断 ではないですか ?

      もちろんです!
      わたしは、ミスのない人生を送りたいと思っています。

      Pocketさまのおっしゃるとおりです。マウントはいけない。
      リスペクトをください。リスペクトですよ。ほんとに「尊敬してほしい」わけじゃないってわかるよね。

      ブッダはたぐいまれだと思っています。どうやってわかったんだろうと思うのです。
      止観の「止」と「観」は平等でなければならない、って思っています。そういう思想を生きていたのがブッダなんだなと思います。

      •  春間 則廣  より:

            ***************

           
        > わたしは、ミスのない人生を送りたいと思っています。

             ミス ではない  という ミス  について 語っているのです

           ブッダ の 偉大さ は その偉大  を
                       現実のもの(自らに起きていること)として

           その現実の(“ モノ ” の )上 で  述べられるべきこと  なのです

                  ” 悟りを得れば 悟りを得たとわかる ”

            「 誰それは 頭が良い 」   と   誰それ 以外の人 が
             “ 評価 を 落とす ”    とき  その誰それ 以外の人 は
           落とす 基盤の上に立って  “下を眺め” 
                 同じ基盤上 に  “ 誰それ ” が 立っていると します

           その基盤の下に  その評価以下 の 比較対象 が “生きています”

            その 「 生 」   は   自らと 「 平等 」 である

            ということが   「 涅槃 」 の 存在の基盤 と なっています

             「 涅槃 」 とは    そのどこを見ても
             燃え上がる炎  を  見出すことができない  “ところ”  です

            その “ところ”  とは  「 意識 」 の中 にはなく
                          「 瞑想 」 の中 に   “のみ” 存立します

        一部であろうと  真理を獲得すれば
                     その獲得は 「 真理 」 によって 保証されています
          一部 を 穿てば  そこには全部 が 存在しているのです

         (  穿たなければ    その存在はありません   か  ?  )

            在り方(存在)  という   言葉の解釈を 述べません
              在る     という   “ 事実 ” を 支える  “仕組み”
                           「 真理 」  の   “ 事実(性) ”  です

            「 如来蔵 」  とは
             蔵して蔵されているモノのありよう   を いいます

         ( 蔵されているモノ  は
                       ある    のでしょうか  ? )
         ( あると分かる  引き当てるモノ  が
                    蔵されていない のでしょうか ? )

            「 悉有仏性 」  と  見ることができる
             「 仏性 」   は  獲得した者に映る     「 仏性 」 です

           ブッダ の 偉大さ  は  見る者の偉大さ  で  「 正見 」 可能

           みてわかること  ・↓  自分でわかっている事実  とは
            「 あなたとわたしの間 の こと 」

        ( ブッダ と ある女  との間に ブッダの子 が 存在するか否か )

                 それは    「 釈氏 」  という  問題
           ある女 が 知っている 解答 であり   ブッダが知悉する  解答
          ( 悟り  を 得れば  ・  釈氏に繋がれば
                  得たこと と  得ている状態にある こと とが わかる )

           たとえ  そこに在るモノを見ても   見たモノの認識が不在なら
                  見てはいない ということと   分別できない

           “そこに起きている存在”  とは  “あなたの知る存在” です
          (   存在の意味    を   Buddha は 獲得して行使する  )
          (  あなたも 同じ仕組み で   獲得したモノ を 行使する  )

        得たもの という意味  は 同じ で
            獲得  という意味   も 同じ
          行使する  という意味  も 同じ 意味です

           なにも違わない  という意味  も      同じなのです

            「 平等 」  という 意味   は    「 平等 」 に 起きる意味

          ( すべて違っている という「 意 」  故 に おいて  遍く同じ  なのです )

           あなたは  Buddhaの  「 智 」  で  Buddha を  知 る

             ブッダ( Buddha )   とは
                  「 真理 」 と 同義の語  であり  「 道の人 」 をいう

               「 道 」 は  一つ
                        故に  「 常不軽菩薩 」 は 合掌・五体投地 する

                  わたしは   じつ と 手  を 見る

            ***************

      •  春間 則廣  より:

          
         “ どうしても  わからない ”   は  あるのか ?

