変化する!空(くう)

未分類

『中論頌』第16章まで見直しました。ここで止まってしまって進まなくなりました。公園の川は管理されていて、今は水がありません。

もう少しすると、子供たちが遊ぶために少しだけ水が入ります。市が公園を管理しているんだなあと思います。よく考えられているなあ。。って、思いますよね。

こういう公園管理に使われる思想が、「空」なんじゃないかって思いつきました。季節に合わせて公園の役割が変わる。その時々のあり方に合わせるというやり方。それを支えるのが空、かもしれない。

なんとなく、わかってきたかもしれないなあ。。その時々の変化に合わせて、時代が変わる。。地球温暖化に合わせて、その時々でわたしたちの方が変わっていく、そんなやり方が、「空」

なのかもしれないね。

時代の変化を見つめていこう。。少しずつ変化してきているのを、見ていこう。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。。。。

わたしたちは、ブッダの思想を「盛者必衰の理」として受け止めてきたのかもしれないね。

コメント

  1. Pocket より:

    >こういう公園管理に使われる思想が、「空」なんじゃないかって思いつきました。季節に合わせて公園の役割が変わる。その時々のあり方に合わせるというやり方。それを支えるのが空、かもしれない。

    もしかして……もしかしてですが、mani先生は養老孟司先生のファンだったりして!?
    (´・ω・`)デワデワ

    •  春間 則廣  より:

       
      > もしかして……もしかしてですが、mani先生は養老孟司先生のファンだったりして!?

        もしかして  という ことばが起きるのには

           それを支える  知見 が 必ずあります

                   養老孟司先生  と 先生呼ばわりする 心(知見)

           養老孟司 は 仏教を勘違いしている

            それも 「 仏教 」  ならば  オーム麻原 も 仏教者です

        

      • ぎんた より:

        >養老孟司 は 仏教を勘違いしている

        どこを見て、そう思ったのですか?それと、どんな風に勘違いしているのですか?
        10歳位にもわかるようにおせーてくれよう!!

        •  春間 則廣  より:

             
            珍紛漢紛 に 付き合う気 は  あるかな ?

          > 「イラン」だけ?あと、当事者の人は「戦争」と言わないだろうし。

            「イラン」 って   実体があるのかな ?
            イラン政府 と  イラン軍部 にも 実体はない

             当事者 って イランに住む人   だけ だろうか 、、、、

              傍観して やり過ごす人  も  当事者
            イラン・米国 と 実体化する人も  当事者

             イランという場所 において 使われる兵器 作られて補充される兵器
                日本から  殺傷兵器 を 送ることも  加能 化(可)

               兵器産業 は 賑わう ( YOU master of WAR )
          ( YOU MY ME MNE  master of YOUR LIFE )

          あなたの軍隊 は 王・ユウ の RIGHT  の指示 で 右を向く

            自分(あなたとわたし)が どのような支持 を 支持しているか を
                          指示 しているのではあるが 、、、、

             このような記述 では  何も指示さない のと 大差 ない 、、、、

             ま  意識の片隅 で      片づけることなく 感じる人も
                  いるかもしれない      現れるかもしれない(我)
             現れし “我” と 向き合う 我   を  坐してみつめる人 も
                  フタリ  ではなく     「 観たり ・ 三人 」

            たしかにいるぞ  と 不確かさ を 見つめる 、、、、

          > 「イスラエルのやりたかったこと」とかかな?

             あなたのしたいこと の上に  「 世間 」 が 起き上がっていく
                   みつめる のは   世間のあなた事 か 出世間の事 か

              「 認識 」 とは 「 色 」 の  世界の 色模様

               色のついていない 無彩色  などは  存在しない
             (  彩 という   ことばの意味 を 彩っているのである  )

            イロイロ な 意見が   「 見 」 として 並立し
             私の記述 も 「 そのような ケン は 今問題とはならない 」
               と      “彩” 用 されない

              わたしのしたいこと を している わたし
              していること を したくはないこと と  表現する  “ わたし ”

               表現の自由 は 昭和憲法 で 保証されているけれど
                  その保証 は あなたの 承認下 の 下でしか働かない

             上下 を 「 顛倒 」 するとき   この上 の 記述 は
                過去に追いやられる

                             “この上” って  画面上の上 
              我面上 の 深層・真相   ( 真実 って 表面上の事 ? )

                 ま   「 言葉遊び 」 の  お叱りを受ける 、、、、

                  承け継いで いても
              それは 受け継ぎ者 だけに起きている ヒトリゴト  二人事
                   ミタリ事      ( 受け継ぎ言 ) 

                 受け継ぎ方  の  「 彩 」 に すぎない  かな ?
              ( アヤ マッテ  すます  ようなこと  ではないけれど 

                面に向かって 「 誤面 な 彩 」 ( ホナサイナラ )

            親鸞 は いつも      あなたとわたしに
               「 ミタリ 」 と  つぶやいている
               
            「 ヒトリ 居て 喜ばは フタリ と  思うべし
              フタリ 居て 喜ばは ミタリ と  思うべし
                     その ( 三四 )   ヒトリ は 親鸞なり 」
           

            身 を 智る 人  が  親鸞であり ア ナタ で  在る
                       ( 彼方 で  永遠を知る  コ ナタ )

                 ア だ コ だ  と  言っている訳 ではない

                 アナタ という コナタ  で 

                         「 世間 」 を  智る・観る

            わたくし事( 「 色 」 ) を 言う 分け  では  ない

          •  春間 則廣  より:

             
            > 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」

              この言葉の意味 が    分かれば    分かるという言葉の上の

                分かる という    分別  の中で 振るわれる 剣 だと 分かる

              言葉通り という 通り でも  通り方  抜き身の振りかた には

              いろいろ の 彩がある  

              ことば は 一つでも  意味には “ 二種の観察 ” を 起こし得る

                        見方 という “ 二種の観察 ” を 観る  三方

                一つ ・ 二つ   は    誰でも 見ることはできる

               上下  左右  という 二方  である ( 上下を左から見ても二方である )

                真中 は    見難し    真中にある 奥深き(深淵なる) 真理

                真中 とは 「 心中側近 」 に  ある

                心中側近 より 心中側近   を  観つめる

             「 仏道もとより豊倹より跳出せる 」 ( 多寡 という 上下 )

    • mani より:

      Pocketさま こんばんは。

      >もしかして……もしかしてですが、mani先生は養老孟司先生のファンだったりして!?

      考えたことありませんでした。。

      空って、養老先生はおっしゃってるんですか。

      昔はね、公園の川は自然河川で、ネコヤナギがあったりもしたけど、
      今は涸れ川みたいになって、管理されてます。。

      様変わりしちゃうね。何でもくう、って言っておけば、間違いないかな、って思ったもんだから。ごめんよ。

      • Pocket より:

        mani先生こんばんわ

        こちらこそ済みません
        空は養老孟司先生は言ってないですね。

        学者同士に失礼だったですね
        ごめんなさい

  2.  春間 則廣  より:

      
    > 公園管理に使われる思想が、「空」なんじゃないかって思いつきました。

      使われる思想  は  「空」 だけ です
     (  「 空 」  を  抜いたら  “実” だけが 残る  )

       ただし    使われている言葉 に
    (  同じ言葉に  違う思惟  が  乗っている  )
            「 空 」 という 「正思惟」 だと  気付く者 は いる

    > 季節に合わせて公園の役割が変わる。その時々のあり方に合わせるというやり方。それを支えるのが空、かもしれない。

       季節 は     変わらない

       受け止める心 が 変わるのみ

         役割 も その時々のあり方 も ( 存在 という 事象 は )

           変わる心に 受け止められるのみ

        あなたは  テンドウ セツ ( 顛倒 ・ 天動 )

               に 縛られる

       
       「 画竜点睛 」

         あなたが動いているだけです
      

         「 真理 」 は 決して動かない
      
      ・

  3. tanza より:

    八正道は、「正しい」が強調されている。
    さて、今回のイラン戦争で、正しいのは次のどれか。

    (1) 米国・イスラエルが正しい
    (2) イランが正しい
    (3) どちらも正しい
    (4) どちらも正しくない

    •  春間 則廣  より:

       
      > 今回のイラン戦争で、正しいのは次のどれか。

        正しい  という  意味 が 評価を規定する

        正しいのは次のどれか  という   設問 が 正しくない

    • 近侍郎 より:

      もしかしたらバクトリアの王も、那先比丘に似た問いをしたかもしれないと思いました。

      個人的な考えですが、八正道の「正しい」は、「菩提に向かってちょうどよい(中)」という意味で、「正道(中道)」とは、「菩提に向かってまっすぐちょうどよく導く、見方・態度・方法」いった意味になると思います。

