札幌も積雪ゼロと書いてありました。全国的にはお花見の季節ですね。
そんなことより、「『中論頌』まだか?」っていうんですか?
『中論頌』、見れば見るほど「まだまだ」感が強くでます。
第2章「去ったものは去らない」を見直したら、書き換えるくらいいろいろ出てきて、全然違うものになりそうです。これじゃあ、まずいかも。。って思い始めてるところ。
「見直さない」って決めなくちゃいかんなあ。まあ、ねぇ、仕方ない感じもするよね。
仏教ってのは、心に思うことがそのまま出る。。だから、そのまま出るようじゃないといけない。。でも、そのまま出すと、整理されていない感が強い。。瞬間変化する心を捉えて表すと同じ心の人にはわかる。。同じ心の人はいないことになってるけど、おなじこと、思う時はある。。だから、思うとおりにやるしかない。。
って、ここまで考えて尽きました。
「去ったものは去らない」
これ、思うとおりに考えていけば良い。去った月日は去らないなあ。。忘れていることは忘れているしなあ。思い出すことも多くある。
でも、映像をに残るものを見ていると、だんだん映像が色あせ古くなる、古くなって忘れてくる。。15年前の大震災もまだ昨日のことのようだけど、そのうち古くなる。。震災を知らない人たちも増えてきた。。そっちが、逆に、恐ろしい感じがする。。
諸行無常(しょぎょうむじょう)。。。ここを考えて、日本人は生きてきたんじゃないかな、って、今のところ思ってる。。
ここだけを理解しようとして日本人は生きてきた。一神教にはよらなかった。
だから、一神教世界の人から「日本語はむずかしい」、っていわれるのかもね。
つまり、『平家物語』!!!で、日本人は生きてきたのかもしれない、って、思ってます。
でも、そう思ってみると『平家物語』って、意外と新しくない?? 13世紀の作品だよ。
変化を見据えて、生きている、ってところかもしれないね。
今は、youtube動画では、神道に目がいく時代なのかもね。。まあ、何でもいいね。『中論頌』とにかく、進めなくちゃね。


コメント
>仏教ってのは、心に思うことがそのまま出る。。だから、そのまま出るようじゃないといけない。。でも、そのまま出すと、整理されていない感が強い。。瞬間変化する心を捉えて表すと同じ心の人にはわかる。。同じ心の人はいないことになってるけど、おなじこと、思う時はある。。だから、思うとおりにやるしかない。。
ここ、「わかりみしかない」とかって、共感してくれる人も絶対いると思います!!
でも、言い訳してんじゃねーよ!!て思う人もきっといると思います。
想像力でなんとかわかってくれる人っていうのは、実は先生のポジションを以前の
地球で体験済みで、その遠い記憶を手繰り寄せているのです。
さっぱりわかんない人は、これからの地球で先生ポジションが回ってくる人で、
そのタイプの人がいるからこそ、今の人が卒業できるのでありがたいのです。
なんのこっちゃ、、、
ぎんたさま こんにちは。
意外だなあ。。こんなコメントつけにくいところにコメントつけてもらって感謝。
>でも、言い訳してんじゃねーよ!!て思う人もきっといると思います。
ほとんどこっちかな、って思ってました。
とにかく「ありがたいのです。」って、いう最後の文だけしみてきました。感謝感謝。
> 「去ったものは去らない」
これを見て連想するのが「アキレスと亀」なのです。
「ワレ思う、ゆえにワレアリ」「語り得るものは明確に語り得る、語り得ぬものには沈黙」の世界観と
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の世界観は
「見ている景色がぜんぜん違う」んだよなぁ~とつくづく思うわけです。
仏教の「見方」を支えるのが(破ると仏の教えが見えなくなる)五戒ですが、きっちり維持するのはちょー難しいですね。
観察によってAとBの差分をチェックする。
ここまでは眼があれば世界観による見方の違いはないです。
その上で自分が見ているのは縁起の「生起」なのか、命題の「前提」なのか、自分がいるところに見える景色の把握からだと思うんですよねぇ。(どっちの見方がよいとか悪いとかではなく)
他人の見解を引用して「それは正しいのか?」と「重ねたとしても」「前提を持ち出して仏教を語ってもねぇ。。。」みたいな。🤔
(ごちゃまぜは混乱の元)
仏教の見方による差分の観察は「自他の比較」とは違うんじゃないでしょか?
