龍樹『中論頌』のはなし(つづき)

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フキノトウです。家の壁と雪の隙間に見つけました。フキノトウの味噌にして食べます。。ほろ苦い甘味噌がおいしいです。一回食べると春を満喫。そう何度もは食べませんよね。

春は、毎年、一度だけやってくるのがいいね。春って、そういうものかもしれないなあ。

そして春なら、曙だよね。「春は曙、ようよう白くなりゆく山際。。」だしね。

そういう意味からすると(どういういみだ?)、龍樹『中論頌』は、春っぽい作品かも。。

若い頃に書いた作品だろう。。という気がする。話が若い!いきおいがあって、未熟な感じもする。理屈が勝ってる。わたしには、菩薩の初地であることがバレバレな印象ですねん。

確かに、ブッダをつかんではいるんだけど、悟りを開いたブッダとは全然違う。

でも、ブッダもまた、いにしえの道を見つけたとも語っている。

先人たちが歩んだ古い道を、わたし(ブッダ)もまた発見し、古い城を発見するように、過去仏たちの歩んだ道を自分も見いだしたのであると、『サンユッタ・ニカーヤ』12.65で語っている。

ブッダに出会った龍樹は、その中から論法(=論理学)を抜き出して『方便心論』で語った。

わたしも、同じように、論理学としてブッダの法を受け取ったのである。

ということは、論法として受け取るものは、はしゃぐ傾向にある、ということか。。

わたしも、龍樹とおなじように、はしゃいじゃったからなあ。

コメント

  1. ぎんた より:

    先生、はしゃいじゃったんですか?

    ぎんたも、これなら真如苑潰せると気づいたとき、はしゃぎました。
    たしか、真如苑の開祖も、「大般涅槃経」を国訳一切経から見つけた時、
    はしゃいでました。(←こいつはおバカすぎぃ)
    あ、家族には「国訳一切経」読めたのがウソなんだと言われました。。。

    摂受心院だけは、はしゃいでないけど、こいつは「猫に人間になって修行しろ」
    とかのたまうから、一番のおおうつけですにゃ!!あと、この人は教団として
    欧州に行ったとき、「モンブランの山の事故で一番苦しんで亡くなったのは日本人の
    夫婦ですよ」とかほざくわけですけど、、、、なんかさ、どういうテンションで
    リアクションしていいのか、周りが困ってしまうようなことを、どうして言うかね??
    しかも証明できないようなことを。。。だから嫌われるんじゃんねえ、、、、
    ぎんたの嫌われは人間様のルールがわかってないのと、基本スキルがなってないので
    もっっっっのすごく、性格悪いからですょ。でも生きてくつもりだけど。いちおー

    • mani より:

      ぎんたさま こんばんは。

      はしゃいじゃったです。

      >欧州に行ったとき、

      確かにリアクションに困ります。否定も肯定もできないわん。

      ぎんたさまは、そのままでいいです。

      >ぎんたの嫌われは人間様のルールがわかってないのと、基本スキルがなってないので

      人間様のルールは無視しても、いいかも。基本スキルもどうでも、いいかも。

  2. tanza より:

    >わたしも、同じように、論理学としてブッダの法を受け取ったのである。

    なぜか、下記リンクの記事を、思い出してしまった。

    ●論理学に関する無理解のサンプルについて 68 の指摘●
                 2006年8月20日 三浦俊彦
    https://russell-j.com/miurat/murikai-logic.pdf

    •  春間 則廣  より:

        
      > ブッダをつかんではいるんだけど、悟りを開いたブッダとは全然違う。

         違うのは あなたではないのですか ?

      •  春間 則廣  より:

          当たり前のこと を 特別に語る 釈迦牟尼

          当たり前のこと を 当たり前に語る 龍樹

             二つの 当たり前を 前にする

           当たり前  って  当たり前のことjかな ?

        • mani より:

          春間さま 

          > 違うのは あなたではないのですか ?

          そうかも。。
          で?

