龍樹『中論頌』進捗状況

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雪解けの道。アスファルトが出てきた。あんまり久しぶりじゃないね。

昔は春を待ち望んでいたので、アスファルトが見えたときは感動したものだった。。

「ようやくアスファルトが見えた」と感動が沸き起こったものだったが。。地球温暖化ですぐに雪解けがやってくるようになったので感動も「それなり」になりました。

それより『中論頌』、ようやくまとめ始めました。どこから手をつけてよいのやら、と思っていましたが、「なんとか形にするぞ」というところまで来ました。

『中論頌』の詩の一偈は、和訳もなされているので、特に問題ではなく、何を基準にこれらの章が構成されているのか、ということが問題でした。全部で27章あるんだけど、いったい何を基準にして構成されているのか,誰もわからなかった、と思う。

わかっていたら、チャンドラキールティなどの、種々の注釈者たちの注釈にはなっていないはずです。青目の注釈が有名ですが、あれも,直接龍樹から説明を受けているわけじゃないようですよね。それを考えていて、無駄に時間を費やしました。

最初に、龍樹はブッダとつながっている、と気づいて、ずいぶん楽になりました。それに龍樹独自の視点も入っている。何せ龍樹だから、ブッダよりぶっ飛んでるところがある。。。龍樹は、頭だけは良いやつの典型みたいなものだからね。

ブッダは数億年に一人出るか出ないかだけど、龍樹なら1000年に一人は出るくらいの逸材です。私に至ってはどこにでも出てくる虫けらです。虫けらクラスが龍樹クラスを注釈して、ブッダクラスに迫ろうとするんですからいろいろ不備が出ます。出るけど、わたしも虫けらだけに、無視することにする。。。きまったかな!

話を戻すと、龍樹の全27章の構造をさえわかれば、本が書けると思ってました。大体,半分くらいはわかったような気がするので、見切り発車で、「なんとかなるさ」をモットーにして、進むむことにしました。

いろいろ(龍樹に)直接聞けば教えてくれるんだろうけど、そうすると解釈の可能性が奪われてしまうと思うのです。意外なことに、龍樹に、直接注釈者たちが、解釈を受けているわけではないんですね。時代が違うからかな。。

いわゆる、伝統的な解釈ってのが無いんですね。そこが、龍樹の著作を困難に見せている理由の一つではないだろうか、と思ってます。

自由にやれや、ってところが龍樹なのかも。。龍樹らしいね。

コメント

  1. ぎんた より:

    そうなんですね~~。(わかんないけど)

    あの、ちょっと思ったのですが、本は日本語で出すのでしょう??

    でも、日本語滅亡に備えて、念のために、他の言語の本も同時に出したら

    いいと思うのですが、、、(今はAIくんがいるからそんなに手間ではないのかなって)

    あ、同時に出版出来なくても、翻訳文章を用意して置いたらいいと思いました。

    • mani より:

      ぎんたさま こんにちは。

      >でも、日本語滅亡に備えて、念のために、他の言語の本も同時に出したら

      いいと思うのですが、、、

      うーん。。そうかもしれませんが,出してくれるところはなさそうですねん。
      日本語滅亡しないかもしれないし。。しなかったら、損だし。

      それに日本語滅亡しても、読みたい人はどんなことがあっても読んでくれるからたぶん大丈夫。

      私もどんな言語でも読みます。。もう、日常使ってる原語感覚なんて無いので、逐語訳のようにして読んでる。
      そんな言語の感覚ですが、思わぬところに気がついたりして新鮮です。
      慣れると、「勉強した」って感じがします。

      • ぎんた より:

        そうなんですね~、同時出版は無理でも、もし、海外でこれ翻訳して出版したいて
        なった時に、先生自身で「この文章で」って指定できる方が、
        内容に責任が持てると思ったのです。でも、そこで誤りが起きても、それも
        ほとけの誤りならいっかーーとはもちろんなるのですが、もし防げるなら
        防いだ方がいいのかな、と思ったので。「損」ということは仏教内では
        起こらないんじゃないかな、と。

  2.  春間 則廣  より:

      華麗なるジナ 読んで知る  『中論頌』 にある 真理

      わたしの記述 には ( わたしのもの である べき )
          価値はない ( わたしには 何の価値もない )

       もし そこに  価値を見出すのであれば
          それは  あなたの見つけ出した あなたの価値なのです

        この 記述 が 価値の存在を明らかにします

         あなたは この記述に 価値を見出しますか ?

      何ら価値のない記述 から
            あなたは
           無限の価値を見出す
         価値を得ることもできる  し 無視することもできる
         反論することもできる   し 一部だけ賛同もできる

       それら は あなたが 自らの中から 掘り出した 自らの価値です

         それら全て は  あなたが掘りだした “ テルマ ” なのです

      わたしの言葉には 何ら価値はない

       もしそこに 価値が存在するのであれば
             その価値 は あなたに 依存している( 「縁」 )

       価値がない と 知ることも  とても大事な “カチ” です
                 ↓ 
         それを 勝ち・負け の  「 勝 」  と呼び
           その 「勝」 を  得る人 を 「 ジナ 」 と 呼びます

         ( 仏陀 のことを 勝者 とも呼びます )

          いつも 勝っているあなたに この記述 を 捧げます

     

  3. tanza より:

    言葉には、実体性の働きがあるので、ブッダの教えは、それに執着するなと「筏のたとえ」がある。

    ところで、日本人は言霊民族と言われ、言葉に執着する傾向がある。
    哲学者の田中美知太郎教授は、次の皮肉を述べている。
    『現行憲法9条を墨守する努力に対し、戦争放棄を明記しただけで、戦争に巻き込まれないなら、第一条に「日本は台風、津波、地震を放棄する」と書いたらどうか』と。

  4. Pocket より:

    >現行憲法9条を墨守する努力に対し、戦争放棄を明記しただけで、戦争に巻き込まれないなら

    事実ベトナム戦争に巻き込まれていない

    •  春間 則廣  より:

        
      > 事実ベトナム戦争に巻き込まれていない

         ベトナム とは どこに存在していますか ?