自他を比較し始めると妄語になり得るし「どっちが正しい」みたいな離間語になっちゃいますね。
freeとlibertyが違うように、戒を外すと見方を外す、ってことをおさえているか否かで、話の内容が違ってくるのはあったりまえ大層かも。
これは宗教とか哲学とかのジャンル分け以前の、言語化以前の、「そこまで”考えが走る前”」の(無自覚的な自分の)行為のチェック項目の最低条件が五つの戒って考えればいいかもですね。
戒を外すと(仏の教え)見方が外れ、見方が外れると世界が見えなくなり、(自分が見えるものより)「他人はこう見えている」という引用を張ることに滞りがない人もいるんだなぁ、へぇええええって見てます。
オマエはどうなんだって?
他人が思っているらしいこと(前提による推論)ではなく、自分が思ったこと書きました。
> 仏教ってのは、心に思うことがそのまま出る。だから、そのまま出るようじゃないといけない。
捨(ウペッカー)なんじゃないでしょか?
追記
比較じゃなくて差分です
ナンダカンダさま おはようございます。
>仏教の「見方」を支えるのが(破ると仏の教えが見えなくなる)五戒ですが、きっちり維持するのはちょー難しいですね。
いや、ほんとです。わたしが破るもんだからしょっちゅう仏の教えが見えなくなってます。
そういえば、他でも書いててくれましたが、「10年前の話」です。
>10年以上の昔、youtube動画でエムセンセが電話を掛けてないのに(エム先生が)著者の先生に大いに賛同して電話を掛けてきた、と言った先生ですね。
へえ~、よく覚えていますね。
あの後、最近になって、ですが、「その先生の意見にわたしも賛成です」という方がいらして、まだ!わたしが電話したことになってました。わたしは電話しない人なので、訂正しておきました。こんな程度の話(何の話だっけ?)に電話することはありませんが、そもそも、この方は間違ってますよね。
この際なので、間違っていると思うところを明らかにしておきましょう。
tanzaさまの引用から引っ張ってます。
>輪廻の否定: 輪廻の本質を考察する中で、ナーガールジュナは「生」と「死」の概念を再評価し、これらが実体を持たないことを示します。彼は、存在が「生じる」ことも「滅する」こともないとし、これが真の解放につながると説きます。
AIの解説か、それとも、phpの本の先生の意見かわからないけど、これをこのままそうだと思う人は仏教を知らないといってもいいように思います。
>ナーガールジュナは「生」と「死」の概念を再評価し
ここがすでに間違ってるよね。
「生」と「死」の概念をぶち壊している!のに、再評価した、だって。。
そもそも「概念」は「存在」に関わるので、説かないんだよ。
生とあったら生じているところだなと思うことが大事なんだ。そして、生じたら必ず滅するのが理屈なのさ。みずからそう思うことが、実体をもたない、ってことにつながっていくんだよ。
だからね、「わたし(我)」っていうのは、実際は出たり引っ込んだりするんだね。
「わたし」という意識が、ぶあっと沸き起こるときもあれば、すっ~と引いていくときもあるんだ。。
「自分は嘘をついてない、ほんとに電話をもらったんだ」というその先生の過去の話は、ほんとか嘘かもうわからないんだけど、本人だけはほんとか嘘かを知っているんだ。
それがあるから、インドの人は「バラモンは嘘をつかない」というんだね。決して、ブッダは嘘をつかなかったんだよ。それがどれほど大事なことかは、自分が仏教を語れるかどうかにかかっているんだ。
嘘をつかない人たちは必ずいて、その人たちはすぐに気づいてくれるんだ。だから、わたしは、ブッダの教えをよしとして歩もうとしているんだよ。
>こんな程度の話(何の話だっけ?)に電話することはありませんが、そもそも、この方は間違ってますよね。
この方は、「自由意志はない」を間違っている、と言ったのですか?