           どうすれば  わかるのか

        > ブッダはたぐいまれだと思っています。

          “たぐいまれ” ということについては   おいておきましょう
         ( まれ か まれではない については
               “ 取り上げ方・スケール ” の 問題です )
          “ 「 世間 」( 世界 ではなく )で  ただ一人 ” の あなたが
                   「 世間 」   で  考えることです

        > どうやってわかったんだろうと思うのです。

           なにがわかった のか を わかったならば (諸)ブッダ です

            あなた(!) が どうやってわかったのか  “わかる必要はない”

           ブッダ 以外には “わかったことがわからない” カラ(「 空 」)です

           どのようにしたらわかるか を ブッダは示しません
           どのような道 に  わかる・「 真理 」 が あるか を
                     わからせる道   が ないからです
           わかるを捨離して  「 道 」・「 真理 」 を 歩むしかないからです

           歩む道 の中に  歩む「 真理 」・「 道 」 が ある  からです
                   ( 「 真理 」 を 歩む しかない     からです )

               わたし   は    あなたの道  を 歩んでいる

          ( わかるわからない の 道   なのか  「 道 」 なのか )

              あなたには わかる    が あり  わかっているがある
          ( わたしには わからないがある と      わかる     )
                         ( わかっていないこと が ない )

               「 悉有 仏性 」   って   わかる ことです
           
           
             
                     わからない  のです
           
           

        • mani より:

          春間さま ミスについて書きましょう。前野先生の受動意識仮説のお話を例にして。

          西洋哲学では様々な見解が出されていて、それらは検討不足も多いしミスもある。ただ、そんなことはわかっているので、そういう基本の考え方がいままでにあったかどうか、ということだけを注目して言うのです。基本的に新しい話題には新しさのみを求めて、後は不問に付すのです。

          受動意識仮説では、「自由意志はない」とする説が前野先生によって告げられている。わたしは読んでいないので、赤い実さまのお話などを参考にして語ります。

          ブッダの無我説と親和性が高いと‘誤解’して、前野先生は、わたしが電話したことにする。なぜかと言えば、彼にとっては大問題の「無我/非我」論争に関わると見ているからだ。「自分がない」ではなく「(自分はあるけど)自分ではない」とする意見をブッダが述べていることになれば、自分の説の補強になるからだろう。

          ブッダも自由意志はないと言っているみたいです、って言えるからだ。

          ところが、わたしは、ブッダについて、本当は本気で自由人への道を歩んだと見ている。なにものからも自由であり、畏れなく、苦しみのない状態にはどうしたらなれるのかを模索して、縁起/空の理論を導いた。
          それを証明しようとして『中論頌』の注釈を表す途中の段階なのである。

          わたしは、前野先生の発言に迷惑している。気にしないでいいか、とも思ったけど、無常・苦・空・無我の理論がどのように機能してどうなるのかまでを見据えて、ブッダが語っているのを見ると、ある程度、はっきりさせた方が良いのかもしれない。。とも思う。

          ブッダは苦しみのない状態を目指した。

          苦しみがないと言うことは、畏れがないということである。畏れることが何もなければ、涅槃である。
          だから涅槃は寂静の境地なのである。

          畏れるものを一つ一つ潰していったのが、ブッダのやったことである。
          見解を出すと「もしかして反対されるのでは」と恐れが生じる。あらゆる見解から出離するために、「空」を説いた。空は戯論寂滅の境地を導く。あらゆることはからっぽである。

          それと同時に誰もが考える考え方も「縁起」として取り入れた。
          縁起にしたがって考えていくと必ずミスが出る。
          そこで、縁起に従う道と、そこから脱する道を説いた。そして生ずる道と滅する道を、二つながら平等に説いて、生じたものは滅していく世界を表した。

          ここから「無常」を説くことになった。どんなものも永遠といえるものはない、とした。しかし、永遠を求めるのは有情の常である。だから寂静の境地、涅槃を理想とした。

          どんな人も「わたし」をもっていて、わたしを主張する。だから「無我」を説いた。「わたしがない」と「わたしはあるけど、わたしではない(非我)」の区別は問題にならない。誰もが「わたし(はある)」と思うから「わたしはない(無我)」を説いたのだから。平等に我を説いたら無我を説かねば不平等になる。

          それに、本当に自由人であれば、そして、畏れることが何一つなければ、自分と考える必要がないことにもなります。「無我」でいいんじゃない?