          >二つの 当たり前を 前にする

          「当たり前」って思ったことないけどな。

          •  春間 則廣  より:

               
            > 「当たり前」って思ったことないけどな。

             ( 当たり前ではないこと を 並べてみる )
              普通は 当たり前のこと を イワレルト 当たり前だとは思わない
                そうだ その通りだと思う
             ( 当たり前のこと  を  なぜ取り上げるのか  とは 穿たない )
             ( 龍樹 は なぜ 当たり前のことを取り上げるのか ? )

                過ぎ去ったこと を  取り返すことはできない
                           という 過ぎ去りつつあること
             ( 「 永遠 」  とは  「 生 」 の “住処” である )
                昨日 は 今日の 前に  起きたことで 
                明日 は 今日の過ぎた後 に 起こること
                 前 とは   過去 ? 未来 ?
            ( 向いたほうが前に過ぎない )
                起きたこと   起きて、過ぎたこと     前に立つこと
                  ( 向きあってはいないことは ? )

                寝過ごしている  今日(今)
                  当たり前 に 起きている  今

              へそ曲がり は 当たり前  って  恩ったことない と
                      当たり前の顔をして 当たり前のごとく言う
             “ >二つの 当たり前 ”   など     ない  と 
                たった一つの   (真理なる) 当たり前のことを言う

               目の前にない  モノは  ないものはない という事から離れない
               目の前にある  モノは   あるという当たり前から 離れない
             ( わたしが 真理のありよう  などを 言っているとは思わない )
                そこには 真理などなく  あるモノ が アル  だけである
            ( 当たり前だと思ったことない という 当たり前の顔に口がついている )

             「真理」 という “モノ” は  見なければ 存在しないものである
                 いくら見ようと    ナイモノ は  見ようがない
                              という   在る 真理

              “ない” という “幻想”  でも    “ あるもの は ある ”
             ( 思ったことない という  幻想 が  思いに  ある・ない )
                 ある という “方” に  “向かないと”
                 ある(ない) 方向 に   進むことも 退くことも できない
             ( 当たり前ではない ある方 に  向き合うこと は できない )

                これでもか  と  ありもしないことを 掘り出す

                 葬ることかなわぬ( 掘ってもいない ) 掘った穴に落ちる 

               当たり前のこと とは 一つしかないこと( 存在の理 である )

             一つしかないこと  に     “二つの観察” が   起きる
            ( 当たり前ではない 事実 は 一つしかない のが “あたりまえ” )

                一つ  とは  必ず  二分できる
                 二分の一   とは  一つのことである

               二分できない  ことを 一つ というのではなく
                一つだけ しか 知らないこと  を  「識」 と 呼ぶ
                一つづつ しか 思い浮かべることができない 識のドヒョウ
               ( あなた と わたし  との間には 見えない 狭間が横たわる )

                あなたが わたしになれば  わたしは アナタニカクレル
                  かくれている
                 こういうこと を     “無駄を重ねる” と 名づける

                   あなたにとってはあたりまえではないこと

                それは 「 蓮華座 」 の 上・下  に 起こすこと

          • ぎんた より:

            「まぁ!相変わらずいやったらしい長文だことッ!!」(←マミ隊員風で)
            ちっともわけわかんにゃいし!!学のないぎんたにもわかる表現、ネガイマス。

          •  春間 則廣  より:

              
            > 学のないぎんたにもわかる表現、ネガイマス。

              命令形 かな ?

              分かる気がない人には 分かるということは   音 ずれない

              音はすれども 姿は見えず
                ずれ は すれども   オトモナシ

              分かってどうするか  を  聞きたい けれど 聞こえてこない

              分からない のは   分かろう とは  しないから

              しないこと  は    できることに  繋がらない

              分かろうとしなくなった 時点で 分かることは 何もないということが 分かる

              あるかないか を    あるかない で 決める

                
               ま 、 とりあえず  はっしょって 告げる

          • ぎんた より:

            「学のないわたしでも読めるの本、楽しいの本、書いてください」ていう
            朝ドラの髙石あかりのセリフと、「カイダン、ネガイマス」っていう
            小泉八雲のセリフが合体したのです。。。昨日これ観て、「学のない」の
            ところでもうぶわっと涙。(納豆ご飯を食べながら、両目から水が!!)