tanzaさま こんばんは。
そもそも「寝耳に水」って感じでした。
わたしは、この方とお話ししたことはないのです。
この方が言うには、わたしがこの方のところに電話をかけてなんか言ったらしいのです。『ブッダ論理学五つの難問』って本を出したときでしたね。
その時には「無我」かなんかについて、そう言ったらしいです。
>この方は、「自由意志はない」を間違っている、と言ったのですか?
電話してないので、何を言いたいのかはわかりません。
わたしは自分で『ブッダ論理学五つの難問』を読んで、こう思いました。
ブッダは、最強の自由人だ、って。彼ほどに自由意志を持って生きた人はいない、って、思いました。いまも、そうおもっています。
ブッダは、真に自由意志を手に入れるために無我を説いた!と、思っています。
縁起を説き、空を説いた。。そして、誰にも従うことのない自由を手に入れた。
彼はナーガ(龍)と言われます。ナーガは孤高の自由人です。世間解(せけんげ)といわれています。
『スッタニパータ』850
かの聖者は、怒ることがなく、恐れることもなく、誇ることなく、悪い行いもせず、経を唱えるもので、心が浮つくこともなく、ことばを慎むものです。
tanzaさま 感極まったので続きを書きます。
『スッタニパータ』第4章の「八偈品」を訳して出したときがあって、
『『スッタニパータ』と大乗への道』というんだけど、
この本は、わたしが気に入っている本です。『スッタニパータ』850は菩薩のためにブッダが説いたと思っています。
「経を唱えるもの」とある原語が「マンタ・バーニン」という原語なんだけど、これは「マントラを唱えるもの」という意味です。
ここから、「般若経典」類が作られたと思っています。だから、ほんとに大乗への道が開かれていると思うのです。
後に出てくる菩薩たちは、ブッダの後に続く者たちだと思っています。
ブッダの生き方を生きる者たちですね。
大乗仏教は、現代にまで続いていて、知らないところで菩薩たちが続々と生まれてきていると思っています。
大乗の国、日本に生まれて、仏教を知ることができてよかったなあとしみじみ思います。
エム先生おはようございます。
前野先生が石飛先生の名前を出しているYouTubeの動画まだ残っています。
『意識は幻想か?ー「私」の謎を解く受動意識仮説』前野隆司さん
https://youtu.be/Ox8gJEIe5Ac?si=0OyK492j2CGqOEnL
1:14:17くらいから石飛先生の話題が出てきます。
互いの認識がめちゃんこ違うのめちゃくちゃ困りますね(><)
>ブッダは、真に自由意志を手に入れるために無我を説いた!と、思っています。
いつの世にも、無我と関係なく、真だと思い、自由意志なるものを行使する人がいますね。
tanzaさま まあ、ねえ、理解されないとは思ってましたよ。。
厳しいね。目的は解脱なんだけどね。
tanzaさま ちょっと補足してみようかな。
> 無我と関係なく、
無我と関係してるから、こう言っているんだって、わかった?
>自由意志なるものを行使する人がいますね。
「自由意志はない」というとアージーヴィカ外道の運命論になり仏教とは離れていきますね
pocketさま こんにちは。
>「自由意志はない」というとアージーヴィカ外道の運命論になり仏教とは離れていきますね。
そうですね。六師外道からも行けるのですねぇ。
口で言うだけなら、何とでもいえると思います。「自由意志はある」でも「自由意志はない」でも、それこそ何とでも言えます。
しかし難しいのは、言ったとおりに、やりながら目的の「自由意志」を発揮していくことです。アージーヴィカにならないようにしながら。。
ブッダの理論には度肝を抜かれます。絶えず変化して止まない現象を説きながら「無我」に至るというスゴ技。
戦略があるんだね、ブッダには。。龍樹も気づいていたんだね。
> 大乗の国、日本に生まれて、仏教を知ること
大乗の国 である 日本 に 生まれて(生を受ける)
その生 は 「 不生 」 では ないけれど
「 不生 」 を 生む 「 生 」
“知ること” とは “( 知った「 智 」を )生きること ”
> ができてよかったなあとしみじみ思います。
しようとして そこにいること
そして しようとする故 に している道 が 「 大乗 」
( している道 も していない道 も 繋がっている道 )
そして “すべての道” は 一つ と 知る 「 大乗 」
( と 説く「 法華経 」 )
このようなこと を 口にするけれど 知り も しない わたし
知らない 故に 知ることがある という
恩徳( 「 報 仏 恩徳 」 )
あらしめること が ある という 報仏
.