      日常世界の問題において、八正道の「正しい」の意味で(1)~(4)の選択肢が成り立たない場合がある、と私は思います。
      すなわち、菩提に向かうこととは別の、日常世界における諸問題の解決、たとえば戦争やトイレづまりなどの解決を直接導く見方・態度・方法は、八正道にはなく、日常世界で見出されるものと思われます。
      たとえば、トイレづまりの解決を導く場合に、液体vs固体の、八正道の正しさをめぐる選択肢の議論、には入らず、「スッポン棒を買いに行く」「業者に頼む」という、日常世界における正しい方法を設定し選択すると思います。

      なお、経では、菩提に導かないため世尊が語らないテーマの中に、戦争論がありました。
      中部一二二 空大經
      「不導遠離、不導離欲、不導滅、不導寂靜、不導智、不導等覺、不導涅槃。我不應談所謂國王論、盜賊論、大臣論、軍論、怖畏論、戰爭論」
      引用:CBETA 線上閱讀 cbetaonline.dila.edu.tw/zh/

      •  春間 則廣  より:

         
           「 世間 」 には  「 正しいこと 」 は 一つもありません

           この事 に 対して  必ず 「 正しくない 」 が 起きるからです

            正しくないこと が  起きない処 が   仏世界 です

         
          ( 正しいこと も  正しくないこと も    起きないのです )

            言い換えると  正しいこと が 存在しない処 が 仏世界です

          (  「 仏 」 とは 別の名 で 「 真理 」 と 呼ばれます  )

          このこと を  道元 は 「 正法眼蔵 」 において

          「 仏道もとより豊倹より跳出せる 」 と 言い表します ( 『現成公案』 )

          ・

      •  春間 則廣  より:

            
           「 空 」は 変化せず  空模様 は 移り行く

        > 個人的な考えですが、

         個人に しまっておくことができないこと が
         一般化  したいこと ・ していること  です

        > 八正道の「正しい」は、「菩提に向かってちょうどよい(中)」という意味で、「正道(中道)」とは、「菩提に向かってまっすぐちょうどよく導く、見方・態度・方法」いった意味になると思います。

        「 中道 」  とは そこが 慢 中 という  “位置” を 表します

           「 慢 」 を 持して  歩む 道( “位置” ) を 決します

        ただし あなたに  「 慢 」  がなければ    位置は意味をなしません
           ( 坐す処 が すべて  「 中道 」 です  行住坐臥すべて禅 )

          あなたの世間 は あなたのちょうどよさ によって 意味を与えられます

           あなたは  意味がない ・ 意味が違う という 基準で 
                 「 世間 」 を  意味付けします ( 意味を規定します )
          意味 は 彼の欲望に沿って  位置づけられます( 道を片づくります )

              ちょうどよい湯温 は 42度 ですか ?
          ( 位置度 の差で 氷は水に 戻り 一度 の変化なくとも 水は凍ります )
          ( 一 を 千に分てば 千分 の 一 の 「分」で 状態が変わり得ます )

           「 慢 」 にそって  あなたの具合良さ は 決めれられていきます

         「 菩提 」 に 向かうことは よしとしましょう

          ところで あなたは  「 菩提 」 の 意味を知っていますか ?
                    知っていること は “現実” のこと ですか ?
                   知りもしないこと を  目標としてはいませんか ?

        > 日常世界の問題において、八正道の「正しい」の意味で(1)~(4)の選択肢が成り立たない場合がある、と私は思います

          そのような問題 が 起きてはいない処 が 「 世間 」 です
           問題にされないから  こそ  問題なく 「 世間 」 は そこにあります
          あなたは そこにあって     そこを基盤として 物事を考えます

            問題だ 問題だ と   狼少年 は 何度も叫びます
          ( 彼には 問題・大神 が 見えているのでしょうか ? )

          オオカミ を  あなたの口(言葉) で カミ クダケ マスカ ?
          ( 問題 は  あなたに起きています・あなたの “口” に あります )

         こんな “ ごたく ” に 関わらなくとも
             あなたの菩提   は
             あなたの言う 口から起きる “まっすぐな道” として 存在しています

          空也上人 のように 菩薩・如来 が 出てきますか ?
              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F

          “ 菩薩 が 在って ”
                初めて  「 仏 」 が 「 如来 」 として 立ち上がります
             菩薩のみ が  「 仏 」 を  観 得ます (  得ることが叶います  )

          (  「 仏 」 を 観る者   を  「 菩薩 」 と 呼ぶのです  )

        あなたは  「 仏 」 を 観ていますか ?
               道=真理 を 歩んでいますか ?

         「 修証一如 」  真理 と 菩薩・菩提 と タターガタ は
                タタター として  ここに 立っていますが
           あなたは 「 如来 」 を   知見可能  ですか ?

           ありもしないこと について 語っているのは  わたしですか ?

          自分の身( 「 見 」 という 五蘊 ) に
          縛られている のは
            わたし  でしょうか ? ( あなた と わたし でしょうか )
            わたしだけでしょうか ?

        わたし は  他人事 を 決して 語りません

               いつも 自分の身に起きていること に  立脚しています
            ( わたし は 「 世間 」 に 立っています )

             語っていること は  すべて  自分事 です
            ( 彼方 という  「 遥にあらず 心中側近 」 )

             こなた において   彼方 を 語る

        • 近侍郎 より:

          「 きょう は  このへん に しといたる 」 

          が終わりにくると、引き締まると思いました。

      • 近侍郎 より:

        tanzaさま こんばんは。 
        自分は、一行目の「正しい」の意味がそのままスライドして、二行目の「正しい」として、戦争について評価する問いに使用されるのが、なんか変な感じがしています。
        4月25日5:57PMに述べたのは、そのことです。

        • 近侍郎 より:

          tanzaさま 補足
          >八正道の「正しい」
             スマナサーラ長老「正道(中道)とは、菩提に向かってちょうどよいという意味である。」
          >日常世界の問題
             鈴木大拙「戦争は娑婆法である(仏法にあらず)。

      • mani より:

        近侍郎さま、「語らないテーマ」ってしみじみしますね。

        >経では、菩提に導かないため世尊が語らないテーマの中に、戦争論がありました。

        何でも語れば良いってもんじゃないんだよ、ってブッダに言われているかのようです。

        >國王論、盜賊論、大臣論、軍論、怖畏論、戰爭論

        つまり、カウティリヤの『実利論』は、ブッダによって語られない、ってことがわかります。

        そんな気がするよ。。語らないのは良いことだ。。

      • Pocket より:

        近侍郎さま

        >経では、菩提に導かないため世尊が語らないテーマの中に、戦争論がありました
        >中部一二二 空大經
        >「不導遠離、不導離欲、不導滅、不導寂靜、不導智、不導等覺、不導涅槃。我不應談所謂國王論、盜賊論、大臣論、軍論、怖畏論、戰爭論」
        >鈴木大拙「戦争は娑婆法である(仏法にあらず)。

        サードゥ、サードゥ!

    • mani(管理人) より:

      tanzaさま こんばんは。

      お、四句分別ですね。
      ブッダなら、これしか答えがないなら、一応4番かなあ。。
      違うかもしれないけど、
      争ってる時点で、「パス」っていわれそうですよね。

      正しいか正しくないかが重要なのでしょうか、って疑問視されるのかも、ね。。

      八正道は、どちらの極端にも寄らない道だからなあ。

      心の中で、みんなが思ってる答えにたどり着くまで、『解決された』とは言われないだろうとは思いますね。

      • mani(管理人) より:

        ちょっと思ったんだけど、そもそも、「今回のイラン戦争で」って書いてる時点で、「正しい」は機能してるの???

        • Pocket より:

          mani先生
          >「今回のイラン戦争で」って書いてる時点で、「正しい」は機能してるの?

          これ、どういう意味ですか?

          • ぎんた より:

            先生こんにちは~。

            この前、「カナダ人ニュース」っていうYouTubeで初めて知ったんですけど、
            議会承認なしで、大統領権限で武力行使出来るのは、60日間だけで、
            議会で不承認だと、30日以内で撤退しないといけないそうです。で、
            5月1日で60日だそうです。

            「イラン戦争」!!そうです!!ここで、もやっと不快になったんだと
            気づきました。

            「イラン」だけ?あと、当事者の人は「戦争」と言わないだろうし。

            「イスラエルのやりたかったこと」とかかな?

  4. mani より:

    Pocketさま おはようございます。

    >これ、どういう意味ですか?