          • ぎんた より:

            なので、こないだ録画した「大長編タローマン万博大爆発」観たから
            「いやったらしい」を使いたくてうずうずしてて、そしたら
            ちょ~~~~どよく春間さんの??な文章きたから、早速使ってみた!!
            そいでもって、昨日今日の朝ドラの感動もむりやりぶっこんでみました~
            というところです。

            だから、春間さんの文章を理解したいという考えは一ミリもないです。
            だって、それって欲じゃん?欲は離れたほうがいいんでしょ?

            あと、前に春間さん、「理解は向こうからやってくる」みたいなこと
            言ってなかったけ??だから待ってればいいんでしょ?そういえば、
            摂受心院関係で、「待つこと」の大事さに言及している箇所があった
            気がしたので、ねこ、それに倣っているのデスww 省エネなの。。。
            「たしか、待つのも修行」みたいな。ねこ、修行はしないんだけど。

            省エネで思い出したけど、最近近所に新しい建物出来て、その室外機?の
            商品名が「静省納言」ちゅーんだけど!こんな商品名、、、クスっと笑える
            日本人が減ったら消滅するんだねぇ。。。「惚レタス」とか「消臭力」とかも
            いつか消えちゃうんだねぇ、と思ったらすごく愛おしく思えてきました。

            学校の教科書に出てきた「最後の授業」ってあったじゃん、今日でフランス語の
            授業はおしまいです、みたいなやつ。あれは本当に印象的で、自分もあの
            教室の空気感ものすごく実感したな~~みたいな。たしかに自分あそこにいた!

            は!!リアクションに困る文章を書いてしまった、、、、、、

          • mani より:

            ぎんたさま、「最後の授業」に反応しました!

            昔、読んだ。。先生が「ふらんす、ばんざい」って書いたんじゃなかったっけ。
            ことばを奪われるなんて考えたこともなかったので、びっくりしました。

            何を奪われたら一番痛手かなあ、って考えたら、ことばは結構効きますね。

            目立たないところで、陰に回っていろんな隠語が増えそうな気がする。。。
            川柳を生んだ国でもあるし。

    • mani より:

      tanzaさま お!まだあるんだ。。

      三浦氏は実在論者だから、自性(スヴァバーヴァ)をしっかりもってるからなあ。

      変化するものについていけないんだね。

      • mani(管理人) より:

        tanzaさま この三浦氏の意見のどこがおかしいかわかる?

        ここにゲーデルがいるんだよ。自己の体系内では自分が正しいことは構造的に証明できないんだ。。

        直感的に、日本人は知っているんだ、ね。
        だから、倫理的になるのかもしれないね。

        • ナンダカンダ より:

          tanzaさんは旧マニカナ掲示板の自爆霊みたいだな、というのが”個人的感想”。

          自問において自他を理解できないから”引用(他聞)という形”の観測気球を揚げざるを得ない。
          しかし、掲示板はなくなったのです。

          ここは個人ブログなので、旧掲示板のようにいろいろな人が関わってはくれない。
          ちょーふるーいPDFを引用に揚げても”自身が求める反応”が起きるわけでもなく、(無理解ではなく)不理解は”留まったまま”。

          tanzaさんが引用する三浦氏のちょーふるーいPDFは”閉じた公理体系”において不完全性定理が成立することを証明しているのです。

          • mani(管理人) より:

            ナンダカンダさま、おはよう!