コメント失礼します。
私は以前、前野隆司さんの受動意識仮説についての本を読んだことがあります。
その説で説明されていることについては納得いくところが私的にはかなりありました。
しかし、自由意志がないということを仏教と関連させるみたいなのには疑問でした。
一昨日もコメントしたように、仏教では有無について断定して語ることは避けられると考えるからです。
それから、アルボムッレ・スマナサーラさんと前野隆司さんの対談による『仏教と科学が発見した「幸福の法則」』という本が出ていて、私はこれも読みました。
石飛先生が前野さんに電話をされていない、ということは私にはとても信じられます。
先生が嘘を言う方ではないのを知ってますから。
でも、前野さんの本も読んで納得する部分もあったので、複雑な思いでいます。
落ち込んだり悲しくであるとかではないのでそこは心配しないでくださいね。
赤い実さま こんにちは。
ブッダのお話にもありましたね。おなかにいろんなものをまいて、おなかを大きくした女性が、ブッダのところに行って、みんなのまえで「この子はあなたとわたしの子だ」と言ったのです。
そうしたら、ブッダは「あなたとわたしが知っていることだ」と返事をしてそれ以上はいわなかったのですが、「ほっとけ」と言ったブッダの言葉通り、やがてばれてしまいました。
わたしの場合、電話だからなあ。。「あなたとわたしが知ってることだ」では、わたしが不利かもしれない、けど、「ま、いいか」。。
そういうとき、信じてもらえるってうれしいです。
わたしが嘘をつかないのは、インドの伝統にヨーガがあるからなんですよ。
自己を変革することがヨーガです。だから、自分自身が変わっていくのは当然なのです。
変わりやすいように変わっていくから、あらかじめ「こうだ」と言う意見は持てないし、その時その時で真実だと思うことをいわなくちゃいけないから、「これ、どうころんでも絶対違うよ」ということだけを排除しておくのです。
その伝でいうと、無我と非我の二説がある、と言う意見はわたしの意見ではないのでいうはずがないのです。
無我でも非我でも、こだわりだから、どちらかひとつをよしとはしないのです。ブッダは「無我・非我」を説いたでしょ、というのはそうなんだけど、前野先生が考える意味じゃないのです。
>自由意志がないということを仏教と関連させるみたいなのには疑問でした。
「自由意志がない」とは言ってないす。「ある」とも言ってないけど。諸行無常とは言った。「諸々の行(=ある意味自由意志)無常である」は、いってるけど、それは滅するものでもあります。
最終的に戯論寂滅の境地にもってくことが必要なんだから、無我・非我どっちかには分かれないです。
前野せんせ、見解をだしたらだめよ。わたしまで巻き込まないで!