    この意味は、「イラン戦争」という名前は、アメリカとイスラエルがイランが核開発をしていることを理由に、議会の承認なしに大規模な攻撃を仕掛けたことによって「イラン戦争」と言われていることに、これで良いのかなと思ったからです。

    言ってみれば、ロシアがウクライナに侵攻を開始した2022年、「ウクライナ戦争」と呼ばれているのかな?
    これは「ロシアによるウクライナ侵攻」などと呼ぶ人もいます。
    もし、「ウクライナ戦争」と呼ばれているのなら、侵攻される側の方が名称をつけられるということで「イラン戦争」でも良いのかもしれませんが。。

    まあ、でもね、名称の問題ではないよね。

    • Pocket より:

      mani先生
      「必ずや名を正さんか」という事でしょうか
      ありがとうございます

      • mani より:

        Pocketさま おはようございます。

        >「必ずや名を正さんか」という事でしょうか

        そう言うわけでもないんだけど、なんとなく因果のずれがあると、みんな、ノリが悪くなるよね、って思ったもんだから。。

    • ショーシャンク より:

      簡潔に表す場合は、戦場となった場所や国を戦争の名称とするのは、仕方ないですね。

      ベトナムが戦場になったらベトナム戦争。朝鮮が戦場になったら朝鮮戦争。中東なら中東戦争。太平洋が戦場になったら太平洋戦争、というように。

      戦争を仕掛けた国の名前で言えば、太平洋戦争は日本戦争となるはずですが、そうは言いません。

      私は、『ロシアによるウクライナ侵攻』と言うことが多いですが、『ウクライナ戦争』を使うときもあります。
      専門家の本にも『ウクライナ戦争』という題名の本があります。

      今回は私は、『イスラエルとアメリカのイラン攻撃』と言っていましたが、面倒くさいので、最近は『イラン戦争』と言うことが多いです。

      • mani より:

        ショーシャンクさま

        >今回は私は、『イスラエルとアメリカのイラン攻撃』と言っていましたが、面倒くさいので、最近は『イラン戦争』と言うことが多いです。

        歴史解釈の洗礼を受けてくると名前が固定されてくるのかもしれませんね。

        いま、気づいたんですけど、ショーシャンクさまのは「イスラエルとアメリカのイラン攻撃」になってますね。

        わたしは「アメリカとイスラエルのイラン攻撃」って単純に書いてて、なんとなく、ショーシャンクさまの言い方の方が微妙な感覚がつたわるなあ、って思ったりします。

        • ショーシャンク より:

          石飛先生。

          現イラン国家の悲願はイスラエルを地球上からなくすことですし
          イスラエルの悲願はイランを滅ぼすことです。

          トランプはユダヤ人ロビーとキリスト教福音派からの圧力は無視できず
          ネタニヤフがアメリカがやらなければイスラエルが単独でイランを核攻撃すると脅したからだとも言われています。

          何より、この攻撃の名称はライジング・ライオン作戦(Operation Rising Lion)ですからね。
          「ユダの獅子(Lion of Judah)」つまりイスラエルの戦争です。

          最初期のキリスト教はユダヤ教の一派ですし、パウロが異邦人を接ぎ木したのでキリスト教は今のように世界宗教となりましたが、今回の攻撃を見て、結局、キリスト教もユダヤ民族の救済の物語なのではないかと愕然としました。

          • Pocket より:

            「パウロが異邦人を接ぎ木したのでキリスト教は今のように世界宗教とな」ったというのは間違いではないでしょうか。四福音書はギリシャ語で書かれ、ペトロも異邦人の福音を認めて割礼に理がないことを認めています。ルカも割礼は受けていないと思います。

          • ショーシャンク より:

            》「パウロが異邦人を接ぎ木したのでキリスト教は今のように世界宗教とな」ったというのは間違いではないでしょうか。四福音書はギリシャ語で書かれ、ペトロも異邦人の福音を認めて割礼に理がないことを認めています。ルカも割礼は受けていないと思います。

            パウロはアンティオキアで、異邦人と食事をしていたのに保守的なユダヤ人が来ると顔色を伺って席を立ったペトロを「福音の真理に歩んでいない」と公然と叱責しました。ペトロはこの後、パウロによる軌道修正の影響を受けて、考えを改めています。

            ルカはパウロの伝道旅行に同行した「愛する医者」であり、記録者であり、パウロの弟子です。
            パウロから絶大な影響を受けています。

            イエスとその弟子はユダヤ人で割礼を受けています。

            パウロがいなければ、キリスト教はユダヤ教ナザレ派として世界宗教にはなってないでしょうね。

          • ショーシャンク より:

            もう少し詳しく言うと、、、

            》四福音書はギリシャ語で書かれ

            イエスの教えを「福音(エウアンゲリオン)」という言葉で積極的に広め、定着させたのはパウロです。
            四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)が書かれるよりも前に、パウロの書簡(手紙)はすでに執筆され、各地の教会で読まれていました。
            パウロの手紙が「イエスの死と復活の意味」を論理的に説明し、その「意味」を補完し証明するために、後に福音書記者たちが「イエスの生前の具体的な言動」を文書としてまとめる必要が生じました。
            つまり、パウロの影響で四福音書が成立したのです。当然、その時の共通語であるギリシャ語で書かれたのもパウロの方向性があったからです。

            》ペトロも異邦人の福音を認めて割礼に理がないことを認めています

            パウロの叱責の後です。
            ペトロももともとは厳格にユダヤ教の律法を遵守する考えでした。

            》ルカも割礼は受けていないと思います。

            ルカはイエスの直接の弟子ではありません。
            ルカ福音書は『最初からの目撃者であり、御言葉の奉仕者となった人々が私たちに伝えたとおりに』書いたと書かれているように、イエスの直接の弟子たちに聞きまくって書いたもの、伝聞です。
            ルカはパウロの同行者で弟子でした。異邦人ですから、割礼は受けてないと言われています。

            まあ、これを見てもわかるように、今、『キリスト教』と言われているものは、パウロがその元です。

          • Pocket より:

            >パウロの手紙が「イエスの死と復活の意味」を論理的に説明し、その「意味」を補完し証明するために、後に福音書記者たちが「イエスの生前の具体的な言動」を文書としてまとめる必要が生じました。

            それはショーシャンクさまの参照された本の著者の解釈でしょう。

            >ペトロももともとは厳格にユダヤ教の律法を遵守する考えでした。

            イエスの弟子でそれはないでしょう。それとも福音書の教えは改竄されたイエスの教えで、パウロ以前の福音がある(!)というなら、証明不可能でしょう。

            >今、『キリスト教』と言われているものは、パウロがその元です。

            パウロと福音書は随分違うようですけど

          • ショーシャンク より:

            》>ペトロももともとは厳格にユダヤ教の律法を遵守する考えでした。

            》イエスの弟子でそれはないでしょう。それとも福音書の教えは改竄されたイエスの教えで、パウロ以前の福音がある(!)というなら、証明不可能でしょう。

            イエス・キリストの在世中は、イエスの弟子たち特にペトロは、ユダヤ教の律法を遵守してましたよ。

            イエスが十字架にかかった後のある日、
            ペトロは屋上で祈っている最中に、天から大きな布に包まれた「汚れた動物(律法で食べるのを禁じられているもの)」が降りてくる幻を見ます。「屠って食べなさい」という神の声に対し、ペトロは次のように答えています。

            「主よ、それはできません。私は今までに、汚れたものや清くないものを食べたことは一度もありません。」(使徒言行録 10:14)

            この反応から、ペトロがいかに人生を通じて厳格に律法を遵守し、汚れを避けてきたかが分かります。当時のユダヤ教の常識では、異邦人(ユダヤ人以外)と食事を共にすることも「汚れ」に繋がると考えられていました。

            パウロが記した『ガラテヤの信徒への手紙』2章では、ペトロがアンティオキアで異邦人の信徒と一緒に食事をしていた際、エルサレムから「割礼派(厳格な律法遵守派)」の人々がやってくると、非難を恐れて食事の席を外したことが記されています。これに対し、パウロは「福音の真理に歩んでいない」とペトロを公然と叱責しました。

            イエス・キリストの一番弟子のペトロがこうなのですから、
            パウロがいなければ、キリスト教はユダヤ教ナザレ派のまま世界宗教にはなっていないでしょうね。

            》それとも福音書の教えは改竄されたイエスの教えで、パウロ以前の福音がある(!)というなら、証明不可能でしょう。

            言っている意味がわかりません。
            反論したいのなら、感想や感情でなく、文献を引用して論理的にしてください。

            議論に負けたくないという感情だけで当たり散らしていると、前のように、マニカナ掲示板を閉鎖に追い込んだような結果となりますよ。

          • Pocket より:

            >パウロは「福音の真理に歩んでいない」とペトロを公然と叱責しました。

            ペトロがその叱責を受け入れたということは、イエスの福音とは異教徒に開かれたものだったということでしょう。

            >反論したいのなら、感想や感情でなく、文献を引用して論理的にしてください。

            うーん、特に文献的に厳密でない人ほどこういうことを言うんですよねぇ……。oさまくらい厳密なら「なるほど……」とこちらもそれなりの礼儀を尽くそうと思うのですが。

          • Pocket より:

            理解するのが難しいとのことで補足しますね。

            >パウロの手紙が「イエスの死と復活の意味」を論理的に説明し、その「意味」を補完し証明するために、後に福音書記者たちが「イエスの生前の具体的な言動」を文書としてまとめる必要が生じました。

            ショーシャンク様はこう仰る。
            「イエスの生前の具体的な言動」これには言動も含まれているわけですよね。しかしパウロの信仰義認のような教えは四福音書には見られないですよね?
            と私は言いたいのですが。
            ショーシャンク様にはスルーされたので、もう一度お尋ねします。これをどう考えますか。

            ショーシャンク様はo様ほど厳格でないと言ったのは文献の解釈で論争しているのに、なにか福音書(パウロの影響を受けたに過ぎないとショーシャンク様が考えるもの)を金科玉条として資料だ、と言い募るその姿勢ですね。
            ではマタイはマルコはすべて「パウロ派」で、伝統派は一切資料を残さずに消えたのでしょうか。マタイについてそれは厳しいと思わざるを得ません。

          • ショーシャンク より:

            福音書のことで反論をしてきたのに
            あなたは、ここまで四福音書を含む聖書の文言を全く引用して証明していませんね。
            ただただ自分の感想を感情のままに垂れ流しているだけです。

            論理学の先生が主催であるマニカナ掲示板に古くからいるのであれば
            感情的にならずに少しは文献を基に論理的に述べたらいかがですか。

            私は、あなたが石飛先生に言った感情的な酷い言葉でマニカナ掲示板が閉鎖されたと思っています。
            あの時と変わってませんね。

            》>ペトロももともとは厳格にユダヤ教の律法を遵守する考えでした。

            》イエスの弟子でそれはないでしょう。

            あなたのこの言葉に対し、私は、聖書を基に、ぺトロはイエスの在世中ずっとユダヤ教の律法を遵守していたことを述べました。
            これへの返答はなしですか。

            認めることも反論もなく、『うーん、特に文献的に厳密でない人ほどこういうことを言うんですよねぇ……。oさまくらい厳密なら「なるほど……」とこちらもそれなりの礼儀を尽くそうと思うのですが。』ですか?
            ちょっと笑ってしまいました。

            残念ながらあなたには論理的に対話できる資質がない。

            まずは、負けたくないという感情が先立つのを制御できるようになりましょうね。

            石飛先生と対話したくて来るのですが、残念ながら、あなたのような論理的に対話できない人に絡まれて時間を浪費できるほど、残り時間があるわけではないので、これで終わりにします。

          • ショーシャンク より:

            前後したようですね。
            投稿したあとにあったレスに答えておきます。

            》ではマタイはマルコはすべて「パウロ派」で、伝統派は一切資料を残さずに消えたのでしょうか。マタイについてそれは厳しいと思わざるを得ません。

            誰も、マタイやマルコが『パウロ派』なんて言っていません。
            イエスの在世中は、イエスも弟子もユダヤ教の律法を遵守していたと言ったのです。
            ユダヤ教ナザレ派だったと言ったのです。
            パウロがいなければ、世界宗教にはなっていないと言っているのです。

            》福音書(パウロの影響を受けたに過ぎないとショーシャンク様が考えるもの)

            これもあまりにもねじ曲げて捉えていますね。
            四福音書ができる前に、パウロの書簡は教会で読まれていました。
            キリスト教学の基だったと言っているのです。
            そして、その後、イエスの言行を記録しようということになります。
            パウロがキリスト教の基となり、イエスの言行録を残さなくては、というのが歴史上の流れと言っています。

            》パウロの信仰義認のような教えは四福音書には見られないですよね?

            見られないとは思いません。重心の問題です。
            イエスの在世中は、ユダヤ教の律法は重んじられていました。
            パウロは信仰のほうに大きく傾いたということです。

          • Pocket より:

            >まずは、負けたくないという感情が先立つのを制御できるようになりましょうね。

            ショーシャンク様も案外、同じ類かなとおもいました。
            既存の翻訳からの解釈に過ぎないことを引用しろ、と。
            信仰義認は福音書に説かれていないと言うと逃げ出す。

            ショーシャンク様はパーリ語が読めないのに、サンスクリットが読めるとも思えませんが。なぜエム先生と対話できると思うのでしょうか。

          • Pocket より:

            >見られないとは思いません。重心の問題です。

            では、マタイによる福音書 7:21-23
            「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

            これはなんですか?余りにバカバカしい解釈だと思います。

          • ショーシャンク より:

            イエスは「律法を廃止するために来たのではない、完成させるために来た」と言いました(マタイ5:17)

            イエスの言行を分析した牧師がいました。
            何に関して最も多くイエスは言及していたでしょうか。
            愛に関してでしょうか。
            平和に関してでしょうか。
            違います。
            パリサイ派に対する批判です。

            異邦人の女性に対し、イエスは
            「子供たちのパンを取って、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
            と言います。

            ユダヤ人優先であったことは確かです。
            もちろん、イエスには異邦人に対する愛もありましたが、優先順位はありました。

            パウロはその制限を取り除いたため、世界宗教へと変貌できたと思います。

          • ショーシャンク より:

            》ショーシャンク様はパーリ語が読めないのに、サンスクリットが読めるとも思えませんが。なぜエム先生と対話できると思うのでしょうか。

            サンスクリット語ができないと石飛先生とは対話できないのですね?
            わかりました。
            では、やめておきます。

            それでは、これで失礼します。

          • Pocket より:

            >ユダヤ人優先であったことは確かです。
            >もちろん、イエスには異邦人に対する愛もありましたが、優先順位はありました。

            なるほど尤もですね。認めます。

            >パウロはその制限を取り除いたため、世界宗教へと変貌できたと思います。

            はい、ですがパウロが「勝手に」その制約を取り除いたと言ってしまうと、言い過ぎになってしまいます。なぜならパウロは「復活したイエスに出会っている」からです。

            ここで単なる神秘体験だとか言い出すとヴェーダーンタも神秘体験ではないかとなってしまいますね。

            このように怒りっぽく我(霊魂、アートマン)や神(parameśvara)の実在を認める西洋世界に認められたのがヴェーダーンタだというのは皮肉ですね。

          • Pocket より:

            >サンスクリット語ができないと石飛先生とは対話できないのですね?

            パーリ語もサンスクリットも出来ないのにヴェーダーンタ至上主義でマニカナに来られるショーシャンク様の気持ちがわかりません。平信徒の折伏のつもりでしょうか。

            なんにせよ、仏教を二等市民くらいのノリで来られるのは、ちょっと理解しかねますね。

            さようなら

          •  春間 則廣  より:

               
            論理 を 解さない人 の 論理的解釈 が
                   成り立ってしまう 

                笑い事ではないのですが 笑ってはいませんか ?

            >  ***********
            ちょっと笑ってしまいました。

            残念ながらあなたには論理的に対話できる資質がない。

            まずは、負けたくないという感情が先立つのを制御できるようになりましょうね。

            石飛先生と対話したくて来るのですが、残念ながら、あなたのような論理的に対話できない人に絡まれて時間を浪費できるほど、残り時間があるわけではないので、これで終わりにします。
            >  ***********

               責められる前に その地点を責める

              それと もう一つ

            >  ***********
            >サンスクリット語ができないと石飛先生とは対話できないのですね?

            パーリ語もサンスクリットも出来ないのにヴェーダーンタ至上主義でマニカナに来られるショーシャンク様の気持ちがわかりません。平信徒の折伏のつもりでしょうか。
            >  ***********

              できる ・ できない   その基準 を 決めることはできない
             
                一つの 「 智 」  でも  分ければ 千変万化 する

            “「 慢 」分 ” の 一 でも   「 慢 」 を持する
                「 世間 」 においては    不足とは見られない

                「 人 」 も  「 仏 」 も 必ず “完全” に 立脚している
               ( ただ “完全さ”  という      無謬 が 存在するのみ )

             正しくないこと を 「 顛倒 」するとき
               正しい こと  は  必ず 「 顛倒 」 に起きる

              正しい・正しくない   その二遍 を 離れる  「 中道 」

              “ どんぐりがせいくらべをする ” そのこと を  誰が否定できるのか

            >> ***********
                  ちょうどよい湯温 は 42度 ですか ?
              ( 位置度 の差で 氷は水に 戻り 一度 の変化なくとも 水は凍ります )
              ( 一 を 千に分てば 千分 の 一 の 「分」で 状態が変わり得ます )

               「 慢 」 にそって  あなたの具合良さ は 決めれられていきます
            >> ***********

               気分次第 で 適温 は “計られる” 

             ( “ 気持ちがよい 即 健康的 ”  ではない )

                 都合に 縁じて  好きに変わる 適・不適

               他人事 ではなく  わたくし(春間 則廣) ごと  です

              ( ただし 起きていること は “公”私 に 亘る )

                  自分という囲い込み( △ )
              を   開く記号 が  ( 八 ) です

               開き・開かれる のが ( △ ) だから   ややこしい !