            ナンダカンダさまの投稿を読んで、了解しました。
            そういうことだったのかあ。。鈍くて、ごめんね。

            ゲーデルは、二六〇〇年前にお釈迦さまが気づいたことを二六〇〇年後に気づいた。。って事でもある。龍樹は、『中論頌』第13章で、軽~く、それを証明して見せた。

            なぜ、西洋では気づかなかったのか。。それはね、アートマンが強すぎて、他者がいないからなんだ。せめて、四句分別でも知っていたら、こうはならなかったのかもしれないけど、ね。

            他者との対話がないんだよ。独り言の世界なんだね。

        • ぎんた より:

          先生、もしか、お釈迦様の生まれ変わりがゲーデルってことないですかね?
          または、一個前の地球でゲーデルだった人が次の地球のお釈迦様ってことも
          ありうると思います。
          あと、お釈迦様が2600年前にこんなこと考えてすごいって言うけど、
          一個前の地球の最後の方にはみんな賢くなってて(進化してて)相当なことが
          履修済みで、次の地球になって初めて過去の蓄積をなんとか思い出したって
          ことなのかもしれないし、あるいは、一個前の地球ではちょっと「蚊帳の外」
          ポジションだった人が、順番が回ってきて条件が揃ったので、自力で悟れたの
          かもしれないし。もしかすると初期仏教の教団内で悟れなかった人が、
          憧れの仏陀を弾き飛ばしてそのポジションになったのかもしれないとか。。。

          •  春間 則廣  より:

            >   もしか、お釈迦様の生まれ変わりが

                      あなた ですよ

          • ぎんた より:

            なんで?

          • mani(管理人) より:

            ぎんたさま
            >先生、もしか、お釈迦様の生まれ変わりがゲーデルってことないですかね?

            たぶん、ないんじゃないですかね。というのは、ゲーデルは、お釈迦さまと反対の立場で証明したので、お釈迦さまとは全然違っているからですねん。

            空という論理を言ったのは、お釈迦さまだし、ね。争わない工夫のために、空を使ったのもお釈迦さまだし。

          •  春間 則廣  より:

            > なんで?

              なんで って ( 疑問を起こす その疑問 を ) 知るまで は
              なんで  分からないか を   知ることはない  ないのです

                知りたくはないこと の 中には  知ることは ないのです
                知りたくないこと  に つける  「道」 が ないからです
             
                知りたい と 知るとき に  (そこ)知る道 に います

                疑問 という 偽門 は   開くのを待つ  “自問” です
                    ( 自らの手で開く 自らの上にある  重き門 )

               知りたい という    「 行 」  は
               知りたくはない という 「 行 」  に 重なってありますが

               上下 という 階層  は  上 が 下 の上にあります 

               人は  表面から 内面へと進みますが
               表面を さまよう サマヨイヒト( さ迷い 酔 人 ) は
                   避け る
                   に  よっていく

                   酔ってなどいない と 酔った 頭で 考えている

                   内面への道 は  ヨイヒト には  開かれてはいない

                      親鸞の 「 悪人正機 」 を 知ろうとはしない

               善い人 には  悪 は ないから   開かない扉 も ない
                そもそも       開ける扉 が  見つからない

                無い 面 の 裏 にある    ナイ   メン
              ( 言葉遊び に しているのは  だれのヒョウメン ? )

               文字 という“ モノ ” は   表面に記される “ モノ ”

              ( 表面 には 無い 面 が  あるけれど
                表面 に  ナイメン を  見つけることは ない )

                なぜなら
              わたしは 表記している  面に住み( joy of men’s desiring not of man’s so )
              ( あなたと同じ )   表面 に  住んでいるから

            https://www.youtube.com/watch?v=oduhc96kTlw

               (  美醜 という 表面の美  「 心と口と行いと生活 」  )

          • ぎんた より:

            先生、そうなんですね、ゲーデルのやつをGeminiにおせーてもらって
            読みましたが、違いは判らなかったです。反対側から証明したんですね。
            証明したってことすら、ちょっと判らなかったですw

            春間さん、YouTube見ましたけど、バッハ。コメント欄にこの曲は神が作曲した
            バッハは神に選ばれたんだ!!みたいに書いてあったけど、いやだから、
            バッハが神で、聴いてる人も歌ってる合唱団の人も神なんだってば!!
            それが科学なのーーーーーー!!!