mani先生、
いつもながら色々素晴らしいですね。随喜、随喜。
自由意志って仏教では決して言わないですよね。
意志とは言っても自由意志は言わない。なぜなら、唯一神の決定以外に自由になる意志があるかないかというものと思われるので。
同様に偶像崇拝も仏教にはない物言いです。
こういうセム文化を仏教に持ち込まないでほしいものです。
oさま こんばんは。
>意志とは言っても自由意志は言わない。なぜなら、唯一神の決定以外に自由になる意志があるかないかというものと思われるので。
「我が意を得たり」の心境です。
自分で出した『ブッダ論理学五つの難問』を読んで、ほんと!こう思いました。
最もわたしが求めるものです。
自分は誰の支配も受けたくなかった、最も自由な道を歩みたかった。。
そして、ブッダは、誰の支配も受けていません。自分で自由に歩き回って誰の支配も受けません。
「無畏」ということをこれほどはっきり打ち出したのは仏教だけです。
みずからに畏れがなければ最強です。
西洋には唯一神がいてエデンの園を仕切っています。そこに智慧のある龍がいる。世間解(せけんげ)として、世間のどこにも染まらずに自由に往来する。
唯一神の支配を受けない。。結果としてのバガヴァット(神、世尊)です。
そういうことか。。って思っています。
西洋思想も良いけど、神の支配を受けます。自由意志はなくなります。世間的には、有無の存在論の元で疲弊していますし、西洋論理はパラドックスだらけです。
パラドックスがこんなにあるのは間違ってる証拠だ、という発想から生まれたのが仏教じゃないかと思っています。
自己を出発点として、自己を探求していったら、最終的に無我思想にたどり着いたと思っています。理論的に「無我」をいわなければ、なにものからも自由になることはできない、として「無我」思想を打ち出した、と思っています。
だから、バラモンであるブッダは、なにものにもそまらずにいて、嘘をつかないのです。
oさま、ありがとう。。『中論頌』進展しました。
> 西洋には唯一神がいてエデンの園を仕切っています。そこに智慧のある龍がいる。世間解(せけんげ)として、世間のどこにも染まらずに自由に往来する。
“ 西洋 ” って 何処 に 存在していますか
( あなた の ) ( 「 心 」 の ) ( 「 認識 」 の 根拠 )
エデンの園 が 存在し得る “処” ならば “其処” には 智慧はない
( これは “問” では なく “断定” なのですが )
“ この 問・断定 ” は 決して問われない問 なのです
これ・この問い は ( 西洋においての 問 ですが )
“ 東洋 ”・“ 仏教 ” って 言い換えても 同じ問いとなります
智慧のある龍 が いる と しましょう
どこの だれの “チエ” で 「 認識 」 しますか ?
( その 「 認識 」 に対する 「 認識 」 は 誰のものですか ? )
( 「 認識 」 の 「 認識 」 に対する 「 認識 」 は
どこに沸く 「 認識 」 ですか ? )
“ 眼 を 見る 「眼」 ”
その “図式” を 見る目
そして 見る目 なる
認識方法・見る目 を 解き明かす「眼」
“ 「眼」“ とは 存在しない 「 智 」 なのです
( 存在 を 智得 する「 智 」 )
「 唯仏”与”仏 乃能究尽 」
( 「 仏 」 と “ともにある”「 仏 」 が 能い得る存在です )
「 世間 」 に 染まらない 「 世間 」 の 構成物 は
「 世間 」 の 成り立ちを外れて 「 世間 」 に 存在する
世間を構成しない 世間の存在 が 世間外 に 存在する矛盾
“ これ (どれ?) こそ 「 世間 」知 ではなく 「 智 」 です ”
「 知 」 を もってして 「 智 」 を “認識する”
その 「 知 」 は 「 智 」 ですか
( そもそも 「 認識 」 とは 認識する人 の 認識でしかない )
> 唯一神の支配を受けない。。結果としてのバガヴァット(神、世尊)です。
> そういうことか。。って思っています。
バガヴァット(世尊) には 始まりも 終わり(結果)もない
思っていても それは 始まりではない
歩んで 始まりから終わりへと続く 終わりのない道 を 歩む
「 修証一如 」 とは この道にある 「一如」 なのです
> 西洋論理はパラドックスだらけです。
パラドックス だらけ ではなく
パラドックス として 起きている存在
> パラドックスがこんなにあるのは間違ってる証拠