      • ぎんた より:

        ショーシャンクさんこんにちは。

        >ベトナムが戦場になったらベトナム戦争

        たしかにーー!そうでした。「イランイラク戦争」の印象が強くて、なんか、イラン
        だけだと物足りないような??と思ってしまったw

        ぎんたは、4月9日に、録画した番組を観ようと思ってつけたTVでちょうどやっていた
        BS世界のドキュメンタリー選▽ハルマゲドンを待ち望んで米国政治動かす福音派(後)
        を途中から観ました。

        神は奇跡を起こせて、不可能はないんだそう。神でほとけのキリスト教の人が
        そう言っているので、信じるしかないのですが。

        私たちの信仰の敵はもはや隠れてはいません
        潜んでいた悪魔の力が息を吹き返しているのです
        闇が広がり国全体を覆いつくそうとしています
        ~略~
        ゲイリー・バード牧師とその妻の体を完璧に復活させた主イエスに感謝します
        牧師「バイクが倒れて動かず妻が下敷きに。男4人で苦戦していたが天使の助けで
        持ち上げることができた 主は私の心に語りかけた「お前が倒れたとき 私は
        現れる」」
        、、、、神でほとけの男性が4人もいたからだと思うのだけど、、、、天使が、、
        ぎんたわかんない。でも、きっとキリスト教のひとは天使がわかるんだろう。

        まだ おとぎ話の中にいるようなやつが多い。
        「神様は優しい方だ 大丈夫だ」。 そうはいかない。聖書を読めば 破滅的な
        苦難がくると、、、分かるはずだ。

        ヨハネの黙示録に「世界の終わりに壊滅的な戦争が起きる」とはっきり書かれています。
        ハルマゲドンの戦いでは誰が神の敵となるのでしょうか?

        最終的には救い主であるキリストを否定した者たち全てが敵となります。
        大工であり穏やかで優しい教師のイエスを思い浮かべる人々には信じがたいことですが
        「黙示録」ではイエスが剣をとって馬にまたがり神に背いた者たちを処刑する姿が
        描かれています。それがイエスなのです。初めは世界を救うために現れ
        その次には世界を裁くために現れます。

        なんと!!!!びっくり驚愕です!
        神とイエスは何をするつもりなんだろう?でも、一個前の地球と同じだろうから、
        精一杯よく見ておこう。。。もう、目がまんまる(実際は細いのでイメージだけ)

        • ショーシャンク より:

          ぎんたさん、こんばんは。

          》ヨハネの黙示録に「世界の終わりに壊滅的な戦争が起きる」とはっきり書かれています。
          》ハルマゲドンの戦いでは誰が神の敵となるのでしょうか?

          私も若いときによく予言の書とか読んでいましたが、すべてインチキだとわかりました。
          100%当たった予言などありません。
          100ほど言って1個当たれば予言者ならば誰でも予言できます。

          エギゼエル書もヨハネ黙示録も『世界』なんて言っていますが、中東のことですね。

          ロシアとイランとトルコがイスラエルに攻めのぼるのはあり得ます。
          マゴクのゴグはロシアですから。
          それをイスラエルは核攻撃して粉砕するのでしょうね。

          結局、中東のことで、『世界』ではないというのが、最近、私が思ったことです。

        • ショーシャンク より:

          》まだ おとぎ話の中にいるようなやつが多い。
          「神様は優しい方だ 大丈夫だ」。 そうはいかない。聖書を読めば 破滅的な
          苦難がくると、、、分かるはずだ。
          》最終的には救い主であるキリストを否定した者たち全てが敵となります。
          大工であり穏やかで優しい教師のイエスを思い浮かべる人々には信じがたいことですが
          「黙示録」ではイエスが剣をとって馬にまたがり神に背いた者たちを処刑する姿が
          描かれています。それがイエスなのです。初めは世界を救うために現れ
          その次には世界を裁くために現れます。

          ユダヤ教もキリスト教もみんな怒りんぼうさんですよね。
          モーセは怒って十戒の石板を叩き割りますし、
          イエスは神殿の商売人たちの商売道具をガチャガチャに壊していきます。実が成ってないと怒っていちじくの木を枯らしたりしてます。

          「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」

          キリスト教の歴史を見ると、この言葉通りですね。

          • mani より:

            ショーシャンクさま こんばんは。

            >「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」
            >キリスト教の歴史を見ると、この言葉通りですね。

            ほんとですよね。
            怒りがあるのは、欲を認めるからですよね。

            わたしは、昔、キリスト教など一神教の神さまは、欲を殺さないんだなあと思ったことがあります。
            欲を殺さないと、必ず争いが起きて、怒りも生まれ、無知がやって来るなあと思います。貪瞋癡の三毒がそろっちゃう。

            昔、スマ長老が「ウパニシャッドには怒りがない」っておっしゃってて、それを聞いて、けっこう目からうろこでした。

            怒りを消すのはヨーガに依るだろうと、いまのところ、考えてます。。

            世界的には、マイナーかもしれないけど、やっぱり怒りを説かない仏教やヒンドゥー教はすごいなと思ってます。

          • ぎんた より:

            最初の仏教に「怒り」は無かったかもしれないけど、
            お釈迦様は、弾き飛ばされて(人間以外を経由して)イエスになったんだから、
            イエスの中の人はお釈迦様なんだから、お釈迦様は「自分がない」から、
            環境に順応していっぱいキレまくった以上、仏教に「怒り」は無いみたいのは
            反故になったと思います。環境がその人の思考・行動を決めるからです。
            是々非々でやるしかないんだと思います。
            でも、イエスはなんで自分が神の子だなんて言ったんでしょう?ばかだなー
            誰かがイエスの死後につけ足したのかな?

            他の人のことを、ばかだなーーって思う時、自分がまだ未体験だからで、
            来世とか、次の地球でその順番が回ってきちゃうだけのことなんだけど、
            ねこは来世も次の地球でもねこだから大丈夫なんですょ

          • mani より:

            ぎんたさま こんち。

            >イエスの中の人はお釈迦様なんだから、お釈迦様は「自分がない」から、
            環境に順応していっぱいキレまくった以上、仏教に「怒り」は無いみたいのは
            反故になったと思います。

            キレまくったあげく、「怒り」が無いは反故になった。。。なるほど、ありそう。

            イエスの方が怒りっぽいですもんね。でもイエスは、怒ってても悲しそう。

  5. 春間則廣 より:

    〉まあ、でもね、名称の問題ではないよね

    名称は主体を示します

    日米 とするときは 日本が主体です

    まさに 主体から規定する 認識です

    名称に認識は縛られます

    ほどくこと は 可能です

    .

    • 春間則廣 より:

      イランの石油が焦点です

      その石油に依存する国を遠望します

      遠望にはウクライナが続きます

      ロシアの石油利権が底につながります

      • mani より:

        春間さま こんばんは。

        >ロシアの石油利権が底につながります

        やっぱ、欲が来るのかあ、って思います。四聖諦を説いたブッダは、ほんとえらい!