          それを「一切皆苦」で四聖諦にまとめ上げたのが、ブッダの法だと思っています。

          苦しみが一切なくなれば涅槃です。理論は完璧です。

          •  春間 則廣  より:

            > 縁起にしたがって考えていくと必ずミスが出る。

              そうです

               「 縁起 」 とは ミスの起きる世界 について

                       ミス の 成り立つ仕組み を

                       「 縁起 」 に 沿って 説くからです

                起きている 世界では
              起きてはいない 世界について 説くことはできないのです

                寝ていて 起きている世界 を 夢見るから  ミスが“ない”気がするのです
                起きていて 寝ている世界 を
                      現実の世界  に 引っ張り出すから ミスが“ある”のです

                ある・ない  ということ の   「 縁起 」 を 言っています

              

    •  春間 則廣  より:

         
         わたしは 自らの見解を語っているのではない

         すべて 「経」 に 基づいているのです

           その女 と その子の間に  ブッダ( 「 真理 」 ) は あるかな ?

      >   ブッダ の 偉大さ  は  見る者の偉大さ  で  「 正見 」 可能
      >      みてわかること  ・↓  自分でわかっている事実  とは
      >       「 あなたとわたしの間 の こと 」
      >   ( ブッダ と ある女  との間に ブッダの子 が 存在するか否か )

       このこと と Su.799  ( 関連性 が わかるかな ? )
        ( 出典 中村元 訳  岩波文庫 「 ブッダのことば 」180p. )
      「 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。
        自分を他人と「等しい」と示すことなく、
        他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。 」

         あなたは ブッダ と 他人ではないですか ?
         ( 同 ・ 劣 ・ 勝  を 起こしても いいのですか ? )

         それとも  あなた は 他人と等しいのですか ?

          あなたが  諸仏 の  内にあれば
          あなたは  ブッダの価値を認めることができる ( 等しい ) 

  3. 赤い実 より:

    〉三毒(貪瞋癡)を説いたのは、一切智者お釈迦さんである。

    三毒が苦しみのもとである、というのと逆の方向に世界は走ってきがちだったのでしょうね。
    もしかすると、それゆえに生活が便利になってきたのもあるのだとも思います。
    三毒からは離れつつ、豊かさは保つ。
    これは理想だなと思う。

  4. tanza より:

    「自由意志」については、いろいろ言われている。
    下記リンク記事は、その紹介である。

    『自由意志は”今”にはない:神経科学と仏教が指し示す、もうひとつの自由』
    https://note.com/tank_ai/n/n05c95a036495

    • ナンダカンダ より:

      返事が遅いレスを「亀レス」と言いますが
      「諦めの悪いレス」を「アキレス」と言うとか云わないとか・・・

      ガノレス😉より引用(非ガレノス)

  5. ナンダカンダ より:

    Dhp 69
    Madhuvā maññati bālo
    yāva pāpaṃ na paccati
    Yadā ca paccati pāpaṃ
    bālo dukkhaṃ nigacchati

    Dhp 121
    Māvamaññetha pāpassa
    na mantaṃ āgamissati
    Udabindunipātena
    udakumbhopi pūrati
    Bālo pūrati pāpassa
    thokaṃ thokampi ācinaṃ

    アキレスが亀に追いつかない世界には同時がない
    唯一神の悪魔は傲慢(亀に追いつくアキレス、亀と同時に存在するアキレス)

    同時がないので唯一、絶対、永遠、正しい、美、という形式を維持する
    同時がないので意(行い)ではなく眼と耳を意志(考え)に向ける
    (Cetanāhaṁ bhikkhave kammaṁ vadāmi)

    ものごとに実体が在ると思う世界・観においてアキレスは亀に追いつかない

    • mani(管理人) より:

      ナンダカンダさま こんばんは。

      あらためて『ブッダ論理学五つの難問』を読みました。【難問5】あたりの話題だと思うんだけど、「無我と非我」について書いてました。

      そこを読んで誤解したかもしれない、とは思いました。

      (p.161)したがって、ブッダにとって、「自己」は生じ滅する法ということはありえない。もし、ブッダが「自己はない」と語ったとすれば、当然生じ滅する法として「自己はある」も語っていなければならないのである。ブッダの公式に載せられる語でなければならないからである。

      「生滅するもの」は主語となりうるが、「自己(アートマン)」のような生滅しないと考えられるものは話題の主語にはなれない、ということだと思います。

      紛らわしいとは思います。だけど、法を語るなら、ブッダの説くとおりに語らなくちゃね。

      それに、アナッタンとあるんだよね。名詞アッタン(自己)に否定の接頭辞の付いた名詞をブッダが作って、それを鳩摩羅什が「無我」と訳したという経緯があります。

      それをアートマン論者たちが、自分たちの主張を正当化しようとして、「無我ではなく非我(自己ではない)」と語ったといったのです。

      そこを取り上げて前野先生は、私の文脈を無視して「無我ではなく非我(自己ではない)」の部分だけを取り上げたのでしょう。

      ブッダは主語におくものを、「自己」として語ることはありません。生滅するものが主語の位置に来るのです。だから、「我(自己)」を語るとすれば、述語の部分にまわるしかない、のです。

      【難問5】は、ブッダが食べ物は4つだと説いた時、パッグナという弟子に「誰が食べるのですか」ときかれて、「正しい問ではない」と誡めたという話を取り上げたのです。

      ブッダが述べたのは「何(誰)にとって識という食べ物はあるのですか」とこのようにききなさい、ということでした。ブッダは、理論の体系を作り替えているのだ、ということを知らないとこんな誤解が生まれるんだなあと思いました。

      ブッダは、「平等」ということを守るため、肯定と否定を要所要所で必ず語っています。それに名詞形にして語ることが多いです。アッタン・アナッタンのように。

      ナンダカンダさまをダシにして語ってしまいました。

    •  春間 則廣  より:

          
      > ものごとに実体が在ると思う世界・観においてアキレスは亀に追いつかない

         「 世間 」 に  実体があるから  其処においては

                          アキレス  は   亀に追いつく 

                 「 同時 」  「 平等 」  が あるから  

                          二つの違う生き方 が 重なるのです

         仏世界( 「 涅槃 」 ) には

               そもそも  「 平等 」 ( という 「 概念 」 ) は ない
                     「 同時 」 ( という ) 「 時 」 も ない
      ( 一瞬・「 今 」 は  即 「 永遠 」 です )

         「 世間 」 において
        「 不平等 」 が あるから 「 平等 」 が 起きるのです
      「 涅槃 」 においては
              「 不平等 」 が ない( 「 平等 」 も ない )
      平等・不平等  と   分け 隔てる  “思惟”  が ない
         
         
         
           「 平等 」 ・ 「 不平等 」  は   「 世間 」 に 起きる

            「 世間 」 に  おいて
            あなた は ブッダ に 追いつく ( 追いついて 一処だと思う )
          追いつかないから 一処にはなれない と 他処 で 思惟する 

               どっちも  「 顛倒 」 です

      • ナンダカンダ より:

        > どっちも  「 顛倒 」 です

        それゆえ 即 顛倒夢想を 思うものは思い 見るものは見る
        それゆえ 即 顛倒夢想を 思うものは思わず 見るものは見ない

        •  春間 則廣  より:

          > それゆえ 即 顛倒夢想を 思うものは思い 見るものは見る
          > それゆえ 即 顛倒夢想を 思うものは思わず 見るものは見ない

            どっちも  「 顛倒 」 です

          • ナンダカンダ より:

            > どっちも  「 顛倒 」 です

            勿論 論ずること勿し

          •  春間 則廣  より:

            > 勿論 論ずること勿し

                 表示する 意味  が・は    わかってる の ?
              