         その “ 事実 という 実体 ” について

          “ 説明をしている ” という   事実

       “ そのこと(事実) ” は 目的に沿った “事実” で 証明される

         そういうこと を   『中論頌』 で 解き明かしている
       (いくら 解き明かそうと)  あなたは “聞く耳を持たず” 
       あなたが受け入れたい事実 は  あなたの欲望に沿って 
        確固たる エヴィデンス の   “装い” を 纏う
         あなたなり の     (美しい)格好 が そこに鎮座する

        「 実体 」 ・ 「 事実 」 などという “ 存在は”存在せず “
       ( すでに 「存在」 という語 は  実体がなくとも存在する )

        わたしたち は  存在しないものを “手” にとり 
            感覚という(エヴィデンス)実証例・証拠 を 確認する

          誰が何と言おうと  “ 存在する” “ モノ ” は
          “ある ” という    “実感が裏打ちする”
      ( 真理であろうと 実感が伴わなければ “装い”には 使われない )

         “ことば” とは  発する者の(発したものを受け入れる者の)
          実感 という  根拠  に 基づいている
       ( 語る者 とは 語る・発するときに その語 を 聞く者 である )

        “美味そうだ” という 感 は  存在を補強する 感  である

            存在 とは 科学的連続 に 過ぎない
        ( 非科学的 な 根拠という 裏打ち で 表生地 は 補強される )
          科学的連続 は 善悪・好嫌 という 好き嫌い を 必要とはしない

          そのこと は この言 を もってして  “ 事実 ” となる
               「 至道 無  難唯嫌揀択 」
        事実など 好みの前では 揀択(選び手に取る)識 しか 存在しない

         なぜ 「道・真理」 は  足下に存在しない のか
        ( ハキモノ という ハクベキモノ が 口中にある からである )
           口の中 には    言葉が充満している
       ( そのようなもの など  存在しない と 考える口がモノを言う )
                                ↓
       「どの口 で そういうことを言う」  と  吐き捨てる(掃き捨てる)

        いや それは 事実である と  事実を自らの検証 で 装飾する
                        ( 自らの言葉で事実を並べる )

         事実 という 根拠 は 根拠 で 装飾されているに過ぎない 
       ( このような事実 でさえ  言語上に 根拠を求められる )

       「坐」という「生」 は “坐することに拠って” のみ 表現される
         ( 「坐」 とは 「禅定」 に 立している・鼻直の下に起きる )

        「禅定」に  りっするとき
         そこに  上下は存在しない
         りっする 故に 「直」 が 起き 「横」 が 存在の根拠を持つ

        「直」 が “寝転んでも” 直 は 変わらない
       ( あなたの 「 識 」 が 寝ぼけ眼を薄く開けるのみ )
         横 とは いかなる直  で あるのか
       ( 「 識 」 を 展開して 事実としてみてはどうであろうか )
       
         「 禅定 」 とは  どこにでも 見出すことができる
       ( しかし 見出している   「見」 の 上には 存在できない )
        「険」を離れて「嫌」を知る (その「件」については 言及しない)
        「ケン」 とは 区別 であり  分け隔てる「 識 」を示す
       危うい・踏み外しやすい という  真中 ではなく 端・事の端 を示す

          「 中道 」 とは 端を根拠として 端から橋わたされる道 である

             うっかり 渡ると 端に至ってしまう

            ハショッテ しょった ニ ヲ オロス
         ( おろして 起きる・立つ  華 の 詮 のうえ )

           ナンニモセン  という  施すこと に 潜 じる
          ( 選 択 本願 念仏 ) 「 唯 険 揀 択 」

  5. Pocket より:

    田中美知太郎の皮肉はレトリックとしては痛快ですが、一点だけ決定的な違いがあります。

    ・自然現象(台風・地震): 人間の意思が介在しない物理法則。

    ・戦争: 人間の意思と政治的決断の結果。

    憲法が「意思」を縛るものである以上、物理現象と同列に語ることは、議論を極端に単純化しすぎているといえます。

    • mani(管理人) より:

      Pocketさま こんばんは。

      >憲法が「意思」を縛るものである以上、物理現象と同列に語ることは、議論を極端に単純化しすぎているといえます。

      「諸行無常」って言いますからねえ。。
      すべては「行」のしわざとみているなら、田中氏はブッダ目線なのかもね。

      憲法にあってもおかしくないかもしれないですが、 日本国民だけめっちゃ難しい道を歩んでると言えそうですね。

      • Pocket より:

        mani先生
        >日本国民だけめっちゃ難しい道を歩んでると言えそうですね。

        そうですか。こんなに楽な道はないと思います。

        935 attadaṇḍā bhayaṃ jātaṃ

        • mani より:

          Pocketさま 

          楽な道ねえ。。そうは思えないけど、Pocketさまがそう言うならそういうことにしておきます。

  6. tanza より:

    先の大戦で日独伊は敗戦となり、GHQの占領憲法が支配したが、既に独・伊はこれを破棄。日本だけが、これ(現行日本国憲法)を保持。

    現行日本国憲法は、「GHQ製の筏」のようなものだから、ブッダの教えを尊重し、直ちに破棄すべきである。破棄に国民投票は必要ない。