その証拠 こそ 「 仏教 」 です
> 自己を出発点として、自己を探求していったら、最終的に無我思想にたどり着いた
自己を出発点とする と いくら探求しようと 自己から外れない
「瞑想」 から 出発して ( 窟 “観” の 中において )
「窟」の「壁」 を “観る”
> と思っています。理論的に「無我」をいわなければ、なにものからも自由になることはできない、として「無我」思想を打ち出した、と思っています。
「 自由 」 とは なにものからも 自由 なのではなく
その自由↑ を 縛っている 自由 ・ 解く 自由 が
“なにもの” なのか を 智得すること
「無我」思想を打ち出す 「 有我 」 思想↓
( 「 有 」が 存在する処には 必ず 「 我 」 が 存在する )
なにもないところ には “なにもない ということ” が ない
( なにもないということ が あるということ が パラドックス )
> だから、バラモンであるブッダは、なにものにもそまらずにいて、嘘をつかないのです。
“ 嘘をつくという事実 ” という “なにものか・自実” が 存在しない
( 嘘も本当もない という 嘘 )
“バラモン が 存在している” (という) 「 出世間 」
このこと は “ 誰の考察にも上がらない ”
なぜなら 上がる “上” には 下がる “下” が あるから 、、、、
Jnana ・ prajna
( シタ ヘト オリル citta知ッタ ッ 足ラズ )
( 単なる 舌っ足らず で 済ましてはいない )
「 瞑想 」 なくして 物事は総合・SAMGATA しない
SAM TATHATA
・
mani先生、
おお! そこまでとはありがたい。世の中、意志とは違う縁起が面白いですね。
『中論頌』完成を祈願いたします。
Pocketさま、
ですよね。キリスト教の自由意志がない予定説、決定論はアージーヴィカ外道の運命論と同じですよね。糸玉がほどけるようにでしたか?
mani先生
>しかし難しいのは、言ったとおりに、やりながら目的の「自由意志」を発揮していくことです。アージーヴィカにならないようにしながら。。
神経科学の一部では自由選択(Free Choice)と言うそうですね。
ある程度は理性的意識の及ばない部分がある。でもそれをOKとするか、否定するかで、そこには自由がありうる。
>龍樹も気づいていたんだね。
『十二門論』には詳細な自在天批判がありますよね。
『中論頌』だけが真作とされたりしますが、『中論頌』だけに注目していると龍樹菩薩の豊かさを取りこぼすなあと思います。
先生の龍樹作は龍樹作として検討してみるアプローチは豊穣ですね。
(あ、中論頌、進展してるんですね。楽しみにしてます!)
oさま
>糸玉がほどけるようにでしたか?
教えに慈悲は見えるんですが、言い過ぎるとトンデモない邪見になるように思います。
『歎異抄』の宿作因論に近い。
pipitさま ありがとうさんです。。
動画に堂々とわたしが電話したと言ってますね。
それに話題が浅薄だなあ。無我か非我かの問題になってます。
どっちでも同じだとスマ長老が言ってらしたような気がする。
「自分が言わなきゃだめだ」というときには「わたしが」ってことばが出てきます。
自然とそうなるとき「わたし」という意識はどこかに行っています。
涅槃にあるとき、本当の無我がやってくる。。戯論は寂滅するのです。涅槃寂静なのです。
この理想の境地に至ると寂静の世界なのです.世間的に見ると、最も責任感のある男と見えます。無我を説いたブッダが、いっちばん、「自由人」だったというのがわたしの世俗的な見解です。pipitさま、ありがとうございます。
これが、ブッダの無我です。ブッダ最強っす。。
どこに行っても怖いものがないよなあ、って思ったのだった。あやかりたいす。
失礼なことを言いますが、tanzaさんはそもそも受動意識仮説そのものを理解した上で引用したのでしょうか。
なんだか理解してないのに引用だけしたように感じるのです。
違ってたらすみません。
いずれにしても、仏教が語られる場所に説明も無しに引用だけしてもしかたないと思いますし、されないほうがよかったのではと個人的には思います。
tanza より: 2026年5月4日 10:26 AM >こんな程度の話(何の話だっけ?)に電話することはありませんが、そもそも、この方は間違ってますよね。
この方は、「自由意志はない」を間違っている、と言ったのですか?