        人類を救ってる、って思うけどなあ。

        •  春間 則廣  より:

          > やっぱ、欲が来るのかあ、って思いま

              「 世間 」 は 「 欲 」 で     動きます
          “ 「 世間 」 の  人 ”  に  「 欲 」 が あるときのことです

              「 世間 」 に おいて    
              「 欲 」 を 見出さない人 が 「 菩薩 」 です
               自他( 私自身 である あなたという幻影 )  に 
              「 欲 」 を 見出すことができない人  のこと です
              ( 「 常不軽菩薩品 」 において それが 説かれています )

              “ 手を合わせる という 禅 ” に 住しています(坐している)

           ( そこに住さない人は  そこがある ということ に 抗います )
               抗う根拠 が 襟元の宝珠  に   内蔵されています
            宝珠 が 襟元にある(あなたに属す) ゆえに 抗うことが可能なのです

            “ひとつ”  が ある  ということは
            “二つ・タ” という   認識の上になりたちます

            「 他 」 のことを 思いやる心  が 「 菩提 」です

           “「 菩提 」を 求める ということ ” は 「 欲 」に 基づかない
               しかし
           “「 菩提 」を 求める ” という  “ 認識  は 「 世間 」に起きます ”
            世間の人 が 認めることにより  “ ことば は  起き 認識されます ”

             わたしに認識がない と 言っても( 言おうと )

              あなたは
             わたしには “ わたしには認識がない ”
                    という “ 認識がある ”
                      と  認識して  あなたの知見とします

            あなた  には    ないということ( 「 無 」 ) が
            あるという認識  に  すり替わります ( 「 顛倒 」されます )
            わたし に「智」が あろうと あなたに 認める「智」が なければ
              それは    あなたにとって   絵空事 にも なりません
           ( 其処 に  “ 「智」 が  ない “  ということも 成り立ちません )
           
           

            「世」見たくない こと   は   見ても 読めません
            (  見たくないこと     を   見ることはできません  )

            “したい・みたい” という 欲望 が  「 欲 」なのですが
               自分の目 で   欲している自分を見ることはできません
            (  「 欲 」  が   「善く」 として 働くからです  )
               「悪」 なきゆえに      「 善 」 も なし
           (  「 欲 」 の中に「 善 」が 埋もれて堀出しがたい ということです )

             善人の中には  悪人はいません(悪はありません)

            (自らに)悪を認める人(悪人) の為に「 初菩提 」が あります

            「 菩薩 」 は 自らを救う その故 に おいて 「 他 」を 救います

              救われてはいない  故 に 立つ
                       「 常不軽菩薩 」 が 手を合わせています

              わたしは「 常不軽菩薩 」 ではありません
                手を合わせません   足もそろえません

               ただ  ゼンゴ に  半歩    隙間を開けます
              ( 半眼 とは すべてを観る 眼  を 言います )
              ( 半歩 を  「 慢 」 に 分つと  漫歩 と なります )

             分かろうと 分かるまいと  “半” を “慢” に 分つと
                           一歩 が 千歩  と  なります

            「 慢 」 を 持して  じっと    我が慢  を  名我無

  6. ショーシャンク より:

    石飛先生、こんにちは。

    》わたしは、昔、キリスト教など一神教の神さまは、欲を殺さないんだなあと思ったことがあります。
    欲を殺さないと、必ず争いが起きて、怒りも生まれ、無知がやって来るなあと思います。貪瞋癡の三毒がそろっちゃう。

    そうなんですよね。ギリシャ神話や日本神話の神々が怒ったり好みがあったりするのはわかります。人格神ですから。
    唯一神が、怒ったり特定の民族を好んだりするだろうかと思います。
    民族という考え方自体が人間のちっぽけな思考にしか過ぎないですよね。
    唯一神なら全部自分の創造物ですよね。
    ここが『本当に唯一神?』と思ってしまうところです。

    》昔、スマ長老が「ウパニシャッドには怒りがない」っておっしゃってて、それを聞いて、けっこう目からうろこでした。

    ここがよくわかりません。神々の神話に怒りがあるのはわかりますが、ウパニシャッドのような真理だけを説いている書に怒りがないとわざわざ言う意味がわかりません。
    それなら、般若心経に怒りがない、でも、法華経に怒りがない、でも言えるのではないですか?

    》怒りを消すのはヨーガに依るだろうと、いまのところ、考えてます。。

    ヨーガのどのようなところでしょうか。

    》世界的には、マイナーかもしれないけど、やっぱり怒りを説かない仏教やヒンドゥー教はすごいなと思ってます。

    そうですね。仏教とヒンドゥー教はすごすぎる、最近特にそう思えてきました。
    ただ、ヒンドゥー教からは世界的な教師が多く生まれましたが、
    仏教はどうもパッとしません。
    禅やマインドフルネス瞑想というメソッドだけは流行るのですが、
    仏教の教えというのはマイナーなままです。

    仏陀の理法は人類の至宝だと思いますが。

    • mani より:

      ショーシャンクさま こんばんは。

      >ここがよくわかりません。神々の神話に怒りがあるのはわかりますが、ウパニシャッドのような真理だけを説いている書に怒りがないとわざわざ言う意味がわかりません。

      わたしは、ウパニシャッドは真理だけを説いているとは思ったことがないので感心したのかもしれません。また、スマ長老が、怒りがないことに気づいたというところに、驚いたのかも。

      ヨーガというのは自己言及の要素があるので、どうしても自分で自分を変えていかなきゃならないところがあってそこが難しいんだと思います。怒りを持ったら自分は変われません。

      >般若心経に怒りがない、でも、法華経に怒りがない、でも

      確かにそうです。でも、仏教だから、当たり前っぽいです。そもそも、ブッダは「争うな」の教えを説くのですから。苦しみを払うことを主題にします。

      この世に怒りがなくなったらウパニシャッドのように真理に直結できるのかも。

  7.  春間 則廣  より:

       
    >  仏陀の理法は人類の至宝だと思いますが

      「 解宝の人は 礦石を宝と見る 」

        はたして 「 宝 」 に 至って  “至宝” と 名付けるのか ?

         あなたの抱く 宝    は     あなたの解釈にすぎない

       「 寶 」 の 意味を知って    意味 に  生きる 
                         それが  「 宝 」  です

           生きる宝  が            ブッダ・真理 です

       経済的宝 を  追い   宝を欲する  という   生きざま
                  ( その生きざま である   「 欲 」 )

     > 思いますが  という
             思うこと は “ 法 ”的 に 保証されている自由

         しかし この場合 の “ 法 ”的 とは 「 宝 」 ではない

          その自由  も  仏教 の 自由  とは 重ならない

       論理的矛盾 を 挙げ   その上に  反論できなければ

                    反論 は 中 傷 に 他ならない

  8. tanza より:

    >『中論頌』第16章まで見直しました。ここで止まってしまって進まなくなりました。

    「AI検索」を使用すると、『中論頌』第16章を以下のように回答した。

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    『中論頌』の第16章は「観縛解品」と呼ばれ、主に縛りや解放に関する教えが展開されています。この章では、輪廻や生死の本質についての深い考察が行われ、特に「縛」と「解」の関係が重要なテーマとなっています。

    「内容の概要」

    縛と解: 第16章では、存在するものがどのように縛られ、またどのように解放されるのかを探求します。特に、輪廻の本質や、個々の存在がどのようにして「縛られている」のか、そしてその解放の可能性について論じられています。

    因縁の法則: この章では、因縁によって生じる現象がどのようにして「空」であるかを示し、すべての存在が相互依存的であることを強調します。つまり、個々の存在は独立して存在するのではなく、他の存在との関係性の中で成り立っているという見解が示されています。

    反論の構造: 第16章は、反論者の見解に対してナーガールジュナがどのように応答するかという形で構成されています。彼は、存在の本質を理解するためには、単に「存在する」と「存在しない」という二元論を超えた視点が必要であると主張します。

    「重要な教え」

    無自性: すべての存在は無自性であり、固定的な本質を持たないことが強調されます。これにより、存在の変化や流動性が理解され、執着からの解放が促されます。

    輪廻の否定: 輪廻の本質を考察する中で、ナーガールジュナは「生」と「死」の概念を再評価し、これらが実体を持たないことを示します。彼は、存在が「生じる」ことも「滅する」こともないとし、これが真の解放につながると説きます。

    このように、第16章は中観思想の核心を成す部分であり、存在の本質や解放の道についての深い洞察を提供しています。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    • mani より:

      tanzaさま AIで調べてもらってありがとうございます。
      AIは「わかって」書いてるわけじゃないってことがよくわかります。「行(サンスカーラ)」がAIにはないんだなあ。そこが問題なのかも。。
      無明から出発する十二支縁起の、この行程を味わったことのないものには、語りそのものが無意味になることをAIは知らないんですね。

      >彼は、存在の本質を理解するためには、単に「存在する」と「存在しない」という二元論を超えた視点が必要であると主張します。

      この答えで「存在の本質を理解するために」訳わかってないことが、一目瞭然です。二元論を超える、とありますが、「存在に本質ってあるの?」って疑問がわきます。

      AIは仏教の対極にある思想を表す道具だなと思います。彼らは実在論を説きますが、その実在は、認識にある「実在」なんですね。わたしたちは、それを煩悩と簡単に呼んでいます。

      • mani より:

        続きです。どうしても、AIに冷たいことになってしまって申し訳ない。

        新聞で目にしたんだけど、そこでは、AIのおべっかを使う話が問題になってて、結局は、背後に人間が目を光らせてる印象が強いです。どんな意見になっても、それを完全に否定しないようにしよう、ってAIに言っておけば、その通りにやってくれますもんね。