            もしかして、宗教って「科学」がまだない時代に、「科学的なこと」を
            言いたくて、でもまだ科学前夜で、うまく表現できなくて宗教に
            なっちゃったのかな?もしか、一個前の地球で最後に科学やってた人種が
            今回宗教やってて、一個前の地球で宗教やってた人が今回科学をやっているのかもしれない、、、

          •  春間 則廣  より:

             
            > 聴いてる人も歌ってる合唱団の人も神なんだってば!!

             
             https://www.youtube.com/watch?v=oduhc96kTlw

               (  美醜 という 表面の美  「 心と口と行いと生活 」  )

              誰の演奏 でも バッハ は バッハ  ではあるけれど

                     わたしは ラッパ吹きの体格に 反応する

                     心と口  の  行い  が 生活 に 顕れ出る

                     その口 から  神の息吹が  漏れ出てくる

                 歌う口 ラッパ口

          • ぎんた より:

            もちろん、ラッパの人も神でほとけですょ。

  3. 春間則廣 より:

    1ミリも読まなくともよい

    • mani(管理人) より:

      春間さま 「1ミリ」に反応。

      ミリ単位で反応。。この時(アップされたとき、ってことです)、反対の反応が半分くらいあったことに驚きました。
      みんな、三浦氏に賛成すると思ってた。。反対する人もいるんだ!!!

      おしゃかさまさま、さんまのしっぽ!

    •  春間 則廣  より:

        
      >>   もしか、お釈迦様の生まれ変わりが

      >          あなた ですよ

      >> なんで?

      >  なんで って ( 疑問を起こす その疑問 を ) 知るまで は
      >  なんで  分からないか を   知ることはない  ないのです

      > もちろん、ラッパの人も神でほとけですょ。

        神でほとけ の  あなたが言う からには(あなたが決めている) 
         間違いのない    神様仏様   と 決まります

       あなたに間違いがあれば   神仏 に  間違いがある
       あなたが間違っていれば  どこに 神仏 は 存在できますか ?
       ( 存在があろうと   神仏の存在ということ それ自体を 間違う )

         神仏 は そうだ ・ そうではない
               という  人の決断からは離れている

        決められた 決めている (未決を離れた) 既決 の こと

         選択することなき 「 平等 」 なる 判断を起こす  既決
       ( どこに 論理的矛盾 が あるか が  分かりますか ? )

       ( どっかに 選択による 選ばれない 未決 は ありませんか ? )

        一ミリ も 読まなくとも
        一ミリ を 超えて  ( 栗 より うまい )
        シンリ が 起きている( 意思  や  キモイ )

      • ぎんた より:

        あーー文章判らにゃい~~

          ♪うまくあるな きれいであるな ここちよくあるなーーー

            職業はーーーにんげんだーーーーーーーーーーー♪

        ストレス過ぎて歌う、、、、、、、、、

  4. tanza より:

    >だから、春間さんの文章を理解したいという考えは一ミリもないです。(ぎんた様)
    >春間さま「1ミリ」に反応。(mani様)

    なんか、旧「マニカナ掲示板」での、会話みたいですね。

    • mani(管理人) より:

      tanzaさま、こんばんは。

      >なんか、旧「マニカナ掲示板」での、会話みたいですね。

      あ、そうですか。。全然気づかなかった。。って言うか、こんなだっけ?

  5. tanza より:

    ブッダの偉大さは、「現実を直視し、現実から逃げない」ことにある。
    これにより、ブッダの教え・仏法は世界中の人々を救う。
    ところで、世間の国際法を信じるというのは、仏法とは言えない。

    参考動画:「国際法は死んだ?アメリカ「戦争省」への変貌とトランプの危険すぎる賭けの未来」
    https://www.youtube.com/watch?v=2xzPzN2rBYM

    • mani より:

      tanzaさま こんばんは。

      >ブッダの偉大さは、「現実を直視し、現実から逃げない」ことにある。

      いいかえれば、ブッダは形而上学を説かない、ってことだよね。

      一神教の世界は、皆、争うけど、ブッダは無諍の立場を説く。。
      あんまりわかってもらえてないけどね。

    •  春間 則廣  より:

         
      >>ブッダの偉大さは、「現実を直視し、現実から逃げない」ことにある。
       
       “ 現実 ” って 何    ということ

          現実・実体     を 認めないのが  「 仏教 」

        ただし、

       “ オーム真理教 は  「 仏教 」 ではない ” とは 言えない “現実” がある

         「 仏教 」 とは ブッダ の 教えていること(示していること)

         あなたが 示している のは  「 仏教 」 ですか

           違いが分かる  ブッダ ・ あなた の   「 仏教 」

      「 宗論は勝っても負けても 釈迦のはじ ・  宗論はどちら負けても釈迦の恥 」

             ハジ ということは 中心 より  外れていること
          
              「 中道 」 は ハジカラミレバ    ハジ ニ アル

           ( 端 が あってこそ 道は成り立つ )  ハシ ノ ナイ 流れに あって たちつくす

       
             立っている 処  が  端 だと     気づいているのかな ?

         「 橋 」 というものは “ 常 ”  に
                     ( 流れに 交わって かかることにより 起きている )

         「ゆく河の流れは絶えずして  しかももとの水にあらず」
       「ゆく心の流れ は 常に絶えず  その流は元の心 には あらず」

           いつも 中心 にある 「 心 」から  流行く外ばかり見ている

        “ 徳川無声 と 橋本凝胤  対談 ”   自己を中心としていること
                 天動説
           「 世間 」 という 「天」  が   動いているのかな ?

        地球が回っている ということを  回らぬ自分(我心)が 決めている
       
          自分が回っていれば 天がどのように回っているかを 確認できず

         止まっている  のは  ハシに依存する    “ 世渡り ”

         「 唯識 」 の 立っている ところ   が   「 仏教 」 です

          そこにおいての 自己  という 中心  から  動く世界を眺める

        人の存在  は  素粒子 の “ 動く範囲 ” で 決まっているけれど

          素粒子の動く存在性  を
          エヴィデンス・実体  として 知る者は どこにいるのか ?

       素粒子 は 時と場所 とを  限定できなくとも 存在している
         釈迦牟尼 の 説く  「 永遠 」 と 「 ニッバーナ 」

         「 存在 」 とは  寂滅の上に 立ち上がっているモノ

         
         「 縁起 」 を知る者 は 「 智 人 」  と 呼ばれる

          医王の目 には ミチ に 触れて  皆 薬なり
          ゲホウノニンナ コウシャク ヲ  タカラトミル

        「  聖人の薬を投ぐること機の深浅に随い
          賢者の説黙は時を待ち人を待つ
               吾れ未だ知らず
            蓋し言うべきを言わざるか
            言うまじければ言わざるか
            言うまじきを之れを言えらん
                 失    智人  断りたまえ 而已 」
        

      >いいかえれば、ブッダは形而上学を説かない、ってことだよね。

          説いている  のではなく
                “ 今 ここに ”  行じている

         説 が 仏教  ではなく  行いが 「 仏教 」 である

          説いてはいない   と  行 じること   が
          説かれていること     見ていること

         

      •  春間 則廣  より:

           
           「 風信雲書自天翔臨 」

          
          風心雲書(の)自  天 (に・は) 翔臨 ( ひらひら舞う 勝臨 )  

          天より  翔臨  する  「 風信雲書 」 

          
           

      • mani より:

        春間さま こんばんは。

        >説 が 仏教  ではなく  行いが 「 仏教 」 である

        口行ではありますね。
        まあ、でも、こんなことを言おうとしていたのじゃなくて、行いをどう切り分けるかを考えていたんですが。

        >「 唯識 」 の 立っている ところ   が   「 仏教 」 です

        つまり、縁起の立っているところですよね。

        •  春間 則廣  より:

            
            管理人M 様   おはよう
           
          > >「 唯識 」 の 立っている ところ   が   「 仏教 」 です
          >  口行ではありますね。  
             まあ、でも、こんなことを言おうとしていたのじゃなくて、
          >  行いをどう切り分けるかを考えていたんですが。