………
tanzaさんのこのコメントを見たら、理解してないのにトリッキーに引用してしまったように思えるのですよ。
受動意識仮説自体は、興味のある方は検索などでもあらかたの理解は可能と思いますし、もう説明は不必要だと思います。
体感として理解できるかが鍵だとも思います。
いずれにしても、場違いに引用や動画の貼り付けはいかがなものかとは個人的には思ってました。(よくされてるので)
赤い実さま 何のことかと思っていましたが、ようやく少し飲み込めました。
>この方は、「自由意志はない」を間違っている、と言ったのですか?
こう、tanzaさまがおっしゃってた意味が訳わからんなあと思ったのですが、了解しましたよ。
ありがとうございます。
私が前野先生と電話でも何でも話をしたことがないんだ、ってことがわからなかったのだ、と思います。
面識くらいはあるのだなと思ったのかも。。面識も何もないです。
いろいろ考えてみたのですが、
どうして、私が電話したことになったか、事情が飲み込めてきました。想像力を働かせてみました。
====
「たぶんこうだったんじゃないか劇場」で語ります。NHKでやってたやつです。
====
前野先生は、拙著『ブッダ論理学五つの難問』を読んで、こう考えた。
無我説と非我説があって、自分(前野先生)はこの区別は大事だと思うけど、
石飛は、何にも触れてない。
そうだ!電話してきたことにして、この区別を教えてもらったことにしよう、そうしよそうしよ!!
~~~~~
無我説と非我説、ってのは「アートマン(私)はない」か「アートマンではない」の違いで、
アートマン論者の人たちは非我説をとって、ブッダはアートマンそれ自体を否定してない、と言うつもりなんだろうと思います。
ブッダは自分そのものは認めているんだと言いたいのだと思うけど、
わたし(石飛)が関心なかったもんだから、電話してきたことにしよ、って決めたんじゃないですかね。
私をあげたのはただの出汁で、
自分の文脈に持って行きたかっただけだ、と読みました。
それはね、前のせんせ、アートマン論者たちが問題にすることで、普通に仏教やってたらどうでも良いことなんですよ、って思います。龍樹も言ってる。「空の中には何もない。どうして、無我や非我があるだろうか」
ブッダが無我を説いたのは戦略なんだといったのはこういうわけです。
先生、こんにちは。
2011年初版、『錯覚する脳』前野隆司 著 を読んで持っているので、関連すると思われる部分を引用しますね。
……
釈迦のいう無我は、「我はない」なのか「我ではない」なのかと議論があるが、私は「我ではない(非我)」だと思う。
……P220より引用
この本を出版した時期には前野さんはこのように考えておられた。
先生の『ブッダ論理学五つの難問』を前野さんが読まれたのがいつなのかはわからないけど、読んだと動画で語ってらっしゃいますね。
ご自身の研究の受動意識仮説は、無我·非我のどちらをとっても当てはまるというのを語ってもいらっしゃる。
ここで、引用した本のときの見解とは前野さんの見解が変わってるのがわかります。
なんというか…先生にとってはほんとうに災難というか青天の霹靂というか、ですよね。。
一つ私が思うのは、脳科学は脳科学として完結させるのがいいのだと、前野さんの読者でもある立場から思います。
赤い実さま こんにちは。
縁起の網を感じます。
>釈迦のいう無我は、「我はない」なのか「我ではない」なのかと議論があるが、私は「我ではない(非我)」だと思う。
大抵の人は前野先生みたいな意見です。つまり、「我がない」とは思えないのです。私は巻き込まれたなあと思います。たぶん,前野先生はアートマン論者で、どうしても自己がないとは思えず、私から聞いたことにしようと思ったと思うのです。
でも、私は、自分でも、とんでもない意見を持ってたものだから「前野先生、それはないでしょ」という事になっているのだと思います。災難です。。
ブッダのことを考えると自由人だったと思うのです。家もない、家族もない、食もない、何にもないですよ。。ね。