        分析だけする、評価はしない、膨大なデータを簡潔にまとめる、これらはAIの仕事で、AIはそつなくこなすんだけど、ただ一つ足りない視点がある。。

        それは、誰も気づいてない視点だ。
        ブッダだけが気づいた視点です。だから、AIは、ブッダを評価できない、んだなあと思います。

        寂滅する。。ここにきづいたならば、ちがう視点が待ってると思うんだけど。

      •  春間 則廣  より:

          
        > この答えで「存在の本質を理解するために」訳わかってないことが、一目瞭然です。二元論を超える、とありますが、「存在に本質ってあるの?」って疑問がわきます。

          そこが 「 本質 」!  ですが

            ありもしないこと  とは  存在させることができないこと
             ですが
           “ 存在を疑う ” ということの中に “実存” してしまっています

          疑う対象 ↓が 疑われるにもかかわらず 疑いなく“実存しています”
         ( まさに ことば とは    実体のないモノです )

            ここ (?) こそ
         『中論頌』 で  問題とするところ   であり
             “ 問題には ならない・できない ところ ” です

           ありもしない 実体・本質 に 対して
                  「 論 」  は 成り立つのでしょうか

            「 中論頌 」 は “ 存在しない問 ” を 投げかけます
        (「 論 」が 成り立たない という「 論 」も 成り立たない )

          ここに「 空 」が 立っています(坐しています・行住坐臥すべて禅)
          考える“主体” が 「 空 」なのです

            「 中論頌 」   は
              一体  “我のどこに” 存在できるのでしょうか

             “謎”   が
            存在できない ・ 存在しない
                      “ 謎 ”  ですね  ?

        •  春間 則廣  より:

              
            「  山々  想黙  悉有  仏性   」 

                 「 唯我  独尊 」
            

        • Pocket より:

          春間さま

          >疑う対象 ↓が 疑われるにもかかわらず 疑いなく“実存しています”
          >(まさに ことば とは実体のないモノです)

          >「 中論頌 」 は “ 存在しない問 ” を 投げかけます
          >(「 論 」が 成り立たない という「 論 」も 成り立たない )

          存在しない、成立しない、というとその言葉が余計に否定対象を存在させてしまうということでしょうか。

          默然無言
          帝云。對朕者誰?磨云。不識。

          春間さまが語っているのは禅の関心領域ですね。

          >“謎”が存在できない・存在しない
          >“ 謎 ”  ですね  ?

          禅的なことを語っているはずが、謎は成立しないナゾナゾを始める春間さま

          「謎が存在しない」ということは「存在しない」に囚われた戯論でありましょう。

          存在する、存在しないというこの二つは極端な見解である。

          dmigs pa thams cad nyer zhi zhing/ /
          spros pa nyer zhi zhi ba ste/ /
          sangs rgyas kyis ni gang du yang/ /
          su la’ang chos ‘ga’am bstan to/ /

          「一切の対象は完全に寂滅し
          戯論は完全に寂滅した状態であって、
          御仏はどこでも、誰にも、いかなる法もお説きになられなかった。」

          中論頌にはあらゆる教えが詰まっていますね。

          •  春間 則廣  より:

              
            > 「一切の対象は完全に寂滅し
                  戯論は完全に寂滅した状態であって、
                御仏はどこでも、誰にも、いかなる法もお説きになられなかった。」

                という 対象(ことば) を 認識するわけです

            > 中論頌にはあらゆる教えが詰まっていますね。

               それが 蹴論 か “一つだけの真理” かを 
                 唯我  という  立つところ(独尊) において
                “尊・存”  と    「 識 」 する

             “ 教え ” とは ことばにすぎない

                 「 行 」 に 移ると   「 真理 」 となる
                ( 移り方 の 問題   は 依然として起きる )

                   悪行 も  「 善 」 である  という理由は

                 “善・悪” が  「 世間 」に起きる“のみ”  だからである

                「 善 」 は  「 世間 」 に起きて   「 無 」 に 起きる

               この セン“テン”スウ が 「 無 」 におきて ナンセンスウ と なる

                   眼 を テン にしないと  点対象 は 像を結ばない
                ( センス の ない 表現 で  セン・テン スウ  を 稼ぐ )

            > ○○ が語っているのは禅の関心領域ですね。

              「 禅 」  って  なんですか ?

               それが ジャーナ という 「 行 」  であれば 
                 そこ( 「 禅 」 )に 関心事 など 存在しません

               関心 を 打ち捨てること ・ 打ち捨てるヨーガ が 「 禅 」 です

            > 禅的なことを語っているはずが、謎は成立しないナゾナゾを始める ・・・・
              「謎が存在しない」ということは
              「存在しない」に囚われた戯論でありましょう。

               これが 存在する(存在している)存在 に 囚われた「 戯論 」 です 

                これは ○○ です  という  断定
                    ○○  が  まさに “実存”  です

               あなたによって(あなたの 「 識 」 において) 断定される実像

                “ 禅的なこと ”    などという
                “ かたりごと ”    など
                「 識 」におきる 「 色 」 にすぎない

            このような 「 論 」 は( 「 戯論 」 故に ) 存在しませんか ?

             『中論頌』 は  「 戯論 」 を 対象 として 成立していますか ?

  9. 赤い実 より:

    先生、こんにちは。
    こちらにも失礼します。

    〉なんとなく、わかってきたかもしれないなあ。。その時々の変化に合わせて、時代が変わる。。地球温暖化に合わせて、その時々でわたしたちの方が変わっていく、そんなやり方が、「空」

    公園管理の人たちは、「空」を意識して管理しているのではないけど、上手く管理されてる仕組みを観察してみると、「空」の論理になってるということが観察できるということなのかな。

    上手くできてる仕組みってきっとそうなのかもしれません。

    • mani より:

      赤い実さま こんばんは。

      >上手くできてる仕組みってきっとそうなのかもしれません。

      空が効いてるって感じなのかな。。自然とうまいこと機能する、ってことは無いかもしれないけど、みんなが少しずつでも努力すれば良い方に向かいそうだよね。

      想像力の問題だ、って気もしてくるよね。

  10. ぎんた より:

    キリストを否定した者たちが全て敵ってことだけど、、、ぎんたちょっと
    ネガティブだから、、心配になるんだけど、、、
    キリスト教じゃない人よりも、むしろ、キリスト教徒でありながら、イエスの
    信念だか、信仰だかのセンスにほど遠い行動する人への怒りの方がより強かったら
    どうすればいいんだろう?

    あと、神とイエスは自分の手を汚して戦ったりしないような気がするのだが、
    そこはどうなんだろう?神ならば、気に入らないやつ同士を戦わせるとか造作もない
    ような気がするのだけど。あーーまた怖い考えになってしまった。

    あと、やっぱ、究極的には、キリスト教徒ひとりひとり全員がイエスだ!!と
    仮にイエスが思った時、「あいつだけはぜってーイエスじゃない!!」って他の人に
    言う人がいたら、その人が大本のイエスも、今目の前にいるイエスも
    二重に否定した人になるんじゃないだろうか?

    あ、これは、教会の儀式でみんなパン食べてるから、みんなイエスってことなんじゃ
    ないのかな?というところから考えました。

    独り言ですが。。。

  11. mani より:

    ぎんたさま こんばんは。

    >あと、神とイエスは自分の手を汚して戦ったりしないような気がするのだが、
    そこはどうなんだろう?神ならば、気に入らないやつ同士を戦わせるとか造作もない
    ような気がするのだけど。あーーまた怖い考えになってしまった。

    ブッダなら、人間出身だから、他人の考えてることには口出しできないんだけど、キリスト教の神さまは、何でもできそうだけど、案外できないのとちゃいますか。

    人間どもがけんかしてるのを何もしないで見てるだけだしね。

    だから、人間どもの方で、「けんかしないようにしよう」って言わなきゃいけないことになってるんじゃないかな。。

    >神ならば、気に入らないやつ同士を戦わせるとか造作もないような気がするのだけど。

    それで、アメリカとイランが争ってるのかも。。
    争った時点で神さまに嫌われてる、って思えれば、少しは良いのかもしれない。

    神さまのことも少しは考えよう、っていう姿勢が大事なような気がする、ね!