               (  なぜ  「 顛倒 」 と   いうこと が  「 顛倒 」 なのか を   )
               
               

  6.  春間 則廣  より:

      
    > ブッダは主語におくものを、「自己」として語ることはありません。生滅するものが主語の位置に来るのです。だから、「我(自己)」を語るとすれば、述語の部分にまわるしかない、のです。

          「 唯識 」 の 起きている  「 住処 」 です

      語る者 には 「 主体‣自己 」  は   ありません
       故に 存在しない 「 主体‣自己 」として語られる 主語  は ありません
                ( 存在がないモノ を 存在させている )
       故に  “自己はない“  という語  は  実体化 されているのです
       “実体がないモノ を  実体化させる” という 
         “ 言葉 “  の  ↑ 指し示す事 は( 誤まった )「 認識 」です 

       「  極論すれば 「 認識 」  は  すべて “誤っている”  」
       ( この 認識上の言葉 が 誤っていること が その証明 です )
       ( 否定 が 否定されている ( → 肯定 ) という意味  です )
    これは ↑ 論 ( 上「記」 )  を  肯定しているのでしょうか ?
       
       
       
       ( 「 認識 」 が 起きてはいない 「 瞑想・瑜伽行 」 には 誤りはない )
       (  「 認識 」 が 起きれば  そこには  「 瑜伽行 」 は ない )
       
          此処(?) に  「 認識 」 が 起きている
        

     「 『 瞑想 』 が 起きてはいない 』 という語句 は 「 認識 」 なのです
     “ 誤っている ” という語句 は 「 認識 」 において (誤って) 存在している

      誤っていること は  認識できないのです (  認識できる限りにおいて  )
    ( “すべて” の思惟 は 起こす思惟 の 正当性の上に 正当不当 を おこす )
    ( “すべて”    とは       自他に起きる   すべての思惟  です )

    「 誤っていること は 存在しない 」 と 言う言   は
          誤っている言 なのですか ?   正しい言の一つ ですか ?

        “ 語句    は  すべて 「 認識 」 なのです ”
        “ 見えるモノ は  すべて 「 認識 」 されているモノ です ” 
         「 色 」  とは    「 認識 」 の 対象 です
    “ 存在   とは  すべて 「 認識 」 なのです ”
       ( 色受想行識 が 起こされるところ が   「 識 」 であり
                    その起こすこと が 「 取 蘊 」 です )

       
       
       

     なぜ “ 「 瑜伽行 」 において 「 唯識 」 が ある ” のか ということです
    (  「 瑜伽行 」 が 起きているところ・起こしている行 が 「 禅 」 です )
        「 禅 」 においては すべては 「 寂滅 」 しています
      ( 「 禅 」 は 「 寂滅 」 と 同義 で 「 禅定 」 ということです )
      ( 「 瑜伽行 」 は “ 寂滅している ” )

        「 唯識 」 には “凡夫” は 存在しません
      「 凡夫が凡夫に呼びかける唯識 」 には  存在する 「 住処 」 がない
    https://www.amazon.co.jp/E5-94-AF-E8-AD-98-E3-81-AE-E8-AA-AD-E3-81-BF-E6-96-B9-E2-80-95-E5-87-A1-E5-A4-AB-E3-81-8C-E5-87-A1/dp/4804611665/ref=dp_ob_title_bk

        そうではあっても  この書籍 は “有意義” です ( 存在場処を持つ )
     ( 「 有 」 について  この書籍 は「 有 」 で 語ります  )
    「 有 」 に おいて
       「 有 」 の 存在場処で 存在する
             “ 存在 しない 唯識 ”  の 百科事典です

    ( “この唯識” を 基にして 「 有相唯識 」で 「 無相唯識 」を 学びます )
       学ぶことができない   その故(の中)に  学ぶことが起きています 
    ( 学び  “得る”  事    ではなく      行ずる 「 行 」 です  )

     「 習う 」(折り畳みまた開く) という重ね合わせ の「 行 」 に
           (「 行 」 と 「 行 」 との 間隙 に ) 「 無 」 が 起きます

        「 無 」 の 中 に   「 有 」 の 存在があります
      (  「 無 」    に    存在・有無 は ありますか  ?   )
      (  存在がない という語   には ↑ “存在する意” が あります )

         ないモノ  に  ついて 考える
         そのような   「 行 」 を 起こす「 住処 」はない
      
      

         話が  飛躍 しました  が
        その  飛躍する空間   に  「 空 」は 起きています