           “ 行ない ” が 立つところに 「 唯識 」 が 立ちます
            「 口行 」 の   上に( 下に・ “横” に ) 立っています
               ( 横に置いておくこと も できます )
             行いの 上に 立ち上げることです
           ( このように “一見”  分かり“切った”こと  の “中” に
              「理」 が 立つ  ということ  を 龍樹が示しています )

             横眼で眺めて 見過ごすこと に “立ち止まる”( 瑜伽 )

            「 口行 」 ではあるが 聞かなければ  「 行 」 は 成立しない
                    
            「 口行 」 とは 語る人と聞く人 とが 重なり合うところ に 立ちます
           ( たとえ  独りぼっちでも   立たせるところに 立つことが起きる )

            ものごと(口行)の ありよう↓ は    “坐る” ときに “起きる”  
           ( ときには ときを 間違うことも起きる )  ↓
                      黙坐 しているときには マチガイ は オキナイ
                    ( 黙 に  浸りきる  沈黙 )
                     正否 を  “跳出せる” 「禅」
                『 現状公案 』
             「 もとより 豊倹より 跳出せる 」
                 元(本) を   立てぬ のが  「 仏教 」
            なにもないところ から  超出 する のが  「 仏教 」   
                                       
                このように  “切り分ける”  のが  「 仏教 」

            何も立てない   でも               
                 何モノ   でも  立てることができる 「 仏教 」

                     ( でも )  
                         
               あなた は  何を 立てますか(立てていますか) ?

          > >「 唯識 」 の 立っている ところ   が   「 仏教 」 です
          >   つまり、縁起の立っているところですよね

             つまった のかな ?

             「 仏教 」   は  「迷誤」 の 上(中) に 立つ
                                     
            「 瑜伽行唯識 」 が  「迷誤」 の 上(中) に 立つ

             縁起が起きるところ に  迷誤 が 起き
               そこの 処   を  「 世間 」 と 呼ぶ
            ( 起きていること と
              立てていること が  迷誤 であり 迷誤の上に唯識が起きる )
                          ↓ 
            ( 起きてはいないこと   を 起こす   のが  「 唯識 」  )

              読み解く までは    読み解くことが “起きてはいない”

          •  春間 則廣  より:

              
                九回まで無安打

            > 堂の扉を3回ノックした。これは、イングランド国教会の歴代指導者が何世紀にもわたって受け継いできた伝統に従い

               “ knock 3 times ” これが 三回廻る  伝統です

               サンパイ (  参拝 ・ 「三拝九拝」 )
               参拝 を  三回廻る

              わたしの書き込み は  ( 一戒 も 起こさず ) 惨敗する
                  
                   
                    
                いや 「 一戒 」 を  起こした  ゆえ に  

                 「 無 」 戒  が  起きる ( 休戒 する )

          • mani より:

            春間さま、おはよう。。

            >つまった のかな ?

            「つかまったのかな?」と読んでしまった。
            龍樹につかまったかなあ。今は第二章を見直しているところ。

  6. tanza より:

    >わたしも、龍樹とおなじように、はしゃいじゃったからなあ。

    今度の『中論頌』注釈書は、当然日本語ですね。
    我々日本人は、日本語を自由に使っているので、日本語の特徴や難しさに気がつかない点がある。
    だから、外国人に指摘されると、それがよくわかる。

    参考動画:『日本語デビュー!美しい日本語は世界一難しい言語だ!』
    https://www.youtube.com/watch?v=oyno-NNbwqU

    • mani より:

      tanzaさま こんばんは。

      >だから、外国人に指摘されると、それがよくわかる。

      そう思ってたんだけど、外国の人も同じだなあと思うことは多いかな。
      「日本人は……」って言うけど、わたしの目から見ると、言霊ではなくて、「それ、
      自我意識かな」って、思うなぁ。。

  7. えび天サンバ より:

    難行苦行の中のエム先生、こんにちは。

    思うにエム先生の素晴らしいところは、龍樹によって仏典を読み、仏典によって龍樹をまた読む、という往復運動です(と勝手に決めつける(笑))。

    どうぞ心行くまで(納得のいくまで)格闘して下さいませ。

    • mani より:

      エビ天サンバさま こんばんは。

      往復運動(笑)に余念のない管理人です。

      絶対!!!!!出します!!!
      3章と4章にさしかかってます。。あと少しだ! 27章まで(笑)

      新しい解釈だと思っているわけではないけど、ほとんど新しいのかも。。
      反論者が特定されてなくて、一般論で出てきます。所々に具体的な龍樹の反論があるけど、それはブッダの教説の誤解だと思われるところです。

      ほんと! 龍樹って、「お釈迦さん、い・の・ち」だったんだなあ、って思います。

      •  春間 則廣  より:

          

        > 反論者が特定されてなくて、一般論で出てきます。所々に具体的な龍樹の反論があるけど、それはブッダの教説の誤解だと思われるところです。

          “例” を “一つ” 挙げて 戴くこと は できますか
          
          

        • mani より:

          春間さま おはようございます。

          一瞬、何でこんなことを書いたんだろう、って思ってしまいました。
          何のことを考えていたんかな。。。???  なむさん?

          あ、おもいだしたっ!

          たとえば『中論頌』4.1==========
          色かたち(rūpa)は、色かたちの作業因(kāraṇa)を離れたものとは、認められない。
          また、色かたちの作業因は、色かたちとは離れているものであるとは、見られない。
          =========

          あんまりピンときてないんだけど、色かたちの作業因(kāraṇa)と、原因(hetu)のはなしとか。4.1~4.7は従来の訳がちがってるんじゃないかと思ったりしてます。従来の訳、ってのも、ちゃんと読んでるわけじゃないけど、ブッダの教説をみんなが誤解してるのかな、って思ってます。

              

          •  春間 則廣  より:

            > 龍樹の反論があるけど、それはブッダの教説の誤解だと思われるところです。

              これは 龍樹の反論 が
             
                  ブッダの教説の誤解だと思われる

              と 読むこともできます ( よく 気を付けて ネ! )

            ( ただし その効果を狙う のであれば 話は別の階梯に進む )

              龍樹の反論 に対する 訳者の誤解

                       ( 反論の意味を理解できていない )

               に 追う 分けですね 

              ブッダ を知れば 龍樹を知る

              龍樹 を 知ることは ブッダにつながること です

               ただし ブッダにつながらない 有情 は 存在しない

              ( 何故 つながりがない有情が存在しない か

                 それは  存在が 真理に依存しているからです )

              にもかかわらず 龍樹を知ることが出来ない
                     ( ということが起きる )

                由縁 は 何処に起きる ?

              

          • mani より:

            >これは 龍樹の反論 が 
                  ブッダの教説の誤解だと思われる
            「龍樹への反論が」と読んだら良いのかな、。。よくわからない

            わたしが言いたいのは、『中論』4.1について言うと、カーラナという「作業因」はニヤーヤ学派がよく説くもので、ブッダの説く縁起ではない、ということです。
            最初の第1章の四縁の解釈から、まるきりちがうのです。

          •  春間 則廣  より:

             < 訂正 >

             誤 > 追う 分けですね

             正   負う 分けですね ( 故はそこに起きる )

      • ぎんた より:

        >ほんと! 龍樹って、「お釈迦さん、い・の・ち」だったんだなあ

        というか、法の解釈が違う、と思った時には、違うと思うって言わないと
        いけないからじゃないかな?だって、お釈迦様い・の・ちって怖すぎるから、、、w

        • mani より:

          ぎんたさま こんばんは。

          >だって、お釈迦様い・の・ちって怖すぎるから、、、w

          怖すぎるか(w)!?
          そういう意味では(どういう?)、知識の前には心清らかにならざるを得ない龍樹がいるんだな、って思うわ。

          つまり、ブッダをわかるだけの頭があって、わかっちゃったもんだから、龍樹はお釈迦様を拒否できなくなった、、ってところかな。。そういうことにしよっと。