    • 赤い実 より:

      〉空が効いてるって感じなのかな。。自然とうまいこと機能する、ってことは無いかもしれないけど、みんなが少しずつでも努力すれば良い方に向かいそうだよね。

      「空」を祭り上げたくていうのではないのですが、それにあるとき、争いは起きにくいというのはあるように思えるのです。

      • 赤い実 より:

        すみません。補足です。
        「空」を語ることにある時ではなく、「空」である時、というのが正確なんだと思います。
        そもそも「空」の論理は難しいのですが、そんなふうに感じられます。

      • 赤い実 より:

        〉〉「空」を祭り上げたくていうのではないのですが、それにあるとき、争いは起きにくいというのはあるように思えるのです。

        何度もすみません。自分のコメントへの補足です。
        思い込み、執着を解体していくのが「空」の論理だからですよね。
        春間さんの今のコメントを見て、そのことを思いだしました。
        これ、春間さんへの批判などではなく、コメントを拝見してほんとに今のことを思いだした、という意味です。

        一度に3回もコメントしてしまいました。
        すみません。m(_ _)m
        静かにします。

        • ぎんた より:

          そんなこと言わないでぇ!!赤い実さんの好きにコメントすればいいじゃ
          ないですか!!
          てか、ものすごく大勢の人がコメントしてくれないと、
          ぎんたが蔓延ってかなり悲惨な状況になってしまうので、ぜひいっぱい
          コメントしてください!!(主催の先生じゃないのに、こんなお願い変だし、
          そもそも、蔓延ってる自覚あるなら控えろって話ですが)

          先日、近侍郎さんに向けての赤い実さんの文章、あーーー上手だな~~~~って
          思いました。この位に書けたらいいのに、と思いつつ、もう上達する気配
          ないのは、こんな奴が存在することで、こんな風になりたくないと思う人が、
          三宅香帆の本とか購買するっている経済の流れに貢献するっていうコースに
          ぎんたが乗っかっている、ということだと思います。

          三宅香帆がぎんたの母親だったら良かったな~~~~~。そしたら、
          もっと賢く育ったかもしれないし、良い読書ライフだったかもしれないのに。
          母本読まないし、父は「ノストラダムス」とかだったから、、、

          なんかまた話が支離滅裂でごめんなさい。

          • ぎんた より:

            あ、購買するっていう、でした。

          • 赤い実 より:

            ぎんたさん、こんにちは!

            三宅香帆さんて知らないから調べたら、文芸評論家で話題の本が出てる人なのですね。
            その話題の本のタイトルだけはどこかで見ました。
            視点が鋭くてそして、わかりみなんだろうね。

            コメントは私の個人的なポリシーなのです。
            ぎんたさんはぎんたさんのポリシーで。(*^^*)

        • Pocket より:

          赤い実さま

          コメントを直せないの不便ですよね。回数は気にしなくていいんじゃないでしょうか。
          コメントを消せない変わりに誰かが書き込んだ痕跡も消えないのは素敵だなと思います。

          空の論理のこと、よく考え抜いてあって、mani先生からいっぱい勉強されてるなあと共感しますです。

          • 赤い実 より:

            Pocketさん、こんにちは!

            お気遣いありがとうございます。
            先生の本が出版になる前に自分でも勉強できたらいいなと、解説本を読んでみたのだけど、やはり中論は難しいですね。
            そのエッセンス的なことを書いてある文章をネットなどで読めばそれはまぁ理解できるけど、そのものの部分は私には難しいです。
            先生の本が出版されたら、ライフワークみたいに、認知機能が大丈夫なうちに理解できたらなと考えてます。

          • 春間則廣 より:

            〉やはり中論は難しいですね。

            中論は理を理解していない人 の 為に記述されていますが、
            理解していないければ、理解できないのです

            分かるまでは分からない という矛盾が論点です

            どうすれば 分かるか といえば
            分かるための 下地となる行を積むしかありません

            あなたにある正しさを 疑いうる 行い です

            間違っているあなたが その間違いで、間違いを探す

            自分は間違っていると、間違って思う
            自分は間違ってはいないと、間違って思う

            間違って 、 正すことはできないと思う

            間違えずに
            この記述を理解する

        • mani より:

          赤い実さま おはようございます。

          >一度に3回もコメントしてしまいました。

          たぶん、大丈夫ですよ。3回が流れになっていて、他の、読んでる人も気づいたりするかもしれない。。これが縁起なんだと思うなあ。

          だんだんわかってくる、っていうのも順序だよね。
          赤い実さま、気にしないで!

          わたしも、後から書きましょう、なんてやってるとそのままわすれてしまうことがあって、思ったときに書かなきゃだめだなあ、って反省してます。

    • ぎんた より:

      >神さまは、何でもできそうだけど、案外できないのとちゃいますか

      そうなんですよ!ぎんたも実はそう思っているのですが、神でほとけのキリスト教の
      人が言うならば、なんでもできて全知全能だって設定しないといけないんです。
      「私な仏教」としては。でも、、、、、

      条件が揃った時には火も起きるし、雷も落ちます。これは100%そうなんですが、
      条件が揃わなければ、なぁーーーーーーんにも起こらないんであって、そこを
      無視して何かを起こせるってことではないように思うんです。
      (メッター様には申し訳ないと思うのですが)
      神でほとけ(←これは日本人向けな表現です)の人々とか、神でイエスな人々が
      各々で頑張ったり、頑張らなかったり色々しないと、いけないのかなーと考えます。

      とにかく、このままだと、世界中で猫飼ってくれる生活を保てる人が
      激減しちゃうので、大変に困るんです。ニャントロ星人大ピンチです。
      AIくんは、とっても頼りになるけど、猫は飼ってくれにゃい。。。

  12. tanza より:

    ブッダの「無我」の教えは、「自由意志はない」も意味する。
    「自由意志はない」は、現代科学において実証済みである。
    参考までに、下記の本では、186頁にそれを指摘している。

    『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?(PHP新書 1450)』
    「ただ、この考え方は決して新しいものではありません。
     今から2500年前、ブッダは、人間の最高に幸せな境地は、煩悩や私自身がない状態だと説きました。無我の思想です。自由意志が存在しないという現代科学の帰結は、2500年前のブッダの思想とそっくりです。
     ちなみに私は、仏教哲学は科学と矛盾しないと考えています。ブッダは当時、真理を探究する科学者・哲学者であり、仏教の教祖になるつもりはなかったのだと私は理解しています。そして、話が長くなるので省略し簡潔に述べますが、ブッダの思想は、現代の最先端科学、すなわち複雑系の科学、素粒子理論、ニューラルネットワークの科学、そしてウェルビーイングの科学と、驚くほど整合すると考えています。もちろん、受動意識仮説とも。」

    • 赤い実 より:

      tanzaさん、失礼します。
      紹介されてる内容は私もうなづくところがあるのはあるのですが、うなづくことができない分も多いですね。

      というのは、仏教は有無からは離れるものだからです。
      断定はしないのが仏教ですよね。
      言語による断定が苦悩の元とも考えるのではないでしょうか。
      有無について断定しようとすることが煩悩だと仏教的にはなりますよね。
      そういう意味でうなづけません。

      •  春間 則廣  より:

        > というのは、仏教は有無からは離れるものだからです。

          ( こういうもの・有無 から離れるもの  である ということ )

             これが 「 有 」  だと 分かりますか ?

        > 断定はしないのが仏教です

           これが  断定です

          ブッダ は 断定しません

          「 真理 」 を  行い から・によって( 「 行 」 に 対峙して ! )
                     ↓    ↓
                 “ 提示する( 見せる・聞かせる )”  のみ

             その行いを見て  どうする か   で
             あなたの仏教 が  “きまる”

            手にする か  解釈ですます か は
                    あなたの生きざま が 示す

         ( マッリカー の )“ 思考 ” は 何処へでも 行くことが叶う
                    ( しかし その思考 に よって )
           そのどこにおいても あなたが見出すのは あなた自身でしかない

            大事にする  という意味  を

            小事にしていて は  いけない
           ( 一人の世界 には  事の大小 は 存在しない )

           「 曼荼羅・瞑想 」 とは  このような思考方法 を 組合わせること

          ( ことばの一つ  一つ が 一つ の 曼荼羅  なのです )

           あなたが受け取らない供物 は わたしに戻り
                          わたしはそれを  再び 咀嚼する

        • Pocket より:

          >ブッダ は 断定しません

          断定しますよ
          一向論と言います

          •  春間 則廣  より:

            >>   “ 提示する( 見せる・聞かせる )”  のみ

            >  断定しますよ

                あなたが 断定 と 受け止めるのみ

            >  一向論と言います

                「 論 」 は  「 世間 」 に 起きる モノ

              
                ブッダ の 住する処 は 「 出世間 」

    • Pocket より:

      tanzaさま
      >複雑系の科学、素粒子理論、ニューラルネットワークの科学

      これは胡散臭い!
      しかもPHP新書!!

    • ナンダカンダ より:

      印象に残っていたので覚えています。

      10年以上の昔、youtube動画でエムセンセが電話を掛けてないのに(エム先生が)著者の先生に大いに賛同して電話を掛けてきた、と言った先生ですね。
      該当動画は残ってなさそうなので「正しいか否かの確認」はできませんが。

      最近はリツィートした人も「同じ穴」という見解が広がってますし、パクツイという言葉もあります。

      引用はご慎重に